こみみかわら版バックナンバー

第78回私の仕事は「パティシエ」です

腕がものを言う世界



私の仕事は「パティシエ」です
藤井幸治(ふじいこうじ)44歳
仕事歴 22年

パティシエの仕事とは

一口で言えばケーキ職人です。
ケーキを食べて人々が幸せな気分になって頂けるよう、
美味しさはもちろんですが、見ただけでも嬉しくなるようなケーキを作ります。

辻口博啓の店へ

やっぱり違う!
速さ、そして斬新さに驚きました。

パティシエ辻口博啓を初めて手伝ったときでした。
私も13年の経験があったのですが、もうさすがとしか言いようが無かったです。

9年前、
そんな辻口のお店ル・ミュゼドゥアッシュ和倉店に
香林坊大和のドンクから転職しシェフを任されました。

キッカケは香林坊大和の催事に
ル・ミュゼドゥアッシュが出店したときの事です。

同業者なのでとりあえずご挨拶をとお店へ向かうとすごい行列が出来ていました。
その忙しい中
すでに日本一のタイトルを持つ永田シェフにお会いすると、
礼儀正しく且つフランクに接して頂き、
その謙虚さに一目惚れしました(笑)。

この人とどうしても一緒に働きたいと衝動に駆られたのです。

鍛えられた根性

金沢デザイン学校を卒業、
印刷会社に就職しチラシ広告を作成しますが、
もっと直接的に人に喜んでもらう仕事がしたいと退社しました。

デザイン関係で人に喜ばれる仕事は何か書き出し、
最後は美容師かケーキ屋で迷いましたが、
最終的にケーキ屋と決めました。

しかし求人広告デューダにも
ケーキ屋の求人は無くとりあえず生活の為派遣社員になります。
高収入という事で鳶職の会社に半年契約しました。

敦賀火力発電所が現場で住込みです。
ここで思いもかけず根性を鍛えられる事になりました。
高所で常に危険と隣り合わせの仕事です。

とても怖い親方で何事もダメな事はダメと厳しく指導します。
あまりの厳しさに夜逃げする若い人もいました。

学生時代は何事も諦めが肝心と何かあれば
悪ふざけしながら適当に流していました。それがカッコイイと思っていたんですね(笑)。
そんな私の根性が叩きのめされました。

諦めずに頑張ると頑張った分だけ認められます。
認められる喜びを知り、もう半年お世話になる事にしました。
ここでの1年間で諦めない大切さを学びました。



アメ細工に魅せられて

和倉店のシェフパティシエとなり3年目に石川県洋菓子コンテストで優勝しました。腕がものを言う世界で一つの証が立てられ本当に嬉しかったです。作品の制作に使う時間は直接売上に貢献しない時間です。ふつう40歳を過ぎると出品せず後輩の指導に当たりますが、私は41歳の時、ラストチャンスだと上司である永田グランシェフに願い出て国際大会の予選を兼ねる内海杯にアメ細工で出品し優勝。昨年日本代表としてフランスでの国際大会で3位になりました。アメ細工は今のお店で習い始めたのですが、こういうキッカケを与えてもらいチャレンジさせてもらえる環境に、そして工芸品のようなアメ細工を作る感性を育む自然と文化が調和する能登の風土に感謝しています。お店でも中島菜、崎山のイチゴ、珠洲の揚げ浜塩、輪島の活地気米、能登ミルクなど地元食材を使い何種類ものケーキ屋や焼き菓子を作っています。今、辻口シェフが日本のスイーツ文化を世界に発信していますが、私は石川を日本有数のスイーツ県にしたいと思いを巡らせています。



ル・ミュゼドゥアッシュ和倉店 ☎62‐4000
2017年取材


点字マスターズ

徳田 晴子 (とくだ はるこ)さん

60才

2年前、七尾で点字の翻訳をする人がいないことを知り、私たちでもお役に立てるならと、二人で点字マスターズを立ち上げました。

カレンダーや社協だよりなど身近なものから点字にし、視覚障害者協会へお渡しして利用者の方とも交流を深めています。

活動日は第1、第3の土曜日、午後2時からワークパル七尾で行っています。興味のある方、点字のボランティア活動を一緒にやってみませんか。



住 所:七尾市白馬町32‐38

お電話:0767-57-2233


はい!社長です-ミスタータイヤマン小西


ミスタータイヤマン小西 小西 孝志(こにし たかし)さん 57才 O型

父の後を継ぎこの世界に入り33年経ちました。若い頃はホイールや内装などで個性ある車に仕上げることが楽しかったです。

最近は効率やスピードを求める時代ですが、車は命を預かります。プロとしてタイヤのバランスや状態を確認し、手間隙を惜しまず安全性を高めるようにしています。 たとえば料理も手間を掛けちゃんと作った分だけやはり美味しく出来上がるのと同じなんですね。(笑)


