こみみかわら版バックナンバー
バトンクラブ silky シルキー
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第68回 能登島曲町
在所名の由来
山と海に挟まれ、海辺に集落が、山へ向って田畑が続き、在所の中を通る道は、海岸に沿って大きく曲がっているから、まぁ、地形の通り、曲と呼んだんじゃないかと思うよ。
昔と今
水の出が悪い所でね、昔は山からの表流水を井戸にためたり、深井戸を掘ったりして、在所の中は井戸がたくさんあったね。そんな時代はお風呂も毎日沸かさないし、お互い近所で貰い湯していたよ。風呂を沸かすのは「ばぎ」を焚いてね、「ばぎ」とは薪のことだよ。山にその「ばぎ」を積んで、「すんば」(杉の葉)をかぶせてあるんだけど、それを取り出して背中にかついで山から下ろすんだけど、辛かった思い出があるよ。なにしろ小学生だったからね。一時期、葉タバコの栽培が盛んで在所中で取組んだよ。きつい仕事だけど、
一年に一回収穫し、現金収入を得られ良かったんだけど、時代と共に採算がとれなくなり一斉にやめてしまったんだよ。今は七割が高齢者でね、お互い助け合って生活しているよ。青年団も「何でもしますよ」と案内を出してね、雪どけなどお年寄りで出来ないことを手助けしてくれるんだ。そして秋祭りは老いも若きもみんなで楽しむけど、特に「こっぺ」はこの在所特有でないかと思うよ。それと中島の熊甲祭りと同じ枠旗が三本あるけど、太鼓のリズムは違うみたいだね。今は人足不足で出していないけどね。
在所の自慢
封建制の強い所でね、先祖からの土地を守って生きているんだ。発展性が少ない分、結束力が強くてね、魚や野菜など、貰い、貰われ身近な支え合いをしながらだけど、そんな所が素敵だと思うね。上を見ればキリがないけど、足るを知れば本当に生活のしやすい在所だよ。
私の仕事は『図書館司書』です
図書館司書の仕事とは
図書館の本の選書、分類、登録、装備、配架、貸出、レファレンス(調べたい事の本の紹介)をし、本と人を繋ぐ仕事です。
きっかけ
高校時代バスケット選手で県大会二位になり、バスケットの名門の愛知県の大学にスカウトされて進学しました。 特に将来の職業について考えていたわけではありませんでしたが、授業で図書館司書の単位があり、たまたま資格を取得することになりました。
道のり
卒業後、中島町役場に就職し、体育館勤務をしていたのですが、平成七年に能登演劇堂に図書館が併設開館され、そこへの配属になりました。 「体育会系の私が図書館勤務?」と思いましたが、やらねばならないのなら、「よしやってやろう」と体育会系の精神でチャレンジしました。 まず県内外の図書館を見て周り、本の好きな人は進んで来館されますが、そうでない人や子ども達に本の素晴らしさを伝えることを目標に掲げました。 最初は木のおもちゃを置いたり、絵本原画展を企画しました。 これらは当時では先駆的だったと思っています。 また図書館便りを中島地区に毎月全戸配布し今も続けています。 現在「いろり火の会」と「トトロのお話会」と言う二つのグループの協力を頂いて毎月の読書会や夏と冬に創作劇や人形劇などの大きなイベントも行います。 また地元の民話や昔話を伝承するため再話編集したり、小学校へ出向き大型の紙芝居を用いてお話をします。 様々な活動で感じるのですが、本には地域のコミュニケーションを高める力があると思います。
大変だったこと
今となれば笑い話ですが、図書館のカウンターで普通に会話していたら、利用者から声が大きいと注意されました。 体育館では大声が当たり前で、図書館では小声の世界でした。 今ではおしとやかなものですよ(笑)
意外な話
ブックスタートという企画で、赤ちゃんの四ヶ月健診時に出向き、絵本を読み聞かせます。 赤ちゃんはじーっと見て、聞いています。 赤ん坊でもわかるんですね。 お母さんは絵本の読み方と絵本の力にとても感動されます。 小さい時から本に親しんだ子どもは読解力、理解力が高まり、学業も優秀な子が多いようです。
嬉しかったこと
保育園児を図書館へ招待したり、小学校に出向いて色々な本の紹介をします。 そんな関わりを持った子ども達が親となり、自分の子を連れて図書館を訪れ、読み聞かせする姿を見ると嬉しくなります。 また四月二十三日は「子供読書の日」に制定されており、 この度中島図書館が文部科学大臣より表彰状を授与されました。 これまでの活動を評価して頂き感謝しています。 今後は高齢化社会を迎え、新たな取組みをしていかなければと思っています。
住所: 石川県七尾市中島町中島上部9
電話: 0767-66-8000
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今年も花まつりを開催しました。 真宗大谷派 能登教務所
