七尾市観光ボランティアガイド はろうななお
現在24名の会員で、主に日本百名城の七尾城址や一本杉通りと花嫁のれん館等、
4つのコースを担当し、 観光バスツアーやグループのお客様を“おもてなし”の心で
ガイドしています。
「ありがとう」「良かったよ」の言葉が励みとなって、 七尾そして能登の観光の為に、
引き続き頑張っていきたいと考えております。 (会長 佐野藤博)
現在24名の会員で、主に日本百名城の七尾城址や一本杉通りと花嫁のれん館等、
4つのコースを担当し、 観光バスツアーやグループのお客様を“おもてなし”の心で
ガイドしています。
「ありがとう」「良かったよ」の言葉が励みとなって、 七尾そして能登の観光の為に、
引き続き頑張っていきたいと考えております。 (会長 佐野藤博)
八藤 綜一(はっとう そういち)さん
24才 O型
大学を卒業後2年間金沢で働いていましたが、地元七尾の為に少しでも貢献したい
と思い、環境日本海サービス公社に転職し、下水道課で下水道処理施設の点検や
修繕などの仕事をしております。
先輩や上司の方々に指導してもらいながら日々仕事に励んでおります。
また、地元に帰ってからは小中学生に相撲を教えており、子供たちが心身ともに
成長できるよう一緒に頑張っております。
住 所:七尾市昭和町61番地
お電話:0767-53-0437
仕事歴 2年 酒井 志津代さん 62歳
38年間勤めた石川サンケンを定年退職しカラオケ喫茶を開いてのんびり暮らそうと思い、兄に相談したところ返って来た言葉が「船するから手伝え」でした。子どもの頃から仲が良く大人になっても飲んだり歌ったりと二人で遊んでいましたし、いつも私を気に掛けてくれていた兄貴の言うことやし、まぁーいいか、という思いで船に乗る事にしました。
兄は食祭市場の遊覧船の船長として長らく勤めていたのですが、船の老朽化で会社は営業を終えることにしたのです。それで兄が新しい会社を立ち上げて運航を引き継ぎました。
平成28年10月から姉も加わり3人で運航を再開しました。遊覧船は12月から冬期の運休に入りますが、その2ヶ月間はとても楽しいものでした。兄は話上手でユニークな人柄でお客を喜ばせ、私はそんな姿を見てやりがいのある仕事だなと思い始めていました。しかしこの時の兄は癌の治療を受けており気合で頑張っていたのです。
そしてついに入院することになりました。「兄ちゃんがおらんとわてやれんし…」と励ましたのですが、兄は「大丈夫や、われの性格ならやれるわい!」と逆に励まされました。兄は弱った体で船に乗り「ガイド中も何が流れとるかわからんし海から目を離すな」「能登島が見えん日は船を出すな」と教え、病室でも「お客に嫌なことがあってもそん時は笑っておらなダメやぞ」「花火大会は小さい船がいっぱい出とって危ないから、頼まれても出したらダメやぞ」などと教えてくれました。
私は兄の代わりに船長をやらなければならないのだと覚悟を決め、2級小型船舶操縦士の免許を取りますが不安が募ります。「難しいけど、やってみて赤字やったらどうする?」と聞くと「出来るだけやってみて、赤字が続いたら無理せんでもいいよ」と言ってくれました。
うぉっ!ウミネコが!
