こみみかわら版バックナンバー

第213回 田鶴浜 吉田


在所名の由来

田鶴浜町史によると、古くから水田耕作が営まれ、良質米が収穫されることから「吉き田」が由来と推定しているようだね。確かに吉田川が流れ水も豊かで鎌倉時代には吉田保として稲作が盛んだったようだよ。

昔の在所

在所の裏山にある吉田経塚古墳を五十年前に発掘調査したんだ。そしたら子供を含めて十七人が埋葬された土墳が発見されたんだよ。それは弥生式墳墓でね、千八百年くらい前にはもう人が住み着いて暮らしていたんだね。

志賀町と境界の尾根に立つと外浦と七尾湾の両方が眺められるんだ。そこに沖に来る渤海の船を見張るのに仲哀天皇が砦を築かせていたんだ。その後、戦国時代には七尾城の西の守りとしてより強固な山城として畿保比城(きほいじょう)が整備されていくんだよ。

今から四四六年前の天正五年七月、越後上杉勢が能登国に攻めて来た時に畠山方の加治主殿が越後方の唐人式部らと吉田坂にて決戦したと古文書に書かれているそうだよ。

そんな影響もあるのかどうかわからんけど、子供の頃は親分を決めて西軍と東軍に分かれて城山を走り回ってチャンバラごっこして遊んだもんだよ。

現在の在所

千五百メートル直線の吉田川が県道末吉七尾線と並行して流れているけど、百年前の耕地整理で曲がっていた道と川を真っすぐにしているんだ。先人に感謝しないとね。

おかげで吉田川をホタルロードとして住民が一丸となって草刈りや木の手入れなど保全管理しているんだよ。その吉田川沿いに桜の木を百五十本と運動公園に五十本植えたけど、その桜が大きくなってね、春になると見事な桜並木となってみんなを楽しませてくれるんだ。近年は桜の名所として多くの人が訪れているよ。

四十年前に私がUターンした時は百四十軒の在所だったけど、今は百軒に減っているんだ。少子高齢化はブレーキがかからないのでどうしようもないよ。高齢者が多いけど農業で頑張りながら、運動公園でグランドゴルフをしたり、会館で卓球などして絆を深めているんだ。

人情も温かく困ったことがあればお互いに支え合っているので居心地の良い在所だよ。私もいろんな人のお世話になってきているので、少しでも在所に恩返しができればと思っているんだ。

あきこの一言

花咲き蛍舞う吉田川、恵みを運ぶ
民穏やかに暮らす、歴史ある在所


七尾高校 男子バレーボール部


僕たちは、文武両道をモットーに、全国大会出場を目標に活動しています。

1年生が5人、2年生が5人と人数は少なく、また、高校から始めた部員も多いです。 一人ひとりが高い意識を持って、バレーボールを楽しみながら練習しています。

経験の有無にかかわらず、一緒に全国大会目指して頑張ってみたいという人を募集中です。

顧問:高橋先生

キャプテン:鈴木くん  副キャプテン:山下くん


七尾公設市場(大田町)


昭和60年に府中町から移転して、現在の場所に。

近海で取れた新鮮な魚介と旬の野菜や果物などを扱う能登半島で唯一の総合卸売市場です。

早朝から競り人の掛け声に多くの鮮魚店や青果店の人が真剣な眼差しで品定めをしています。


第69回 「輝け!郷土の星」陸上ハードルの三柳遥暉くん


ジュニアオリンピック第16回陸上競技大会U18で3位

10月、愛知県で開催されたジュニアオリンピック300mハードルで見事3位に輝いた遥暉くん。第77回を迎えた栃木国体でも4位入賞を果たしました。

小さい頃から走ることが好きだった遥暉くんは小学校5年生から父の影響で輪島のジュニアクラブへ通い、小6で県体優勝し全国大会へも出場しました。それで益々陸上が好きになり穴水中学では迷わず陸上部へ。

中2の時、100mジュニアオリンピックU16の標準記録11秒80にあと0.01秒届かず出場できませんでした。この時ほど悔しかった事はありません。中2の冬、能登ジュニアで試しに出場した400mで53秒台と思わぬ好記録が出て「あれ?!」ということになり400mに転向。中3の県大会で優勝、北信越で3位。このことが大きな自信につながります。

高校は陸上をやるために鵬学園に進学しました。高1の新人大会では48秒44と大会新記録で優勝、続く北信越新人大会でも優勝し周囲からも注目を浴びます。

怪我に泣く

自信に満ち溢れる遥暉くん、冬季練習に励んでいましたが春先に左足首を疲労骨折します。冬場に積み上げてきたものがリセットされての2年生。走り方も分からなくなり、何をしてもうまくいきません。

