こみみかわら版バックナンバー

ブティック ニューマドンナ


ブティック ニューマドンナ 三島 康江(みしま やすえ)さん 60才 O型

母が社長です。 服飾の勉強で金沢へ行き、お店も経営していましたが、母の入院を機に帰ってきて15年経ちます。

「パワーをもらった・話して仕事が上手くいった」等、母を目当てに来るお客様の姿に、人とのつながりが大切である事を学びました。 現役の母を見習って、好きなこの仕事で更に頑張ります。

「会いに来たよ」と言ってもらえるよう 、一期一会に心から感謝し笑顔で接していきます。

住 所:和倉町ワ20-5
お電話:62-3980


はい!社長です-能登ごはん農場 暮らしの宿じろざみ


能登ごはん農場 暮らしの宿じろざみ 森 未来(もり みき)さん 36才 O型

熊本で福祉関係の仕事をしていましたが、4年前に旦那の故郷である七尾へUターン移住しました。

旦那の祖父母の茅葺屋根の家が空き家になっており、何か活用できたらと思い一念発起。 2023年の5月に農家民宿としてオープンしました。

かまどや五右衛門風呂があり、米農家の暮らしを体験できます。 宿としてだけでなく、地域の人からも愛される、人が集う楽しい場を作っていけたらと思っています。

住 所:矢田町レ-12
お電話:080-1235-5818


ぶりの里(佐々波)


下佐々波漁港に建つモニュメント。

昔から漁業で栄えた佐々波町。 大敷網の近代化を進め発展してきました。

11月から1月にかけて、ぶりが稼ぎ頭です。平成23年1月には6万7千尾の大漁を記録しました。

灘の大敷は定置網全国トップの水揚げを誇ります。


中能登中学校 卓球部


男子16人・女子9人で白藤顧問・平沢顧問の元、週5日間活動しています。

自分たちで考えて行動できる集団・周りから応援される集団を目標に、みんなで声を掛け合いながら 明るい雰囲気で練習に取り組んでいます。

部内や大会での試合で、今まで勝てなかった相手に勝てたとき、練習してきて良かったとやりがいを感じています。

顧問:白藤真昭先生・平沢拓斗先生

男子 後列左から 副部長:池田慶人くん 部長:谷内豪紀くん 副部長:中村祐介くん

女子 前列左から 副部長:久保結奈さん 部長:宮下奈々さん


第223回 七尾市泉南台


在所名の由来

ここは石崎と奥原の一部を平成八年から平成二十年にかけて区画整理して出来た新しい町なんだ。
和倉温泉の南の高台に位置することから、温泉の泉、和倉の南、高台の台で、泉南台と名付けたらしいよ。

昔の在所

昔と言っても新しい町なんで歴史は浅いからね。

平成二十一年十月二十五日に第一回の総会が開かれているんだけど、その時で二十数軒とアパート三棟が建っていたらしいよ。十一年前に私が求めた街区には一軒も建っていなかったので区画はどこでもより取り見取り好きな所を選べたよ。それでも七十二軒目だったんだ。

近隣の田鶴浜や能登島、石崎を中心に県外からも移り住んでいるよ。二十代、三十代、四十代が大半で六十五歳以上の高齢化率は約六パーセントで街中は子供だらけだよ。

最初の頃にはゴミはお隣のひばり町内会へ出させてもらっていたんだ。初代町内会長が坂誠一さんで五年間、二代目が私で九年目になったよ。

現在の在所

毎年人が増え続けて百四十世帯になっているけどまだまだ増えそうだよ。
いろんな所から移り住んでくるけど泉南台に生まれた子供たちはここが故郷になるんだ。
だから今を暮らす人たちで歴史を育んでいかなければね。

神社がないので伝統的な祭りは出来ないけど、親世代は実家故郷の祭りがそれぞれの祭りなんだ。
そういう環境もあるので新しい町には、まず暮らす人が顔を合わせて交流していくことがより現実的なんだよ。
コロナ禍が収束したので令和三年に完成したばかりの泉南台集会所で八月にバーベキュー大会を行ったけど、お楽しみ抽選会や線香花火など親子で楽しみ賑わって良かったよ。

