こみみかわら版バックナンバー
私の仕事は“漁師”です。
漁師の仕事とは
私の場合、大型定置網を使って漁をし、安心安全な魚を皆様に提供しています。
きっかけ
小中高大学と、野球三昧でした。 そのまま漠然と社会人野球へと思っていたところに肩を壊し、治療の日々。 もう治らないと言われて将来を見つめ直したところ、実家が漁業を営んでおり『やってみよう』と思いました。
道のり
両親には安易だと反対されました。幾度と話し合いをし、すぐに実家でやるのではなく、外へ修業に行くことになりました。 門前に漁業支援の実習漁場があり、そちらで寮に入り、2年間修業させていただきました。 能登島や七尾の内浦と違い、外浦は波がものすごく、船酔いや早起きなど慣れないことがあり、すごくきつかったです。 奥能登の漁師の厳しさも半端でなく、毎日帰りたいと思いましたが、両親に根性を見せるため踏んばりました。
仕事の喜び
なんといっても、魚が獲れる喜びがあります。 毎日、今日は何が獲れるか? ワクワクします。 また天候や時間など見極めが大切です。 鰀目は産卵の場所に適していて、4・5・6月が漁の最盛期です。今は鯛やサバが産卵で来ていて、鯛は県内一の漁獲高と言ってもいいほど獲れています。
取組み
「道の駅のとじま」に、朝獲った魚を船から直送して、さばいた海鮮丼を食べていただくお店を出しました。
元々は魚を獲って出荷するだけだったのですが、年々魚は少なくなり、漁業の規制や魚価の低下などもあって、流通の改善をしたいと思っていた時、この出店話をいただきました。
気づき
お店が全国放送のテレビで紹介された時は、その日に用意した食材がお昼前に品切れとなり、遠方から来られたお客様から「特別なことがないと、こんなところに来ないんですよ」と言われました。
ショックな言葉ではありましたが、逆に「特別なことがあると、能登島にも人は来るんだ!」と気を引き締め、マイナスをプラスに変える努力をしています。
現在
地元で10年。 会社は若い人が増え、今ではほぼ20代、30代で構成されています。 地元に活気が出て、漁業青年部も復活しました。 稚魚の放流や、他県からの修学旅行生の誘致など、観光にも力をいれています。 地元の保育園に移動水族館として魚を大きな生簀で持っていき、楽しんだ後にさばいて食べさせるという食育にも取り組んでいます。
この道に入り何度も両親と衝突しましたが、妻の理解や説得もあり、今では自分のする事を理解してくれています。
未来へ
「全ての人に美味しい魚を食べてもらいたい」という信念で、たくさんの仲間と様々な取組みや、いろいろな楽しい活動をしていきたいと思っています。
住所:七尾市 能登島えの目町五五部
電話:0767-84-1305
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はい 社長です★-株式会社 野見塗装工芸-
第45回 七尾市大和町
町名の由来
実は大和町は新しい町会なんやよ。元々矢田郷村の『矢田大橋』と呼ばれていた在所でね。昭和14年に旧七尾市が合併したときに、新町設立活動を行い、この地域を通称で大和町としたらしいよ。通称は行政上の町名ではないため、いろいろ不便が生じるんで、正式な町会となるよう陳情し、昭和41年に現在の大和町が誕生したんよ。
昔と今
町内には百海七尾線という狭い県道が通っとるんやけど、昔は灘地区から七尾へ入ってくる唯一の道路でね。昭和25年には国道に一時は昇格して、当時はこの狭い道をボンネットバスも走っとったよ。 町内には大谷川と杵田川が流れていて ね。この2本の川は昔からよく氾濫を繰り返すもんだから、みんな防災意識は高いよ。 最近は自主防災組織を立上げていてね、助け合うことも大事だが、最後は自分の力で逃げる事が一番大事だとみんなで話し合いをしとるよ。 町会行事があるごとに、公民館で地図を広げ、具体的な避難経路の確認や、持ち出すものの確認など、一人ひとりの避難行動の意識付けを徹底して繰り返しとるよ。
町の自慢
そりゃー何と言っても、やまと保育園やね。町会の名前がついた保育園はここしかないんだよ。 前身のやまと保育所は昭和25年から49年まで、在所で設立運営していてね、人口増加に伴い住民からの要望で出来たんやけど、そのころから町会と保育園は、深く結びついとるよ。現在も災害協定を結んで共同で避難訓練を行っとるよ。人気のある保育園で園児数が増えていくので、もう4回も増改築を行っとるよ。
- Tags:
- 七尾市大和町
第28回わんぱく相撲七尾大会入賞のみなさん
フィットネスガレージななお 卓球部
