こみみかわら版バックナンバー

私の仕事は『航空自衛隊の戦闘機パイロット』です

243航空自衛隊の戦闘機パイロット

戦闘機パイロットの仕事とは、


私の場合、福岡県の航空自衛隊 築城基地に所属し、国土防衛の任務に当たっています。



きっかけ


小学生の時、海軍の少年兵だった祖父の写真を見て、魂が揺さぶられた記憶があります。 朝日中学の時、「七尾JCジュニアウイングス」に参加し、アメリカのモントレー市にホームステイした時のホストファミリーが元海兵隊のヘリのパイロットでした。 海軍基地に案内された時、自分の職業はこれしかない! と、熱いものが全身を走り、祖父の血が私に流れているのだと感じました。



道のり


やると決めたからには一刻も早く目標を達成したいと、中学卒業後すぐに横須賀にある陸上自衛隊高等工科学校へ進みました。 全国から250人の同期が集まり3年間の寮生活です。 覚悟を決めて入学したものの、初めは少し寂しい気持ちもありました。 ラクビー部に所属し、仲間との厳しい練習や授業を共にする中、絆も強まり何でも話せる友もでき、心身共に逞しくなり、 入学時60キロの体重が卒業時に70キロまでになりました。
戦闘機のパイロットになるためには、更に航空自衛隊の航空学生になる必要がありますが、 難関で二度受験に失敗。 初志貫徹と陸上自衛隊に勤務しながら必死で試験勉強を続け三年目で合格しました。 英語や航空力学を学んだ後、プロペラ練習機から始まり、ジェット練習機、そして戦闘機へと、パイロットとしての階段を上っていきます。
私が松島基地で戦闘機操縦課程の訓練中、東日本大震災が発生。 F-2戦闘機が津波に飲まれます。
すぐに復興支援に入り泥のかき出し、給水車での配給を行い、10日間お風呂に入らず、1ヶ月間は缶詰やレトルト食品で過ごしました。 しかしこの経験こそが、初めて日本国民のために働いているという実感を得た瞬間であり、自衛隊という組織の素晴らしさを改めて感じた時でもありました。 最終的にはF-15J戦闘機のパイロットとして、警戒監視、スクランブルで飛び最前線の任務に就くことになり、自分としては本望だと感じております。
昨年度は、日本に接近する国籍不明機に対して、航空自衛隊の戦闘機が、810回の緊急発進を行なっており、 私も緊張感を持って勤務しています。



意外な話


高性能な戦闘機ですが、対象機に接近した場合は人間の五感がとても重要です。 レーダーで捕捉し、接近すると前後左右を目視で確認しつつ所要の対処を行い、領空侵犯を防ぎます。



心がけていること


一番求められることは状況判断能力です。 刻々変化する状況に精神と肉体を研ぎ澄ませて対応しなくてはなりません。 万全の状態で何時でも出動できるよう睡眠や食事など体調管理には特に気を使っています。 また国土と国民を守る使命感が揺るがぬよう心身の鍛錬を続けています。


住所:石川県七尾市小島町西2


電話:0767-53-1691


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私の仕事は『路線バス運転士』です

242路線バスの運転士路線バス運転士の仕事とは


公共交通として、365日、毎日決まったコースを決まった時間にバスを安全に運行する仕事です。



きっかけ


父が大型トラックの運転手で、小さい時から車が大好きでした。 高卒後すぐに宅配ドライバーを始め、22歳の時に大型一種免許を取得、ダンプカーの運転手をしました。 結婚を機に専業主婦となりましたが、ダンプカー時代の先輩がバスの運転士をしており、二種免許とったらどうやと誘われ、家族に相談したところ、5歳の息子が「お母さんの運転するバスに乗りたい」と言ってくれ、勇気付けられました。



道のり


1ヶ月間の路上研修の後、中能登町で最初の女性運転士としてコミュニティーバスの運行を担当しました。 お客様の第一声は「あっ、ねぇちゃんや!」と驚きの声でした。
七尾で路線バスの運行を始めたときは、「えっ、女かいやぁ、どうすっかなー」と言って、結局、乗車されませんでした。
当時、バスの女性運転士は珍しく、まだ不安があったのだと思います。
今では、「心地よく寝られたわ、有難う」とか「やったー、久しぶりにねぇちゃんの顔見れたわ」などと声をかけていただけます。



大変なこと


お客様の多くはお年寄りや子どもたちです。 車内事故が起きないよう、急発進・急ブレーキを避け、車間距離をとって、ゆっくり走ります。
また坂道で積雪がある場合は、いったんタイヤが止まると動けなくなり、大渋滞の元になるので、信号を青で通過するようタイミングを計りながら、コロコロとタイヤを転がし運転します。 そんな時、割込まれると急ブレーキをかける事になりとても危険なんです。 ご理解ご協力お願いします(笑)



