故郷と人に活かされて生きる
私の仕事は「野菜農家」です。
酒井 光博(さかい みつひろ)
仕事歴 9年
野菜農家の仕事とは
私の場合、自然豊かな故郷で育まれる農産物や海産物が高齢化と担い手不足により衰退していく中で将来的に少しでも産業として継続できるように生産と流通、販売の一貫を目指し、その取組の中で地域の人が集い、共助で暮らしていける環境がもたらせればと考えています。
自分探し
バイトと遊びに行くな!立場を考え覚悟を決めて仕事をしろ!お客が振り向いたら何をしたいか察知しろ。店長から徹底した指導を受けました。お陰で1年後に社員・バイト40名のトップに立ち、店と金庫の鍵まで預かるようになりました。大阪のパチンコ店です。
七尾工業高校を卒業し鉄工所に勤めますが身が入らず3ヶ月で退職。毎晩金沢へ遊びに行っていた「悪」だったのです(笑)。このままではいけないと19歳の時にリュックサック一つに10万円持って大阪へ出ました。しかし金髪で住所不定では何処も雇ってくれません。やっと三軒目のパチンコ店に雇ってもらいました。1日18時間働きましたが楽しかったです。寮もあり食費も支給され生活は十分にできましたが田舎へ帰りたいと思うようになりました。働くという事に心を入れ替える事ができたら、故郷の自然と相棒たちが恋しくなったのです。
スナック経営
21歳で田舎に戻りますが目標が定まらず24歳までは土建や建築、和倉でスナックのボーイをします。スナックのママが店を締める事になり私に店をと声がかかりました。3日間考え今までのお客様や自分自身の人間関係を活かせれば何とかやれるかもと思い決断しました。多くの人に助けて頂き店舗契約から10日間で改装オープンし、お店は順調に滑り出しました。当時、夜は店に立ち、昼はゴルフ三昧です。
24歳の若者が平日にゴルフ場へ出入りしているので何者かと思われたようですが、そこで知り合う先輩方に経営や人生を学びます。そうした中で目標が見え始めます。スナックが順調な間に、田舎だからこそ出来る仕事はと考え、何の根拠も無いまま、しかし何故か出来ると自信があったのが農業だったのです。この時、26歳でした。
新規就農者
全くの素人だったので農業を学ぶためにJAの白ネギ、中島菜、小菊かぼちゃの各部会の旅行に参加して人間関係を築くところから始めました。熊木川下流の干拓地で30aの農地を借りましたが、道具も持たず耕すことも畝も作れず、全て隣の畑の人に助けてもらいました。指導員や先輩農家へ出向き習うのですが当初は良い野菜が作れず規格外が多かったです。農業は難しく10年やっても10回の経験でしかありません。
10年目に入りますが、最近は土の力に注目しています。土の力で水を保ち、水を捌き、空気を保つ、そうすると肥料が長持ちし、植物が欲したときに土が餌を与えてくれる。そんな野菜には虫が付きにくい。土が持つ力が存在するのです。3年ほど前からやっと納得がいく野菜が作れるようになったかなぁという感じです。でもまだまだです。今8ha耕作していますが更なる生産性と付加価値の研究中です。
振り返れば野菜の育て方も販路の開拓もすべて助けて頂いてきました。私は出会いや関係を大切にします。市場から夕方4時に電話が入り明日朝5時までに出荷を頼まれれば寝ないでも作業をして届けます。この冬から牡蠣の養殖と浜焼きのお店も始めました。近所の養殖業者の高齢化で受け継いだのです。またしても素人からの出発ですが、大好きな故郷の自然を活かした仕事に携われて幸せです。
中島町塩津 農事組合法人 能登風土
☎66‐6059