こみみかわら版バックナンバー

第221回 田鶴浜 馬場


在所名の由来

平成元年に新しくできた在所でね、田鶴浜下東町から分れたんだ。
その時に新町名を投票したら一位が馬場、二位が平成町、三位が馬場新町だったんだよ。

元々ここは通称馬場と呼ばれていた場所で昔は馬を調教していた場所だと聞いているけど、
田鶴浜に織田信長から鹿島半郡五十九ヶ村、三万一千石を与えられた長連龍が居たので馬も沢山いたんだと思うよ。

昔の在所

昭和三十年代は赤坂が二軒と馬場、濱崎、倉田の五軒しかなく、周りは全部田んぼで国道が丸見え状態。
田んぼの中の細い道は歩けないほど強い風が吹きつける場所だったんだ。

海には桟橋があって輪島の海女さんが荷物を揚げて、赤坂さんと倉田さんの蔵に預けてそこからかごを担いで行商に回っていたらしいよ。
海もきれいな砂浜でね、泳いだり、アサリや蛸を獲ったりしていたんだ。

井戸水は塩分を含んで飲めなかったので昭和三十年頃に水道が付いたんだけど、ちょろちょろとしか出て来なくて甕(かめ)にためて使っていたそうだよ。

バス停と駅に近いので円山さんが宅地造成したら申込多数だったので、そのあと田鶴浜町も第二期、第三期と造成して一気に世帯数が増えたんだね。
世帯数が四十軒を超えた頃に下東から分かれ「笑顔で伸びゆく馬場」というスローガンを作ってスタートしたんだ。

在所の三引川沿いに柴田真次翁記念碑が建っているけど、田鶴浜の宮大工の棟梁なんだ。
安政四年に生まれ十二歳で京都に弟子入りして修行中に、父親で棟梁の新平が田鶴浜住吉神社の建立途中で亡くなったので帰郷し、その後を引き継いで完成させているんだ。
それがなんと十六歳の時なんだよ。
総持寺の山門や東本願寺山門、能登各地の神社仏閣を手掛け、昭和十五年に八十四歳で亡くなった名工なんだよ。

現在の在所

以前はどこどこに子供が生まれたとか、猫の数までわかるくらいだったけど、最近は普段付き合いが薄くなっているように感じるんだ。
ただ小中高と子供たちが多い在所なので、コロナで中止していた馬場フェスティバルを再開し、バーベキューやカラオケ、くじ引きなどをやって交流を深めたいね。

湾岸道路が付いて野鳥公園が出来て色んな人が通るようになったけど住む人が馬場を故郷として誇りに思えるような町にしていきたいね。

まなかの一言

由緒ある田鶴浜に、
歴史を重ねる馬場。