兄が亡くなり、兄の大親友が手伝ってくれることになりました。中古で購入した遊覧船は白く殺風景だったので青く塗りカモメの絵を描きました。遊覧船の運航を兄の意思を継いだ妹がやる、ということが話題になり新聞やテレビに取上げられたことで仲間が駆けつけ応援してくれ、前の会社の先輩や後輩もいっぱい乗りに来てくれました。私は人と話すことや、世話好きでもあったのですが、仲間との日頃のお付き合いの大切さを改めて実感しました。
そして何より驚いたことは、名物船長だった兄を慕っていたお客様が沢山いたことです。県内外からリピートのお客様がお土産を持って来るのです。事務所にある兄の写真にお供えをとお花とウィスキーを持ってくる人もいます。先日も東京から見えられたご夫婦が兄の死を知ると船着場で号泣するのです。思い出にどうぞ乗って下さいと促しますが、ショックで気力を失ったと乗らずに帰られました。遊覧というより兄に会いに来る人が後をたたず、「これゃ、頑張らなならんなぁ」と強く思いました。
穏やかな七尾湾でも漁師のように天気を先読みし、海の底を知らないとなりません。兄が案内していた話を覚えこの夏も朝から晩まで声を出してガイドしていたら、お盆過ぎに声が出なくなってきて慌てました。ストレス発散のカラオケにも行かずに養生しましたよ(笑)。大変な事は色々ありますが、「七尾に遊覧船があって良かった」「有難う、楽しかった」というお客様の言葉を励みに、楽しみながら出来るだけ頑張ろうと思っています。
七尾湾遊覧のクルー
白山、小松、加賀にも殿町という地名があり、そこは城下や武家屋敷跡が由来のようだけど、ここには確かな話が伝わっていないんだ。城山から山道が通じているので年寄りがロマンとして語るには、畠山の殿様の別荘か隠れ家があったという話や、七尾城が攻められた時の殿(しんがり)を務めた侍が住んだからだとか囁かれている話はあるけどね。調べてみるとね、ここのような段丘の地形を棚と言って、その「たな」が「との」に転化したという説もあるんだよ。
昭和30年過ぎまでは外へ働きに出ることもなく、山に挟まれた土地に男は田畑に山仕事、女はむしろを作って暮らしを立てたんだ。少しでも農地を増やすため山裾を掘削したマンポに崎山川の水を回して元の川を農地にしたんだ。そんなマンポが3箇所あるよ。
江戸時代には田んぼに出来ない畑に煙草を作って「山崎煙草」と称して七尾城下の所口町へ売り出していたようだね。崎山半島の西が七尾湾、東が灘浦で双方を結ぶ山道が何本も横断しているんだ。庵の虫崎からは柑子山、佐々波からは清水平を通って佐野を抜けて七尾へ入り、江泊や白鳥は沢野の柏戸から湯川を通って赤崎へ出て七尾へ入るんだ。殿にも大田や沢野へ通じる山道があってその要衝に地蔵様と板碑があり管理していたけど、現在は国道沿いの大きな阿弥陀三尊の板碑だけを春と秋にお参りしているんだ。
昭和5年から昭和12年にかけて交通不便を解消しようと殿と近隣の在所の人たちで大田までの道を開設したんだ。冬場仕事が無い時に少しずつ進めていったそうだよ。つるはしでトンネルまで掘っているから先人の努力に頭が下がるんだ。そのトンネルが昭和37年に改修工事され昭和40年には国道160号線に指定されたので殿トンネルは在所の誇りの象徴でもあるんだよ。
子供の頃はあぜ道一本、山の中までもきれいに手入れされた里山でね、朝靄がかかれば空気が一段と澄んで山水画の世界が現れ、日本の原風景を絵に描いたような在所だったけど、今は手入れが行き届かなくなってね…。
高齢化が進む小さな在所なので互いに支え合うためにも、この秋からみんなで道路沿いの荒れた畑に桜の苗木を植えようと話し合っているんだよ。
トンネルを抜け板碑を曲がれば、
穏やかな空気が流れ、心安らぐ在所。
あの有名な国宝松林図屏風を描いた七尾出身の画聖長谷川等伯。
3年前、食祭市場横のマリンパークの一角に七尾湾を背にし、
京都の方角を向き建てられ、高さは2.5mあります。
絵筆を持ち、笠に手を添え、天を仰ぎ いざ行かん!
