くすのき整骨院
楠 哲 (くすのき さとし)さん
35才 A型
親戚の接骨院の先生の姿に憧れ将来を夢見ます。
大学で理学療法を専攻し勤めましたが、地元での開院の夢が諦めきれず働きながら柔道整復師の資格を取得しました。
大阪で10年間の臨床経験を経て帰郷、開院して早3年が経ちました。患者様の怪我や痛みを癒して、運動療法で動ける身体へ導くことで、少しでも地域の活性化に貢献できれば嬉しいです。
住 所:七尾市橘町43-2
お電話:0767-57-5581
楠 哲 (くすのき さとし)さん
35才 A型
親戚の接骨院の先生の姿に憧れ将来を夢見ます。
大学で理学療法を専攻し勤めましたが、地元での開院の夢が諦めきれず働きながら柔道整復師の資格を取得しました。
大阪で10年間の臨床経験を経て帰郷、開院して早3年が経ちました。患者様の怪我や痛みを癒して、運動療法で動ける身体へ導くことで、少しでも地域の活性化に貢献できれば嬉しいです。
住 所:七尾市橘町43-2
お電話:0767-57-5581
在所の海岸の絶壁に二つの大きな洞窟があるんだ。
海からでないと見えないけどね。
大きい穴を日穴(ひいあな)、
小さい穴は月穴(つきあな)と呼んどるよ。
それでこの在所は二穴なんだね。
二穴城という七尾城の出城があったんだ。
七尾の港に入る船がここ小口瀬戸を通るので、
船を監視するのに良い場所なんだね。
室町時代に畠山氏が築き、後に前田利家が家臣を配して、結構な構えだったようだよ。
その隣は佐波の免屋(めんにゃ)という深い入江なんだけど、一部を埋めて田んぼにしたんだ。
それで長島という大きな島が陸続きになったと聞いているよ。
対岸の三室町が目と鼻の先で免屋の田んぼに三室の人が舟に牛を乗せて来て耕していたよ。
二穴の人と一緒に田んぼするうちに、お互い嫁様を貰ったり、
嫁がせたりしてね、私の親の世代の人たちはそこを縁つなぎの田んぼと呼んでいたよ。
私の母親も三室から来ているんだ。在所の集会所は昔の野崎小学校二穴冬季分校だったんだ。
1年生から4年生まで3月期だけの分校でね。野崎まで4キロ、冬の山道は小さい子には大変だったんだね。
青柏祭、港まつり、明治節、そして寺参りに七尾へ行くのが楽しみだったなぁ。
定期船が一日一往復していてね。
穴水の甲を出た船が鰀目、野崎、日出ヶ島と
魚箱を積んで二穴には8時半か9時頃に来て七尾へ行くんだよ。
ゴムの短靴を裸足ではいてね。東島丸、藤丸、崎山丸があって、
今日はどの船が来るんかなぁと待ったもんだよ。
島の人はたいがい七尾の親戚縁者を頼って府中町か湊町に宿を持っていていたんだ。
大橋が出来てからは泊まる事ないけど、そんな関係で今でも秋に新米を届けているよ。
大橋の料金が往復1700円だったけど、フェリーが片道850円だったからそれに合わせたんだね。
ここの全世帯が七尾の長福寺の門徒でね。
1年に数回七尾へ行くことが楽しみだったから、親と一緒のお寺参りも嬉しかったよ。
おかげで信心深い人が多いね。(笑)
少子高齢化が進んだけど、秋祭りだけは野暮とヤンチャでやっているよ。
獅子舞は女の子にも踊ってもらってね。
重点事業は猪対策の電気柵設置が今年も続くよ。
二つの穴、初めて見ることが出来ました。
穴の奥底は輪島まで通じ、神の力が宿って
いると伝わっています。
昭和9年に野口雨情が、田鶴浜を訪れ赤蔵山からの眺めを雨情独自の、七七七五の、詩にしています。「朝にゆふへに 赤倉山は下に能登湾 ひとながめ」。
「赤い靴」「証城寺の狸囃子」等で知られる雨情の童謡。歌ってみると懐かしい気持ちになりますね♪
祖父の神野病院(現在の恵寿総合病院)で歯科医を担当していた父が、昭和52年に独立開業し恵寿歯科を設立、私も歯科医となり、歯科治療を通じて地域の皆様がいつまでも当たり前に食事が出来る幸せや、豊かな人生を楽しむための治療と予防を行っています。
在宅訪問や高齢者施設にて口腔ケアを行い、また大学病院レベルの包括的診療を行うため、口腔外科や矯正治療など各分野のプロフェショナルが在籍しています。
女性スタッフと笑顔でおもてなしの心で、痛くない、丁寧な、優しい治療をモットーにしています。
住 所:七尾市桜町92‐3
お電話:0767-53-6155
今年の7月に、北陸で初の「タッチラグビースクール」を開校しました!
