こみみかわら版バックナンバー

はい!社長です-民宿 山長


民宿 山長 山田 篤志(やまだ あつし)さん 47才   

能登島の民宿山長の二代目で、そして釣り船の船頭です。
能登島は穏やかな人が多くて住みやすく子供の成長にはとてもいい場所です。 年々島の人口が減るのが気にかかりますが令和元年、年初心に帰っていろんなことにチャレンジしたいと思い、ひょっこり温泉入口かどに海鮮食堂の海幸(かいこう)をオープンしました。
土日祝だけの営業ですが地元の賑わいに一役買えるよう頑張ります。

住 所:能登島町佐波町ヲ23
お電話:0767-84-1560


第162回 七尾市後畠町


在所名の由来

江戸時代の後畠村の人口は5人だったようだよ。明治22年でも戸数2、人口6人なんだ。
小高い山の上に野原が広がっていたので、隣の藤野や古屋敷などからは後ろに広がる丘陵地、後ろの畠、後畠と呼ばれていったのかも知れないね。
もう一つは畠山氏の七尾城が後ろにあるので後畠になったという話もあるよ。
それとなぜだか通称で一本松と呼んでいたこともあったよ。

昔の在所

昭和13年に無住地になったようだけど、その後ここは八崎農場と呼ばれて馬や牛が飼われていたんだ。
戦時中は軍隊の馬が飼育訓練されたりしていたようだよ。
戦後の神野亮二市長がここに市長公舎を建て市役所に通ったんだ。
合わせて八崎農場の跡地に市営住宅も建設したので人が集り新しい町会が発足するんだね。
私は小1でここに来たけど市長公舎は一つ屋根の木造の大きな家だったよ。
市営住宅はセメント瓦の平屋一軒家だけど畑付きでね、そこに鍬(くわ)を入れるとカチッと音がして何かと思ったら古銭なんだ。
この周辺で結構な数が出ているみたいだよ。

昭和30年代に入ると自衛隊が来て野原を整備して陸上競技場、野球場を造って、
その後プールと体育館が出来て七尾のスポーツの中心地になったんだね。

現在の在所

若い世代が集った在所なので、子供達も70人前後いたけど、今は20人弱に減ってしまたよ。
我々世代が育てた子供が町に残らず出て行った中で、どう少子化に歯止めがかけられるのか、
残された高齢者がどう生きるのか、妙案は無いけど、それでも考えないとね。

平成12年の町会スローガンは「坂と花とロマンの町」だったけど今ではその坂が苦痛になってね(笑)。
それで今年度のスローガンは、「花がいっぱい、優しさいっぱい、思いやりの町」が選ばれたんだ。
花壇花作り、夏祭り、避難訓練、町ぐるみ餅つき大会が年間四大行事なんだよ。
神社は無いけど夏祭りは本宮さんが来て奉燈を担ぎ町内を回るんだ。

運動公園に向う道路真ん中の大きな花壇は、訪れる人に親しんでもらおうと町会全員で花を植えたり草を刈ったりしているんだよ。
大きなスポーツ大会が重なると駐車場が狭いので路駐が増え難しい問題もあるけど、世の中はお陰様、お互い様の精神もないと成り立たないからね。
令和になり町会もそろそろ代替わりしていかなければと思っているんだ。

あきこの一言

一人の百姓が住む処、一本松となり、
時を経て市長が住み、後畠と栄える。


洋菓子屋 めれんげ


洋菓子屋 めれんげ 百﨑 あさ美(ももさき あさみ)さん 29才

氷見の洋菓子店に勤めていたとき各地のケーキ屋さんやカフェ巡りをしていました。
そのうち能登部のカフェ食堂「れんげや」の常連になり、ここで働きたいとオーナーにお願いし早5年経ちました。
この4月にお店は良川に移転しましたが、その際洋菓子屋「めれんげ」を併設し担当しています。
歴史や文化が一杯の中能登町を楽しんだ後、ケーキとコーヒーで一息入れにお越し下さい。

住 所:中能登町良川町庚61-2
お電話:0767-74-0572


放課後等ディサービス ぴいす子どもの家


放課後等ディサービス ぴいす子どもの家 川崎 宏子(かわさき ひろこ)さん 60才

私自身、知的障がいを持つ子の親です。
子育ての経験を少しでも役立て、ご家族の相談にも乗れたらと、この仕事に就きました。
この福祉サービス施設は、日常生活の動作指導や集団生活への適応訓練等を継続的に行う療育の場、そして親側が休憩する場の役割を担っています。
夢は息子と一緒に、障害の子供たちが気軽に立ち寄っていけるような喫茶店を開く事です。

