こみみかわら版バックナンバー

温故知新 第11回 牡蠣養殖


山田慎吾さん(37歳)

七尾西湾から北湾の風物、カキ養殖のブイが浮かぶ。かつては孟宗竹で作られたカキ棚が並んでいた。
七尾西湾のカキ養殖の歴史は古い。明治期の海苔養殖に端を発し、大正期にカキの養殖が始まった。

昭和29年、県は食料自給率を上げるためと七尾西湾を埋め立てる干拓計画を国に要望。 昭和35年からその実現のため調査が始まると、中島のカキ養殖業者を中心に西湾干拓反対同盟を結成し、小舟に旗を掲げて海に繰り出し抗議活動を続けた。昭和45年すでに全国では過剰米となっており、10年間も調査を続けてきたが、国は干拓事業の中止を決断した。

命拾いした七尾西湾、今も我々に里海の恵みを与えてくれる。かつては100軒以上あった養殖業者も担い手の高齢化に伴い38軒となった。 そんな中で新たにカキ養殖を始めている山田慎吾さんにお話を伺った。

海を愛す男

父に連れられサザエ獲りに出かけた楽しい思い出がある。子どもの頃から海が大好きだった。

七尾工業を卒業し鳶職を5年、その間に1歳年上の英里さんと結婚。その後志賀町の工業団地で金型製造に従事する中で将来を考える。高校生の時にアルバイトしたカキ小屋での仕事、カキ貝を剥き子の台に運んだり殻を捨てたり、嫌ではなかった。

そんな経験からカキ養殖ならやれるかもしれないと、勤めの傍ら土日にカキ養殖の修行を始める。今度はカキ剥きを経験するがやはり自分に合っている気がする。この仕事をやりたいと思った時、タイミングよく事業承継の話が舞い込んだ。

転職を決意し妻に相談すると、「好きな事やりたいならやれば」と後押ししてくれた。準組合員からスタートし、カキ棚と小屋、船を引き継ぎ31歳の時に山田水産を旗上げした。



能登かき

カキの国内生産量は広島が約60%を占め、次いで宮城、岡山、兵庫、岩手と続く。昭和56年までは石川も5位だったが現在は約1%の生産量で9位につける。それでも日本海側では最大の産地だ。

カキは海ならどこでも育つわけではない。塩分濃度や海水温、栄養分など環境が整わなければならない。七尾西湾は、熊木川、日用川、笠師川、二宮川が里山の養分を運びプランクトンも多く抜群の環境だ。

当初「鮮かき」として売り出していたが平成22年に石川県漁業協同組合によって「能登かき」を商標登録しブランド化を図っている。

夫唱婦随

早朝5時に船を出しカキ棚に向かう。冬場の海、風が冷たい。水揚げしたカキを小屋に運び、連なるカキをバラす。8時には剥き子が集まり手作業で殻を剥く。剥いたカキは洗浄して袋詰めする。
殻付きはバラしてからネットに入れて約1か月間海に戻し畜養したものを洗って一斗缶に詰める。
市場、スーパー、飲食店に出荷し、全国津々浦々からも注文が入る。

引き継いで6年、風光明媚な西岸深浦地区に広々とした土地を購入し、かき小屋を新築移転した。

能登カキの特徴は甘みだ。他県の養殖業者も「こんなにうまいのか!」と驚いたという。年明けから出荷する1年ものは柔らかく甘みがあり、2年ものはしっかりした食感で甘みがあると語る山田慎吾さん。もっともっと能登のカキを全国区にしたいと夢を膨らます。

今、山田水産には義母と弟も加わり、調理師免許を持つ妻は飲食店の営業許可を取得し様々なイベント企画を始め、SNSで情報を発信する。寡黙にカキ養殖に専念する夫、率先してマネジメントする妻。

夫唱婦随の二人の人柄に惹かれ、担い手不足が心配される剥き子にも新人が集まる。 新しい世代が若者の感性で、伝統の能登カキを繋いでいく。



日本で最初のPC橋(希望の丘公園)