住 所:七尾市国分町ウ35‐1
お電話:0767-53-6590


旧観坊


坊は大きなお寺に属する、小さな寺院です。

最盛期に約360あった坊が焼き討ちにあい、江戸時代に58坊が再興した石動山。

旧観坊は現存する唯一の建物です!屋根の茅葺きが時代を感じさせます。


西岸公民館inさくら会


「仲良しグループで集まって楽しまんかいね~」の一言で始まった”さくら会”。月一回程度、西岸公民館に集まってワイワイ楽しみます。次は、いつにする・何をする・何を食べる?など言いながら、通院日やお寺参りの日を調節し、次回まで元気に過ごす事!美味しい食事を食べる事!日々の生活において次回の集まりを目標にして笑顔で過ごす事!です。高齢者なんて言わせません(笑


第111回 七尾市江曽


在所名の由来

邑知地溝帯が海だった頃、東側陸地と西側陸地の間でここが
幅約1kmと一番狭いことから交通の要所となり、
昔からエミシと呼ばれる蝦夷(えぞ)が住んでいて、
それでこの地を越蘇(えそ)と呼んだのが始まりで、
古代平安時代に越蘇駅と駅名が記され、中世鎌倉時代には越曽や恵曽になり、
近世江戸時代で江曽になったと聞いているよ。

宿駅

平安京を中心に東西の街道に駅がおかれ、
能登では羽咋のよき(現在余喜)の次がここでね、
室塚さんの総本家の裏に駅があったと伝わっているよ。
江戸時代に交通が活発になり高畠、二宮にも駅が置かれ
宿場町が形成されていくのだけど、江曽はそうならなかったんだ。
江戸時代になって飯川に新しい道が出来、畠山時代までの本道が移ったんだよ。
それで飯川が宿場として栄えたんだよ。
新しい道路が出来ると旧道のほうは廃れるのは今も昔も同じだね(笑)。
そんな歴史があるので、おいで祭りの馬も江曽と飯川を毎年交替で通っていたんだ。
今はルートが変わってどちらも通らないけどね。

江戸時代に木挽き23人と記録があるけど、エソ档(あて)が産物だったんだ。
北前船の帆柱に適していると、かほく市の木津まで大八車に積んで運んだらしいよ。
青柏祭のデカ山の柱も奉灯の角材もすべてエソ档を特注して作っているけど、
江曽の山の地勢と土壌が適していたのとカナ档から独自のエソ档に育て上げてきた先人の努力の賜物なんだよ。
養蚕も盛んだったんだ。
戦争中に繊維不足を補うために、子ども達が養蚕場に集まり
桑の木の枝の皮を剥いで軍服用の繊維にしていたそうだよ。
その養蚕場を昨年12月まで江曽の公民館として使っていたんだ。

これから

新しい公民館の落成式を平成28年12月25日に行ったところだよ。
新たな時代に備え、ここを拠点にして在所が結束していきたいね。
手始めに毎週金曜日の10時から、いきいき100歳体操を始めたよ。
その後に踊りやおはじきなどみんなで楽しんでいるよ。
少子高齢化は進むけど、まず今住んでいる人たちが明るく元気で、助け合って仲良く暮らす。
そして伝承すべき行事ごとを伝え残す。
町会長は2年交代制だから短期決戦で目の前の課題を一つ、一つだよ(笑)。

まぁの一言

移りゆく自然、産業、暮らしの中で、
逞しく生きてきた、古くからの在所。


中島ストアー

長谷川 新 (はせがわ あらた)さん

20才 A型

高校時代から、中島ストアーさんでアルバイトとして働かせて頂いていました。卒業後に「このまま働かないか?」と声をかけて頂き、とても感謝しています。

今は、鮮魚コーナーを担当しています。魚を早く、綺麗に捌くことができるよう、頑張っています!