府中町でか山レディース 五月会
私の仕事は“客室係”です
客室係の仕事とは
私の場合、お客様のお迎えからお見送りまでの接客です。お客様の財産である時間と空間をお預かりし、快適にお過ごしいただけるよう、気働きで精一杯のおもてなしをすることです。
きっかけ
高校三年の時に『将来何がしたいか』を真剣に考えました。『何か人のためになることがしたい』という思いが湧いてきました。しかし具体的にコレというものが定まらずに悩んでいた時、テレビで男性客室係がクローズアップされていたのを見て『自分もやってみたい』と背中を押されました。
道のり
高校は工業系でした。 同級生のみんなが工業系の専門学校や就職を目指す中で、 私は最終的に客室係になることを決断しました。 勉強するなら日本一の加賀屋で! と目的を大きく持ちました。
学校の先生には親身になっていただき、 二代目の男性客室係になることができました。
大変だったこと
礼儀・作法など、 女性なら意識することが、 高校を卒業したばかりの男性が一朝一夕で身につくことではありません。 一つ一つの作法をイチから叩き込まれました。
旅館日本一のプレッシャーが常にあります。
お客様から見れば、新人もベテランもすべて加賀屋の顔です。 玄関に入られたところからおもてなしが始まります。
仕事の喜び
この仕事に就いて一年目に、初めての担当で家族連れをおもてなしさせていただいた時のことです。お子様が「お兄ちゃん!」ととても懐いてくれて、帰り際にお手紙を頂戴しました。行き届かないところばかりであったとは思いますが、一所懸命なおもてなしがお客様の心に届いたことを感じ、この時の感動がずっと心の支えとなっています。「初心忘るべからず」を常に心に止め、笑顔での接客を心掛けています。
休日の過ごし方
愛車でドライブしています。時々お菓子作りもします。シンプルな材料の組み合わせで様々なお菓子ができる不思議に惹かれました。仲間に味見してもらうこともあります。
あとは高校時代に吹奏楽をやっていたので、チューバやトランペットなどを吹いたりしています。
以前寮の屋上でトランペットを吹いて、休んでいた同僚に「うるさい!」と怒られたりもしました。(笑)
休日は思い切りリフレッシュして過ごします。
人生の喜び
お客様の人生において、思い出の一部になれることです。 非日常的な旅館でのひとときをいかに快適に過ごしていただけるか。 それを考えることがとても楽しいです。
加賀屋では『わかりません』 『ありません』 『できません』を安易に使わず、 できる限りご要望にお応えする姿勢を大切にしています。たとえ、ご要望に100%のお応えができない場合でも、よりベターな解決策を探し出し、お客様にご満足いただけるよう日々精進しています。
私を育ててくださっているお客様や先輩・同僚に感謝し、日本の良き『おもてなし』をこれからも大切に守っていきたいと思っています。
住所:七尾市和倉町ヨ部80番地
電話:0767-62-4111
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はい社長です♪-シティハウス産業 株式会社-
奥原防潮水門
第44回 中島町山戸田
町の由来
地元では「やまった」とも言っとるよ。地名辞典によると、山津田、山濃田、山田とも書くらしいよ。津は岬を意味するんで、在所の前に広がる田んぼに、稲穂が実り、風で波打つ光景はまさに海を連想するから、その裾野の山々はまさに岬であり、山津田もうなずけるなぁ。まぁ、「山」と「田」に囲まれた在所なので、山戸田になったというのが、本当のところではないがかいね。(笑)
昔と今
なぜか、昔から職人の多い在所やね。 在所世帯の半分以上が大工、戸大工、左官などの職人の家やったよ。 私も大工で年季明けしたころは、仲間と一緒に七尾方面に汽車に乗って仕事に通ったね。現在は高齢者が多い在所になっとるよ。それで、地域防災に取組んでいてね、「ひまわり会」という会を作って、いろんな行事を行っとるよ。 お年寄りが楽しめるような、レクリエーションや食事会などの他、振込め詐欺や、熱中症に注意する話など、外部の人に来てもらっているよ。また、非常食が、どこに売っているのかや、試食もしたりして、防災意識を高めているんやわ。 万が一に、志賀原発に事故がおきた時、中島町の避難先が能登町宇出津になっとるんで、その避難場所の宇出津の体育館までバスで行ってきたよ。 高齢者全員が参加したよ! 普段から声を掛け合って、元気にいるかお互いに気に留めていこうということやね。
在所の自慢