タックルをより安全な「タッチ」に置き換えた、子ども達も楽しめる球技です。楽しみながら身のこなしや状況判断などの運動センスを伸ばします。タッチラグビーの魅力を沢山の子どもたちに伝えていきたいです!
全国小学生柔道学年別石川県大会5年生の部、40キロ超級で見事優勝した弘華さん。小さい時は人見知りで気が弱い子だったので、心配したお父さんが2年生の春に弟の諒太朗くんと共に中能登柔道教室へ連れていきました。お父さんはこの教室のコーチでもあり柔道三段。心と体を鍛えるのに柔道をさせたらと思ったそうです。保育園年長の諒太朗くんはすぐに「やりたーい!」と入門。弘華さんは1ヶ月間考え「やってみようかな」と思いました。
それでも最初の頃は、練習に行くのが嫌で玄関でよく泣いたそうです。そんな弘華さんは試合に出ても勝てません。4年生の春、全能登大会の1回戦に初めて勝ちました。しかし2回戦は負け。勝つ嬉しさと、負ける悔しさを初めて経験しました。これがキッカケとなり、本気で練習するようになり保育園から通っていた水泳教室もやめて柔道一本に集中しました。柔道教室には石川県で何度も優勝している2年先輩の北野那美さんがいます。その胸に積極的に向っていきます。強い相手と練習をすることで気持ちも強くなってきました。弘華さんの体重は41キロです。対戦相手は50キロくらいの選手ばかりですが、それでも内股や寝技で勝ちました。
柔道教室は夕方6時から3時間の練習を週3日行います。準備体操、受身、寝技、立ち技と練習します。教室では技について細やかな指導をします。その上で反復練習をしますがみんな真剣な眼差しです。水分補給をしながら厳しい練習が続きますが、みんな本当に一生懸命頑張っています。先日、大阪代表を招いて合同練習をしましたが、弘華さんはケチョンケチョンにやられてしまったそうです。少し気後れしたことが原因です。どんな相手にも気持ちで負けないことが大事だと学びました。いろんな体験を通して何か一つでもつかんで強くなってもらいたいと監督とコーチは遠征や合宿、レクレーションなども取り入れ指導します。弘華さんに目標を聞きました。全国大会に勝つことかと思ったら、なんと北野那美さんに勝ちたいと言うので驚きました。大好きな強い先輩に追いつき追い越したい。
そんな思いが今の弘華さんのエネルギーになっているようです。弟の諒太朗くんも3年生の部で優勝しました。二人の頑張りを見ていた弘華さんの妹、莉帆さんも昨年から柔道を始めました。父親でもある林和弘コーチは道場では厳しく指導しますが家では優しいそうです。弘華さんはそんなお父さんのことを頼もしく思い慕っています。北野監督は柔道を通して一つのことを成し遂げる厳しさを知り、人としての優しさを育み立派な大人になってもらいたいと話します。練習を見学しましたが全員が礼儀正しく真剣に取組む姿に小学生ながらとても立派に見えました。
弘華さんには後に続く後輩のためにもぜひ全国大会で頑張って来て下さい。
応援しています! 頑張れ!頑張れ! 弘華!!
