仕事歴 60年 長田 恭子さん 83歳
そんな父
姉が泣いて頼んでくれたけどダメでした。父が高校進学を許さず家の手伝いをさせられたのです。私は御祓中学に怪物がいると他校でも評判になるほどのお転婆でした(笑)。陸上に卓球、バスケットにバレー、ソフトボールなんでも借り出されるほどスポーツ万能だったのです。姉二人と弟がいましたが父はそんな私に母の仕事を手伝わせようと思ったのでした。
私たち家族は戦時中に三重県から父の実家のある七尾へ疎開したのです。家を出て列車で米原まで来たとき、空襲時には避難していた家が焼夷弾に直撃されたそうです。本当に間一髪、命からがらの疎開だったのです。
父は長田真開という浄土真宗の僧侶で暁烏敏(あけがらすはや)先生と親交が深く全国各地を布教していました。布教先の三重県で母政子と結婚したのです。当時はうどんがご馳走で父の大好物だったようで、何かあると人を集めうどんを振舞うのですがその賄いはすべて母でした。また直感的な父は困っている人がいれば家にまで連れて来て住まわせました。母は文句ひとつ言わずに父の思いを酌んで献身的にお世話をしていましたが今考えると母はどんな思いでいたのだろうと不思議に感じます。父はどんな説教をしていたのかわかりませんが神様仏様のようにみんなが手を合わせて崇めていましたし、亡くなった時は全国から何人も分骨してほしいと来たのには驚きました。
めん類製造業
桧物町に居を構えた父は相変わらず全国各地へ布教に出歩きます。母は玄米を白米にする米かちと米や麦を粉にする粉挽きの仕事を始めます。一時期、柿の種の製造を始め私も手伝いましたが上手くいきませんでした。そうこうしながら、うどんが大好物の父が設備を整え昭和33年にめん類製造業の認可を取り本格的に製麺業を始めたのです。もちろん仕事をするのは母と私ですが(笑)。プロパンも灯油も無い時代です。鉄の丸釜に薪でお湯を沸かし、大きなタモをお腹で支えてうどんをすくっていました。原料の麦や蕎麦は近隣の農家から仕入れ自家製粉します。
仕入れのため車の運転をしなければならなくなったちょうどその時に七尾自動車学校が開校しその1期生として免許を取りました。三室、大野木、鵜浦を拠点に車で原料を仕入れに出向きましたが商品の麺と物々交換でした。
お嫁さんと二人で
こだわり
当時は学校、幼稚園、病院などたくさんのお客様からご注文を頂きましたが現在は3分の1以下に減っています。私自身も齢を取り体力も衰え昔ほどのことは出来ません。力仕事で辛いなと思いながらも仕事として続けていけるのは、長田のうどんが美味しい、長田のうどんでなければならないと言ってくれる人がいるからです。
そんなお客様の顔を思いながら現在はうどん、蕎麦、そしてラーメンを製麺しています。とくに原材料にはこだわり上等の粉を使用します。店頭販売とご注文に合わせて粉を準備し、その日の気温、湿度などを考え水加減、こねる時間、今だにこれで良しということはありません。今日のうどんの味はどうだったか必ず口にし、自分が一生懸命作ったものが美味いとホッとします。母と二人で始めた麺づくり、家を継いだからには私がやらねばといつしか覚悟が体に沁み込んだのだと思います。ボーッとおれない性分なので(笑)、出来る間は精一杯頑張りたいと思っています。
母と二人で始めた麺づくり、家を継いだからには私がやらねばといつしか覚悟が体に沁み込んだのだと思います。ボーッとおれない性分なので(笑)、出来る間は精一杯頑張りたいと思っています。
お店の前で