おしゃか様の誕生をお祝いし、お花を飾って甘茶をいただきます。
東山跨道橋-ひがしやまこどうきょう-
ヘアー&メイク ストロベリー七尾
第67回 中能登町 小金森
在所名の由来
町史や伝記によるといくつかの説があるんだけど、昔、宝達山で金がとれていた時代があってね、その金が山づたいに流れて来たのか、在所を流れる地獄谷川の源流付近を「小金谷」(こがたん)と呼んでいるんだ。 その周辺にも金が取れたことから「小金森」が在所の名前になっていったんじゃないかなぁ。
昔と今
今も昔も職人の多い在所でね、昔から農業を営み、手に職を持って生活してきたんだろうね。 おかげで所帯の小さい在所だが、何をするにも手際よく何でもやれてしまい助かるよ。
不思議と世帯数が昔から変わっていなくてね、外に出た長男の多くは在所に戻ってきてくれているから、おかげで小学生だけでも十人以上いるよ。在所では年にひとつは環境整備事業をということでやってるけど、今年は集会所に「のとキリシマ」を
十二本植えたよ。
在所の自慢
碁石太鼓は中能登町で有名な天平太鼓から昭和四十五年に派生し、小金森の若衆だけで取り仕切っているよ。 毎年元旦の午前零時から宮様で奉納太鼓を打ち、その後、夜明けと共に碁石ヶ峰に移動しご来光に合わせて太鼓を打つんだよ。 在所の宮様も歴史があってね、「木賀(こが)神社」と言って木の神様を祀っているんだ。
境内には大きな銀杏の木と欅の木が二本並んで立っていてね、おいで祭りの三月二十一日に宮司が銀杏の木をめがけて矢を射るんだよ。 これは昔、大国の神様が邑知潟を平定して巡幸された折、神様の子どもがいつまでも付いて来るので地獄谷川の小金森橋の橋元に向って矢を射って帰らせたとの言い伝えを残しているんだね。
はい♪社長です -中華居酒屋 蘇州-
藤の花(MOA)サークル
私の仕事は『和菓子職人』です
和菓子職人の仕事とは
お茶席などに使う練切りという上生菓子や、餅、団子、饅頭、ようかん、最中など引き出物やお土産、おやつとして食する朝生菓子などを製造する仕事です。
きっかけ
和菓子屋の息子として育ったんですが、学生時代はまだケーキの方が美味しいと思っていたくらいで、「自分が何になりたいんだ」と考えた時、和菓子か洋菓子か決められず、それで学生時代から和食、洋食、和菓子、洋菓子をとにかく食べ歩き、「自分はどっちだ」と考え続けていました。それまでは和菓子の良さが何なのか感じられなかったんですが、色々なお店を巡っているうちに、和食の繊細さと同じように和菓子も繊細で、しみじみとした美味しさがあることに気が付きました。
道のり
食べ歩く中、初めて「和菓子が美味しい!」と感じたお店があり、大学を卒業するとすぐに飛び込みでお願いに行きました。家族経営の小さなお店ですが、そこの親父さんが、和菓子職人の厳しさを話し、覚悟を求められ住み込みが条件で弟子入りしました。朝早くから夜遅くまで、洗い物から、あんこを炊いたり、生地を作ったりと和菓子職人の基礎を徹底して仕込まれました。ここでの修行を通して家業を継ぐ意思が固まりました。帰郷を前に江戸上菓子の世界で見聞を広めるため浅草の老舗にもお世話になり、ここでは製造と販売も経験させて頂きました。どれだけおいしいお菓子を作っても、知ってもらい、食べて頂くことが何より大切なことだと教えて頂き、昨年七尾に帰りました。
意外な話
砂糖が高級な時代は、甘いほど高級なお菓子で、また砂糖が多いほど日持ちも良くなります。同じ食材でも季節で柔らかさ、口溶け、見た目が変わり、お客様の好みも変わります。
夏は甘いよりあっさりが好まれますが、夏は腐りやすくなります。
そんな折り合いをどうつけていくか、ここにも職人技が求められます。
心がけていること
理想の和菓子にすることは本当に大変なことです。どうしたら美味しい和菓子がつくれるかいつも考えています。ひらめき、試作、失敗、落胆の繰り返しです。その繰り返しの中から、繊細で上品な和菓子が生まれるのだと思います。流行を追うのではなく、まず和菓子の真髄を極めたいと思います。そしてその先には和菓子を通じて社会に貢献できることが沢山あるのではないかと思っています。
これから
お店は私で四代目になり、今年創業百年を迎えます。本当に多くのお客様と、そして梅屋歴代の菓子職人の方々に支えて頂いた賜物だと思います。私自身は梅屋での修行が始まったばかりであり、先輩の下で教えを頂きながら、お客様のお役に立ち続けられるよう、和菓子職人として精進を重ねていく覚悟です。
住所: 七尾市作事町1
電話: 0767-53-0787
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「僕たち、私たち、鉄道少年団♪」
特急【能登かがり火】