昭和26年12月、御祓川に架けられた日本で最初のプレストコンクリート橋(長生橋)を、
河川改修により撤去することとなり、歩道橋として希望の丘公園に移設再現されました。

建設当時の姿をできるだけ復元し、貴重な土木財産として後世に伝えるものです。


第57回 「輝け!郷土の星」100mハードルの 星場 麗羽さん (鵬学園2年)


第62回(令和2年9月)石川県高等学校新人陸上で優勝

100mH(ハードル)14秒07、大会タイ記録で優勝した麗羽(うるは)さん。400mHも制し2冠に輝いた。小4で陸上を始め6年生の時80mHで石川県2位になった。中3で全日本中学陸上選手権に出場。陸上を続けるために鵬学園に進学した。

陸上を始める動機は明確だった。両親が陸上選手だった。二人の姉も遊学館高校で駅伝部と陸上部に所属。航空石川で2018年春の甲子園選抜メンバーの兄も小学生の時にハードルで全国大会に出場しているスポーツ一家なのだ。

そんな家族の影響を受けてきた麗羽さんだが高校進学時に陸上を続けるか迷った。それは中三の北信越大会、全国大会で記録が伸びず限界を感じ迷いが生じたからだ。しかし、やっぱりあきらめたくないと鵬学園に決めた。

昨年の北信越新人大会で6位入賞。そして今回の記録は全国ランキング10位と実力をつけてきた。

鵬学園陸上部

今年の鵬は凄い。先の県新人大会での優勝は、男子400mの三柳と砲丸投げの青木、女子は100mの蔵谷、400mの宮川、3000mの示野、そして100mHと400mHの星場、400mリレーも優勝し、トラック優勝、総合でも星稜に次いで2位と大健闘だ。

優勝は逃したものの3種目で2位、2種目で3位、その他入賞者は12名。いつの間にか強豪校になっていた。 秘訣を島元コーチに尋ねると、どこの強豪校でも共通する特徴は後輩が先輩を真似る事だと言う。そんな縦の流れがちょっと出てきたことと、部活動だけでなく、私生活を含め学校生活をしっかりすることが大切だと言う。

先の全日本陸上選手権走高跳で4位入賞を果たした3年生の亀田実咲さんにも聞くと、どの種目も志を持った実力ある部員が揃ってきたので練習でも本番並みの競争心で切磋琢磨していると言い、麗羽さんも、男女関係なく仲が良いので気づいたことはお互いに注意したりアドバイスしたりすることが出来ていると言う。

個人競技の陸上だが、礼儀礼節を重んじ、やる気、本気度の高い素直な部員が揃うとチーム競技のような一体感が現れるのだ。



コロナ禍の中で

コロナの影響で部活動が活動禁止になった。自主練習するにしても競技場も使用禁止になった。この時期にどんな練習が出来るのか。100mHは滞空時間短縮の技術を磨くこと、400mHは後半の体力維持が課題だった。同じハードルでも走る感覚が全然違う。

練習できない不安を打ち消そうと自宅でも自主練習を続けた。父がパイプを使って作った練習用のハードルを家の前に並べ反復練習で動きを確認した。母はバランスの良い食事を考えてくれジョキングにも付き添ってくれた。

中学時代は同じ練習メニューの繰り返しだったが、今は島元コーチの指導で個別メニューであっても、毎日着眼点を変えて質の高い練習を意識するようになった。記録を出すための節制と練習は辛いが我慢も大事だと心得る。

