七尾商工会議所 青年部
全国大会秋田大会に参加しました!
次回の全国大会は石川県で開催されます!
一丸となって頑張ります!
七尾商工会議所 青年部
全国大会秋田大会に参加しました!
次回の全国大会は石川県で開催されます!
一丸となって頑張ります!
七尾商工会議所 青年部
子供の頃から憧れのネイリスト。 他の仕事をしながらも諦めきれず、スクールで資格を取得し、家族の理解と協力に支えられてサロンをOPENして、早16年目を迎えます。
初めは可愛いデザインを! とアートに没頭していましたが、施術していく中で、爪にお悩みがある方も多いことを知り、爪育成にも力を入れています。
施術でネイルを楽しんで頂きたいとの想いで、美と癒しのお手伝いをさせて頂いております。
住 所:中能登町徳前
お電話:080-6354-9590
室町時代に能登の守護になった畠山満慶から何代もの城主が築いてきた七尾城の麓で家臣団の館や政務を執った役所のあった城下屋敷に由来すると伝えられているようだよ。
上杉謙信に攻められて天正五年に七尾城が落城した後、前田利家が天正十一年から小丸山築城に着手し城下町が海辺に変わったので古屋敷が荒廃していくんだ。江戸時代の初めに田んぼや畑が開墾され農家が立ち並んで「元七尾」と言われたらしいよ。
ディサービスの「あっとほーむ」を建設する時に埋蔵文化財の発掘をしたら焼きおにぎりや火起こし道具、井戸、兜など昔を偲ぶものがたくさん出てきたんだ。在所の外れには処刑場だった場所もあるんだ。能越自動車道が横を走っているけどお祓いをしてから工事を始めたよ。
国の登録有形文化財で旧飯田家の懐古館と昭和三十八年建設の七尾城史資料館が並んでいるけど、当初資料館の建設予定地が小丸山公園だというので飯田さんが土地を提供して地元に建ててもらったんだ。今となれば大正解だったと思うね。戦後の昭和二十六年に老人ホーム「城山園」が開設したけど戦争で頼る身寄りがない高齢者が増えたことも影響したんだろうね。
昨年四月、城山園跡に七尾城登山口駐車場が整備され、本丸まで往復百五十分の大手道コースにたくさんの人が訪れているよ。ただ登城口が狭いので案内板があるけど分かりにくいのか道を間違える人が多くてね。在所の人がたびたび案内してるから何とかしないとなぁ。
コロナ禍で中断していた伝統行事の仏慈講も四年ぶりに行うよ。在所の法要でお寺さんに来て頂き懐古館でお参りをしてから、資料館横のお地蔵様にもお参りするんだ。このお地蔵様は田んぼに埋まっていたのをここに安置したんだよ。最初は城山園のお年寄りでお世話をして頂いたけど、今は隣の飯田悦子さんにお願いしているんだ。飯田さんがお水をかえたり、お花を添えたり、手作りの帽子、えりまきなどを揃えて一生懸命にお世話しているから、在所も守られているのだと思うよ。これからは共助を大切に新しい街づくりをしていきたいね。
ディサービスセンターとも一緒に三世代交流などで花いっぱいの在所にして、古屋敷のモットー「仲良く・明るく・新しく」を実践していきたいですね。
近くに城山と教育施設、七尾の歴史と文教の在所。
たびたびメディアに登場しているのでご存知の方も多いだろう。テレビではNHK、MRO、ラジオはFM金沢、新聞は北国、中日、そして農業新聞の全国版に取り上げられた。
きっかけはパパイヤだ。野見弘さん、80才とはとても思えないほどハツラツとしてパパイヤに夢を託している。
七尾市下町で生まれた野見さんは、子供の頃から「お前は二男だからいつまでも家におられんので、外で工夫して生活するんやぞ」と言い聞かされて育ったという。そのせいか、目標が一つあれば、それに向かってどうするかを常に考える習性が身に付いた。
東京で10年間過ごし帰郷。教材を扱う学研の能登地区代理店を始めた。この時も自分で目標を立て、能登半島を隅々まで廻りながら、あの手この手と考え仕事をした結果、社長賞を数回受賞した。だが過疎と少子化が進み60才で区切りをつけた。
田んぼと警備の仕事をやりながら第二の人生をどう過ごすか考え町会長を引き受けた。田んぼの多い下町だが担い手が高齢化しこのままでは草の中に暮らすことになってしまう。農地を維持するためにはと行政に相談すると大型の圃場整備を提案された。その担い手となる農事組合法人SIMO陣屋を有志7名で立上げなんとか軌道に乗せることができた。
