こみみかわら版バックナンバー

第99回 七尾市佐味町


在所名の由来


由来は古老に聞いても分からないんだ。
寛文10年9月7日の書状には能州能登郡佐味村と書かれているので、
江戸の四代将軍徳川家綱の頃には佐味だったことは確かだけどね。


佐味の歴史


寛文10年の書状とは「村御印」と言って加賀藩からの
年貢の割り当てなどが書かれた文書なんだ。
佐味村は910石の年貢が決められているよ。
この書状を町会長が大切に保管するんだ。

佐味では1期2年で町会長が変るんだけど、
2月の引継ぎの時に新町会長は家の床の間にこの書状を開き、
尾頭付きの鯛と鏡餅をお供えして、歴代町会長はじめ新旧の役員を御招待するんだ。
年貢の割り当てのほかに、藩から村への貸米が60石あり
その利息の12石を免除したと記されたので嬉しかったんじゃないかな。

国道に臼池というバス停があるけど、ここが在所の入り口だったんだ。
ここに鉱泉が出て2軒の旅館があったんだ。
その裏は遠浅の砂浜で松林が続き風光明媚な海岸で七尾の海水浴場だったんだよ。
ここでよく蛸とりもしたね。夜カーバイトを持って海に入ると蛸が足にまるかってくるほど獲れたよ。
大人たちはお盆になると牛や馬を海岸に連れて行って洗っていたなぁ。
なんか懐かしいよ。今は貯木場になって面影は無いけどね。

県道百海七尾線の佐味町地内の山に縁結びの地蔵さんがあって、
そこから佐味の在所に下りる山道を嫁坂と呼んでいるんだ。
柑子町や庵町から佐味に嫁いでいる人が多いんだけど
昔はこの坂道を花嫁道中して来たんだろうね。


在所の取組


万行小学校が佐味町に引っ越して東湊小学校になったんだ。
私はその時の1年生だよ(笑)
海と田んぼが埋立されていろんな企業が入って来たし
、団地も出来て家も増えていったんだ。

上出、下出、今田地区には神社があって昔からの祭りをするんだけど、
在所の人がみんなが集まる場として7月に納涼祭を行うんだ。
出し物も毎年企画してね。今年も民謡、太鼓、バザー、花火など行ったよ。

正月は東湊分団の出初式を行い在所でも
年2回は防災訓練をするけど、私も消防団員なので力も入るよ。(笑)


まぁの一言


伝統を重んじる在所に子供達の声が響く。
縁結びのお地蔵様にそっとお参り。


はい!社長です-まつや時計店


まつや時計店 高松 保晴 (たかまつ やすはる)さん 32才 A型

祖父が昭和8年に創業し、父、私の3代目で今年83年を迎えます。

毎日、たくさんの笑顔に支えられ、楽しく過ごしています。七尾も高齢化が進んでいますが、若い方でも入りやすいような店作りをしています。

嬉しいことに常連のお客様から「自分の畑でとれたし食べて」と野菜や元気をいただき、毎日頑張っています。人と人との繋がりを大切に、これからも頑張ります。

迷いや決断を求められたときには、両親の言葉を思い返し、決断しています。”明るく楽しく元気よく感謝をもって”

住 所:七尾市大手町64
お電話:0767-53-1010


七尾市民健康福祉まつり


「いきいきワクワク豊かな未来、寄って笑って輪になって」をテーマに、皆様に”健康“、”福祉”に関する知識や理解を深めてもらえるように、様々な企画をご用意しました。誰もがいつまでも健康でいきいきと住み慣れた地域で暮らすことができる”支え合いのまちづくり”が目標です。


フィットネスガレージななお

浜頭 美絵 (はまがしら みえ)さん

21才 A型

子供の頃、気管支喘息だった為、両親がなんとか健康な子にと、色々なスポーツ教室に通わせてくれたおかげで、今ではほぼ完治する事が出来ました。幼少期から色々なスポーツを 経験出来た事で、大人になっても身体を動かす事が大好きです。

インストラクターの仕事を通して、地域の皆様(子どもから大人まで)が生涯スポーツに親しみながら健康的な毎日を送って頂けるよう、頑張りたいと思います。この仕事を通して 1人でも多くの方を幸せにすることが夢です。



住 所:七尾市竹町大天神山26番地

お電話:0767-53-5671


雨の宮古墳群


中能登町西馬場にある国指定史跡。
眉丈山の山頂を中心に4世紀中頃~5世紀初期に造られた36基の古墳が点在。

前方後方墳としては県内最大規模の1号墳からは、中能登町の景色を眺望できます!敷地内では資料館・芝生広場があり、楽しめます!