1年生の時の48秒44は全国でもトップクラス。この流れで2年生は全国で頑張れると思っていた矢先の怪我。その間に全国のライバルは記録を上げていき焦りが募ります。いざ走ると思うようにいかず、どれだけ練習してもタイムが伸びません。「何してるんだろう…」大スランプに陥りこの時ほど苦しく感じたことはありません。

自分の力でどうにもならないもどかしさ、しかし、「いつかボンと伸びる時が来る」と信じてひたすら耐えました。その悔しさが遥暉くんを大きく成長に導きます。

走れることに感謝

小学生から走ることが当たり前だった遥暉くん、走れることの有難さを知り、走れることに感謝の念をいだきます。その頃からスランプも脱し始め2年生の国体予選で初めてハードルに挑戦します。1か月間の練習ではハードルとハードルの間を制御できず散々でしたが、地力のある遥暉くんです。その後の県新人大会では大会新記録で優勝。そして今年3年生の県総体では400m2位、400mハードルで優勝。北信越大会では400mハードルに絞り見事に優勝しインターハイ出場、続くジュニアオリンピック、国体と入賞を果たしました。



遥暉くんが陸上を始めるきっかけを作ってくれた父、誠さんも高校時代には200mで石川県高校新記録を出しています。そんな父だからこそ2年生までは記録に対して厳しい評価でしたが、この秋「よーやったなぁ」と初めて労いの声をかけくれました。父に「認めてもらえた」嬉しさを胸に、大学に進学し400mハードルでインカレ優勝を目標にします。

部活動が学校からクラブチームへと移行する近年ですが、将来は体育の教師となり生徒に運動の楽しみを教え、運動への興味を持ってもらい、将来的にも健康維持につなげる指導を試みたいと遥暉くん。
これからも陸上を通じ逞しく成長していく姿が楽しみです。



七尾市役所 監査委員事務局


七尾市役所 監査委員事務局 筑城 まゆみ(ついき)さん 52才 B型

内外面の美を競うミセスオブザイヤージャパンファイナルで、主催者の推薦を受け来年3月東京開催の世界大会に出場します。

競い学ぶ世界大会で里山里海・日本の伝統文化の素晴らしさをPRし、地域活性化・地方創生に向けたパフォーマンスをする予定です。

自分にリミットを付けず、一歩踏み出す勇気を持ち、挑戦し続け輝き成長するグローバルな女性を目指したいと思います。

住 所:袖ヶ江町イ25
お電話:53-1111


はい!社長です-長屋農園


長屋農園 長屋 弘智(ながや ともひろ)さん 66才 A型

You are what you eat!「食べた物で身体は作られる」栄養価の高い野菜作りを目指しBLOF(ブロフ)理論を実践しています。

1年に1回しか挑戦できない作物で幾多の失敗をしていますが、めげずにそこから学び次に繋げようと悪戦苦闘の日々です。

そんな中でお客さんからの「美味しい!」の声に励まされヤル気スイッチを入れています。 「なかのと有機栽培研究会」の会長も務めています。

住 所:中能登町羽坂2-93
お電話:090-4686-4794


机 島(中島町)


瀬嵐(せらし)から約200m、周囲1.3kmの小島。

大伴家持が詠んだ長歌「香島嶺の机の島のしただみを…」が万葉集に収められ、その歌碑が建っています。

弘法大使が使った大きな机石と水留石の硯石があり、その水は枯れる事が無いと伝わっています。


第114回 私の仕事は『ころ柿農家』です。


仕事歴50年 前田トシ子さん 74才

奥深さ

母が「お前も上手になったのぉー」と言ってくれた時、「ほんとけぇー」とさりげなく返事をしましたが、内心はやっと認めてもらえたと、とても嬉しかったです。

子供の頃食べたポタポタした母のころ柿、あの美味しさは忘れる事ができません。ころ柿作りは本当に奥が深いと思っています。五十年たった今でも、あー、こうすれば良かったなぁーと思う事がしばしばで、いつも一年生だと自分に言い聞かせています。

五十年の経験といっても五十回の経験でしかありません。柿の状態や気候など毎年違うのでいつも悩みながらシーズンが始まります。一回目の出荷を終えてようやく勘がよみがえってきます。

