こみみかわら版バックナンバー

第111回 私の仕事は『医者』です


仁愛・信頼・貢献

仕事歴40年 円山寛人さん 70歳

流れの中で

帰宅して車を車庫に入れたとき「車は玄関先に前を向けて駐車しておけ」と父に怒られました。「夜、往診の電話があったら、その家族が受話器を置いたときに玄関先に先生がいたというくらいの心構えでいろ」と教えられ、その言葉が今の私の原点になっています。

私は平成四年に金沢医科大学病院の勤務医を経て七尾へ戻りました。医者の長男として周囲も私自身もごく自然に将来は医者になるのだと思っていました。

私が子供の頃の父は家庭医のような存在で歯が痛いのもまずは父に診てもらうという感じの患者さんが多かったように思います。
当時は具合が悪くなったらとりあえず往診で診てもらい、必要があったら救急車を呼ぶという時代でした。
父は真夜中でも往診は絶対に断りませんでした。

昭和二十八年開業当時は馬で往診に出かけ、それがバイクになり、車は知事か市長くらいしか乗っていないような時代から往診のためにと購入していました。

地域医療

私は当初外科医を志したのですが父の町医者として地域に関わる姿を見ているうちに、跡を継ぐのならやはり内科医しかないと思いました。
ただ外科医に未練もあり外科的要素もある循環器内科を専門としました。

地域医療は患者や家族とのお付き合いが深く長いものになります。それで父と同じように往診はどんな時でも出向くことを心掛け、二十四時間、三百六十五日、一日たりと気が休まる日がありませんでした。

ある時、往診で処置したお爺さんが元気を取り戻し、医者冥利に尽き家を出ようとした時、玄関まで見送りに来たお婆さんが、大きなため息をついて「あぁー、こんでまたどこも出かけられんわ」と呟きました。
その当時は在宅で病人や老人のお世話をし、最後も家で看取っていくことが多く、その間お世話をする家族も大変な時代でした。

私は退院して家へ戻ってもケアが十分でなくまた悪化してしまう姿を見るにつけ、医者は病気を治すだけでなく患者やその家族も含めて生活を支え、守ることも大切だと思うようになりました。

特段の能力があるわけでもない私が、周りの人に支えられ医者にさせて頂いたと思っています。その恩返しをという気持ちで高齢者の健康維持のため千野町で通所のデイケアセンターを開設することにしました。

デイケア開設には医師が必要だったことから併設でえんやま健康クリニックを開院し消化器内科医の妻にお願いしました。そうした中で入所が必要な人のために介護老人保健施設(老健)を増設し、超高齢化社会を迎える中で終の棲家となる介護老人福祉施設(特養)「千寿苑」も併設しました。

父が地域に根差してきた医療を継承し、患者とその家族にどう寄り添えるのか、何ができるのか。すべてが必要性ある中で自然と裾野が広がってきたように思います。



でか山

常々医療を通じて地域が元気になってもらいたいと願ってきましたが、同時に町を元気にするためには住む人が絆を育むことが大切だと思います。

今、府中印鑰神社奉賛会の会長を仰せつかっていますが、祭りは年代や職業を超えて住民の絆を結ぶ唯一のものだと思います。ただこの二年間はコロナ禍で「でか山」が運行できませんでした。
今年はコロナの状況にもよりますがPCR検査や人員の制限など感染防止対策を徹底して講じながら三町で山車を曳く予定です。

単に祭りを楽しむということではなく、室町時代から続く伝統の技をすたれさせないために、そして何より住民の絆を強く結ぶことで、七尾の町に元気を呼び戻してもらいたいと思います。

府中町 円山病院 0767-52-3400


第205回 七尾市八田


在所名の由来

矢田郷から分かれた村で八田(やた)と書いて(はった)となったとか、八田三助という郷士がいたとか、八幡町から出た人がここで田んぼを開いたとか所説あるようだけど本当の由来はわからないんだ。