住 所:中能登町良川町か部44-4
お電話:050-3437-6364


はい!社長です-CAFE AROMA美


CAFE AROMA美 福岡 一美(ふくおか かずみ)さん 34才

昔からケーキ屋さんやカフェへ行く事が好きでした。好きが高じて高校を卒業してカフェに勤めました。
エスプレッソマシンを扱い、ラテアートも出来るようになり、いつしか自分のお店を持ちたいと思うようになりました。 商品知識、顧客対応、お店の雰囲気作りなどの経験を積み、昨年12月にお店をオープンしました。
皆様に愛される癒やしの場にしていきたいと思っています。

住 所:中島町浜田(中島駅前)
お電話:090-6819-7720


シルバーリフォーム教室


シルバーの会員13名で古い着物をリフォームして洋服に仕立て直したり、
カバンや暖簾、小物などを作っています。

毎週水曜日に集まっておしゃべりを楽しみながらの作業で、認知症予防にもなっています(笑)。
お隣のショップ看板娘で販売していますが一本杉を訪れる観光客が買って下さるので皆励みになっています。(前田節子)


第161回 中能登町末坂


在所名の由来

鳥屋地区には須恵器(すえき)の古い窯が百以上見つかっていてね。須恵器とは朝鮮半島から伝わる土器で、この辺りでは北陸でも早い時期の六世紀初頭頃から生産され、以後四百年以上須恵器の生産が続いていたそうだよ。
全国の須恵器の生産地に「陶(すえ)」の字を使った地名がよくあるそうで、ここもそうなんだね。
そしてここは台地に集落が形成されて来たことから陶坂(すえざか)と呼ばれるようになって、いつの時代かに末坂に転化したのだろうと言われているよ。

昔の在所

昔は農業と山仕事をしていたと思うけど、明治二十二年に鳥屋村役場ができてから鳥屋の政治的中心地になって、旧道沿いには銭湯に食料品、雑貨や洋品店、食堂、飲み屋、駄菓子屋などが並んでいたんだ。織物工場も沢山あって青森、秋田、岩手から集団就職で若い女工さんもいっぱい来ていたので賑やかな在所だったよ。

集団就職は昭和三十年代まで続いて、良川駅に列車が到着すると旗を振って出迎えたんだ。当時の粋の良い若い衆は女子寮を覗きに行っていたらしいよ(笑)。町と商工会が尽力して女工さんのために七尾城北高校に鹿西分校を開設してもらったんだ。

在所の六地蔵には云われがあってね、これは明治時代には避病院(ひびょういん)が建てられたそうで、今で言う隔離病棟やね。当時コレラや赤痢などの伝染病は死に至る病気で、亡くなる人も多かったので火葬場の近くに建てられたそうだよ。そんなことで在所では避病院の近くに六地蔵を祀り亡くなった人をとむらったそうだよ。

現在の在所

昭和61年に役場が新庁舎に移転したら在所の中が寂しくなったよ。旧役場跡地のミニパーク広場で夏に盆踊りをやるんだ。前は青壮年団が主催だったけど負担が大きく中断したので、2年前から在所が主体になって復活させたんだ。

旧鳥屋町の時は地区対抗の運動会があって在所が結束したけど、三町が合併してから地区対抗の行事が無くなり、少子高齢化も重なって結束力が弱くなったね。だから出来るだけ住民が集う機会が必要なんだ。秋祭りは小中高生と青壮年団が総出でやってくれるので心強いよ。今年から圃場整備の工事に入るのでその取組をしながら、調和を保って結束していきたいね。

あきこの一言

眉丈山系の山麓の台地、須恵器を焼き、
織物で栄え、結束を誇ってきた在所。


第43回 「輝け!郷土の星」ピアノの三野 さくらさん(鹿西高校1年)


