こみみかわら版バックナンバー

第13回 「輝け郷土の星」  弓道の岡野 暉くん(中能登中3年)


第50回石川県中学校体育大会弓道競技で優勝


今年、中能登中学校弓道部は個人戦と団体戦で石川県優勝しました。個人優勝の暉くんは団体戦にも出場し8月20日に東京の明治神宮にある中央道場での全国中学生弓道大会に出場しました。小学生の時バトミントンをやっていた暉くんですが、部活に弓道があり見学に行くと先輩の弓を引く姿に惹かれて入部します。しかし半年間は弓を持たせてもらえず腕立、腹筋に明け暮れました。初めて矢を放ったとき28m先の的は遠く半分しか飛びませんでした。弓道は思った以上に難しいと感じた暉くんですが、真面目な性格で休む事無くコツコツ練習を続けます。初めて的に当たった時はテストで90点を取ったくらいに嬉しかったそうです。加賀賢成コーチに入部してきた暉くんは才能があったのですかと質問すると、即座に「無い!」との返事です。ただ努力家で素直に指導を聞き入れ、真剣に練習を続けてきたので、今年急に頭角が現れたと言います。


中能登中学校弓道部


平成25年、鹿島、鳥屋、鹿西の中学が統合され中能登中学校になった時、弓道場も建てられました。これは鹿島中学に弓道部があったからです。旧鹿島町は弓道の盛んな土地柄で、今年の岩手国体に石川県代表として成年男子で曽山良和選手、成年女子で山口千春選手が出場します。曽山選手はすでに全日本で3度優勝しています。中能登中学弓道部はそんな選手と交わる機会を持ち練習に励んでいます。弓道部のなかった鳥屋、鹿西地区の生徒も弓道に触れる機会ができ、部員数は男女50名です。弓矢を持って立つ部員から厳粛な空気が漂ってきます。今年出場した県内と北陸三県の5大会全てで男子は団体優勝しました。団体戦は大前、中、落と3名で戦います。大前、清水来樹くんは鹿島出身。中、岡野暉くんは鳥屋出身。落、山邊晃聖くんは鹿西出身です。試合では状況を見てお互いにアドバイスします。暉くんは信頼する仲間が後ろにいることで安心して試合ができたと言います。



山邊・岡野・清水の絆


独自の会


弓道では射法八節といって矢を射る立振舞いがあります。矢を放つ直前の構えを会(かい)と言います。会は指導を受け身につけるのですが、暉くんは独自の会を作り上げました。加賀コーチは誰も真似の出来ない天性の会だと言います。暉くんは特別意識したわけでなく、教えを聞き自分なりに考えながら、ただコツコツ練習を重ねていく内に自然とこの会に辿り着いたと言います。弓道は36cmの的に矢が当たるか当たらないかの勝負で、技術もさることながら強い精神力が求められます。大会では8割の力が出せれば最高だと言われ、練習は大会のつもり、大会は練習のつもりと常に平常心を養います。奥が深い弓道だからこそ、持ち前の素直さと直向さで練習を続ければ、まだまだ楽しみな暉くんです。



礼儀礼節、心身の鍛錬


はい!社長です-きもの処 森善-


きもの処 森善  森 孝裕 (もり たかひろ)さん 55才 A型


森善の6代目です。 歴史が深く、文化の香り高い七尾ですが、時代の流れで着物文化が衰退していく事を心配しています。

もっと着物に触れ合うことが出来ればと、市内呉服屋の有志で十三詣り実行委員会を立上げました。 十三の齢に健やかに成長できたことへの感謝と福徳と知恵を授かる様にお詣りする行事です。

3月25日に小島山の寺長齢寺にて開催します。12~14才の男女を募っています。


住 所:七尾市本府中町ル部3‐18
お電話:0767-53-0328


鹿西高校 染織部


私達は、能登上布を織っています。 中能登の伝統文化を受け継ぐ事の出来る部活は、
鹿西高染織部だけと思います。 今まで守ってきて下さった先輩方に感謝し、地域の
方とのコミュニケーションをもっと大切にしていきたいです。 部室の出入りには
必ず挨拶をしていますし、各自がきちんと自分の意見を持ち、想いを伝える人が
多いのが染織部の良い所です。  (部長 木下絵利香)

顧問:入口 正悟先生
部長:木下 絵利香さん


田鶴浜の白浜牛ヶ浜観音堂


能登三十三観音霊場の一つです。十一面観世音菩薩が祀られており、
33年に一度のご開帳が2年前に行われ、次にご本尊を拝めるのは
31年後です。
長谷部信連の子孫がここに祀ったのが始まりで、穴水の長谷部神社と同じ
銭久曜の神紋です。


第133回 中能登町川田


町名の由来

昔この辺は邑知潟地溝帯の湿地帯でね、隣在所の大槻との間に流れている
二宮川が氾濫しては土砂が堆積していき、そこを田んぼにしていったようだよ。
川の横の田んぼから、川田と呼ばれるようになったと聞いているよ。

