こみみかわら版バックナンバー

第94回 私の仕事は「演歌歌手」です。


歌うたいなんて不良のするもんや!

私はキングレコードに所属し14曲レコーディングしている演歌歌手です。イベント会場のステージで歌ったり、ラジオ出演やカラオケ教室を主宰しています。有名歌手の前座も400回を超えます。

真面目に勤めておれ!

「三橋さんが歌っとる、静かにして!」ラジオから三橋美智也の歌が流れると針仕事の手を止めて私たち兄弟姉妹に声をかける母。そんな環境で育った私は三橋美智也さんの歌が得意なレパートリーの一つです。

そんな母から「歌うたいなんて不良のするもんや、真面目に勤めておれ」と諭されました。私がバンドを組んで歌っているという噂を耳にしたのです。私が小5の時に父が亡くなり、女手一つで5人の子どもを育てた母は私の生活基盤を心配したのです。

歌手になる夢

中学を卒業して滋賀県の近江鉄道に就職しバスの車掌になりました。小さい頃から歌手になることが夢だった私は、早速同僚6人でザ・ブルージョーカーズというバンドを結成しドラムを叩きます。社内でも評判になり後に衆議院議長を務めた堤康次郎オーナーが東京からわざわざ観に来てくれ会社の研修所で20分間演奏をしました。演奏を終えると堤オーナーは私を呼んで横に座らせ、君は両手両足を動かしていてどうして歌まで歌えるのだ!と驚いていました。私は一生懸命練習しましたと答えました(笑)

しばらくして日本中にグループサウンズの大ブームが湧き起こります。ワイルドワンズのコンサートが彦根市民会館で開催された時、運よくその前座に出ることが出来ました。お陰で私たちのバンドは地域で爆発的人気となり連日ゴーゴー喫茶に出演するようになりました。会社から仕事とバンドとどっちが大事だと注意されますが、どこ吹く風で有頂天になっていた時代がしばらく続きました。そんな姿が風の便りとなって母に届いたのです。



細やかに指導

息子の一言

28歳の時に七尾へ戻りました。結婚して子供が1歳の時です。能登信用金庫理事長の運転手として採用して頂き真面目に勤めていました。

45歳の時に転機が訪れます。カラオケスナック「サラリーマン」の川端恵子さんとの出会いがあり、それがキッカケで能登歌幸会に入会しました。会長から「岬ゆたか」という名をつけてもらい、川端恵子さん作詞作曲の「恋の涌く浦」を頂き、トントン拍子にキングレコードからデビューすることになったのです。信金では副業が出来ないという規則がありましたが土日祭日に限りという事で歌手を続けることが許されました。3年間やりましたが平日はダメな岬ゆたかとレッテルが貼られ中途半端な活動になっていきます。

私は職場を辞め歌手として進んでもよいか家族会議を開きました。家内は「好きな事ならやったら」と前向きです。高1の娘は「そんなかっこ悪いこと恥ずかしいので止めて」と言います。中1の息子が「応援してくれる人おるんか?一人でもおるんやったらやれば。僕も応援するよ」と言ってくれ、その一言で心が決まりました。

あれから26年、何かあれば必ず応援してくれる人が現れ、助けて頂いて来ました。自分でも不思議でしょうがないのですが本当に恵まれていると感謝しています。後何年歌うことが出来るかわかりませんがステージでは必ず母の話しをします。歌好きだった母の思い出で涙する私ですが、そうやって歌うことが私に出来る母への一番の供養だと思っているのです。



カラオケ教室の皆さん