第35回日本ピアノ教育連盟ピアノオーデション全国大会出場

七尾東部中3年生だったさくらさんは北陸地区大会で選ばれ、武蔵野音大シューベルトホールでの全国大会に出場しました。これは能登から初の快挙です。
さくらさんがピアノを始めたのは幼稚園のとき、お母さんが何か習い事をとピアノ教室に連れて行きました。初めて弾けた一曲は「かっこう」でした。
ピアノは家での練習が欠かせません。さくらさんは遊びたいのにめんどうくさいなぁーと思いながらも何となく続けていました。

小学校低学年ではレッスン中によく泣きました。先生の指導が素直に受け止められず、一生懸命やっているのに何で怒られるのか?努力が否定されたと思い悔しかったのです。
それでも2年生の時、コンクールで初めて受賞したことが励みになり、高学年になると意欲が湧きレッスンにも熱が入ります。
風邪をひこうが、何があろうが毎日欠かさず2時間以上の練習を続けました。

師との出会い

さくらさんには二人の先生がいます。地元の石田ゆかり先生と東京からレッスンに来て頂く辻井雅子先生です。辻井先生は七尾市出身で桐朋学園大学音楽学部の講師です。
故郷の子供たちのレベルを上げたいと30年以上も毎月欠かさず指導に来てくれます。

そして17回目となる「石川県NOTOピアノコンクール」を立ち上げ、今年8月に七尾文化ホールで開催されるこのコンクールには全国から参加者が集います。
辻井先生にさくらさんのことを伺うと、「小さい頃はそんなに調子が良い子ではなかったけど、今は十分に期待できるまでに成長し将来が楽しみだ」と評価して頂き、「教育連盟の全国大会に出場することは並大抵なことではないのですよ」と話してくれました。



石田先生、辻井先生と

芸術&スポーツ

同じ曲を基本どおりに弾いても、人によって表現が異なりこれが正解だということはありません。
同じ「ド」でも、柔らかい、硬い、深い、可愛い、など様々な音色があり、自分の個性に合った曲を作り上げます。
さくらさんは作曲家がどういう意図でその曲を作ったのか、その物語性を感じ自分なりにどう奏でるかイメージすると言います。

コンクールでは用意されたピアノを弾きますが、一小節を弾いた瞬間にそのピアノの個性をキャッチし、指のタッチや聞こえ方などを判断し、イメージ通りにピアノを操らなければなりません。
コンクールでは緊張で前のめりにならないよう必ず大きな深呼吸をしてから演奏を始めるのが、さくらさんのルーティンです。
どれだけ練習していても本番で一音の響きにミスを生じることがあります。

さくらさんはフィギュアスケートも華やかに見えるが、本当に地道な練習を繰り返し、練習で飛べた4回転ジャンプも本番で失敗することがあるのと同じように、ピアノも自分との戦いでスポーツのようだと話してくれました。
家族も練習時間を確保するため、生活リズムを工夫して支援を惜しみません。
ピアノを通して人間的にも成長していく、さくらさんです。



緊張のステージ


杉森久英生誕の地


七尾市黒崎町で生まれた杉森久英は昭和37年、「天才と狂人の間」で直木賞を受賞。
少年期は母の実家の一本杉や阿良町等で暮らし、父の転勤で10歳から金沢へ。
東大国文科卒で作家を志す。平成4年妻杉森喜久代さんと黒崎町有志で樫の木を植樹。


第101回 私の仕事は『児童発達支援管理責任者』です。


教えるつもりが教えられ

仕事歴6年 山花 剛さん 62歳

転機到来

自分が一番傲慢だったんです。私は甲子園を目指し中島中学から星稜高校へ進み、あの山下監督に厳しく鍛えられ以来三十年間の野球人生を送って来ました。金沢経済大学で十年、北陸大学で十年、航空石川で三年間の監督人生でした。監督として、教員として学生に素直さと謙虚さを説いてきましたが、今の仕事に就きそんなこと言っている自分が一番傲慢だったと気付かされました。教員の最後は七尾特別支援学校での五年間でした。この時の経験が人生の転機になりました。

着任した初日、一日黙って見ていて下さいと言われ見学したのですが、カルチャーショックでした。様々な支援が必要な生徒に寄り添い、親身に対応している姿は今までの自分の世界とは異なっていたのです。
二日目、生徒の紙パンツを普通のパンツにはき替えようとしていた時にその子がおもらしをしたのです。つい独り言で「あぁー、言ってやー」と呟いた時、後ろで見ていた先生から「言えたらあなたが要らないのです…」とその一言で目が覚めたのです。その通りだと思い、「よし!やってやろう」と腹を決めました。

