こみみかわら版バックナンバー
私の仕事は“ネイリスト”です♪
ネイリストの仕事とは
手足の爪のアートはもちろん、美しく見せるためのケアや傷んでしまった爪の補修、折れにくくするための保護などもしています。施術にこられた皆様が最高のひとときを過ごせるように心がけています。
きっかけ
子どもの頃から絵を描くことが好きで、中学生の頃に見た雑誌にネイルが紹介されていました。それを見て「ネイリストってステキ!」と思い、将来の仕事として『ネイリスト』を意識し始めました。
道のり
最初は別の仕事をしていましたが、諦めきれずいたところ、偶然あるネイリストさんから「試験を受けてみたら?」と言われ、3級の試験を独学で受け、合格!
それをきっかけに本格的に専門学校に通い2級・1級と合格! 初めは友人にモデルになってもらい、練習を重ねました。また、サロン開業を目指し、数多くのデザインを作りました。苦労の連続でも大好きな仕事をしてるんだ! という充実感があり、試行錯誤を繰り返しながら結婚を機に開業することが出来ました。
最初の仕事
友人の紹介でお越し頂きました。 一対一の空間で施術はすごく緊張しましたが、終始 笑顔で会話も弾み、施術を終えたときには「ありがとう、これで明日から仕事頑張れるわ」とうれしい
お言葉をいただき、この仕事を初めてよかった!と心から思える瞬間でした。
仕事の大変さ
キレイで優雅な仕事に見えますが、細かい作業なので、目の疲れ・肩こり・腰痛など絶えません。また、お客様に日時を合わせるので、家族の理解と協力があってこそ続けられます。
仕事の喜び
「ここに来るとゆっくりできるわ」「ホッと安らげる時間をありがとう」「女子力UPする!」など、喜びや、ねぎらいのお言葉を頂く度、やりがいを感じます。また、施術だけでなく、同じ子育てをする母親として悩みや喜びを共感することも出来ます。今では口コミで新規のお客様からもお問い合わせを頂くこともあり、とてもありがたく思っております。
現在そして未来
今はネイル、ウェディングに人気のあるボディジュエリーを主に、グル―ネンドを使ったアートの講師としても講習会を開催させていただいています。お店のコンセプトでもある『上品かつ洗練されたアート』を提案し、癒しの空間・贅沢なひとときを過ごせるサロンとして、将来はネイルスクールを併設した店舗を構えることが私の目標です。これからもお客様にわくわくと感動を体感していただけるよう、頑張っていきたいと思います!
住所:中能登町徳前
電話:080-6354-9590
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第48回 七尾市鵜浦町
町名の由来
鎌倉時代の文献ではこの在所は東湯浦村とあってね。鵜浦という文字が出てくるのは、前田利家が気多大社の鵜祭の神事に奉仕するよう鵜浦ノ衛門に命じた古文書でね。1635年の古文書で、初めて鵜浦村と出てくるね。 まぁ、鵜祭りに関与したことで、鵜浦となったのではないかと思うね。
町の昔と今
昔は半農半漁で、お互い助け合って生活していてね。昔も今も、人情豊かな在所なんよ。時代と共に、学校や仕事も都会に出るようになり、過疎化が進んだね。在所にある北星小学校も来年は併合され、子供の声が聞こえなくなり、在所の活気が失われるんじゃないかと心配だよ。統廃合が進んでいるが、個人的には子供が減っても、複式学級でも良いので出来るだけ学校を残す事が地域や将来の国土のためにも良いのではないかと思うけどね。最近は県外からの定住者が増えたね。遊 びに来た人たちがここの生活を気に入って、空家を別荘代わりにしている人もいるよ。鹿渡島の定置網にも県外から若い人が何人も来ているしね。
在所の自慢
いろいろあるけど、鵜浦海水浴場は遠浅で一度も事故がないよ。監視員もいるから、安心して泳いでほしいね。 観音崎の灯台は大正2年に建設されてね、現在のは昭和60年に建て替えたものだけど、七尾湾の入口で船の安全を見守っとるよ。 また、鵜祭は有名だね。この祭りは、気多大社の神事でね、捕まえた鵜を鵜捕部が白装束に烏帽子姿で2泊3日かけて徒歩で運ぶんよ。鵜様道中と言って、国の重要無形民俗文化財にも指定されているよ。鵜の捕り方は秘伝でね。小西家で代々継承しているんだよ。
今後の取組
農家も60代~70代が多いんで、営農組合を設立し、圃場整備もしていきたいと思うとるよ。まぁ、なにより鵜浦に嫁いでくるお嫁さんが魅力を感じる在所にしないとね。
- Tags:
- 七尾市鵜浦町
モントレージャズ フェスティバル開演!
