こみみかわら版バックナンバー

はい!社長です-BERBARU


BERBARU 山崎 弘生(やまざき みつお)さん 29才

2月にオープンしました。店名バーバルの意味は(床屋)と(来る)を合わせた造語で、皆様にご来店頂きたいという願いも込めました。

業界のカリスマ中谷人志先生の最後の弟子として東京で8年間の厳しい修業を終え地元に戻りました。
特にカットとアイロンパーマの技術に自信があります。 お客様に満足して帰って頂けるように、培った技術とサービスに全力を注ぎ頑張っていきます。

住 所:七尾市和倉町ひばり3-48
お電話:0767-62-0320


殿様道


嘉永6年4月、加賀藩12代藩主の前田斎泰(なりやす)が能登の海防状況視察のために通った道で、中島町笠師から奥吉田間の1200mが現存し一部が石畳になっており、殿様道と呼ばれています。
この年ペリーの黒船が静岡県浦賀に現われています。


ななお・なかのとDMO

森田 優子(もりた ゆうこ)さん

O型

七尾市で働いていますが、縁あって出身の中能登町も含めた観光情報の広報担当になりました。
数年前、先輩に言われた言葉が忘れられません。 「10年後、20年後、若い住民や観光客がたくさんいる、ふる里のイメージができますか? 」と。

注目されるような話題を創り続けるのは簡単ではありませんが、新しいパンフレットは可愛いものができる予定なので楽しみにしていてください !



住 所:和倉町2部13番地1
お電話:0767-62-0900


第158回 七尾市小島町二丁目


在所名の由来

昔この辺りは海でね、山の寺の妙観院の観音堂が建っている小山が実は海に浮かぶ小島だったんだ。
地層がむき出しているからその地肌を見ると海の中にあったことがよくわかるよ。
そんな小島があったのでこの周辺が小島村と呼ばれたんだ。

昔の在所

小島村の発祥は七軒からだそうだよ。明治22年に津向、赤浦、松百、新保、祖浜と合併して西湊村となってから小島に人が増え続けて、何をするにしても他の在所とのバランスが取れないという地域事情で昭和25年に桜川の方から一丁目、二丁目、三丁目と分割したんだ。

山の寺寺院群も小島地内にあって、かつて29あったお寺も現在は一丁目に6つ、二丁目に7つ、三丁目に3つと16ヶ寺になっているよ。山の寺は約四百年前に前田利家が小丸山城を建てた時、いざと言う時の防御陣地となるよう配置されてどのお寺からも小丸山城が見え、城と寺をつなぐ秘密の道もあって、お姫様が寺に遊びに行くときは、そこを通っていたそうだよ。
平成16年にバイパス道路建設に伴い埋蔵文化財の調査をしたら木製の人や馬、刀や弓、舟の形の祭祀具が千点以上も出土し8世紀から12世紀頃に、ここで祓の儀式が行われていたことがわかったんだ。

現在の在所

一致団結して色んな行事を行って来た在所だけど、近年は休日の楽しみ方の変化などで、行事参加も減少気味だし近所付き合いも希薄になってきたように感じているんだ。高齢化も進み安全安心の確保もこれまでの対応では限界に近づいてきているので、高齢者にはどこへ行くにも自分の名前と年齢、連絡先を書いた紙を持っていてとお願いしているんだよ。

そんな中でも壮年会が毎年5月にプランターを全戸配布してベコニアの花を咲かせてもらい11月に撤収し、総会や運動会には全員の食事を女性会が手作りで用意してくれ、お祭りでは子ども会が樽神輿で町内を回るんだ。
そんなそれぞれの姿を見ると本当に有難いと思うし感謝しかないね。老いも若きも同じ地域で生きる者として夢と誇りを持ちこれからも全員野球でこの町を支えていければと願っているんだよ。

あきこの一言

千年前に御祓いの儀式を行い、
四百年前にお寺が並ぶ。
神仏のご縁深き在所、ゆえに栄えあり。


お食事処・民宿 美来里

山田 卓未(やまだ たくみ)さん

AB型

3代目として店を切盛りしています。鹿島バイパス開通を機に食事処としてオープンし、平成28年に二宮で営業していた民宿を併設しニューアルしました。

県外の方が宿泊されますので、食事を通じて能登の四季や文化を感じて貰える様に取組んでいます。
能登という美しい里に来て、能登の良さを知って驚いて下さいという意味を込めて、「美来里」(びっくり)なんですよ(笑)



