こみみかわら版バックナンバー

第89回 私の仕事は「料理長」です。


能登を世界一の美食の街に

わたしの仕事は「料理長」です。
川嶋 亨(かわしま とおる)
仕事歴 14年


料理長の仕事とは


私の場合は、地産地消にこだわり旬の幸を使い、また地元生産者の声を聞かせて頂き、その方々の思いも込めた懐石料理を作ります。トップクラスの食の資源を活かして能登を発信する事で、将来は世界中から食通の方や料理人が集まるような街になるよう、微力ながら係わっていけたらと思っています。


妻の後押し


「悩んでいるなら自分の思うようにしてみたら」思いがけない言葉で背中を押してもらいました。このまま大阪人になるのか?本当に自分はそれでいいのか?悩んで妻に相談したのです。Uターンして2年経ちましたが自然、歴史、文化、食材の豊さ、全てが宝の山です。帰ってきて本当に良かったと思っています。それまで大阪と京都の二ツ星の割烹で働いていました。このクラスのお店は全国から美味しい食材が集められます。しかし能登の食材も負けていないのに集められないのです。2011年、能登の里山里海が世界農業遺産に認定された時、能登の食材がどう発信されるのか気になっていましたが何も伝わってきませんでした。それで故郷のために自分に何が出来るのかと考えるようになり、愛郷の思いが募っていったのです


修業時代


羽咋工業高校を卒業するとき美容師か調理師か迷い進路が決めきれず金城短大に進みます。短大卒業時に調理師の道へ進むことを決め、辻調理師専門学校のエコール辻大阪で日本料理を学びました。2年間のブランクを取り戻そうと努力した結果首席で卒業できました。一流割烹といえどもそこは板場の世界です。理不尽な事も多くそれは厳しいものでした。日本一の出汁といわれる有名店で煮方のポジションをもらった時は、朝6時から夜1時2時までぶっ通しで働きました。寝れない、休憩はない、しばかれる。辛かったですが、素直、謙虚、感謝の心を教える親方の愛情だったのです。父が加賀屋の料理長をしていたので就職するとどのお店でも必ず父の名が出ます。親の顔に泥を塗りたくないと思って頑張っていたのも事実です(笑)。転機が訪れたのは食の都・大阪グランプリへの出場です。この大会は概ね40代から70代のプロの料理人300人ほどが腕を競います。私は専門学校の先生の薦めで20代で出場したのですが3回目の出場で総合グランプリに選ばれました。お陰で大阪の重鎮の集まりに呼ばれて勉強させてもらえるようになり、またマスコミの取材で名前が知れお店でも私のお客が付くようになりました。妻が大阪出身でもありこのまま大阪でお店を構えようと思ったのですが、やはり大好きな故郷が忘れられなかったのです。



美味しそう~!


食を通じて


料理長となった今、天皇陛下へ献上した父の献立を見ると当時これだけの事をやっていたのかと感慨深いです。私も料理を通して多くの人が幸せになれるよう修行を怠らず技と心を磨き続けなければと思います。帰って来て強く感じるのですが本当に能登は食の宝庫です。しかし問題も沢山あり、解決するためにやるべきことも山積みです。高齢化で田畑が荒れ、害獣が出没し、景観が荒れ、果たして世界農業遺産を守れるのでしょうか。都会では実力主義で一人でも頑張れますが、能登はみんなで力を合わせて頑張る事が大切だと思います。生産者の方々と力を合わせ食文化を発信して、能登の魅力を高めていきたいと思います。



お待ちしております。