こみみかわら版バックナンバー

第214回 七尾市町屋


在所の由来

畠山の重臣、温井氏が高階を拠点にして隣の満仁町の舘山(たちやま)に館を構えたことで、ここにも武士の住む町屋造りの家が数軒あったからだという説と、もう一つは御用取次役人がいて人を待つ茶屋があったからだという説とあるようだよ。

昔の在所

昔は田鶴浜から鳥屋への幹線道路が在所の真ん中を通っていたんだ。
二ノ宮川流域の平坦地に農業中心に暮らしを立ててきた在所でね、「からむし」という上布の原料となる多年草を栽培して能登部に出荷していたらしいよ。

明治期には町屋小学校が開校され、役場や駐在所も置かれ高階村の中心地だったようだよ。

大正十年には高階の三百三十三軒の家に電灯がついたんだ。町屋の大地主の荒谷内宅に北陸電力の前身となる能登電気株式会社高階村代理店が置かれ電気工事技術者も集まって事業が行われたんだ。おかげで小学校に文化活動写真を見る会(映画)が行われると講堂一杯に村民が集まったらしいよ。

戦前戦後は町屋出身の実業家が東京から戻って養豚養鶏組合を作り農村の副業を創出しているんだ。

私が子どものころは雑貨屋、豆腐屋、呉服屋に建具屋など商店もあったし、川にはウナギ、スッポン、ナマズ、フナ、アユ、ウグイ、サケもいたんだ。家の縁の下から「やす」を持ち出しそれでサケを突き刺して捕ったけど、腹からイクラをポタポタ落としながら家へ持って帰ったこともあったなぁ。

現在の在所

明治より世帯が五軒増え人口は六十二人減っているんだ。在所の中で新宅していた時代は子供も沢山いたし、私も九人家族で同級生が七人もいたんだ。

少子化と高齢化がこの先どうなるかと思うけど、私の息子も金沢で家を建てたし、これが現実だよ。空家の利活用も行政を含めて考えていく時代に入ったね。

移住者が多い高階だけど町屋にも四人いるんだ。職人や芸術家など地域の人と交流してくれて良い感じだよ。

ここは過疎でも過密でもない、適疎(てきそ)だと思っているんだ。
ただコンビニがあればもっと良いんだけど誰か出してくれないかなぁ(笑)。

小さな在所だけど色々な行事はみんなの協力を頂き、仲良く続けて行きたいと思っているんだよ。

あきこの一言

故郷を愛し、もてなす心を育む、
川と平野の恵みある在所。