昔の在所

古い文書に明治3年の世帯数が25軒、鳥屋町が出来た当時が34軒で
尻から3番目の小さい在所だったんだ。
いつの時代かわからないけど、その昔、戦いに敗れた高岡の守山城の城主が
ここへ落ち延びてきたと氷見のお寺の古文書に書かれていると聞いているんだ。
そんな歴史があるのでここには守山姓が多く、昔は在所の8割が守山だったんだよ。

それと川田は天領で特権的な天下百姓の村だったんだ。
20町歩の田畑の水を全て賄う大池は谷間を堰き止めて作った大きなため池だし、
江戸時代に寺小屋があって明治時代には小学校になっていたというから、
小さいけど何かしら力があった在所だったようだよ。

明治28年に11ヶ村が合併した鳥屋村の初代村長が守山佐一、
二代目が守山栄次郎とこの小さな在所から出ているところを見ると、
守山城主の末裔としてか、天領だったからか、よくわからないけど、
とにかく一目置かれた存在だったのではないかと思うんだよ。

これから

昭和50年に北陸最大の川田古墳群が発見されて川田地区だけでも
大小150基以上の古墳があるらしいね。
おかげで平成13年に大池を中心にとりや古墳公園が
整備され遊具やパターゴルフ場もあり、土日には沢山の家族連れが訪れて楽しんでいるよ。

町営住宅と新興住宅地が2ヶ所造成されたおかげで今では
在所の半分の世帯が移住して来た人たちなんだ。
若い世帯が多く子供も沢山いて、獅子舞の練習には40人以上の子どもが集まり、
若い衆もしっかり指導してくれているよ。
昨年は獅子頭、蚊帳、天狗の面を新調したけど、嬉しそうに祭りをしている子供たちを見ていると、
紛れも無くここ川田がこの子らの故郷なんだと実感するね。

子ども会、青壮年団、実年会、老人会、女性協議会、自衛消防団など活発に活動しているけど、いろんな行事を通じて在所に馴染んでもらって将来的には川田を継承してもらいたいと願っているんだ。

あきこの一言

温故知新、古きと新しき、
交わって歴史が繋がれる。


公立能登総合病院‐看護師‐

西海 貴弘(さいかい たかひろ)さん

23才 A型

看護師3年目☆現在手術室に勤務しています。
手術看護師は瞬時に正確な判断を求められ、緊張度の高い職業ですが、
とてもやりがいを感じています。

能登病院では、手術安全性の向上と患者さんへの低侵襲を実現した、
手術支援ロボット「ダビンチ」を導入しています。
経験を重ね「ダビンチ」に携われるよう努力を怠らず、患者さんへの
心配りを大切にした看護を実践します。



住 所:公立能登総合病院 七尾市藤橋町ア部6‐4

お電話:0767-52-6611


第88回 私の仕事は「魚屋」です。

笑顔でおせっかい



私の仕事は「魚屋」です。
川端 海富理(かわばた みどり)
仕事歴 12年


魚屋の仕事とは


私の場合はお店での調理・販売の傍ら、インターネットでご注文を頂き、「おさしみ直送便」という名前で、能登の新鮮な魚介をお刺身にして、鮮度を保ったままお届けしています。


母からの宅急便


母の愛情がいっぱい詰まっていました。都会で一人暮らしをしていた私に、母から届く宅急便。能登の素朴な食材で作ったお惣菜や新鮮なお刺身。私を気遣う親心を感じて本当に嬉しかったです。そんな母が介護を必要とする身になったことで、七尾へ帰り両親と暮す事にしたのです。帰郷して私に出来る仕事は何か?と考えた時に、ふたを開けた時のあの嬉しい気持ちを、今度は私が届ける側になり、七尾から能登のごちそうを全国にお届けしよう!と思いつきました。


IT音痴


ホームページを作成する!と意気込んでUターンしたものの、パソコンの電源の入れ方さえ「?」の私でしたので、まずは七尾の市民大学講座のパソコンセミナーに通い、2年がかりで基本操作を覚えました。その後ホームページ作成講座9回コースを真剣に受講し皆勤賞、それも同じ講座を二度通うも、私のスキルでは完成させられず(笑)、結局のところホームページ開設に4年もかかりました。


はじめての注文


念願かなってウェブ上にお店を構える事が出来たものの、1年目の注文は1つ。2年目は8つ。この状況をどうにかしたいと思い悩んでいた時に、市内の有志でネットショップの勉強会が行なわれている事を知り参加させてもらいました。この勉強会の連絡ツールはフェイスブックだったので私も始める事になります。おかげで東京の友人たちとSNSで再会することができ、私が能登で魚屋をしている事を知った友達が注文をしてくれました。それがきっかけとなり紹介や口コミでお客様の輪が広がりました。



