こみみかわら版バックナンバー

第93回 七尾市千野町


町名の由来


この地に棲む大蛇を退治した時、
その大蛇の血で野原が血の海になった。血の野原が転じて千野。
もう一つは、この地にアイヌが住んでいて、
日ごろ闘争に明け暮れしているので、血の雨が降ってきたと言う。
どちらも赤い血が関係しているけど、確かに赤土が多い在所なんだよ。
千野の竹の子がおいしいのはこの赤土のおかげなんだけどね。


千野の竹の子


在所の中心部は竹やぶの中に農家が点在しているって感じだよ。
在所の円山病院の先生が調べてくれたんだけど、
竹の子の孟宗竹は薩摩の島津藩に中国から伝わったのが最初らしいよ。
そこから全国に広がっていくんだけど、加賀藩では金沢の別所、
七尾の千野、氷見の宮田に根付いていくんだ。
赤土が竹の子に適していたんだろうけど、
どれだけの年月の中で産地として集約されていったものか歴史を感じるね。
昔は風呂敷に竹の子をいれて町まで売りに行っていたし、
私も子供の頃には作事町へ自転車で運ぶ準備の手伝いをしたもんだよ。


在所の歴史


この在所は分家したとき本家と違う姓を名乗った時代があったんだ。
私の家の前に大きな松があったけど、それで松下を名乗ったんだろうね。
本家は円山なんだけどね(笑)理由はよくわかっていないんだ。
それと大正初期に千野の大火があって在所が焼けたんだ。
竹がパーン、パーンと大きな音を出して焼ける音が鳥屋まで聞こえたと言うよ。

それと大昭寺と呼んでいる場所があるけど、
どうも国分尼寺ではないかと言われているよ。
確かにその前の田んぼを堂の前と呼んでいるし、
国分寺とも近いから尼寺があっても不思議でないと思うよ。


在所の取組


在所の広報誌を、昭和30年から発行しているけど、
61年間、毎月発行してきたことは凄いことだと思っているよ。
千野町公民館編集委員が毎月2回編集会議をして発行しているんだ。
行事案内や在所のことが幅広く書かれて読み応えがあるんだ。
高齢化進んでいる一方で団地もあって子供も多い在所なんだ。
小学校の合併による通学路や営農のことが今後の課題だね。


かなこの一言


在所を歩くと竹林が続く。
いい空気が流れている。出会った人は、
みんな笑顔。小さな筍、見つけた。


田鶴浜 学童野球クラブ


5月にコーチから監督となりました。子どもたちが野球を通して、人としてまっすぐに成長してほしい。野球をずっと好きでいてほしいと思っています。本クラブから育った千葉ロッテマリーンズの角中勝也選手のように、能登からスター選手が登場することを願って、子どもたちと野球を楽しんでいます。


はい!社長です-久保建築計画


久保建築計画 久保 勝康 (くぼ かつやす)さん 59才 B型

「お客様の、一生一代の買い物が、私たちの商品。真剣に誠意を以て建物づくりにあたること」
これは、私が新卒でお世話になった 社長の教えです。私はこの教えを今でも大切にしています。

当時社長は、私達社員を家族のように、優しく、厳しく育ててくれました。真面目に働くことの意味、恥をかくことの大切さ、自分の損得より世の中のことが先、人の道を外さないこと等々。

その頃、理解できていなかった社長の言葉が、PTAや自治会などの社会活動をしていくなかで、ようやく深く理解できるようになりました。

住 所:中能登町春木フ部甲64番地
お電話:0767-74-8553


希望の丘どうぶつ病院

片瀬 早智 (かたせ さち)さん

24さい A型

「動物と関わる仕事がしたい!」と思い、金沢の学校を卒業後、夢だった動物看護師になりました。

様々な理由で沢山の患者さんがこられます。大切な家族の一員である動物達の力になれるよう、まだまだ勉強し、動物達、飼い主様の手助けができる、優しい動物看護師を目指し、頑張ります。

