七尾中学校 女子バレー部
3年生を含め、部員21人で活動しています。部では「感謝、礼儀、返事、態度」
がモットーです。 練習は試合本番のつもりで、ボールが落ちるまで諦めず追いかけ、
少しでも今の自分を超えられるよう日々努力しています。
学校生活では、挨拶や身だしなみをしっかりし、部員は宿題を必ず提出する事を
心がけて、勉強も頑張っています。 (林 菜穂)
3年生を含め、部員21人で活動しています。部では「感謝、礼儀、返事、態度」
がモットーです。 練習は試合本番のつもりで、ボールが落ちるまで諦めず追いかけ、
少しでも今の自分を超えられるよう日々努力しています。
学校生活では、挨拶や身だしなみをしっかりし、部員は宿題を必ず提出する事を
心がけて、勉強も頑張っています。 (林 菜穂)
大地主神社(山王神社)の弐の鳥居が今春、神社と能登國の1300年の節目に再建されました。
昭和36年まで銅版作りの弐の鳥居が建っていましたが道路拡張工事で撤去されました。
上部の三角形の破風(屋根)が特徴で山王信仰の象徴とされます。
全国大会への切符を手にしこの夏の練習は特に力が入っています。諒太朗くんは3年生と4年生の時にも県体会で優勝をしていますが全国大会は5年生から開催されます。石川県大会3連覇を成し遂げ全国大会は当然のごとく出場を決めたのだと思いきや、大会では逆転につぐ逆転とやっとの思いで優勝できたのでした。連覇していたのでライバルから研究されていたのです。準決勝、決勝と先に指導を取られる試合展開です。準決勝でなんとか小外刈りで、決勝では残り十数秒を残し逆転の大内刈りで辛くも勝利しました。
北野監督は普段は感情を表さない諒太朗くんがこの時ばかりはホッとした顔をしていたので、かなりのプレッシャーを抱えて戦ったのだろうと話します。諒太朗くんは「焦ったけど全国大会へ行くために絶対に勝たなければと気を入れなおして戦った」と言います。
中能登柔道教室のモットー
柔道を始めたのは保育園の時です。柔道三段で中能登柔道教室の指導者でもあるお父さんが双子の姉の一人、弘華さんに柔道を習わせようと教室へ見学に行った時です。一緒に連れて行った諒太朗くんの方が「楽しそうー、柔道やりたーい!」とお姉さんより先に入門しました。あれから6年、身長146cm、体重62kgの体格は5年生では重量級です。
現在中学1年生の双子の弘華さんと莉帆さんも中能登柔道教室で稽古に励み、弘華さんは小5の時に全国大会へ、莉帆さんも今年全国大会へ出場します。二人の姉にはまだまだ歯が立たない諒太朗君にとって姉は優しくも怖い存在なのです。そして自分が中学生になったらいつかは姉に勝ちたいとこっそり話してくれました。
全国大会では小5といえども重量級は大きな選手が出場してきます。けっして大きい方ではない諒太朗くんにどう戦うのか意気込みを聞くと、「相手が大きくて相四つだったら、つり手を落とし自分の組手になって足から崩し、チャンスを待って大外から払い腰で決めたい」と明確に話してくれとても頼もしく感じました。
オリンピックで金メダル!と大きな夢を持つ諒太朗くんですが気が優しく涙もろい一面もあります。石川県大会では団体戦も優勝していますがその準決勝で不甲斐ない試合をした諒太朗くんに監督が喝を入れました。実力があるだけに期待も大きいのです。諒太朗くんも自分の不甲斐なさに悔し涙を流し決勝戦の直前まで泣き続けました。その涙を拭いながら決勝戦に臨み見事に団体優勝に貢献したのですが、悔し涙を流してから闘争心に火がつく大らかな個性があるようです。
個々の力を最大限発揮するためにもみんなの力が一体となることが大切だと、子ども・保護者・指導者の三位一体の運営と指導が行われる中能登柔道教室。今年5月には今まで築いてきたネットワークで東海、関西各県代表チームの総勢400名以上が中能登町に集い合同練習を行いました。そんな恵まれた環境に身を置く諒太朗くんの成長が楽しみです。
全国大会出場選手の壮行式
