こみみかわら版バックナンバー

亀石(親子亀)


亀そっくりな自然石、人の手は加えていません! ここは田鶴浜伊久留。

大きな親亀に寄り添う、子亀が何とも微笑ましいです。かつては行きかう人々の一服の場所だったとのこと♪

伊久留には、山にも畑にも自然石は、この亀石以外ないそうです。


フィットネスガレージななお

宮崎 尚彦 (みやざき ひさひこ)さん

51才 B型

子供の頃からスポーツが大好きで、スポーツを通して楽しむ、チャレンジ、感動、健康など、様々なことを得ることができました。この喜びをより多くの人に伝えたくて、この仕事を25年続けています。

まだ誰もやったことのないようなスポーツ体験の場を作り、どの年代の方にも喜んで頂きたい。そして、七尾を日本中から注目される地域にしていきたいと思っています!

フィットネスガレージがTV取材を受けたときにご紹介した草履式鼻緒サンダル
「はなおくん・はなおちゃん」が好評です!価格は1,890円。是非、お試し下さい!



住 所:七尾市竹町大天神山26番地

お電話:0767-53-5671


はい!社長です-M'sgarage エムズガレージ


M's garage エムズガレージ 水野 美樹(みずの よしき)さん 53才 B型


自動車整備・販売業をしております。エチオピアでの国際協力活動を終えた時、次に心惹かれた場所が生まれ育った能登でした。それは家族と地域のために働く大切さをアフリカの大地で学んだからです。

農機具から輸入車まで幅広く携わり気づけば早19年。本業を生かし、田鶴浜地区の防犯安全パトロールの発足に向けてアイデアをひねる楽しい毎日です。


住 所:七尾市三引町4‐30
お電話:0767-68-8060


第117回 中島町別所


町名の由来

能登島にも金沢にも別所はあるけど、
山奥で不便な所を一般的に別所と言うのではないかと思うね。
ここも七尾市中心地から一番遠い在所ではないのかな。
中島町史には西暦1577年、天正5年5月16日、
長連龍(ちょうつらたつ)の兄、長綱連(ちょうつなつら)が
36歳の時に中島町谷内の熊木城を上杉勢から奪回するため宮前の在所に前線を構え、
兵1500を別所村に布陣すると記されているんだ。
別所から谷内に通じる一本の山道があるけどそこを塞ぐ布陣だったんだね。
いずれにせよ安土桃山時代には別所と呼ばれていたということだね。

別所の歴史

在所では久保さんの屋号が丹後で、丹後守(たんごのかみ)と呼んだりしているけど、
応仁の乱で京都の丹後国(たんごのくに)から逃れてきたと伝わっているんだ。
久保家古文書で別所の世帯数、人口、出生、牛馬の数などが記録されていてね、
1730年から1889年の明治22年まで25か26が別所の世帯数で、
人口は220人から250人前後で馬は28頭、牛2頭だったんだ。

第13代藩主前田斉泰(なりやす)が海岸防備状況を視察する能登巡見で別所岳に登っているんだ。
その時、丹後守の久保家で休憩しているんだ。
小学校は西岸小学校別所分校だったけど昭和37年の
2学期から釶打小学校別所分校となったんだよ。
私が小5の時で1学期だけ西岸小学校へ通ったんだ。
道路整備が進み人の流れが西岸から釶打に変ったんだね。
それにしても小学生が別所から遠い西岸まで山道を朝早くから通学したと思うよ。
学校に着いた時にはズボンが朝露に濡れてくしゃくしゃになっていた事を思い出したよ(笑)。

昔と今

別所は天領だったんだ。別所岳に登ると七尾北湾が一望でき地勢的に重要だったんだろうね。
田を開き、炭を焼いて、個人で兎や狸、集落で猪や鹿を獲っていたと言うから自給自足の暮らしだったんだね。
中島へ勤めに出たのが昭和40年代だよ。
谷間の小さな田んぼの石積みを見ると先祖の苦労が分かるんだ。
超過疎地になって、悲しいけどしょうがないね。
在所の事もお互い様で、てんでんに出来る事はせんかいね、出来んことは無理せんとね。
が合言葉だよ。流れに身を任せて今を暮らしていくだけだよ。

まぁの一言

穏やかな日和、山道を進み、別所岳に登る。
わぁー!と思わず声が出た。
故郷の山と海を一望。


七尾市少年剣道教室


小丸山・徳田・香島クラブと合同に、毎週火・水・金に七尾武道館で練習をしています。剣道は竹刀が身体に当たるため、初めは怖いが練習を重ねるにつれ、思い切り打てるようになります。大会でもこれが大事になり、身長・年齢で不利はあっても「負けない」という気迫を持てば、強くなれます! 7月の全国大会出場に向けて、猛練習の日々です。


