こみみかわら版バックナンバー
七尾港 第二埠頭
私の仕事は”ラジオパーソナリティ・ラジオリポータ”です。
ラジオパーソナリティ・リポーターの仕事とは
ラジオの番組を進行したり、原稿を読んだり、外に出掛けてインタビューしたりします。その他、婚礼やイベントの司会もします。
きっかけ
幼少の頃から「ゴレンジャー」などのショーの司会をする『お姉さん』に憧れ、高校時代より、イベントプロダクションに所属。その際、フジテレビ全国公開オーディションにて北陸代表に選出されました。この時の審査員長が「秋元康」さん。直接アドバイスいただけたことから、この業界への決意が固まりました。
道のり
初めてのお仕事は北陸朝日放送の情報バラエティ番組レポーターでしたが、2年経過した頃に、体調を崩し、休業。復帰後、ラジオの釣り番組のレポーターを務めたことを皮切りに、ラジオななお など県内のラジオのパーソナリティ・リポーターをさせていただいています。
大変だったこと
もっとも苦労したのは『なまり』です。石川で生まれ育った私にとって、標準語のイントネーションは本当に難しく、今も苦労しています。(苦笑)
仕事のよろこび
体調を崩して入院したとき「ラジオ」にとても力を貰い、救われました。それが私とラジオの「運命の出逢い」でした。ラジオは、テレビと違い、話し手と聞き手の距離がとても近く、声だけの想像の世界だからこそ、心に響くメッセージがあると思いました。初心を忘れずに、心ある放送と届けることが目標であり、喜びです。
「ラジオを聞いて、元気になったよ」そういってもらえるのが一番の幸せです。
意外な世界
ラジオは想像の世界。声だけでイメージを作りますよね。私もリスナーさんにお会いするたびに…「想像とちがうーーーっ」とショックを受けられます。(がーーん…。)顔は、知らない方がいいかもしれませんね(笑)
人生の喜び
パーソナリティは一人では出来ません。縁の下の力持ちとなってくれる。スタッフがいてはじめて仕事が出来ます。
また、ラジオは聴いてくださる方がいてこそラジオです。そして 不規則な生活に協力してくれる家族や仲間の支え、そんなたくさんのコミュニケーションの中で成り立っているこの仕事を、とても愛おしく思っています。周りの皆さんへ心から感謝しています。
住所:七尾市 生駒町 2
電話:0767-53-7640
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- ラジオななお
- ラジオパーソナリティ・ラジオリポータ
第42回 七尾市若林町
町名の由来
畠山氏が七尾に入城する以前、この地域を治めていた若林三郎兵衛所領の名から付いたという話やよ。
町の歴史
信仰の篤い地区だと思われるよ。 私が子供の頃には、町の至るところに飛鳥時代以前の石でできた塔婆の板碑が、置かれていたね。現存する数は15個あり、そのうちの一つは北陸三県で最大のものなんやよ。現在は、13個が菊理姫神社に集められとるよ。 そんな土地柄か、石動山天平寺の栄えていた当時は、その末寺が三院もあったと言われとるよ。 また、奈良時代に隣在所にあった宿駅に使う馬を養っていた牧場が、うちの在所 にあったと伝えられていて、その名残から、通称荒牧という場所が今の下出地区の一部なんよ。他にも大門と呼んでいる場所があって、ここは七尾国分寺の南大門があった場所やという話やよ。今の国分寺跡からかなりの距離があるので、悠久の歴史を感じるね。 上出地区ではお茶の栽培が盛んで、近年までお茶畑があったんやわ。これは石動山山系の麓に位置するため、非常に水はけがよく、田んぼには適さんかったからお茶を植えたんやね。 現在両地区は、水理事情もよくなり、七尾南部の水田地帯として耕作放棄地もなく、緑豊かな地域として営農されていることを誇りに思うよ。
町の自慢!
毎年10月の第3土曜日に行われる秋祭りに、獅子舞を先導する道中踊りがあるけども、何とも言えぬ優雅なもんだよ。七尾にもこんな踊りがあることを知ってもらいたいし、ぜひ一度見に来てほしいね!