昔は畑だったけど今では山になっている「お林」という120名からの共有地があるんだ。そこに「舘」と呼ばれる砦跡があったんだ。豪族小竹氏の砦でね、その名前が在所名の由来だと古老から聞いているよ。その砦の石が在所の瑞泉寺の石垣に使われ今でも残っているようだよ。
小竹の文化遺産とも言える話があるんだ。江戸時代に隣の久江の在所と境界争いがあったんだ。能登部のかんめんから枯木谷の峠までの尾根伝いを主張する久江とその直線を主張する小竹の争いは藩の奉行所でも採決できなかったので、小竹村の酒井惣左衛門が大事な自分の土地なら食べられるだろうと、主張がぶつかる土地の土を食べ比べすることを提案したんだ。大きな黒椀に土を盛ってたべ始めたら久江の人は二杯食べて倒れてしまったんだけど、酒井惣左衛門は三杯食べて小竹の主張する境界に決まったんだ。それほどまでに争ったのは山にある湯の谷池と新池の争奪戦だったんね。
水の無い小竹にとっては死活問題だったんだよ。酒井さんのお陰で小竹が救われたんだけど、酒井さんはそれで死んでしまったんだ。
命を賭けて在所を守った酒井さんのご恩を忘れてはいけないと屋敷跡に猿田彦神社を建て、お墓は峠に向かって建てられているんだよ。この話には続きがあってね、山のため池から小竹に水を引くことが難しい地形だったんだ。それで宝達金山の職人を雇って4本の隧道を掘って1.2㎞の江黒用水を引いたんだ。
ガチャガチャと24時間聞こえた機織工場が1軒も無くなり、子供のいない家が数軒あったけど、今は子供のいる家が数軒と寂しい限りだよ。在所の4つの組も今年から3つに再編し、壮年会も解散し納涼祭もやれないんだ。女性会、長寿会も会員が増えないし、みんな気楽な生き方を求めるご時勢だね。いろんな活動に積極的に参加して絆を強めることが在所の活力だと思うんだ。
そして出た人が戻り、移住者も魅力を感じる様な在所にするために、古くからのしきたりやしがらみも時代に合わせて変えなければならんと思うよ。唯一在所が結束するのは祭りとため池の堤防やそこへ通じる道路の草刈りなんだ。そう思うと今でも酒井惣左衛門さんに救われている在所なんやね。
お墓の前で枯木谷の峠を見上げる。
麓に並ぶ家々は、命を捨てた酒井惣左衛門さんが守った在所。
総踊りに参加しました!
木谷 沙耶香 (きたに さやか) さん
30才 A型
七尾へ戻って5年、実家で働いてます! 誘われて七尾青年会議所へ入会し、
リーダーシップと街づくりを学んでいます。
今年大きな役を頂き、小学生に地域のお仕事を体験するイベントを準備中です。
たくさんの楽しいブースを通じ、未来を担う子供たちに地域の良さを知って
もらいたいと考えました。 8月25日サンライフプラザで開催します。
詳細は、こみみ地元イベント情報欄を見て下さい(笑)
住 所:七尾市国分町井52-1
お電話:0767-53-2185
義父が創業した会社で30年経ちます。27才で社長に就任以来、がむしゃらに邁進しています。
建設業はとても幅広く奥深い仕事です。 だから“おもしろい !”。
街中の構造物や岸壁工事、ライフラインなどの全てに関係します。初心を忘れず創る楽しさを理念にし仕事に励みつつ、日々新しい事に取り組み学んでいます。
今後も地域社会の未来に貢献できるよう精進していきます。
住 所:七尾市大田町弐部73番地1
お電話:0767-54-0203
七尾市文化ホールにて行われ、秋田から内閣総理大臣賞に輝いた浅野江里子さんを
特別出演としてお迎えし、出演者が心を一つに熱い舞台を披露する事ができました。
民謡は「心のふるさと」とよくいわれますが、混沌とした世にあって「心のふるさと」を
耕し続けるのが私たちの役目と思い、これからも精進を重ねます (会長 寺口啓作)
直径24mの大きな水道水タンク。
この中には手取川の鶴来浄水場から送られる水が貯められ、七尾市の
水道水の約半分を賄っています。
手取川から七尾まで約130km、水が届くのに3日間かかります。
その費用は年間約4億8千万円です。1滴の水も大切に!
