こみみかわら版バックナンバー

第181回 能登島佐波


町名の由来

ハッキリした由来は伝わっていないんだ。
ここは山が海岸まで迫って集落が海岸沿いにある在所だけど、
その裏山に笹がいっぱい生えていたことから沖を通る舟や漁師がそれを
目当てにして岸に舟を寄せていたので、笹山に寄せる波がいつしか笹波となり
佐波と呼ばれていったのではないかという年寄もいたけどね。
実際、佐波神社の裏山には笹がいっぱい生えていたよ。

昔の在所

佐波遺跡があるけど、これは六千年も前の遺跡で七尾市内では
最も古い縄文時代早期の集落跡なんだ。
そんな貴重なものとは知らず子供の頃は土器など掘り出しては遊んでいたよ。
明治三十一年から裏山で乾電池を作るマンガンが採掘されていたんだ。
在所の人たちも従事してたけど、ばあちゃんが草鞋(わらじ)の時代に
地下足袋(じかたび)が支給されてとても嬉しかったと話していたよ。
今でも山はマンガンを掘った穴だらけなんだ。

昭和四十一年に七尾の波止場からフェリーが一日五往復就航して
佐波が能登島の玄関口になったんだ。
忘れてならないのが昭和二十年八月二十八日。
勤労動員の能登島や鵜浦の人たちが家へ帰るのに乗った第二能登丸が矢田新埠頭から
佐波の久美に寄って次に向う途中の寺島付近で機雷に触れて爆破したんだ。
米軍が終戦の年に七尾湾に四百個以上の機雷を投下していたんだ。
ドドーンと大きな水柱が上がったと言うよ。佐波の人が舟を出し救助し、
おかゆを炊き出し救援したけど二十八名が犠牲になって浄覚寺前の浜に莚(むしろ)を
敷いて並べられたという悲しい出来事があったんだよ。

現在の在所

寺島、カラス島、嫁島、コシキ島が海に浮かび、「ひょっこり温泉」や
「マリンパーク海族公園」もあり、民宿も三軒あって訪れる人も多いよ。
山を開墾した「のとじまファーム」ではブルーベーリーや野菜を栽培し、佐波漁港から
数人だけど船を出して漁をしているし、近年は数人の移住者が暮らし始めているし、
昔ながらの半農半漁の暮らしが出来る良い所だと思っているんだ。

高齢化が進み現状を守っていくしかないので、神仏に手を合わせ
みんな仲良く暮して行きたいと思っているんだよ。

まみの一言

数々の歴史に人の営みを感じる、
風光明媚な佐波の在所。


袖ヶ江みなとこども園


袖ヶ江みなとこども園 河上 恵理奈(かわかみ えりな)さん 28才

子どもが大好きで、子どもと関わり、笑顔があふれる中で仕事をしたいと思い、
保育の仕事を選びました。

自分の関わりによって、子ども達が喜んだり、
「楽しい!」と笑顔になったり、「大好き!」と言ってくれる事がとても嬉しく、
子ども達が笑顔で過ごせるようにと、毎日関わっています。

ピアノが苦手なので、弾けるように頑張っています。 将来の夢はみんなに信頼される保育教諭です。

住 所:七尾市郡町弐部113-1
お電話:0767-52-1420


釣り広場


大田火力発電所の温排水口の周りが釣り広場として開放されています。
排水口からの流れが強く渦を巻いています。
クロダイやメジナが良く釣れ、太公望が集るスポットで常連も多いです。

今年は発電所業務の為、7月31日まで臨時閉鎖となります。


中島中学校 バドミントン部


部員11名で楽しく活動しています。バドミントン部は練習がハードなときには、
部員全員がお互い声をかけ合って日々団結力を高めています。

また、時間を有効に使って部分練習をするなど、全員が一生懸命頑張っています。
一人一人がその努力の成果を試合で出せるように、仲間と協力して頑張ります。
(部長 菅田 妃菜)


