こみみかわら版バックナンバー

なかのと音楽教室


なかのと音楽教室 須藤 慶子(すどう けいこ)さん 49才

神戸出身です。
関西で十数年間演奏や教室をしており、いつか能登でも同じ様な活動がしたいと思っていました。
自分で畑をしたい思いが募り、祖父が志賀町にいるご縁で移住を決意しました。
音楽教室のかたわら、畑や田んぼを手伝っているので毎日が忙しいですが、
気持ちはゆったりしています。
大人から子供まで、ピアノで好きな曲を奏でるよろこびを体験して下さい!


住 所:中能登町良川庚61-2
お電話:080-5363-6700


琴修会 石川織姫会


30年前からスタートしたサークルで、現在10名が集います。

練習は毎月第2、第4木曜日の午後1時半から3時まで中能登町の
カルチャーセンターで行なっています。
毎年町の文化祭と能登食祭市場で発表しています。

楽しんで曲を奏でると身も心も嬉しくなりボケ防止にもなりますよ(笑)。
メンバー募集しています!


第52回 「輝け!郷土の星」駅伝の 垣田 愛さん (七尾中学3年)


第27回全国中学校駅伝女子準優勝

前回3位の七尾中女子駅伝チーム、次は優勝をと期待された中で1年間練習に励んできた。結果は42分8秒、25秒差での準優勝だった。

滋賀県希望が丘文化公園には各県代表校ののぼり旗が並び太鼓が響き声援がこだまする。エースが横一線に並びスタートする注目の1区はキャプテンの垣田愛さん、先頭集団を走り4位でたすきを渡す。
2区は妹の垣田奏さんが頑張り2位に浮上。
3区は新野莉璃さんが粘り3位でつなぐ。
4区は津田千空さん区間賞で3位をキープ。
アンカー示野悠奈さんデッドヒートを制し順位を上げゴール。
全員が区間10位以内で走り底力を発揮した。しかしメンバーに笑顔が無く涙した。

日本一しか見ていなかったので2位の瞬間は悔しかったですが、地元に帰ると多くの人が笑顔で迎えてくれ、沢山の「おめでとう!」を言ってもらい改めて全国2位の凄さを実感できました。今は嬉しさも感じています。と愛さん。

ワンテームに

春夏のトラックシーズンは各自の種目で大会に臨み、10月から駅伝チームとして練習が始まる。前年のメンバーが3人残っていたが、挑戦者という気持ちでスタートしたのだがチームはバラバラだった。

山口監督はチームの一体感を求めた。この状態で駅伝まで引きずることは出来ない。愛さんは合宿で全員に紙を配り、お互いに気にかかることを書いてもらった。それを集め張り詰めた空気の中で読んだ。「自分が走れないからと泣くのはやめて」「調子が悪いからと暗くなるのはよくないよね」「練習始まる前から今日の練習キツクないなどネガティブな発言はやめよう」愛さんにはキャプテンとして「もっと厳しく注意して」など意見が出された。

愛さんはその後何度もミーティングを行ないチーム作りに頑張った。シーズンに入るとチームは夏とはまったく違うムードになり、県大会、北信越大会と優勝、全国2位となった。そしてキャプテンとなってメンタルも成長した愛さんです。



先頭集団を走る

田鶴浜スポーツクラブ

七尾中陸上部の中長距離選手は田鶴浜スポーツクラブの山口監督から指導を受け練習をしています。

山口監督は全国大会優勝をと言うが大変な事だと思う。プレッシャーの中で1年間モチベーションを維持して厳しい練習を頑張ってきたことは偉いと思うとメンバーを称えます。

また愛さんは口に出さずに一人コツコツと練習コースの芝を刈り、穴があいていたら埋め、グランドをならしている監督の後姿を見て感謝しかないと言います。
そして保護者をはじめ地域全体でチームを支え応援をする田鶴浜の地域力があってこそ駅伝の名門チームが育ってきたのです。