歳をとると大型機械は難しい。私の役目は終わった、実際の仕事は若い人に引き継いでもらおう。
第三の人生に何か面白い事はないだろうかと思っていた時、「父さん、青パパイヤ植えてみない?」と県外へ嫁いだ長女から電話があった。
南国の果物だと思っていたパパイヤだが、世界では7割が野菜として食されているという。日本ではまだ認知度が低い青パパイヤだが、野菜の王様といっていいくらいビタミン類やミネラル類、そして消化酵素が豊富で健康や美容に効果が高いことで知られる。
こんなものが日本でできるのなら面白い!琴線に触れ目標が立った野見さんはすぐに行動に移した。初年度は試しに10本の苗を仕入れた。思いのほか出来た。これだったら日本最北限のパパイヤ露地栽培がやれる可能性は十分にあると確信する。2年目は畑を借り受け100本植えた。「さくらfarm」と名付け苗の段階でオーナーを募集したら23名の応募があった。まずは作付けを軌道にのせ、七尾の特産品として地域に貢献したいと志を掲げる野見さんの姿に多くのメディアが取材に訪れた。おかげで3年目の今年、市内外から15名が作付けしたいと申し出があった。
春に植えた苗が夏を過ぎれば2mにも成長する。その茎にぶら下がる緑色のパパイヤ。秋に収穫したものをどう消費させるかが今後の課題であり新たな目標となった。わかばの里、織姫、どんたく、中島ストアーに並べてもらう。産地として特産化を目指すのなら市場として受け皿が必要になる。オーナーの方がどう調理したか写真と意見をもらう。管理栄養士の橋本良子さんにもレシピを考案してもらう。スライスにして乾燥食品を試みる。体験型ツーリズムとしての可能性はないかと探る。
家族をはじめ多くの人の協力を頂いている。「走りながら考え、考えながら走る」野見さんの源は感謝である。母に元気に産んでもらい、両親に大切に育ててもらった。地域の人に迷惑をかけながらも様々な教えを頂いた。感謝を忘れないことを肝に銘じる野見さん。自分の損得より、ただただ地域にお返しをしたいと人生を楽しむ。 その若々しさに勇気を頂いた。
全国に何々銀座という商店街がたくさんあるけど賑やかな商店街になるよう東京の銀座にあやかって名付けたんだと思うよ。
ここにお店が集まったのは昭和二十五年なんだ。戦後復興の時代でね、関東大震災や戦火を受けて復興した東京の銀座のように七尾の街も復興して発展していくぞと、そんな気概で名付けたんじゃないかと思うね。
大手町の一部なんだけど銀座町として町内会があるんだよ。
生い立ちは戦後の闇市が原点なんだ。御祓川沿いに並んでいた闇市の十軒ほどがここへ移るときに声掛けしてお店を誘致したそうだよ。
当時は惣菜屋、雑貨屋、八百屋、魚屋に肉屋、小間物屋、駄菓子屋、呉服屋、食べ物屋などが並んでいたんだ。駅前という立地と、青果市場も魚市場も街の中にあった時代だから本当に人通りが多くとても賑わった通りだったんだ。
買物は銀座で何でも揃ったし、中華、ステーキ、鮨、割烹、居酒屋もあってね、銀座で昼食べて、夜また銀座で飲んでみたい人も沢山いたよ(笑)。
昭和三十年代は住民もみんな若いし町内会行事も力が入っていて、運動会や野球大会にはみんなで応援に出かけたし、海水浴にはバス一杯になって行っていたんだ。この頃はまだお昼の店が多く、越路屋さんにジャンボ宝くじが販売された時は銀座通りを一周する行列ができてビックリしたよ。
昭和四十八年頃にビルに建て替えてね、一階が店舗で二階が住居になったんだ。この頃からスナックなどが増えてね、銀座で一番多い時で五十軒以上のお店があったんだよ。
そんな時代に七尾では十番街と銀座が夜の街として賑わって行くんだね。
車社会になって人の流れが変わったけど、それでもまだ二十五軒のお店があるからね。
今までもオイル、繊維、バブル、コロナと不況はあったけど、こんな場所は無くしちゃいけないんだよ。パチンコに勝ったと飲み、負けたと言って飲む。酔っぱらいの喧嘩の仲裁もあったし、スナックのお客が鮨、ウナギ、焼き鳥、ラーメンを食べたいといえばママが近所の店に注文する。