と京へ旅立つ勇姿です。
内灘町で20年前に治療院を開業し、4年前に地元飯川町に移りました。
七尾に来て最初に頑張る力をもらえた出来事は、内灘時代のたくさんの患者さんが遠く七尾まで治療に来て下さった事でした。
これからの私の仕事は患者さんに喜んでいただける治療を続けていくのはもちろんですが、七尾でも幅広い年齢層の人たちに鍼灸の良さを知ってもらう事が一番大事な役割だと考えています。
住 所:七尾市飯川町11部50番地
お電話:0767-57-5431
僕達は部員総勢25名で、全中出場という目標を掲げ、日々の練習を頑張り、
8月に山口県で行われた全中に出場を果たしました。
惜しくも予選リーグを僅差で敗退、来年のリベンジに向けいっそう練習に
励む日々です。
先輩と後輩の上下関係はしっかりしつつも、年齢問わず皆仲が良く、
先輩にも後輩にも同期にも恵まれた部です。 (谷渡 聖)
民謡は心のふるさと!
川尻 想(かわじり こころ)さん
24才 B型
人の幸せな瞬間やかけがえのない一瞬に携わる仕事です。
スタジオマリオは毎日が記念日。お客様の大切な1日、瞬間を“写真”を通して
永続的に残す事ができ、その一瞬だけでなくお子様の成長を実感でき、生涯を
通して関われます。
そんな素敵なお仕事である事に誇りとやりがいを感じて、日々腕を磨いています。
将来の夢は自分の子供のベストショットをスタジオで撮る事です。
住 所:七尾市本府中町ヲ部23番地1
お電話:0120-753-081
7月の県体で4分15秒30の記録で念願の石川県優勝を果たした結翔くんですが、これは中能登中学3年生の常光拓真くんと抜きつ抜かれつのデッドヒートの末、わずか0、09秒の差で掴んだ勝利だったのです。結翔くんは実力がありながらも2年生までは県大会に出場すら出来ませんでした。県体出場するためには七尾鹿島地区予選で勝たなければなりませんが、この地区予選のレベルが高く先輩の壁が厚かったのです。
小さい頃から走ることが好きだった結翔くんですが、高階小学校のマラソン大会でどうしても勝てない同級生がいました。小5の時初めてその子に勝って喜んだのも束の間、その子が田鶴浜スポーツクラブへ入って長距離の練習を始めたのです。このままでは来年のマラソン大会で負けてしまう。そんな思いに駆られ自分も田鶴浜スポーツクラブに入ることを決めました。
七尾中学陸上部の中長距離選手は男女全員、田鶴浜スポーツクラブに所属して練習しています。昨年4月七尾中学が御祓中、朝日中、田鶴浜中の統合により誕生しましたが、統合前の田鶴浜中学陸上部の長距離選手全員が田鶴浜スポーツクラブに所属して練習に励んでいました。そして駅伝や長距離走で何度も全国大会出場をしています。そんな経緯から七尾中学でも中長距離選手は田鶴浜スポーツクラブの山口監督の下で練習を行ないます。
朝6時から旧田鶴浜中のグラウンドで練習し、朝弁当を食べ全員でサンビーム7時20分発のスクールバスで学校へ向かいます。学校が終わればいったん家へ帰ってから夕方6時にグランドへ集合して走りこみ、まるで毎日が合宿のようです。その成果は男子が4年連続で全国駅伝大会へ出場しています。そして今年は女子にも全国大会出場の期待がかかります。
僅差の優勝!