ころ柿の里

私は生まれも育ちも嫁先も下後山です。ここではどこの家もみんなころ柿を作っていました。ころ柿の作り方はその人その人で違いがあります。

実家の母が上手だったこともあり、主人と二人で皮剥きの手伝いにいったのが始まりでした。若い頃は勤めをし、三人の子育てをしながら、田んぼもして、その上でころ柿の手伝いをするという具合でした。それでも十年を過ぎたころから本格的に一連の作業を行うことになりました。

ころ柿作りは出荷が終わるともう翌年二月頃から柿の木の剪定を始めます。柿畑での大敵は炭疽病です。ころ柿にする柿は最勝柿ですが消毒をしながら畑の管理を続けます。

秋になり実った柿を採取し、皮を剥いて紐で結んで吊るします。柿を吊るすと今度はカビが大敵です。柿を吊るす部屋は密閉し換気をしながら除湿器を入れ、強く乾燥させるため石油ストーブを焚いて扇風機を回します。このように室温と湿度を調節して柿を管理します。

ころ柿を美味しくする工程で大切なのは揉みです。二週間くらい干すと柿が柔らかくなってきます。その頃を見計らって手揉みすると柿の中の繊維が切れ水分が抜けていきます。吊るした柿も硬いものから照りすぎた柿などあり、それぞれの状態を見ながら揉みの手加減が変わります。これは勘と経験で覚えるしかありません。

この揉みを数日おきに二度、三度、柿によっては四度、五度と繰り返します。私は一つ、一つ丁寧に愛情を込めて揉んでいます。揉みながら形を整えお客様に喜んでもらえるころ柿に仕上げていきます。



おふくろの味

親も兄弟もみんなころ柿を作ってきました。そんな環境で育った私は子供の頃からころ柿を食べるのが大好きでした。私にとってころ柿はおふくろの味でもあり、郷土の味でもあります。だからヨボヨボになっても死ぬまでころ柿を作り続け、食べていきたいと思っています。

箱詰めする時は一個一個の色合いを見てグラデーションにして並べていきます。手間はかかりますが私にとっては手をかけてきた芸術作品の仕上げの段階になります。飴色の、オレンジ色のころ柿が綺麗に並んだのを見ていると食べるのがもったいないと思ってしまいます(笑)。この瞬間が本当に嬉しくこの上ない喜びを感じます。

後山名産のころ柿ですが生産者が高齢化してきたので後継者のことが心配です。嫁に行った娘が手伝いに来ていましたが、今は子育てが優先でこの先どうなるかわかりません。後山のころ柿を絶やしたくないので誰でもいいのでやって欲しいと願っています。

海洋深層水での合わせ柿も出荷していますし、今年はあんぽ柿も頑張りたいと思っています。
たかが柿、されど柿。やりたい事は一杯あり、柿は私の生きがいになっています。



中能登町下後山 前多トシ子 ☎0767-72-2349


第212回 中島町奥吉田


在所名の由来

日用川下流域に位置しヨシ原を開拓したので吉田となって、後に鹿島半郡(かしまはんごうり)を治めた長氏の領内に田鶴浜の吉田があるのでこれと区別するために奥吉田になったと伝え聞いているよ。

昔の在所

開村したのは隣の笠師村の豪農四位兵衛(盛田家)の三男伊左衛門が分家したのが始まりと伝えられているよ。そこはうちの本家でね、本家の裏山には当時分家した時に持ってきた石の地蔵さんが笠師の盛田さんの方角を向いて安置されているんだ。本家の敏信さんは母親から受け継ぎ朝コップ一杯の水をお供えしてお参りを続けているんだよ。

お地蔵さんと言えばもう一つあって「どどんまい」と呼んでいる田んぼのえがわから刀の鍔と一緒に出てきたんだ。祠(ほこら)を作って安置してあるけど、上杉勢が熊木城を攻めてきた時の戦場跡だったかもしれんね。

子供の頃、中島駅へ行くには河崎へ出ていくルートと、日用川に架かる鉄橋を命懸けで渡るルートがあったよ(笑)。まだ国道が整備されていなかったからね。

戦後の農地解放の時、親作から小作に田んぼが渡されたけど親作が耕作している田んぼは渡さなくてよいというので、親作が急に田んぼに肥やしを入れ出したんだ。でも小作も負けじとその田んぼを耕すもんだから親作は根負けして結局は小作の田んぼになったんだね。ただ戦争での未亡人や年寄世帯が多くあって、それで十五歳からの若い衆がみんなで田んぼの手伝いをしたそうだよ。