ごちゃごちゃした昭和ノスタルジーの街としてこの雰囲気は残していきたいね。空き店舗も十五軒あるから盛り上げてくれる人大歓迎ですよ。
近年は若い人や観光客も訪れているし、これからも老若男女楽しめる町にしたいね。
苦楽ある人生、銀座はオアシス。
自ら考え、自ら動く
礼儀正しく ルールを守る 鳥屋っ子
私たちは、甲子園出場を目指して日々の練習に打ち込んでいます。
互いに切磋琢磨し、仲間意識を強く持ちながら一人ひとりが自分自身を高め合えるチームです。 技術だけでなく、人としての考え方や礼儀、周りを見て行動する力も身に付ける事が出来ています。
応援されるチームになる為に、全員の心を一つにして頑張ります。
監督:田中英二先生
主将:清水 蓬くん
副主将:高山 武蔵くん・中西 創くん
幼い頃から旅が身近で、海外留学・前職JTBの海外赴任を経て、外から見た日本の姿・魅力を再発見しました。 故郷の石川から能登・里山里海の魅力をもっと世界に発信していきたいです。
旅は無限大で「食・文化・芸術」など様々なモノ・コトを融合したのが旅だと思います。 旅を通して人々を幸せにするお手伝いをしたいです。
業種の垣根を越えて世界で活躍できる世界人になるのが夢です。
住 所:小島町ハ68-3
お電話:53-7744
29才で名古屋からUターンして一本杉で「ぶらり」をオープンし、3年前に飯川に直江道具店として移転しました。
古い道具や家具の買取販売を主として、作家の器や衣料品も販売、工芸作品の展覧会も定期的に開催しています。
カフェを併設しており、四季を感じながらお寛ぎいただけます。 アンティーク好きなお客様が県内外からお越しになり古いものについて話が出来る事が楽しいです。
住 所:飯川町お33
お電話:090-8703-4743
大きなサイロが6基並んでいます。大正15年、磐城セメントの子会社七尾セメントが設立。
昭和4年から工場の操業が開始されます。中身は勿論セメントです。
月に3回~5回、新潟から船で運ばれてきます。
ここから北陸3県各地へ陸送しています。
まさる(オス)5才
トイプードル
おとなしい性格で、外より家の中を好みます。
人なつこく、かまってほしい甘えん坊です。
(向田町 小金森さん)
くるみ(メス)4才
チワワ
ドライブが大好き、抱っこ大好きです。
お布団やこたつ、があると
もう出てこないです(笑)。
(和倉町 黒川さん)
カフェラテ(オス)10才
ジャックラッセルテリア
1才で目の病気になりましたが毎日元気に遊び、
その仕草に癒されます。我が家の宝物です。
(下町 和泉さん)
もうビックリしました、と微笑む聡音さん。第44回少年の主張石川県大会で最優秀賞に輝きました。
この大会は中学生が日常生活の中での体験や考えを発表します。加賀、石川中央、金沢、能登地区から選ばれた16名が発表しますが、この16名に選ばれるまでが大変です。
国語の授業で書いた作文をクラス内で発表し、生徒の投票で3名選ばれます。3年生5クラスの代表15名がランチルームに集合して発表。先生が審査し4名に絞られます。1年生から2名、2年生からも2名選ばれ、この8名で全校大会が行われます。そこで選ばれた2名が能登地区大会に出場します。
能登各地区から集まった12名がサンライフのホールにて競います。この大会での最優秀賞1名、優秀賞3名が石川県大会に出場することができます。
県大会では論旨・内容60点、表現力30点、態度10点に配点され審査されます。国語の授業の作文が気付けば「少年の主張石川県大会」の最優秀賞になったのですから聡音さんも家族も嬉しさよりもただただ驚きだったようです。
家で読書をして感想を記録する「うちどくノート」が町から小学生に配布されます。それで両親が物語や科学の本などたくさん借りてきて読ませてくれました。そんな環境があったのかもしれませんが、聡音さんは物事を深く見つめる事が出来るようになりました。
だからこそ国語の授業で作文を書く時のテーマに迷います。環境問題や人権問題などは知識が無く、関心も薄いのでテーマにすることは難しく思いました。
それなら自分のことなら自分が一番わかっている。自分にしか書けない事を書こう。と強い思いが走りました。