住 所:中能登町久乃木ち24
お電話:0767-76-1888


第100回 私の仕事は『ジェラートマエストロ』です。


祖母の隠し味

仕事歴3年 堀川 宙さん 21歳

戸惑い

宙さんですね?とお客様にお声を掛けられることもあり戸惑っています(笑)。
昨年4月にお店がオープンしてまだ1年が経っていないのですが、多くのメディアに取材されなんだか恥ずかしいです。ジェラートマエストロとは日本ジェラート協会が正しい知識で安全で安心で美味しいジェラートを提供するための認定資格で平成22年からスタートした制度です。
現在102名が合格していますが私が日本最年少の合格だったことから注目が集まったようです。

きっかけ

小学校から帰ると祖母が毎日台所で料理をしていました。牛乳配達店は朝早いので午後4時には祖父の晩酌のおつまみを作っていたのです。私は祖母の横に立ち興味深く見ていました。煮干をお鍋に入れそれをまた出したり、甘味を出すのにお塩を使ったりと小学生の私には不思議なことがいっぱいあったのです。
祖母は料理の隠し味だよと教えてくれました。隠し味に興味を持った私は食べ物を作る仕事がしたいと思うようになり、作文に大きくなったらアイスクリーム屋さんになりたいと書きました。
高校は迷わず鵬学園の調理科に進み、卒業後は東京八王子の「ダルチアーノ」に就職しました。植木耕太社長はイタリアからジェラートを日本に初めて持ち込んだ人です。数多くのレシピを手がけレシピで味が分かるという凄い人です。2年間指導をして頂き本場イタリアにも出向いて昨年帰ってきました。



人気のトリプル

二人三脚

父は家で仕事の話をしなかったので、普通に牛乳屋さんの仕事をしているお父さんだと思っていました。今、父と一緒に仕事をするようになって改めてスゴイ人だと感じています。
ジェラートが美味しいのは、父たちが開発した能登ミルクがあるからこそなんです。能登ミルクは能登の酪農家6軒で搾られる牛乳です。現代は牛乳の生産性を高めるため牛一頭から35ℓ搾乳するのが一般的ですが、能登ミルクを作る牛は一頭から12ℓしか搾れません。非生産性ですが子牛が一日で飲む量がそれくらいだそうです。放牧主体で農薬を使ってない牧草で飼育した牛からなど9項目の基準を満たしたものが能登ミルクになります。能登ミルクが商品化できパティシエの辻口博啓さんに飲んで頂いた時に「やっぱ美味いわー」の一言が大きな励みになったそうです。

能登ミルクが完成してもすぐに売れたわけではありません。投資をして商品が完成しても売れなければ困ります。だから父も必死だったのだと思います。実は父がジェラートを作り卸していたのです。そんな姿を見てそれなら私が父に代わってジェラートを作ってあげたいと進路が決まりました。父は私の夢を叶えるために投資をしてお店を開いてくれました。今でも朝早くから牛乳配達をしてお店の開店から閉店まで手伝ってくれます。そんな姿から学ぶ事が沢山ありますが、まずは自分達が楽しんで仕事をしなければならないということです。自分達が楽しむことでお客様が楽しめるお店になります。だから父も私も毎日いろんなアイデアを考えています。私は地元食材と祖母から教わった隠し味を使ったジェラートを試作し、父は店内にいろんな仕掛けを工夫しています。お客様が「わぁ~」とか「かわいぃー」と入って来ますが何よりの褒め言葉だと思っています。そして何より一番楽しんでいるのは父だと思います(笑)。常に前を向いて仕事をする父のことを最近はちょっと尊敬もしています(笑)。これからも驕ることなく頑張っていきたいです。



3月5日、幕張メッセでの全国大会に出場!

和倉町 能登ミルク
☎0767-62-2077


七尾東雲高校 登山部


登山を通して体力や精神力が身につき、自然に触れることで粘り強さや生活力もつきました。
今年度の成績は県総体で3位、北信越大会で入賞するも、インターハイには手が届きませんでした。
夏山合宿で長い登りが続く辛さを乗り越えたことや、普段できないテント生活で仲間と過ごしたことが、一番の思い出として残っています。(中村公亮)


はい!社長です‐民宿 能登島荘


民宿 能登島荘 谷口 和義(たにぐち かずよし)さん 60才

父は漁師兼農家で、母が民宿を始めて約50年余り、小さな頃から両親を手伝って来ました。
高校卒業後は他店で板前修業をし、民宿・農業・漁師を継ぎました。

新鮮でないと味わえない、魚の内臓なども使い、お客様が驚く漁師料理もお出ししています。
近年は中国・シンガポール等、海外のお客様も増え、料理を美味しそうに食べてくださる姿がとても嬉しく、日々の出会いに感謝しています。