そんな温かな環境の中で育った愛さんですが、今春は高校進学です。学業も優秀で金沢の強豪高からスカウトもされました。しかし愛さんは地元の皆さんがこんなに応援して喜んでくれる、そんな地元をもっともっと盛り上げていけたらとの思いで、考えに考えた末に卒業する3年生メンバー3人と共に鵬学園に受験することに決めました。

次の目標は地元高校から冬の都大路を走ることを狙いますと愛さん。中学生とは思えないほど、とても、とても頼もしく感じました。



かわいくて、速い!


湯川温泉の源泉


崎山川の中から涌き出る源泉です。湯川町の町名の由来となっています。
北陸では珍しい天然ラドン含有温泉で火傷などの皮膚病に効果があるといわれ、
江戸時代には湯治場として多くの人が訪れていました。
現在は龍王閣で入浴することができます。


第107回 私の仕事は『オーナーシェフ』です。


料理で表現する能登の自然

仕事歴10年 平田 明珠さん 34歳

地元食材にこだわる

もうズタボロでした。一年間はマイナス意識になり本当に辛かったです。
何とかなると思って二〇十六年九月にオープンしたのですが甘かったです。
地元のお客様は牛肉やフォアグラなどの普段食べられないイタリアンを求めて来店されるのですが、
私は地元食材にこだわっていたので、そのギャップが生じてしまったのです。

それでも恵まれていたのは移住者がお店を開くということで多くのメディアに取材された事と、
二〇一七年のRED U‐35(三十五歳以下の全国料理人コンペティション)でベスト二十二人に
入選したことがキッカケで全国からもお客様が来て下さるようになりました。
ただオープン時には自分の思う料理がまだ未完だったのです。

移住のキッカケ

私は東京出身です。
明治大学を卒業して会社勤めをしていたのですが、組織で働く事がしっくりこなく辞めました。
大泉学園の小さなお店で修業を始めイタリア生活の長い女性シェフから基礎をみっちり教わりました。
そのお店は流行のものでなくイタリアの田舎料理を得意としており、食材も自家菜園で栽培し
生ハムなど加工品も自家製でした。厳しいシェフで聞く前にまず自分で調べるよう指導を受けました。
今思うとそれが良かったんです。

二軒目に入ったお店で転機が訪れました。全国の生産者回りをするお店だったのでその時に能登を訪れ、
七尾では宮本水産、高農園、鹿渡島定置、蛸漁の平山さんなどとお会いしました。
東京での開業を思っていたのですが、そんなご縁もあって地方に魅力を感じたのです。

色々な地域で色々なお店がありますが、私が影響を受けた二人のシェフがいます。
和歌山県で農業をやりながら料理を作る。その人にしか出せない世界感、オリジナルに憧れました。
自分だけの何種類もの野菜パウダーが絵具のパレットのようでした。
それは東京では出来ない料理のスタイルでした。
もう一人は淡路島で地域に溶け込んで生産者と小学校で食育を行い、地域で楽しそうに
暮しているシェフです。魚の内臓の料理もそこでしか食べられないものです。
そんな地方の料理人の生き様が魅力的で、私も土地の食材を使って地方でお店を出したいと
移住を決意したのです。



非日常の価値

三十歳で自店は早すぎると思いましたが、人生で一番濃い三年半でした。
今ようやく自分の確立した信念、世界感が見えて来たと思います。
オープン時は地域貢献として地域食材の活用を目標にしていましたが、今は自分の世界を
求めていくプロセスに地域食材があり、地域食材へのアプローチが自分の道になってきました。
全国で地方レストランが注目されていますが、美味しいだけでなく、地元の食材、土地の文化、
料理人の個性などトータルで磨かれていかないとなりません。
山に入り、畑に入り、仕入れの中で見る景色や感じた事を料理に変換し、三十人以上いる
地元生産者の方々と能登の里山里海の恵みに感謝して、一緒になって自然豊かな能登を
表現することが私たちの目指す料理の形です。