私生活でもワンコとニャンコに癒されています!毎日が賑やかで楽しいです♪



住 所:七尾市小池川原町

お電話:0767-57-5576


日像上人の像


小丸山城址公園に建つのは、日蓮上人の弟子で、能登に於ける日蓮宗の基礎を築かれた、鎌倉時代の僧、日像上人の像です。近くで拝見すると、とても大きく、威厳が感じられます。

約七百年経った現在も多くの方に敬われています。


温故知新 この人に聞く(第1回)能登よさこい祭り 田尻 正志さん


今年、第20回を迎えた能登よさこい祭り、和倉の街に県内外から64チーム、2000人が集まった。宿泊客も1200人を超え、地元七尾から17チームが参加し盛り上がりを見せた。よさこいは高知県が本場である。なぜ和倉によさこい祭り始まったのか、20年の節目、能登よさこい祭りを立ち上げた田尻虎蔵商店の田尻正志さんにお話を伺った。

和倉かいかい祭り

温泉街の賑わい創出として50年前に立ち上げたイベント祭である。30年間続いたが、神が宿る祭りではない。住民の祭りなのか、観光の祭りなのか、常に議論があった。ちょうちん行列、和倉音頭、珠洲実高のブラスバンドなど。
オープンカーにミス丸亀を乗せて町内を回った時、沿道は100人にも満たなかった。

これではと当時和倉温泉観光協会の小田禎彦会長から「もっと盛り上がる祭りにしてほしい」と指示が出た。田尻さんは全国の祭り、イベントを調べた。これは面白いと直感したのが、高知のよさこい祭りだった。高知市が不景気を吹き飛ばし、市民を元気づけようと、1954年にお座敷の「よさこい踊り」を街踊りに改良したのが始まりだという。
そして踊り子派遣や指導など「よさこい出前事業」を始めていた。「よさこい」が全国的に広がる兆しが出始めた頃である。高知市の支援を得るため、出前事業の申請書を作成し高知まで出向くと担当者が驚いた。
全国から多くの申請があるが、わざわざ出向いて来たのはあなたが初めてだ。田尻さんの熱意で和倉が採択された。
高知市は500万円の年間予算から100万円を支援した。それも2年間続けてだ。本場高知の支援があって、今があることを忘れてはならない。



能登yosakoiかいかい祭in和倉

テレビビデオを持って各種団体を回った。和倉音頭をアップテンポに編曲し、高知の踊りを見せて説明するが、なかなか理解が得られない。
まず参加チームを作る事に苦労した。加賀屋の小田社長が、「田尻、お前いったい何をやるつもりだ。若い連中がモタモタになっとるがい!」と言われるので、「今回だけ、とにかく参加してくれませんか」と頼み込んだ。市役所青年部も乗る気がない中「田尻心配するな、一本釣りで何とかするわい」と商工観光課長の向田さんが言ってくれた。
そして、のとしん、和倉商人連、和倉保育園、七尾剣道教室、御宿連、東町町内会、高知学生チーム、カンガルーキッズ、10チーム、400人が参加することになった。

高知から法被を借り、鳴子の持ち方、振り付けを指導してもらい、源泉前から小泉酒店まで地方(じかた)車を前進させ、踊りが終わるとバックで戻り、次のチームが踊った。わくわく広場もまだ土盛りのステージだった。こうして日本海側で初のよさこい祭りが開催された。

能登よさこい祭り



「よさこいは、決まり事は少なく、衣装、踊り方、選曲、自由度が高いことが魅力なんだ」と田尻さん。
暮らす人も観光客も楽しめる、そんな能登よさこい祭りを末永く続けるため、現在は連絡協議会が 作られ石崎町の赤坂会長を中心に多くのスタッフが面倒を見てくれている。
「でっかい祭りになった」と感慨深く海を見つめる田尻さん。街を興すとき、若者か、よそ者か、バカ者の力が必要だと言われるが、当時40代の田尻さんは若者でもない。和倉に生まれ育ち住んでいる。
ただ故郷を想う心が人一倍熱い、バカ者だったに違いない。
田尻さんのような筋金入りの「バカ者」が、今まで以上に必要な時代に入っている。