はい!社長です-RTHA るた(美容室)


RTHA るた(美容室) 大森 千裕(おおもり ちひろ)さん 46才

京都で生まれ育ち、好きな髪色にしたいと邪な考えから美容師になり、
人見知りの自分でも技術を通して人とのコミニュケーションを取る事が出来る様になりました。

七尾出身の主人と出会い、嫁いで10年目、主人や多くの方々のお力添えで、
府中町でRTHAを開業。

お客様との出会いもお互いに必然であると思いながら、出会いを楽しみ、感謝する毎日です!

住 所:七尾市府中町254番地
お電話:050-3700-1203


第180回 中島町浜田


町名の由来

熊木川河口付近に広がる浜辺を開拓して田んぼにしたことから浜田と
呼ぶようになったと言われているんだ。
鎌倉時代親鸞さんが教行信証をしたためた頃と同時期の古文書に熊木荘の浜田里という
地名が出てくるので、この辺りのことではないかと推定されているんだよ。 

昔の在所

江戸時代後半には稼ぎとして縄やわらじなどが記録されているけど、
わら草履(ぞうり)の産地として古くから「浜田草履」として名を残していたそうだよ。
昭和の初めまでは鉄道が無く、浜田の天神橋下から定期船が出て七尾と結んでいたんだ。
昭和三年に能登中島駅が開設し国道二四九号線も通ったら戦後どんどん人が集まって、
中島町の四十五町会の中で一番大きな在所になっているんだよ。

つの時代かわからんけど二月二十日に浜田に大火があったらしくて、
二度と火を出さないようにと毎年その日には火祭りをやっているんだ。
七月の納涼祭も、かつては熊木川に灯籠を流し、舟を出して奉燈や鉦太鼓を乗せて
川下りをして盛大だったけど、今は残念ながら行われていないんだよ。

現在の在所

ここは牡蠣の養殖業者も多くシーズン中は町内外からカキ貝を食べに
数千人が訪れて賑わっているんだよ。
大雨になると熊木川がよく氾濫するので拡幅工事が行なわれるんだけど、
天神地区の登録有形文化財の室木邸をはじめ十戸ほどが移転しなければならないんだ。
転出を予定する家もあり人口減も心配だけど、一方で十五年前に出来た新興団地の
「向陽タウンはまだ」には在所外から移り住む若い人らも多く、今では壮年団の
主流メンバーとなって祭りや社会体育大会などの行事に頑張ってもらっているんだよ。

熊甲祭りの大旗は町で一番大きく、祭りをしっかりやらなければという自負があるけど、
在所の半分が六十五歳以上と高齢化が進んで運行が難しくなってね。
ひょっとしたら今年の祭りであの大旗が見納めになるかもしれないから
九月二十日にはぜひ見に来て下さいね。
在所が広いので新旧住民の付き合いが疎かにならない為にも祭りは大事な交流の場なんだよ。

まみの一言

見栄も張らず、媚びもせず、
大きな大旗、大らかな在所。


第53回 「輝け!郷土の星」相撲の 久木 愛心さん (中島小6年)


第22回全日本小学生女子相撲大会準優勝

女も相撲取れらんけ? 相撲大会で女の子が相撲を取っているのを見た愛心さん、女子選手が優勝トロフィーを手にするのを見て私もあんなトロフィーが欲しいとお母さんに告げました。

愛心さんは男二人、女二人の四人兄弟の末っ子です。お父さんの義雄さんはかつて石川県代表の国体選手で旧中島相撲教室の監督をし、現在も能登島相撲教室でコーチをしています。すぐ上の兄も相撲をしていたので小学校2年生から相撲を始めた愛心さん。

