湯乃鷺駅(西岸駅)
昭和7年開業の西岸駅はテレビ金沢で放映されたアニメ「花咲くいろは」に登場する湯乃鷺駅のモデルとなった駅です。
ホームには西岸と湯乃鷺の二つの駅名標が立っており、アニメの聖地となっています。休日には多くのファンが訪れ、聖地巡礼ノートもあります。
昭和7年開業の西岸駅はテレビ金沢で放映されたアニメ「花咲くいろは」に登場する湯乃鷺駅のモデルとなった駅です。
ホームには西岸と湯乃鷺の二つの駅名標が立っており、アニメの聖地となっています。休日には多くのファンが訪れ、聖地巡礼ノートもあります。
海野 将志(うみのまさし)さん
22歳 A型
桜美林大学の学生です。 経営や街づくりに興味があり、街づくり会社の株式会社御祓川にインターンで
お世話になっています。 白山市の実家も商売をしているので、将来のために学生のうちから実学を学び
少しでも実力をつけたいと思っています。 ここでは、お食事処いしり亭の抱える課題を発見し、
経営面からの解決策を見出して仕組作りに取り組んでいます。
住 所:七尾市生駒町16-4
お電話:0767-52-8900
ミナ.クル ツリー点灯式
光の子保育園のみんなで演奏しました♪カワイイね☆
森本 憲三(もりもとけんぞう)さん
72歳
大阪生まれで、33歳の時に喫茶店を始めます。その後実家の仕事の関係でスペイン、アメリカ、
オーストラリアと海外で生活してきました。色々な経験ができ、好きな事をしてきた人生なので
悔いはありませんが、ろくでなしの人生だとも思います(笑)。田舎暮らしと利便性を
兼ね備えた七尾へ2年前に移住しました。高階地区だけでも9名の移住者が暮らしていますが、
地区の人が大変親切で、みんなで七尾を満喫しています。
住 所:七尾市温井町リ部10-1
お電話:0767-57-5630
報国造船の社宅があった場所が払い下げられ出来た町なんだ。
昭和18年、戦況が悪化する中、船舶不足を補うため
大阪商船が矢田新から万行浜にかけて木造大型船では日本一の造船所を作ったんだよ。
県内外から人を集め、万行町に社宅を建て住まわせた場所が
ここで、通称で報国町と呼んだんだね。
造船所は昭和20年に火事で燃えてしまったんだけど
復旧して昭和40年代頃まで会社があったんだ。
私の父親も勤めていて、東京オリンピックの年に見学に行ったことを覚えているよ。
昭和25年の報国の人口は667人、この時の万行の人口は850人と記録にあるけど、
地元住人とよそ者がほぼ同じくらいの勢力なんだ。
終戦直後のことだからどこも食料がないんだよ。
畑の野菜が無くなれば、ひとつかみに報国の人が白い目で疑われ、
悔しい思いをしたと聞いてるよ。それをバネに子ども達には勉強を頑張らせ、
児童会の役員をしたりして積極的に地域活動に参加していったんだ。
社宅は6畳と3畳に台所と土間だったんだ。それも4軒長屋でね
一棟に板一枚で仕切られて4世帯が住んだんだ。
だから年寄が10ヶ月後に隣に赤ん坊が産まれるのが
わかったと言っては笑わすんだよ。
その4世帯長屋が4棟で一つの井戸を共同で使うんだ。
かまどで杉葉を燃やすので部屋はすすだらけだし、
決して良い環境ではなかったけど、大らかに和気藹々と助け合って暮らしていたんだね。
火の用心の見回りを毎日行っているんだ。昔火事があってね、
それで「子どもに~、マッチ持たせるな~♪煙突、かまどの掃除しろ♪
カチカチ、火の~用心♪火の用心♪カチカチ」と唄まで作って子どもに廻らせていたんだ。
今は大人が2軒1組で拍子木を叩いて伝統を守っているよ、歌わないけどね(笑)。