オープンした時は地元と県外のお客様に対してどちらにも中途半端だったと反省しています。
今は自分の表現したい料理を研ぎ澄ませ、非日常の価値を提供して、時間をかけても
全国に向けてお客様を作っていくと決めています。
方向が決まった事で徐々に県外からのお客様が多くなり、地元の方でも地域の魅力が再発見できる
と楽しみに来て下さる方も増えてきました。自分の世界感を完成させるため努力を続けます。



白馬町 ヴィラ・デラ・パーチェ
☎0767-58-3001


第177回 七尾市青山町


在所名の由来

昭和二十二年、満蒙開拓団・青少年義勇団の引揚者が立ち上げた自行農事実行組合と地元農家の
二男、三男と疎開者、引揚者の青山農事実行組合が合併して直津と池崎の山を開拓したんだ。
その時の組合名の青山が町名になったと思われるけど、組合名の由来までは聞いてないんだ。

満蒙開拓団

私で三代目だけど、祖父は鹿島町井田の出身で満蒙開拓団の一員として満州に渡っているんだ。
汽車で下関へ向かいそこから船で満州に渡ったそうで母親が泣いて見送ったと聞かされているよ。
満州に到着すると寝泊りする施設も無くマムシが一杯いる橋の下で何日も寝泊りしなければならず
話が違うとみんな泣いたそうだよ。
引き揚げて来る時、馬から落ちて下半身不随になった男を連れて帰ってきたそうだけど、
当時は足手まといになる人間は見捨てることも多い中、その男は感謝して泣いていたと言っていたよ。

祖父の話の端々から満州では想像を絶する苦労があったと思うんだよね。そんな絆で結ばれた
人たちが開拓してくれた在所だけど、今では開拓当時を知る人が少なくなってしまったよ。

当波元造さんに聞く

父の当波与吉は池崎の出身で東京江戸川に住んでいたんだ。
昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭い三月十八日に故郷へ疎開し徳田駅から
歩いて帰って来たと聞いとるよ。そしてこの開拓団に加わったんだね。
開拓団が自前で電柱二十本を立て電気を引いたし立山神社も建てたんだ。
当時は食料が無いからまず自給のために働いたんだね。
白菜や大根、ジャガイモ、サツマイモ、麦と何でも植えたんだよ。

時代が良くなると兼業するようになってね、そうなるとここは不便な所で七尾へ八時に着くには
六時半のバスに乗らなければならないんだ。
それで二代目が嫁さんを貰う時にみんな池崎、松百、石崎へと出て行ったんだね。

現在の在所

五十年前に水害防止のためにと開墾した畑に一万二千本の植林をしたんだ。
それを今年の春先に二十日間かけて伐採したんだ。二十戸以上あった家も今では四世帯になったし、
祭りも私が子供の頃にはもうお参りだけだったよ。

栄枯衰勢は世の習いだけど、ここは苦労人が多く、人情味があってみんな優しい人ばかりだったので、
今も住んでいる人は、みんな仲が良いんだよ。

あんなのひと言

生きるために働き、
苦労したから得られるものがある。


七尾高校吹奏楽局


定期演奏会も32回に達する伝統の吹奏楽部です。

部員17名、活動時間も少なく、環境としては決して恵まれているとは言えませんが、
「みんな」でより良い部活動創りを目指しています。

演奏者も聴く人も双方が楽しめるパフォーマンスをすることをモットーに
挨拶感謝を大切にしています。 個性的な部員が多くとても楽しいです。


はい!社長です-スナック ZAN


スナック ZAN 干場 千絵(ほしば ちえ)さん 41才

中島に嫁ぎ15年、お店を出して10年です。
接客業として日々常連さんや初めてのお客様と接しますが、
毎日初心を忘れず新鮮な気持ちでお店を開けます。

女の子一人一人が主役になって働ける環境を整えています。
今までに二人の女の子がお客様と結婚しました
家族に支えられてのお店なので感謝しかありません。

将来は娘と一緒に仕事がしたいです(笑)

