こみみかわら版バックナンバー

第194回 七尾市小島町三丁目


在所名の由来

在所にある妙観院は大正時代の終わりごろまでは山門の前に波が打ち寄せていて、
山号は小嶋山、寺号は海岸寺という真言宗のお寺で、その観音堂に登ればここが海に浮かぶ
小島だったことが想像できるよ。妙観院のある小島、それが由来なんだよ。

昔の在所

『月ともに波の小島へ寄る船は数の宝を積む心地して』
詠み人知らずの歌が妙観院に残されているけど、昔は幸せや宝物、
立派な人が海から七尾へ入って来たんだろうね。
京都からの風流人が七尾へ来ると観音堂で月見や歌会を催したようだけど、
当時は階段が無くて岩を四つん這いになって登ったり降りたりしたと聞いているよ。

前田利家が配置した二十九の山の寺寺院群は現在十六ヶ寺になったけど、
そのうち三ヶ寺が三丁目にあるんだ。

御祓中学校の所に七尾高等女学校があって、ベイモールの所は七尾海員学校があったけど、
海員学校は全寮制でお腹が空いた生徒が妙観院に来て、手でおむすびを握る真似をして催促すると、
女中さんがおむすびを握ってあげていたそうだよ。
それが海員学校の伝統となって続いていたんだ(笑)。

海員学校の校歌は美空ひばりや北島三郎など多くの演歌歌手の歌を手掛けた星野哲郎の作詞だけど、
星野自身も官立清水高等商船学校を卒業して遠洋漁業の乗組員をしていたからだよ。

唐崎神社は小島町全体の神社で、山王神社との関係が深く青柏祭の
始まりはここでのお水取り神事から始まるんだ。
小島の祭は神輿を湊町まで船に乗せてそこから山王神社へ担いでいったんだよ。

若い衆は山王神社の世話方の家に分かれて宿泊し、山王さんの若い衆と遅くまで飲み明かし、
翌日潮の流れを見計らって小島に戻っていったそうだよ。
そんなことで小島は袖ヶ江と縁結びが多かったみたいだね。

現在の在所

子どもの頃は唐崎神社の境内にみんな集まって遊んでいたけど、
今はそんな光景は見られないし、御祓中学校も無くなって少し寂しくなったね。
それでもゆりかごから墓場まで全部揃っているくらい便利な町になったと思うよ。

西湊保育園の園児の声も聞こえ、ベイモールで買い物ができ、恵寿病院も能登病院も近いし、
山の寺あり、海も近く、交通の便も良く、新しい七尾警察署も町内会になるんだ。

御祓中学校の跡地を地元の意見も聞いてもらいながら有効に活用できたらと思っているんだよ。

まなかの一言

新旧の街並みが交錯し
歴史と文化が漂う小島三丁目


城山の九尺石


横幅が九尺(約2.7m)ある、城を鎮護する要石です。
その大きさにちなみ、この名がついています。

城内最大の石材による石垣をそなえた格式高い出入口で七尾城跡を代表する遺構の1つです。

畠山氏が守護の権力を誇示するために構築したのではないかと考えられています。


温故知新 第12回 布団屋


中川久雄さん(72歳)

人生の3分の1という長い時を、優しく包み込んで安らぎを与えてくれる。これほどお世話になっているのに、いつしか当たり前になって、感謝を忘れ、手入れも疎かにしがちな布団。

今は綿、羽毛、化繊、ウレタンなど様々な素材の布団があるが、昔は畳の上に着物を被って寝ていたという。 戦国時代から江戸時代にかけ綿が普及したことから掻巻(かいまき)布団などの夜着が誕生した。それでも綿(わた)は高級品で江戸時代に遊郭で綿布団が使われるようになった。

現代のように庶民が布団で眠られるようになったのは明治半ば以降のことだ。

今回は七尾初の製綿所としてスタートし創業100年を超える、布団製造販売ムーミンなかがわの中川久雄さんにお話を伺った。

中川製綿所

織田信長の頃、綿花から木綿が作られた。火縄銃の火縄や陣幕、旗指物など軍需品の材料として価値が高まり綿の木の栽培が全国に普及した。板の間に筵(むしろ)を敷いて藁(わら)布団で寝ていた時代が続くが、明治時代にインド綿が大量に輸入され庶民にも手が届くようになった。