私はキングレコードに所属し14曲レコーディングしている演歌歌手です。イベント会場のステージで歌ったり、ラジオ出演やカラオケ教室を主宰しています。有名歌手の前座も400回を超えます。
「三橋さんが歌っとる、静かにして!」ラジオから三橋美智也の歌が流れると針仕事の手を止めて私たち兄弟姉妹に声をかける母。そんな環境で育った私は三橋美智也さんの歌が得意なレパートリーの一つです。
そんな母から「歌うたいなんて不良のするもんや、真面目に勤めておれ」と諭されました。私がバンドを組んで歌っているという噂を耳にしたのです。私が小5の時に父が亡くなり、女手一つで5人の子どもを育てた母は私の生活基盤を心配したのです。
中学を卒業して滋賀県の近江鉄道に就職しバスの車掌になりました。小さい頃から歌手になることが夢だった私は、早速同僚6人でザ・ブルージョーカーズというバンドを結成しドラムを叩きます。社内でも評判になり後に衆議院議長を務めた堤康次郎オーナーが東京からわざわざ観に来てくれ会社の研修所で20分間演奏をしました。演奏を終えると堤オーナーは私を呼んで横に座らせ、君は両手両足を動かしていてどうして歌まで歌えるのだ!と驚いていました。私は一生懸命練習しましたと答えました(笑)
しばらくして日本中にグループサウンズの大ブームが湧き起こります。ワイルドワンズのコンサートが彦根市民会館で開催された時、運よくその前座に出ることが出来ました。お陰で私たちのバンドは地域で爆発的人気となり連日ゴーゴー喫茶に出演するようになりました。会社から仕事とバンドとどっちが大事だと注意されますが、どこ吹く風で有頂天になっていた時代がしばらく続きました。そんな姿が風の便りとなって母に届いたのです。
細やかに指導
28歳の時に七尾へ戻りました。結婚して子供が1歳の時です。能登信用金庫理事長の運転手として採用して頂き真面目に勤めていました。
45歳の時に転機が訪れます。カラオケスナック「サラリーマン」の川端恵子さんとの出会いがあり、それがキッカケで能登歌幸会に入会しました。会長から「岬ゆたか」という名をつけてもらい、川端恵子さん作詞作曲の「恋の涌く浦」を頂き、トントン拍子にキングレコードからデビューすることになったのです。信金では副業が出来ないという規則がありましたが土日祭日に限りという事で歌手を続けることが許されました。3年間やりましたが平日はダメな岬ゆたかとレッテルが貼られ中途半端な活動になっていきます。
私は職場を辞め歌手として進んでもよいか家族会議を開きました。家内は「好きな事ならやったら」と前向きです。高1の娘は「そんなかっこ悪いこと恥ずかしいので止めて」と言います。中1の息子が「応援してくれる人おるんか?一人でもおるんやったらやれば。僕も応援するよ」と言ってくれ、その一言で心が決まりました。
あれから26年、何かあれば必ず応援してくれる人が現れ、助けて頂いて来ました。自分でも不思議でしょうがないのですが本当に恵まれていると感謝しています。後何年歌うことが出来るかわかりませんがステージでは必ず母の話しをします。歌好きだった母の思い出で涙する私ですが、そうやって歌うことが私に出来る母への一番の供養だと思っているのです。
カラオケ教室の皆さん
「せあらし」でなく「せらし」と発音するんだ。室町時代には瀬良志で、江戸時代には瀬嵐になっているようだけど由来はよくわからんよ。中島には熊甲祭の藤津比古神が瀬嵐に光臨して、鎮座地を決めるためにここから弓を放ち谷内の加茂原に落ちたという伝説があるんだ。熊甲神社の御神体は朝鮮渡来というから瀬良志というのも朝鮮からの由来のような感じもするけどね。
古墳が30基以上も発見されているから古くから人が住んでいたんだね。万葉集の「香島より熊来を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ」の歌は大伴家持が越中国の国司として能登を巡行したときに、七尾の港から中島の熊木まで船で渡った時詠んだ歌なんだ。当時能登は越中国に属していたんだね。もう一首、「香島嶺(かしまね)の机の島の小螺(しただみ)をい拾ひ持ち来て・・・」この歌の机の島が瀬嵐の机島で、確かにしただみがいっぱい採れたよ。この辺りが万葉の里と呼ばれるのはそんな由来で、それで万葉の里マラソンはここ七尾西湾を一周しているんだ。
ここは丸木舟の里でね、昭和20年代には七尾湾一帯で1000隻以上の丸木舟が利用されていたけど全部瀬嵐で作られていたんだ。舟大工も私が子どもの頃でも6軒あって各地から弟子も集まっていたけど要の技術は地元の人間にしか教えなかったと聞いたことあるよ。技を継承するために作られた最後の一隻がお熊甲の祭り会館に展示してあるんだ。
小学生の頃、日曜日に天気が良ければ弁当持って家中で丸木舟に肥しを積んで向かいの種子島(たがしま)に渡って畑仕事を手伝わされたけど、朝行けば夕方まで帰れないので本当に嫌だったよ(笑)
祭りで結ばれている在所やね。都会に出た人は正月も盆も帰らんと熊甲祭りに帰ってくるんだ。祭前夜は在所の両端にある奉幣宿と神社を鐘太鼓を鳴らし朝まで数時間おきに往復し、早朝5時から舟に神輿や大旗を積んで海を渡り熊木川を上って祭りに出るんだ。祭りが終わり夕暮れの海に鐘太鼓の音と共に提灯を灯した舟が遠くに見えると、港では無事を祈り帰りを待つ人々の間に、得も言われぬ連帯感が生まれるんだ。
そしてすべての祭り道具が故郷を想い都会で暮らす関東瀬嵐会の寄付なんだよ。本当に団結心の強い在所でその証が祭りなんだ。
櫓を漕ぎ渡る種子島、二艘仕立ての祭り舟。
万葉のロマン漂う瀬嵐の在所。
大津の弘法の霊泉で毎年営まれています。
美味しいお水が汲み放題です!