愛情も入っています(笑)


オーダーメイド


これはパソコンが苦手で話好きな私にぴったりだと思いました。直接お話をすることで美味しいものを食べさせたい、おもてなしをしたい、というお客様の気持ちが伝わってきます。それでおせっかいでもと親身になって相談にのり、提案をさせて頂くうちに、お客様の裏方役、第二のキッチンとしての役割もあるのだと思えるようになりました。直接コミュニケーションすることでお客様との間に親近感と安心感が生まれ、今では毎日ご用命頂けるようになり本当に有難く思っています。また私は母が作っていたと同じように、化学調味料を使わず甘エビの頭と白井さんの昆布でお出汁を取り車麩煮など家庭の味を毎日お店に並べています。そしてそれらを全国の方々にもお刺身と共に郷土料理としてお届けしています。十人十色のご要望に答えるため、出来る数も限られ効率が良いとは言えませんが、美味しかった!ありがとう!と嬉しい言葉を沢山頂ける仕事になりました。これからも七尾の魚を通じて、多くの方々と感動を共有し、地元のお客様に、全国の皆様に愛されるお店になれればと思います。



創業55年の老舗


矢田新町 川端鮮魚
☎52-1916
2018年取材


第87回 私の仕事は「瓦職人」です。

日本瓦、その良さを伝えたい



私の仕事は「瓦職人」です。
三和 淳(みわ あつし)39歳
仕事歴20年 瓦葺一級技能士


瓦職人の仕事とは


屋根瓦の専門家として新築の瓦葺きや修理のほかに、屋根全般の困りごとを今までの経験を活かし、最良の方法での解決策をアドバイスさせて頂いています。


生かされて活きる


天井が見え、不思議な感覚を覚えました。能登総合病院の集中治療室で「俺、死んでしまうのか?」最初に発した言葉でした。そばにいた母親が「大丈夫やよ」と言ってくれ安心したことを覚えています。屋根から転落し首の骨折で病院へ運ばれ一週間の意識不明から目覚めた時のことです。瓦メーカーに勤めていましたが、能登地震の復興で応援に入った時のことでした。私は両親の勧めもあり富山医療福祉専門学校へ進学し理学療法士を目指しましたが、どうしても馴染めず2年で中退し中島の実家へ戻りました。近所の瓦職人が遊んどるなら手伝えと3年間お世話になりました。夏は暑く冬は冷たい屋根の仕事ですが、自分が手がけたものが形に残る面白さを感じ、この道に進みたいと思うようになりました。


修業時代


色々な瓦屋根を施行し勉強したいと新築着工数が多い富山県、その中でも一番大きい篠原瓦工業へ就職しました。若い職人が多く教育指導がしっかりしており、神社仏閣、公共施設、洋風、店舗など活躍の場を与えてもらい資格も取得できました。富山と石川では瓦の葺き方も微妙に違います。建物の構造が違うからですが、富山は工務店が先進的に提案していくものにお客が付くいわゆる提案型です。石川は施主が伝統様式にこだわり工務店がその思いに合わせます。両県の違いが分かる私に瓦メーカーから販売の仕事をやってほしいと誘われ転職します。販売と工事を担当しながら北陸三県、新潟、埼玉、仙台と工事店やハウスメーカーを回りました。その時に営業の難しさを感じました。瓦本来の良さは伝わらず、瓦は付属品で飾り物みたいに考えられ価格だけで判断されるのです。建築コストを下げるため瓦以外の製品が使われますが、それらは必ずメンテナンスが必要になります。瓦は割れない限り一生ものです。わずかな価格差しかないのに瓦の良さを伝えきれない自分が情けなかったです。



私が乗っても瓦は割れない(笑)


能登に戻る


志賀町を中心に能登は瓦の産地でしたが、かつてたくさんあった瓦工場は一軒も残っていません。北陸でも各県にひとつ瓦製造の工場があるだけです。工場は無くなっても屋根には瓦が必要です。長男なので地元に戻る時、この世界を続ける事に迷いは無く、メーカー時代のご縁もあり能登窯業に入社し今年ではや7年が経ちました。最近は半日現場、半日営業という形ですが毎日がとても楽しいです。現場が楽しいから、いろんな相談を受けるようになり、そこからの人付き合いがまた楽しいのです。設計図がある新築でも、この場所の風向きを考えると構造を変えた方が屋根にとっては良いと進言します。構造に合わせて瓦の収め方も違うのです。余計なことを言うなと叱られますが、後であんたの言う通りにしておいて良かったわと言ってもらえます。私は一度お付合いして頂いたお客様の名前と住所は全て頭にあります。瓦は一回手がければ何十年もさわりません。その姿がずーと見られていく世界です。しかし私は屋根の出来栄え以上に「あの人に頼んで良かった」と言って頂ける関係性までが見られているのだと思います。大切に人付き合いを積み重ねながら、日本の伝統、瓦の良さ伝える伝道師として(笑) 頑張りたいと思います。