私生活では、結婚を約束した大事な人がいるので、仕事も私生活も充実できるよう、楽しみながら成長していきたいと思っています。



住 所:七尾市矢田新町ホ‐49

お電話:0767‐53‐0988


はい!社長です-今村石油


今村石油 今村 洋司(いまむら ひろし)さん 44才 O型

釣り好きが高じて、海のある在所に住居を構えました。娘2人も大きくなり、今は家内と日々穏やかに過ごしております。二十歳の頃から、この仕事に携わって二十数年。色々な事を学ばせて頂きました。この地域の現状はとても厳しく、毎日模索の日々です。

今、中島地区にはスタンドが2店舗しかありません。だからこそ、地域の皆様に不便をかけないよう、キメ細かなサービスを今まで以上にやっていきたいと思います。

これからも、地元の方々の拠り所になれるようなお店にしていきたいと思っております。

住 所:七尾市中島町浜田1部56
お電話:0767-66-0048


天日陰比咩神社あめひかげひめじんじゃ(二宮神社)


逆立ちをした、珍しい狛犬が鎮座する中能登町二宮の神社。ひょいっと、ポーズをとる姿は、愛嬌たっぷりです。

鎌倉時代に、能登國一ノ宮気多大社につぐ名社として能登國二ノ宮に指定され、現在に至るまで各地より崇敬されています。


御祓中学校バレーボール部


御祓中学校は、3月いっぱいで閉校するので、残り少ない大会を一生懸命戦います。中でも北信越新人大会(3/18・19加賀で開催)は、御祓中学校として最後の大会です。石川県代表、御祓中学校として、胸を張って試合に臨みます!新しい中学校でも、このチームワークの良さを生かして、頑張ります!!


第110回 中能登町 二宮


在所名の由来

羽咋の気多大社が能登国一宮で、在所の天日陰比咩(あめひかげひめ)神社が
能登国二宮と鎌倉時代に定められたんだ。
それでこの在所が二宮となったと思っている人が多いけど、
本当はそのずーっと前から二宮なんだよ。
天日陰比咩神社の境内に、もう一つ伊須流支比古(いするぎひこ)神社があるんだ。
この二つの神社があるから、この在所を二宮と呼んだんだね
。後に泰澄大師が石動山を開山する時、伊須流支比古神社から
御霊を分霊したんで石動山を上社、こちらを下社とも言ったりもするよ。

宿場町

東往来の宿場町で大きな旅籠が3軒、馬も33頭いたと聞いているよ。
江戸時代に宿駅伝馬制度が定められ各地の街道に宿駅を設けて
その区間ごとに荷物や手紙をリレーして運んだんだ。
そこに人や荷物が集まり宿場となっていくんだね。
両隣の宿駅は江曾と高畠で、二宮の荷役区間は飯川から久江までだったんだ。
当時のトラブルが記された文書を見るといろんな事があったようだよ(笑)。
それと駅伝競走も駅から駅へ伝えるこの制度にちなんで駅伝なんだよ。
ここは石動山の登り口でもあるし、当時は本当に賑わったんだと思うよ。

どぶろく

二宮神社ではどぶろくを造っているんだ。
12月5日の新嘗祭は在所ではどぶろく祭りとも言って新酒を神様にお供えし、
直会(なおらい)でご相伴に預かるんだ(笑)。
どぶろく造りが認められた神社は県内で三社あるけど全部が中能登町にあるんだよ。
区民が自然農法で酒米を作りそれでどぶろくを造るんだ。
それとここは二宮川の豊富な水で恵みを頂いてきた在所だから、
その感謝を忘れないようにと子ども会で田植え、稲刈り、餅つきの行事も行っているんだよ。

これから

町では在所で一人は防災士という方針だけど、
今年は四人にお願いして防災士の試験を受けてもらうんだ。
それと区の山が猪に穴だらけにされているので、間伐して整備しておきたいね。
今年33回を迎える区民運動会、獅子舞も春秋と踊るし、
老若男女が何事も一生懸命に頑張っている姿は頼もしいよ(笑) 

まぁの一言

比咩と比古が鎮座し、神仏のご加護あり。
昔も今も活力ある在所。


第77回私の仕事は「生活支援員」です

人生、なんとかなるさぁ!