9月20日のお熊甲祭りに出す山戸田の枠旗は非常に由緒があって、七尾市指定民俗文化財に指定されているよ。 真紅の旗の色は猿の血で染めたとも言われていてね、「天開萬國歡」と書かれているよ。
- Tags:
- 中島町山戸田
俊友会合唱団のみなさん
能登島 東隧道(トンネル)
シルバー人材センター カラオケ愛好会
私の仕事は“小学校の校長”です
小学校の校長の仕事とは
学校で行われるすべてのことの決定や児童・教職員の管理・指導です。
安心・安全な学校づくりや児童の健全な育成のため、的確な判断や迅速な決断を行う責任の重さを感じています。
きっかけ
小学校の時の恩師に影響を受けました。児童を励ましながら、頑張りを認め、成長させていく恩師の姿に、子ども心に尊敬と憧れを感じ「先生」という職業に就きたいという思いを持ち始めました。
道のり
大学では好きな歴史を勉強し「中学校教員(社会)」で教員採用試験を受けました。しかし、狭き門で採用には至らず、小学校の教員を目指すことにしました。
大学を卒業後、通信教育で小学校教諭の免許を取得し、教育実習で実際の現場を体験。その時「ここが私の生きる道!」と思いを強くし、採用試験を受けました。初任は、加賀市の湖北小学校でした。
大変だったこと
0代、30代、40代と年齢と経験に応じて求められる役割が変化していきました。
責任ある仕事を任された時は、気が重くなることもありましたが、先輩や同僚の先生方に励まされたり、助けられたりしていく中で、子ども達と同じように、自分も成長していけたように思います。
仕事の喜び
一番の喜びは、子ども達の成長です。
今は校長となり、直接子ども達を指導することは減りましたが、子ども達がいろいろな学習や活動を行って行く中で、少しずつ心身ともにたくましく成長していく姿に教師としてのやり甲斐を感じます。
意外な世界
よく、「先生は夏休みがあっていいなぁ」と言われますが、実際は普通に毎日、仕事をしています。
補充学習や宿泊体験活動などの他、2学期に備えて研修会をたくさん行い、教師としては欠かせない授業力をアップさせています。
心がけ
「チャレンジ」と「全力」です。
「今の自分の力では、こんなことは出来ない」と思うのではなく、新しい事や少し難しいことに、前向きに取り組んでいくようにしています。自分が出来ることだけやっていても力はつかない、伸びていけないと思っています。もし失敗しても「その分だけ成長していける」と前向きに捉えています。
人生の喜び
小学生だった子ども達が大人になり、とても凛々しく立派に成長した姿を見ると、我が子のように感じて、ぐっと胸にきます。
未来
私は生まれ育った石川県が大好きです。子ども達に、ふるさとに誇りと愛着を持ち、このふるさと七尾でたくましく頑張ってくれる、そんな人間になれるように育てていきたいと思います。
住所:石川県七尾市鵜浦町下部20番地
電話:0767-58-1301
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はい!社長です-株式会社 丸一観光-
第43回 七尾市山崎町
町名の由来
万葉集にこのあたりを、山東(ヤマトノサキ)というくだりがあって、東(サキ)が崎に変化したんじゃないかという説があるね。
町の歴史
産業は農業が中心なんやけど、昔から大工・壁・木挽きの職人が多い在所なんよ。これは在所を流れる熊淵川が昔からよく氾濫してね、農業だけでは生活が不安定だったので、手に職を持ったんやね。 それと、明治から大正にかけて、石動山から石灰岩をトロッコで運んできて、東浜で石灰にして、海路で中島町笠師方面に運んで売っていたらしいよ。今でもトロッコの通った跡地が川沿いに残っとるよ。
町の現在
能越道が開通して、七尾市街地まで一直線で行けて便利になったよ。 過疎化で小学生がいないんだけど、これでまた増えてくれればね。(笑) 活性化のために60歳以上で百膳菜というグループを作って、有機野菜の生姜を栽培して金沢やJAなどに販売しとるよ。
町の自慢は「ぼんぼらがい」
これはお釈迦様の弟子の目連尊者の地獄巡りの話の事なんよ。佛教の伝来とともに伝わってきたこの話を日本各地で盆踊りにしたんだね。今では、殆ど伝承されていなくてね、県内でも白峰と金沢の湯涌と八田、そしてここ山崎にしか残っとらん珍しい盆踊りなんよ。在所でも一度途切れたんだけど、昭和60年に復活させて、今は保存会も出来て、子供たちにも伝承させとるよ。珍しいんで、最近は他からイベントなどで呼ばれるようになっているよ。
- Tags:
- 七尾市山崎町