ゴーゴーカレー七尾矢田新町スタジアム

中町 聡 (なかまち さとし)さん

50才 O型

知人の紹介で、2ヶ月間、金沢駅にある店舗で研修を受け、4月15日にオープンしました。

七尾に住むのは初めてなので、不安でしたが、周りの方のお陰もあり、頑張っています。常連の方も増え、「七尾にゴーゴーカレーができて嬉しい」という言葉を聞くと、頑張って応えたいと感じます。

地元の方や周りの方に愛される店作りに励み、美味しいカレーを七尾に広め能登を元気にしていきたいと思います!



住 所:七尾市矢田新町ト部30‐2

お電話:0767-57-5511


はい!社長です-オフィスT&H


オフィスT&H 宮野 勝弘(みやの かつひろ)さん 63才 AB型

前職は車の販売会社に32年勤めました。
その間保険も扱い、多くの人に「安心」「安全」を届ける保険業にやりがいを感じ、
51歳の時に転職しました。

先代社長の急死にも拘わらず、七尾のお客さまと強い絆で結ばれ、励まされ、
ここまでくることができました。
「お客様第一主義」がモットーであり、お客様の身近なパートナーで居続けたいと思います。

趣味のゴルフや、地域貢献活動のクリーンビーチなども積極的に行い、充実した毎日を送っています。

住 所:七尾市本府中町ヲ部6番地
お電話:0767-52-5030


ふるさと創修館


中能登町鳥屋庁舎前に建つ、正面の造形物がとってもユニークな施設♪

館内には曳山をはじめ、古代の土器、昔の農機具等、多彩なものが数多く展示されています!

図書館も併設され、町の歴史や文化、学習の場として町民に利用されています。


青柏祭にて


天気よし!ビールよし!笑顔よし!


第116回 中能登町小田中


町名の由来

小さい田んぼの中の在所だったのかねぇ。
親王塚の前にある大きな石は舟をつないだ石だと
伝わっているのでそこまで邑知潟だったようだよ。
私の親世代は鹿西の能登部を向岸と呼んでいたから、
今のように田が広がっていなかったんだ。
鎌倉時代の古書に小田中保と、平家物語にも
小田中の親王塚と出てきているから、
そんな頃にはすでに小田中と呼ばれていたんだね。

神仏の歴史

親王塚は、第十代崇神天皇の第5子で能登の国造りに
大変な功績を残した大入杵命(おおいりきみのみこと)の墓なんだ。
4世紀後半に作られたといわれ、北陸随一の大きさで貴重な
出土品からも当時ここが能登の中心地だったことが伺えるんだよ。
その親王塚のてっぺんに大入杵命を祭る御祖神社があって、
在所では神輿を担いで登って祭りをしてたんだ。

明治になって神社が今のお宮に合祀され、人が登ることも禁止されたけどね。
この地区が御祖(みおや)となったのはこの神社の名前からなんだよ。
在所を流れる長谷川上流に能登国観音霊場10番札所の初瀬観音があるけど
毎年7月9日、10日にお参りするんだ。
七尾から参拝者も来るので当番を決めて朝早くからお世話させて頂くんだ。
昔は在所をあげてお参りしたけど、近年は少子高齢化が進み
在所でもお参りする人が少なくなって寂しいんだよ。
それと上杉謙信の能登攻めで在所に33もあったお寺が全部焼かれた歴史もあるんだよ。

福俵

昔、小田中に福田の在所の飛地があって、
そこの池に棲む大蛇が田んぼを荒らし困っていたんだと。
それで若い娘を人身御供に出していたけど、
その家の人は悲しみ小田中の神社の久志稲田姫に相談したら
気多大社の大国主命にお願いしてくれて大蛇を退治してもらったんだ。
そのお礼にと福田の人達がそこでとれたお米三石三斗を小田中の神社に奉納し、
それが伝統行事となって今でもおいで祭りが小田中の神社に入るとき、
福田の人が三升の福俵を黒塗りの三方に載せ正装で行列の最後に並ぶんだ。
年が明けた気多大社の新年祭でその福俵のくじ引きが行われるんだ。
なんと昨年、小田中にこれが当たったんだよ(笑)
良い縁起が続くよう、みんな仲良く頑張っていきたいね。

まぁの一言

まだまだいっぱいの、
歴史物語が詰まった在所


能登島ジュニア バレーボールクラブ


感謝と挑戦をモットーに日々練習に励んでいます!毎週、地区の青年団の方に来て頂き、指導をしてもらっています。 大人の強い球を受ける事が出来るので、私達にとって良いレシーブ練習になっています。 まずは、レシーブなどの基本練習をしっかりし、素早い攻撃や複数のパターンを交じえ、相手を惑わすバレーをしていきます。 目指すは県体優勝!