昭和二十八年、平城京跡の発掘調査で能登郡八田郷と書かれた木簡が出てきたんだ。木簡とは地方から奈良の都に税として物品を輸送する際の荷札のことだけど奈良時代にはすでに八田という地名があったことは確かなんだよ。

昔の在所

江戸時代後期、水不足が深刻で二百九年前に山の奥に三ヶ村池という二段構えの池を作ったんだ。八田と国下、中挾の三村共同で二年間に六千七百五十人の人足が出たと記録があるよ。

この池の土地が江曽地内だったことから八田の乗龍寺にあった自慢の大太鼓を江曽村に譲り渡すことになったんだ。その太鼓は今も江曽の妙楽寺にあって戦前までは正午の時を告げていたらしいよ。

太鼓の話がもう一つあるよ。三ヶ村池から流れ出る水が笠師川となってその中流に滝つぼの蛇池があるんだ。昔ここで七日間に及ぶ雨乞いを飯川村光善寺第二十五世住職の観常にお願いして執り行ったんだ。

その時打ち続けた太鼓が今も光善寺にあるけどこの太鼓は中島町西岸の室木助左衛門(明治の館)が百八十三年前に光善寺に寄付したものなんだ。

室木家と光善寺の繋がりが不明だけど、八田にも室木家と同じく廻船業の八田助五郎という人がいたので縁を取り持ったのかもしれんね。

現在の在所

近年八田の棚田米が全国の品質審査大会で数々の賞を貰っているので嬉しいね。

担い手の高齢化が進み跡取りがいないのが気にかかるけど、標高二百メートルの棚田は寒暖差があり石動山系からの湧水なので美味しいんだよ。
棚田は農機を入れにくいし労力をかけても採算が合わないという苦労もあって耕作放棄地になりやすいんだけど、八田の農家はその保全に価値を見出そうと頑張ってくれているんだ。

毎年東雲高校の生徒も来て田植えから稲刈りまで全部手作業で米作りを体験しているけど、昨年はその米が全国農業高校お米甲子園で最高金賞を受賞したんだよ。

若い人が居ないと在所が活性化しないので、妙案はないけど農業を楽しめる環境を作って次世代に何としても引き継いでもらいたいとみんなで願っているんだ。

あきこの一言

棚田あり、水あり、人あり 
自然を活かす八田の在所


雌島・雄島(めじま・おじま)


大田火力の沖約1kmに浮かぶ溶岩の小島。
大きい雌島で約90種・小さい方の雄島で10種余の原生植物群は市の天然記念物。

雌島に高さ約10mの灯台が昭和27年に建立。

二つの島の間は浅瀬で危険です。巷では間を通ると不吉な事が起こるとの噂があります。


なかのと奏友会(音楽団体)


なかのと奏友会(音楽団体)荒川 裕介(あらかわ ゆうすけ)さん 40才 O型

石川県でも珍しい低音金管楽器のユーフォニアム・テューバを使ったアンサンブル活動を2010年より行っております。

毎週土曜日夜、能登・加賀のプレイヤーが「音楽を真剣に楽しもう!」の考えで集まり、楽しく活動中です。 主な活動は、演奏会の開催、コンテストや地域イベントへの参加などです。

若いプレイヤーと共に末永く演奏を楽しんでいくことが今後の夢であり目標です。

住 所:中能登町井田4部43番
お電話:090-3768-5608


第204回 七尾市竹町


在所名の由来

室町時代ここは畠山城下でその家臣の館(やかた)があったことから、館(たて)町と呼ばれそれがいつしか転化して竹町になったという説があります。
江戸時代から明治二十二年までは竹町村と呼ばれていたと記されています。

昔の在所

城山の麓で山仕事や畑仕事で生活してきた在所です。昔は用水不足で近隣の在所と紛争が絶えなかったという歴史があります。

そんなことから嘉永年間(江戸時代)に二枚田に竹町、府中、藤橋、所口、天神川原、古府、国分の七か村で共同のため池を作りました。「シチカムラの池」と呼ばれ三百五町歩の田んぼを潤したといいます。この池は遠浅の部分もあり小学生の頃は海水浴のように泳いだり、池にせり出した木の上から飛び込んだりして遊びました。