住 所:七尾市中島町中島
お電話:0767-66-6777


北陸銀行七尾支店


北陸銀行七尾支店 長嶋 利治(ながしま としはる)さん 30才

札幌支店から七尾支店に配属になり半年が経ちました。
産業構造が大きく変化する第四次産業革命に備えて、新時代の銀行の役割をしっかりと自覚して、
来るべき時代に通じる銀行マンになるよう自己研鑽しなければと思っています。
七尾にいる間に能登の素晴らしさを満喫できればと思います。
今は休日に趣味のゴルフで能登島カントリーを回ることが楽しみです。


住 所:七尾市一本杉町118
お電話:0767-53-2200


第51回 「輝け!郷土の星」サッカーの 島田 凌くん (鵬学園3年)


第98回全国高校サッカー選手権大会出場!

鵬学園サッカー部、強豪星稜高校を破り3年ぶり2回目の全国大会出場。
各地から選手が集まり現在部員は80名を超える。ベンチ入りする20名の中で七尾出身は島田凌くん1人だ。副キャプテンでポジションはミッドフィルダー。攻守の要としてチームを支えている。

県大会では小松高校に13―0、
石川高専に3―1、
準々決勝の金沢高校とは0-0でPK戦となり7-6で競り勝ち、
準決勝の遊学館とは2-2のPK戦で10-9と接戦を制した。
星稜との決勝は延長戦の末に2-1で勝利した。

PK戦は緊張するが、絶対に勝つと精神統一、ボールを蹴るペナルティーマークから7歩下がって、深呼吸を3回、コースを決めて狙う。絶対に決めるという自信があった。そして合宿で鍛えてきた最後まで走りきる力。この粘り強さこそが他校に優り今大会の勝因だったと話す凌くん。

サッカー少年

天神山小3年の時に七尾サッカー少年団に入った。七尾東部中学時代はセブン能登に所属し活躍。中3の時、高校県大会決勝を応援に行った。鵬学園初優勝を目の当たりにし感激したが、全国大会では初戦敗退。よし!鵬に進学してリベンジを果たそう!と決意して迷わず鵬学園に入学。しかし1年の県大会で初戦敗退、2年の大会では2回戦敗退だった。

練習の厳しさよりチームが結果を出せないことが辛い。小中では中心選手としてプレーしてきたが、高校で応援する側になったとき初めてメンバー外の気持ちが分かった。そして一生懸命応援するが、心のどこかで出場できない悔しさがあった。

凌くんがレギュラーに起用されたのは2年の新人大会からだ。残り1年、午後4時半から6時半まで、学校のグランド、和倉サッカー場、能登島サッカー場と赤地監督の指導のもと時間を惜しんでチーム一丸となって練習に励んだ。



赤地監督を胴上げ!!

鵬学園サッカー部

3年生がチームに足りないものは何かを考えスローガンにする。課題を明確にしチームで取り組む。各地から集まる部員はサッカーへの情熱はあるが個性も強く時にバラバラになる。凌くん自身も小中では目立ちたいとスタンドプレーをした。

今年のスローガンは「団結力と戦う姿勢を勝つ力に変える!」だ。実は凌くん、高2の終わりにある出来事で1週間の練習禁止処分を受けた。モヤモヤする気分で嫌気が差した時、中1の時に亡くなった父の事を思い出す。父は凌くんがサッカーをしている姿を何より楽しみにしてビデオに撮っていた。その父がこんな姿を喜ぶはずがないと心を入れ替え、自分の事よりチームのために行動しようと決めた。

部では、礼義礼節、感謝の気持ちを持つ、戦う集団になる、と社会に通ずる人間形成の目標を掲げている。掃除も勉強も当たり前の事を当たり前にやり、人のやりたがらない事を率先師範した。

遊学館との準決勝、思いがけずロングシュートが決まった。やるべき事をやっているとこうなるのか…。心底サッカーをやっていて良かったと感じた瞬間だった。努力したら報われ、人間性も養われるんです。とスポーツの素晴らしさを語る凌くん。 稀に見る好青年だ。



1月2日京都橘戦 頑張るぞー!