はい社長です!-(有)やまもと保険事務所-
七尾市役所 健康推進課
閨観音堂(石塔群)
七尾吹奏楽団
私の仕事は“保育士”です。
保育士の仕事とは
保育園に入園した0歳~小学校入学までの子供たちと、遊びや生活を通し、健康で安全な生活習慣、望ましい態度が身に付くよう、援助していく仕事です。児童福祉法に基づく国家資格で、いろいろな児童福祉施設でも保育士が働いています。
きっかけ
将来を考えたのは高校生の時でした。
5歳の時、親以上に面倒をみてくれた保育園の先生のことが忘れられず、私も保母さんになろうかなと思っていました。そんな折、偶然にも両親が保育事業をはじめ、専業主婦だった母が、入園した子どもや親のために一所懸命な姿を見て、心の中で保母になろうと思いました!
道のり
石川県立保育専門学園に進学しました。
学校では「保育とは・保母とは何ぞや」の保育理論やピアノにダンス、人形劇、水泳や登山の実習から多くを学びました。
最初の仕事
七尾のやまと保育園で、未満児(0歳 ~2歳)の担当です。保育はベテランの保育士から学びました。
また、当時では珍しい男性の園長先生で、若いからと言って甘やかすことなく、親に対しての責任、行事に対しての責任など男性的視点で指導していただきました。
大変なこと
保育士という仕事は母親と関わりが強く、男性からは理解されにくい仕事です。
「ねんねもりして給料貰えて、楽な仕事やな!」と言われたことは一度や二度ではありません。保育士の仕事は奥深く、命を預り、その大切な命と共に生活していると言っても過言ではありません。保護者との連絡は密にして保育しています。
仕事の喜び
今までに何千人という子どもを抱きしめてきました。寝返り、たっち、初めての言葉、最初の一歩、そんな瞬間に触れる事が出来、多くの感動を頂き、保護者と共に喜び分かち合ってきました。
そしていろいろな子どもたちが、ふれあいの中で親子が共に育ちあう姿が何よりの喜びです。
未来
保育園の保育士から、地域子育支援センター担当として15年が経ちます。
家庭で育児をしている女性は、初めての出産で「母親」となって育児への不安や孤立感で悩みを抱えています。力まず、ゆっくりと子どもと共に育てばいい。「私もそばにいて応援するよ」と、子育てをしながら「母親」になっていけるよう支援を続けたいと思います。
また、子育て施設の環境は大きい転換期を向かえようとしています。子どもも親も支援者も、全ての人が地域全体で子どもを育てられるように、ならなければと思っています。
住所:七尾市小丸山台1丁目82-83-84
電話:0767-52-3710
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- Tags:
- チャイルドケアハウス小丸山
- 保育士
第47回 七尾市下町
町の由来
その昔、下町にまだ人が住んでいなかったころ、ここに田畑を開墾して暮らせば食うに困ることはないと、隣在所の江曾町から移り住んできたらしいよ。江曾からすると下に出たので、下出と呼ばれていて、それが下村となり、現在の下町となったそうやよ。今でも80歳以上の人はみんな下村と言っとるよ。
町の歴史
江戸時代は八幡町と共に天領でね。在所には御陣屋と呼ばれる地区があって、徳川幕府の陣屋があった場所だと伝わっているよ。そこに徳川の葵のご紋の稲荷神社があったんだけど、管理が出来なくて、今は 徳田駅前の久志伊奈太伎比咩神社の横 に移設して管理をしてもらっとるんよ。
現在の下町
昔から農業が中心の在所やね。一時期は織物工場も沢山あったけどね。今ではお店が1軒もない在所なんよ。それでも人は増えてきているんよ。若い人も出て行かないし、新しい人も入ってきてね。小学生は30人以上、中学生も20人以上いるよ。生活に便利な場所ということもあるが、人情の厚い在所でね。新しい人を温かく迎え入れてくれる在所なんよ。
下町の特徴
町会長と生産組合長と役員は、選挙で決めとるよ。在所の30歳以上の男女全員が候補者としてリストが作られ、その中から誰が良いか全員で投票するんよ。選挙管理委員会も作ってね。選ばれたら断らないことが条件でね。二期四年間、70歳定年制だよ。 これは、在所の運営が硬直しないようにと30年くらい前から行われているよ。
町の自慢
世代間のコミュニケーションが非常に良くてね、人情の良さは抜群だよ。若い人にいろんなことを伝えながら協力もしてもらっていてね。夏の風祭りは舞台櫓を組んで在所みんなで踊るんだよ。