放課後デイ

五年間、この子たちの手となり足となり、口となって、成長を願い接して来ました。些細な事であっても出来ていなかったことが出来ると、成長の一助になっていることを実感し野球での成長を見るより感動がありました。それでも支援学校で出来る事には限界があります。

私は退職を機に一人一人の能力に寄り添い学校と家庭を繋ぐ役割を担う放課後デイを立ち上げることにし、昨年七尾で五番目の放課後デイサービスを開所したところです。その時相談した恩師から、教育とは、教える、躾ける、押し付けるのではなく、得意な所を引き出して、育てる事だよと助言を頂きました。それで出来るだけそれぞれの個性に合わせられるようプログラムを考えています。幸い場所が田舎なので(笑)、田んぼ、畑、運動広場も併設して出来るだけ自然と触れ合える環境にしています。



アットホーム!

活かされて生きる

スタッフは支援学校の元先生や看護師さんなどで経験と智慧があります。日頃色々と相談しながら運営を心がけていますが、先月子どもたちとその家族で神戸へ行って来ました。甲子園の近くに中島町出身の先生がいる放課後デイサービスがあり、そのご縁で都会と田舎が交流できればと話が進んだのです。運よく甲子園で星稜高校の一回戦があり、みんなで観戦して盛り上がりました。

現在小二から高二までの生徒が集まりますが、私自身まだまだ修業の身だと感じています。それは一人一人の個性を見極めるには、とにかく口出しせず待たなければなりません。あれやれ、これやれ、では成果が出ないのです。でも待つ仕事は楽なようで結構しんどいです(笑)。

先日高校時代の山下監督から金沢工業大学の野球部監督就任の要請がありました。なぜ私なのですか?と訊ねると、日大のアメフト問題などスポーツ界で不祥事が相次ぐ中、勝負だけでなく、人としてのモラル教育がやれる監督を紹介してほしいと頼まれたからお前なのだ、と言って頂きました。スタッフの理解と応援もあり秋から監督を引き受ける予定です。野球で傲慢だった私が、子どもたちによって人間的に成長させられた事で、また野球の世界から声がかかるという因縁を不思議に感じています。



才能を育てる

中島町 放課後デイサービス・サンフラワー
☎66-6010


ねやフィッシングパーク 太公望

川田 文雄 (かわだ ふみお)さん

金沢で焼肉店を経営していましたが、第2の人生は故郷の能登島で過ごそうと戻りました。
ここは第3セクターの施設ですが10年前に引き継ぎ、訪れる人に釣竿の貸出しや軽食を提供しています。

憩いの場として滑り台を作ったり、キャンピングカーの電源を設置したりと自由と自然を満喫しています。 グループでご予約頂ければ海を眺めながのら焼肉にも腕を振るっていますよ(笑)。



住 所:能登島閨町
お電話:0767-85-2919


能登香島中学校 バドミントン部


男女合わせて35名の部員で活動しています。春と秋には懇親会を開く、仲が良い部です。
小学校からの経験者はいませんが、技術が上達するように努力しています。
4年前から3年連続県大会に出場しているので、今年も県大会出場を目指し、上位進出を狙います。
支えて下さっている方への感謝の気持ちを忘れず、これからも頑張ります。

顧問:平野先生

男子キャプテン:中西 勇汰さん
女子キャプテン:竹中 乃愛さん


能登島ガラス美術館


能登島町「ガラス工芸の島」構想でまずガラス工房を誘致し、平成3年ガラス美術館が開館しました。
建物のモチーフは宇宙の流れで、自由に変化する象徴として館内には「雲」をイメージしたオブジェや装飾が施されています。いくつあるか探してね。


第160回 中島町豊田町


在所名の由来

隣在所の豊田から分村したんだよ。鹿島郡史によると鎌倉時代に加賀国豊田村から豊田弥二郎光忠という人が移住して開発領主となったことから、この辺りを豊田というようになったらしいね。
その豊田の端にある日吉神社の前に、毎月16日に市が立ち人が集まりだしたんだ。それでここを豊田の中の賑やかな所、豊田の町と呼ぶようになり、分村して豊田町となったのだよ。
ちなみに9月の六保祭は市が立った16日に行なわれていたんだけど、今は人足不足で9月の最終土曜日に変わったんだ。