現在の在所

奥吉田から笠師まで千二百メートルの山道が殿様道なんだ。嘉永六年に静岡県浦賀にペリーの黒船艦隊が現れて徳川幕府が海防状況を全国に命じたんだ。それで加賀藩も十二代藩主前田斎泰(やすなり)が能登半島を視察し帰り道にここを通っているんだ。殿様が通るという事で当時の人たちがこの山道に日用川から石を運んで石畳にしているんだよ。

そんな道もいつしか土に埋もれていたんだけど、平成五年から豊川地区の実年会が埋まっている石を掘り出して磨いてきたんだ。おかげで今では観光名所になってるし、地区の人たちも毎年公民館行事として歩いているんだ。

目の前に広がる豊川平野は百四十町歩とこの辺りで最大の田園地帯だけど海抜ゼロメートルの湿田なので加賀平野の倍の労力がかかるんだよ。このままだと誰がやるにしても農地として守れなくなるから、将来に備えて給排水を整備して乾田化させておきたいね。

あきこの一言

平野を流れる日用川、
山から見渡し、晴れ晴れ。


石崎漁港


かつて150隻の漁船が所狭しと並んでいましたが今は20隻に。

夕方5時前に出港し夜中の2時半に帰港。早朝から競りが始まります。

春秋は二艘曳でサヨリ漁、夏は石崎エビ、赤西貝やシャコなど奉燈祭の御馳走を水揚げし、11月から底曳でカレイやナマコです。


田鶴浜高校 バレーボール部


福祉や看護実習などで忙しい毎日ですが、木曜を除く平日放課後と土曜日に頑張って練習しています。 個性的なメンバー9人で、いつも明るく賑やかに、バレボールを楽しんでいます。

今年の全日本バレーボール高等学校選手権石川大会はベスト16でしたが、ベスト4目指して練習を組立て取り組んでいます。  (キャプテン 髙山)

顧問:上延祐介先生

キャプテン:髙山志穂さん  副キャプテン:川原紅愛さん


ゴルフショップオクイ


ゴルフショップオクイ 奥井 道太郎(おくい みちたろう)さん 45才 B型

「生涯スポーツとしてのゴルフ」の魅力をお伝えして、より一層楽しんでいただくことを目標に、父の代からこれまで40年営業してまいりました。

従来の既製品販売はもちろん、近年はお客様それぞれのスイングに合わせたカスタムオーダー・メンテナンスなどに力を入れ、個人レッスンも行っております。

ゴルフライフを楽しむお手伝いとして、これからもお客様を精一杯支えてまいります。

住 所:小島町9-1-10
お電話:53-2602


はい!社長です-上島農園


上島農園 上島 巧也(うえしま たくや)さん 30才 B型

3年前に祖父母の農業を継ぎ、白ネギを中心に中島菜やのとむすめなどの能登野菜を栽培しています。

就農してから10年経ちますが、この仕事の奥深さ、特に野菜の成長について少しずつ分かるようになり、面白さを感じています。

失敗も多々ありますが、より良いものを作れるように、そして、農業が出来ることに感謝しながら、持続可能な農業を目指して地域に貢献していきたいです。

住 所:中島町浜田耕部179番地3
お電話:090-7088-5596


第68回 「輝け!郷土の星」 弓道の加賀心和くん


第19回 全国中学生弓道大会 優勝

8月に愛知県体育館で開催された全国中学生弓道大会で石川県勢初の男子個人優勝を成し遂げた心和くん。予選で8本中5本以上を的に当てれば決勝戦へ進む。

例年の明治神宮弓道場から会場が変わり射場が屋内となった。雰囲気が異なりより緊張が高まる。28m先、36㎝の的、半数の矢を当てる事が難しい。44名中12名が決勝へ進んだ。心和くんは8本中7本だったが、8本中8本が一人、もう一人8本中7本の選手がいた。今年はかなりレベルが高い。

決勝は射詰(いづめ)で行われる。一射ずつ矢を放ち失中した者は除かれる。的中しても次の一射に残るだけだ。心を張りつめたまま出番を待つ。1本目が終わり五人残った。2本目、ふるいにかけられ三人になった。これで金銀銅が確定し少し安堵する。3本目が始まる。一人目が外す。二人目も外した。そして心和くんの番だ。

さっきまで確実に当ててきた二人が目の前で外す。 より緊張が高まる。ここで外せばまた同じメンバーで続けなければならない。そうなればメンタルが崩れる。早く当てたい。でもあせって外さないように…。更に緊張が高まった。姿勢を整え、弓を構える。ゆっくりと狙いを定め、矢が放たれた。 静かな空間にパン!と音が響く。 真ん中より少し上に的中。 優勝が決まった。