毛利 野々(もうり のの)さん
18才 O型
高校2年の後期頃から、大好きな七尾にたくさん関わる事のできる仕事を
したいと思い、進学せずに七尾市役所に就職する事を決めました。
今年から市民課で窓口対応をさせてもらっており、主に住民票の発行や
色々な届け出の受理などをしています。
様々なお客様が訪ねて来るので対応に四苦八苦しておりますが、課の上司、
先輩の皆さんの様に仕事ができるように一所懸命頑張ります。
住 所:七尾市新明町1番地
お電話:0767-53-8417
第2の人生を楽しんでいます。
30年以上七尾駅の食堂・売店で働きながら、いつかはうどん屋でも開いてお年寄りが集まれる場所をと考えていました。 大津のカラオケ店舗が空き、今しかないと感じてカラオケ喫茶にしました。
お店の名前「おしん」は昔から決めていたのです。耐える事の多い人生だったんですよ(笑)。
嫌な事も我慢もあるのが人生。 歌でふっ飛ばし笑顔で暮らしましょう !
住 所:七尾市大津町ヤ部26‐8
お電話:0767-57-5440
小学校時代のライバルと一緒に、全国制覇を成し遂げる為に一つ一つのプレイに
こだわり、諦めない心を持ち取り組んでいます。
仲良しで笑顔が絶えないメンバーですが、練習では互いに指摘し合う厳しさを持ち、
常に切磋琢磨しています。
学校生活では野球部員として、全校生徒に模範を示す事ができる様に意識し行動
しています。
顧 問:水本 友晴 先生、羽土 純 先生
主 将:金場 廉太くん
副主将:柿島 太陽くん
島町外にある天領庄屋の旧家で、明治12年から10年余りの歳月をかけた
豪壮な合掌組入母屋造り茅葺の建物。
仏壇の間の曲線の襖は必見です。
室木家は廻船業や酒造業を営み、明治35年、大正4年と親子2代で
国会議員としても活躍しました。
今年5月の石川県高校総体陸上ハンマー投げで53m02cmと北信越5県でも4位にランキングされる記録で見事優勝した栄真くんです。この記録ならインターハイ出場も視野に入り期待が高まります。そんな情報を得て栄真くんの取材に東雲高校陸上部を訪れました。
170cm、104kgのりっぱな体格の栄真くんは礼儀正しく、ハキハキとしたとても爽やかな好青年です。訪れた時はすでに北信越大会が終わり結果が出ていました。しかし残念な事に、通常の力を出し切れず46m62cmと惨敗だったのです。
重さ6kgのハンマーを直径2m13cmのサークル内で全身を使って投げ飛ばします。体力と技術以上にメンタルが結果に影響するようです。普段通りに投げれば大丈夫と周りは楽観していたのですが力を出し切れませんでした。県大会優勝と北信越大会惨敗。その結果を振り返ると、県大会では1投目で53mを投げたことで、後の試合運びに余裕が持てました。しかし北信越大会では力みが出て公式練習で体の動きが悪くハンマーが飛びません。この1本で不安が広がり頭が真っ白になったと言います。本番の1投目、2投目も記録が伸びず焦りが募ります。3投目までの20分間に立て直さなければなりません。
落ち着きがなく他の選手の投げるのをボーッと立って見ている栄真くんの姿を見た向田監督は、この期に及んでは技術的なアドバイスではなく、頭をフッきり状況を変える必要性を感じます。「ベンチに座れ!頭をリセット、目をつぶって学校の練習風景を思い浮かべ、何を練習して来たかポイントを思い浮かべて」とアドバイスしますが、時すでに遅くメンタルの勝負に敗れたのです。
石川県優勝