私の仕事は「生活支援員」です
山科ゆかり(やましなゆかり)さん52歳
仕事歴 1年半

生活支援員の仕事とは

私の場合は
怪我や病気で身体に障害を負った人が社会生活に復帰できるよう
作業療法士(OT)、理学療法士(PT)と共に
機能回復の支援を行っています。

リハビリの難しさ

立てば膝が折れ倒れ込む、このままでは車椅子の生活になるかもしれない。

そんな人が、3月12日の万葉マラソン5kmウォークにエントリーし驚きました。
特別な訓練をしたわけではありません。

補助道具としてシルバーカーを提案したのです。
それで頑張ろうと思ってくれたのですね。
体が不自由になると心も気弱になります。

本人の状態や家族の状況など様々ですが、
利用者の方に寄り添い、家族が出来ないような支援をします。

リハビリは障害があっても基本的には自分で動けるし喋れる人です。
してあげなければと思う気持ちと、
自立をしてもらうというバランスが難しいです。

提案しても出来ん、出来ん、無理!無理!と言う人もいれば、
余計な話しはしたくないと心を閉ざす人もいます。

言葉一つで関係性が悪くなったり、また回復したりします。

私は通所の8人を受持ちながら、全体で割振られたプログラムも担当します。
1時間単位の訓練が9時半か午後3時まで続き、
その後は送迎、4時からデスクワークです。

信頼関係を築くためコミニケーションはとても大切です。
時間に追われる毎日ですが、
受持つ8人とはお昼時間や送迎時を利用して出来るだけいろんな会話をします。

きっかけ

高校を卒業してから8番目の仕事です。
結婚、自営の廃業、不景気での解雇など、転職を繰り返しました。

8年前、
ハローワークでオムツの配送の求人があり、
家で2トン車の経験があったのでドライバーならと応募しました。
恵寿総合病院の関連施設、田鶴浜のワークセンターです。

ところが職業指導員をする事になり2年間、
更に袖ヶ江の障害者生活支援センターに移り4年間と福祉の仕事に携わりました。

実務5年で介護福祉士が受験できる制度が無くなる最後のチャンスだと勧められ
大原学園金沢校の国家試験対策講座へ毎週日曜日通い昨年試験に合格しました。

青山彩光苑では介護福祉士としてではなく、
生活支援員としてリハビリテーションセンターに配属され1年半が経ちました。



家族の介護

介護をと思った訳ではなく、
配送の運転手と思って応募したら自然とこうなっていったんです(笑)。
これは偶然ではなく必然なのでしょうか。

嫁いでから波乱万丈いろいろあり家族全員で働きました。
子育ては奥ばあちゃんが面倒みてくれ、
義理の父は私が仕事から帰るのを待ち一緒に晩酌を楽しみました。

そんな二人が相次いで倒れ、
病院や自宅での看病や介護ためパートに転職したのですが、
自分の時間が束縛される中で、
気持ちがあっても十分に寄り添ったケアが出来ているのか、
理想と現実の狭間で苦悩しました。

当時入院先で見様見真似で介助していると、
看護師さんから
「あら上手ですね、介護士さんですか」
と声を掛けられました(笑)。

今は二人とも施設にお世話になっていますが、
家族のそんな姿を見て来た息子は
国際医療福祉専門学校七尾校に進み
現在は救急救命士です。

私も好むと好まざるとに関わらず、
何かに導かれているのかもしれません。
何があっても全力を尽くす突破力が私の取り柄です。

公私共に、
まぁー、なんとかなるさぁ!
と頑張っているところです(笑)



青山彩光苑 リハビリテーションセンター ☎57‐3309
2017取材


フリーヨガセラピスト

藤田 京子 (ふじた きょうこ)さん

♡才 AB型

ヨガの哲学は、「今という瞬間に集中する」こと。「今を生きる」です。

私は人生で絶望的で悲観的な時とりあえず健康になればとヨガを始めました。ヨガを通じ多くの方と出会い、多くの気付を頂きました。

今、インストラクターを養成する中で、技術だけでなく見えない部分の世界を伝える難しさを感じています。そんな生徒が講師となり健康や喜びを伝えている姿を見ると本当に嬉しいです。