- Tags:
- 七尾市下町
袖ケ江地区子ども会 運動会に参加の皆様
七尾鹿島消防本部
赤浦潟
フォーラム七尾 久三郎篠笛教室
私の仕事は“一級防水施工技能士”です。
一級防水施工技能士の仕事とは
ビルの屋上や住宅のフラット屋根の防水施工をする仕事です。新築工事と雨漏りの修繕の工事があります。
きっかけ
高校生の時、姉の夫が勤めていた会社に、アルバイトで働き、『この仕事が面白い!』と感じ、興味を持ちました。そして、高校を卒業と同時に「働かせて下さい!」と社長にお願いをしました。
道のり
入社したものの、一人前になるまでが大変でした。いわゆる「職人」の世界ですから、先輩からは厳しい指導を受けました。理屈ではなく、見て覚えろ!の世界です。先輩の背中を見て必死に覚えました。仕事を通じて、技術の習得だけではなく、世間に恥ずかしくない人間となるよう生活面においても教えを受けました。
初めての監督
初めて大きな現場を任されたのが、中学校の改修工事でした。
会社から一人前として認められた嬉しさもありましたが、それ以上に責任とプレッシャーで無我夢中で取組みました。完成したときは、本当に「ホッ!」としましたし、やり遂げたことが、大きな自信となりました。
仕事の大変さ
私たちの仕事は天気商売です。
夏は3?以上の水分補給をしながら汗だくで作業しますし、冬は雪が積もっていれば、除雪してからの作業となります。それと何より大変なのは、天候に合わせて段取りが変わることです。
金曜・土曜日が雨で、日曜日が晴れなら、工事を遅らせることは出来ないので、休日返上となります。
家族との約束を何度破ったか数え切れません(笑) 妻と子どもに本当に感謝です。
こころがけ
私たちは毎日同じような屋上屋根での仕事ですが、マンネリや妥協は許されません。
それはお客様とは常に初対面であり、屋根であろうとひとつの商品として納めさせて頂くからです。工事が完了して帰る時に、家の人がいない場合はお礼の手紙を書いてポストに入れて帰ります。
幸せな人生
実は祭り男なんです。
今年のでか山では鍛冶町の若衆副頭を、祇園祭も昨年まで指揮者をしていました。
家庭があり、仕事を頑張れる。仕事があるから、祭りも楽しめます。
家族と職場と祭りの仲間、みんなのおかげで幸せです。
住所:七尾市大田町107-4-1
電話:0767-53-6757
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- Tags:
- 一級防水施工技能士
- 有限会社翔和ビルサービス
はい社長です!-七尾ホームサービス-
第46回 七尾市能登島鰀目町
町名の由来
鰀目は昔から漁業の盛んな在所でね。その魚場を荒らし、漁師を困らせるエイがいたそうで、在所の嶽神社の神様が、そのエイの目を矢で命中させ退治したところ、ますます漁業が栄えたとのこと。それで、エイの目、鰀目(えのめ)になったと伝えられとるよ。
昔と今
昔は鱈漁で栄えていたらしいね。在所の記録によると、明治時代にすでに鱈網組という漁業組合が設立されていて、8組の網元があり、全世帯がどこかの組に加入していてね。 それが大正時代に不漁が続き5組になり、 昭和12年の支那事変で、若い衆が兵隊に行き、3組になったそうや。今でも定置網の大敷や小網、刺し網など多くの人が漁業を営んどるよ。 新鮮な魚が獲れるので、民宿も7軒あり、民宿ブームの時は大変な賑わいだったね。 現在は、昭和57年に能登島大橋が開通してから若い人が七尾に勤めたり、住んだりするようになったため、昔からの戸数は変ってないんだが、人数は半分に減ってしまっとるよ。 しかし、ここ近年若い漁師が増えたことで、活気が出てきたね。 他にも取り組みとしては、岐阜県の中学校を修学旅行に誘致し、漁師と民宿の青年部が協力して、『釣り』や『魚のさばき方』を体験してもらったりして、浜にも在所にも活気が出てきて、嬉しく思っとるよ。
町の自慢
非常に結束力のある在所やね。恵比寿祭は漁師にとって大事な行事でね、嶽神社のえびす様を船に乗せて、太鼓を打ちながら魚場を周り、子どもたちは『えびす太鼓』や『獅子舞』を先輩から教えてもらう中で、絆を深め、在所の伝統を引き継いでいっとるよ。そんなところも自慢のひとつだね。
- Tags:
- 七尾市能登島鰀目町