また「楽しもうよ泉南台」というグループも立ち上がっていて、十二月にクリスマス会をやろうということでクリスマスの絵本の読み聞かせ、マジックショー、レクリエーションゲーム、ビンゴ大会などを企画しているんだ。
ここはどんどん子供が増えているけど石崎小学校と和倉小学校へ通う児童に分かれるので町内で子供同士の交流や親睦も深められればと初の試みなんだよ。

将来的には子供会が発足してくれればと願っているんだ。町内で趣味など気の合う仲間同士で集会所をどんどん活用してもらって元気で楽しい町にみんなでしていきたいね。

あきこの一言

踏み入れば、街並みに響く子供の声。
歴史をつくる楽しみな在所。


第75回「輝け!郷土の星」体操の坂本大輔くん


石川県高校新人大会体操競技で個人総合優勝

春の県総体では2位となり北信越大会に出場。
そして北海道でのインターハイへも出場した大輔くん。

しかし今回の新人戦優勝がより嬉しい。
それは中学時代からのライバル、小松大谷高校2年生の細川進希(のぶき)くんに初めて勝てたからで、やはり1位と2位は全然違うのだ。

大輔くんは天神山小3年生から2歳上の姉の憂紀さんと一緒に七尾ジュニア体操クラブへ通った。
最初はマット運動から始まった。鹿島で行われる小さな大会に行った時、3歳年上の大野木拓くん(郷土の星第1回取材)の演技を見て自分も上手になりたいと思った。
それから練習に熱が入り4年生でバク転が出来るようになるとその達成感に喜びを覚えた。5年生で宙返り、6年生で大車輪が出来た。

東部中学で体操部に入部。鵬学園の練習場で高校生と合同練習、そしてクラブと毎日4時間の練習を続けてきた。しかし中学時代は毎年怪我に悩まされた。
鉄棒からマットを超えて着地したり、怪我が完治していないのに大会に出場したい思いで練習を続けて負荷がかかったりと、肘、膝、手首、足首を痛め万全のコンディションで大会に臨めず成績も2位が最高だった。

今年の目標を「ケガしない」と書初めし、初めて掴んだ優勝だった。

鵬学園体操部

第1回アテネオリンピックからの競技である男子体操は鉄棒、平行棒、あん馬、跳馬、つり輪、床の6種目。
女子は跳馬、段違い平行棒、平均台、床の4種目で競われる。

個人総合優勝ともなるとそのすべてに高得点を出さなければならない。
技の難度や美しさ、安定性などが採点される。一つ一つの技を磨き、それらを構成し演技する力量とメンタルを高めなければならない。

鵬学園体操部は30年以上の歴史の中でインターハイや国体へ出場する選手を多数輩出してきた。
その卒業生たちがコーチとして顧問の高橋加津也先生と共に指導に当たる。
部員は4名だが少数精鋭で上谷内悠斗くん、前田羽月さんもインターハイ出場を果たしている。



七尾ジュニア体操クラブ

鵬学園で指導をしてきた室屋武子先生が体操競技の裾野を広げるため立上げた七尾ジュニア体操クラブに34名が練習に通う。
週1回の幼児コースとジュニアコース、週2回の育成コース、週6回の選手コースがある。

コーチ陣は室屋先生の教え子で男性4名、女性2名が指導に当たる。
男子は澤味将太コーチ、女子は小此内勇希コーチがメインで指導する。

大輔くんを小学生から指導する澤味コーチは必要な事だけをアドバイスし、後は本人がひたすら練習を繰り返すのだという。
体操の動画を何度も見てイメージを作り、姉に演技を録画してもらいアドバイスを受ける。12月は来年に向け新しい技に挑戦する楽しい練習期間でもある。
高校生も全国となると高度な技が求められる。部分練習を積み重ね、出来るようになると技と技をつなぐ。

