こみみかわら版バックナンバー

第220回 中島町代本


在所名の由来

解らないんだよ。誰に聞いても由来は聞いていないと言うからね。
ここは地勢的にも早くから発達した地域で文化的にも栄えた場所だったので中心地という意味で元となっていた所だと思われるんだ。
「世の元」といったら大げさかな(笑)。

在所の今昔

万葉集、大伴家持の能登国の歌三首に、「梯立の熊木酒屋にまぬらる奴わしさすひ立て率いて来なましをまぬらぬ奴わし」とあり、熊木の酒屋で怒鳴られているドジな奴、できることなら誘い出して連れて来てやればよかったと詠まれているから、奈良時代から酒屋が並んでいたんだね。

在所の殿山(とんやま)は城跡で鎌倉初期に長谷部信連が能登の地頭になった時に最初にここに住んでそれから穴水に移ったといわれているんだ。
南北朝時代に熊木左近将監(くまきさこんしょうげん)が城主となって熊木荘を支配していくんだ。この熊木左近将監が禅宗を好み京都の東福寺から月浦宗暹(げっぽそうせん)という僧侶を招き開基したのが在所の古刹、臨済宗定林寺なんだよ。定林寺には七尾市指定文化財の仏像や絵画があるよ。

江戸時代に大阪と北海道を結ぶ北前船が日本海を航行するようになると富来福浦港で揚げた荷物が運ばれ、熊木川から七尾西湾に出て各地を結ぶ水上交通の要衝となり、宿場としても発展していくんだ。

昭和五年の商店街の大火災は五月二十四日午後零時半頃出火して折からの強風にあおられ板葺き屋根に一気に火が広がったんだ。百二十五棟が焼けて代本も数軒を残しほぼ全焼しているんだ。商店街で道路幅が広くなっているところが大火の区域なんだよ。
この大火にも燃えなかった大きなタブの木にしめ縄をして保存しているけど不思議にこの木から桜の花が咲くんだ。
その横のお舘の水は生活用水でみんな汲みに来ていたけど、渡辺のジュースの素や春日井のシトロンソーダを溶かして飲んだもんだよ。

宿場の名残で石川亭、水月、藤吉、かんべ、そうすけ、てがら、ゆがみなどの料理屋、茶屋、置屋が並んでいたし、映画館や銭湯もあって水銀灯が並び七尾の大手町みたいに賑やかだったよ。
鉄道や車の時代になり中島駅も国道も近くに誘致したけど結局離れて出来てしまい商店街は衰退していったんだね。

激動する環境でこの先の事は分からないけど、今を生きている人が協力して、今に感謝して暮らしていかないとね。

まなかの一言

小さな在所に悠久の歴史、
これからも続く人の営み。