それでも綿は本当に高級品で、綿屋が綿一貫売ると、一晩女郎屋で遊ぶことが出来たというから、今なら5万円から10万円くらいだろうか。そんな時流に乗って初代中川留松が高岡で修業の後、七尾今町で中川製綿所を興す。

当初は製綿した綿を大八車に積んで和倉温泉へ運んだ。当時は旅館の女中さんがその綿で布団を仕立てたという。布団の仕立ては和裁の延長であった。一貫(いっかん)3.75㎏から百匁(ひゃくもんめ)に製綿した綿が10枚出来る。敷布団1枚なら16枚やねとバラ売りしていた。

製綿とは俵にギュッと詰め込まれた原綿を仕入れ、綿の塊を弓の弦でピンピンとはじいてほぐす作業だった。 大正七年に電動機付製綿機を導入し、その後二代目、父健三はお店に布団を並べ中川ふとん専門店として小売を始める。そんな布団屋の娘として育った三女の悦子が東京の蒲団技術学院へ進み技術を習得し帰郷。24歳の時、国鉄職員の久雄と恋愛結婚。



綿の木


夢有眠なかがわ

健三が新しい工場を建てこれからという時に突然倒れる。この店を継がなければと29歳の久雄は国鉄を辞め布団の世界に入る。空手有段者で硬派な男が妻に布団の仕立て方を習うところからの三代目であった。

当時は七尾鹿島で15軒の布団屋があったという。冠婚葬祭が家で行われていた当時は親戚が集まり布団が何人前あるということが家の自慢だった。

お店を繁盛させようと張り切る久雄だが、ショックな出来事があった。母に連れられ花嫁道具の布団を買いに来た娘が、「私この店で買いたくない」と帰ってしまった。 間口3軒奥行7軒の布団を並べただけの店。花嫁は夢を感じなかったのだ。久雄は郊外に夢のある店舗を構える決意をし、ただ単に布団を売るのではなく、夢の有る眠りを提供しようと決めた。夢有眠、ムーミン中川の誕生だった。

久雄41歳、平成2年に今町から千野へ移転し夫婦で夜遅くまで働いた。ホームセンターなど、あちこちのお店が布団を売り出した時夫唱婦随の二人は布団のプロとして眠りを売るというコンセプトを立て、良いものにこだわり眠りに特化してきた。

平成23年に3月18日と9月3日、春と秋の睡眠の日が制定され、日本睡眠学会では良い眠りで免疫力を高め未病化を啓蒙している。資格取得などで睡眠のプロフェショナル化が進む中、布団の製造と販売を手掛ける数少ない専門店として、体圧分散を測定し体に合ったベッドや枕を手掛ける。
今、久雄が考案した健康布団は全国からも注文が相次ぎ、高い評価を受けている。



はい!社長です-星野マネジメント


星野マネジメント 星野 泰明(ほしの やすあき)さん 45才 O型

家族と暮らすこの七尾で長年営業をしていて、少しずつ活気が減っている事を実感します。

地元企業を元気にし地元のみんなが元気に働ける。そんなことを目指して、自身の新たな可能性に賭け4月に開業しました。

求人や雇用、販売・広告戦略のお手伝い、補助金を利用した新規事業への転換や助成金の活用など、経営者様の「いま何とかしたい !」に解決へのご提案をさせて頂きます。

住 所:七尾市国分町
お電話:090-8099-9658


2021年4月24日<378号>掲載 我が家のペット

ティニー (メス)5才

チワワ

寂しがり屋で甘えん坊のティーちゃん♪
我が家のアイドルです。

(中島町中島 中村さん)


そら (メス)8か月

スコティッシュフォールド

好奇心旺盛で、おうち探検大好きないたずらっ子です。

(万行町 田中さん)


チャイ (オス) 1才

ミックス犬

散歩とササミチップスが大好き!
好き過ぎて雨の日でも散歩に行きたがったり、
ササミチップスを見せるとクルクルと踊り出します。

(千野町 三崎さん)


マロ (メス) 2才

ダックスフント

ささみチップス愛好家です♪
お散歩はきらいです(笑)。

(能登島無関町 田中さん)


仁(じん) (オス) 1才8か月

トイプードル

何時もジジとババを明るくしてくれる相棒犬仁ちゃんです♪

(大津町 素波さん)


ゆめ (メス) 6才

三毛猫

いつも一緒に畑に出かけるのが好きです。

(藤橋町 杉本さん)


コロ (メス) 13才

柴犬ミックス

人間の言葉や感情がわかり、寄り添ったり、
愛想よくしたり、とても賢いです。
ヤキモチを妬く時もある、可愛いおばあちゃんです。

(野々市市 田村さん)