昔の在所

日吉神社を中心に役場、小学校、中学校、農協、郵便局など主な施設が集まり、近隣の在所から二男坊や三男坊が来て住むようになったんだ。津波の避難場所となっている殿の芝(とんのしば)には在所の4本の道が集結しているけど、子どもの頃はここで竹スキーをして遊んだよ。

県道が通ってない時代は殿の芝から若狭堤の横の山道を通って土川、外原、富来の日用の在所に通じていたんだ。
在所の半分は富来の日用の松尾寺の門徒で日用とは縁が深かく、山から木を運搬する人夫を日用と呼んでいたくらいだよ。目の前に的場孫三が拓いてくれた140町歩の豊川平野が広がるけど、ここは分村したので農地が少なく山田を拓いても五反百姓が多く、農業で食べていけないので和倉のイソライト、富士断熱工業、日の丸窯業に多くの人が勤めに出ていたんだ。それと学校の先生になった人が多い在所やね。

現在の在所

豊川地区は公民館活動が盛んなので、高齢化が進む中で地域の住民とほど良い人間関係を維持して、住みよい豊田町が続くよう努力したいと思っているんだ。4月の桜まつりは、日用川の両岸800mに実年会が植えた桜を眺めながら子供からお年寄りまで集って川下りを楽しむのが恒例なんだ。

6月最終日曜日には六保の納涼祭のしらいの前に故郷の恩人、的場孫三の顕彰碑の前で玉串奉奠して祝詞を上げてお参りし、地区の敬老会では婦人や壮年団長など集まって演芸をしたりして、みんなで心からお年寄りをもてなしているんだよ。在所の中では散歩に出て触れ合える場として殿の芝に桜を植えベンチも備えたんだ。人情を大切にして末永く暮していかんとね。

あきこの一言

往時を偲ぶ宮の前、殿の芝に通ず小路を上る。
穏やかに流れる空気と人情、豊田町の在所。


はい!社長-多機能ジム マイスタイル


多機能ジム マイスタイル 嶋﨑 貴士(しまざき たかし)さん 37才

金沢から七尾に移住して7年になります。
ご縁あって4年前から高齢の方々に健康に気を遣って頂きたいと思い「転倒予防」・「認知症予防」・「100歳体操」などの指導を行ってきました。
その経験を生かし、昨年10月に施設を立ち上げる事が出来ました。 リハビリテーションの専門の作業療法士が親身に対応しますので、腰痛・膝痛・障害をお持ちの方もお気軽にお越し下さい。 送迎も致します。

住 所:七尾市細口町ろ部15番地
お電話:0767-57-5417


田鶴浜囲碁愛好会


盤上の真剣勝負と和気藹々の会話を楽しんでいます。
火・金の午後から田鶴浜コミセンに集まり会員は65歳~90歳まで30名、全員男です。
年4回の七尾鹿島地区の大会で優勝を目標にしています。
囲碁は性格が出て面白いです。戦略を練る力、感情をコントロールする力、まさに頭のスポーツで人間力を高めます。(四代目会長 杉本二千雄)


第159回 七尾市清水平


在所名の由来

伝わっている話だけど、七尾城でお茶に使う水を馬に乗ってここまで汲みに来ていたそうだよ。
ここは山中に清水が湧き出ていて、昔から今でもその水を在所の生活用水として使っているんだよ。城山に近い山方(やまかた)の在所は戦禍で在所中が焼き払われているそうだけど、
ここは水源のひとつだったことから狙われたというふうにも聞いているんだ。

昔の在所

元々十三軒の在所に明治時代に庵から鷲尾さんが入って来て十四軒の在所になったんだ。人口は明治時代がもっとも多く百七人と記録にあるけど、私が子どもの頃でも八十人は超えていたよ。
清水平は山方四ヶ村の小栗、柑子山、麻生の真ん中に位置するので明治十四年にここに小学校が出来たんだ。清水の湧き水をポンプで汲み上げて使っていたね。直線で50mの運動場もあったけど今は竹薮になっているよ。

尋常高等小学校に進むには庵まで出なければならなく山方四ヶ村の子どもは遠いので、在所の平山さんが佐々波の飯山さんを先生に向かえて自宅前に塾を作ってくれたんだ。ところが在所のお地蔵様がちょうど塾の軒下になってしまい移設したんだ。その時に私の祖父さんの弟が大工をしていたもんだから祠をこしらえてくれたんだけど、そんなご縁もあって今は私の家でお守りしているよ。