大工・電気 みんな仲間

矢田町 能登窯業株式会社
☎52-4847
2017年取材


第86回 私の仕事は「イタリアンシェフ」です。

小さな幸せを



私の仕事は「イタリアンシェフ」です。
畑田 寛(はただ ひろし)48歳
仕事歴 20年


イタリアンシェフの仕事とは


私の場合は、能登の食材にこだわったイタリア料理を、地元の皆様に気軽に美味しく召し上がって頂き、暮らしの中でのちょっとした彩となって、心を豊にする薬味の役割が果たせればと思っています。


愛のムチ


「こんなまずいもの食えない…」その一言でお皿ごとフォークも料理も生ゴミのバケツに捨てられました。修業時代、私の賄い料理を親方に出した時のことです。私はバケツからお皿を取り出しながら悔しくて、情けなくて、泣きました。七尾高校から愛知大を卒業して名古屋でコンピューターのセールスをしていました。長男で親の面倒も見なければと会社を辞め、漠然と飲食関係でもとの思いで金沢の魚屋と浅田屋のイタリアンで皿洗いや雑用を掛け持ち、朝から晩まで月に400時間休みなしで1年間働きました。その時の親方が中途半端なことをせずイタリアンをやれと勧めてくれこの世界へ入りました。28歳でしたが職場の同年代はポジションをもらい活躍しています。そんな私を徹底的に鍛えてくれたのです。覚えが悪いとよく殴られました。お陰で10年かかるところを5年で一通り出来るようになりました。今では親方と酒を酌み交わす仲ですが、私にとっては絶対的な存在です。


起死回生


平成19年の3月能登半島地震、6月に父が急死、弱り行く母、今こそ能登に戻って頑張らなければと開業を決意し10月にオープンしました。1年目はご祝儀で多くのご来店を頂き順調でした。格式高く音楽もカンツォーネのオーソレミオを流しフォークとナイフをテーブルに並べお客様をお迎えしました。ある時、お客様から箸を求められたのですが、ここは箸で食べる店ではないとお断りしたのです。お客様は怒ってフォークとナイフを箸のように持って食べ始めました。和風パスタもオードブルも断りました。そんな生意気な私の姿勢が受け入れられるはずもなく2年目、3年目と売上が落ち込み、初めて勘違いしていた事に気付きあわてました。その頃石川県産業創出機構から地元食材を使っているお店ということで取材を受け、その際に現状を相談したところ活性化ファンドを活用して商品開発を提案されました。常連さんがハタダのパスタソースを家でも食べたいと言うのでビン詰めしていたものを商品化することにしました。全て能登にこだわり、ラベルのデザインまで能登出身ということで田中聡美さんにお願いしました。後にひゃくまんさんをデザインした人です。世の中に山ほどあるトマトソース、正直売れるわけ無いと思っていました。それが売れ出したのです。保存料が入っていないトマトソースがあると口コミで三越、高島屋はじめ全国に広がり月間千本ペースで、累計で2万本は売れました。



ハタダオリジナル パスタセット


能登のイタリア食堂


ソースの仕込みで忙しくなり、そのストレスでお酒の量が増え体調を崩します。売上が上がっても体を壊してはと、ソースを作っていた時間をダイエットに充て1年間で10キロ痩せました。ソースは県外への出荷は控え、なるべくお店に買いに来て頂ける分だけを作るようにしています。10年前、ふるさと能登のためにという志が、プライドと目先の利益のためいつしか曇ったように思います。もう一度初心に帰り、愛する能登で、能登の食材で、能登で暮らす人たちに、気取らないカジュアルなイタリア料理に親しんで頂くことが私の役目だと思います。七尾の小さなイタリア食堂で、小さな幸せを共有できればいいなぁと思います。



妻の支えに、感謝です♡

小島町 イル・ピアット・ハタダ
☎58-3636
2017年取材


第84回「人形劇役者」です。

娯楽が必要な社会



私の仕事は「人形劇役者」です。
吉田 貴志(よしだ たかし)45歳
仕事歴21年


人形劇役者とは


私の場合は、自分で作った人形と道具を持って北陸の保育園を回り、園児が大きな声で笑い、何かを感じて、子どもの頃の楽しい思い出の一つになるようにと、ひとり人形劇を演じています。


本堂に笑いの渦が


夏休みに小竹の瑤泉寺に中能登町の五つの保育園の年長さん116名が集まって私の人形劇を観て頂きました。園児たちの大きな笑い声や突っ込みに私もテンションが上がり手ごたえを感じたステージとなりました。瑤泉寺の佛教婦人会が企画をして近所の方や園児の親御さん、保育士さんなど老若男女が集まり皆で仏様にお参りをし、人形劇を楽しんで頂きました。私は普段通りに演じたのですが場の空気がいつもと違うと感じました。それは園児が情操教育としてではなく、地域の人と一緒に単純に娯楽として楽しんで観ることが出来たからだと思います。無邪気で屈託の無い大きな笑い声が本堂に響きます。劇が終り大人たちからこんな子どもの笑い声を聞いたのは久しぶりだ、昔を思い出した、懐かしいと口々に感想を頂きました。