もちまる (オス) 11か月

マンチカン

かくれんぼが大好き!探さないでいると大きな鳴き声で呼びます。
さみしがり屋のツンデレくん。

(石崎町 野崎さん)


第193回 七尾市光陽台


在所名の由来

ここは区画整理事業で出来た新しい町なんだよ。

昭和六十三年に光陽台と名付けられたんだけど、和倉と石崎の土地にまたがった場所だったので、
和倉町ひばりや石崎町香島のように和倉とも、石崎とも、冠をつけられなくて、すったもんだがあって、
それで市役所が光陽台を提案して皆が納得したという経緯があるんだ。

海抜九メートルの小高い場所で、太陽の光が燦燦と輝く台地というイメージじゃないかな。

昔の在所

区画整理した宅地に十六世帯が家を建て、住み始めた時はまだ町内会が設立されていなかったんだ。
だから七尾市広報も配布されず、市役所へ貰いに行くと郵送代を支払えば郵送すると言われ、
そうやって個人的に送ってもらう人もいたんだ。

和倉温泉の旅館から助成金を頂いて町会設立をしていくんだけど、当時の町会費も月に千円、
八百円、六百円の中から自分で払える金額を選んでもらったんだよ。

初代町会長に坂下さん、相談役に舟田さんに就いて頂いたけど、町会運営に必要な備品や道具など
町会長が自腹で用意してくれ本当に尽力されていたね。
二代目の林田さんは光陽台を知ってもらおうと市役所からソメイヨシノの苗木を四十本手配してもらい植えたんだ。
それが今、毎年見事な花を咲かせているよ。

当時は和倉小学校と石崎小学校、どっちの小学校へ入学するかが問題になってね。
結局、和倉と石崎の連合町会長の承諾印を貰えばどちらでも良いということになって、
それぞれの家庭の都合に合わせて入学できることになったんだ。
今は連合町会長のハンコが無くても自由に決められるけどね(笑)。

現在の在所

田舎の都会、不思議な空間だよ。

駅前から温泉街に通じる大きな道路が出来て、能登島大橋に通じる道路と交差して、
和倉温泉の入り口のような場所になってからはスーパーや飲食店が建ち並んで便利な所になり、
一歩入れば本当に静かな住宅街なんだ。

ここはほとんどが町外から移り住んだ人たちだけど、今でも近隣の町から若い世帯が移って来ているよ。
古い在所でないから、しきたりやしがらみが無く、それぞれが丁度よい距離感で暮らせていると思うね。
それでも五班体制で春秋の大掃除や防犯活動、雪すかしなどみんなで力を合わせる時は協力してやっているんだ。

コミュニケーションを大事にして、みんなが健康で幸せに暮らしていける町内でありたいと願っているんだよ。

まみの一言

歴代町会長の奉仕の精神が宿り、
「お蔭様」で結ばれる光陽台の在所。


寺島蔵人の碑 (てらしまくらんど)


農政や財政を担った有能な加賀藩士。

困窮する民を思い藩政批判をしたので流刑となり能登島八ヶ崎に送られました。
その半年後に病のため61歳で亡くなりました。

この碑は加賀藩御用達和菓子の森八が昭和11年に蔵人の住んだ址にと届けられました。


なかのと奏友会


2010年に管楽器愛好家が集まり誕生した、ユーフォニアム・テューバアンサンブルを主とする管楽アンサンブル団体です。
元々珍しい低音楽器だけで構成された歴史の浅いアンサンブル形態で、深い響きが特徴であり、魅力です。

春季に開催のコンサート、冬季に開催のコンテスト出場、各種イベントや慰問演奏で演奏しています。

5/16(日)七尾美術館アートホールにて演奏会開催♪

代表:荒川 裕介さん
副代表:酒井 真さん


石川印刷株式会社


石川印刷株式会社 安井 沙織(やすい さおり)さん 41歳 A型

自分の経験を活かせる事を探して、運良く現在のWEBディレクターという仕事に出会いました!
以前は創作活動をしていたので、その作品集を持ち込み、採用されました。

自社で行っているフリーペーパー「Fのさかな」の制作に関わり、
色々な事が学べ大きく成長できたと思います。

今はインターネットで出来る事が増えました。
お客様のプラスになる商品を紹介していきたいです。

住所:本府中町ヲ部8の2
お電話:53-2443


第192回 七尾市亀山町


在所名の由来

最初は味噌屋町だったんだ。昔この町に亀や門という大きな味噌屋があって、それで味噌屋町と呼ばれたんじゃないかな。

それと郵便局前の橋は亀橋と呼ばれているけど、それもその亀や門が由来だそうだよ。

郵便局から小丸山公園下の花嫁のれん館までの通りが現在の亀山町だから、町名変更が行われた時に、亀橋の亀、小丸山の山をとって亀山町になったんじゃないかと想像しているんだ。