心がけていること


路線バスはバス停に人がいないと通過します。 しかし寒い日は物陰に隠れていたり、待時間に路地で遊びに夢中になっている子どもがいたりします。 人影がなくても、乗車する人がいないか注意し路地は必ず確認し、乗遅れないよう配慮します。



嬉しかったこと


鳥屋小学校のバス停ではカバンが並びます。 人がいなくてもカバンがあるのでバスは止まります。 バスが止まったのを確認して遊んでいた子ども達が走って乗込んできます。
そんな伝統が続いており、児童たちから私たち運転士にお礼の手紙が届いた時には嬉しかったです。



将来


路線バスの運転士は顔が見えるだけに、お客様から「良し悪し」全てがストレートに飛んできます。
安全運転だけでなく、様々なお客様の立場や感情を理解して、頼りにされる運転士を目指したいです。


住所:石川県七尾市神明町ロ2−1


電話:0767-54-8727


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私の仕事は「救急救命士」です!

241救急救命士

救急救命士の仕事とは


病気や怪我をした患者さんの所に救急車で駆けつけ、応急、救命の処置をしながら病院に搬送します。



きっかけ


保育園の時からの夢が消防士になることでした。 中学生の時に母親から救急救命士という仕事もあると聞き、消防署に必要な資格だと知ります。高二の冬、北陸で唯一 救急救命士の学科がある国際医療福祉専門学校七尾校のオープンキャンパスに参加し、進路を決めました。



道のり


新設校の二期生で入学。 3年生がいなく、2年生4人、1年生4人の学科です。 当時は先生も生徒も手探りで勉強、実習を行い、疑問点は全て質問し、一緒になって答えを見つけ出すという感じです。 そういう授業だったのでモチベーションも高まり、仲間との絆も強まり、知識や技能の習得が早まったと思います。



初めての救命


救急隊は3名で出動し、内1名が救急救命士です。 その日、当直の救急隊の1名が都合で席を離れた時に、通報が入り急遽、私が乗り込みました。 現場に着くまでの間、緊張に包まれ身震いがしました。 患者さんはケイレン状態でしたが、上司と救命処置をしながら搬送し 一命は取り留めることができ「本当に良かった!」と思いました。 この時これが救急救命士の仕事だと強く実感しました。 あの時の緊張感は生涯忘れることがないと思います。



意外な話


119番で一報が入った瞬間に電話番号から場所の特定をし、即座に向います。 指令室では通報者から出来る限りの状況確認を行い、その内容を救急隊に伝えます。 現場に着くまでに隊員で対応を協議し処置の準備をします。



大切なこと


人命に関わることなので、怖いほどの重責を感じます。
その瞬間は自分の手にかかっているので、自分がやるしかないという使命感で、全力で処置しますが、死に直面し、辛い時は上司に話を聞いてもらい、感情が引きずられないようセルフコントロールを行います。



心がけていること


言葉使いは主に敬語ですが、赤ちゃんからお年よりまでの患者がいますので、本人に不安を与えないよう、家族を焦らさないよう、あえて方言で語りかけたりもします。



将来


処置範囲に限界があり、どこまでの処置をして医師につなぐのか常々考えさせられます。 徐々に処置範囲が拡大され、応急処置の方法も変化してきています。
適正な救急活動で救命率を上げ、この地域の更なる高度救急救命のシステム構築に向けて貢献していきたいと思っています。


住所:中能登町東馬場か16−1


電話:0767-76-0119


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私の仕事は 管理栄養士 です。

240管理栄養士

管理栄養士の仕事とは


食を通じて健康を守り、食の様々な事を伝える仕事です。
栄養士会では、医療・福祉・研究教育・集団給食・行政・学校・地域と7つの活動領域があります。



きっかけ


輪島で精肉店を営んでいる伯母が娘に栄養士になるよう何度も勧めていました。 それを一緒に聞いていた私の方が興味を持ち進路を決めました。



道のり


短大を卒業時に栄養士となり、3年間の実務を経て管理栄養士の国家資格を受験合格しました。 初勤務は輪島保健所です。 当時は鍋釜を持って区長宅などへ出向いての指導でした。
3年後、結婚を機に退職。 出産を経て、 夫の七尾転勤を機に市の臨時職員として8年間健康指導にあたりました。 その後 縁あって、桑原母と子クリニックに勤務します。
命が誕生する喜びの場なので、退院時に先生とお母さんの会食というお楽しみを企画しました。 家族の事情で5年間で退職します。
次に七尾自動車学校の寮で15年間 勤務します。 全国から免許取得に集まる生徒は2週間の寮生活をします。 生徒と食を通じてふれあう中、卒業した子が調理師になったと親御さんからお手紙を頂いたときは嬉しく思いました。
現在は石川県立総合看護専門学校での授業、県内外で震災食講座、企業での栄養指導、地元では料理教室を開催しています。
女性は子育てや介護などの事情でやもなく仕事を辞めることがありますが、栄養士は今後益々求められる仕事なので復職も可能で、さらに家庭でも役立つ職業だと思います。