唯一のプロ


金沢大学で子供と遊ぶサークルに入り人形劇に出会うのですが、一瞬にしてのめり込んでしまいました。プロの世界があることを知り、迷わず京都の人形劇団京芸に入団しました。そこでは主に2人~8人の班を作り各地で公演を行います。14年間在籍し人形の扱い、声の出し方、場の読み方、笑いのつぼ、舞台美術など人形劇の技術とコツを身につけ、6年前にひとりで「ヨシダ人形劇」を故郷石川で旗揚げしました。北陸では福井県の「人形劇団とんと」が先駆者として頑張っています。私も県内で唯一のプロとして石川県で人形劇をもっともっと広めたいと思っています。大きな劇団は役者と営業が別れて運営されますが、私は根っからの役者肌で営業は得意ではなく、ご縁のあった方々の口コミで少しずつ広がっている状況です。



みんなで一緒に


ひとり人形劇


舞台道具、人形、全て手作りのオリジナルです。人形と掛け合う短編の物語を組み合わせて構成します。園児は自分より小さくて愚かな人形を上から目線で見て、物語を先読みし、突っ込んだり、教えたり、時には人形をジーッと見つめて共感し、見ている者全員が一体となり仲間意識を共有していく様が感じられます。私の狙い通りに運ぶこともあれば、思っても見ないところで反応を示され、子供の感性に教えられる事もあります。年齢や知識や経験の差によって笑うところも違ってきますが、私は子供向けに作っているという意識は無く、誰が見ても、ただ楽しむものであり、ただの娯楽でありたいと思っています。路地に子供が遊んでいた時代、在所の中で子供の笑い声や、泣き声が聞こえることが当たり前でした。その当たり前が当たり前でなくなった現代、地域の中で大人と子供が一緒になって大きな声で笑える娯楽、子供の笑い声で大人が元気を貰える娯楽として、たった一人のヨシダ人形劇がお役に立てればと願いながらも、気負わずに、淡々と活動していきたいと思っています。



お世話して頂いた瑤泉寺仏教婦人会


中能登町高畠 ヨシダ劇場
☎050-3444-9396

2017年取材


第83回 私の仕事は「音楽療法専門士」です。

音で寄り添う



私の仕事は「音楽療法専門士」です。
勝木 恵子(かつき けいこ)35歳
仕事歴 10年


音楽療法専門士とは


私の場合は、地元の公民館や施設などに出向き、高齢者や、発達障害児と一緒に音楽を楽しみながら、コミュニケーション力を高めたり、生活の質の改善を促していく仕事をしています。


音楽療法


街にひとつピアノが置いてある部屋がある。そこには自由に出入りできて、そこでは何でも出来て、好きに集って楽しく過ごす。まず、そこへ出向くことが目的になる部屋。疎外感を減らす、そんな場所。発達障害の子が、日常の中で、遊びに行く場所として、映画や、キッズルームに行くのと同じ感覚で集まれる部屋。将来、そんな部屋が作れたらと思っています。音楽療法とは、一緒に歌ったり、楽器を叩いたり、体を動かしたりと、音楽と何かを同時に使うことで、脳の認知機能を活性化させます。そしてコミュニケーションの円滑化や、今まで出来なかった事が出来るようになるなど生活の質の向上を目指します。


きっかけ


小学生の時に七尾市児童合唱団に入り、御祓中では合唱部でした。小さい時から歌が好きで、鹿西高校3年から声楽の先生に師事し武蔵野音大に進みました。西部池袋線での通学途中、東京音楽療法専門学校の看板を目にし、音楽療法ってどんなことするのだろうと興味を持っていました。そんな時、大学の講義でアメリカの音楽療法のビデオを観たのです。障害児のビデオでした。言葉が出なく、流暢に喋れない子ども達が、打楽器を使って会話しています。音楽が共通言語になっていることに強く心を打たれ、「あっ!私のやるのはこれだ!」と思ったのです。それで大学を卒業し音楽療法専門学校へ進みました。音大では硬く決められた方程式の中で授業が進められますが、専門学校ではミュージカルをやっていた人、専業主婦、保育士など様々な分野の人が集まり、もっている要素が違うので面白かったです。そんな人とチームを組んで2年間毎週、高齢者と障害児の施設に実習に出かけました。