小さい頃から心疾患がある聡音さんは運動制限があります。小学生の時、マラソン大会で見学していると同級生に「走らんでいいがうらやましいわ」と言われ、気持ちが萎縮していきました。ところがマラソン大会が終わってすぐに担任の先生が「一生懸命に応援をしてくれた聡音さんに拍手をしましょう」と言ってみんなが拍手をしてくれた時とても嬉しくなりました。
また、生まれてすぐに手術をして入退院を繰り返していたので「自分は長生きできないのか」と親に聞いたことがあります。母は「この先何があるかわからないが、お医者さんやみんなが守ってくれるから大丈夫だよ」と言ってくれ大変安心した気持ちになりました。
聡音さんは病気を通じて感じた事を文章にする時、これらの事を振り返り、改めて自分を大切にしてくれる人が居ることはすごく幸せな事だと思いました。
県大会には前年度も出場した同級生の森正璃音(りお)さんも出場しました。璃音さんは話し方が上手で聡音さんにアドバイスをしてくれました。気が付けば身の回りに助けてくれる人がたくさんいます。
「現状に満足できず今の自分が嫌、自分じゃダメと思う時があっても、誰にでも必ず助けてくれる人がいることに気づいて欲しい」と聡音さん。そう思うと感謝の念が湧いてきます。
将来は辛い思いをしている子供たちの支えになるため小児科医を目指します。頂いた多くの恩を、これから出会うであろう多くの人にも報いていきたいと決意する聡音さんです。
畠山の重臣、温井氏が高階を拠点にして隣の満仁町の舘山(たちやま)に館を構えたことで、ここにも武士の住む町屋造りの家が数軒あったからだという説と、もう一つは御用取次役人がいて人を待つ茶屋があったからだという説とあるようだよ。
昔は田鶴浜から鳥屋への幹線道路が在所の真ん中を通っていたんだ。
二ノ宮川流域の平坦地に農業中心に暮らしを立ててきた在所でね、「からむし」という上布の原料となる多年草を栽培して能登部に出荷していたらしいよ。
明治期には町屋小学校が開校され、役場や駐在所も置かれ高階村の中心地だったようだよ。
大正十年には高階の三百三十三軒の家に電灯がついたんだ。町屋の大地主の荒谷内宅に北陸電力の前身となる能登電気株式会社高階村代理店が置かれ電気工事技術者も集まって事業が行われたんだ。おかげで小学校に文化活動写真を見る会(映画)が行われると講堂一杯に村民が集まったらしいよ。
戦前戦後は町屋出身の実業家が東京から戻って養豚養鶏組合を作り農村の副業を創出しているんだ。
私が子どものころは雑貨屋、豆腐屋、呉服屋に建具屋など商店もあったし、川にはウナギ、スッポン、ナマズ、フナ、アユ、ウグイ、サケもいたんだ。家の縁の下から「やす」を持ち出しそれでサケを突き刺して捕ったけど、腹からイクラをポタポタ落としながら家へ持って帰ったこともあったなぁ。
明治より世帯が五軒増え人口は六十二人減っているんだ。在所の中で新宅していた時代は子供も沢山いたし、私も九人家族で同級生が七人もいたんだ。
少子化と高齢化がこの先どうなるかと思うけど、私の息子も金沢で家を建てたし、これが現実だよ。空家の利活用も行政を含めて考えていく時代に入ったね。
移住者が多い高階だけど町屋にも四人いるんだ。職人や芸術家など地域の人と交流してくれて良い感じだよ。
ここは過疎でも過密でもない、適疎(てきそ)だと思っているんだ。
ただコンビニがあればもっと良いんだけど誰か出してくれないかなぁ(笑)。
小さな在所だけど色々な行事はみんなの協力を頂き、仲良く続けて行きたいと思っているんだよ。
故郷を愛し、もてなす心を育む、
川と平野の恵みある在所。
建具職人がゆっくりと旧正月を過ごす風習から2月に行われるようになりました。
特徴は赤・青・黄・緑・白の五色の紙で作ったヒトガタ人形の「御赦免」を各家庭2個づつ作ります。
能登地方しんがりの左義長で町外からの駆け込みも多いです。
志賀・七尾・中能登中学校の3校合同のスペシャルバンドです。
3月25日のコンサートに向けて練習に励んでいます。
新しい仲間との出会いや、少人数の活動では味わえない大編成の響きに、わくわくしながら練習しています。
本番では、今より成長した姿で楽しみながら演奏し、能登の中央から吹奏楽の魅力を発信していきます!
~いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023~
吹奏楽の祭典 in 中能登
Center of Note 創立記念コンサート
3月25日(土) ラピア鹿島アイリスホール
入場無料 開場13:00 開演13:30
街かどニュースでも紹介しています「Center of the Noteの挑戦」
全日本教職員バドミントン大会でダブルス3位になり、念願の全日本総合選手権へ出場。 バドミントン部の生徒も東京まで応援に駆けつけてくれましたが、2回戦敗退の悔しい結果でした。
これからも指導者と選手の二刀流を目指し、生徒たちにスポーツ本来の楽しさと・心身の成長・健康と体力の増進を伝えたいです。 スポーツを通して地域の発展にも尽力していきたいと思っています。
住 所:天神川原町
お電話:52-2184
『幸せの和』をアップデート!自律・協調・貢献
公務員から転身し、大阪〈ル・シュクレクール〉を経て、2015年より、中能登町にて夫婦二人で天然酵母パン屋を営んでいます。
2021年に念願の薪窯へと舵を切り、リニューアルオープンしました。
「日常を少しだけ愉快に」をモットーに、小麦や身の回りの菌たちとともに、火の力でパンやお菓子を日々焼き上げています。
パンを作る事ができる喜びと共に、小麦本来の生命力に愛もブレンドしお届けしています。
住 所:中能登町羽坂2-92
お電話:74-0662
小さい頃から食べる事が好きで、よくスーパーに連れて行ってもらいました。
魚や野菜を見るのが楽しみでしたが、大きくなるにつれお腹を満たすだけでなく、自分でも野菜を作ってみたいと思い、山にも海にも畑にも恵まれポテンシャルの高い能登で農業を始めました。
安心できる美味しい野菜を発信し能登の自然の恵みを共有して、多くの人に食べて頂き心も体も元気になって欲しいと思っています。
住 所:白馬町35-89-2
お電話:080-1954-1624
中能登中学校駅伝部、昨年の県大会、北信越大会で優勝し、12月、滋賀県で開催された全国大会で7位入賞を果たしました。全国の48校で競われる中学校駅伝は1人3kmを6人で走ります。
快介くんが駅伝を走るきっかけになったのは小学校6年生の時です。県下の小学校96チームが出場した「いしかわっ子駅伝大会」に鹿島小学校の代表選手として出場しました。1人1.5kmを5人で走ります。3区の伊駒快介くん、5区の酒井崇史(しゅうじ)くんが共に区間最高記録で走り、見事鹿島小学校に初優勝をもたらしました。
この体験で陸上の楽しさを実感した2人は中能登中陸上部に入部します。2年生の時にも2人は全国中学校駅伝大会に出場し見事な3位入賞を果たしています。3年生になり今年も上位入賞を目指そうと皆で誓いを立てた矢先にアクシデントが起こりました。3000mで全中突破記録を持つエース崇史くんが疲労骨折で走れなくなったのです。
エース不在で臨んだ全国駅伝、なんとしても入賞しようと頑張った結果の7位入賞です。不利な状況の中でも結果を出せたことで部員は勿論、応援してくれた関係者に感動を与えたレースでした。
1区走者は2年生の小室快斗、17位で若狭怜士2年生につなぎます。
若狭くん、2区6位の記録で順位を8位に上げます。
3区は怪我で出場できなかった崇史くんの弟、酒井琉史1年生。3区8位の記録で兄の分まで頑張り6位に順位を上げました。
4区鵜家拓斗2年生、8位で5区伊駒快介につなぎます。
伊駒くん、昨年の経験もあり快調に飛ばします。次の走者、1年生の川森獅月(しずき)につなぐ前に一つでも順位を上げとかねばと意地の走りで順位を7位に上げました。
ラスト6区の川森くんも先輩たちの走りを受け、絶対に負けられないと必死の走りで順位をキープ。
全員でつかんだ7位入賞のゴールでした。
またこの大会には今井玲那・福井悠妃・福井妃紗奈・坂井歩瞳・高宮さくらこの女子チームも出場し19位の成績を収めています。
長距離部員は夏にトラック競技、冬は駅伝を走ります。
キャプテンの快介くんはトラックでは800mで1分59秒、1500mで4分07秒の自己記録を持ち、6月の石川県中学校陸上大会では両種目とも優勝しました。
陸上部は「限界突破」をスローガンにそれぞれが目標を掲げ練習を行いますが、練習メニューは全員自分で決めるのが伝統です。快介くんはそれぞれが主体性を持つことで駅伝チームとしても積極的な練習になり、互いに支え合うことが出来ていると言います。
長距離の3年生、崇史くん、坂井栄寿くんと共にメンバーの好不調にも気を配り、一日一日、今日は何を為すべきかをサポートします。
今年度から顧問を務める新任の吉田優海(ゆう)先生も中能登中学校陸上部の出身で部員の先輩です。吉田顧問も同じく守山コーチの指導を受けていたので、生徒の気持ちもよくわかります。当時よりも選手主体で自立型の練習が確立されてきている中、コーチと部員の中間に立ち自分なりの役割を発揮して母校に恩返しをしていきたいと語ります。
毎年、七尾中学校とデッドヒートを繰り広げる中能登中学、切磋琢磨する両校の存在はいつしか北陸を代表する伝統校となり、地域の誇りとなっています