昔の在所

昔のガタガタ道がセメント道になった頃は子供たちが石けりやケンケンパーをして通りには一日中子供たちの歓声が聞こえていたね。どの家も玄関前を掃除して水を撒き、ゴザやムシロを広げていたよ。

小丸山公園の下に郡役所や郡会議事堂、愛宕山には七尾鹿島の公会堂があったんだ。相撲場の所ではサーカスがテントを張っていたけど、すり鉢状にしたため公園下の駐車場の所に移り、そこから府中の波止場に移ったんだ。

七尾駅を降りた七尾中学校、七尾女学校、七尾商業学校の生徒は学校ごとに駅前で整列してから集団登校していたね。通りにはカランコロンと下駄の足音が響いていたよ。本当に人通りが多く、偉いさんも通るので洋服屋が四軒もあったよ。

戦時中、光徳寺に暁部隊が駐屯して小丸山公園に三つの防空壕を掘ったと聞いているよ。

現在の在所

ちょんこ山の車輪と車軸を新調したけど、去年今年と運行が中止になって残念だよ。

亀山町が本宮神社のちょんこ山に参加したのは百六十五年前の安政三年と記録があるんだ。他の五町に比べて遅くに参加しているんだけど、これは味噌屋町の一部が印鑰神社の氏子であったことや、公園下にあった味噌屋町の鎮守の住吉神社が本宮神社に合祀されたなどの経緯があってのことだと聞いたね。

曳山の人形は「髭じっこ」の住吉明神だけど、親世代の人たちは竹内宿祢(すくね)だったと言っているのでいつどんな理由で変わったのか不思議なんだよ。

明治二十八年と三十八年の二度の大火に見舞われてから火の用心が続いているよ。各家順番で拍子木をカンカンと叩いて夜八時過ぎから町内を回るんだ。コロナ禍で催しごとが出来ないけど早く安全に安心して出来るようになってほしいね。

まなかの一言

城下の小さな在所、
時代の変遷を感じる歴史あり。


鵬学園高校 ハンドメイドクッキング部


部員は普通科4人・調理科11人の15名で、毎週水・金と活動しています。

始めは軽い気持ちで入部した未経験者でも日々の積み重ねで実力がついていきます。 色々なお菓子を作る中で微妙な作り方や材料の違いを感じ取り、作り上げる事が出来るようになります。

簡単なクッキーから少し難しいものまで挑戦し腕を磨いています。

顧問:橋本夕子先生

部長:戸島銀次郎くん  副部長:竹中花菜さん


はい!社長です-パティスリーアメリ


パティスリーアメリ 藤井 幸治(ふじい こうじ)さん 48才 O型

石川県、特に能登には魅力ある食材が多くあり、ニッチな食材を手掛ける生産者もいます。パティスリーを開業するに至り迷うことなく能登・七尾での開業を決断しました。

能登を盛り上げている調理人との繋がりも大事にしていて、交流を通して新たな発見やアイディアを得て刺激になっています。

能登食材の魅力を全国・そして世界に発信できればと微力ながら精進していきます。

住 所:相生町30-2
お電話:53-0417


ほんわか


ほんわか 安井 望(やすい のぞみ)さん 41歳 A型

青森県から上京し劇団員として活動していた時、手に職をつけようと
英国式リフレクソロジーの養成学校に通い実技士資格を取得。
卒業後は大手のリラクゼーションサロンに勤務していました。

その後、夫の故郷である七尾に移住しました。
社長の「七尾にも癒しの場をつくりたい」という想いに賛同し就職しました。

身体と心が緊張と不安から放される場所になるよう施術しています。

住所:大手町5番地3 坂口ビル1F
お電話:090-8091-0557


いさざ漁 (中島町小牧)


