こみみかわら版バックナンバー

第86回 私の仕事は「イタリアンシェフ」です。

小さな幸せを



私の仕事は「イタリアンシェフ」です。
畑田 寛(はただ ひろし)48歳
仕事歴 20年


イタリアンシェフの仕事とは


私の場合は、能登の食材にこだわったイタリア料理を、地元の皆様に気軽に美味しく召し上がって頂き、暮らしの中でのちょっとした彩となって、心を豊にする薬味の役割が果たせればと思っています。


愛のムチ


「こんなまずいもの食えない…」その一言でお皿ごとフォークも料理も生ゴミのバケツに捨てられました。修業時代、私の賄い料理を親方に出した時のことです。私はバケツからお皿を取り出しながら悔しくて、情けなくて、泣きました。七尾高校から愛知大を卒業して名古屋でコンピューターのセールスをしていました。長男で親の面倒も見なければと会社を辞め、漠然と飲食関係でもとの思いで金沢の魚屋と浅田屋のイタリアンで皿洗いや雑用を掛け持ち、朝から晩まで月に400時間休みなしで1年間働きました。その時の親方が中途半端なことをせずイタリアンをやれと勧めてくれこの世界へ入りました。28歳でしたが職場の同年代はポジションをもらい活躍しています。そんな私を徹底的に鍛えてくれたのです。覚えが悪いとよく殴られました。お陰で10年かかるところを5年で一通り出来るようになりました。今では親方と酒を酌み交わす仲ですが、私にとっては絶対的な存在です。


起死回生


平成19年の3月能登半島地震、6月に父が急死、弱り行く母、今こそ能登に戻って頑張らなければと開業を決意し10月にオープンしました。1年目はご祝儀で多くのご来店を頂き順調でした。格式高く音楽もカンツォーネのオーソレミオを流しフォークとナイフをテーブルに並べお客様をお迎えしました。ある時、お客様から箸を求められたのですが、ここは箸で食べる店ではないとお断りしたのです。お客様は怒ってフォークとナイフを箸のように持って食べ始めました。和風パスタもオードブルも断りました。そんな生意気な私の姿勢が受け入れられるはずもなく2年目、3年目と売上が落ち込み、初めて勘違いしていた事に気付きあわてました。その頃石川県産業創出機構から地元食材を使っているお店ということで取材を受け、その際に現状を相談したところ活性化ファンドを活用して商品開発を提案されました。常連さんがハタダのパスタソースを家でも食べたいと言うのでビン詰めしていたものを商品化することにしました。全て能登にこだわり、ラベルのデザインまで能登出身ということで田中聡美さんにお願いしました。後にひゃくまんさんをデザインした人です。世の中に山ほどあるトマトソース、正直売れるわけ無いと思っていました。それが売れ出したのです。保存料が入っていないトマトソースがあると口コミで三越、高島屋はじめ全国に広がり月間千本ペースで、累計で2万本は売れました。



ハタダオリジナル パスタセット


能登のイタリア食堂


ソースの仕込みで忙しくなり、そのストレスでお酒の量が増え体調を崩します。売上が上がっても体を壊してはと、ソースを作っていた時間をダイエットに充て1年間で10キロ痩せました。ソースは県外への出荷は控え、なるべくお店に買いに来て頂ける分だけを作るようにしています。10年前、ふるさと能登のためにという志が、プライドと目先の利益のためいつしか曇ったように思います。もう一度初心に帰り、愛する能登で、能登の食材で、能登で暮らす人たちに、気取らないカジュアルなイタリア料理に親しんで頂くことが私の役目だと思います。七尾の小さなイタリア食堂で、小さな幸せを共有できればいいなぁと思います。



妻の支えに、感謝です♡

小島町 イル・ピアット・ハタダ
☎58-3636
2017年取材