第92回 七尾市大手町


在所名の由来


江戸城も金沢城も、正面玄関口に通じる表門を大手門と呼び、
その周辺が大手町となっているところをみると、
このあたりが小丸山城の正面玄関口で大手門でもあったのかなぁ。
でも本当の所はよくわからないんだよ。


昔の大手町


大正14年に七尾駅が現在の場所に移ってから商店街が形成され始めたらしいよ。
井田屋食堂、古一金物店、さたみや旅館なども鍛治町から移ってきたんだ。
興能信用金庫の場所に神明神社があって、その向かいに印鑰神社があったんだ。
それが藤橋(所口)と府中に移っているんだ。

昭和30年代、高度成長時代に入って商店街は全盛期を迎え、
私が子供の頃は本当に賑わっていたよ。
初売りの1月3日、文化の日の11月3日など、ものすごい人出だったよ。
スーパーのあかとめ、パーラー、どんたくが通りに並び、
地価が1坪百万円もした時代だよ。
今は10万円でも買う人いないけどね(笑)

リボン通りの名物、七夕写生大会は今年で第48回になるけど、
昔は画用紙が800枚も出たというから驚くね。
近隣から本当に多くの子供達が集まって来たんだね。 
60店以上あった商店も、今は25店だよ。


これからを考える


人も車も通らなくなった大手町に野鳥が飛んで来て、
そのさえずりを聞いていると、大自然の循環というか、摂理を感じるんだよ。
人も家も店も、商店街も国家も栄枯衰勢、何か通じるものがあると思えるね。
小売からスーパーへ、そして専門店へ。街中から郊外へ、
今、少子高齢化の時代を向かえ、コンパクトシティーへと戻るのではないかと思うよ。
そんな端境期の時代はじたばたせず、時の流れに身を任せ、
競争ではなく共生を考えることだと思うんだ。

旅館をやっていて感じるけど、都会のお客様は、
柴垣の夏牡蠣でも、橋立や輪島のカニでもないんだよ。
能登の牡蠣を食べた、能登のカニを食べに来た、なんだよね。
能登には自然や風土、文化、宝物がいっぱいあるけど、
独り占めしようとすると、良い事でも、伸びしろが無くなるね。
みんなに分け与え、より大きな力に変えていくことの方が賢いよ。
大手町と桧物町、銀座通りが変わりばんこに民生委員を出しているけど、
商売も暮らしも助け合わないとね。


かなこの一言


祖父の時代、父の時代、身近な昔。
でも、知らないことがいっぱい。
どの時代もみんな一生懸命生きている。


はい!社長です-古一地下開発株式会社


古一地下開発株式会社 古一 力 (ふるいち ちから)さん 45才 O型


私の仕事は、地盤調査、地すべり対策、法面保護工事などの災害から地域を守るお仕事です。危険な箇所が多く、スタッフの安全、事故ゼロを維持するために常に冷静な判断が必要です。

自分で世界を知りたい!と中東、アフガンなどに行き、そこで、自分で考え、行動しなければ生き残れない。と常に冷静に判断していかなければと強く感じました。

私の判断で共に働く仲間たちを危険にさらすことはできないので、常に「これでもか!」というくらいに慎重に判断を行っています。


住 所:七尾市相生町40番地
お電話:0767-52-4467


西岸公民館 はつらつ教室


日常生活の中で閉じこもりがちにならないよう、地域での交流を図ります。同じ世代同志、趣味や生きがいづくり・体力づくり等の活動で ”生き生きと””はつらつと”暮らしていける日々を過ごしてほしいと活動を始めました。地区の皆様や民生福祉推進チームのご協力を頂いて、みなさんの元気な笑顔があふれる活動にしていきたい。それが願いです。


音楽療法専門士

勝木 恵子 (かつき けいこ)さん

33才 A型

大学の授業で、アメリカの音楽療法のDVDを見て、音楽が言葉に代わることができるということやいろいろな音楽の機能を知りました。

小さいころから触れてきた音楽とは異なる形に強い憧れと興味を持ち、この職業に就きました。まだまだ未熟ですが、人に寄り添うことができるような音作りをこころがけていきたいです。

楽しく介護予防・認知症予防や発達支援のお手伝いをさせていただきます!