住 所:能登島鰀目町32-66
お電話:0767-84-1331


シベリア鉄道のレール


七尾駅構内にある33kgのレール。
日露戦争に勝利した日本は、戦利品として明治31年に七尾港へ持ち帰り、
大正3年頃に七尾線全線に敷設されました。
その後取替えが進み、穴水輪島間最後の900mが昭和49年に撤去されました。


田鶴浜野鳥公園


渡り鳥が集まる七尾西湾。波静かな海に並ぶ水田、肥沃な土壌の干潟、里山里海を凝縮した公園です。
池や草木を施し野鳥が飛来しやすい環境を整え、まさに野鳥の楽園。
観察施設もあり気軽に観察できます。希少種の渡り鳥も飛来することで有名です。


はい!社長ですーワイン食堂 ぷかぷか亭


30年間金沢で暮らしていましたが、移住してきました。
金沢ではカフェ、レストラン、バーなどの飲食店と、主にワインを扱う酒販店の仕事をしていました。

日常的にワインと洋食を楽しんで頂こうと、料理もお店も手作り感を大事にしています。
里山里海と食材に恵まれた能登はとても理想的な場所と言えます。

二つのワイナリーを擁する能登に、ワイン文化が根付いてくれたら嬉しいですね。

住 所:七尾市中島町外イ14
お電話:090-9760-1982


第41回 「輝く!郷土の星」タッチラグビーの辻孝夫さん


目覚めたヒーロー

タッチラグビー日本代表に

なんと!46歳で現役の日本代表選手として頑張っている男が、ここ七尾にいることをご存知だろうか。辻孝夫さん、今年4月マレーシアで開催される、タッチラグビーワールドカップ40歳以上の部で日本代表に選ばれた。タッチラグビーとは「走る、パス、かわす、トライ」とラグビーと変わらないが、ひとつ大きく違うのがタックルがなく、タッチすることで攻守が入れ替わる6人制のスポーツだ。

実は辻さん、日本を代表する選手で、すでに4度目のW杯出場となる。2011年のスコットランド大会では35歳以上の部でMVPを獲得しているヒーローなのだ。そんな辻さんにワールドカップの意気込みを聞くと、「最初まったく歯が立たなかった強豪国のオーストラリアやニュージーランドとも近年は接戦となる試合が出来ているので、しびれる試合をしてベスト4入りを目指す」と力強く話してくれた。

ハンデを長所に

新保町に生まれた辻さんは、なぜか子どもの頃からボール遊びが大好きだったと言う。御祓中学では迷わず野球部へ。しかし体が小さく非力な辻さんはどれだけ努力してもレギュラーになれなかった。それでも高校ではサッカー部に入り、今度こそはと頑張るが現実は厳しかった。身長150cmの自分はスポーツに向いていないのか…。挫折した辻さんだったが、大学進学後「負けたままではいられない!」と今度はラグビー部に入部。体は小さくとも耐えられるようトレーニングで体を鍛えに鍛えぬいた。そしてスピード、俊敏さを武器に大活躍したのだった。
大相撲では郷土力士の炎鵬が小兵ながら大きな力士を相手に土俵で活躍しているが、まさしく辻さんはラグビーコートの隅から隅を走りまわっての活躍だった。


故郷に恩返し

大学卒業後、地元に帰り「フィットネスガレージななお」でスポーツインストラクターとして勤務。この時タックルのないタッチラグビーを知り、自分の体格が長所として活かされると直感。勤務の合間に一人自主トレを開始、関東で開かれる練習会に通いながら、ついに日本代表選手になった。

最初は自分のために始めたタッチラグビーだったが、今まで職場の仲間を始め様々な形で応援して頂いた地元七尾の皆さんに恩返しがしたい、と2年半前から子供向けのスクールを立ち上げた。タッチラグビーとの出会いが、スポーツ落ちこぼれだった自分に自信をつけてくれ人生を豊かにしてくれたと語る辻さん。そんな自分自身の体験をタッチラグビーを通じて、小さくても非力でも頑張って努力すれば誰にでもチャンスが巡ってくること、何事も最後まで諦めない精神力を養うことの大切さを伝え、七尾でタッチラグビーが普及することを目指している。

今回のワールドカップで頑張って、スクールの子供たちを感動させたいと今まで以上に気合いを入れてトレーニングを積み調整してきた辻さん。4月どんな結果報告を聞くことが出来るのか、七尾から世界を相手に戦う、小さくて大きな男がいることを誇りに思い、みんなで応援したい! 頑張って、辻さ~ん!!