心がけていること


ある時、新しい知識だけではなく、普段の生活に溶け込んだ指導が大切だと気付いたのです。皆さんの経験を活かし、家にある食材と調味料で健康で美味しい料理を教えます。料理は創造性が必要なので食べるだけでなく作ることが健康予防になり大切なのです。



これから


平均寿命は延びましたが、健康寿命はそれより10年短いのです。
健康は食事を通して予防できることがとても多いのです。 食を通して体と心の栄養を満たし、健康で暮らし、支えあい、超高齢化社会に備えた広義のシェアハウスを作れればよいと思っています。


私の仕事は 海上保安官 です。

239海上保安官

海上保安官の仕事とは


海難事故防止や救助、船舶交通の規制、海上での犯罪捜査など、海の安全全般を任務とします。  全国11管区あり、北陸は第9管区で石川県から新潟県まで担当します。私は全長30mの巡視艇はまゆきで七尾から輪島沖まで巡視しています。



きっかけ


私は新潟県出身ですが中学3年の時、中越地震で被災し、避難生活の中で何気ない普段の生活が実は当り前でなく、多くの人に支えられているのだと気付かされました。大学で将来を考え始めたとき、東日本大震災があり、人命を救う仕事に携わりたいと決め、海上保安庁へ応募しました。



道のり


1年目、舞鶴の海上保安学校に入学し訓練を受けました。 同期180名が全国から集まり寮生活です。 入学初日から分刻みのスケジュールで最初は大変な生活でした。 しかし慣れてくると、部活の合宿のようで充実した楽しい1年間でした。
航海科で、操船、気象、計器などを学び、水泳などを通じて心身の鍛錬も行いました。 現在は先輩から天気や波の状態を読むコツやロープのさばき方など実践を仕込んで頂いています。



仕事の大変さ


海上での事故や事件は予測が出来ません。 一度事故が起これば命に関わることが多いのです。 海上で安全指導を行いますが、レジャーで海に出ている人の中には、「海の怖さ」を余り意識していなく、どこか他人事のような方もいますが、安全指導の理解度が生死の別れ目となります。 だからこそ、そこに海上保安官としての力量が問われるのです。
また行方不明者の捜索も行いますが、無事発見救助できる場合、無念にもご遺体で発見される場合、残念ながら発見に至らない場合もあります。 いずれにしても、ご家族の元へ帰られた時は使命が果たせたと安堵します。



心がけていること


地元の漁師の方との会話を心がけています。 海の中まで知り尽くしている知識や知恵は貴重な情報です。
配属された土地ならではの情報を将来に渡って蓄積していき、私自身、第9管区全域が自分の地元といえるくらいに精通した海上保安官を
目指したいと思っています。



本来


陸では、警察官が犯罪取締り、消防士が救命救助ですが、海はその両方を海上保安官が担当します。 それらの任務はもちろんのこと、船乗りとしても早く一人前となり、先輩と同じように頼もしい姿を見せられるよう頑張ります。


私の仕事は バスガイド です

238バスガイド

バスガイドの仕事とは


バス旅行が、楽しく安全に運行され、楽しい旅の思い出をお客様と一緒になって作っていくことです。



きっかけ


七尾商業の修学旅行で九州に行き、一週間共に旅したガイドさんに多くの生徒が涙を流し別れを惜しみました。 バスガイドさんはこんなに人に慕われる職業なのだと感激し、「よし私もなろう」とその時、決意しました。 しかし、高校では簿記、珠算を学んでいるのだから銀行など事務職へ就職するのが一般的でした。 学校では「変わった子」となり、親も親戚も心配して反対です。 なんとか私の思いを理解してもらい、近江鉄道に入社することが出来ました。



道のり


当時全国でも珍しい1年教育の会社でした。 「バスガイド、見てきたような嘘を言う」と川柳にもありますが、歴史、観光などマニュアルを覚えます。 しかしこの会社では「雪」について5分間話して下さい、「桜」について3分間話して下さい、という訓練をしました。 これは臨機応変な対応能力をつける上で貴重なトレーニングとなりました。



大変だったこと


若い頃、酔っ払ったお客様の、バスガイドを見下し馬鹿にした言動に、悔しくて、悔しくてそのままバスを降りてしまおうかと思いました。 その時、ドライバーが「後2時間」 「後1時間」と小声でささやいてくれ、なんとか我慢できました。 まだまだ未熟だったんですね。 今ならそんなお客様でも、愛嬌で手のひらに乗せ、度胸でひっくり返しちゃうんですけどね(笑)



仕事の喜び


とにかく自分もお客様も共に楽しむことなんです。 自分がお客様に溶け込んで一緒に楽しまなければお客様も楽しむことは出来ません。 そういう事に、ある時気付いたのです。楽しんでいるお顔やお姿を見た時、そこに本当に喜んでいる自分自身がいるのです。