昨年の第41回石川県少年相撲選手権大会女子5・6年の部で優勝し、全国大会で準優勝を果たしました。

七尾能登島相撲クラブ

月水金と能登香島中学の相撲場で行う稽古は男女混合で同じ内容です。四股を踏み、すり足を行い、ぶつかり稽古では男子にぶつかっていきます。

辛いと思ったことなかった?と質問すると、愛心さんは、「めっちゃ、あった!」と大きな声で答えてくれました。低学年の時は、指導されると怒られたと思いよく泣いたそうです。お父さんにやめたいと言うと、やめたければやめればと言われましたが、他の女の子が頑張っているので自分だけやめることはできないと続けてきました。

一生懸命に稽古に励んできた愛心さん、今では154センチ、57キロと体も大きくなり実力もついてきました。大きな大会で男の子に勝った時は会場の歓声も凄くとても嬉しい気持ちになりました。

七尾能登島相撲クラブは現在小中学生16名が稽古に励んでいます。その内4名が女の子です。新崎総監督は相撲を通じて強い体を作り、社会に出て通じる礼儀礼節を覚え、学校でもハキハキ大きな声で返事が出来ることを念頭に指導を行っています。



貫禄が出てきました

相撲を取る娘

今春から中学生になる愛心さんですが、女の子の相撲は稽古が辛いだけではありません。高学年になり心身ともに成長しくると、男女混合の相撲はお父さんに言えない悩みも出て来ます。そんな時はお母さんが相談に乗ってくれます。また中学校で相撲を続けられるか悩みました。部活動のスポーツと二股かけて耐えられるのか。どちらも中途半端になって悲しい思いをするのではないか。今、愛心さんは自分の心に正直に進もうとスポーツは相撲一本に決め、中学では文芸部に入る予定です。

相撲の稽古で体力が付き走るのも速くなった愛心さんは七尾市の水泳や陸上の大会にも学校代表として出場します。お母さんは擦り傷は当り前の稽古から帰ってくる愛心さんに、お風呂を沸かし食欲がない時はあっさりメニューで、寒い時は温かい食事を準備します。
お父さんからもっとアドバイスをもらいたいと思う愛心さんですが、お父さんは勝負にこだわった物言いではなく、楽しんでやってくれた方が良いと期待をしながらも温かく見守ります。

最後に愛心さんが、「支えてくれてありがとう!」と言いました。思わぬ言葉に押し出されたお父さんとお母さんは、とても嬉しそうでした。



群上大会 石川県代表
前列3人がクラブ所属


第179回 田鶴浜舟尾


町名の由来

約四百五十年前、織田信長時代の古文書に舟尾という名が出てきているそうだよ。
舟尾水門の辺りを白門場(しろもんば)と呼んでいるけど、昔はこの辺りはまだ海で、
そこに船着場があったそうなんだ。
長右衛門船、弥三右衛門船という二隻の百石船がつながれ、越中と交易していたという記録も
あるので、在所では船着場があったから舟尾になったのではないかと言っているよ。

昔の在所

約百七十年前に肝煎りの佐近四郎を中心に二ノ宮川から灌漑用水を引くため山を貫通するマンポを
造っているんだ。マンポは七十メートルで大小二本あって大きいほうは直径四メートルもあるんだよ。
それで舟尾川が造られて四十四ヘクタールの新田を開発しているんだね。

大正時代から牡蠣貝の養殖も始め生産地として栄えていたようで、多い時で十五軒、
昭和五十七年には九軒あって牡蠣剥きする共同作業場を建ててやっていたけど、
今は担い手がなく一軒もなくなってしまったよ。

それと明治時代は和倉、奥原、舟尾、新屋、川尻、垣吉の在所が集まった
端村(はしむら)だったんだ。その中心地が舟尾で小学校や役場があったんだけど、
昭和十二年に分けられそれぞれ七尾と田鶴浜に合併されたんだね。