両親、先生、陸上部の仲間、恵まれた環境に感謝し、来年のインターハイで上位入賞を目指す。



七尾東部中学校 女子バドミントン部


伝統ある部で「明るく、元気に、さわやかに」がモットーです。

昨年の全能登新人大会では、団体、個人のシングルス・ダブルスとすべてに優勝し、今年も上位入賞を目指していましたが、大会がなくなり残念です。

1・2年生18人のメンバーで「素敵な中学生」になるのを目標に、バドミントンと勉強とを両立させて努力しています。

顧 問:峪先生     コーチ:宮村さん

キャプテン:江澤さん  副キャプテン:真舘さん・小中さん


七尾市地域おこし協力隊


七尾市地域おこし協力隊 白畑 直樹(しらはた なおき)さん 49才 B型

山梨県で大手リゾート運営会社に従事していましたが、より地域に密着した仕事がしたいと思い、転職先を探していて七尾に辿り着き、家族で中島に移住しました。

現在、中島町全体を活性化する為、移住者が期待されており、促進する為に移住希望者の対応や空き家の情報整備などを行っています。

移住と観光は表裏一体だと考え、事業継承にも注力していきたいと思っています。

中島町サポートデスク
お電話:66-2341


はい!社長です-フード フジオカ


フード フジオカ 藤岡 大介(ふじおか だいすけ)さん 45才 B型

両親の営んでいる店を手伝うことになった23年前から、今だに勉強中です。 始めは野菜や果物の名前から覚えました(笑)。

正直楽じゃありませんが、近所のお客様やお得意様に喜んでもらい、お互いに笑顔になるあの瞬間にやり甲斐を感じます!

両親が一生懸命育ててきた店を汚さぬ様に、これまで以上お店の関係者様すべてに感謝して、細く長く大好きな七尾で頑張っていきます!

住 所:七尾市南藤橋町子部65‐6
お電話:52-2084


第188回 七尾市新保町


在所名の由来

新保の沖に天神礁という岩があるけど、昔そこから神様が上がったので天神社が祀られ、
それにちなんで神保となり後に新保に転化したという説もあるよ。

新保町は加賀、小松、能美、金沢、羽咋、能登町にもあり北陸に多い地名で、
多くは新しく開墾した土地を指すそうだよ。
石高を記した一六〇二年の古文書には新保は出てないけど一六五六年の記録には
新保が出てくるから江戸時代初期に名前がついたと推測できるね。

新保の田んぼは花園の池岡さんがお金を出して干拓したとも聞いているんだ。

昔の在所

紀元前三千年の頃に赤浦潟を望む大地に人が住みだし、紀元前千五百年頃に
そこから新保や万行などに移った人たちがいたんだね。
新保A遺跡からも縄文時代の石斧や矢じり、土器がたくさん出土してるよ。

私が子供の頃には遠浅の海水浴場があったんだ。
桟橋が三つ、飛込み台まであり、宮の境内に更衣室やシャワー室、
売店もあって市内の小学校からバスで来ていたよ。
男でもビキニのような三角の黒猫という海水パンツだったな(笑)。

米作りが命の在所で学校から帰ると納屋にどこどこの田んぼと張り紙がしてあり、
そこへ手伝いに行くんだ。タニシもいっぱいいて弁当のおかずになったよ。
粘土質と砂の土加減が良く水は湧水でおいしいお米が育つんだ。
昭和天皇が和倉温泉の銀水閣に来た時は新保のお米をお出ししたんだよ。
冬場は藁で筵とさんどらを作っていたけど、さんどらとは七輪コンロの梱包材だよ。

三区交進会といって新保、祖浜、松百が合同で祭や若衆報恩講をしてたんだ。
三町の神輿が各町内を回っていた時もあったけど三十年ほど前からやらなくなったんだ。

新保の虫送りは「うんか虫でてえけ!」ドンドンと太鼓を鳴らし田んぼを回り
最後に崖の上から古い太鼓を落として遠くまで転がったら豊作だと言っていたよ。

現在の在所

年一回の行事として五十年以上続く「歩こう会」ではおにぎりを持って健康と
親睦を兼ね、一月の村御講では前年亡くなった方の追善供養をしているんだ。

故郷を後世に繋ぐために自然を創る「シンボ」という団体をつくって
ホクリクサンショウウオなど希少生物の生息状況を調べたり桜を植えたり
草刈りをしたり自然保護活動を行っているよ。