今、床の2回宙返り、跳馬のカサマツ跳び、鉄棒の2回宙返り下りにチャレンジする大輔くん。
出来なかったことが出来るようになる。それが体操の醍醐味である。



第115回 私の仕事は「ふるさと再生プランナー」です


ピッと閃きパッと動く

松尾悠司さん 36才

転機

地元での働き口が少ないので県外で就職するため輪島の航空学園から山梨県の航空専門学校を経て日本航空へ就職しました。地上職で手取り三十万円以上です。しかし翌年会社が破綻し手取り十四万円になり不安を覚え起業を考えました。

日本航空を再生するため京セラの稲森和夫氏が着任し、こんなのでは八百屋も経営できないと紙一枚、軍手一枚に値札を貼って全社員にコスト意識と経営者感覚を叩き込みました。
これがとても勉強になりスピード感を持って決断することの大切さを学びました。

私は熟慮して仕事を探すより、独立できるなら何でも良いと二十五歳の時に退職し、商品を仕入れて売る転売業を始めました。
自己啓発セミナーへも通いながら経営の実態を知りたいと中小企業でアルバイトを始めます。
酒の配達、立体駐車場のスタッフ、コールセンターなど二十カ所以上のアルバイトを渡り歩き最後にたどり着いたのは飲食店でした。
この時期が一番苦しく明日電気が止められるという日が何回もありましたが、若さゆえそれも楽しく感じました。

二十七歳の時、知人から生絞りジュースの店を立ち上げるので一緒にやって欲しいと言われ、恵比寿でオープンしましたが大失敗。お店を出すということはこんなにコストがかかるのかと思いました。

そのお店には食べログや楽天など集客支援の営業が連日訪れて来ます。ツクツクというネットショップの営業が来た時、直感で「僕がそれを売りたいです」とお願いして代理店になりました。


チョアチキン

ツクツクの顧客が三百人になり会社を設立する時、高校の同級生、堀江幸佑くんが日本航空を辞めたので一緒にやろうと誘いました。

ツクツクの飲食店支援のため自分たちも実店舗をもったほうがよいとカレーとナポリタンのお店を大田区馬込にオープンしました。しかし昼間人が居なくなる住宅地で立地が悪いのに三日目で気づきました。
それでもツクツクの営業には役に立ち、お店へ連れて来て体感してもらう事で成約件数が三倍速で伸びていきました。
ただお店の売り上げが不調なので堀江くんと妻と三人で経営戦略を練りました。

お店の厨房を使ってやれる業態を考えた末、「韓国の唐揚げはどうかな」となり、コリアンタウンの新大久保へ出かけ見込み有りと判断。味は自分の口にあう大衆受けするものにしました。
三ヶ月間で準備をしてオープン!しかしコロナ禍に見舞われます。そこでデリバリーサービスを開始したらカレーの五倍売れたのです。
コロナ禍で困っている知り合いの飲食店に提供したらみんな成功したので大きな自信になりました。

噂が広がり問い合わせが来るようになったのでフランチャイズの展開を考えました。
ノリと勢いで現在、仙台から鹿児島まで七十七店舗になりましたが、将来はケンタッキーフライドチキンをイメージしています。






マンデダーラ株式会社

妻、彩花子(あかね)とは東京で知り合った瞬間からとても気が合い二週間後には一緒に暮らし始めました。
人生最高のパートナーとして頼りにしています。

アイデアがピッと閃くと堀江くんと妻は「えぇ~ッ」と言いながらもパッと動き必ず具現化してくれます。
おかげでビジネスは順調ですが、なぜかビジネスの成功に執着はありません。
それよりも大好きな七尾の将来が気にかかります。

七尾を持続可能な街にしていくことに使命を感じ本社を東京から七尾に移しました。
なぜそう突き動かされるのか自分でもわかりません。しかし自分の着地点はそこだということは見えています。