現在の在所

ご多分にもれず少子高齢化は否めず、祭りの存続が危ぶまれてきたので、昨年から祭り保存会を
立ち上げて区民みんなで参加して盛り上げていこうということになったんだ。
それと自治公民館行事として三世代ふれあい祭りを開催しているよ。
納涼祭では盆踊りとカラオケやゲーム、飲んで食べてみんなが楽しみ、秋にはグランドゴルフ大会を
やって高齢者が楽しみ、十二月には臼と杵でもちつき大会をやって子供達が楽しんでいるんだ。

平成十三年に田んぼの土地改良した時にグランドゴルフ専用の広場、鶴の里公園を
造ってもらったけど、三十二ホールもある立派なゴルフ場で毎年大きな大会も行なって
近隣からも多くの人が集まるんだ。一昨年から大晦日に神社に初詣にくる人たちに
年越そばを振舞っているんだよ。付き合いが希薄にならないようにあの手この手で
在所の中のコミュニケーションを深めていかないとね。

マミのひと言

大きなマンポで新田開発、
今も力を合わせ志を引き継ぐ在所。


2020年2月8日<362号>掲載 我が家のペット


レン(オス)12才

ミニチュアピンシャー

内弁慶で元気です。
孫たちが宝物のように可愛がっています。

(府中町 土谷さん)



ハチ(オス)9ヶ月

ミックス猫

ひめお姉ちゃんが大好きな暴れん坊で
甘えん坊な長男です(´▽`)

(下町 大高さん)



はち(オス)1才

柴犬

食欲旺盛で落ち着きがないですが、
人が大好きな子です。

(赤浦町 川島さん)



こたろう(オス)3才

バーニーズマウンテンドッグ

体は大きいですが、雷がこわいです。
高い高いと言ったら両手を伸ばして
大人の顔の高さまで体を伸ばします!

(本府中町 成田さん)



メリー(メス)15才

柴犬

とてもやさしくて賢いです。
猫3匹とも仲良く暮しています。

(中島町藤瀬 座主さん)



モージョ(オス)13才

ミニチュアピンシャー

優しくて人なつこいです。ジャンプが得意で、
ピョンピョン飛び跳ねて遊びます。

(馬出町 ダグラスさん)



マミー(メス)11才

四国犬

おとなしく、優しくて
人なつこいです。

(大田町 松本さん)



レオン(オス)11才

ミニチュアダックフンド

恥ずかしがりやさんで、人見知りしますが、
お留守番の時は、ワンワン吠えます。

(阿良町 沢野さん)



らぶ(オス)6才

ラブラドールレトリーバー

甘えん坊で臆病、慣れるまで吠える
「民家食堂らぶくんち」の見習い店長
僕に愛にいらしてくださいワンワン

(藤橋町 滝沢さん)


寺坂接骨院


寺坂接骨院 寺坂 勇人(てらさか はやと)さん 25才

負傷者を懸命に治療する父の姿が人を助けるヒーローと重なり憧れ、同じ道を進んでいます。
感謝の気持ちを忘れず、あらゆる身体不調・ケガに対応できるヒーローになります。

学生時代のラグビー経験を生かし有志と共に今春、能登初のスクールを開校します。
ラグビーを通し仲間を守り、楽しく危険を回避する能力を身に付けれる様に、
指導者一同全力で取り組んでいきます。


住 所:七尾市魚町107
お電話:0767-53-7788


弁慶の割石(江曽町)

江曽川の上流の山に真っ二つに割れた巨石があります。
割れた面がまっすぐでみごとです。片方は山の下にあります。

その昔、弁慶がこの地を通りかかった時、山の神にどれほどの力持ちかとからかわれ、
怒った弁慶が大長刀で割ったと伝わっています。


温故知新(第8回)しょうぶ湯は女のまつり


塚林康治さん(72歳)

七尾の習俗を40年間に渡り500人以上から聞き取り調査研究してきた塚林さん、この度「しょうぶ湯は女のまつり」と題しシリーズ3冊目が発刊されました。

私たちが暮らす故郷に昔から伝っている年中行事を初め、衣食住、信仰、伝説、方言などが時代と共にその姿が変わりやがて消滅していくことを危惧し、後世に伝え残すための記録としてしたためました。

