こみみかわら版バックナンバー

はい!社長です-能登かき 宮本水産


能登かき 宮本水産 宮本 哲也 (みやもと てつや)さん 52才 A型

殻付き生ガキの全国コンテストで「味で日本一」になったことが嬉しかったです。

20年前に地元市場への卸売りから産地直送に切替えたとき売上は下がりましたけど、良いものを直接届けたいとの思いが強く我慢しました。1つ1つ、手で持って確認して出荷します。

海水の塩分が濃い日本海の牡蠣は甘みとコクがあるので、東京のオイスターバーからも注文が入ります。

姿も味も一流の牡蠣を作り続け、能登牡蠣を世界ブランドにすることを目標に本気で頑張っています。

住 所:七尾市中島町外イの29番地
お電話:0767-66-0002


第66回私の仕事は「ちょうちんや」です


スッと抜け、神に添う明かり

私の仕事は「ちょうちんや」です
亀井 斉(かめいひとし)さん 71歳
仕事歴60年

提灯屋の仕事とは

私は、主に能登の祭りなど神仏に使われる提灯を作っています。
素材は各産地の職人さんにお願いして取り寄せ、木型に、竹ヒゴを巻き、
和紙を張り、絵付けをして、油を塗って仕上げます。

危機を救った門前の小僧

私には毎年、胃が痛くなる時期があります。
それは夏から秋にかけてのお祭りシーズンです。
この時期に修繕や新調の注文が重なりますが、伝統の提灯をすべて手作りで製作しますので、
時間が無くお祭りに間に合わせるため気を使うのです。

5年前、一番忙しい時期にその心労から胃痛で入院しました。
その時は私以上に家族が真っ青になったようです。
両親、家内、息子夫婦に小学生の孫まで家族総動員で毎日夜遅くまで頑張ってくれ、
なんとか迷惑をかけずに済みました。
会社勤めの息子が帰宅後、祖父母から助言指導を受けながら先頭に立ってくれたのです。
自宅が工房で生活の中に提灯作りしているため門前の小僧だったのでしょうね。
その時以外はあんまり手伝ってはくれませんが(笑)

伝統を繋ぐ使命感

私で三代目です。
明治に祖父が金沢で修業の後創業します。

戦争で両親は満州へ、私はそこで昭和20年3月に生まれます。
父が3年間のシベリア抑留となり、母が乳飲み子の私を抱え苦労の末、なんとか帰国しました。
その母が祖父から提灯の手ほどきを受けました。
父が帰国できた時にはすでに祖父が亡くなっており、母が父に提灯作りを繋いだのです。
私も門前の小僧よろしく、小学校から父の手伝いを始め、

会社勤めの傍ら毎日夜は提灯を作っていましたが、提灯一筋に打ち込んだのは20年前です。
提灯は加賀提灯のような「なで肩で寸胴」の女形が一般的です。

初代の祖父は能登の地で「肩が張った下すぼみ」提灯を創作しました。
これは祭りの道中を照らす高張りや玄関の軒に掲げた時、
家紋や文字が下からはっきりと見えるようにと工夫したのです。
また竹ヒゴで提灯の骨組みをしますが、この竹ヒゴを長い一本に繋いでらせん状に巻いた
骨組みも初代が考案しました。技術は難しくなりますが作業効率が良くなります。

現在、提灯屋は能登で私一人になりました。
街灯や懐中電灯が普及し提灯が日常必需品ではなくなったのです。
今を生きる提灯屋として、初代が築き上げた能登提灯、
亀井オリジナルを繋ぐことが私の使命だと思っています。



能登提灯の明かり

お客様は氷見市、かほく市から能登半島全域ですが、ある傾向が見られます。
海に面した在所の方々ほど提灯にかける眼差しが熱く真剣なのです。

これは大自然と対峙して命がけの仕事を生業とする土地柄のせいでしょうか。
目に見えぬ神仏に向き合う精神性の高さの表れかもしれません。
そんな男たちへ贈る能登提灯は風雪に耐える男形の強い提灯であり、