日々精進
一致団結の中能登柔道教室
華やか☆TKS31
T…田鶴浜
K…高校
S…専攻科
なんちゃって
七尾湾は古くは香島津と称され、天然の良港として栄えました。
近代において整備が進み、昭和26年に重要港湾に指定されました。
石碑が建つ七尾マリンパークは、穏やかな七尾湾を望めるよう、海に面してベンチがあり、人々の憩いの場になっています。
創業60周年を迎えます。私たちはプロパンガス、産業用、医療用のガスを取り扱っています。今、多様なエネルギー源があり、私たちの生活環境は随分と豊かになりました。
私たちもガスを通じてお客様の生活がより快適になるよう、細やかなサービスを心がけています。社員一人一人が自主的にお客様の立場で考え行動する、そんな職場作りが私の役目です。
少数精鋭の仲間と共に、祖父母の代から続くこの会社を末永く存続させていきたいと思っています。
住 所:七尾市津向町ト部107番地3
お電話:0767-52-3110
明るく、素直な子ばかりです。上の子が下の子の勉強やトイレなど面倒を見ます。団体生活で人の痛みがわかる子に育ってほしいと思います。45名の子ども達に囲まれて、あっという間に時間が経ちますが、私たちも元気を貰っています。
在所には60町歩の田んぼがあるけど、
その水は昔から平沢、御手洗池(みたらしいけ)、
杉の堂という三ヶ所の水源から引いているんだ。
それで三引となったらしいよ。
どれも湧き水なので枯れたことが無く、
干ばつの時でも水不足になったことないよ。
平成6年高田インターから、のと里山海道への道路をつけるとき
発見された三引遺跡は、約6千年前の縄文時代から江戸時代にかけて
暮らしていた遺跡だとわかったんだ。
貝塚から漆塗りの櫛が発見されたけど、日本最古のものだそうだよ。
古くから人が住んでいたんだね。
それと何と言っても、ここは赤蔵山の歴史を背負っている在所だよ。
地元では御前山とも呼んでいるけど、奈良時代に聖武天皇が開いたと言われ、
120もの坊があるお寺で修業の場だったんだ。
歴史上二度の戦乱に巻き込まれてね。南北朝時代の足利尊氏の戦乱と、
上杉謙信の七尾城攻めで全て焼失したんだ。
それを長連龍が再興するんだけど明治の神仏分離と一村一社令によって
多くの建造物がなくなったんだね。
そうして残ったのが今の赤蔵神社なんだ。
鳥居から参道を進むとお寺の仁王門があって、
拝殿はお寺の講堂を移築したもので、当時の趣が伝わるよ。
17年に一度の御開帳には、神社の境内に特設舞台を作って壮年団が歌舞伎を奉納しているんだ。
その年の団長は大変だよ(笑)
全国名水百選に選ばれた御手洗池があるけど、
昔、近くにあさ池という池があって、
その池で尼さんが腰巻を洗ったら神様が怒って水が無くなったんだ。
それでこの御手洗池を新たに作ったという話しも伝わっているよ。
水深20cmと浅いんだけど、何百年も前に谷を埋めて出来ているので
底無し池だとも言われているよ。
それと三引はジジ面とババ面が踊る珍しい獅子舞なんだ。
越中獅子が伝わったと聞いていたが、富山県の関係者によるとこんな踊りは無いと言うんだ。
武術の基本が必要な踊りなので赤蔵山文化の中で変形したのかもしれんね。
何だかんだ言っても昔も今も赤蔵山の恵で暮らしている在所だよ。
赤蔵山の歴史、文化、伝統が息づく在所。
10月9日、三引の獅子舞、見に行きます。
圓山 晃歩 (えんやま あきほ)さん
23才 O型
大学進学を機に、地元を離れ、初めて、地元の良さに気付き、帰ってきました。
能登って何もないと思っていたけど、実はステキな場所だったんですね。改めて地元に魅せられて、今年まちづくり会社に新卒入社致しました。
将来的には、若い方が「地元に帰って来たい!」と思える場所にしたいと思います。少しずつですが、若い担い手として存在感を出していきたいです(笑)
住 所:七尾市生駒町3-3
お電話:0767-54-8866
私の仕事は「漢方製薬業」です
佐竹 修(さたけおさむ)さん 82歳
仕事歴60年
私の場合は、佐竹家伝来の処方で十種類の漢方生薬とスッポンの粉末を調合して、
虚弱体質、冷え性、疲労回復など滋養強壮薬の登録商標「がめ煉薬」の製造販売をしています。
佐竹家には
どういうわけか漢方の処方が伝わっていたんです。
父はそれを活かせないかと考えたそうです。
当時羽咋の千路に住んでおり、
近くの邑知潟にスッポンが獲れることから
ピンと来て製品化しました。
強力飴(きょうりきあめ)として売出し、
途中から神授圓(しんじゅえん)と名前を替えています。
販路は邑知潟で獲れた魚を行商する
「カゴ担ぎ」のおばさんたちが70人もいて売ってくれたんです。