心がけていること


家庭との両立が求められますが、生活感が出ないよう、どれだけ疲れていても、清潔にし、身だしなみを整え、どのようなお客様に対してもキビキビと笑顔で対応することを心がけています。



これから


これまで続けられたのも家族、先輩、同僚のおかげだと本当に感謝しています。 また専務から「北陸交通のお母さんや、まだまだ頼むぞ!」と言って頂き、ご恩返しをしなければと思います。 健康で元気な間は若いガイドさんに経験を伝える役目と、個人的には新幹線開業で能登に来るお客様とご一緒し、生まれ育ったふるさと能登をご案内できればと思います。


私の仕事はJR西日本七尾鉄道部の運転士です

237JR西日本七尾鉄道部の運転士

きっかけ


学生時代は、機械の分解や自動車が好きでしたので、その方面に進むことを普通に考えていました。 あるとき、母方の伯父から「駅員さんばかりでなく、車掌や運転士の仕事もあるよ」と言われ鉄道に興味がわきました。



初めての仕事


国鉄入社後は、金沢車掌区で「荷扱い手」として、小荷物専用列車に乗務し、大阪から新潟まで集配する仕事を約3年間。その後、 車掌を12年勤め、 平成4年に運転士となり、現在21年が経ちました。



運転士への道のり


大阪の鉄道学園で研修を行いました。
安全や基本動作、電車の機器構造・運転法規・運転士の心構えについて、とても厳しく教え込まれました



仕事のよろこび


七尾を定刻に発車して、時間どおりに金沢に到着することに尽きると思います。
途中には速度制限箇所、信号機の表示、ATSの動作、津幡駅付近にある電源切り替え操作などに神経を使います。 何事も無く業務を終えたときの乗務員詰所での一口のコーヒーが大変美味しく感じます。



仕事の大変さ


駅間には運転時分が各列車に定められているのですが、何分何秒にこだわった運転操縦やブレーキの扱いを常に意識しています。



事故!?


まだ新米運転士だった頃、特急「雷鳥」で小松駅に停車中、ホームには新婚さんのお見送りでたくさんの方が門出を祝福していました。 その時突然、運転台の制御電源が切れ、赤い事故表示が点灯!運転不能となったのです。 頭が真っ白になりながら一両一両確認してみると、祝福で鳴らしたクラッカーのテープが架線や車体に触れた為と判明! まもなく復旧しましたが、その時流した、冷や汗は今でも忘れません。
以後はホームでのクラッカーは禁止となったはずです。



将来


来年には北陸新幹線が金沢まで開業です。 それに伴い七尾線にも今まで以上のお客様が見込まれます。 新観光列車「花嫁のれん号」も走り、七尾線は変わります。 お客様の思い出に残る、楽しい旅のお手伝いが出来るよう、我々一同、全力で頑張ります!


私の仕事は“カーディティーリング”です。

236カーディティーリング

カーディティーリングの仕事とは


ディティーリングとは「細かい、詳細」という意味です。車を綺麗に、美しく快適に乗るために、コーティング・カーフィルム・車内清掃・さび止めなどを施工します。



きっかけ


高校を卒業し、金沢の佐川急便で15年働いていました。 地元に帰って何か事業をしようと思っていましたが、何をすれば良いのか模索していたとき、集配先でこの仕事を知り、車好きだったこともあり、これだと思いました!金沢で技術を学び、知縁の無い七尾で開業しました。
写真見本と料金表を作って車屋さんを回りました。 家賃を払うにも困るような時もあり、またドライバーに戻ろうかと思った事も何度かありました。 石の上にも3年と言いますが、私はお客様に認めてもらえるのに7年かかりました。



仕事の大変さ


車はあでやかになりますが、作業工程は繊細で神経を使います。 ほこりや砂が舞わないように真夏でも閉め切っての作業をすることもあります。 水を使うことも多く、冬はなんせ冷たい!
しかし、車と向き合う時は常にワクワクな毎日であり、楽しい仕事です!



意外な話


コーティングする時は、新車でも塗装を磨き直します。 磨きをかけ、車体をベストコンディションに仕上げた上で、ガラスの膜をコーティングすることで、より高品質に仕上がります。



仕事の喜び


お預かりした車を、納車する際にお客様が大変喜んでくださり、その姿を見ていると感無量の喜びを感じます。 仕事にやりがいや達成感を感じる瞬間です。



心がけていること


朝礼で「物の整理は心の整理、感謝を込めて後始末」と唱和しています。
車一台を綺麗にするために、部位ごとに、タオル・クロス・スポンジの使い分けや、道具類が多いので、工場の整理整頓は徹底しています。 結果が見える仕事なので、仕上がりはみんなで厳重にチェックします。



未来


ご縁を頂いたお客様には徹底したアフターケアを行うこと。 作業風景や仕上り具合など写真と気付きをブログで毎日続けていくこと。 道具の改良や仕事の手順の研究を日々改善していくこと。
それらを総合的に合わせた、独自ノウハウを確立させニッチトップ企業を目指して行きます。