放課後等デイサービスあおばにて


故郷へ帰り


就職は故郷でと石川県福祉の合同セミナーに参加し、施設のブースで相談しましたが、音楽療法を知っている人は3割でした。石川県音楽療法の会で、七尾市出身でフリーランスの方に相談したところ、中島の寿老園と社会福祉法人みのり園を紹介していただき、七尾で活動を始めることが出来ました。音楽療法は正解がない世界です。公民館などスポットでの依頼には、楽しくひと時を過ごすことを目的にし、施設で継続的に行う時は、コミュニケーションの円滑化、出来ないことが出来るようになるなど、生活の質の向上を目指します。
対象に合わせたプログラムは準備するのですが、場の空気を読んでの即興力が求められます。療法の最後は言葉を使わず楽器だけで、即興でやり取りして収めなければなりません。到底無理だと思われる状況からでも意気が合って収まった時、子どもは気持ちの良い顔をし、お互いに爽快感があります。全員で終わったという一体感が、実生活の中で人に合わせるという事を学んでいくことに繋がります。音で寄り添っていくそんな方法があることを多くの人に知って頂き、広めて行きたいと思っています。



七尾市いきいき講座(介護予防)


万行町 かつきけいこ音楽教室
☎080-3748-5714

2017年取材


第82回 私の仕事は「潜水士」です。

真剣に遊ぶ



私の仕事は「潜水士」です。
鎌村 実(かまむら みのる)58歳
潜水士歴40年 


潜水士の仕事とは


私の場合は、レジャーダイビングの指導と能登島の里海ガイド、プロインストラクター養成、
海難事故の救難救助を行っています。


日本航空学園の縁 


大阪府出身で高校は山梨県の日本航空高等学校を卒業しました。ここは道徳教育など人間力育成にも積極的に取組んでいます。その第二高校として2003年に日本航空高等学校石川を設立する際に恩師梅澤重雄、現理事長に声を掛けられ赴任して来ました。正規の教職ではなく人間力担当です。その翌年、ここ能登島でダイビングスクールを開校しました。そんな関係で現在も航空石川の潜水部を受け持ち、また併設する日本航空大学校で来春から新設する海洋コースの立上げに関わっています。


趣味が高じて 


元々はネットワークの設計技士で日本のインターネットの構築に携わり横浜神戸間での通信テストを行いました。ダイビングは18歳から始め、26歳で潜水士の国家資格を取得しました。37歳の時、コンピューター会社を立上げ、その事業部としてダイビングショップも経営し各地の海を潜っていました。そんな時に航空石川を立ち上げるから手伝えと言われ能登に来てみると、その海の素晴らしさに魅了され本格的にダイビングに打ち込もうと決意し会社を譲渡してしまいました。当時の武元七尾市長と能登島の高瀬町長にダイビングを通しての街づくりをプレゼンしました。タイミングよく能登島町がそのような構想を持っており野崎に拠点を置かせて頂きました。しかし、地元では過去に他所から来たダイバーがサザエなど海産物を獲っていくので、潜り=盗みというレッテルが貼られていて強い警戒感がありました。地元漁協の小幡組合長が「同じ海で仕事をする者に悪人はいない」と言って頂き救われた思いがしました。今は能登島で潜水するには私どもを通さなければならない仕組みになっており、逆に不法ダイバーを防ぐ役割も担っています。



プロもアマも楽しめる



海藻の宝庫


能登の里海


ここには全国から年間約三千人訪れます。ダイビング始めて3年程は熱帯魚系の海を好みますが、それに飽きた人がより趣き深い世界を求めます。ここは海草の宝庫で西風が吹くと富山湾の湧昇流に乗って珍しい魚が浅瀬に集まり、海草で繁殖行動を行い他では見られない生態が見られます。私は海草+写真というコンテンツを提供してきたので、この世界で能登島は海草の聖地といわれるまでになり多くのフォト派ダイバーが訪れます。そのため働き手が欲しく全国に求人しますが、自分が楽しみたいという遊び感覚で来る人が多く長続きしません。潜るのは手段で、遊びを提供することが仕事です。お客様もそれぞれ要望が違います。それに答えられる幅広い対応力が必要でその知識と見識を育成しなければなりません。ダイバーのメッカと言われるパラオや石垣島でも慢性的な人材不足です。全国のインストラクター養成の専門学校からインターンシップを受け入れ研修しますが、共通して不足しているものがあります。それは人との関わり方など人間力が弱いのです。プロ育成の入り口がレジャーからでなく、プロとしての人間力をも合わせて育成する教育機関の必要性を感じたことが航空大学校海洋コースに繋がったのです。13年経った今、救難救助や船のトラブルなどで警察や地元漁業者から連絡が入りますが、こういう形で地域貢献できることも嬉しく思っています。