昨年の夏は厳しい練習についていけず、それで体幹と筋肉を鍛えるトレーニングを始めた結翔くん。体が出来てくると余裕を持って練習ができ楽しく走れるようになったと言います。山口監督は選手の状態をよく見て一人一人に細やかな指導を行います。結翔くんの走りは柔らかくて良いのだが、ひょこひょこ走っているのでもっと体幹を鍛えればまだまだ伸びると言います。今後の課題もあるが性格が素直で前向きなので高校、大学とこれからが楽しみだと話してくれました。
12月の全国中学校駅伝大会に石川県代表として5回連続出場なるか、厳しい練習が続きます。昨年は人数も揃っていてレベルが高かったのですが、今年は男子部員9名で3年生は結翔くん一人です。そんな結翔くんに決意の程を聞くと「ライバルは津幡南中学と中能登中学ですが、後輩の野崎健太郎くんが8月に北信越大会の1年1500mで優勝しチームのムードも上がっていて、先輩として良い手本となって自分の背中を見せてみんなを引っ張っていきたい」と力強く話してくれ、とても頼もしく感じました。 男女ともに全国大会出場目指して頑張ってもらいたいと思います。
駅伝の名門!男女で出場を!
山に囲まれていてその中を流れる川沿いに人が住むとそこを河内と名付けるのではないかと思うよ。白山市の旧河内村は手取川と直海谷川の合流点だし、穴水の河内には山王川に支流が何本も合流しているし、ここも熊木川と河内川が合流する場所なんだ。川の内にある在所で河内。本当の由来はわからないけど、地形的には共通しているので頷けるんだよ。
山の木で暮らしを立てて来た在所だよ。山をたくさん持っている家を「おやっさま」と言ってね。その「おやっさま」が毎年1枚の山を切るんだ。それで1年間の生活が出来たのだよ。切出した山に植林し50枚山があれば50年サイクルで循環していくんだ。山師が山を眺め木の石高を見積もり売買するんだ。
河内には「おやっさま」が何軒もあるのでその木を切ったり、山から運び出したりと木こりや歩荷(ぼっか)の仕事が切れることがなく続いたんだ。山道に枝を敷いて「きんま」というそりに丸太3本積んで滑らせたり、1本ずつ縦に担いで山を降りていたね。それや炭焼きで現金収入を得てたんだよ。それと手に職をと大工や左官を目指すんだ。
交通手段が無いからどこにも出れず、男は在所に分家し、女は全員在所の中に嫁ぐからみんな親戚になっていくんだ(笑)。釶内地区にお寺が五つもあるのは山の木のおかげで財力と材料と職人が揃ったからではないかと思うんだよ。
戦後テレビに冷蔵庫と生活が贅沢になり山を3枚売っても4枚売っても足りないし、外へ出た若い者は戻らんし、在所の中は年金暮らしの年寄りばっかりで地元負担の伴うような事業は出来なくなったよ。
そんな中、在所最後の囲炉裏で300年以上灯し続いた火様を守ってきた中谷さんのおばあちゃんが亡くなる時にまた一つ大事な遺産が消えると心配したけど、お隣の岩穴さんの娘婿でお医者さんの森田さんが受け継いでくれ本当に感謝してるんだ。森田さんご夫婦が河内の自然を愛していてね、田舎暮らしを満喫してもらう民泊の計画もあるらしいので明るい話題だね。
10月には真宗の御崇敬(ごそうきょう)という津幡から七尾までの範囲で200年以上続く大きな法会の宿寺が36年ぶりに釶内地区が受け持ち、今回は河内の託因寺で行なわれるので火様の火でろうそくを灯したいと思っているところなんだよ。
大蛇淵と岩穴の伝説を聞き坂道を歩く。
大きな欅、川の流れ、静かな空気、心穏やかなり。
中能登町久江の神社で古事記に出てくる久延毘古神を祀っています。
足が悪いけど頭の良い学問の神様で大国主命が日本の国造りをして
いて悩まれた時に知恵を授けたほどです。
足が悪かったので案山子の神様とも言われています。
桶成 綱治 (おけなり こうじ) さん
26才 O型
中島高校最後の卒業生で地元食品会社に5年間勤めました。
会社や地域社会に馴染んできたのですが、将来を考えた時、
技術職を身につけたいと思い転職しました。
今は大きなプレスで車の部品の板を抜いています。 まだ技術は未熟ですが
やりがいを感じます。
将来は一人前の熟練工となって全ての工程を任されるように頑張ります。
休日は映画鑑賞を楽しんでいます。
住 所:七尾市国分町ロ1
お電話:0767-52-3456
父が輸入車専門店として創業し、私で2代目になります。
金沢の輸入車ディーラーで整備士として修業し、11年前に地元へ戻ってきました。
時代の変化と共に車もコンピューター化、コネクティッド化しており日々勉強です。アットホームで女性も気軽に立ち寄れる車屋を目指し、お客様のニーズに添ったカーライフをご提案できるよう頑張っています。
住 所:七尾市飯川町く部67番地
お電話:0767-57-8800
地域の絆を深めました!