住所:七尾市八幡町ロ25-1


電話:0767-57-3040


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私の仕事は“農業”です

235農業

農業の仕事とは


スギヨファームでキャベツ、人参、玉ねぎなどの野菜を作っています。



きっかけ


元はスギヨに勤務していました。
平成18年にスギヨが農業に参入することになり社内に公募がありました。
趣味で家庭菜園をやっていましたし、農業に将来性を感じすぐに応募しました。



道のり


能登島の耕作放棄地を利用して畑を耕していきました。畑の面積が大きいので、家庭菜園の延長でのイメージと全然違いました。3人のスタッフ全員、農作業の未経験者です。道具の準備から話合いました。本当は指導者が居てくれればよかったのですが、スギヨでは伝統的に、「新しいことはとにかく自分達で挑戦していく、だからこそノウハウが蓄積ができるのだ」という考えがあります。
まさに0からのスタートでした。



最初の収穫


初めて植えた野菜はジャガイモでした。
しかし勉強不足のため不作でした。病気の防除の知識が無かったのです。それで、近所の農家の方に相談したところ、非常に親切に教えて頂きました。次に植えたキャベツが収穫できたときはとても嬉しかったです。
石川県では企業の農業参入はスギヨが第1号でしたので、この収穫の時、テレビ局が何社も取材に来ました。その時改めて事業としても成功させなければならないと責任も感じました。



大変だった事


当初は石の多さに驚きました。耕せど、耕せど石だらけの畑では、とにかく石の除去からです。野菜を運ぶ運搬機に石を積んでは、地道に除去していきました。また水の出ない畑では、500kgのローリー
タンクで水を何度も夜中まで汲んできては、星空を見ながら水撒きをしていました。



意外な話


能登島にこんなに広い農地があることにビックリしました。
初めて畑に立った時、北海道ではないかと思いました(笑)
4.8ヘクタールで始めた畑が、今では26ヘクタールもあります。



仕事の喜び


農業は畑を耕し、肥料を入れ、種をまき、水をまき、収穫となります。
手塩にかけた野菜が育っていく姿を見ることが楽しみであり、収穫した時にはひとしお喜びを感じます。



これから


3名から始めた能登島農場は、現在20名になりました。これだけ大所帯になるとは思っていませんでした。新卒や大会社からの転職など多くの若者が就農しています。
農業は数字に出てこない勘と腕前が必要です。
今までの経験を後輩に伝え、作るだけの農業から、作って、加工して、販売まで出来る農業生産者を育てることが使命だと思っています。


住所:石川県七尾市西三階町10号4-1


電話:0767-54-0831


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私の仕事は“レジ係”です。

234レジ係

レジの仕事とは


買物された商品を確認しながら精算をしてお渡し致します。



きっかけ


子育てしながら、手ごろな時間で何か仕事が出来ないかと探していたときに、どんたくの夜間レジ18時~21時を見つけて応募しました。



道のり


昔、レジはチェッカーとサッカー(袋詰め)の、二人一組でした。
近年、袋詰めはお客様自身でお願いしています。当初、私はチェッカー担当でしたが、当時の専務(現社長)から「どうや昼もやってみんか?」と背中を押して頂き、やる決心をしました。 お昼は10時~16時まで雑貨担当で、仕入れや陳列を任されました。
ある日、『サッカー』の応援に入って下さいと店内放送が流れ、先輩から応援に行くように促され、おっかなびっくり、初めて袋詰めをしました。お客様から「すごい上手く入れてくれたね」と褒められた時、なんと楽しい、こんな幸せな仕事があるのだろうかと思いました。



意外な話


レジの世界もどんどん進化しています。速さ、正確さ、接客が三要素ですが、常に改善されレジの打ち方、おつりの出し方などコンクールまであります。
社内では若い人が優秀です。私は自己流が変えられず、どんたくで一番へたくそなレジだと思っています。それでも、お客様の求めに応え、それが喜びになっている自分がいます。レジ係はお客様に育ててもらっているのだと思います。



仕事の大変さ


三人の子育をしながら、勤めてきました。 入社当時は10時~16時まで勤務、一 旦家へ帰って夕食や子どもの世話、また、18時~21時まで勤務していました。 その後、通常の勤務時間となり、28年間続けて来ましたが、 「やだ」とか 「大変」だと思った事がないんです。一日も欠勤したことがありません。朝、体調が悪くても制服を着るとシャキッとなってしまいます(笑) こんな気持ちで60歳を迎えられることに感謝します。仕事のおかげで子育ても大変だと思わずに、やってこれたと思います。