そこからスッと抜け出る光は神に寄り添い、在所の人々の足元にも放たれる
入魂の提灯でなければなりません。

私はそんな想いを形にするため、家族が寝静まった夜から仕事を始めます。
精神を統一し、厳選した素材に祈りを込め、静かに提灯と対座するのです。



中能登町高畠 亀井提灯店  ☎0767‐77‐1900
2016年取材


歌謡 小菊会


15年前に喉の手術を行い、担当医からカラオケを薦めて頂いたのがきっかけです。大きな声で発声することで、「ストレス」「風邪予防」「認知症予防」にもなります。日々の忙しい中でのひと時の憩いの場となっています。メンバー皆さん、歌が好きで、ご縁を大切にする仲間です♪歌を通じて、幸せな時間を過ごしています。


第87回 七尾市馬出町


町名の由来


裁判所の場所が小丸山城の馬場だったんだ。
出陣の時ここに馬を並べて出発するんだ。
それでそこを馬出と呼ぶようになったんだね。
昭和25年9月の町名変更で正式に馬出町となったんだが、
それまでは藤橋町所口で馬出はその中の字名だったんだよ。


昔の生活


小丸山城址公園や裁判所、光徳寺などがあり面積が大きい町なんだ。
七尾が所口と呼ばれた時代に市内に入る玄関口のひとつでね、
当時はいろんなお店が並んでいたと聞いているよ。私が子供の頃でも多かったよ。
米屋、魚屋、八百屋に酒屋。医者に歯医者に弁護士、税理士、建築士。
不動産、測量、調査士、司法書士。家具屋にクリーニング、床屋にエステに美容室。
目立屋、ペンキ屋、自転車屋。呉服に貸衣装、パン屋に菓子屋に小料理、スナック。
お寺に教会、幼稚園。ガソリンスタンドに工務店などなど。
国勢調査では商店街でもないのに多くの職種が集まり、全国的にも特徴のある町だと言われたよ。

小丸山公園でカブト虫を採って、裁判所の大きな瓦屋根に上ったり、
縁の下にもぐって遊んで、御祓川でうなぎを釣って、なまずを捕まえ、
奉燈も小学生、中学生、大人用と3台、獅子舞もあったんだ。
そんな活気のある時代だったけど、今は奉燈が1台になってしまったことが全てを物語っているよ。


今を生きる


人口減少、少子高齢化の問題が深刻化してくるけど本当に難しいね。
それぞれの地域が助け合い、支え合っていくコミニティーにしていかないと、
自分さえ良ければという考えは、結局は自分も苦しむ事になってしまうだろうね。

物より心を大切にして、共生、循環型の新しい価値の社会を創っていく必要があると思うよ。
町会としては、まず公民館活動を含めていろんな行事に参加してもらいたいね。
顔を見て言葉を交わすと付合いが深まり、行動を共にすることで絆が生まれるからね。
最近嬉しいこともあってね、裁判所横の拘置所と官舎が新しくなって7世帯増えたんだよ。

それと馬出町に花嫁のれん館と寄合い処みそぎが4月9日にオープンするんだ。
観光客も来るだろうし明るい話題だね。
寄合い処みそぎは馬出町会の拠点だった徳沢荘を新しくしたものだけど、
心機一転ここを拠点に、もうひと踏ん張りしてバトンを渡していくつもりだよ(笑)


かなこの一言


小丸山城下の興味深いお話がいっぱいです。
移ろっていく暮らしぶり、人生はあっという間。


北陸銀行七尾支店

柚木 心大 (ゆのき しんた)さん

25才 B型

内灘町出身です。大学で経済学を学び金融に興味を持ち、高校、大学とサッカー部に所属し地域活動に参加したことなどから、両方を活かせる職業が銀行だと思い北陸銀行に入行しました。