2017年8月取材
能登島野崎町 能登島ダイビングリゾート 
☎84‐0081


第81回 私の仕事は「蕎麦職人」です

たかが蕎麦、されど蕎麦



私の仕事は「蕎麦職人」です。
久木 信雄(くき のぶお)さん(68歳)
仕事歴 15年


蕎麦職人の仕事とは


蕎麦職人の仕事とは、私の場合は契約栽培の農家から仕入れた蕎麦の実の美味しさを壊さないように、心を込めて自家製粉し、手で練り、手で押して、手で切っていく、手作りにこだわった蕎麦を地元の食材と合わせてお出し致しております。


蕎麦好きが高じて


今年で15年目ですが、53歳の時に脱サラでこの世界に入りました。元々蕎麦が好きで食べ歩きしていたのです。大阪に転勤になった時は、京都、奈良、滋賀県まで美味しいと聞けば食べに行っていました。家内と京都保津川下りをして亀岡の蕎麦処拓朗亭で食べた蕎麦があまりに美味しくて感激したのです。それで旅の帰りに実家が空き家になっていることもあり田舎に帰って蕎麦屋を始めようと思うと家内に相談しました。家内も後押ししてくれ決心出来ました。鶴来の蕎麦屋に入りお店を手伝いながら、鳥越の唐変木(とうへんぼく)の蕎麦打ち道場に通い蕎麦打ちの基本を学びました。そこで修業した仲間が県内で9人お店を出しています。とうへんぼく仲間として毎月1回定例会を持ち情報交換をしています。小牧の実家は明治21年に建てられた古い家です。ちょうど古民家ブームもあり、素人感覚でオープンしたのですがお客が来ないのです。そんな時、北国新聞中島支局の記者が125年の古民家で蕎麦屋オープンと写真入で取り上げてくれたのです。それがキッカケでテレビ朝日の人生の楽園に放映され、地元民放テレビ局3社、月刊誌アクタスで紹介されると、県内外からお客様が来てくれる様になりました。メディアが「蕎麦処くき」のこだわりや私の生き方を報道として取り上げてくれたお陰です。また中島には演劇堂があり、そんな関係で仲代達矢さんはもとより芸能人の方もよく見えられます。また観劇にこられる方が始まる前にお立ち寄り頂いたり、金沢、富山からの日帰り能登ツアーでご来店頂いております。



天せいろセット



古民家の店内


蕎麦の三たて


蕎麦の三たてという言葉があります。挽きたて、打ちたて、茹でたてが蕎麦の香りと味を引き出す必須条件なんですね。それで私は自家製粉に拘りました。まず平日、土日祝日、予約などを勘案してその日使う量を決めます。朝6時前から蕎麦の実を割り、石臼で粉挽きをします。それをふるいに掛けますが、私はメッシュの違うふるいを使い一つの蕎麦の実から一番粉、二番粉、三番粉と三種類の粉を作ります。一番粉が白色で旨みや甘みが高い最上級の更科粉です。この粉だけで打った蕎麦が更科そばと呼ばれます。私の蕎麦はこの三種をブレンドして香りとモッチリ感を極めようとその配合を研究してきました。蕎麦打ち出きる粉に仕立てたら、その日の湿度やそば粉の様子を手で感じながら水を回し、練り込みます。11時までにその日の蕎麦を打ち切ってしまいお客様に三たてのお蕎麦をお出しします。二八そばは蕎麦粉8割につなぎの小麦2割を混ぜます。十割そばは蕎麦粉だけでつなぎが入っていないので切れやすく水加減が難しく倍神経を使います。私は最初から蕎麦だけに拘るのではなく、地元のおいしい食材もぜひ活かしたいと思い、カキ貝や山菜を使った一品やコース料理も揃えました。53歳から入った蕎麦の道ですが、今お客様から「美味しかった」の一言に喜びを感じています。これからも美味しい蕎麦を目指して精進を重ねたいと思います。




ファミリーで


2017年取材

中島町小牧 蕎麦処くき  ☎66‐6690


2017年11月25日<309号>掲載「我が家のペット」


ナナ(メス)
うちに来て6年。ティーカッププードルなのでいつまでも変わらず可愛いナナです!孫が来ると対抗してくっつき魔になるナナです♪
(矢田町 勝山さん)



アルト(オス)
里親にもらってもらい、カナダにいるアルト。七尾より寒いカナダで元気に過ごしているといいな。
(古屋敷町 坂上さん)



マリン(メス)
12年間、一緒に過ごしています。温厚で、人懐っこい性格をしています
(なぎの浦 黒崎さん)



艶子(メス)
散歩が大好き!とてもおりこうさんで尻尾で「イエス・ノー」と会話が出来ます♪♪
(本府中町 守本さん)




チョコ・プリン(メス)
子供たちの小さなアイドル。元気なチョコと、人懐っこいプリン。子供達がそっと差し出す草をムシャムシャと食べ、和ませてくれます!
(千野町 認定こども園ひまわり)



あずき(メス)
性格はおっとり。噛みますが(笑)いつも傍に寄ってきます。おりこうさんで、癒される大事な娘です。
(大和町 吉原さん)



こつぶ(メス)
とても甘えん坊で怖がりです。
(本府中町 小林さん)



マロ(オス・左)
優しくておっとり屋さん。
信長(オス・左)
甘えん坊で人懐っこい。
(万行町 勝山さん)


はい!社長です-㈱のとじまの不動産屋-


㈱のとじまの不動産屋  河尻 成実 (かわしり なるみ)さん 56才 A型


近年、古いけど立派な建物の空家が増えてきました。不動産屋として何か出来る事がないのか?