住 所:七尾市神明町1番地(ミナクル7O)

お電話:0767-54-8511


はい!社長です-おでん串あげ灘 


おでん串あげ灘 廣瀬 智博(ひろせ ともひろ)さん 44才 A型


かつての七尾の賑わいを取り戻したいと思い、金沢・東京で経験を重ね、戻ってきました。

これまで、母が50年この店を守ってきた様に、これからは自分が、いつでも誰もが帰ってこられる場所として続けていきたいです。自分も東京出身の妻と子どもを連れて戻ったUターン組ですが、同じようにUターン・I ターンの方々も増えていて心強いです。

この店を通じて地域の方々と移住者の方々等が垣根のない交流を持ち、七尾の魅力を再発見したり、新たに生み出していけたらなと思います。


住 所:七尾市大手町135‐1
お電話:0767-53-0829


喜美代会 鹿島支部 


みんな仲が良く明るく楽しい教室です。高齢者施設への訪問など、メンバーは見ていただける皆さんに少しでも喜んでもらえるようにと、一生懸命に 稽古しています。色々な衣装を身に着け、普段の自分とは違う姿、舞台人になりきり臨む発表会は、怖くもあり楽しくもあり興奮します。


松島海水浴場


透明度が高い海が広がり、時には立山連峰も望める、風光明媚な所。

キャンプ場の目の前が海であり、キャンプと海水浴を同時に楽しめます♪小さな小島「松島」へは海岸から渡る事も出来ます。

能登島野崎町にあるスポットです。


第109回 能登島町 無関


在所名の由来

江戸時代に流刑地である島内でここだけ関所が無かったので無関になったという説があるけど、
向田の伊夜比咩神社所蔵の1400年代の古文書で閨・牟関と出てきて、
1500年代の拝殿建立棟札に無関とあるんだ。

流刑は加賀藩が1636年から始めたので、流刑地で関所、だから無関という説はどうなのかなぁ。
それと大和朝廷が後に島八太郎と呼ばれた8人衆を派遣した時、
先住の蝦夷(えぞ)が身の危険を感じて、無関の山に集結して、
ここから船を出し大口瀬戸を抜け越後に逃げたと伝え聞いているんだ。
集結した場所を蝦夷揃いと言い、それが訛ってイスルギと呼んでいる場所があるよ。
この逸話を元に、逃げる事が出来たのは関が無かったからと結び付ける説もあるけど、
在所の年寄りに聞いても本当の所はわからんと言っているよ。

在所の歴史

古老によると、元々ここは長興寺の前に5世帯が住んでいたんだ。
上杉謙信の七尾城攻めの戦乱を受けて中島の長浦から河崎門徒の
10世帯が移ってきて、今の在所が出来て行くんだね。

明治22年には27世帯、181人になっているよ。
県道工事の時に古墳時代の製塩遺跡が出たけど、昭和初期まで揚浜塩田をやっていて、
海岸の奥の田んぼと熊谷さんから5軒は塩田だったと聞いているよ。
無関には二人が流されて来たんだ。流刑者といっても知識人だから、
だんな様と呼んで、字などを習っていたようだよ。
在所の一段高い場所に住んでいて、そこを、
だんな様の高、だんなん高と今でも呼んでいるよ。
その子孫が東京都の副知事になって、戦後先祖を訪ねて来て行ったそうだよ。

昭和30年代からの葉たばこは在所の8割が始めたんだ。
米の倍儲かると言う触れ込みで、確かに一時期は良かったけど、
だんだん合わなくなって皆辞めたんだ。
子供の頃は学校から帰れば蛸つり、夏は水中メガネと網袋を持って
海に飛び込んでサザエを何十個と獲ったもんだよ

無関は全国的に有名な釣スポットでシーズンには太公望が並んでいるよ。
今、小中学生はいないし、青年団も、婦人会も、
老人会も解散しているから、すべての行事は町会でやるけど、
在所といっても班みたいもんだから、冠婚葬祭すべて助け合って生きているんだ。
半分が年寄り世帯だし、行事ごとも無理せんとやっていかんとね。

まぁの一言

小さな在所にいっぱいの歴史。
移ろいに従い、身の丈で暮らす。