札幌から七尾へ転勤して1年経ちました。
多くの経営者の方から聞かせて頂くお話はとても勉強になり毎日が充実しています。将来、地域で頼りにされる銀行員を目指して頑張ります。

和倉のサッカー場で週に二回フットサルの練習をしています。



住 所:七尾市一本杉町118

お電話:0676-53-2200


室木助左衛門君之碑


(旧)西岸小学校の横、海辺に建つ石碑は、室木助左衛門さんを称えた記念碑です。
海を埋め立て、田んぼを作ったそうです。

現在は明治の館となっている、室木家の当主であり、天領大庄屋で地元に数々の貢献をしました。


はい!園長です-はまおか保育園


はまおか保育園 前濱 享一 (まえはま きょういち)さん 62才 A型

前園長(父親)が地域の役に立ちたいと保育園事業を立ち上げ、その後を私が引き継ぎました。

「人はみな、支え合って生きている」という言葉を原点として保護者の就労支援と子育て支援を行っております。小学生の放課後児童クラブや、休日・延長保育など利用者の必要としていることに少しでも応えられるよう、地域の皆様と共に一丸となり頑張っております。

子どもの笑顔が見られる日々に感謝し、これからも大切な子どもたちと共に成長していきたいと思っております。

住 所:七尾市石崎町ヨ部37番地
お電話:0767-62-3233


第65回 私の仕事は「畳職人」です。

必然は偶然にあらず



私の仕事は「畳の床屋」です
奥島 時一(おくしまときかず)さん(77歳)
仕事歴 45年

畳床の仕事とは

畳は、藁(わら)と菰(こも)で畳床という土台を作り、
い草で出来た畳表(たたみおもて)と言うゴザを貼り、
布で畳の縁を縫い合わせて出来ています。
私は、畳床を専門に作っていますので、畳の床屋です。

平成の大修復

西本願寺では、平成十一年から十年間かけて御影堂の大修復がおこなわれました。
御影堂とは親鸞聖人のご影像を安置したお堂で、三八〇年前に再建された国宝の建造物です。
この大修復には、漆、金箔、漆喰、彩色、宮大工など日本の伝統技術の職人が集められました。
畳も七百枚以上あり、すべて三百年以上前に作られた畳床で、今回の修復は二百年ぶり
とのことでした。畳床そのものが文化財し指定されており、
その修復に関われたことは畳床専門の職人として思い出深い仕事になりました。

時代に翻弄され

私は二十代で藁縄(わらなわ)を編む仕事を始めたんです。
それで生活をしていたのですが、ビニールロープが出てきて藁縄が売れなくなりました。
このままでは生活が出来ないと心配で夜も眠れない程でした。

どうにかしなければと考え続けていたら、同じ藁を扱う仕事で畳床があると閃きました。
これならビニールにとって代わられることはないだろうと思い、珠洲の畳屋へ修業に入りました。
当時はどの家も畳の生活でしたので、町には多くの畳屋がありました。
そこで私は「畳床」専門の畳屋になろうと思ったんです。畳床は菰に藁を
何層にも挟んで縫い合わせていきます。

良質の藁はこの辺でも多くあったんですが、コンバインで稲刈りをするようになると
稲藁が刻まれ使えなくなりました。またしても時代の波に翻弄されます。

今は新潟や長野のコンバインが入らない、山奥の田んぼから藁を仕入れています。
藁不足の影響もあって最近は藁の替わりに発泡体を使った畳床も多くなりました。


白羽の矢

西本願寺御用達の京都の櫻田商店が、この畳床を修復できる工場を全国中探し
ご縁があって私にも声がかかりました。

普通の畳より厚く、枚数もあり、文化財で気も使うし、
普通の機械ではやりにくい、実際面倒な仕事です。
私が使っている機械ならなんとか対応できるのではと思いました。

この機械は二十年前に投資しましたがコンピュータで自動制御する当時から
今に至っても最新の機械です。
畳床を作るのには操作が難しく全国で数台しか売れず販売中止となり、
稼動しているのは東北に一台、ここ能登島に一台です。
ビニールロープとコンバインの出現で苦戦を強いられましたが、最新の機械を導入し、
難しい操作を諦めずに挑戦していたおかげで大仕事が出来ました。

