温故知新 第11回 牡蠣養殖
山田慎吾さん(37歳)
七尾西湾から北湾の風物、カキ養殖のブイが浮かぶ。かつては孟宗竹で作られたカキ棚が並んでいた。
七尾西湾のカキ養殖の歴史は古い。明治期の海苔養殖に端を発し、大正期にカキの養殖が始まった。
昭和29年、県は食料自給率を上げるためと七尾西湾を埋め立てる干拓計画を国に要望。 昭和35年からその実現のため調査が始まると、中島のカキ養殖業者を中心に西湾干拓反対同盟を結成し、小舟に旗を掲げて海に繰り出し抗議活動を続けた。昭和45年すでに全国では過剰米となっており、10年間も調査を続けてきたが、国は干拓事業の中止を決断した。
命拾いした七尾西湾、今も我々に里海の恵みを与えてくれる。かつては100軒以上あった養殖業者も担い手の高齢化に伴い38軒となった。 そんな中で新たにカキ養殖を始めている山田慎吾さんにお話を伺った。
海を愛す男
父に連れられサザエ獲りに出かけた楽しい思い出がある。子どもの頃から海が大好きだった。
七尾工業を卒業し鳶職を5年、その間に1歳年上の英里さんと結婚。その後志賀町の工業団地で金型製造に従事する中で将来を考える。高校生の時にアルバイトしたカキ小屋での仕事、カキ貝を剥き子の台に運んだり殻を捨てたり、嫌ではなかった。
そんな経験からカキ養殖ならやれるかもしれないと、勤めの傍ら土日にカキ養殖の修行を始める。今度はカキ剥きを経験するがやはり自分に合っている気がする。この仕事をやりたいと思った時、タイミングよく事業承継の話が舞い込んだ。
転職を決意し妻に相談すると、「好きな事やりたいならやれば」と後押ししてくれた。準組合員からスタートし、カキ棚と小屋、船を引き継ぎ31歳の時に山田水産を旗上げした。
能登かき
カキの国内生産量は広島が約60%を占め、次いで宮城、岡山、兵庫、岩手と続く。昭和56年までは石川も5位だったが現在は約1%の生産量で9位につける。それでも日本海側では最大の産地だ。
カキは海ならどこでも育つわけではない。塩分濃度や海水温、栄養分など環境が整わなければならない。七尾西湾は、熊木川、日用川、笠師川、二宮川が里山の養分を運びプランクトンも多く抜群の環境だ。
当初「鮮かき」として売り出していたが平成22年に石川県漁業協同組合によって「能登かき」を商標登録しブランド化を図っている。
夫唱婦随
早朝5時に船を出しカキ棚に向かう。冬場の海、風が冷たい。水揚げしたカキを小屋に運び、連なるカキをバラす。8時には剥き子が集まり手作業で殻を剥く。剥いたカキは洗浄して袋詰めする。
殻付きはバラしてからネットに入れて約1か月間海に戻し畜養したものを洗って一斗缶に詰める。
市場、スーパー、飲食店に出荷し、全国津々浦々からも注文が入る。
引き継いで6年、風光明媚な西岸深浦地区に広々とした土地を購入し、かき小屋を新築移転した。
能登カキの特徴は甘みだ。他県の養殖業者も「こんなにうまいのか!」と驚いたという。年明けから出荷する1年ものは柔らかく甘みがあり、2年ものはしっかりした食感で甘みがあると語る山田慎吾さん。もっともっと能登のカキを全国区にしたいと夢を膨らます。
今、山田水産には義母と弟も加わり、調理師免許を持つ妻は飲食店の営業許可を取得し様々なイベント企画を始め、SNSで情報を発信する。寡黙にカキ養殖に専念する夫、率先してマネジメントする妻。
夫唱婦随の二人の人柄に惹かれ、担い手不足が心配される剥き子にも新人が集まる。 新しい世代が若者の感性で、伝統の能登カキを繋いでいく。