囲炉裏に足を入れると田んぼにカラスが入るぞ

農家で育ち学校から帰ると家の縁側で祖父母から、在所に残る言い伝えや道徳的なことなどを何回も聞かされ、いつしか地域の歴史に興味を持つようになった塚林さん。

小中学校の教員として旧市内各地に赴いたとき、その土地の風習に興味を持ち生徒の祖父母から話を聞かせてもらいメモを取りました。同じ年中行事でも地域によって違いがあることが分かり興味が募ります。

真剣に調べ始めたのは33歳の時、昭和45年から6年間勤務した石崎小学校時代です。子どもたちと郷土クラブを作り毎日のようにお年寄りを訪ねて聞いて回りました。毎日が楽しくてしょうがなかったと振り返る塚林さん。ついには「かつぎ」のおばあちゃんを2年間密着取材し行商先の能登部までついて行きました。

立山が見えれば、翌日は春なら晴れ、秋なら雨

風の動き、潮の流れ、波の形、太陽、月、それらを勘案する石崎漁師の気象予知も凄く、イソライトの煙突からでる煙のたなびきで急変する天候を予知します。

現代はスマホで天気予報を調べ魚群探知機で漁場を探し便利になりました。ただ便利になった分だけ人間の能力が退化していると思います。同じように地域に伝わる年中行事も利便性を求めた生活様式に変化していく中で多くが簡素化され割愛されています。

歴史とは古文書に書かれてあることだけではありません。今を生きている人々から、先祖が伝えてきた事を聞き取り、そこから当時の人々が何を考え、どう暮らしてきたか、その心情面までを探ることも民俗学的アプローチによる歴史なのです。


集落という共同体がなくなる時代

自分は自分、人は人。人工知能やモノのインターネットが急速に普及しついていけないくらい便利な世の中になってきました。しかしどこか寂しい気がします。人と人の会話が無くなり、敬虔な気持ちが無くなり殺伐とした時代になるのではないでしょうか。

様々な年中行事にはすべて意味がありますが、今はその意味が分からないまま形だけ行なわれていることも多いです。
昔、元日は寝正月と言って、動かんもん、働かんもん、鍋釜使わず、掃除のほうきを使うと福の神が逃げていく。出歩くと、一年中出歩く癖がつく、お金も出て行くといったことが各地に伝えられています。これは門松を立て、しめ飾りを吊るしてお迎えし、その家を一年間守ってくれる年神様に慎みを持つために、仕事を休んで神社やお寺参り以外は出歩かないようにとの戒めです。

また田植えの前日は稲様三束を神棚にお供えし、翌日に田んぼの水口にその三束を植え祝詞を上げてから田植えを始めました。稲刈りが終わると最後の稲三株を床の間に飾って感謝を捧げています。農薬も肥料もない時代、豊作は神仏に祈るしかなかったのです。しかし便利な世の中になっていつしか信仰心が薄れていったことは否めません。

祈りは感謝の心を育みます。決まった日に、決まった所作で、決まった食物で、各地で様々な年中行事が執り行われてきました。その意味を知り、時代が変わってもその本質は伝えていかなければならない正念場にきていると思います。


鹿西高校剣道部


「至誠一貫」
自分で決めたことは正しい心で最後までやり遂げること。をモットーに部活に取り組んでいます。

男女、初心者、経験者と少人数ですがバラエティー豊かなメンバーで稽古をしています。
学校のために何ができるか自分たちで考え行動する「朝徳」など稽古以外でも学ぶことの多い部活です。

新入部員募集中!!