世の中は常ならず、変化の連続です。
安心と安定を求め四苦八苦するのですが、
人生は思うようにならない事の方が多いものです。
それでも、一所懸命に頑張っていると、報われることもあるのではないでしょうか。
畳床の職人として誇りに思える仕事をさせて頂き本当に有難く思います。



能登島南 奥島製畳  ☎0767‐85‐2211
2016年取材


LAスタイルダンス教室


生徒たちはダンス未経験からのスタートで、日々上達していくのを目の当たりにすると嬉しくて、私のやりがいになっています。ダンスは何でも一緒ですが好きにならないと絶対に上手くなりません。珍しい音の取り方や、笑いや冗談も言いながら、みんなで楽しくダンスして頑張っています。見に来てね~♪


第86回 能登島 南町


在所の由来


南の田んぼは、隣の曲の地番が多いんだ。
昔、曲の人がその田んぼを作っていてね、隣と言っても山道を歩くか、
舟で回るか、大変だったんだよ。それで番人小屋を建て稲を見てたんだ。
それでこの当たりを稲見(いなみ)と呼んでいて、その人たちが定住し、「いなみ」が「みなみ」に転化して、いまの南になったという話だよ。在所のほとんどは曲門徒だし、きっとそうなんだろうね。


昔の生活


私の興祖父の新衛門が文化13年(江戸時代)に生まれ、
しんにょも浜と呼ばれる浜で塩を作っていたらしいけど、島は昔から製塩と漁業、
自給の農作物で暮らしていたんだ。私が子供の頃でも半農半漁だったね。

初めて賃金を稼ぐことができたのは、戦後在所で創業した川田組が護岸工事を始めた頃だよ。
私も若い頃に竹で編んだカゴにセメントを入れミキサーに放り込んだ経験があるよ。
それと藁で「にぐ縄」を編んでいたね。小指より細い縄なんだ。
土壁を作るときの竹を編んでいく縄でね、壁屋さんは「こうまい縄」と呼んでいたよ。

南は分校で小学校5年から半浦の本校へ通ったけど、4キロの山道を歩くか、
朝6時の定期船で閨まで行ってそこから2キロを歩くかだったよ。
遅くまで遊んで帰る時は細い山道を歩くけど、暗くて恐ろしかったよ。
そんな道沿いに「クロンボーシ」と呼んでいるお地蔵様があるんだ。
昼でも寂しい山道なので、在所の石材屋、川田幸次郎(当時39歳)が
昭和2年に村民のためにとお地蔵様を建てたんだ。
黒いお地蔵様でね、名前の由来かもしれんね。
そこが山奥から稲や薪を背負って来て一服する場所になったんだ。


今を生きる


小中高合わせても7人、限界集落の寸前だよ。
祭りも平成17年を最後に神輿、獅子舞は出してないよ。
田んぼも在所全体で14町部あるけど、
今は一人で10町部以上やらんと採算が合わんでね。
先祖代々の田んぼを荒かせないので作ってはいるけどね。

猪も爆発的に増えているよ。電気柵を作っているけど、裏庭の畑まで荒らしていくよ。
将来在所をどうして行くか妙案がないけど、
在所のオカザキ電機には若い女性も働きに来ているので昼は賑やかだし、
夕日は綺麗だし、奥島製畳は西本願寺の平成大修復で畳床を納めて名を上げたし、
嬉しいこともあるもんだよ。(笑)先を心配し過ぎてもしょうがない。