今年の県大会は自分達の意見をもとに脚本を書く事に初挑戦しました。
それぞれの考え方が違い、まとめるのにすごく苦悩しましたが、台本が
出来上がった時の喜びはとても大きかったです。
部員が少ないからこそ関係が密になり、アットホームな雰囲気です。
各自責任感を持って取り組み、日々稽古に励んでいます。(部長 大山 久翔)
顧問:中田先生、平沢先生
部長:大山 久翔さん
仕事歴 60年 長田 恭子さん 83歳
姉が泣いて頼んでくれたけどダメでした。父が高校進学を許さず家の手伝いをさせられたのです。私は御祓中学に怪物がいると他校でも評判になるほどのお転婆でした(笑)。陸上に卓球、バスケットにバレー、ソフトボールなんでも借り出されるほどスポーツ万能だったのです。姉二人と弟がいましたが父はそんな私に母の仕事を手伝わせようと思ったのでした。
私たち家族は戦時中に三重県から父の実家のある七尾へ疎開したのです。家を出て列車で米原まで来たとき、空襲時には避難していた家が焼夷弾に直撃されたそうです。本当に間一髪、命からがらの疎開だったのです。
父は長田真開という浄土真宗の僧侶で暁烏敏(あけがらすはや)先生と親交が深く全国各地を布教していました。布教先の三重県で母政子と結婚したのです。当時はうどんがご馳走で父の大好物だったようで、何かあると人を集めうどんを振舞うのですがその賄いはすべて母でした。また直感的な父は困っている人がいれば家にまで連れて来て住まわせました。母は文句ひとつ言わずに父の思いを酌んで献身的にお世話をしていましたが今考えると母はどんな思いでいたのだろうと不思議に感じます。父はどんな説教をしていたのかわかりませんが神様仏様のようにみんなが手を合わせて崇めていましたし、亡くなった時は全国から何人も分骨してほしいと来たのには驚きました。
桧物町に居を構えた父は相変わらず全国各地へ布教に出歩きます。母は玄米を白米にする米かちと米や麦を粉にする粉挽きの仕事を始めます。一時期、柿の種の製造を始め私も手伝いましたが上手くいきませんでした。そうこうしながら、うどんが大好物の父が設備を整え昭和33年にめん類製造業の認可を取り本格的に製麺業を始めたのです。もちろん仕事をするのは母と私ですが(笑)。プロパンも灯油も無い時代です。鉄の丸釜に薪でお湯を沸かし、大きなタモをお腹で支えてうどんをすくっていました。原料の麦や蕎麦は近隣の農家から仕入れ自家製粉します。
仕入れのため車の運転をしなければならなくなったちょうどその時に七尾自動車学校が開校しその1期生として免許を取りました。三室、大野木、鵜浦を拠点に車で原料を仕入れに出向きましたが商品の麺と物々交換でした。
お嫁さんと二人で
当時は学校、幼稚園、病院などたくさんのお客様からご注文を頂きましたが現在は3分の1以下に減っています。私自身も齢を取り体力も衰え昔ほどのことは出来ません。力仕事で辛いなと思いながらも仕事として続けていけるのは、長田のうどんが美味しい、長田のうどんでなければならないと言ってくれる人がいるからです。
そんなお客様の顔を思いながら現在はうどん、蕎麦、そしてラーメンを製麺しています。とくに原材料にはこだわり上等の粉を使用します。店頭販売とご注文に合わせて粉を準備し、その日の気温、湿度などを考え水加減、こねる時間、今だにこれで良しということはありません。今日のうどんの味はどうだったか必ず口にし、自分が一生懸命作ったものが美味いとホッとします。母と二人で始めた麺づくり、家を継いだからには私がやらねばといつしか覚悟が体に沁み込んだのだと思います。ボーッとおれない性分なので(笑)、出来る間は精一杯頑張りたいと思っています。