仕事の喜び


私は袋詰めが、お客様と心が通じ合う瞬間だと思います。
たとえば、「自転車ですか、歩きですか」と聞きます。そして自転車ならカゴに入れやすいように、歩きなら袋を二つにして重くならないよう、お客様の事を思いながら必ずお声をかけます。
毎日同じお顔のお客様も多いので気を抜けませんし、場合によってはより気を使うこともあります。そんな顔なじみのお客様が来て下さる事に感謝し、お顔を見られる毎日が本当に楽しいんです。



これから


来年60歳で定年ですが、65歳になっても70歳になっても、レジは続けていきたいと思います。
私はこれしか出来ないので、体が動く限り続けて行きたいと願っています。


住所:石川県七尾市作事町80


電話:0767-53-2727


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私の仕事は“革職人”です。

233革職人

革職人の仕事とは


なめした皮で、革製品を製作しております。財布やハンドバック、革小物など、お客様のご要望にお応えしてセミオーダーやフルオーダーもさせていただいております。



きっかけ


子供の出産を機に、家で出来る仕事を模索していました。
そんな時、主人が革の小物に興味があるようで、中々自分好みのものがないと言うのを聞きながら、ある雑誌で女性の革職人がいることを知ったことは衝撃でした。その方にも子供がいて、生き方もかっこいいと素直に感じ、それ以上に「私もこうなりたい」と強く思ったのです。



道のり


早速、革細工のキットを取り寄せ、挑戦してみましたが、思った以上に上手くは出来なかったのです。小さな小銭入れでした。
簡単に出来ると思っていたのですが、難しかったのです。その奥深さを知り、逆にのめり込んでいきました。
最初は子供や主人の革小物を作りながら、これが仕事になればいいなぁと思っていました。



最初の仕事


お財布を作りました。最初のお客様は兄弟や友人です。そこから少しずつ口コミで広がっていきました。
当時は難しい要望だったらどうしようとの思いの中、すべて独学で手探り状態でした。今思えば、その時々に、私にチャレンジをさせてくれるお客様が絶えず居てくれたことが励みになり、今日まで続けてこれたのかなと思います。



仕事の大変さ


細かな仕事ですから、大変なこともあり
ます。
店舗販売や、web販売もしておりますから、作品を作るだけではなく、幅広く柔軟にお仕事をしていく必要があります。私たちの仕事が成り立っているのは、お客様があってのこと。
大変より楽しい!嬉しい!の方が多いのも続けていける大切な力となっています。



新しい取組み


大変ありがたいことに、主人は塗師と木工の経験がありましたので、その技術を革に取り入れることで新しい境地の製品が生まれます。オリジナルの革のi Phoneカバーなどは、主人の柔軟な発想・広い視野のおかげで世界初の革製品が生まれています。これからは主人と二人三脚で歩んで行きたいと思い、お店の名前をアイコからタソラに変更しました。田鶴浜の「田んぼと空」がモチーフです。


住所:七尾市川尻町へ8


電話:0767-68-2401


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私の仕事は“一級鋳造技能士”です。

232一級鋳造技能士

鋳造の仕事とは


鉄やアルミなどを溶かし鋳型に流し込んで機械の部品などを製造します。 橋の銘板も作っています。



きっかけ


私は東京生まれの東京育ちです。
東京で曽祖父、祖父、父親と鋳物を営んできた鋳物屋一家だったので、子供の頃からこの道に入るものだと思い込んでいました。



道のり


大学で金属材料工学を学び、群馬県の鋳物会社へ就職しました。その会社が鹿児島に工場を建設したので、独身の私に白羽の矢が立ち、技師として転属を命じられ、そこで4年間勤務しました。
祖父が亡くなる直前、父に「東京で鋳物工場を続けるより、どこか田舎で工場を建て、そこに順(私)をそろそろ呼び戻したらどうか」と言ったそうです。
祖父は富来町の出身でお墓もそこにあります。家族でお墓参りに来たとき、志賀町の中核工業団地の前をたまたま通りかかり、それならここで工場を建てようということになりました。私の中に能登の血が流れていたのか、それから20年七尾で暮らしています。



仕事の大変さ


私はアルミ鋳造なのですが、アルミは550度から溶け出し、700度~800度の溶けたアルミを扱います。火の前の仕事に輻射熱が加わるなか、夏でも長袖の作業服です。
工場から一歩外に出れば、真夏でも涼しく感じてしまいます。(笑)



意外な話


少量多品種の機械の部品をつくりますが、形が単純なものはありません。
まずアルミを流す砂型をつくるため、何種類もの木型が必要です。それを積木のように合わせたり、組換えたりして複雑な形の砂型を作っていきます。そうして作った砂型は、アルミ鋳造品を取出すとき、壊さなければなりません。



仕事の喜び


昔は「鋳物は巣が出来て当たり前」だったのですが、今は許されません。
勢いよく流すと空気を巻き込み、ゆっくり流すと固まってしまいます。
二人の作業で「ハイ!」「せいの!」と呼吸を合わせて仕上げていきますが、形となって現れたときは嬉しいものです。アルミは溶けているときもキラキラ輝やいています。工場に夕日が差し込みアルミと溶け合ったとき、何とも言えない幻想的な感動を覚えます。



