こみみかわら版バックナンバー

第76回私の仕事は「映像クリエーター」です


不連続の連続を撮影


私の仕事は「映像クリエーター」です
粟津 賢栄(あわずさかえ)さん 40歳
仕事歴 14年


映像クリエーターの仕事とは


自然や風土、人の営みなど、その時代の証を、
映像として記録し、後世に伝え置く仕事です。


俺に出来るだろうか


先代の社長のアシスタントとして、和倉温泉の旅館で結婚式の撮影が始まる。

指示に従い三脚を立て、ケーブルを捌く。初めての撮影現場だ。
先代の後ろを追いかけるが、動きが読めない。走る、止まる、回る、あっという間に終わった。
  
「俺に出来るだろうか」未知の仕事であった。
 
翌日、事務所では先代がリニア編集のダイヤルを回す。映像をカットしたり、
繋いだりの作業だ。これはセンスがいる。
 
「俺に出来るだろうか」粟津賢栄、時に26歳。
右手でカメラを向けハンドルを握りながら、同時に小さなレバーでズームとアップを操作する。
 
左手でピントを合わせ、明るさを絞る。被写体の動きは一瞬、不連続の連続だ。
気が抜けない。神経を集中させる。今その技術と心構えを後進に伝えている。


運命の出会い


大学を卒業し東京の不動産会社で営業を始める。

人好きではあるが、朝から夜まで仕事に明け暮れる日々が3年間続き、
違う生き方をして見たいと田舎に返ることを決めた。
「あぁー、やっぱり故郷はいいなぁー!」しかし仕事のあてがない。

父の友人が田舎では珍しいビデオ撮影の仕事をしていた。後に義理の父となる粟津信一氏だ。
話を聞くと機場を廃業し新たにチャレンジした仕事だという。
「やってみたいなら一緒にどうだ」と言われ社長との二人三脚が始まる。
「俺に出来るのだろうか」との思いが、自分でカメラをさわり、編集を手がけるようになると、
どう見せるか、自分なりのこだわりが出てくるようになる。

「こんなことなんやぁ、おもしろいなぁー」と、のめり込んで行った。
そんな頃、時々事務所に出入りしては写真の編集をする一人の保育士が現れた。
先代の娘、現在の妻である。子どもが3人、
先代から会社を託され、故郷に帰り仕事と家庭を手に入れたのである。



能登で唯一


業25年が経ち、カメラも編集機器も進化した。
ドローンの操作も習得し空撮も行う。しかし現場での緊張感は変らない。
いや益々身が引締まる日々だ。今更ながらこの仕事の奥深さが身に沁みる。
 
対象が人であれ自然であれ、その一瞬は二度とない。
ビデオを見る人に、リアリティーとさらに感動を与えなければプロと言えないと自分を追い詰める。
 
普段は話好きで笑顔が耐えない賢栄だが、カメラを担ぐ眼差しは真剣だ。
テレビや映画も見ていてもストーリーよりも撮影テクニックやテロップの出し方を注視し、
飲食店に入ればメニューより先に店内の撮影アングルを考えてしまう。
 
走行中の道路でも、これを撮影するならアップから引きか、引きからアップかと自問する。
現場に到着するまでにストーリをイメージし撮影シナリオを完成させ臨む。
撮影、編集、原稿、ナレーション、ジャケットのデザイン、
全工程を通じお客様を最適化した映像を創り込む。結婚式、発表会、観光ビデオ、テレビCMの他、
最近は中能登町、志賀町、輪島市、宝達志水町のケーブルテレビの撮影で能登各地を飛び回り、
見える世界が実像なのか、映像なのか、時にこんがらがると笑う。
能登で唯一の映像クリエイターである。


田鶴浜町 ㈱エヌ・エー・ビデオプロダクション ☎68‐3195
2017年取材



空飛ぶカメラマン