周りからダラな奴やな、と言われるようなことに挑戦していきたいと会社名をマンデダーラと名付けています(笑)。



チョアチキン食祭市場店 ☎ 0767‐52‐7071


第222回 七尾市上府中町


在所名の由来

昔の府中村の一部でね、ここは本府中でその中が通称上出、中出、山王出と分かれていて、ここは中出と呼ばれていた地域なんだ。

昭和二十五年に七尾市が新町名に変更するときに、港の方に府中町があるのでこちらは港に近い中出を上府中町とし、上出を本府中町にして、山王出は山王町としているんだよ。

昔の在所

姓の在所だよ。田んぼはほとんど本府中にあって、在所の中には苗代田くらいだったね。

昔は長福寺から南側が百姓町で北側が商人町だったんだ。子供の頃は町方と百姓方の大きな壁を感じていたよ。町方に近寄り難いコンプレックスを感じていたね。

町方で子供にザイゴが移るから川原町の交差点を越えてあっちにいったらだめだと言っていた人もいたよ。弁当も町方はウインナーに海苔とか垢抜けているし、こっちは玉ねぎ炒めなど野菜中心の弁当で羨ましかったよ。文化が違っていたんだ。

在所を流れる神戸川で土用の丑の日にドジョウを捕って缶に入れて銀座の魚屋へ持って行って小遣い稼ぎしたもんだよ。

川原町交差点が出来たら賑やかな通りになったんだ。東往来に面して舟木タバコ、モウリ書房、矢田建材、田中電機、草津湯、武田たまご、原田家具、肉の扇屋、武田産婦人科、錦川接骨院、スナック雅苑、西野駄菓子、末吉ふとん、ワシオ電気、小料理とき亭とお店が並んだんだ。

小さな在所だけど独立自尊の気概があって大きな矢田郷村の村長に二人も輩出しているんだよ。

現在の在所

百姓コンプレックスも時代が変わると、その田畑のおかげで土地持ちに力が付き自信が持てるようになったんだ。しかし、今また時代が変わり街の真ん中なのに限界集落になっているんだよ。

青壮年会は巴町と合体して頑張っているけど、祇園祭に奉燈が去年も今年も参加していないんだ。お囃子の子供が一人もいないし、担ぎ手がいないのでどうにもならないんだよ。私が小学校2年の時に獅子舞が中止になったんだ。

祭りは青壮年会も町内もまとまる唯一の力があるし続けたいと思うけど難しい問題だよ。
こじんまりした在所だけど団結力があり物事がすぐ決まるこんな住みやすい町はないと思っているんだ。

あきこの一言

城下の外れ、道が通り栄し在所。
見えない壁、懐かしむ。


鉄道郵便車(中島駅)


昭和61年まで鉄道で郵便が運ばれていました。
車内で郵便物を区分けしていたので「走る郵便局」と呼ばれました。

この車両は全国で2両しか残っていない大変貴重な列車です。
観光列車「のと里山里海号」に乗ると内部を見せてもらえるそうです。


七尾東雲 男子バドミントン部


初心者から経験者まで「自ら考えて行動すること」がモットーです。
総体では、個人団体共にベスト16の目標を達成しました。

「リストランテ リオ」のオーナー、桑原さんは開店前の合間を縫ってコーチしてくださいます。

足りないことは何かを考え克服し、ベスト8以上の成績を目指してより一層練習を頑張っていきたいと思います!