小さな在所でまとまりがあるので、これからも思いやりのある在所でありたいね。

まなかの一言

自然と歴史、優しさいっぱい、新保の在所。


はい!社長です-中野水産加工株式会社


中野水産加工株式会社 中野 竜太(なかの りょうた)さん 42才 A型

2年前に社長を継いで商売の厳しさと楽しさ、そして七尾の良さを改めて感じています。
安治の蒲鉾として明治時代に作事町で生まれ市民の皆様に育てて頂きました。

100年以上続く手作りの浜揚げを、決して手を抜くことなく実直に作り続けています。
コロナ禍の中、食を通じて笑顔を届けたいです。

食祭市場で能登フグのから揚げや、揚げたての揚げ蒲鉾を販売しています。

住 所:七尾市大田町111-18-6
お電話:52-3246


第187回 七尾市川原町


在所名の由来

江戸時代からの町名らしくてね、小丸山城下の東端で府中村と隣接し西に神戸川、東に毒見殿川が流れこの辺り一帯が川原だったからじゃないかな。私が子供の頃でも雨が降れば川が氾濫して水浸しになっていたからね。

資料を見ると安政二年に馬喰町と合併して川原博労町になり、明治にまた川原町に改称しているんだ。

昔の在所

加賀藩時代、金沢から七尾へ入る正式な街道が東往来で川原町から鍛冶町を通って街中に入ったんだ。当時七尾のメイン通りだったけど明治三十一年に七尾駅が保健所前のグランドゴルフ場の所に出来てからは本当に賑わったらしいよ。それが大正十四年に七尾駅が現在の場所に移転し、戦後御祓川の中に板を敷いて闇市の屋台が並んでから人の流れが変わったと聞いているよ。

むしろを作る機械メーカーの古田式農機は全国に販売していたし、米、魚、八百屋、雑貨に質屋、荷車、桶屋、医院もあって七尾で一番地価が高い商業地域だったんだ。

川原町交差点の国道は第二次大戦時に七尾駅と矢田新の工場を結ぶ軍事道路として強制撤去で作られたんだ。七尾初の信号機もこの交差点なんだよ。

長福寺と最勝寺の間を「もり屋敷」と呼んでるけど長屋があったんだ。大店と庶民が混在した在所で隣の家へ醤油や味噌を借りに行ったり、電話も店にしか無くて店の人が民家へ「電話~!」と走って呼びに行っていたよ(笑)。

現在の在所

あぐるしい時代になったね。私も電気屋をしているけど、かつては盆暮れ払いの催促無しで人間関係が成り立っていたんだ。今は店と店が潰し合い、みんな損得で動く世の中になって本当にこれでいいのかと思うね。物事をもっと善悪で考えないと人情が無くなるよ。

昔はレクリエーションや旅行、九月に通りを通行止めにして盆踊りをやっていたけど、人口減でどれも出来なくなったんだ。

山王神社の一の鳥居が川原町にあって本来こっちが入り口なんだよ。在所の登口神社も山王さんの境内にあるけど、何があっても青柏祭、祇園祭など宮行事だけはしっかりと伝承して心意気と人情だけは引き継いでいかないとね。

まなかの一言

栄枯衰勢は世の習い
神仏に帰依する心に未来あり


日本一大きい七輪(食祭市場)


重さ1t、高さ1.5m、七輪百個分です。
珪藻土で作られていて、能登は全国一の埋蔵量を誇ります。

昭和3年に耐火断熱レンガ国産第1号が作られ、後にコンロやカマドも作られました。
昭和30年代には製造会社が20社以上あり、七尾の重要産業として栄えました。


第56回 「輝け!郷土の星」硬式野球の竹内駿介くん(能登香島中学3年)