この池も昭和四十七年ごろから不燃物ゴミ処理場として埋め立てられ、今は市立二枚田運動場(ソフトボール場)となっています。

等伯の達磨図を所蔵する山の寺の龍門寺は最初竹町にありました。上杉謙信が攻めてきたとき一時能登島の閨に移転し、その後山の寺に再建されたそうです。在所には龍門寺という小字が残っていて付近の田んぼから五輪塔の石が見つかっています。大天神山の外れには処刑場があったと伝わっています。

現在の在所

本家筋で十六代、十七代と続いている家が七軒残っている古い在所ですが、かつては山の麓の竹町の場所を教えるのが難しかったです(笑)。今は農免道路と城山線が整備され城山交差点が出来て場所が分かりやすくなりました。

能越道が開通し城山インターへの通り道になってから交通量が格段に多くなり、交差点に信号機が付くまでは本当に事故が多かったです。

小学生の頃は春と秋の祭りは神輿が出ていましたが今は松尾天神社でお参りするだけになりました。新しい人も入ってきて人口も年々増えてきましたが、顔を合わす機会が少なく道路と河川の愛護デーで顔を合わせるくらいです。

古いしきたりやしがらみがないので新しい人も案外生活はしやすいのではないかと思います。田んぼも広がり空気も良く、学校や商業施設も近く便利で住みやすい場所になりました。

いずれにしろ住む人みんなが公平で平和に暮らしていける町であり続けたいと願っています。

あきこの一言

七尾城の麓、歴史が漂う在所
田舎の都会、ゆったり暮らす


中能登中学校 剣道部


「剣道=生活」を実践し、各自がクラスや学年で活躍しています。

剣道は日本の文化で世代を超えて学び合う道でもあります。「技」を通じて「道」を求め、自分を高めていくところが楽しいです。 試合で、自分の不調時にチームが助けてくれて、仲間の大切さに気付けました。

厳しい稽古で得た事を発揮し勝利する時がやりがいです。

顧問:本吉 秀光先生(剣道七段)、能山 公介先生(剣道五段)

男子主将:中橋 宙くん(剣道初段) 女子主将:中村 朋香さん(剣道初段)


清水電機商会


清水電機商会 清水 宏司(しみず こうじ)さん 45才 B型

家業を継いだ三代目です。 でか山の町、府中に生まれ大の祭り男に育ってしまいました(笑)。今年は若衆頭を仰せつかる予定です。

コロナ禍が長引き気にかかる所ですが、今年こそは鍛冶町、魚町と共に三台で曳きまわそうと話し合っています。 十分な感染対策をして郷土の文化遺産と市民の絆を守りたいです。

好きな言葉は、「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め!」です。

住 所:府中町員外26
お電話:53-3226


はい!社長です-戸田時計店


戸田時計店 戸田 和貴(とだ かずたか)さん 36才 O型

一本杉通りの入り口、仙対橋のたもとに130年続く時計屋の五代目です。

日大を卒業し東京で不動産の仕事をしていましたが家業を継ぐために29歳で転職。 東京で技術が高いオグラ眼鏡店で修業し一昨年帰郷、昨年社長を引き継ぎました。

眼鏡は個性を引き出す大切なアイテムです。 鯖江産の高品質な眼鏡も揃えてお顔に似合う眼鏡を手厚くサポート致しております。

住 所:生駒町8-1
お電話:52-0420


水白鍋山古墳(みじろなべやまこふん)


全長64mの帆立貝形古墳で築造は5世紀前半。 明治39年に頂部から石棺や銅鏡など多くの副葬品が発掘されました。

古墳全体にソメイヨシノが植えられています。春になると田園にポッコリと美しい桜の山が現れます。
東往来、車中からの眺めが素敵です。


2022年2月26日<388号>掲載 我が家のペット


こたろう(オス)

柴犬

ドライブとコタツが大好き♪
甘えん坊の、おじいちゃんっ子です!!