住 所:七尾市万行町2-56-7

お電話:090-4061-0001


七尾豊年太鼓


食祭市場向かいに建つ七尾豊年太鼓の石碑です。
700年前、能登地方に大干ばつが続いた際、大きな櫓の上で、必死に太鼓を打ち鳴らしました。その願いが通じ、大粒の雨がもたらされました。

以来、雨乞い太鼓は豊年太鼓と呼ばれています。


第68回私の仕事は「大工」です

人の喜びを、我が喜びと感じる幸せ



私の仕事は「大工」です
西川 剛志(にしかわ つよし)さん32歳
仕事歴 8年

大工の仕事とは

私の場合は、
木造住宅の新築やリフォームのご依頼を受けてから、
どのようなライフスタイルを望んでいるかを聞かせて頂き、
予算の中で将来のことも踏まえ、最大限の利便性と品質を追求し提案します。

そして最後にお客様の笑顔を見る事が出来ることが大工の仕事だと思っています。

三代目の決意

「バカ野郎ー!」
「何、たるいことしとらんやっ!」
「やめてしまえ!」
毎日、ボロ雑巾のように、ぼろ糞に怒鳴られ続けました。本当に毎日が大変でした。

こんな親方、早く死んでくれんかなと思うほどでした。
二代目の親父のことです。

私は
羽咋工業高校を卒業して金沢の建設会社でビル建設に4年間従事した後、
能登島の実家に戻ります。

この時に腕の良い大工として身を立て、
七尾で一番、いや石川県で一番の大工になると強く決意しました。

父にどれだけ怒鳴られても自分の野望があったので頑張れました。

父は口で教えてくれません。
「これ見とれ」
と姿で教えてくれ、やらせてもらうのですが、失敗すると怒鳴るという教育でした。

初代の祖父は
山から木を出し、乾燥させ、皮を剥いで材木を削って、刻んでと全てを
自前で行っていました。

家の前に積まれた材木の周りで遊んでいた私には、
三代目としての血が流れ、理屈ではなく魂が勝手に突き進んでいったように思います。



一番の大工とは

親父に怒鳴られても泣きませんでしたが、初めて泣きました。
涙が止まりません。感動の涙です。

任された初めての現場を仕上げた時です。
お客様が笑顔で喜んでくれた瞬間、
自分自身が本当に嬉しくて半泣きになってしまいました。

現場の最前線で仕事をすることの素晴らしさを知りました。
この感動を味わえることが大工の醍醐味だと思います。

最初は野心的に一番になると思っていましたが、
今はお客様の期待以上の仕事をして、
お客様に喜んでもらえることの一番を目指しています。

仕事が趣味

少子高齢化の社会、住宅需要も減少しています。
将来を思うと不安で寝られないこともあります。

ハウスメーカーの下で専属大工としてやる道もありますが、
私はお客様の喜ばれる顔を直接見ること考え続けます。
お客様に喜んで頂かないと大工をやっている意味が無いと思うからです。

目先の利益を追うのではなく長い目で
「あそこに頼んだら良い仕事してくれるよ」
と言われ、
「西川というやつがおってなぁ・・」
とそんな証を生きている間に残しておきたいと思って、
朝早くから晩遅くまで精一杯仕事に向き合っています。

その分家族には迷惑をかけていると思っています。
ふと気がつけば、職人気質の親父と同じような道を歩んでいます。
怒鳴りながら育ててくれた親父の愛情を今は理解でき感謝しかありません。