アルソア化粧品
第66回 七尾市 米町
在所名の由来
昔は米町の路地から海が見えていたくらい、海に近い町だったんだよ。前田利家の城下、七尾港に入る船から降ろした米を扱う米問屋がこの町にあったんだね。城下町で米問屋があったことから、米町となったんだろうね。
発音は「こんまち」と呼んでいるが、理由はなぜだかわからないんだよ。志賀町に流れる「米町川」も「こんまちかわ」と呼ばれているようだしね。「こめまち」が訛って「こんまち」になったのかもしれないね。
昔と今
回船問屋もあって賑わいのある町だったと聞いているよ。戦後はその回船問屋の敷地に進駐軍が駐留していたのをよく覚えているよ。ここは市街地なので住宅街の中にもいろんなお店が点在していたね。
私の母も髪結いでね、日本髪の美容室をやっていたよ。最近は若い人が少なくて、高齢化率が高く町会運営も難しくなってきているよ。
在所の取組
世の中、便利になった分だけ、いっしょに何かしようという事は少しずつ少なくなっているけど、ここは「ちょんこ山」で町内の絆が保たれているよ。デカ山の前座で子どもが引く山車で「ちょんこ山」と思っている人もいるけど、歴史的には別物なんだよ。この祭りは気多本宮の春祭りでね、元々古くからある祭りがあって、そこに山車を引くようになったのは、江戸時代初期だと古文書から推測されているよ。
当初は米町と木町の二台だけだったけど、現在は生駒、阿良、一本杉、亀山の各町会が加わり六台で市街地を曳いて回るんだ。全ての山車には梅鉢紋が使われていてね、前田家から認められていたんだろうね。米町の山車は由緒があるので老いも若きも祭りには責任感をもって取組んでいるよ。歴史ある「ちょんこ山」を守る使命が在所の絆を保っているんだね。米町の山車の人形は大国主命(大黒様)なんだけど、その恩恵につくづく感謝していますよ。(笑)
はい♪社長です-けいこ美容室(仮)-
水引教室
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私の仕事は『一級建築士』です
建築士の仕事とは
私の場合は、家を建てるお客様の理想を建築基準法の制限内で実現させていくことです。
きっかけ
実家が建設業(アオイ建設)だったので、子どもの頃から家を建てる仕事を見て育ち、建築に興味を持っていたのですが、高校二年生の時アメリカへ一年間留学し、そこでランドスケープ(公共施設の外回りや公園、街路樹など)のデザインに興味を持ちました。それで大学進学時に建築かランドスケープか迷いましたが、横浜国大の建築学科に進みました。
道のり
アメリカは靴の文化で、庭も外にあるひとつの部屋だという感覚で活用します。日本では家と庭の間に縁側があり、庭は家から眺めるものです。その違いに興味を持ち、家を建てる時、外の空間デザインはどうあるべきかを学ぶため、卒業と同時にイギリスへ二年間ガーデンデザインの勉強に留学しました。イギリスでは自然のような庭でも、花の色や高さ、開花時期など緻密に計画し植栽されています。
イギリス滞在中に家と庭、そしてその先にあるものは、そこに暮らす人の生活そのものであると気付きます。そして自分が何をしたいのかと見つめた時、ベースは建築に置いて、暮らし方をも設計し、提案したいと考えるようになりました。
現在の取り組み
能登島を拠点に活動しています。海外生活の中で「暮らす」とはどういうことか考えた時、故郷 能登の豊かさに気付いたのです。恵まれた自然や食材、培われた生活様式、そして伝統の日本建築など、改めて見つめ直すと、まさに宝の山のようです。
建築を通じて能登の豊かな暮らしを伝え、残すことが建築士としての私の使命だと思っています。自宅を新築した時、釘を使わない木組みでの伝統工法で建てました。棟梁が三十年ぶりだと感慨深く木材を刻み、他の職人さんも粋に感じて伝統技法にて取組んで頂きました。畳は家の田んぼの稲藁を藁床に使い、手作業で縫って仕上げて頂きました。年輩の職人さんは知恵があり機転が利きます。こちらの思いを伝え、話合いをすると、教えられることがたくさんあります。便利さを追求するということは、全てが簡単になっていくことのように思えます。伝統や本物を繋ぎ残していくことは、あえて不便を意識することであり、その不便を暮らしの中で楽しむことではないかと思います。
これから
地元の素材や技術を、建築に活かすことで、将来に繋いでいけたらと思っています。「能登暮らし」のスタイルを自ら実践することで、田舎でこんなに楽しく豊かに暮らせるという事に共感してくれる人が増えたら良いと思っています。
お客様の「暮らし」を尊重し、土地の気候や風土にあった設計を行うことで、「暮らすこと」を楽しめるような家づくりを行い発信していきたいと思います。
- Tags:
- 一級建築士