中能登中学時代に砲丸投げで石川県優勝し全中に出場した栄真くんには、ラクビーで羽咋工業、航空石川から声がかかり、東雲の当時陸上部監督の中西先生からも誘いを受けます。小学生から陸上に親しんできた栄真くんには迷いはありませんでした。そして幸いにも東雲高校にハンマー投げ石川県高校新記録保持者の遠藤先生が着任してきたのです。遠藤先生は栄真くんを見て、足腰と身体能力が良いので技術を身につければ伸びると感じたと言います。練習は投げ込みを基本として、平日は2時間以上、休日は3時間、4時間とハンマーを持ちます。練習用の重い球をゆっくり回しどこで力を入れるのか確認し、軽い球を速く回すことで体と足の運びの正確さを身につけていきます。また鏡の前に立ちイメージトレーニングを行ないます。
北信越大会での悔しい思いをバネに重心を低くするという課題を克服してリベンジを誓います。向田監督は一番負けて欲しくない所に負けた。その分何倍もバネになってほしい。二度と味わいたく無い程の屈辱であっても、あの時の負けがあって良かった、あの経験のお陰で今がある、と言える成績を残さなければならないと練習への心構えを指導します。
一皮むける糧を得た栄真くん、今後の成長が楽しみです。
東雲高校陸上部
元々は藤橋町の田んぼだった所に、昭和27年に市営住宅20戸が建てられ新たな町としてスタートしたんだ。藤橋の在所から離れ岩屋化石や岩屋の清水あたりから山裾に広がる田んぼしかないこのあたりを岩屋と呼んでいたのでそのまま岩屋町としたんだね。よく間違えられるんだけど岩屋化石や岩屋の清水のある場所は西藤橋町地内で岩屋町は鷹合川が御祓川に合流するあたりの小さな区域なんだよ。
若い夫婦が市営住宅に移り住んで来たんだ。市営住宅の周りにも家が建ち始め子どもの頃は小中学生で20人くらいいたね。駅前の御祓小学校に通ったけど私が小学2年の時に小丸山小学校と名前が変わったんだ。御祓校下は街なかの子が多かったので、岩屋の子はへんぴな遠い所から来ていると思われていたよ(笑)。
岩屋化石へ行ってはサメの歯や貝殻を採ったり、鷹合川で泳いだりうなぎを獲ったり、裏山で竹スキーしたりして遊んだんだ。川からの用水路も町内に流れてホタルが飛んでいたし、タイリクバラタナゴがいっぱい獲れたんだ。鷹合川が氾濫していたので河川改修した時に用水路への流れを止めてしまったんだ。そうしたらあの綺麗な魚が絶滅してしまったんだよ。
小丸山バイパスが開通したお陰で賑やかな街に変わったよ。大通りに面して衣食住のお店が並びお年寄りは助かっているよ。歩いて5分でなんでも賄える超コンパクトシティーだからね(笑)。大通りから一歩入れば閑静な住宅街だし生活するには便利な所だと思うよ。新しく誕生した小さな町会なのでお祭りもないし行事も春と秋の大掃除くらいかな。
近年はここでも御多分に洩れず少子高齢化が進んでしまい楽しみといえば1月の総会と懇親会で顔を合わすことなんだ。それで隔年で和倉温泉に行くようにしているんだよ。祭りも旅行も無いけど顔の見える町会なので近所同士の仲が良いのと、同年代同士で行き来しているので昔からまとまりが良い在所になっているね。冠婚葬祭など町内の情報はすぐ伝わり協力しあっているんだよ。最近は空地や空家も増えているんだけど、住みよい場所だから来てくれれば大歓迎しますよ(笑)。
辺境の地で興した在所、
歴史を知り隔世の感。
第2回定期公演(七尾美術館アートホール)
26年3月に会員4人でスタートし、現在は11名が岬ゆたか先生の指導を受けています。
「ものまねせず譜面どおりに、テンポに気を付けて、しっかり伸ばす」など細やかな
指導の元、3ケ月かけて1曲を徹底的に練習し、最終日には曲を収録します。
マスターした17曲は自分の宝物です。 仲間に会える練習日が待ち遠しいです。
(西村 光子)