妻は仕事が趣味のデカい子供がもう一人いると思っているようです。(笑)

今若い大工がいません。将来大工がいない七尾市になりかねないです。

感動を与え、感動を頂く大工という仕事も悪くないです。
大工の道に進む若者を待っています。
私が怒鳴らず親切に指導しますから大丈夫です。(笑)



能登島通町 西川総合建築  ☎0767‐85‐2752
2016年取材


はい!社長です-木内土地家屋調査士事務所


木内土地家屋調査士事務所 木内 良純 (きうち よしずみ)さん 43才 AB型


仕事を覚えて楽しくなってきた30歳頃に、このままではと思い、更なる自信をもつため資格に挑戦しました。合格までに5年かかりました。合格が目標でしたが、その先のことも考え、若いうちに苦労をと家族の反対もありながら、独立を決断。

お世話になった事務所で、色々とさせてもらっていたので、独立後も仕事をこなすことが出来ました。今振り返ると独立・開業してもう9年です。

今の自分があるのも、お世話になった方々や周りの方のおかげだと強く感じています。


住 所:七尾市国分町メ部12‐12
お電話:0767-58-3882


第91回 中能登町 花見月


在所名の由来


この優雅な地名は全国でここしかないんだよ。
室町時代の古文書では花見規と出ているよ。
奈良時代には治安警備のため諸国に軍団を置くんだけど、能登では隣在所の瀬戸に置かれたんだ。
花見月はその端に位置していることから、端で見張る要塞で端見塞(はなみずき)と呼ばれ、
それが由来だという説もあるよ。


昔の暮らし


中能登町は織物で栄えた地域だけど、明治時代に3軒の機場から始まっているんだ。
その1軒がこの在所でね、水車を動力とし織機12台で始めたらしいよ。
眉丈山系から流れる水が豊富なんだね。
またそんな時代に在所の青年が博打など悪遊びしないようにと、
在所で青年互学会という夜学を設立し時間割も作って毎晩勉強していたんだよ。
修身、国語、算術、地理など在所の大人が先生になって教えていたんだね。
その建物を建て替え、現在は花見月互学会館として集会所になっているよ。

昭和前半までは二男、三男の多くは大阪の縁者を頼って出て行ったんだ。
多くは銭湯か豆腐屋なんだけど、実はこの在所から大阪に出て銭湯で
成功した人がいて、それが大阪の銭湯の始まりなんだ。
テレビ番組の探偵ナイトスクープが大阪銭湯のルーツを探るため取材に来ていったよ。


現在の花見月


眉丈山系からの清流が30ha以上の田んぼに直接入るので良いお米が出来るんだね。
農事組合法人の能登花見月が一手に営農を請け負っているけど、
昨年の米‐1グランプリで全国280点の中から「みずほの輝き」が準グランプリに輝いたんだ。

それと海抜225mの眉丈が丘の展望台付近一帯を昭和42年からパイロット事業として
草地造成したんだけど、今そこで能登最大級規模の太陽光発電建設が進んでいるよ。

将来の事は分からんけど、金沢へも輪島へも1時間で行ける立地と、
花見月という地名と、里山で牧歌的な雰囲気と人情があるから、
何かを見出せればと思っているところだよ。


まぁの一言


眉丈ヶ丘で、小鳥の声を聞き、牧歌的な雰囲気の中、どこか落ち着きました。
互学会、曳山、獅子舞、団結力のある在所です。


VOX OF JOY CHOIR


金沢と七尾の2ヶ所に練習会場があり、イベント出演などでは両方のメンバーが集まって演奏をしています。クワイヤーとは合唱隊のこと。メッセージを込めて歌うことで聴いてくださる方が元気になってくれることが歌う力の源です。英語ができなくても、楽譜が読めなくても歌うことが好きならOK!一緒に楽しみましょう♪