かなこの一言


今、頑張れることを頑張り、今を喜び、
今に感謝する。達観の境地、納得です。


中能登町つくし保育園

川原 千波 (かわはら ちなみ)さん

21才 B型

保育士となり、平成27年から”つくし保育園”の0歳児を担当しています。この一年、わからないことや戸惑うことがたくさんありましたが、先輩方に助けてもらったり子ども達の笑顔に癒されて楽しく過ごすことが出来ました。

子ども達が「せんしぇい」と言ってきてくれたり、歩けるようになったりと日々の成長を見守っていける保育士という仕事に素晴らしさを感じています。

子ども達が笑顔いっぱいで過ごせるよう、あたたかく愛情をもって関わっていきたいと思います。



住 所:中能登町水白19部1番地1

お電話:0767-77-8181


第9回「輝け!郷土の星」柔道の北野 那美さん (鳥屋小6年)


石川県大会で個人優勝

 昨年11月、金沢市で開催された第40回県少年柔道大会の女子個人戦で見事優勝した那美さん。
中能登柔道教室で練習に練習を重ね掴んだ栄光だ。
 
柔道を習い始めたのは5歳だった。
三人姉妹の末っ子で、姉二人が教室に通っていたので、遊び気分で付いていくうちに自然と始めていた。

練習は週3日、夕方6時から3時間、30分間のランニングと体操で十分に体をほぐしてから、
受身を徹底して練習し、寝技、立ち技と続く。
小学生以下の教室なので先生は怪我をしないよう特に気を配る。

目標を持つ

練習は辛いと思ったことはなく 「楽しい」 という那美さんだが、
小1で初めて出場した能登地区大会では1回戦で負けた。
 
「くやしい!」 
 
この時に勝ちたい気持ちが湧いたと言う。
次の大会では『1回戦には、とにかく勝つ!』それが目標となった。
それからは常に自分より強い相手と練習した。
目標を持って練習するので実力がついていく。

 全国小学生学年別大会では1年から5年まで石川県優勝を続け敵無しだった。
5年生から全国大会が開催され、各県の優勝者が集まるこの大会に石川県代表で出場した。
1回戦、僅差の判定負け。全国の壁は厚い。
 
『全国大会の1回戦にはとにかく勝つ!』
新たな目標が出来た。

 そして迎えた6年生、6月の県大会で無念の準優勝。
全国大会へ行けなかった。
柔道を始めて、初めて泣いた。

その時のことを姉に聞くと、悔し涙で泣いて、布団から出てこなかったという。
「一生懸命練習して負けたので、もっと練習するしかないと思いました」と那美さん。
生活を柔道中心のサイクルに合わせ、覚悟を決め練習に励んだ。
  

そして、夏に負けた相手に、冬に勝った。



中能登柔道教室

 実はこの大会で中能登柔道教室は団体戦でも優勝しているのだ。
団体戦は団結力の勝負だと監督。
そのため遠征や合宿を行う。
初めて親元を離れて寝泊りする子は自信となり、小さな子を世話する上級生は責任感が養われ、
チームがひとつになっていくという。 

 またそれぞれの、能力に合せた目標を一緒に決めていき、それに応じた指導をする。
正月の稽古始めに自分の目標を書初めし中能登の武道館に一年間掲げる。

それぞれに目標があるから辛い練習もみんなで頑張れるのだ。
目標を達成し喜びを体験することで次への励みになっていく。

 教室には厳しさだけでなく楽しさも用意されている。
スキーに行ったり、食事会を行ったり父兄会が協力する。
指導者、生徒、父兄、三位一体で教室を盛り上げているのだ。

監督は「柔道を通じて、社会人として通用する人間になってもらいたい」、
そのために指導するのだと言う。
そんな子供たちの頑張りが5人の指導者の励みとなる。

 監督に北野三姉妹について聞いた。
一番の努力家は長女、センスが良いのは二女だという。

そして三女の那美さんのことは、なぜか語らなかった。
その胸中はわからないが、その目からは、成長を楽しみに期待していることは確かだ。
 
 
 監督として、 そして父親として。



ふるさと紀行 のと里山海道


『のと里山海道』いい名前ですね。
これは平成25年3月に能登有料道路の無料化に伴い愛称を公募してつけられたそうです。

別所岳SA内の記念碑横には大きな展望台があり、七尾湾の景観が一望できます☆
私達のふるさとって本当に素敵ですね!