在所の豊受神社は戦前まで矢田新町にあった大日本人造肥料の
会社に祀られていた伏見稲荷を昭和27年に譲り受けたんだ。
万行小学校を解体した際の教室を社殿にしていたけど平成14年に社殿を新築したんだ。
報国町に縁のある人たちから沢山の勧進が集まって鳥居も建てたんだよ。
社宅の町でも生まれ育った場所が故郷だよ。
りっぱな神社を持ちたいという熱い想いが募ったんだね。
一人住まいの高齢者が多くなってきたけど、老人会も活発だし、
これからも長屋の精神で仲良く支え合って生きていかなくてはね。
人の住むところ歴史あり、
聞かなければ知らないことばかり。
ここは昔から港がありカモメやウミネコなどの白い海鳥が多く集まるんだよ。
聞き伝えによると傷ついて弱っていた大きな白い鳥を
在所の老翁が救って手当てしたけど死んでしまったんだ。
その鳥を背後の伊掛山の麓に祀ったことから、この地を白鳥と呼ぶようになったそうだよ。
在所の真ん中を流れる川が江泊町と庵町の境界なんだ。
昔は江泊町の白鳥と庵町の白鳥と別々の在所だったんだけど
70年程前に一緒になって今の白鳥になったんだよ。
だから在所にお宮さんが二つあるのはその名残なんだね。
人が住んでいた所に後から境界が引かれたのか、
魚場をめぐって江泊と庵がせめぎ合った結果それぞれの住人が
移り住んだのか歴史的背景はわからんけど、二つの町会を股にかけた在所というのは珍しいよ。
おかげで川を挟んでお寺の門徒も、選挙の派閥もはっきり色分けされていたね(笑)。
子供の頃は七尾に行くにも早朝から隣の江泊まで歩いて
定期船で2時間以上かけて行ったけど一日がかりだったよ。
定置網で獲れたブリやタラなどは祖母さんや母親が沢野町の
栢戸まで通じる山中の羽坂道を籠担いで七尾に運んだんだ。
それが唯一の現金収入なんだけど代金は盆暮れに支払われていたんだ。
それと烏帽子(えぼし)制度があって一致団結、協力して暮らして来た歴史があるんだ。
私も烏帽子親には実の親以上に経済的にも手厚く面倒を見て貰ったんだよ。
今では烏帽子親子も少なくなったけどね。
沖には岸端定置網と白鳥定置網があり若い人達も頑張っているよ。
白鳥定置が大漁だと在所は朝から活気づくんだ。
近年は青年会や子ども達が少なくなっているけど、左義長、春秋の祭り、
恵比寿祭り、盆踊りなどの在所行事は何とか継承しようとみんなで頑張っているんだ。
それで獅子舞の蚊帳も5人用から3人用に小さくしたんだよ。
在所の中を通る県道は車がすれ違い出来ない程の狭い道で危ないんだけど、
海岸に新しいバイパス道路が出来て来年には開通するんで楽しみにしているんだ。
35世帯あるけど、65歳以上が47人、以下が45人、子供11人、
高齢化が進むけど人情味ある良い在所なので何とかしようと前向きに思っているんだ。
浜風に柿の葉が揺れ、三色のカキ餅が並ぶ。
小さな幸せがいっぱいの在所。
和倉温泉の湯っ足りパーク内にある足湯です。無料で誰でも気軽に利用でき、地元の人も観光客も訪れます。
お湯に足を入れ座ると目の前に広がる七尾湾と能登島。ちょっとした時間で身も心も共に癒されます。ふぅ〜♥
和倉公民館でギターサークルを楽しんでます。若かりし頃流行ったフォークソングをギターで格好よく歌えたらいいね♪と1年半前に同じ思いの仲間に出会い一緒にスタート。レパートリーが増えないのが悩みですが、いい音が出たら「上手くなったね~」と声をかけあい共に成長を喜んでいます。練習の成果をお見せできる日を目標に頑張ります!