(池崎町 山口さん)


パピ(オス)

パピヨン

おとなしくて、人懐っこいです。
チョウの羽のような耳なので
フランス語のパピヨン(蝶)です。

(中島町上町 石田さん)


第203回 七尾市桜町


在所名の由来

昭和四十年に桜川河口右岸を埋立て出来た土地でね、それにちなんで桜町だそうだよ。

桜川の拡幅工事で立ち退きになった人の代替地としたり、七尾市が宅地として分譲してできた町なんだ。

昔の在所

子供の頃いかだを作って遊んでいた海が埋め立てられ、気がついたら家が建っていたよ(笑)。当時は人口増の時代で小島町など近隣の町内の人たちが宅地を求めたんだね。

埋立したばかりの時は地面がまだ軟弱で買った人が地盛りをしてから家を建てていたんだ。能登沖地震では電柱の根元が液状化していたよ。

昭和四十年に秋元さん世帯が第一号の住人となって、第二号は立山堂パンの若林さん、昭和四十四年には六十三世帯と一挙に家が建っていったんだ。海辺には造船所や鉄工所、製材所なども進出したんだね。

初代町会長は河元さんだったよ。神社はないけど昭和五十四年に奉燈を新調して西のおすずみで町内の結束を図ってきたんだ。子供もいっぱいいて五年生にならないと笛太鼓は出来ないと言っていたんだ。

町内のメイン道路で水入れリレーの練習をして御祓地区の運動会に参加していたけど、若い人が多かったので綱引きは強かったなぁ。今では六十歳以上の熟年玉入れも普通の玉入れもメンバーは同じなんだよ(笑)。近年は最下位かブービーだけど参加することに意義があるんだよ。

現在の在所

皆で積み立てをして平成十一年に二軒長屋を買って会館が出来たんだ。平成二十六年から月に一回、高齢者の寄り合い場として会館に集まり、お菓子やお弁当を食べて歌やゲームをしているよ。