第48回日本リトルシニア日本選手権大会出場

リトルシニア、中学生の硬式野球チームで全国に550チームある。2万人を超える選手が所属し、甲子園出場はもちろん松坂大輔や大谷翔平など多くのプロ選手を輩出している。駿介くんが所属するのは金沢リトルシニアだ。

7月の東海大会で16年ぶりの優勝に輝き全国大会へ出場を決めたが、5試合のうち4試合が1点差でつかんだ勝利だった。その立役者が投打で活躍したエースで3番バッターの駿介くんだ。
172㎝、80㎏の体格から投げる速球は137kmを測定している。

メジャーリーグを目指す

小2から軟式野球を始めた。石崎メッツ(現石崎ヤンキース)に入り、小6の時には七尾市の大会すべてに優勝、県大会もベスト4だった。小5の時から将来の夢はメジャーリーグと決めていた。一歩でもプロに近づきたいと6年生最後の試合を終えたその日に、かぶとやスポーツで硬式ボールを買った。

中学に進学、プロを目指す覚悟で金沢リトルシニアへ入団。練習は土日祝、朝から夕方まで厳しい練習が続く。金沢の球場までの送迎は両親、祖父母が担う。

チームの坂上大介監督は星稜高校出身で星稜高校の林監督とは同級生。県内でも練習は厳しいと評判のチームだ。 部員数は25名と少数だが、本当に強くなりたいと想いを共にする仲間たちだ。 駿介くんに触発された1学年下の弟、双子の大介くんと謙介くんもチームに加わった。

平日は父が作ってくれたバッティング練習場で自主トレを行い、学童野球の石崎ヤンキースへ出向き小学生の指導もする。目指すはオリックスのエース山岡泰輔選手だ。ピンチで動じることなく小柄ながらグッとくるストレート、縦スライダーで打者を翻弄する姿がかっこいいと憧れる。


初志貫徹

志ある球児は甲子園を目指し、次にプロ野球を目指す。そしてアメリカのメジャーリーグへと思いが巡るだろう。

駿介くんは最初から日本より世界で活躍したいと思ったと言う。何となく始めた学童野球だったが、何かが宿ったのかもしれない。だから厳しい練習でも野球が出来る事が楽しくてしょうがない。

気が優しくて繊細な一面もあり、試合では応援に応えなければとプレッシャーがかかる。が、最高のパフォーマンスを発揮できれば御の字だ。何があっても命まで取られないから大丈夫と、プレッシャーまでも楽しみに変えてしまう精神力だ。

いかなる状況においても常にポジティブに立ち向かい、苦労が大きいほど喜びも大きく、その瞬間を生きていることを実感すると言う。中学生離れした精神とパワーを備えた駿介くんに驚かされ、そして期待が膨らむ。
初志貫徹!メジャーリーグを目指して頑張ってもらいたい。



日本エアートラベル


日本エアートラベル 佐藤 奈央(さとう なお)さん 32才 A型

昨年、地元神奈川から七尾に移り住み、前職でもあった旅行業に携わりたいと考え、日本エアートラベルに入社しました。 まだまだ石川県について知らない事も多く、苦戦しながらも地域の皆さまのあたたかさを感じ、日々楽しく勤めています。

これから石川県の事をたくさん知って、まだ知らない方・馴染みがない方にも石川県と能登の魅力を伝えていけるよう頑張ります!

住 所:石崎町香島2-164-2
お電話:62-2680


七尾東雲高校 ウエイトリフティング同好会


今年度、全国を知る岡田先生のもと「青春×ウエイトリフティング=人間力」を合言葉に発足しました。

筋力があればできると思っていましたが、イメージとは違い悪戦苦闘しながら練習に取り組んでいます。
器具が揃わず不十分な環境ですが、ハングリー精神で日本一や自己新記録を目指し、
これからも全力で楽しんでいきます。