子供の頃「がめの飴くだい」と来る行商のカゴに
2個、3個と入れる手伝いをしていました。
商品名ではなく「がめの飴」が通称になっていました。
戦時中、
神授圓という名前は神という字を使っているということで、
県の役人が来て名前を変えるよう指導が入り、それで「がめ煉薬」となりました。
がめとはスッポンのことです。
戦後、
事業拡大を志した父が、能登の中心地七尾に移転します。
田んぼ一枚買って、自宅と工場を建てます。
長男の私に跡を継がせるため薬科大学を勧め、
私も素直に従いました
卒業してすぐに家業を手伝いますが、
父はよく職商人と言って、製造の職人半分、販売の外交半分
どちらも大事だと教えてくれました。
それで近郷はもとより穴水、門前、宇出津方面へ個別訪問しました。
郷が広いということは、やりがいがあり面白かったです。
チラシを作り、
一軒一軒飛込みで回ります。
もちろんすぐ売れるわけではありませんが、
いろんな人と出会い、話しを聞かせてもらうことで
多くを学ぶことが出来ました。
それが楽しみでもあり、
何回も足を運ぶうちに、「だら正直の見本みたい人なら嘘はないやろ」
と、少しずつ商品を信用して頂けるようになりました。
今でも自分で看板やチラシを作り近郷を回ることが楽しみです。
すべて手作業です。
生薬を計量し、大釜に火を入れ、調合した水飴の中に生薬を処方していきます
放冷させ、一晩寝かせ、また火を入れ、次の生薬を入れ、
と3日間大釜の前に立ち大きなしゃもじを廻します。
出来上がったサンプルを
金沢の検査センターに送り合格してから缶に詰め
包装まで完成するのに10日間、1回の釜で200個の製品が出来ます。
力仕事で1回釜を炊くと3キロ痩せます。
一番難しいのは
同質を保つことです。お客様は味や固さちょっと違いを気付きます。
常温で飲みますが固いのと、やわらかいのと二種類あり、
お客様の好みや季節に合わせて飲んで頂きます。
薬事法が改正され
大手製薬会社と変わらない条件で何かと大変です。
息子がそろそろ引退したらと言いますが、
お客様から、「子供があんたの薬飲んであんな元気になったよ」
「これ飲んで元気になった、やめんと続けとって」
こんなお声が、お金に換えられない喜びなんです。
夫婦二人三脚でここまでやって来ましたが、
「人のために働けることを何よりも感謝しなければ」
といつも二人で話し合っています。
七尾市南藤橋町 ㈲能登製薬所 ☎0767‐52‐1548
2016年取材
能登國 男前!!
免田とは、租税が免除された田んぼのことだけど、
この在所の田んぼが免租田だったという記録はないんだ。
永禄2年、1559年9月25日付けの釶打熊野権現奉加札に、
一斗、釶打免田村よりと書かれているので、戦国時代には間違いなく免田村だったんだね。
それがなんで北免田になったかというと、明治時代に郡制が施行されて釶打が羽咋郡となったんだ。
そしたら旧押水町にも免田があって、同じ郡に同じ村名があることになり、
こちらが北にあるから北免田となったんだね。明治16年のことだよ。
郡への編入運動が始まるんだ。
それは羽咋の郡役所に出かけるにしても、峠を超え、
富来に出て、そこから更に羽咋まで行かないとならない。
不便と言うより大変だったんだね。
地形的に見るとあきらかに鹿島郡なのにね。
ようやく鹿島郡に編入できたのは、昭和23年の大合併のときなんだ。
明治、大正、昭和の 年間ずーと編入運動を続けていたというから、
やっと念願叶ったときはどんなに嬉しかったことかと思うね。
この在所には峨山道が通っているんだよ。
峨山往来とも言ってね、羽咋の永光(ようこう)寺から門前の総持寺まで、
13里というから約52kmの山道なんだ。
鎌倉時代、総持寺の二租、峨山韶碩(がざんしょうせき)禅師が、
永光寺の住職を兼務することになり、早朝に永光寺で朝のお勤めをして、
それから総持寺の朝のお勤めに間に合うようにと20年以上往復したと伝わっているよ。
私の同級生だけで9人いたよ。
ここは耕地整理が早かったんだけど、そのトロッコがあってよく遊んだなぁ
竹でソリやスキーを手作りし、免田川が熊木川に合流する関で泳いだりと、
自然の中で遊んでいたね。
最近は少子高齢化が進み、在所の行事ごとが難しくなってくるね。
それでも先日も地区の社会体育大会で優勝したんだよ。
縄縫い競争で点を稼いでね(笑)こんな種目は年寄りの得意とするところだからね。
在所の事も老若男女、適材適所で協力してやっていくということだよ。
県道を曲がり在所に入る。自然に囲まれた
里山の暮し。静かな時間と空間。
取材中につばめが家に入ってきた。
