こみみかわら版バックナンバー

第212回 中島町奥吉田


在所名の由来

日用川下流域に位置しヨシ原を開拓したので吉田となって、後に鹿島半郡(かしまはんごうり)を治めた長氏の領内に田鶴浜の吉田があるのでこれと区別するために奥吉田になったと伝え聞いているよ。

昔の在所

開村したのは隣の笠師村の豪農四位兵衛(盛田家)の三男伊左衛門が分家したのが始まりと伝えられているよ。そこはうちの本家でね、本家の裏山には当時分家した時に持ってきた石の地蔵さんが笠師の盛田さんの方角を向いて安置されているんだ。本家の敏信さんは母親から受け継ぎ朝コップ一杯の水をお供えしてお参りを続けているんだよ。

お地蔵さんと言えばもう一つあって「どどんまい」と呼んでいる田んぼのえがわから刀の鍔と一緒に出てきたんだ。祠(ほこら)を作って安置してあるけど、上杉勢が熊木城を攻めてきた時の戦場跡だったかもしれんね。

子供の頃、中島駅へ行くには河崎へ出ていくルートと、日用川に架かる鉄橋を命懸けで渡るルートがあったよ(笑)。まだ国道が整備されていなかったからね。

戦後の農地解放の時、親作から小作に田んぼが渡されたけど親作が耕作している田んぼは渡さなくてよいというので、親作が急に田んぼに肥やしを入れ出したんだ。でも小作も負けじとその田んぼを耕すもんだから親作は根負けして結局は小作の田んぼになったんだね。ただ戦争での未亡人や年寄世帯が多くあって、それで十五歳からの若い衆がみんなで田んぼの手伝いをしたそうだよ。

現在の在所

奥吉田から笠師まで千二百メートルの山道が殿様道なんだ。嘉永六年に静岡県浦賀にペリーの黒船艦隊が現れて徳川幕府が海防状況を全国に命じたんだ。それで加賀藩も十二代藩主前田斎泰(やすなり)が能登半島を視察し帰り道にここを通っているんだ。殿様が通るという事で当時の人たちがこの山道に日用川から石を運んで石畳にしているんだよ。

そんな道もいつしか土に埋もれていたんだけど、平成五年から豊川地区の実年会が埋まっている石を掘り出して磨いてきたんだ。おかげで今では観光名所になってるし、地区の人たちも毎年公民館行事として歩いているんだ。

目の前に広がる豊川平野は百四十町歩とこの辺りで最大の田園地帯だけど海抜ゼロメートルの湿田なので加賀平野の倍の労力がかかるんだよ。このままだと誰がやるにしても農地として守れなくなるから、将来に備えて給排水を整備して乾田化させておきたいね。

あきこの一言

平野を流れる日用川、
山から見渡し、晴れ晴れ。