母と二人で始めた麺づくり、家を継いだからには私がやらねばといつしか覚悟が体に沁み込んだのだと思います。ボーッとおれない性分なので(笑)、出来る間は精一杯頑張りたいと思っています。
お店の前で
鎌倉時代の古文書に高田保として地名が出ているそうだよ。その当時の書状に高田彦次郎、高田弥次郎の名前が出てくるのだけど高田保の領主ではなかったのかと目されているから在所名の由来となったのではないかと思うよ。高田は高田七家と言われる草分け7軒で開発されたとも伝わっているようだね。
二宮川の流域に広がる在所でその水を利用し農耕で暮らしてきたのだけど、この川がよく氾濫して悩まされていたんだ。それで戦後の耕地整理で川の付け替えを行っているんだよ。その付け替え前の二宮川で歴史に残る乱闘事件が起こっているんだ。宗貞寺の前に水辺公園があるけど、そこから県道までの間に17mの高田橋が架かっていたんだ。
明治25年第2回衆議院選挙では中島、田鶴浜、高階、鳥屋地区の投票場が田鶴浜の東嶺寺だったんだ。鳥屋の人はこの高田橋を渡って投票に行くのだけど、ここに田鶴浜消防団「浜竜組」が陣取って投票場に行かせなかったんだ。負傷者多数、死者2名というから凄い話だよ。これは政府自らが衆議院での劣勢を挽回するためにあらゆる手段を使って野党を弾圧したんだ。野党側で現職の神野良の地盤が鳥屋で、政府側は中島の橋本次六を応援したんだ。結果は橋本次六が当選し、野党は事件の首謀者を訴えたけど控訴審で無罪になったんだよ。血生臭い歴史もあるけど、娑婆に暮らすということはそういうことなんだろうね。
20年前に町が宅地造成してから若い世代が移り住んで班が6班から9班に増えたんだ。インターチェンジが出来て商業施設が来て生活は本当に便利になったよ。
ただ近年はご多分にもれず少子高齢化の影響が出てきてね、高田では能登の国二十一番札所の橋爪観音祭と地蔵祭と夏に2回子供奉燈が在所を回るんだけど残念な事に今年は出せなかったんだ。子供たちはろうそく銭を貰うのが楽しみだったんだけどね。
唯一在所中が集まるのが高田伝統の平夫(ひらぶ)の日なんだ。今は一斉クリーン運動として道路と川の草刈り、町内のゴミ拾いを全世帯が参加して行うんだよ。平夫とは全員が平等に人夫として作業するということなんだ。この結束力を秋祭りにも繋いで行きたい所なんだけどね。在所の運営も世代交代の時期に来ているし、そろそろ新しい班から町会長が出て引っ張ってもらえればと思っているんだよ。
人が住み、村ができ、助け合って暮らす。
昔も今も、高田の在所。
森本 純一 (もりもと じゅんいち) さん
38才 O型
現在、営農販売部に所属し、園芸品目の販売等を担当しています。
地元にある素晴らしい特産品の野菜をご存知ですか?
伝統野菜の中島菜、能登白ねぎ、赤ねぎ、金糸瓜、小菊南瓜などです!
この特産品を多くの地元の方に知ってもらい、食べてもらう事で、地元の農業が
もっと盛り上がっていければと思います。
故郷再発見のため、食育やレシピ考案などの切り口での情報も発信しています!
住 所:七尾市矢田町イ部6番地7
お電話:0767-53-8502