はい!社長です-(有)三公クリーニング


(有)三公クリーニング 佐々木 利行 (ささき としゆき)さん 57才 A型

昭和30年に父が創業した会社です。

大学卒業後、新宿西武百貨店の紳士服売り場に勤めましたが、父から元気のない声で「体調が悪いので手伝ってほしい」と電話があり会社を辞めました。戻ってみるとピンピンしていました。その時「騙された」と気付きました(笑)が、父からクリーニングの手ほどきを受けることにしました。

技術やサービスは進化し変化しますが、衣類をクリーンにビューティーにするのと同じように、経営も人生も清潔で正直でありたいと思っています。

住 所:(本店)七尾市松百町ヲ65-1
お電話:0767-52-3532


第85回 田鶴浜 伊久留町


町名の由来


諸説あるけど、元は山中村で、奈良時代に能登国が制定された時に、
「伊勢の国より大神宮祀り奉り、神明と称し山中村に鎮座し奉る。
是より山中村を伊久留と称し、伊久留と書く」と古文書に書いてあるんだ。
伊勢の神が、久しく、留まるという意味で、その神明社はとても由緒ある大きな神社だったんだ。

明治四十一年に合祀され今は御神体は無いけど、境内の大杉、
目の病気が治るという神明の水が今も湧き出ていて霊験あらたかに感じるよ。


昔の伊久留


村でね、役場、駐在所、保育所に小学校、消防と診療所もあった中心地だったんだ。
機場も四十軒くらいあって、住民の半数が機場に関係していたよ。
今は公共施設は無く機場も四軒。時代と共に移ろっていくよ。

集落と平行して田んぼがあるけど、ここに長さ約1kmの飛行場があったんだ。
昭和二十年に二ヶ月間の突貫工事で作ったんだ。
海軍の兵隊や予科練生など約六百名が在所に入って、向かいの山から土砂を出し、
田植えの終わった田んぼを埋め立てたんだ。滑走路は杉の板敷きでね。
学校やお寺、民家も宿泊所になってね。
完成し一番機が飛来するという日に終戦となり、幻の相馬飛行場となったんだ。
その一部は小学校のグランドとして利用したけど、
埋めた土砂を全部出してすぐに田んぼに戻し翌年には
田植えをしたというから、みんな生きるのに必死だったんだね。


在所の自慢


亀石があるよ。大きな自然の石で本当に亀そっくりだよ。
この亀石以外に在所には山にも畑にも自然の石が無いんだ。
昔、弘法大師がこの在所に寄った時、石につまづいて、それで
「この村から石が無くなれ」と杖で三回地面を突つかれたので
無くなったという話が伝わっているよ。

それだけに亀石は伊久留の象徴で相馬小学校の校歌にも歌われていたよ。
三十代~六十代のグリーンファーム+196(いくろ)が
耕作放棄地でひまわりやコスモスを植えているんだ。
公民館と一緒に「そうま収穫祭」や「紙飛行機大会」など企画運営して
老若男女みんなで盛り上がっているよ。
十年後の伊久留を見据えて皆笑顔で頑張っていきたいと思ってね(笑)


かなこの一言


伝統行事を大切にし、新しい取組も在所が一丸となって取組んでいます。
町会長さんは一年間に紋付羽織袴を6回も着るそうです(笑)


ぼらんち NAKAJIMA

サッカーのポジション「ボランチ」にちなみ、広い範囲を動き回り、チームに貢献するボランチの如く、私たちは地域に貢献できるようにとの願いを込めて立ち上げました。主な活動は能登演劇堂でのロングラン公演の事前清掃や公演中の案内係等です。
今年は地域の交通安全看板の着色・設置も行いました。