毎年9月初旬、藤橋町の1枚の田んぼに絵が現れる。新聞、雑誌、テレビと多くのメディアが集まり取材を受けるのは山田重隆さん。
単にアートではなく、本宮のもり幼保園の園児たちに種まき、田植え、草取り、お披露目、稲刈り、はざ掛け、脱穀、餅つきと、年間を通した体験学習である。18年目を迎える今年はどんな絵が現れるのだろうか。
山田家は代々、3月21日の「おいで祭」、11月13日の「千座祭」、12月13日の「鵜祭」神事のお供え物の一つ「根付きの稲穂」を献上する役目がある。千座祭と鵜祭に献上した稲穂は神事の後、拝殿にて1年間吊るされる。
父から引継いだ時、山田さんはより青々とした稲穂を献上しようと思い、収穫を遅らせるため、田植えも遅らせた。だが稲は丈も短く貧相なものだった。何か方法はないかと聞き調べ古代米にたどり着く。栽培のマニュアルはなく、全て手探りだった。田んぼを波板トタンで仕切り、何種類もの種を植え、肥料の量も変えながら研究を続けてきた。
スタートは赤米、黒米の2種で日の丸のようなものが出来た。絵のテーマにあった色を出すため現在は7品種に増えた。それぞれの稲の色、実る時期、背丈を全て計算し、気候、発育状況などを見ながら手入れを重ねる。今でも経験と勘が頼りである。
古代には農薬など無かった。そこにこだわった山田さんは完全無農薬で栽培する。そんな姿を見ていた近所の農家のお母さん方が「あんちゃん、手伝おうか」と声を掛けてくれた。ボランティアの藤橋早乙女会が発足した。草が生え、藻が付き、浮草が覆う。草取りだけでも3回以上。どじょうが棲み、それを狙ったカモが来て稲を倒す。目が離せない。品種ごとに成長が違い肥料も難しい。
アートは曲線である、どの苗をどこに正しく植えるか、これは早乙女会でしか出来ない技となった。本当に大変な作業を続けてもらっている。古代米アートを通し強い絆で結ばれ、普通の田んぼでも助け合うようになった。結(ゆい)の復活である。
野菜がスーパーに採れると言う子供がいると聞いた山田さん、古代米を通じて子供達に農に親しんで、土の暖かさを知ってもらおうと、今では市内6箇所の園児たちに脱穀や餅つきの体験学習に出向いている。
最初の頃は、稲刈り前日に少し稲を刈り、そこにベニヤ板を敷き、怪我をさせられないと気を使った。近年、本宮の園児たちは自分で種を蒔き、自分の苗を植える。そうすることで一段と意識が違った。裸足で田んぼに入り草を取る。鎌で稲を刈り、はざに掛け、石鎌で脱穀を体験する。この子たちが恵みに感謝することを知り、心豊かに成長してほしいと願う山田さん。そんな成長が楽しみで山田さんも早乙女会も頑張れるのである。
「私も、早乙女も齢をとった。こんなバカな事をやる人はいないと思うけど、もし、いるんだったら全てを伝えたいと思う」そんな言葉を耳にして帰路につく。
七尾にこんな総合芸術があることを誇りに思い、目頭が熱くなった。 秋が待ち遠しい。
七尾商工会議所青年部の事業として、模擬会社を設立し、ビジネス体験を行います。体験を通して、ビジネスの楽しさ、大変さを感じてもらう。困難を仲間と共に体験し、友情を育む。自信で判断し「決める」ことの大切さに気づく事業です!10月1日にミナ.クル周辺にて子どもたちが企画した商品を自分たちで販売します
三周年を迎えました。お酒の蔵元を改装したお店では、母と姉が地元食材を中心に、手作りランチにパンケーキ、コーヒーはクラムボンの豆を使用しています。
当初は三人でスタートし、現在は二人の兄も加わり、絵画や陶器などの展示会や様々なイベントを企画してくれ、県内外からのお客様も増えて来ました。
姉が気に入った酒蔵を、大工の父が改装し、お店を開いたことで、兄弟が故郷に再び結集。あらめて家族の絆を感じています。仕事を通じ、お客様や地域との絆も大切に育てていきたいと思っています。
住 所:七尾市木町1番地1
お電話:0767-57-5797
長谷川 優夏 (はせがわ ゆうか)さん
22才 B型
生まれも育ちも関西ですが、大好きな祖父の故郷である能登を活気づけたいという思いで今の仕事を志望しました。観光客に近い目線で更なる和倉温泉の魅力づくりに尽力したいです。
これから主催の「わくわく夏まつり」や「和倉温泉夏花火」などイベントも目白押しなので、お客さまに喜んでいただけるような運営をモットーに頑張ります!
住 所:七尾市和倉町2-13-1
お電話:0767-62-1555
アッピー鹿西芝生広場にある石碑。
眉丈山に抱かれ、長曽川の恵に古くから文化が栄え、能登文化発祥の地として「能登まほろばの郷」と命名されました。
まほろばとは、すぐれた国、すばらしい場所、住みやすい地域のことです。ふるさと能登は良い所。