二月の餅つき大会と六月に多根の山びこ壮へ日帰りで行くふれあいの集いで楽しんできたけど、今年は新行事として夏にサマーフェスティバルを計画したんだよ。

桜町青壮年会会則では年齢制限があって四十五歳までだけど、今は会長が一番若くて五十歳、六十代、七十代の会員二十四名が気持ちだけは青壮年で頑張っているんだ(笑)。

恵寿総合病院があるので災害訓練のトリアージに参加して防災意識を高めているけど、高齢化が益々進むので自助、共助で支え合っていかなければと思っているんだよ。

あきこの一言

新しい町も はや半世紀
触れ合いを大事にする在所


七尾高校 女子バスケットボール部


1955年の県選手権で準優勝の記録が残り、創部はそれ以前です。

どの部員同士でも仲が良く、試合では互いのプレーの良し悪しに声を掛け合い、チーム一丸で頑張っています。

なかなか練習時間が確保できない中、上達を目指して努力する事で集中力が身に付きました。 総体までに何とかベスト16に入れるようになるのが目標です。

顧問:濱岡 駿一先生

キャプテン:住 和樹さん


ピアノサロンすずらん


ピアノサロンすずらん 帽子山 佳代(ぼうしやま かよ)さん 38才 B型

看護師勤務していた3年前「ピアノで癒すこと」が使命だと確信し、音楽療法を学び始めました。

「心身を癒す」個人ヒーリング(オンラインOK)や「繊細な子(発達障害さん)が、音楽で自分らしい表現を楽しみ、自己肯定感がアップする」ピアノ教室をしています。

来る方が、みんな笑顔になって帰る姿に、喜びを感じています。 日々自分磨きをしながら「心に響く演奏」に努めています。

住 所:古府町に部42
お電話:090-2838-1404


はい!社長です-株式会社 森村自動車商会


株式会社 森村自動車商会 森村 透(もりむら とおる)さん 42才 A型

地域の皆様に支えられて来年12月で50周年を迎えます。100年続く会社にするのが私の夢です。

自動車業界は大変革の時代で、これを生き残る為に自分と会社を成長させ、お客様にさらに喜んでもらえる仕事をしていきます。

車を好きになって貰いたくてリースを始めました。コンセプトは「乗るだけ」 車の面倒な事は全てお任せ下さい。 車の運転が楽しい!を広めていきたいです。

住 所:中島町横田乙-107
お電話:66-0326


七尾タワー


NTTの電波塔。
昭和27年に日本電信電話公社が設立され、昭和38年に この鉄塔が建設されました。

地上83m、七尾駅前のシンボルとして七尾タワーの愛称で親しまれています。

高度成長時代から現在までの七尾を見守ってきました。御年59歳。


第66回 「輝け!郷土の星」ジュニアマイスターの高野航汰くん


ジュニアマイスター顕彰制度で日本新記録

ジュニアマイスターとは工業系の高校生が国家資格や技能検定試験にポイントを付けて、合格したポイントでランキングされる制度です。航汰くんは高校3年間で43種類の資格を取得。過去最高261点の新記録です。

また全国工業高等学校長協会の生徒表彰にも県内からただ一人選ばれました。

高1の時、危険物取扱者乙種1類から6類をすべて一発合格し、さらに甲種全種目も一発合格したことで、担任の岩城宏志先生がジュニアマイスター顕彰制度でランキングがあることを伝えました。

決意

ポジティブ思考の航汰くん、面白い!どうせやるなら日本一と決意します。資格をリストアップし願書締日を確認、受験のスケジュールを組み、自らテキストを購入し、自ら勉強し、自ら試験会場に向かいました。

陸上部でも活躍する航汰くん、部活動が終了する3年生後半には毎週受験。一週間で効率よく勉強をしなければなりません。そのために試験ごとの傾向を調べ、過去問をやるのか、全体的な知識を得るのか、まずは最初に勉強方針を決めました。この時期は勉強中に机で寝落ちしてしまう日々が続きベッドで寝たのは月に数回でした。

昨年12月には高校生では県内で初めて難関の国家資格、消防設備士甲種第5類に合格しました。



文武両道

後期生徒会長にも選出され、3年間皆勤賞の航汰くん。

県高校総体では400mハードルで4位入賞し北信越大会へ出場。部活と受験を両立させるため受験スケジュールを調整してきましたが、総体の一週間前に試験日が入った時は練習と勉強どちらを優先するか顧問の向田先生とぶつかりました。最後は先生やチームメイトの理解を得て支えてもらいました。

東雲高校陸上部の旗印は乾坤一擲(けんこんいってき)です。勝負に命運を掛け強い心で挑戦するポジティブ思考が、ジュニアマイスター日本一を目指すエネルギーになったと言います。

電子機械科の課題で取り組む小型カメラを取り付けた自動走行のマイコンカーにも熱が入り放課後も積極的に研究に取り組む航汰くん。毎年全国の工業系高校生の中から1名だけ選ばれる経済産業大臣賞にノミネートされています。

航汰くんには9歳と6歳年上の兄がいますが、兄二人も東雲高校陸上部で活躍していました。そんな兄を慕い小学生の時から陸上を始め、中能登中学から迷わず東雲高校に進みました。

今春、金沢工業大学電気電子工学科に進学する航汰くんの夢は、工業の教員になり母校東雲高校で教鞭をとることです。自分を三年間導いてくれた担任の岩城先生のように、生徒に工業の面白さを教え、母校からジュニアマイスターに挑戦する生徒を数多く育てたいと新たな志を立てました。