九州に嫁に行った娘が気にかけてくれて昨年石の祠に建て替えてくれ新しくなったよ。十四世帯という数は全員が協調しないと在所が持たなくなるので、そのための知恵だと思うけど、人の道を踏み外さないよう戒めの賞罰台帳をつけていた時代もあったんだよ(笑)。

現在の在所

昨年まで三世帯六人だったけど、だんだん寂しくなってね。八十歳を回って昔の事を思い出す事が増えたけど、岩田さんとなんとか清水平で暮らしを続けていると言うことだよ。
十年前、七尾で五人が最初に猪を捕獲する免許を取ったけど私もその一人でね。体長80㎝以上の猪を県と市とで一頭一万円で買い取ってくれるので檻を三つ仕掛けているんだ。これが唯一の現金収入だよ(笑)。
一番の気がかりは在所の土地がどんどん荒れていくことなんだ。牧草地にして木が生えないようにしておきたいと思うけど…。まぁ、時代の流れに身を委ねていくしかないようだね。

あきこの一言

人は営みを続け時代を生き抜く
今を生き抜く2世帯が暮す在所


第42回 「輝け!郷土の星」弓道の播摩 美里さん(鹿西高校2年)


第34回石川県高等学校弓道如月大会団体優勝

2月10日、石川県立武道館、凛とした空気が漂う弓道場。この日は終日気温が上がらず寒さとの戦いでもあった。弓を持つ手もかじかみ最悪のコンデションの中で競技が始まった。
鹿西高校の番が来た。選ばれし女子5名が射場に立ち順番に弓を引く。一人4本の矢を持ち全員で20本の矢を放つ。的に当たったは7本、休憩を挟み2度目の射場に立つ。今度は11本、計40本中18本が的中。気がつけば予選トップにたっている。決勝戦で9本、予選と決勝の計27本は、2位の金沢高校に5本差をつけての優勝だった。

鹿西高校弓道部

実は私補欠だったのです。 「えっ!」 私は驚いて声を上げてしまった。今まで補欠の選手を取材したことなどない…。
団体の場合は代表者を選んでもらい取材を行なっているが、顧問の入口先生は迷わずキャプテンの美里さんを推薦したのだ。とまどいながらも取材を進めていくうちに合点がいった。

試合こそ出場できなかったが、このキャプテンがいたから優勝できたのだ。大会で美里さんは予備の弦と矢を持つ天持を務め射場の後で試合を見守った。的に当たれば 「よし!」 と大きな掛け声をかけ、一人一人の動きを観察し試合の合間にアドバイスをした。 出場できない悔しさがあってもサポート役に徹し、仲間が的に当てたときは本当に嬉しく頑張ってほしいと願ったという。



県代表で中日本大会出場

キャプテンとして

153cmと小柄な美里さんは今大きな壁に当たっている。1年生後半から射法八節の会(かい)が定まらない。会とは弓を押し、弦を引き、矢を放つ直前の構えで、精神力が最も必要とされる瞬間だ。的を前にどれだけ意識して練習しても克服できないという。それが的ではなく巻藁を前にすると出来るのというから不思議だ。
入口先生はどうしたら克服できるのかと何人もの有段者に聞くもその術が見当たらないという。当てたいという心が自分で自分の体を操れなくしているのだ。このように弓道は非常にメンタルな競技である。

美里さんは後輩を指導する立場でありながら結果が出せないことを深刻に悩むという。先輩としての威厳が伴わない中でも1年生には上手になってほしいのでアドバイスもし、練習が緩んでいればキャプテンとして注意もしなければならない。寒い日が続く1月、小さな電気ストーブの前に集まり、しゃがみ込んで暖を取る1年生。 弛んでいる…、 試合を前にしてこれではと部活ミーティングで気を引き締めた。

そこから練習に魂が入り大会2週間前から全員の当たりが安定してきた。その状態で臨んだ如月大会、底冷えの寒さの中で強豪高が振るわない中、鹿西高校は普段の練習通りに弓を引いた。勝因の根っこは美里さんのリーダーシップにあったのだ。 葛藤を胸に収め、終始穏やかに謙虚に
冷静に話すその人柄に真の強さを感じ、私は爽やかな気分となり学校を後にした。



鹿西高校弓道部