七尾国家石油ガス備蓄基地


三室町に平成17年7月に完成。液化石油ガスが備蓄されています。
ほとんど輸入に頼る日本は湾岸戦争を機に、備蓄施設の建設が始まりました。
高さ45m、直径60m、容量5万トンの低温タンクが5基建設されています。
全国で1番最初に建設された基地です。


第176回 七尾市小池川原


在所名の由来

「こいけかわら」という人もいるけど、在所では昔から「おいけがわら」と呼んどるよ。
ここは大谷川と庄津川に挟まれた川原だったんだ。埋蔵文化財の調査で3m掘ったら大きな松や
杉の根が出てきたんだ。大谷川の氾濫で堆積していったんだね。

そして能越道の下になったけどキレイな湧き水の小池があったんだ。畠山城主の茶会にこの水を
使ったと伝わっているよ。そんなことから小池のある川原の在所が由来だと察するよ。

昔の在所

埋蔵文化財の発掘調査でベルトの金属製バックルが二個発掘されたことから、千二百年くらい前の
国分寺の長官、今で言えば県知事みたい人の屋敷跡ではないかと言われているんだ。
神社の裏山に畠山時代の大きな砦跡があるんだ。加賀方面からの敵を意識して築いた丸山砦で、
一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪と並び、櫓が建てられ、土塁が築かれていて、相当の武将が
配置されていたと思うね。当時のものと思われる立派な鎧兜が残されているんだよ。

元和(げんな)年間というから約四百年前には源左衛門という人が畑を田んぼに開墾したと
伝えられているんだ。土地が狭いので徐々に近隣の村にも田んぼを持つようになって、
昭和三十年代の米の出荷量は七百三十俵と矢田郷で一番だったよ。とにかく働き者の在所でね、
苦労するから小池川原に娘をやるなと言われていたそうだよ(笑)。
そんな在所なので今でも耕作放棄地が無いことが自慢なんだよ。
勤勉な遺伝子が引き継がれているんだろうね。奥能登で行なっている「田の神様」の神事も
ここでは親の代まで行なわれていたんだ。

現在の在所

昔は古府の山奥で在所が一家族みたいもんで、それぞれが「よぼし子」の縁を結んでいたんだ。
普段は付かず離れずの距離感で暮していても、何かあったらお互いに助け合う関係だったんだね。
冠婚葬祭は在所全員で行なっていたよ。

若い人も遠くに出て行かず近隣に住んでいる人が案外多くて、やる気のある人がいっぱいいるから
新しい形で在所を盛り立てていってもらいたいと思っているんだ。十一月に臼と杵で餅つき大会を
やって世代間の親睦を深めたけど、何かしないと町内が分散していくからね。

まなかのひと言

小さな在所に、いっぱいの歴史。
地元のこと、知らないことばかり。


能登島やきもの教室


50年ほど前から続く教室で、現在12名います。
先輩が先生になり後輩を指導し、実用品から置物まで・作りたい物を自由に作っています。

土の配合や釉薬の違いで、全く別物に仕上がるので、
奥が深く釜を開けて取り出す瞬間にワクワクします。

年に2~3回、焼き物展や美術展に出かけ、鑑賞後は食事を楽しんでいます。


はい!社長です-玲瓏餃子


玲瓏餃子 遠藤 玲奈(えんどう れな)さん 41才

残留孤児だった祖母が鳥屋町へ帰国していたのですが母の祖母を想う気持が募り
14年前に家族で日本へ移り住みました。

吉林省の実家が餃子屋でしたので日本でも本場の餃子屋を開くのが夢でした。
日本語を覚え七尾自動車学校で講習指導員をして生活も落着いたので
今年10月に念願のお店を出しました。

