こみみかわら版バックナンバー

第106回 私の仕事は『漁師』です。


賭場と化す漁場に挑む

仕事歴56年 岩政 武光さん 75歳

海との出会い

「この自然を大事に漁を続けて下さい」とスウェーデンのグスタム国王から言葉をかけて頂きました。
平成九年に国王夫妻が能登島を訪れたとき、シルビア王妃が釣りを楽しみたいということで
水先案内をした時のことです。水族館沖で夜中に仕掛けたはえ縄を上げてもらいました。
大きなコチがかかっていたのでホッとしました。

私は大阪に生まれました。
父が戦地に出兵中、母が私を抱いて空襲の合間をぬって命からがら能登島通の実家に戻りました。
戦争が終わり父も帰還、家族は能登島で暮らすことになりました。
そんな時、通の在所に一隻の川舟が流れ着き在所で話し合った結果、失業中の父に
漁師でもやって見ればと船がもたらされました。その船で父が櫓を私が櫂を漕ぎ
ハチメやキスを釣って作事町の魚問屋へ出して暮らしを立てました。私が五才の時です。

パン職人を目指すも

漁の手伝いをしながら西島中学校に二年間通いましたが、将来の事を考えて
中島のパン屋さんへ丁稚に入り中島中学校へ転校しました。
パンの箱を十二段積んだ自転車で砂利道を走り配達を終えてから登校しました。
四年間お世話になりましたが本当にパン屋としてやれるだろうかと疑問になり
能登島へ戻り櫓舟を買いました。十九歳の時です。

その時父が瀬嵐の沢田造船でヤンマーのエンジンを積んだ新造船を作り光進丸と名付けました。
父と漁をしながらこの時私はエンジンをバラし、掃除して、組み立ててと、
エンジンの構造を覚えました。そして二十三歳の時に、妻ふみ子と結婚します。

海を覚える

妻と二人三脚の漁が始まります。在所では同年代二十軒の内十五軒が漁師でした。
私は張り切って七尾湾はもとより富山から小木の端まで漁をしました。
空模様を見て他の人が出漁しない時でも、このくらいなら大丈夫だと海に出るのですが、
嵐になりエンジンの中に水が入り突風の中エンジンをバラして修理して命からがら
帰って来たことが何度もありました。
あの頃は無鉄砲で台風も恐ろしいとは思わなかったです(笑)。

広い海域で漁を追い、岩場で舵や船底を傷めながら海を覚えて行きました。
お陰でなまこ漁では人の倍以上の水揚げが出来るようになり、
みんなにどこかで養殖をしているのかと言われました(笑)。



第七光進丸

日本初

トラフグ漁は当時半日で何十万円の水揚げが出来たので海には百隻以上のはえ縄船が並びました。
混乱を避けるためスタートの位置と時刻を決め無線で「全船スタート!」と号令をかけますが
その役を担いました。はえ縄は五百mの幹縄に五十本から六十本の枝縄に針をつけ一皿となります。
餌をつけながら海にはいていくのですが、十皿なら五㎞、二十皿なら十㎞となります。
同じ道具で同じ餌でも何十匹も釣る船もあれば一匹も釣れない船もあります。
一匹が五万円、六万円になりますから、みんな形相を変えて漁をしていました。

ある時、オスばかり釣れたのでひょっとしてこの辺りに産卵場所があるのではと漁師の勘が働き、
水産試験場に応援してもらい考案した網で春先に週三回ほど砂をすくっては卵を探しました。
三年目に卵が見つかり日本で初めてトラフグの産卵場所発見となりました。
今、七尾湾の魚貝は減少しています。
放流や養殖などを通じて天然物も育て海への恩返しをしたいと思っています。



2人3脚、おかげさま♥

能登島通町 岩政
☎0767-85-2051