父が旧鹿西町でタイヤショップを始め、その後ホームセンターに転換。「現状に満足してはならない。常により良さを求めるところに進歩はある。」の基本理念の元、能登を便利に! もっと元気にする! を常に考えながら日々色々と試行錯誤しております。
さらに地域の皆様に頼りにされるお店・会社になれれば嬉しいです。ライフワークで、中能登中学校の柔道部のコーチをしています。
住 所:中能登町能登部上ト-117
お電話:0767-72-2474
日本海よさこい 地元チーム天鳴覇
私で二代目です。父は繊維工場勤めから独立する間際に繊維不況が始まり悩んだ末、生糸から、鉄の糸にと職種を変え創業しました。
金網製作所は県内で2社しかありません。私は「驕らず謙虚に」をモットーとし、仕事に真摯に向き合えば必ずチャンスと応援者が訪れると信じています。
社員共々公私に「楽しむ」をテーマとし、人と会社の成長を目指しています。
住 所:中能登町高畠9-154
お電話:0767-77-1448
弘法大師がこの地を訪れて、飲み水に困る村人のために筆で岩をなでたところ、
そこから水が湧き出たということで、この地を筆ヶ島と名付けそれが
転じて日ヶ島となったと言う弘法大使説があるよ。
確かに弘法の井戸と言われる跡は今でもあるけどね。
ここで暮せばわかるけどなぜ日出ヶ島なのか一目瞭然だよ。
海辺に立てば富山湾から昇る太陽が能登島と崎山半島の間の水平線に顔を見せるんだ。
凄く綺麗な日の出でなので感動するよ。
そんな日が出る島、日出ヶ島ってのが素直で本当のところだと思うけどね。
能登島は越中の五箇山と共に加賀藩の流刑地で、
134人が島に流されたと聞いているけど、
その玄関口がここ日出ヶ島の港だったんだよ。
当時20あった村の内14の村にそれぞれ配流されていくんだけど、
多くは書画や儒学などの文化人や武士など政治犯だったんだ。
家族を残してどんな思いで海を渡ったかと思うね。
逃げようと思えば三室まで泳げる近さだけど、
家族に危害が及ばないようにと逃げなかったんだろうなぁ…。
子どもの頃は半農半漁の暮らしで刺網、定置、なまこ、蛸などを獲っていたんだ。
私の祖父さんは蛸が入ると蓋の閉まる蛸壺を開発してね
、獲れた蛸を七尾の市場に持って行くときに付いて行っては
うどんや饅頭を食べるのが楽しみだったよ。
その蛸壺は今でも大事に私も使っとるよ。
小学校は隣在所の野崎小学校へ山道を歩いて通ったけど、
当時は在所から在所は細い山道しかなく、どの在所も孤島の中の、
さらに陸の孤島だったんだ(笑)。学校の帰りは山道を遊びながら、
あけび、おんべ、松茸も採って、カキ崎の海ではサザエを獲っては
家に帰ったもんだよ。今は誰も手入れしないので山は荒れてしまったけどね。
時代が変わったんだからこそ、いい意味で変わっていかないとね。
ここは左藤、左川、米田の3苗字の12世帯25名で、
90歳を筆頭に65歳以上が18名なんだ。
祭りの獅子舞も出せないし、報恩講のお参りも集まらなくなったし、
暮らし向きが個人個人になってきているから、
この前みんなで防災訓練をやったんだ。
やればすぐに一致団結だよ。日の出も綺麗だし、魚も美味いし、
在所の存続のために何か一歩を踏み出さないと、と強く思っているところなんだ。
お日様に恵まれ、魚良し、松茸良し、
みんな仲良し、小さな在所、島の中の島。
一本杉通り振興会は七尾市の中心市街地、古くは奥能登へ向かう街道筋として栄えた一本杉通りに位置する50店舗からなる商店街です。4月29日(昭和の日)から5月第2日曜日の母の日までの約2週間、通り全体で取り組む「花嫁のれん展」は4年前ティファニー財団伝統文化大賞をいただきました。
元気に!長生き!