第80回私の仕事は「豆腐職人」です。

単純、ゆえに奥深き



私の仕事は「豆腐職人」です。
茶谷 浩之(ちゃたにひろゆき)さん(55歳)
仕事歴 33年


豆腐職人の仕事とは


基本的には大豆を水でふやかし、挽いて、煮て、搾って豆乳とおからに分け、にがりを打って、型箱に寄せ、切った豆腐をパッケージする作業です。私はその全ての工程に妥協することなく、お客様が一口食べた時「おっ」と思ってもらえる豆腐を作るため日々考え続けています。


職人魂


国産大豆でもピンキリあり、にがりも種類が沢山あります。季節によって大豆を水につける時間、煮る時間も調整します。それらの微妙な違いで豆乳の濃さが変り、豆腐の味が変ります。こだわるとキリがありませんし、やればやるほど壁にぶつかります。お客様も十人十色で、味なのか、食感なのか求めるものも様々です。旨い豆腐とは味、食感、色、匂い全てを追い求める必要があると思っています。お客様は自分の好みの細かな所には敏感に反応します。店に買いに来てくれる常連さんは忌憚の無い評価をしてくれます。今日これは良かったと思える豆腐が出来て、翌日同じようにやっても、同じものが出来ない。答えが無いと言うか1+1=2とはならないのです。さらにお客様の美味しいには数字がないのです。豆腐作りは手を抜けば単純な作業になります。それであれば私は辞めていたと思います。単純だからこそ出来栄えに奥深さを感じるのです。いつももっと旨いものがあるのではないかと思っています。材料を取り替えて味を変えることは簡単です。そうではなく同じ材料を使って極めていく。その日の気温や湿度などで、豆の挽き加減、ほんの微々たる水の量や、煮る温度や時間を調整し、そのデータを毎日記録します。出来た豆腐の味を確認し、もっと美味しくするために何をどうすれば良いか仮説を立て探求します。微細な加減から無限の味が生じます。その中から自分が納得できる味を見つけだす。ゴールは無いのかもしれませんが、それが職人ではないでしょうか。これは刃物職人が刃先に触れ五感を研ぎ澄まし切れ味を求めていく姿と相通じると思います。



毎回記録を


五代目


私で五代目です。強い思い入れはなく母がリウマチで出来なくなったので手伝いを始めたのがキッカケでした。豆腐は木綿、焼き、絹ごしと種類が増えて来ました。昔は木の型箱に木綿を敷いて蓋をして重石を載せ型箱の穴から豆腐の水分を出して木綿豆腐を作りました。それを串に刺して焼いたものが焼き豆腐です。最近はバーナーで焦げをつけます。ステンレスの型箱が出てきてからつるつるした絹ごし豆腐が出来るようになりました。七尾名物、夏場の茶碗豆腐は卵が高級品だった時代に、卵を模して中に黄色いからしを入れたという説もあります。豆腐は主役ではなく脇役です。肉や魚の添え物なんですね。それでもバリエーションを広げ食卓に出番を増やそうと豆腐職人が知恵を絞ってきたのだと思います。一口食べた時、「おっ」と思ってもらえる豆腐を目指していますが、料理屋で出された茶やの豆腐が美味しかったと言ってわざわざお店に買いにきて頂いた時などはとても嬉しく思います。家内と二人三脚で30年以上経ちましたが、自分達の求める味に賛同していただけるお客様がいることが何よりの励みになっています。二人で賄っている店なので数に限りがありますが、今はどんたくの新鮮館、ベイモール店、タント店でお求め頂けます。



手作りの逸品



妻、菜穂美と共に


2017年取材


松本町 茶や豆腐店☎52‐1499


七尾市立七尾中学校


今年4月に開校した七尾中学校。スクールカラーは「藤」色で、外観は長谷川等伯の水墨画をイメージしています。

ピカピカの新校舎で学ぶ、生徒の元気一杯の声が響きます。

文武両道、元気に明るく、世の為、人の為、自分の為にも、頑張ってちょ!