中能登農道橋(ツインブリッジのと)


七尾市能登島地区と中島地区を結ぶ全長620mの橋。

中島地区側に「長浦うるおい公園」があり、小さな売店で軽食も頂くこともでき、ドライブの休憩にぴったりです♪

展望台からは七尾湾にかかる優美な橋の全景を望むことが出来ます!


第98回 七尾市中島町筆染


在所名の由来


在所の古老によると万葉集を編集した大伴家持が
この地を訪れた時に詠んだ歌に「筆染の沖に浮かべたる机島」というのがあって、
少なくとも奈良時代には筆染という名前があったということなんだ。
机島は在所の沖に浮かぶ島でね、そこには大きな平べったい石があって硯石(すずりいし)と呼ばれているんだ。
その硯石で筆を染めたという話が伝わっているのが由来かもしれんね。


昔の暮らし


海岸まで干拓した田んぼが広がり、海では刺し網、
はえ縄、蛸ガメなどでなんとか暮らしていけたそうだよ。
そんな環境だからか職人が一人もいない在所なんだ。

80年程前に私の本家のじいさんが奥原から牡蠣の養殖を
習ってきて筆染でも盛んになったんだ。
一時は海苔の養殖もしたりして、在所の半分が牡蠣貝の養殖しとったけど、
今は6軒になったね。
それと在所を通る道路が国道だったんだ。
まだ砂利道だったよ。そんな道路を観光バスがよく通っていてね、
よく家の前にバスを止めてはトイレを貸してくれと入って来ていたのを覚えとるよ。
在所にもジュースなどを売っている商店が2軒あったしね。

昭和33年に天皇陛下が能登にお越しになられたとき中島駅前からの
バイパスが突貫工事で作られて国道が移ったんだ。
おかげで今では静か通りになっているよ。


六保の祭り


豊川地区の日吉神社の大きな祭りで7月のおすずみと9月の枠旗があるけど、
そこに笠師地区の筆染が参加しているんだ。いろんな背景があったんだろうね。
能登半島の各地のキリコ祭りが、昨年文化庁の日本遺産に認定されたんだ。
六保のおすずみも拝殿での神事は奥ゆかしいもんだよ。

筆染にとっては夏と秋のこの祭りが最大の行事なんだけど、
小さな在所なんで人足にも苦労しているんだ。
昔は女の子は祭りに参加しない風習があったけど、
そんなこと言っていられなくなってね、
中島町で一番最初に女の子に鳴り物をさせたんだ。
今ではどこの在所でも女の子が参加するようになってきたけどね。

それと小さい在所は「え」を結んで人足を確保するんだ。
筆染は長浦と協力しあっているよ。
おかげで秋には六保祭と熊甲祭と2回祭りしているよ。(笑)
町会長も1期2年を順番に廻しているんだけど、
世帯が少ないだけに結び付きが強く何事もみんなで協力してやっているんだよ。


まぁの一言


丘の上の神社から眺める七尾西湾。
そこに種ヶ島と机島が見えた。
万葉の里を感じます。


はい!社長です-軽食・喫茶 木馬


軽食・喫茶 木馬 諸谷 典子 (もろや のりこ)さん 55才 A型

三島町で平成9年まで両親がレストランバー「木馬」を営んでいました。当時、母が作るカツサンドが人気で多くのお客様に愛されていました。4年前に母が亡くなりましたが、その時にレシピを教わりました。

かつての常連さんからあのカツサンドが懐かしいというお声を何度も頂き、これからの人生を考えた時、両親が築いた木馬とカツサンド、それにお客様とのふれあいの場を残したいと思い、6月に小山台にオープンしました。