陸上とジュニアマイスターで大きく成長した航汰くんです。



第110回 私の仕事は『鍼灸師』です


この道を歩む

仕事歴40年 道下 清治さん 71歳

きっかけ

十九歳の時、当時は砂利道だった庵町の国道をバイクで走行中カーブを曲がりきれず網小屋に激突。生死をさまよい臨死体験をしました。

命は助かったのですが、二年後に後遺症が現れました。ボーリング場で投げたボールが突然視界から消えたのです。眼科医に五万人に一人と言われる「視神経萎縮」と診断され、矯正は不可能と言われました。視力はほとんど無く五センチから十センチ寄らなければ顔の判別が出来ない強度弱視となり、二年間はうつ状態で引きこもり絶望的な日々でした。

その後名医のいる兵庫医科大学病院を紹介され開頭脳神経手術を受けましたが視力は戻りませんでした。盲学校入学を勧められましたがどうしても受け入れることが出来ず民間会社の障害者雇用で働きました。しかし、ある日突然会社のトイレで吐血、ストレスから来る胃潰瘍との診断でした。

その頃「克己の会」という地元の若い障害者グループとお付き合いし勇気を貰ったことで、二十七歳の時、生きる道を再考し盲学校の門を叩きました。四年間の勉学の後、鍼師、灸師、あんまマッサージ指圧師の国家資格を取得、金沢で修業し昭和五十七年塗師町で開業しました。

妻に感謝

昭和六十年に結婚しましたが、目の不自由な私と人生を歩む覚悟を決めてくれた妻のためにも、この道を究めなければと思いました。

そこで毎月金沢での研修会に通うため七尾駅近辺に住宅と診療所を求め平成元年に現在の南藤橋町に居を定めました。近年は晴眼者の鍼灸師も多く研修会もスライドで行われます。私は双眼鏡とルーペを使って研修会に参加しています。

家では妻が新聞を読んでくれ、外食してもメニューが見えずいつも二人で行動しなければなりません。私の手となり足となって、いつも明るく細やかに支えてくれる妻には感謝しかありません。



東洋医学

視力を悪くして一番ショックな事は学生時代七尾で個人優勝し、飯より好きな卓球が出来なくなったことです。

スポーツ選手が体を痛め練習が出来ず、試合に出られない悔しさが分かるので、何としても治してあげたいとスポーツ選手の治療も積極的に行ってきました。選手が完治し試合で好成績を収めたときは自分の事のように嬉しいです。

東洋医学は四千年の歴史がある経験医学で副作用が無く代表的なものが「内臓体性反射」にもとづく治療です。内臓に病気があると皮膚上の「穴」(つぼ)に現われ、そこを鍼灸で刺激すると内臓や全身の体調が良くなり免疫がつきます。風邪を引きにくくなり、血圧の調整、便通の改善、安眠等の効果があります。

お灸が適応する患者さんには、希望があれば自分で「艾」(もぐさ)を使って施灸する指導をしています。慢性的な膝の水や痛み、手指の腱鞘炎、バネ指、胃腸の調子、子供の成長痛は短期間で良くなります。

これまでにメニエル症候群、耳鳴り、痔瘻、蓄膿症、顎関節症、リウマチ、腰椎脊柱管狭窄症、ぎっくり腰、肩こり、頭痛、三日三晩続くしゃっくりも治してきました。逆子はへその緒さえ絡んでいなければ百パーセント近く治り鍼灸には不思議な力があります。

患部の皮膚、筋肉に手を当て中の状態を診ますが眼で表面を見るよりも触診力が大事です。それ故、視力障害の人が鍼灸マッサージ業に適していると思っています。

気を入れて、心を込めて、手当する。そうすることで自ずと治療効果が表れます。
自分にはこの道以外には進む道は無いのだ。やるからにはこの道を究めたい。
この思い一筋で現在に至りました。
これからも患者さんに貢献できるよう勉強し健康で頑張りたいと思います。

南藤橋町 道下治療院 ☎0120-53-3910