顧問:浅見友哉先生 コーチ:桑原忠志さん

部長:桑原佳太郎くん

副部長:酒井倖明くん・山口明成くん


ぶんご農園


ぶんご農園  豊後 光明(ぶんご みつあき)さん 26才 AB型

高校生の頃から農業の手伝いをしていました。
最初はただのお小遣い稼ぎでやっていましたが、大学生の頃から農業に少しずつ興味が湧いてきました。

私達が食べているお米はどう作って、どうしたら美味しくなるのか気になり、自分でやってみたいと思い今の仕事に就きました。

今までは人手が足りず米を主に生産していましたが、今年から野菜にも力を入れて頑張っていこうと思っています。

住 所:中島町山戸田7-43

お電話:090-4682-8363


はい!社長です-平島紀子ピアノ教室


平島紀子ピアノ教室 平島 紀子(ひらしま のりこ)さん 59才 A型

音大を卒業後ずっと東京で生活をし、海外へもいろいろ行くうちに留学を決意しました。
しかし、父の病気で実家に帰ってくることになり、地元でピアノ教室を始めました。

最近は生徒の低年齢化に伴い、音脳ピアノリトミック・知育ピアノリトミック講師の資格を取得しました。

コンクールなど、失敗してもいいからチャレンジする事の大切さを生徒と共に日々感じながら前進する時間を楽しんでいます。

住 所:和倉町ヨ-12-3
お電話:090-1110-8427


和倉温泉総湯


1200年以上前に発見された和倉温泉。江戸時代に加賀三代藩主利常が湯壺を作り茅舎を建てたのが始まり。

明治に大浴舎が建設されました。昭和40年開館した温泉センターは演芸公演もあり大変な賑わいでした。

現在の総湯は平成23年にオープン。


合唱団 W I S H


合唱団WISH  高橋 英一(たかはし ひでかず)さん 62才 AB型

中学校PTA合唱団が母体で22年目を迎えます。私たちの特徴と魅力は、男声の重厚な音色と、女声の艶やかな声とが奏でる美しいハーモニーです。

毎年県合唱コンクールに果敢にチャレンジ! 難しい曲やポピュラー曲、毎週水曜の練習がストレスの発散や仕事への活力にもなる充実した時間です。

団員を増やし色々なイベントに積極的に参加したいので、興味のある方は、団長高橋まで。

住 所:石崎町ヲ-16-1

お電話:090-1318-7707


七尾中学校 サッカー部


3年生が県大会で優勝! 能登に37年ぶりの優勝旗を持って帰りました。

先輩方に追い付き追い越せと、時間を無駄にせず沢山ボールに触ることを意識して練習しています。 個人やチームの課題を全員で共有し、どうすれば改善できるかを皆で考えています。

全能登新人大会では県大会に行くことが出来ず…来年こそは出場するぞぉ!

顧問:南先生
部長:水上くん
副部長:西浦くん・尻屋くん 


第74回「輝け!郷土の星」剣道の桜木佑圭さん


第53回全国中学校体育大会で3位

愛媛県武道館で開催された全国中学校剣道大会で見事に個人戦3位に輝いた佑圭さん。

石川県大会では小松桜木剣正会の尾蔵(おぞう)さんに小手を取られて2位でした。
負けた悔しさをバネに攻めの工夫、技の対応を考え稽古に励んで臨んだ北信越大会では延長戦となり競り合いましたが長野県松代中の小山さんに負けて5位でした。

剣道は一瞬の迷い、判断ミスで勝負が決まります。
全国大会に向けて今一度自分を見つめ直し、自分の強み活かすこと、無駄な動きはしないことを意識して稽古を積み調子を上げて全国大会に臨み結果を出しました。

剣道一家

おもちゃが竹刀でいつのまにか剣道が始まっていたという。
祖父は桜木哲史7段、世界選手権大会で優勝している剣士です。
6段の父は航空石川で指導しており、母も二人の弟も剣道をする剣道一家です。

佑圭さんは輪島市河合小学校1年生の時から防具をつけ練習を始めました。
その頃は剣道よりもピアノの方が好きでしたが、小4の冬から鹿島少年剣道教室に通い始め、翌年の全能登大会で優勝をしました。
それがきっかけで「よし!剣道一本でやろう」と心が決まりました。
剣道教室の仲間と練習を続けたいと中能登中学校へ入学しました。
部活が休みの水曜日は剣道教室へ出向き、日曜日は航空石川で父と二人の弟とで練習をします。
父は厳しく稽古をつけてくれますが辛く感じた事はありません。

試合で結果がでれば達成感があり稽古をやってよかったと思います。
稽古の先にある達成感を知っているから辛い稽古も辛くないのだと言います。



中能登中学剣道部

全国大会には3年生の横井快紀(かいき)くんも出場しベスト36と健闘しました。
快紀くんは県体2位、北信越3位の実力です。
全国大会前の稽古で佑圭さんは1年先輩の快紀くんと互角の勝負が出来るまでになっていました。