最近七尾・能登に魅力を感じて移住して頑張っている若者が多くいます。その方々や七尾大好き人間さん達の協力を得て、七尾や能登島の魅力を全国に発信し、故郷を離れて暮らしている方々にも自分の故郷はこんなに良い所だと誇りに思える町にしたい!と考えています。それが私のミッションです!


住 所:能登島町八ヶ崎町6‐4
お電話:0767-84-1888


第132回 田鶴浜町深見


町名の由来

七尾湾に流れる深見川の河口付近の田んぼは江戸時代に埋め立てられたけど、
昔はその海がさらに細長く入り江となって在所の奥深くまで入り込んでいたんだ。
それで深く入り込んだ海から、深見となったようだね。
石川県には門前と輪島にも深見があるけど、門前の深見も海が奥まで入り込んでいるらしいよ。

昔の在所

古い資料によると、深見40軒の内、頭振り0人、
白浜40軒の内、頭降り9人と書かれているんだ。
頭降りとは農業以外の職種で漁業、運送、商売などのことで、
深見は40軒皆農家だったということだよ。

江戸時代中期に干拓の願いを出した文書があるけど、
その干拓した田んぼに水を引いたマンポが105メートル現存しているよ。
そのマンポの入口付近が元々の在所の中心地で、国道寄りに新宅が広がっていったんだ。

深見川上流の平沢(ひらそ)という場所には7軒あったけどみんな移住したよ。
子どもの頃は深見潟で御所守(ごしょもり)という白くて平たい貝を
よく獲っていたけど、源平合戦、壇ノ浦の戦いで幼少の安徳天皇が入水、
一緒に海に身を投げた平家の家来が貝となって海の中の天皇の御所を
守っているから御所守と名付けられたと聞いたことがあるよ。
能登に逃れてきた平家の人々がそんな話を伝え、名付けたものかねぇ。

これから

在所ごとに自治公民館活動をしていた旧田鶴浜町が七尾市と合併したとき、
相馬、田鶴浜、金ケ崎の三つの公民館に統合されたけど、
唯一深見だけ自治公民館を残して活動しているんだよ。

古くから続く地蔵祭りに合わせて、ふれあい祭りを開催して
恒例の仮装盆踊り大会や、劇団を呼んだりとそれは盛大だよ。

昔から田んぼを一緒にやってきた在所で、田植えの日は朝3時、4時に大きな農家に集まり、
賄い方の年寄があずきの雑煮を作って、在所中の子供もそれを食べては学校へ行ったんだ。
そんな絆を受け継いでいるので結束力は抜群に良くて、
昨年の町民運動会は優勝したし、平成24年から始まった20丁部の圃場整備も
今年から作付け出来るのでみんな張り切っているよ。
深見はこれからも大人も子供もみんなで楽しく力を合わせて頑張っていく在所なんだよ。

あきこの一言

力を合わせて生きてきた、
深見の在所、大きな家族。


山王小学校教員

達 航平(たつ こうへい)さん

26才 B型

教員となり4年目、毎日楽しく頑張っていますが、今年はもう一つ
大きな仕事があります。 石崎奉燈祭りの東二区支部長を拝命しました。

私が中三の時、青年団の人口が減り支部長不在が続き奉燈が出せない!
という危機的状況が6年間も続きました。しかし先輩方が強い気持ちで
祭りを残してくれたのです。

今年も町内一丸となり、自分の人生史上一番の夏にします!



住 所:山王小学校 七尾市山王町ツ34

お電話:0767‐52‐5432


宇宙飛行士 毛利衛さんの碑


コロサスキー場、山びこ荘の前庭に設置されたモニュメント。
平成8年、七尾ライオンズクラブが宇宙飛行士毛利衛さんを招いて
小学生対象の講演会を行なった際の記念碑です。
「宇宙は創造の空間」と刻まれた文字は毛利さん直筆の揮毫です。


武奨館 吉村道場


極真空手が前身のフルコンタクト空手で、突きや蹴りが体に入ると痛いですが、その痛みを知ることで人に優しくでき、又、痛みを乗り越えることで精神力が養われます。 幼稚園児から大人まで男女30人の七尾道場から昨年は全日本チャンピオンも誕生し、皆一生懸命稽古に励んでいます。 礼儀礼節、素直さなど空手を通じて人格形成も目指しています。 (館長 吉村 裕)