発祥は古代と推定される能登上布。能登部地区を中心に昭和3年には25万8千反の生産量を誇っていましたが、合成繊維の登場で昭和35年頃には1万2千反にまで減ってしまいました。
石川県の無形文化財にも指定され生活の必需品から伝統工芸となりましたが、能登上布はその技の追及や道具の開発など先人の苦労によって築かれてきた稀有なる織物です。
その技を伝承し、絶やさないためにと地元の女性十数名が能登上布会館で昔ながらの技法で手織りしています。そして上布の販売や作業の見学、機織り体験のお世話もしています。その中の一人、花澤久子さんにお話を伺いました。
好きだからこそ
大正生まれの花澤さんは子どもの頃から能登上布と共に人生を歩んで来た第一人者です。
昭和15年頃は仕事が無い時代で、能登部地区を中心に後山、矢駄、木津辺りまで、多くの農家が内職で機織りをしており、織元から男衆が自転車で各家まで糸を届けたそうです。家では朝の4時、5時から織っていたと言います。
子どもは学校へ出かける前に管巻きの手伝いをしました。
能登上布はとても手の込んだ下仕事を要します。麻糸を糸繰りし、緯糸と経糸を整経し、染め、乾燥、蒸しなどなんと20もの工程を経てやっと手織りにかかれます。それらの工程を織元の親方が采配し皆で分担します。親方は工程の担当者が休んだ時は代役に必ず花澤さんを指名したそうです。
いきなり言われて「そんなん出来ん」と言うと、「人がやれていること、なんで出来ん!」と言われながらも「手の皮が剥れ、手がカチャカチャになるほど、なんもかも習った」と述懐する花澤さん。
そうして全部の下仕事を経験して来た花澤さんは、「ひとつ、ひとつ覚えさせてもらった、それがご縁やった。親方が見込んで、仕込んでくれたお陰で今がある」と話します。そんな花澤さんの「能登上布はそんなに容易いものでは無いんや」という言葉にズシリと重みを感じます。それでもここまで続けて来たのは「やっぱり能登上布が好きやったんやね」と笑顔で話してくれました。
凄技
上布とは麻織物の中でも特に上質なものです。肌ざわりが良く夏の着物として重宝され、お盆には旦那様や奥様は上布の着物でお墓参りをしたと言います。
内職をしている家では、くず糸を拾って普段着用に織りましたが縞(しま)しか出来ません。絣(かすり)は柄(図案)が決まっているので、生地になった時にその柄になるように前もって糸を染めて織るのです。
花澤さんは、絣は伸びない糸を使っているが、どうかすると緩みがきてその調整が難しく、今はもう大きい柄の上布を織れる人はいないと言います。花澤さんがかつて仕上げたそんな逸品が能登上布会館に展示してあります。
その技の凄さは地元の織物工場の経営者が、「上布は凄い技や!ちょっと考えられん、ものすごく高度な技術なんだ」「我々に今からそれをやれと言ったら、宇宙に行けというくらいの事なんだよ」と話します。
伝承
上布を織る人がいなくなった今、大昔から続いている織物を絶やしたくないとの思いで集まる女性たち。
織りは柄さえ合わせられれば出来るようになるが、下仕事はどれも容易いことではない。弟子たちにその道理を教えなければと上布会館に足を運ぶ花澤さん。
高齢の師を仰ぎ休憩時間には和気藹々と、仕事中は黙々と手織りする女性たち。
織り姫となり、語り部となり、能登上布を繋いでいる。