未来


どんどん機械化が進む時代ですが、その機械の部品は手作りです。職人の誇りをもって常に良いものを作るよう努力しています。
この夏休みに子供たちを集めてアルミの置物を作る体験をしてもらいました。私が子供のとき、親の手伝いをして覚えた感動を、子供たちに知ってもらい、大変な仕事ではありますが、後に引き継いでもらいたいと思っています。


私の仕事は“自動車整備士”です♪

231自動車整備士

自動車整備士の仕事とは


車の修理・車検整備など車のメンテナンス全般を請け負っています。



きっかけ


高校3年生の時に将来の仕事として「手に職をつけよう」と考えました。
車が好きだったので、迷わず岐阜にある中日本自動車短期大学に進学しました。



道のり


卒業時に国家二級自動車整備士を取得し、愛知県のカー用品店に就職しました。
そこではタイヤとオーディオの取付けを任されました。4年間勤めましたが、長男ということで地元に戻ることになり、ホンダ販売スギフジに勤めることになりました。そこから本格的に整備に関わり、10年が経ちました。



仕事の大変さ


整備工場内は、雨風を凌げますが、外と同じ環境です。夏は暑く、冬は寒いので体調管理が大変です。それと、最近の車は電子機器で制御され、複雑化しています。故障車はまずパソコンに接続し、故障箇所を特定していきますが、それで全てが判明するわけではありません。お客様からどういった状況なのか聞いて、原因を見つけ出し、必ず修理しないといけません。
来た状態より良い状態にするのは当然であり、お客様がまた頼みたいと思ってもらえるようにしなければなりません。



意外な話


以前の車はアクセルとエンジンがワイヤーでつながっていて、その踏込み具合でガソリンの量が調整されエンジンに注入されていました。今の車はワイヤーが無く、アクセルの踏込みからドライバーの要求するスピードをコンピュータで計算し適正なガソリン量をエンジンに送るので、消費燃料の無駄がなくなります。



仕事の喜び


修理箇所を発見した時、そしてなにより、車が直ってお客様にお返しする時です。
お客様から笑顔で「ありがとう」という声が返ってきた時は疲れが吹っ飛びます。



心掛けていること


工場は常に危険と隣り合わせです。気の緩みや操作ミスで大事故につながります。知人で怪我のため整備士が出来なくなった人もいます。そのため体調管理には非常に気を使っています。特に家内が自分の体調に合わせて毎日食事に気配りしてくれるのでとても感謝しています。



未来


ホンダの整備士1級を取得しました!この仕事は経験がものを言います。修理マニュアルというものがあるのですが、そこに書いてないことを経験により積み重ねていくことが何より自信につながります。「あんたに見てもらって良かったわ!」と言われるように、これからも色々な車を修理して経験を積んで一流の整備士を目指します。


住所:七尾市八田町ロ部1−3


電話:0767-57-3550


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私の仕事は“ネイリスト”です♪

230ネイリスト

ネイリストの仕事とは


手足の爪のアートはもちろん、美しく見せるためのケアや傷んでしまった爪の補修、折れにくくするための保護などもしています。施術にこられた皆様が最高のひとときを過ごせるように心がけています。



きっかけ


子どもの頃から絵を描くことが好きで、中学生の頃に見た雑誌にネイルが紹介されていました。それを見て「ネイリストってステキ!」と思い、将来の仕事として『ネイリスト』を意識し始めました。



道のり


最初は別の仕事をしていましたが、諦めきれずいたところ、偶然あるネイリストさんから「試験を受けてみたら?」と言われ、3級の試験を独学で受け、合格!
それをきっかけに本格的に専門学校に通い2級・1級と合格! 初めは友人にモデルになってもらい、練習を重ねました。また、サロン開業を目指し、数多くのデザインを作りました。苦労の連続でも大好きな仕事をしてるんだ! という充実感があり、試行錯誤を繰り返しながら結婚を機に開業することが出来ました。



最初の仕事


友人の紹介でお越し頂きました。 一対一の空間で施術はすごく緊張しましたが、終始 笑顔で会話も弾み、施術を終えたときには「ありがとう、これで明日から仕事頑張れるわ」とうれしい
お言葉をいただき、この仕事を初めてよかった!と心から思える瞬間でした。



仕事の大変さ


キレイで優雅な仕事に見えますが、細かい作業なので、目の疲れ・肩こり・腰痛など絶えません。また、お客様に日時を合わせるので、家族の理解と協力があってこそ続けられます。



仕事の喜び


「ここに来るとゆっくりできるわ」「ホッと安らげる時間をありがとう」「女子力UPする!」など、喜びや、ねぎらいのお言葉を頂く度、やりがいを感じます。また、施術だけでなく、同じ子育てをする母親として悩みや喜びを共感することも出来ます。今では口コミで新規のお客様からもお問い合わせを頂くこともあり、とてもありがたく思っております。



現在そして未来


今はネイル、ウェディングに人気のあるボディジュエリーを主に、グル―ネンドを使ったアートの講師としても講習会を開催させていただいています。お店のコンセプトでもある『上品かつ洗練されたアート』を提案し、癒しの空間・贅沢なひとときを過ごせるサロンとして、将来はネイルスクールを併設した店舗を構えることが私の目標です。これからもお客様にわくわくと感動を体感していただけるよう、頑張っていきたいと思います!