発酵させた、ふわふわの本場の味を味わって下さい。

住 所:七尾市藤橋町申53
お電話:080-6127-6505


あずまー植物工場株式会社


あずまー植物工場株式会社 下出 聖菜(しもで せな)さん 26才

地元中島で生まれ育ち自然が大好きだった事もあり、野菜を作る工場に就職しました。

植物工場では農薬を使わない水耕栽培で新鮮な野菜を丹精込めて育てています。
野菜のみずみずしさと食感の良さを地域の皆様にぜひ味わって頂きたいです。

仕事以外では西岸消防団に所属して頑張っています。
はやく家庭を持って地元を盛り上げていければと思います。


住 所:志賀町若葉台63番地2
お電話:076-738-1381


海門寺(大田町)


鎌倉以前からの古刹で天台宗、臨済宗曹洞宗と移り変わりました。
畠山五代藩主の次男が住職を務めた時もあります。
上杉の侵攻で廃尽に期しますが幸いにも秘宝の千手観音だけが
戦禍を免れ国指定重要文化財になっています。
前田利家の祈願所でもありました。


第106回 私の仕事は『漁師』です。


賭場と化す漁場に挑む

仕事歴56年 岩政 武光さん 75歳

海との出会い

「この自然を大事に漁を続けて下さい」とスウェーデンのグスタム国王から言葉をかけて頂きました。
平成九年に国王夫妻が能登島を訪れたとき、シルビア王妃が釣りを楽しみたいということで
水先案内をした時のことです。水族館沖で夜中に仕掛けたはえ縄を上げてもらいました。
大きなコチがかかっていたのでホッとしました。

私は大阪に生まれました。
父が戦地に出兵中、母が私を抱いて空襲の合間をぬって命からがら能登島通の実家に戻りました。
戦争が終わり父も帰還、家族は能登島で暮らすことになりました。
そんな時、通の在所に一隻の川舟が流れ着き在所で話し合った結果、失業中の父に
漁師でもやって見ればと船がもたらされました。その船で父が櫓を私が櫂を漕ぎ
ハチメやキスを釣って作事町の魚問屋へ出して暮らしを立てました。私が五才の時です。

パン職人を目指すも

漁の手伝いをしながら西島中学校に二年間通いましたが、将来の事を考えて
中島のパン屋さんへ丁稚に入り中島中学校へ転校しました。
パンの箱を十二段積んだ自転車で砂利道を走り配達を終えてから登校しました。
四年間お世話になりましたが本当にパン屋としてやれるだろうかと疑問になり
能登島へ戻り櫓舟を買いました。十九歳の時です。

その時父が瀬嵐の沢田造船でヤンマーのエンジンを積んだ新造船を作り光進丸と名付けました。
父と漁をしながらこの時私はエンジンをバラし、掃除して、組み立ててと、
エンジンの構造を覚えました。そして二十三歳の時に、妻ふみ子と結婚します。

海を覚える

妻と二人三脚の漁が始まります。在所では同年代二十軒の内十五軒が漁師でした。
私は張り切って七尾湾はもとより富山から小木の端まで漁をしました。
空模様を見て他の人が出漁しない時でも、このくらいなら大丈夫だと海に出るのですが、
嵐になりエンジンの中に水が入り突風の中エンジンをバラして修理して命からがら
帰って来たことが何度もありました。
あの頃は無鉄砲で台風も恐ろしいとは思わなかったです(笑)。

広い海域で漁を追い、岩場で舵や船底を傷めながら海を覚えて行きました。
お陰でなまこ漁では人の倍以上の水揚げが出来るようになり、
みんなにどこかで養殖をしているのかと言われました(笑)。