ランチ11時半~14時。夕方からはちょい呑みも(笑)

住 所:七尾市小丸山台2丁目46
お電話:70767-58-3058


中島ジュニアバドミントンクラブ


中島ジュニアバドミントンクラブは、今年で20周年を迎えました。過去には、県大会で優秀したり、全国大会に出場した先輩たちが沢山いて、素晴らしい指導者に恵まれた伝統あるクラブです。そんなクラブに所属していることは僕の誇りです。 キャプテン 中橋一悠(6年)


(株)環境日本海サービス公社

白石 広大 (しらいし こうだい)さん

31才 A型

私たちは、皆様の快適な暮らしを支えるため社会の 一員として、いつも誠心誠意取り組んでいます。
私の仕事は主に浄化槽の維持管理をしています。

仕事を通じて、地域の皆様とのコミュニケーションを大事にし、「使った水はきれいにして自然に返そう」をモットーに、大切な資源を未来につなげ、きれいな七尾湾を守れるよう努力しています。



住 所:七尾市昭和町61番地

お電話:0767-53-0437


第71回私の仕事は「石材加工業」です


百の家族の、百の想いと形

私の仕事は「石材加工業」です
芋塚 隆彦(いもづかたかひこ)さん(50歳)
仕事歴28年

石材店の仕事とは

私の場合、お客様の想いを形に仕上げられるように設計から基礎工事・施工まで対応しています。
特にお墓作りに関しては、宗教、風習・家族など多岐にわたることを説明させて頂き、
ご理解を頂いた上で設計に取り掛かっています。

時代と共に

近年、生活スタイルが多様化している中、墓じまいや合祀などのご相談も多くなってきました。人は昔から大自然や死に対して畏敬の念を抱き祈りを捧げてきました。時代が変り祈りのスタイルが変化しても、その根幹は変っていないのだと思います。

しかし現代はあまりにも忙しく、日々の生活に追われ、いつしか大自然の恵みの中に活かされて、生きているということを忘れてしまいがちです。そんな時に病と向き合ったり、人の死によって改めて自分の暮らしや生に向き合うことがあります。お墓を建てるということも、そんな機会の一つだと思います。人生において「気づき」を持たれたとき、宗教や、今のライフスタイル、未来への営みなど、お客様と一緒にお墓を通じて未来を真剣に話し合います。このようなことも今の私の大切な仕事の一つだと思っています。



矢田町の工場

お墓ディレクター

永平寺禅僧の学問所として始まった愛知学院大学を卒業し実家に戻ります。父は技術にこだわり指導してくれました。若い私は機械化の必要性も感じ、時には父と議論をしながらも父の元で技術を身につけ現在に至っています。創業は曾祖父で山積の石屋からのスタートでした。祖父、父の時代は日本の成長期でもあり、人口も増え、神社の鳥居や奉納品の依頼も多く活気がある時代でした。そんな時代は個人の拘りはなく、伝統の形を重んじて、削り、磨き、細工、彫刻して、現地での取り付け施行をどんどんやっていました。



時代が進み、当時分家した家でお墓が必要になってきています。分家された家はお寺さんとのお付合いは本家ほどではないことも多いようで、仏教的なことから法律にかかわることまで質問や相談があります。明治に制定された墓埋葬法の制度が平成に入って改正され、定められた場所以外にお墓を建てることは禁じられています。そんな法律を知らないでお墓を建てたり、また無宗教だという方や、各宗教宗派でも色んな違いを知らないでお墓を建てて困ったという事例も出てきています。今、お墓を取り巻く環境は大きな曲がり角に来ており、日本石材産業協会ではお墓ディレクターという検定資格制度を設けて正しい知識、適切なアドバイスを出来る人材の育成にも取組んでいます。

昨今は石屋のみならず葬祭に関わる方までがこの資格を取得して、幅広くお客様に正しい知識をお伝えしていこうという気運が高まっています。お墓は買うものでなく、作るものだと思います。100家族あれば100通りの想いがあり、ご家族と共に考え、話し合い、血族という家族の絆を、お墓を建てる時に石工の技術を入れて向き合う。そんな時間が私にとっても大切で嬉しい時です。石材店の墓石ディレクターとして更なる精進を重ねていきたいと思います。



矢田町工場 芋塚石材店 ☎0767-53-0612
2016年取材


石崎奉燈祭


地区の誇りをかけ、勇ましく!かっこ良く!