3月~5月、いさざ漁は春の風物詩。

産卵で遡上するところを網で捕まえます。大きな川は四つ手網で漁をします。
半透明な小さな体に目がくっきりかわいいハゼ科で正式和名はシロウオです。

酢醤油で踊り食いや、卵とじ、揚げ物、お吸物などで食べます。


はい!社長ですー壁屋建設


壁屋建設 壁屋 俊輔(かべや しゅんすけ)さん  35才 A型

昭和46年に祖父が創業し、平成30年に父から代表を引継ぎました。 創業時は砕石や切込砂の製造販売が主な事業でしたが、現在は歴代先輩方の努力により中能登町を中心に土木工事・造園工事の施工事業を行なっています。

近年多発する自然災害から住民の生活を守る地域の担い手を自負しています。

日頃お世話になっている方々への感謝を忘れず、日々精進してまいります。

住 所:中能登町二宮ナ部4番地
お電話:76-1033


中能登町役場 生活環境課


中能登町役場 生活環境課   宮川武昌(みやかわ たけまさ)さん 28才 A型 

学生時代、岩手県で経験した東日本大震災、その時の消防団の活躍が瞼に残っています。

地元に就職して、鹿西分団に誘われ、迷わず入団しました。
訓練を通じて仲間との団結心や郷土愛を感じ、一人の人間としても成長できると実感しています。

最近は団員が減少傾向ですが、消防団が地域の人から期待され、
若者の憧れとなるよう伝統を受け継ぎ頑張っていきたいと思います。

住 所:中能登町能登部下91-23
お電話:72-3925


中能登中学校 弓道部


部員は1年生20人・2年生14人で、互いに教え合い切磋琢磨する仲の良いメンバーです。

弓道は厳しい礼儀作法から始まり、姿勢や動きに1mm単位で意識を配り、高い集中力が求められます。

難しいからこそ、的中(成功)した時は何とも言えない達成感があります。 全国大会で優勝!!を目標に、日々 心身の鍛錬をし続けています。

顧問:安部 達哉先生  コーチ:加賀 賢成さん

男子キャプテン:山本 蒼真くん
女子キャプテン:升 晴香さん


第191回 中能登町黒氏


在所名の由来

鹿島郡誌には小鳥のクロジが在所の流域に生息していたことが由来だと書かれているけど、鳥屋町史では平安時代ここは藤原頼長の所領地で一青荘園の一部に属していたが、保元の乱で後白河院の所領に変わり、更に石清水八幡宮宿院の寺領となった時に一青荘から分離され、この地の中心人物が九郎次という人だったことが由来だと書かれているよ。

戦国時代以降の古文書で「くろち村」が「黒地村」と変わり、いつしか「黒氏」に転化したんだろうね。

昔の在所

昔は木挽と大工が多く山仕事に石動山へ行って、越中へも大工仕事に沢山の人が行っていたようだね。それで氷見との縁組も多かったと聞いているよ。

昭和に入り酪農や養豚、養鶏が始まり、織物で栄えた時代もあったんだ。

黒氏は東西に長く鹿島バイパスと七尾線の間の集落を「在所」、西往来周辺を「深沢」(ふかそ)と呼んで二地区あるけど、ちょうどその中間に昭和四十三年から住宅団地の建設が始まり、現在七十七世帯の「黒氏新町」が出来て三地区となったんだ。それぞれに分館として町内会があり新町は平成十八年に地縁団体を設立して運営しているんだよ。

明治二十一年、お寺も含む十三世帯が焼失した大火事があり、在所の八幡神社で火事を絶対出さないと肝に銘じて毎年六月に火祭りを行っているんだ。

現在の在所

三地区が協力してやって来たけど、高齢化が進む中で今まで以上に結束して、次の世代に受け継いでいかないとね。

広い在所の絆は祭りが一番なんだ。黒氏には曳山が二基あって、一基はふるさと創修館に展示されているけど、祭りの心意気が強い在所だよ。今年、獅子頭と烏帽子、蚊帳、赤尾っぽを新調したけど、獅子舞は明治四十三年頃に氷見の吉岡村から習ったんだ。演目は六種あるけど大正十三年に獅子舞の奥義「獅子殺し」の指導を受けて現在の原点が出来上がったと伝えられているよ。

今、力を入れているのが防災組織の強化でね。いつ起きるか分からない災害に備えて、各地区に責任者を配置して実践さながらで各戸を回り人数確認して情報を本部に集める訓練をしたよ。移り行く時代に合わせてみんなで力を合わせていかないとね。

あきこの一言

古きを大切にし、新しきを活かす
懐深き黒氏の在所