顧問:岡田英典先生

主将:西田遥奏くん


向田町雨乞太鼓保存会


火祭りのある能登島向田地区に古くから伝わり、保存会は昭和63年8月に設立されました。

伝統ある太鼓の音色やパフォーマンスの継承、伝統にプラスアルファした新しいスタイルへも挑戦し、未来へのつなぎ役として日々切磋琢磨しています。

伝統をしっかり継承しながら、一人一人の個性を大切にした音色を響かせたいです。

会 長 三浦 純一さん 

指導者 花園 陽一先生


温故知新 第10回 染物屋


岩井元次さん(84歳)

今も敷地に残る高い煙突を見上げ、石炭を焚くことが一日の始まりだったよと懐かしむ岩井元次さん。往時の賑わいがなくなったけど馴染みのお客様の顔が見られることが楽しみで店を続けていると言う。

岩井さんは染物屋の三代目として生駒町に生まれる。祖父の岩井元吉が明治に創業し、父の敬次が跡を継いでいた。祖父と父の名前から一文字づつ貰い染物屋の跡取りとして育てられた。

染物屋

あの等伯も畠山家臣の奥村家に生まれ、染物屋の長谷川家の養子となり絵を学び始めたというから染物屋の歴史は古い。元次さんも子供の頃から手伝いをし、小島町にあった商業高校を卒業し家業に就く。

当時はまだ着物文化が色濃く残っており、人生の節目や晴れの日に多くの女性が着物を身に着けた。紋付、付け下げ、色無地などは白い反物を染めて仕立て、留袖や訪問着などの絵羽柄の模様づけは金沢か京都の友禅染に出した。

染物屋のことを紺屋とも言いうが、昔は紺色に染める藍染職人のことを言った。「紺屋の白袴」というが、これは「医者の不養生」と同じように専門家なのに自分の事には手が回らないという意味で使われる。そしてもう一つ、白い袴を汚さずに仕事をするという染物屋の職人気質を表している言葉でもある。



岩井屋染物店

1反が12メートル。着物になるまでに染物屋では染色、湯のし、洗い張りなどの工程があり、たくさんのお湯が必要になるのでボイラー免許を取得して毎日2時間かけてお湯を沸かしたと言う。
かつては1日に7反、8反と持ち込まれ、長い反物を敷地の奥庭までいっぱいに引っ張り天日干しにし、仕事と生活を混在させ暮らしてきた。

当時の女性は着物を楽しんでいたと言う。着物は三回の染め直しが出来るのだ。若い時の桃色の着物も歳を重ねると袖を通しにくくなる。そんな時に染物屋に持ち込み、糸を解いて脱色し、新たな色に染め直し、湯のしをして、もう一度仕立て直すと着物が生まれ変わる。いわば染物屋は着物のリフォーム屋だったのだ。

みんなが着物を楽しんでいた時は去り洋服の時代になった。綿や絹は染めるが合繊は色が定着してくれない。体が利かなくなり根気も無くなってきた。それでも着物を楽しむ人がいる限り、七尾唯一の染物屋として使命を果たさなければと思っている。

着物文化

女性に人気の花嫁のれん。僅かな生地を染めた一枚の暖簾に秘められているものは何かと考える。生地の肌触りや絵柄の美しさだけではない。それは母の娘を想う心が詰まっているからだ。手塩にかけた娘、嫁に出すということ、嫁になるという事の意を知る母が、娘の幸せを一枚の暖簾に託し願う。楽しいばかりではない人生。深夜、一人箪笥の前に座り暖簾を出して見つめ、手を握りしめ涙する娘の姿が見える母。

暖簾と共に嫁ぐ娘に持たせた着物も、多くは母の着物を染め直し、仕立て直したものが多かった時代。そんな女性の節目に関わってきた染物屋が一番に覚えることは生地の強弱を見極めることだった。箪笥に眠っている着物、面倒でも年に一度は土用干しをしておいてほしい。手入れさえしておいてもらえば、着物と母と祖母の思い出はいつでも蘇させることが出来ると言う。