はまおか保育園

前濱 和成 (まえはま かずなり)さん

27才 A型

小さい頃から保育士の両親の姿を見ていたので、自然に自分も保育士になりたいと思いました。

部屋に入った時、子ども達が足に飛びついてきて「かずなりしぇんしぇい~!」と名前を呼んでくれた時は、うれしいなぁ~♪と心が癒されます。

休日は海釣りを楽しんだり、趣味で紅茶を作ったりしています。保育はとても責任の大きい仕事ですが、その大変さの分だけ子どもの成長が嬉しくなります。おかげで趣味も充実し、楽しく過ごさせていただいています。



住 所:七尾市石崎町ヨ部37番地

お電話:0767-62-3233


第11回「輝け!郷土の星」 バトミントン中橋 奈智さん(中島中3年)播摩 朋奈さん(中島中2年)



石川県大会 優勝

今年1月、第16回全日本中学生バトミントン選手権大会の石川県選考会で優勝した中橋・播摩ペア。
石川県代表に選ばれ全国大会へ出場したが予選リーグ2勝1敗で決勝トーナメントへは進めなかった。
この二人、実は大会直前に組んだペアだった。中橋奈智さんは県内で
シングルのトップ選手である。優勝を狙って出場するも、まさかの敗退。しかしトップ選手の
奈智さんはダブルスでの再挑戦の権利を持っていた。それで峪(たに)監督が部でダブルスの実力者である播摩朋奈さんとペアを組ませリベンジさせたのだ。いきなりのペアで大丈夫なのか? 峪監督は「実力があれば相性など関係ない。
普通ダブルスはつなぐ子と打つ子がペアを組むが、二人はズドーンと力のある球を打ち、小手先の技術も巧みでつなぎも出来る。 中橋は意思が強く、状況判断が的確で、勝負強い。
播摩はラケットセンスが抜群で、体もあり左利き、センスの良い球が左から飛ぶので、
相手にすれば嫌なタイプとなる」 と話す。

文芸部だったバトミントンクラブ

奈智さんは小2から、朋奈さんは小1から、中島ジュニアバトミントンクラブ(中島JB)に通った。
10年前、中島JBを立ち上げた澤監督が指導した児童が中学に入学しバトミントンを始めることになる。
創部9年目の中島中学校バトミントンクラブは当初部活動として認められず、しかたなく文芸部としてスタートする。
練習場所が与えられず、バレー部やサッカー部が練習をしていない時に空いたスペースで練習をしていた。
そうした中で県大会に優勝し部活動に昇格した。 何事も結果を出せば周りが変わるのだ。


成長する二人

学校の部活のほか、週3日は中島JBで夜8時~9時半まで練習する。
面白そうと思って入ったジュニア。最初は羽を打たせてもらえず、基本練習ばかりでコートに入れなかった。
「先輩みたいにあのコートでやってみたい」
その姿に憧れて頑張れた。 今はそのコートで後輩の指導もしている。 小学生には友達のように教えて
いるという二人だが、部活の1年生に聞くと 「普段は優しいのですが、コートに立つとスイッチが入って
オーラが出るんです」 と答えた。次の目標は8月に石川県で開催される全国中学校バトミントン大会への出場だ。
この全国大会出場は北信越で2位以上に入ることが条件だ。 しかし今年は石川が開催地
なので、県で優勝すれば出場できるチャンスの年である。 取材の最後二人に峪監督のことを聞いた。
「練習より 生活態度に、より厳しいんです」 と話す。 部の目標も、「いじめをしない、不良にならない、無断
欠席をしない」である。 そして怒る時にちゃんと怒ってくれると言う。
信頼が厚い。 「この監督にして、この子たちあり」 十分に伝わってくる。
県選手団の一員として各地を遠征する二人、視野を広め、見聞を高める。 爽やかで、礼儀正しく、笑顔が可愛い。
そこに自信と風格が備わりつつある。 なんとも楽しみな二人である。