別所岳を源流とし中島の中心部を雄大に流れる14.8kmの七尾市で一番長い熊木川と、豊川平野を潤してきた日用川が河口で合流し肥沃な養分を含んで七尾西湾に流れます。
七尾西湾のカキ貝が大きく美味しいのもこの川の恵みなんですね。
楓 大海(かえでひろみ)さん
26歳 B型
将来ゲストハウスを開業したいと思いがあり、その目標のために宿泊施設を経営している
ハートランドヒルズin能登で働かせていただきながら、ノウハウを学ばせていただいています。
お客様が少しでも気持ちよく過ごしていただくために清掃等の施設管理は徹底し、
またそれだけではなく、お客様と接する時は、笑顔で対応するように心がけています。
住 所:七尾市庵町笹ヶ谷内3-1
お電話:0767-32-3800
葛西 彰(かさいしょう)さん
38歳 A型
運動あそびや造形あそびの楽しさを子どもたちに伝えたいと思い、保育教諭になりました。
神奈川県横浜市で15年間働いてきましたが、私事でこの七尾に移住することになり、
浜岡幼保園で再び保育教諭として勤めることになりました。七尾には、これまでの
日常になかったものが沢山あり、とても充実しています。保育教諭という職業を活かし、
お世話になっている七尾の皆様に恩返しが出来るよう努めたいと思います
住 所:七尾市石崎町ヨ部37番地
お電話:0767-62-3233
山田水産 山田 慎吾(やまだ しんご)さん 34才 B型
3年前に脱サラし、夢だったカキ漁師になりました。
美味しい能登カキで地域を盛り上げていきたいと思って頑張っています!!
まだまだ始まったばかりの山田水産ですが、いろんな方にカキを食べて笑顔になって
頂ける様に、これからも頑張っていきますのでよろしくお願いします。シーズン中は、
ほぼ休みなしで営業しております。シーズンオフには趣味の釣りを楽しんでいます。
住 所:七尾市中島町塩津
お電話:090-6278-0330
創部して4年目になりました ! 一人ひとりの個性があふれる元気いっぱいの本部は現在、冬のアンサンブルコンテストに向けての練習や施設への訪問演奏等、毎日一生懸命練習しています。常に目標を持ち、大会の結果だけではなく地域の皆様に愛される部となれるよう積極的に活動して行きたいと思っています。
昔は海に面していて魚町の波止場は所口湊と呼ばれ漁業が盛んな在所だったんだ。
魚町会館の横の広場が共有地でね、そこに網を広げていたんだ。
その横に漁業の神様である恵比寿様のお堂もあったんだ。
その名残で今でも3月と9月に恵比寿祭りを行っているんだよ。
ここから獲れた魚を畠山氏へ献上していてその頃には
すでに魚町と呼ばれ500年の歴史があるんだ。
現在は正式名称として「うおまち」となっているけど、
在所ではみんな「ようまち」と言っているよ。
魚は古語では「いを」と読み、それが訛って
「よう」と発音されるようになったんだね。
天正14年に前田利家から魚類の専売権が許されてから魚の加工や
販売が勢いを増していくんだ。昭和40年代でも9軒の魚屋が並んでいたけど、
今は立野さんと小川さんの2軒になったよ。
その頃は一本杉に劣らず繁昌した商店街でね、魚屋だけでなくいろんなお店が並んでいたんだ。
当時の広瀬ストアさんのコカコーラ販売量は北陸一だと言われたもんだよ。
現在の網元(あみげん)さんの所に銭湯のえびす湯があって
一本杉通りを走るバスから脱衣場が見えると男衆の間で密かに噂されていたよ。
ともあれ活気がある良き時代だったね(笑)。
明治28年の七尾大火で在所が管理していた古文書がほとんど燃えたけど、
一冊残ったのが明治19年に作られた魚町土地台帳なんだ。
在所のまんぞう割りのために作ったのか、一筆地ごとの寸法の入った絵図面に地目、
地積、地租、地主が書かれているんだ。明治時代に在所でこんな調査したとはあっぱれだよ(笑)。
それと何と言ってもでか山だね。でか山があるから町内が一致団結しているんだ。
畠山義統(よしむね)が山王神社の青柏祭に曳山を奉納することになり、
魚町、府中町、鍛冶町がでか山を勧進し、魚町に畠山の
「丸に二の字」の家紋が与えられたんだ。
前号の山王町の記事で津向町の唐崎神社とあったけど、
あそこは津向と小島が入り組んでいて正確に言うと小島町なんだよ。
青柏祭はその小島町の唐崎神社で神主が紅葉川の水を取り、
禊をして祭りを宣命し幕が開くんだよ。
畠山と前田の殿様から魚のご縁を頂き力をつけた在所だったからこそ
山を持つことも出来たのだと思うよ。
殿様と先祖に感謝しなければならないね。
城下の商人町に山がある。
時代が変わっても、変わらぬ心意気。