第157回 七尾市藤野町


在所名の由来

町の旗も神輿の幕も藤の花で「の」の字が描かれているんだ。
昔は矢田郷村の在郷で青い藤の花があちこちに、たくさん咲いていたことから
在所の名前になったと言われているんだ。

昔の在所

東部中学校を建設するとき埋蔵文化財の発掘調査をしたら、遺跡が出て二千年前の供養塔を始め弥生時代の住居跡があったんだ。そんな古くから先人が暮らしていたんだね。

明治12年頃からナス栽培が始まり大正時代に藤野ナスという優良新品種が作られたほど園芸作物が盛んな在所だったんだ。私が子どもの頃も沢山の家がナスを作っていてキュウリやカボチャなどとリヤカーに載せて毎日市内の得意先へ売りに行っていたよ。そんな光景が昭和30年代まで続いていたと思うね。

耕地整理も早く昭和4年に完成し9割方の田んぼが200坪になっているよ。
昭和25年に農業試験場跡に二軒長屋の市営住宅26戸が建設され、平成3年に東部中学、平成11年11月11日にナッピーモールがオープンして一挙に市街化が進んだよ。
平成18年から159号線の拡幅工事で立ち退きが始まり、七尾唯一の4車線で中央分離帯のある立派な道路が出来たけど、これは住む人にとっては案外不便になってしまったんだよ。

現在の在所

少子高齢化の中で町内をいかに結束維持していくかが大きな課題だね。全世代を通じて在所が振れ合えるのは祭りだと思うんだ。
小さな在所の起爆剤になればと昨年10月に100年ぶりに神輿の修繕をしてピカピカの神輿で町内を回ったけど良かったよ。御招待の家では最後に七尾まだらの唄と踊りも子供たちで披露するんだ。

それと明治元年より藤野町で住んでいて亡くなった人の追善供養を毎年2月に若衆御講として執り行っているんだ。
現在までに487人の法名と命日、俗名を書いた掛け軸があり二幅目になっているよ。
神社の一音観音は一言観音とも呼ばれ、1回の願い事は叶えてくれると言われているので毎年受験シーズンにお参りにくる人がいるよ。但し2回は聞いてくれないんだ(笑)。近くに店が並び、中学生の声が聞こえ、住み良い町になったことに感謝して、次世代に藤野魂を繋いでいかんとね。

あきこの一言

先人を偲び、知恩報恩の心を繋ぐ、
藤の花、咲き乱れし在所、今も輝く。


JTB総合提携店 トラベル愛ランド

水口 亜由美(みずぐち あゆみ)さん

A型

地元の企業で働きたい!資格を活かしたいと思い10年が経ちました。
トラベル愛ランドグループ全店(七尾・珠洲・金沢)が昨年、甲信越・北陸エリアとして初めて、ハワイスペシャリスト検定上級を取得したスタッフが複数いる旅行会社に認定されました。

ハワイの事は私達にお任せ下さい。 お客様から楽しい旅の話を聞かせて頂く事が嬉しく、私の活力源になっています。 出会いに感謝!



住 所:七尾市小島町ハ68番地3
お電話:0767-53-7744


田鶴浜 フォークダンスサークル


現在仲間は30名。年齢を重ねてなお、人生をエンジョイする仲間、高島先生のもと、
今年も新たに取り入れた曲で踊りを楽しんでおります。

田鶴浜まつりには必ず全員で参加しています。
衣装なども有志メンバーで考え、デザイン、手作りするのも楽しみの一つです♪

元気で笑顔の輪が広がる瞬間を求めてこれからもステップを踏み続けます。 (山本)

先生:高島 富子さん

会長:岩本 成子さん


2019年2月23日<339号>掲載 我が家のペット


バニラ(メス)

我が家を守る番犬!
時には友達や姉妹に!
大事な大事な存在です

(小島町 小野さん)


マックス(オス)

もふもふがたまりません!
マックスの顔を見ている
だけで幸せ気分です

(穴水町 眞脇さん)


そら (オス)

我が家の三男坊です。
さみしがりやで、
わがままです。

(宮前 石塚さん)


ニャオ(オス)

家に来てから家具や
クロスが破壊されて
いきますが、家族全員
癒されています。

(矢田町 今井さん)


ひめ(メス)

水遊びが大好きな
変わった娘です(笑)
でもお風呂は苦手です。

(下町 大高さん)


ベロリン(メス)

人懐っこく、ボール
遊びが大好きです!