虫ヶ峰風力発電所


山の峰に10基の風車が並び見えるのは、中島町の標高292mの虫ヶ峰。

近づくにつれ、羽根の大きさ、柱の高さに圧倒されます!ゴウンゴウンと音をたて、回る羽根。

地面に巨大な影を落とし回り続けるさまは、一見の価値ありですよ!


第97回 中能登町良川


在所名の由来


ここは地勢的に邑知潟から続く湿地帯だったんだね。
幾筋もの川が流れ葦(ヨシ)が生え葦原が広がっていたんだ。
それで良川となったと言われているよ。


良川の歴史


古くは旧街道沿いの地頭地区、北地区が発達していくんだけど、
明治31年に鉄道が敷かれ明治34年に良川駅が出来たことで駅周辺の沖地区が発達していくんだ。
この3地区にそれぞれ集会所があり、青年団、壮年団、
婦人会があって独立した自治活動を行っているんだ。
昔は繊維の町で鳥屋だけで大小約350軒の工場があったんだ。
在所のほとんどの人が繊維に関わっていて賑わいがあったよ。
商店も40軒程あったしね。

それが昭和49年の第一次オイルショックで繊維不況が始まり、
車社会の発達で駅前も衰退していくんだけど、
幸いにも良川では平成4年から10年にかけて住環境整備事業として
国から補助を受け土地改良や道水路の改修、
公園や公共施設の建設など環境が整えられ、
更に平成9年、15年、26年と3ヶ所に宅地が造成されていったんだ。
おかげで新しい人が住んでくれて人口は減っていないんだ。


在所の自慢


良川の白比古神社は郷土史の大学教授からも評価されるほど
規模も材質も立派なものだよ。丸柱で総欅造りなんだ。
昭和10年から15年間かけて改新築したんだけど、
こんな立派な神社を建立した在所の先輩方の心意気は受け継いでいかないとね。

獅子舞は春と秋、年2回出しているよ。
地頭、北、沖の3地区が1年毎に輪番で取り仕切るんだけど、
在所が広く延長8キロ、辻祭りだけで22箇所あり御招待は受けないのが伝統なんだ。
今年の盆踊りには450人程集まってくれたけど、
古い人も新しい人も仲良く暮らしている在所だと思うね。
在所の気質として封建的な縛りが弱いと言うか、
都会的な感覚でしがらみが無いので若い人が棲みやすいんだと思うね。
そんな人たちが在所のボランティア活動に積極的に
出てくれるし本当に有難いと思っているんだ。

気にかかっていることは未整備の田んぼがあるけど、
耕作している人は高齢者が多いので、
次世代の担い手のためにも手を打っておきたいんだけどね。


まぁの一言


百聞は一見にしかずとはこのことです。
4月と10月の第3土曜日がお祭りです。
一見の価値あります。


はい!社長です-中谷カイロプラクティック院


中谷カイロプラクティック院 中谷 実 (なかたに みのる)さん 66才 AB型

高校時代、陸上の練習中に怪我をし、治療を受けるのですが、痛みの原因が色々有るということに興味を持ち、その時人体の仕組みを勉強しました。

大人になって腰を痛め整体院での治療がキッカケとなり本格的にカイロプラクティックに取組みます。カイロはアメリカ生まれの西洋医学でアメリカでは様々な医療現場で取り入れられています。

痛みの悩みは深刻です。出来るだけその場で痛みが取れるよう考え施術します。地元で17年経ちましたが、一人でも多くの人を楽にさせてあげたいと思っています。

住 所:七尾市田鶴浜町ハ-3-2
お電話:0767-68-6203


能登島ジュニアソフトテニスクラブ


小学校3年生以上の男女28名が練習に励んでいます。
①約束を守ろう ②感謝しよう ③全力をつくそう ④挑戦しよう
⑤仲間を信じよう ⑥思いやりを持とう ⑦たのしもう! をモットーに活動
しています。全国の大会に出場する選手もいて、皆仲良く頑張っています!
部員募集しています。平山コーチ090-6278-3647