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- 七尾市若林町
春の風物詩 ちょんこ山
道の駅 織姫の里なかのと
シルバー人材センター 手芸「綾サークル」
私の仕事は“和食 料理人”です。
和食、料理人の仕事とは
私の場合、旬の食材を活かし、味、色、形、器が調和した料理をお客様に食べて頂き、五感で、ご満足を頂くことです。
きっかけ
幼少より、母の手ひとつで育てられました。小学校3年生の時、仕事から帰る母を喜ばせたくて夕飯を作り始めました。「おいしい」と母が喜んでくれることがとても嬉しかったことを覚えています。
京都へ
18歳で、京都平安神宮内の「六盛」という料理店へ修行に入りました。
掃除、皿洗い、使い走りが主な仕事でした。ここでの2年間が、料理の世界の始まりでした。
金沢へ
料亭「杉の井」で20歳から25歳まで修行させて頂きました。ここで本格的に日本料理の基本と技を学びました。
料理長は、全てに徹底した人でした。おかげで、食材へのこだわり、器の選び方、盛り付け方など、妥協を許さず、日本料理の奥深さと、料理人としての情熱を教えて頂きました。
七尾へ
ふるさと七尾へ戻り「秀よし」で29歳まで板前として働きます。まだまだ修行の身ですが、少し自信もついてきた頃で、自分なりの創作料理を考えるのに没頭した時期でもあります。
ここでは昼、夜と地元のお客様が多数お見えになり、料理を通して、非日常の少しの贅沢を味わい、笑顔で「ありがとう」「おいしかったよ」と言われることが、なにより励みになりました。
自分のお店
懐石「はなおか」では、お客様に十分に満足と納得のいくひと時を過ごして頂きたいと、創作料理に取組んで来ました。
この度、オープンした中能登町「道の駅」の関係者より、出店のお話を頂いたときは、随分悩みましたが、少しでも多くの人に、非日常の懐石料理を、日常で気軽に召し上がって頂きたいと思い、和食「おり姫」を開店致しました。
料理のこだわり
目で楽しみ、味で癒されるよう、どんな料理にも必ずひと手間かけます。
料理人の意外な食事
お客様のためなら、手間を惜しまないのですが、自分の食事は簡素なものです(笑)
わたしの人生
朝から晩まで、お客様をどう喜ばすか、料理の事ばかり考えています。
それが私の人生です!
住所:中能登町井田ぬ部10番地1
電話:0767-76-2777
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- おり姫
- 和食料理人
- 織姫の里なかのと内和食
- 道の駅
一般社団法人 セブンスポーツアクト
はい!社長です-共立商事株式会社-
第41回 七尾市満仁町
町の由来
高階村史の『うぶ砂土筆』によると、摩仁殿という宝物や数珠などが置かれる場所があったから…と言われているらしいね。摩仁が満仁に変わったのはなぜかわからないけど、ひらがなで『まに村』と言われていた時期もあったよ。
町の歴史
約500年ほど前に高階地区に勢力を張った、能登守護職で七尾城主畠山氏の家老として仕えた温井氏の舘跡があるよ。そんな頃に大きく拓けた町なんかな。
みどころいっぱいの町!
『舘山』は、小高い丘に温井舘跡碑や舘山観音が建立され、町が一望できるいいスポットやね。今の時期は桜が見えて鶯も鳴いて風情が感じられるね。子ども達のいいハイキングコースになるよ。 他にも石段が100もある八幡神社は、畠山氏の祈願所として使われていて、神の地として言い伝わっとるし、シンボル的な岩端の一本の木も神様が宿る木と言われていたね。満仁町には神秘的なスポットが点在しとるよ。
現在の町
東京オリンピックの頃から向都離村が顕著にあらわれて、どんどん人も少なくなってきた。都とまではいかなくても、中能登や羽咋に移住する若者も多いね。 現在の世帯数は45世帯で、人口は123人。65歳以上が半数を占めていて少し危機感も抱いとるね。 平成3年に集会所と一緒に作ったゲートボール場で、週3回活動して町全体の体力づくりをしとるよ。ゲートボールだけじゃなくて、グランドゴルフも出来るように整備されとって、そこが町の憩いの場になっとるね。高齢化だからこそ出来ることかね。満仁町は地理的にも恵まれとって、津波もなく平和に暮らせる町やよ。
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- 七尾市満仁町