練習のたまもの

弓道は中1から始めた。部活を選ぶ時に陸上かバトミントンにしようと思っていたが、クラス担任の安部先生が弓道部の顧問だった。そして中能登中弓道部を永年指導している加賀賢成コーチが心和くんの祖父だということもあり、やはり「これしかないか!」と自分の意思で決めた。

1年生は体力づくりから始まり3年生が引退する夏から弓矢を持つことが出来る。試合では技術と精神力が勝負になる。そのためコーチはまず1本目を絶対に当てることを指導する。心和くんはコーチの指導を素直に受け止め練習した。それは長年やってきた人の言葉に重みを感じるからだと言う。

予選は1回に4射を2回行う。油断か緊張か、なぜか3射的中して4射目を外すことが多い。大会前は4射目を外さないことを意識し気迫の込もった練習を重ね、その成果が見事に大舞台で発揮された。



キャプテンとして

52名の弓道部。キャプテンとして思っていた事は「正射必中」弓道部のスローガンを忠実に実践することだったと言う。意味は「正しく射れば必ず当たる」という当たり前のことのようだが、その心は、「的に当てる事でなく、正しく射る事に集中する」弓道の心構えを示す。

的に当てたいとか、外したら恥ずかしいとかという気持ちを抑えて、自分と向き合い、精神を統一し、心が無になった時、自分と弓と的がひとつに結ばれていく。 矢を放っても姿勢を変えず的を見て心を残す。的中しなくとも、原因はすべて自分にあるのでまた自分を見つめていく。

キャプテンとして言葉に信憑性を持たせ後輩を指導するためにも、自らが実践し結果を出した。的を狙うことだけが目的ではなく、合わせて精神力を鍛える弓道。 

凛とした立ち姿で、一つ一つの所作をゆっくり静かに進め、不動の心で弓を引く心和くんである。


第211回 中能登町坪川


在所名の由来

本当のところはわからないんだ。

地形的には石動山系と尾丈山系に挟まれた邑知潟地溝帯の湿地帯で葦(よし)が生い茂っていた場所でね、そこに二宮川や石塚川と大きい川が流れているけど、川は氾濫するし、田んぼも深いんだ。

淀みというか、溜まりというか石塚川の扇状地の端っこでこの辺りのツボとなる場所で坪川となったんじゃないかと話しているんだよ。

昔の在所

昭和三十年の耕地整理で弥生時代と古墳時代の土器や中世の珠洲焼が出土したけど、水に恵まれ昔から人が住みやすい場所だったと思うね。半面、石塚川は川の土砂が堆積し川底のほうが高い天井川で氾濫を繰り返し洪水との戦いの歴史を持つ在所だよ。

大雨で水量が増すと太鼓が鳴り響き大人が蓑笠姿で川土手へ走ったんだ。長い竹を崩れそうな土手に手当して、藁を積んだりと大変な苦労をしてきたけど、何回も何回も氾濫を繰り返しているんだ。

河川改修で川底や堤から中世の石碑が沢山出てきたけど、被災の度に洪水を鎮める祈願をしていたんだね。先人の苦労が偲ばれるよ。その石碑を在所で大事に保存しようと今年八月に一カ所に移設したところなんだよ。

明治の神仏分離令で宮のご神体だった千手観音を在江の栄林寺に移設安置したら、日清か日露の戦争に出征した人の夢枕にその観音様が白装束で現れ「私を元の居場所に戻してくれ」とお告げがあったので、また神社に戻しているんだ。昭和十五年に神社の境内に観音堂を建立し、今は毎年八月十八日に観音祭としてお参りしているんだ。

神社に幾何学の問題を記した算額が奉納されてるけど、これは県内でも珍しいそうだよ。江戸時代に優秀な数学者が坪川にいたらしんだ。

現在の在所

ランドセルのように仏壇を担いで宿の家に運んだ「回りお講」も月に一回が、集会所で年に一回のお参りになったし、子供獅子も出せなくなって少子高齢化が進んだよ。

そんな中だけど、鹿島バイパスに出る幹線道路の整備が進んで通行が便利になったり、営農組合で田んぼを維持したり、緑の会で耕作放棄地やため池の周りの草刈りなど環境整備には努めているよ。

百楽会もグランドゴルフを楽しみ健康で活き活きしているからいいね。空家の管理など課題もあるけど、風景はのどかで、真面目で勤勉な人が多いので、まだまだ底力はあると思っているんだよ。

あきこの一言

人と神仏と暴れ川
長き歴史を今に繋ぐ在所。