第七光進丸

日本初

トラフグ漁は当時半日で何十万円の水揚げが出来たので海には百隻以上のはえ縄船が並びました。
混乱を避けるためスタートの位置と時刻を決め無線で「全船スタート!」と号令をかけますが
その役を担いました。はえ縄は五百mの幹縄に五十本から六十本の枝縄に針をつけ一皿となります。
餌をつけながら海にはいていくのですが、十皿なら五㎞、二十皿なら十㎞となります。
同じ道具で同じ餌でも何十匹も釣る船もあれば一匹も釣れない船もあります。
一匹が五万円、六万円になりますから、みんな形相を変えて漁をしていました。

ある時、オスばかり釣れたのでひょっとしてこの辺りに産卵場所があるのではと漁師の勘が働き、
水産試験場に応援してもらい考案した網で春先に週三回ほど砂をすくっては卵を探しました。
三年目に卵が見つかり日本で初めてトラフグの産卵場所発見となりました。
今、七尾湾の魚貝は減少しています。
放流や養殖などを通じて天然物も育て海への恩返しをしたいと思っています。



2人3脚、おかげさま♥

能登島通町 岩政
☎0767-85-2051


第175回 中能登町大槻


町名の由来

二つ伝わっていてね。
この辺は邑知潟へ続いた沼地帯で八幡様の入り口あたりに船着場があって多くの船が着いたことから
「おおつき」と呼ばれたという説と、地勢的に西往来から奥能登へ、眉丈山麓から外浦への交通の要衝で
二宮川左岸の丘陵地に土塁跡が見られるように、この辺りには多くの砦が築かれていて中でも大きな砦、
大きな要塞が大塞(おおつき)砦と呼ばれ、その砦の名前が在所名になったという説があるんだよ。

昔の在所

四六六年前、上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃、ここに両軍合わせて一万人以上で戦った
大槻合戦といわれる大きな戦があったんだよ。
遊佐続光と温井総貞、七尾城の重臣同士が対立したんだね。一五五三年十二月二十七日、
田鶴浜に布陣して進撃してくる遊佐軍を温井軍が飯川から大槻まで広がる末広野で迎え撃んだ。
結果は温井軍の勝利、翌日の羽咋一ノ宮の戦いで遊佐軍は壊滅したということだよ。

この在所は眉丈山系に抱かれた台地に位置してきれいな水が湧くことから
中能登町の水源が二つあるんだ。
それで美味しいお米が採れるので昔はほとんどが農家だったね。
平成二十三年の宮中新嘗祭でお供えするお米は大槻の斉田で作って奉納しているんだよ。

現在の在所

大槻の神社は大日霊女(おおひろめ)神社で女の神様を祀ってあるんだ。
そんなわけかどうか分からんけど女性が多い在所でね。昔は七対三くらいの割で女性が多かったよ。
それで槻和会という婿さんの会が作られていて多い時で二十五人もいたようだよ。
五十年の歴史があったけど人数が減ったので今年解散したんだ。

神輿は菊の御紋でね。明治時代に作られているけど、当時は菊花紋使用が厳禁の時代なのに
どうしてそんなことが出来たのか、どんないわれがあるのか今となってはわからないんだ。
神仏に篤い在所で毎年六月二十日に「田休みまいり」が営まれ西の宮で
阿弥陀如来(光)、大日如来(命)、不動明王(風雨)に
秋の豊作を祈る伝統行事があるけど子どもが少なくなってどう伝えていくかだし、
同じように猪対策で電気柵の予算をもらっても人がいないからどうにもならんのだよ。

祭りや防災訓練の他にボランティアの集いという日を作ってみんなで集るけど、
老人社会の中で在所のあり方をどうしていったもんか思案しないとね。

あきこのひと言

古き里に大きな合戦、神仏に手を合わせる。