第156回 七尾市盤若野町
町名の由来
今から344年前の江戸時代、延宝3年の文献に盤若野という文字が出てくるそうだよ。昔、ここに高麗人の集落があって須恵器や埴輪を焼いていたそうなんだ。それでここが埴屋野(はにやの)と呼ばれ、盤若野となったという説があるようだね。この辺り一帯で焼き物に適した粘土が採れ、瓦工場がいくつもあったのは、そんな名残なんだろうね。
大正10年に池崎の瀧の谷内坊山の裏手に発見された陶窯跡は江戸天保年間に越前から来た三郎右エ門という人が、瓦を焼いた窯だと言われているんだ。
昔の在所
在所の田んぼは5年前に圃場整備が完成したけど、それでも深い所があるほど昔から沼田だったんだ。三代将軍徳川家光の時代に中島の熊木郷から三輪重助という人が、命によって入百姓として盤若野に来て沼地開墾に努力してくれ、当時94石だった村高を305石にまでにしてくれたんだ。おかげで潤った在所はお寺を改築したり敷地を寄進したりしているんだよ。
小さな在所だけど酒蔵を持つほど財を成した地主もいたし、祭りになればオヤッ様が小作にご馳走を振舞っていた時代が続いたんだ。子どもの頃田んぼには小さな浅い池がいくつもあって、どぼどぼだけどその上にナマズがいて捕まえては遊んでいたよ。機場も5軒あって夕方学校からの帰り道に明るくて音がしているので安心感があったね。それと昔の盆踊りでは、足をけっころがして踊る鈴木主水が流行っていたなぁ。
現在の在所
高階地区の中でも一番高齢化率が高い在所になってしまったよ。昔は子どもだけでも100人以上いたのにね。今小学生が3人だよ。それでも秋祭りには獅子舞を出しているんだ。子どもがいないので大人が踊るんだよ(笑)祭りとは自分達が楽しむことなんだ。昔は貧しくて閉鎖的な暮らしの中でも祭りになるとみんなが集まって、一杯飲んで楽しんだんだ。伝統は続けられるうちは少し無理をしてでも続けんとね。ここは伊久路から習った越中獅子で、衣装や烏帽子も婦人たちの手作りなんだ。
4年前からお盆には世代間や里帰りした人も故郷の人たちと顔を合わせられるようにと焼き鳥、焼きそば、流しそうめん、カキ氷など模擬店を出して夏祭りも始め、平成元年に神社を、平成16年に善行寺の本堂を建て替え、平成20年に集会所を新築、みんなで協力して一生懸命、今を頑張っているんだよ。
あきこの一言
暮らしの中に楽しみを作り、
仲良く暮す盤若野の人々。