公文式 小丸山教室

豊森 智子 (とよもり ともこ)さん

36才 AB型

4歳と1歳の子供がいます。七尾に帰ってくる前は名古屋でスポーツ指導者養成専門学校の先生をしていました。当時は仕事第一の生活でしたが、子供ができ、子供と向き合う時間を持ちながら仕事をしたいと思い、出会ったのが「くもんの先生」でした。

公文式はひとり一人に合った学習で、持つ力を最大限に伸ばす事を目指しています。「できた!」の笑顔が溢れる教室になるよう、一緒に成長していきたいです。



住 所:七尾市小丸山台3丁目13‐2(ディサービスひなたぼっこ内)

お電話:080-8693-1797


はい!社長です-ハヤシ看板工芸


ハヤシ看板工芸 林 将之(はやし まさゆき)さん 61才 O型

看板全般、屋内サインや、製作・取付の仕事です。全くのゼロから看板業なる生業を始めて、がむしゃらに前だけを向いて走り続けました。今立ち止まり、振り返ってみると23年も経っていたんですね。

お客様がいて、助けてくれる人がいて、教えてくれる人がいて、支えてくれる人がいて。ただ、ただ「感謝・お陰様」の思いです。

「一期一会」これから先、仕事、プライベートでどんな出会いがあるか、楽しみでなりません!

住 所:七尾市満仁町ヨ‐31‐1
お電話:0767-57-1357


第115回 七尾市三島町


町名の由来

江戸時代には竹町で、明治5年に三島町と改名されたんだ。
なんで三島になったかわからないんだ。
ここは元々海に沿った町で子どもの頃は魚釣りや蛸釣りして遊んでいたけど、
ふと海を眺めると、沖には能登島と雄島、雌島が浮かんでいるんだね。
この三つの島を眺める在所なので三島町になったんではないかと想像しているんだよ。

昔の三島町

七尾港を中心に栄えた町でね、昔は回船業を営む船主が9軒もあったんだ。
慶応元年に架けられた慶応橋の袂に、今は国分にある明願寺があったんだ。
その跡地に七尾警察署が建ち、今は七尾商工会議所になっているよ。
その隣にある在所の金刀比羅神社は石動山の梅の宮本殿を移して、
さらに海上安全の神様、讃岐の金比羅さんから御霊を分霊してもらったんだ。

明治28年の七尾の大火は三島町の莚(むしろ)納屋から出火して
御祓川の西側900戸を焼失してるんだ。
学校も役場も銀行もお寺も病院も全部焼けたんだ。
私が子どもの頃の三島町は多くの人が行き来していたよ。

昭和15年に開館した七尾劇場には日曜日ともなると行列が出来ていたなぁ。
慶応橋から常盤町までは幅3間の道路で当時は七尾で一番広い道路だったよ。
三島町の隣が新地歓楽街で港町ならではの賑わいがあったね。
家が下駄、草履の店をしていたんだが、その頃は年が変われば新しい下駄を履く習慣だったので、
台に好み鼻緒をすげて仕上げるのに新地のお姉さんたちがよく出入りしていたのを覚えているよ。
そんな時代は七尾実業の学生が高下駄をカラコロ、カラコロと七尾駅から一本杉を歩いていたしね。

これから

時代は変わってきたけど料亭の福井亭や七尾に一軒だけになった造り酒屋の
布施酒店などが今に面影を残しているかな。
金刀比羅神社では毎月10日に定例祭が執り行われて、
本宮神社の宮司を招いて玉串を捧げて七尾港の安全と在所の安寧を祈っているんだ。
新年会や運動会などは婦人会がよくお世話してくれるし、
夏祭りは青年部長の浅野さんが頑張ってお世話をしてくれるので、
高齢世帯が多くなってきているけど、町内が一致団結できているんだ。
本当に有難いことだよ。これからもみんなで力を合わせて様々な問題に取組んでいかなければね。

まぁの一言

喧騒の表通りから一本入る、
港町の香がほのかに感じる三島町。


七尾東部中学校 なぎなた部


一年生が5名加わり、部員14名で活動しています。なぎなたは「力を使わず、凛々しく、美しく」を目指す競技です。技の勝負と、綺麗さを競う型があります。技も沢山あり覚えるのも大変ですが、できるようになると嬉しいです! 部活を通して挨拶や礼儀作法も学びます♪7月、8月の大会へ向け、集中して頑張っています!


東馬場の郷


中能登町東馬場の県営ほ場整備事業完工記念の碑です。平成20年に着工、平成27年完成。

昔の馬庭(ばんば)村が東西に分かれ鹿島に東馬場村、鹿西に西馬場村となった歴史があります。

広大な田畑は年月をかけて守られた地域の財産ですね。