万葉の里マラソン2014 七尾東部中学校陸上部のみんな
ヘアスタジオ H2
33㎏レール
フォーラム七尾 小原流 いけばな教室
私の仕事は “バレエダンサー 兼 教師” です。
バレエダンサー ・ 教師の仕事とは
クラシックバレエの公演に向けて、リハーサルをし、大勢の観客の前で踊ります。教師としては東京と七尾でスクールを開き、生徒さんに指導とバレエの楽しさを教えています。
きっかけ
姉が幼稚園の時にモダンバレエのチラシを貰い、習い始めました。その送迎について行くうちに私も習いたい!と、姉と2人で習いました。それが3歳でした。
道のり
トゥシューズや綺麗な衣装が着たい!と、クラシックバレエに転向。レッスンは金沢まで通い、小6から中3までは東京へ月1回通いました。先生には「バレエダンサーはピークが早い」と言われ、本当にやりたいことだったので、中学を卒業し、上京を決断! 朝からレッスン、夕方は定時制高校に通いました。
転機
高校1年の時に、日本バレエ協会主催の「国際バレエコンクール」でジュニアの部 第3位と、IBM賞と出光興産特別奨学金の3つを受賞し、オーストラリアに2年留学しました。怪我を何度も経験し、思うように踊れず、苦しんだことも沢山ありますが、本当にバレエが大好きで、それだけはブレることはなく、頑張ることが出来ました。今思えば若さは武器ですね(笑)
最初の仕事
20歳でした。新国立劇場バレエ創立時の、こけら落とし公演で「眠りの森の美女」にて「優しさの精」を踊りました。
森下洋子さんや熊川哲也さん、吉田都さんなど凄いバレエダンサーの方々との共演で、とっても嬉しかったことを覚えています(笑)
仕事の喜び
教えている子どもたちが、今日出来なかったことが次に出来るようになっている事と「バレエが大好き!」と言ってくれることがとても嬉しいです!
意外な世界
バレエは、ふわふわと綺麗なイメージがありますが、筋力や柔軟性、キープし続けるアスリート的な精神力を持っていないと続けられません。
人生の喜び
一人でも多くの子どもたちが私と同じようにバレエダンサーに憧れ、舞台に立ちたいと思ってもらえると嬉しいです。その手助けをずっと続けたいと思います。
そして、今ここに私が立っているのは家族の大きな支えがあったからです。本当に感謝の毎日です。
住所:七尾市府中町232番地
電話:0767-53-0469
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- Tags:
- クラシックバレエ
- バレエダンサー兼教師
- 大森結城
はい!社長です-(有)北陸ソフトサービス-
第40回 七尾市赤浦町
町の歴史
赤浦には縄文時代から人が住んでいたとされてるよ。赤浦潟がもたらす豊穣な土地と魚類を中心とした食材は生活の場として最適やったんやね。古墳時代には古代製塩の一大拠点とされていて、遺跡も多く残っとるよ。
町の昔
この地域に欠かせない赤裏潟は、昔海とつながっていて、海水と淡水の入り混じった汽水湖で、いろんな魚が取れたね。昭和30年頃に水門が出来て淡水湖化されて、昭和50年頃には完全に淡水湖になって、周辺の農業用水に使用されているよ。私の母が小学生の頃は、学校の帰りに潟の向こう側から家人を呼んで船で渡して貰っとったよ。家人が居らん時はぐるーっと回って帰らなイカンかったらしいよ。船がまだ交通の主流やったんやね。当時の祭りで「海上渡御」ってのがあってね。赤浦潟に船を出すんよ。新しい船2艙を組んで1つにして、神輿を乗せた神輿船と、お囃子の太鼓・鐘・笛の囃子船が赤浦潟を廻る。真紅の織旗がはためいて艶やかでね。大正末期には、七尾和倉間の汽車が、途中一時停止して見物するほどやったと聞いとるよ。
赤浦の現在
世帯数は68世帯で、人口は260人ほど。小学生は5人ほどおるね。昔からある町やけども、空き家はなくてね。程よい距離感で隣近所の連携がとれとる町やよ。家事のない町!というのが自慢やね。だからといって油断したらいかんと思っとるよ。赤浦潟があるけども、消防車がすべての場所から水が取れるわけじゃないからね。防災訓練なんかもしっかりと取り組まんとね。今後は中断されとる「海上渡御」を是非復活させたいと思っとる。赤浦潟を中心とした町づくりやね。四季折々に移り変わる赤浦潟の景色は本当に綺麗や。「赤浦は七尾のまほろば」やよ!(笑)
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- 七尾市赤浦町