(矢田町 石橋さん)


ぴーこ(メス)

ペットボトルのキャップで上手に口や足を
使って一人サッカーしています。
今ではすっかり癒しの存在です。

(緑ヶ丘 堂谷内さん)


さんま(オス)

とっても
甘えん坊です。

(矢田町 太田さん)


にこ(メス)

店の看板娘で
地域のアイドルです!

(金丸 山崎さん)


まろん(オス)

お散歩だ~い好き!
ごはんだ~好き!です!

(中島 辻口さん)


くぅ(オス)

セラピー犬として我が家の
家族となり7年です。
今では大切な大切な家族です。

(中能登町 百海さん)


なな(メス)

笑顔いっぱい!
おとなしく
優しい子です。

(中能登町 百海さん)


第99回 私の仕事は『宮司』です。


あるがままを、あるがままに

仕事歴4年 清水景子さん 50歳

運命

泣いてお断りしましたが社務所に集まった役員は全員無言です。9月19日夜11時、静かに時が流れ、私が宮司を務めざる得ない空気が支配していきました。4年前、中島町熊甲大祭前夜のことです。兄が親戚である久麻加夫都阿良加志比古神社の宮司を務めていたのですが病気療養のため私に白羽の矢が立ったのです。私は禰宜(ねぎ)として参列するつもりではいたのですが、いきなりの大役に正直戸惑いました。

宮司の世界はほとんどが世襲制です。血筋と状況を鑑みると出来るとか出来ないでなく、逃げる事も避ける事も出来ない定めを感じ、あるがままを受け入れるしかないと諦めた瞬間、宮司としての覚悟が決まったのです。

人生は必然

私は兄一人、姉二人の末っ子で、能登部神社の娘として育ち七尾高校から国学院大学を卒業し会社勤めをしました。両親は二人の姉と同じように私にも平穏な幸せを望んでいましたが、私はお膳立てされた人生を歩むより、子どもの頃からの夢が諦め切れず獣医師を目指すことにしました。

この時、母は神主の資格をとることを条件に獣医への道を認めてくれました。何かあった時は兄を助けてやってほしいと言っていましたがまさか現実になるとは思いませんでした。父は女が神主にならんでもいいと大反対していました(笑)本当に人生はどう転ぶかわかりません。

小6の卒業アルバムに獣医になって動物をみまもりたいと書きました。「治したい」ではなく「看護りたい」です。その意味を今更ながら実感している自分がいます。今獣医師として毎日手術や治療をし、また最後を看取りますが、動物は亡くなる時必ずあいさつをしてくれます。

飼主は少しでも生きて欲しいと願うのですが、ペットとしての定めをあるがままを受け入れ最後まで飼主に寄り添い、心臓が止まるまで生き抜いて、自然体で寿命を全うしていくとき、私は「よく頑張ったね」と声をかけます。すると穏やかな目になり「ありがとう」と魂の声が聞こえます。あるがままの人生を受け止めていくということでは獣医も神職も通じるところがあります。

神に現世利益を願う人が多い昨今ですが、そうではなく今を生きる人々が、今のあるがままを感謝するのです。目に見えない存在に畏敬の念を抱き、手を合わせ、頭を下げ、恐れ多くもと、今のあるがままにご加護を願うのです。神職はその民の願いを神へ仲立ちするのです。

自然体で

平成13年に兄が宮司に就任したとき同時に私も禰宜に就任しました。平成26年に兄が他界し跡を継ぎますが経験が浅くとても不安でした。祭事の意味を理解しないまま形式的に祝詞を読んでいましたが当時はそれしか出来なかったのです。申し訳ないのと情けないので一杯でしたが、地元の皆さんに温かく見守って頂きなんとか務めてきました。



どぶろくで直会(なおらい)

どぶろくも母から受け継ぎ、祭事にて神と氏子に振舞うだけの分量を地元の新米で作っています。今、父や祖父の書き残した祝詞を読み返しそれぞれの神事に込められた意味の理解に努めています。歴史ある神社の宮司としてまだまだ造詣を深めなければなりませんが、獣医師としての勤めもありどちらも中途半端にならないよう臨んでいます。

やりたいことをやり、やらなければならないことをやる、そんな日々が続きますが何かに捉われることなく自然体で取組めるようになり幸せを感じています。氏子の皆さんと共に祭事を通じて今まで以上に親しみある神社にしていきたいと願っています。



厳かに参道を

中能登町 能登部神社 ☎0767‐72-2176