はい!社長です-立川建具


立川建具 立川 美治(たつかわ よしはる)さん 57才

石川工専の機械工学科で100分の1の金属加工を学んだ後、建具職人に。
尺貫法のギャップを乗り越え、技術は先輩から盗んで覚えました。

生活様式の変わる中、CADを使い設計士のデザインにも対応し
建具の技・組子を使った木工品や家具も作ります。

田鶴浜の伝統工芸なので周囲が盛り上げてくださり感謝しています。
組子を生活空間に、技の伝承が課題です。

住 所:七尾市川尻町チ-8-3
お電話:0767-68-3011


はい!社長です-ノトアフィットネスクラブ


ノトアフィットネスクラブ 小梶 崇(こかじ しゅう)さん 39才

アメリカで最先端の運動を学び現地でレッスンをしていました。

大阪から七尾に来て11年、温かい地域の皆様に支えられ教えて頂き、
本年1月より社名変更と共に社長を引き受けることとなりました。
県外から来た私を信じて大役を任せて頂きとても感慨深く思います。

休日は地域の為に色々な形で楽しく頑張っている
人達と飲んだり話したりして過ごすことが多いです。

住 所:七尾市竹町大天神山26
お電話:0767-53-5671


前田利家ご両親の墓


山の寺の休嶽山長齢寺にあります。
利家は天正9年10月能登23万石の国持ち大名となったことで七尾に両親のお墓を作りました。
父は名古屋で、母は岐阜で亡くなっています。
利家は45歳から1年半七尾で暮らし、金沢へ移りました。


第178回 七尾市国下町


在所名の由来

能登国の国衙(こくが)が置かれたことが由来だとする説があるけど、
そのことが書かれた文献がないので事実かどうか分からないんだよ。

国衙とは日本の律令制において地方を治めるために置いた役所のことなんだ。
近くには国分寺や古府など能登国の中心地があったから、なんらかその一角の役割が
あったかも知れないし、役人が住んでいる場所を国衙と言うこともあったらしいいから、
そこに勤める役人が住んでいたのかもしれんね。
そういえば加賀藩の古い地図には国ケと記されていたよ。

昔の在所

六七三年、延宝三年の江戸時代、この辺りに松が植えられたと記録があるんだ。
これは天領となった下と八幡に接する加賀藩領徳田の各在所との境に双方の在所が
立ち会って百姓が納得の上、境に松の木を植えたんだ。その数二三五本だと書いてあるけど、
徳田地区ではその内の一本を名残の松として八幡交差点の近くにて植えて伝えているんだ。
それで八幡の交差点の地下道が一本松と名付けられたんだね。

多くは百姓をして暮らしていたけど大工も二人いたから在所の古い家は二パターンあって、
二人の大工が建てた家はそれぞれに部屋の間取りが全部同じなんだよ。

現在の在所

平成四年に国下の集会所、さんご会館を建てたんだ。
さんごの由来は当時在所の世帯が三十五軒だったことと、徳田小学校のシンボルで校歌に歌われる
珊瑚樹から名付けたんだよ。

さんご会館では総会をやって、若御講には八田の乗龍寺さんと千野の正福寺さんに
交替で来てもらい、百歳体操は毎週行なっているんだ。それと平成2年に結成したH2の会の
お母さんたちが集まってかぶら寿司や蓬莱を作ったりしているし、お盆の納涼祭には里帰りした
人たちも子供を連れて集るからこの時ばかりは活気があり嬉しいよ。

どちらかというとおとなしい町だけど、その分意見がまとまりやすくみんなで
協力し合っているんだ。平均年齢も六十八歳ともう限界集落やね。
獅子舞も私が中学の時に踊ったのが最後だったなぁ。一度復活を試みたけど結局は続かなかったんだ。
それでも田んぼはちゃんと維持して耕作放棄地を出さないでいるんだよ。
この先のことは分からないけど、隣の千野町さんにそのうち交じてくれと言っているんだ(笑)。

まなかのひと言

小学生の時、一本松地下道を歩き通学
今、その意味を知る。