着物の楽しみを教える人が少なくなり、箪笥を開けなくなった時代。全国で肥やしとなっている着物はおよそ20兆円にもなるという。なんとしても日本の誇れる着物文化を繋がなければならないと言う染物屋の顔には、まだまだその一翼を担っていく覚悟が見えた。



ダシの三幸


ダシの三幸 平下 璃奈(ひらした りな)さん 28才

ダシの三幸に入って今年で2年目になります‼
常連のお客様も増えてきて 「ここのお出汁美味しくて買いに来たよ」と聞くたびに、
すごくやりがいを感じます‼

毎日美味しいお出汁をみんなに飲んでもらい、ニコニコ元気な1日を過ごしてもらえたら嬉しいです‼
ダシの三幸を全国的に分かってもらえるように毎日精進していきたいと思います‼

住所:府中町員外 食祭市場1階
お電話:58-6158


はい!社長です-一本杉 川嶋


一本杉 川嶋 川嶋 亨(かわしま とおる)さん 36才 A型

『人と人との繋がりを大切に生きる』料理を通して生産者さんとお客様の架け橋に。

能登は文化や自然、そして食材の宝庫です。 素晴らしい食材だからこそ、あえてシンプルに。
食材の持ち味を最大限に引き出すことを常々考えております。

美食の街、小さな世界都市七尾を目指し、料理人として街の人たちと共に生きていきたいです。
記念日、特別な日のお手伝いもさせて頂きます。

住 所:七尾市一本杉町32-1
お電話:58-3251


第186回 中能登町瀬戸


在所名の由来

このあたりには朝鮮から伝わった須恵器という陶器を作っていた窯址がたくさんあるんだ。
全国的に須恵器を焼いていた場所の地名に陶(すえ)のつく所が多いらしくてね、
ここも初めは陶戸(すえと)と呼んでいたのが、(せと)になっていつの頃かに瀬戸という字に
変わっていったのでないかと言われているんだよ。

昔の在所

半農半林業で暮らしてきた在所でね、大正時代の尋常小学校の頃から学校林があって、
それが新制中学校にも引き継がれて以後実地教育として植林や下草刈りなどの活動をしていたんだ。
それと卸山という制度があって雑木林のない近隣の在所には薪(たきぎ)を調達する山を貸して
山手米といって御志納を貰っているんだよ。

奈良時代から治安維持の軍団が全国に設置されていくのだけど、能登国の軍団は瀬戸の在所に置かれたんだ。
当時能登の国府は七尾の古府にあり、富来の福浦港には渤海国より船が出入りしていたので、その中間に
位置する要衝だったんだね。その軍団址を実年会が毎年草刈りしているんだ。
名水の湧く十劫坊は畠山家臣の菩提寺だったけど七尾城落城の二十四年前に内紛で焼失しているんだよ。

現在の在所

眉丈山系からの水が良いのでおいしいお米が出来るし、大谷内川にホタルが舞う光景もすごいよ。
二十二町歩の圃場整備も、春先から猛禽類が巣を作り子育てを始めたので工事が少し遅れたけど
今年度に完成するし、環境保全にと今年からヤマメの稚魚も放流したんだよ。
お寺が無い在所なので説教場を作って年三回の朔日講(ついたちこう)を行っているけど三十人以上
集まるので説教に来るお坊さんがお寺より集まるとびっくりするんだ。

今は説教場を取り壊して瀬戸会館に場所を移しているけど班ごとの当番制でお世話をし、
毎年八月二十七日の風の神様、お諏訪様のお参りには一軒一軒が当番制でお世話してるんだよ。
過疎が進み心配な中だけに在所の人が少しでも集まり、盛り上がれるようコミュニティの場を
増やしたいと思ってね、コロナ禍ではあるけど感染予防に気を付けて百歳体操も送迎をして
若い世代も含めて再開したところなんだ。

まなかの一言

豊かな自然と数々の歴史、
のんびり暮らせる素敵な在所。