「面を被ったら変身して男になれ!面をとったら可愛い女の子になれ」と指導する顧問の本吉秀充先生は鹿島少年剣道教室でも佑圭さんを教えてきました。
小学校の時は心身ともに未熟だったが、それでも自分の意思で遠く輪島から鹿島へ通い、短い練習時間の中で素早く防具を身に付け、先生が面を付ければ一番に「お願いします!」と駆け寄り、帰りが遅くなるのでもう終わるように言うと「もう5分やります!」と稽古を続けたと言います。
本来の負けず嫌いの性格に、剣道を通して更に心が鍛えられた佑圭さん。この先、何事によらずどのような困難が立ちはだかろうと、逃げないで、挫けないで、乗り越えていく、そのための精神力が強くなったと話します。

将来は小さい頃から憧れていた看護師を目指したいと言う佑圭さんですが、まずは来年の全国大会で絶対に優勝するという強い決意で稽古に励みます。
本吉先生は結果も大事だが、勝つことだけにこだわらず、武道としての剣道、正しく美しい剣道を極め強くなることを求めます。

武道家の血が流れる佑圭さん、祖父のように華麗にして豪快な剣士を目指します。



第221回 田鶴浜 馬場


在所名の由来

平成元年に新しくできた在所でね、田鶴浜下東町から分れたんだ。
その時に新町名を投票したら一位が馬場、二位が平成町、三位が馬場新町だったんだよ。

元々ここは通称馬場と呼ばれていた場所で昔は馬を調教していた場所だと聞いているけど、
田鶴浜に織田信長から鹿島半郡五十九ヶ村、三万一千石を与えられた長連龍が居たので馬も沢山いたんだと思うよ。

昔の在所

昭和三十年代は赤坂が二軒と馬場、濱崎、倉田の五軒しかなく、周りは全部田んぼで国道が丸見え状態。
田んぼの中の細い道は歩けないほど強い風が吹きつける場所だったんだ。

海には桟橋があって輪島の海女さんが荷物を揚げて、赤坂さんと倉田さんの蔵に預けてそこからかごを担いで行商に回っていたらしいよ。
海もきれいな砂浜でね、泳いだり、アサリや蛸を獲ったりしていたんだ。

井戸水は塩分を含んで飲めなかったので昭和三十年頃に水道が付いたんだけど、ちょろちょろとしか出て来なくて甕(かめ)にためて使っていたそうだよ。

バス停と駅に近いので円山さんが宅地造成したら申込多数だったので、そのあと田鶴浜町も第二期、第三期と造成して一気に世帯数が増えたんだね。
世帯数が四十軒を超えた頃に下東から分かれ「笑顔で伸びゆく馬場」というスローガンを作ってスタートしたんだ。

在所の三引川沿いに柴田真次翁記念碑が建っているけど、田鶴浜の宮大工の棟梁なんだ。
安政四年に生まれ十二歳で京都に弟子入りして修行中に、父親で棟梁の新平が田鶴浜住吉神社の建立途中で亡くなったので帰郷し、その後を引き継いで完成させているんだ。
それがなんと十六歳の時なんだよ。
総持寺の山門や東本願寺山門、能登各地の神社仏閣を手掛け、昭和十五年に八十四歳で亡くなった名工なんだよ。

現在の在所

以前はどこどこに子供が生まれたとか、猫の数までわかるくらいだったけど、最近は普段付き合いが薄くなっているように感じるんだ。
ただ小中高と子供たちが多い在所なので、コロナで中止していた馬場フェスティバルを再開し、バーベキューやカラオケ、くじ引きなどをやって交流を深めたいね。

湾岸道路が付いて野鳥公園が出来て色んな人が通るようになったけど住む人が馬場を故郷として誇りに思えるような町にしていきたいね。

まなかの一言

由緒ある田鶴浜に、
歴史を重ねる馬場。