スギヨファーム直売店

髙橋 綾花 (たかはし あやか)さん

19才 B型

単純にアイスクリームがまけるの!?と、昔夢見たアイスクリーム屋さんをイメージして、ちょっと憧れを抱いたのがきっかけです。

まだまだ未熟者ですが、お店に来て下さるお客様が心地良く過ごせる、そんなおもてなしができるよう頑張っています。

夢は沢山あります(笑)が、今は1日でも早く1人前になって、お世話になった人たちに少しずつ恩返しをしていけたらなと思います。



住 所:七尾市府中町員外27-1

お電話:0767-54-0007


第70回 私の仕事は「酪農家」です


敷かれたレールに乗ってみたら・・


私の仕事は「酪農家」です
福井 和幸(ふくいかずゆき)さん46歳
仕事歴25年

酪農家の仕事とは

私の場合は、
自然環境に恵まれた故郷能登の大地に良質な牧草を育て、

おいしい牛乳を作るため
ホルスタイン種の乳牛を種付けから出産、飼育、搾乳までの工程を
個人規模の農場としてシステム化
できるよう日々の業務を通じて研究開発しています。

牛に引かれた人生

物心ついたときにはすでに牛との生活でした。

祖父と父が
戦後の食糧難の時代に酪農を始めようと
開拓地であるここ鹿島台に入植しました。

当時は
何軒か酪農をしていましたが今は私の家だけです。

小学生から手伝いをさせられましたが、
なんて大変な仕事だなぁ
と思い声を掛けられるのが嫌でしょうがなかったけど、
祖父が厳しかったのです。

小学生でトラックを、
中学生ではトラクターを運転していました。
もちろん牧場内ですよ。(笑)

高校進学の時、
酪農するなら北海道へ行けと祖父の一言。

祖父の敷いたレールの上を
牛に引かれて行ったようなものです。

酪農学園大学付属高校とその短大で近代的な酪農を学びました。

日々勉強

卒業後
実家に戻り酪農家としてスタートしますが、
北海道で学んだ技術と父の技術のギャップにショックを受けます。

牛に餌を与え乳を搾るという行為は同じですが、
生産や品質の管理がまるで違いました。
それで一つ一つ改善改革を始めますが、父は口出しせず任せてくれました。

実践の中で経験を積み努力をしていても様々な問題が生じます。

日々の仕事に追われ学びが及ばない時は、
獣医師や関係機関の職員から教えてもらい解決の糸口を探します。

また農業青年のグループや地元の酪農家との交流を通じて
情報交換をする中で自分の考える酪農経営を目指しています。



将来の夢

福井牧場では
乳牛27頭、子牛16頭飼育しています。

品質の良い乳をより多く絞るためには牛の健康が重要です。

個性を知って弱い所を改善するため血統を選び人工授精させます。
分娩も状態を確認しながら立会い、難産で引っ張り出すこともあります。

子供を産んで初めて乳牛となり、
4、5回出産すると乳量がピークとなり1日40キロ~50キロを絞ります。

朝夕2回搾乳しその前後に餌を与えますが、
牛は4つの胃袋があり数え切れない微生物や原虫が棲んでいます。

あんな大きな体を草で維持できるのもそれらと共生しているからです。
そんな原虫の働きも考えて何種類もの餌を配合します。

将来的には
牛が自由に歩きまわれるフリーストールという形態の牛舎に出来ないか、
また通りすがりの観光客が車を止めて牛を見ていますが、
そんな人たちに何か別のサービスが
提供できないのかと色々と想いは巡ります。

子供の頃
嫌でしょうがなかった酪農でしたが、
今思えばあの手伝いこそが酪農家としての
魂が植え付けられた原点だと思います。

導いてくれた祖父に感謝し、
能登でも酪農家が存続できるように爪痕の一つも残しておきたいと思います。



鹿島台 ㈲福井牧場  ☎0767-66-1245
2016年取材