住所:中能登町徳前


電話:080-6354-9590


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私の仕事は“保育士”です。

229保育士

保育士の仕事とは


保育園に入園した0歳~小学校入学までの子供たちと、遊びや生活を通し、健康で安全な生活習慣、望ましい態度が身に付くよう、援助していく仕事です。児童福祉法に基づく国家資格で、いろいろな児童福祉施設でも保育士が働いています。



きっかけ


将来を考えたのは高校生の時でした。
5歳の時、親以上に面倒をみてくれた保育園の先生のことが忘れられず、私も保母さんになろうかなと思っていました。そんな折、偶然にも両親が保育事業をはじめ、専業主婦だった母が、入園した子どもや親のために一所懸命な姿を見て、心の中で保母になろうと思いました!



道のり


石川県立保育専門学園に進学しました。
学校では「保育とは・保母とは何ぞや」の保育理論やピアノにダンス、人形劇、水泳や登山の実習から多くを学びました。



最初の仕事


七尾のやまと保育園で、未満児(0歳 ~2歳)の担当です。保育はベテランの保育士から学びました。
また、当時では珍しい男性の園長先生で、若いからと言って甘やかすことなく、親に対しての責任、行事に対しての責任など男性的視点で指導していただきました。



大変なこと


保育士という仕事は母親と関わりが強く、男性からは理解されにくい仕事です。
「ねんねもりして給料貰えて、楽な仕事やな!」と言われたことは一度や二度ではありません。保育士の仕事は奥深く、命を預り、その大切な命と共に生活していると言っても過言ではありません。保護者との連絡は密にして保育しています。



仕事の喜び


今までに何千人という子どもを抱きしめてきました。寝返り、たっち、初めての言葉、最初の一歩、そんな瞬間に触れる事が出来、多くの感動を頂き、保護者と共に喜び分かち合ってきました。
そしていろいろな子どもたちが、ふれあいの中で親子が共に育ちあう姿が何よりの喜びです。



未来


保育園の保育士から、地域子育支援センター担当として15年が経ちます。
家庭で育児をしている女性は、初めての出産で「母親」となって育児への不安や孤立感で悩みを抱えています。力まず、ゆっくりと子どもと共に育てばいい。「私もそばにいて応援するよ」と、子育てをしながら「母親」になっていけるよう支援を続けたいと思います。
また、子育て施設の環境は大きい転換期を向かえようとしています。子どもも親も支援者も、全ての人が地域全体で子どもを育てられるように、ならなければと思っています。


住所:七尾市小丸山台1丁目82-83-84


電話:0767-52-3710


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私の仕事は“一級防水施工技能士”です。

228一級防水施工技能士

一級防水施工技能士の仕事とは


ビルの屋上や住宅のフラット屋根の防水施工をする仕事です。新築工事と雨漏りの修繕の工事があります。



きっかけ


高校生の時、姉の夫が勤めていた会社に、アルバイトで働き、『この仕事が面白い!』と感じ、興味を持ちました。そして、高校を卒業と同時に「働かせて下さい!」と社長にお願いをしました。



道のり


入社したものの、一人前になるまでが大変でした。いわゆる「職人」の世界ですから、先輩からは厳しい指導を受けました。理屈ではなく、見て覚えろ!の世界です。先輩の背中を見て必死に覚えました。仕事を通じて、技術の習得だけではなく、世間に恥ずかしくない人間となるよう生活面においても教えを受けました。



初めての監督


初めて大きな現場を任されたのが、中学校の改修工事でした。
会社から一人前として認められた嬉しさもありましたが、それ以上に責任とプレッシャーで無我夢中で取組みました。完成したときは、本当に「ホッ!」としましたし、やり遂げたことが、大きな自信となりました。



仕事の大変さ


私たちの仕事は天気商売です。
夏は3?以上の水分補給をしながら汗だくで作業しますし、冬は雪が積もっていれば、除雪してからの作業となります。それと何より大変なのは、天候に合わせて段取りが変わることです。
金曜・土曜日が雨で、日曜日が晴れなら、工事を遅らせることは出来ないので、休日返上となります。
家族との約束を何度破ったか数え切れません(笑)   妻と子どもに本当に感謝です。



こころがけ


私たちは毎日同じような屋上屋根での仕事ですが、マンネリや妥協は許されません。
それはお客様とは常に初対面であり、屋根であろうとひとつの商品として納めさせて頂くからです。工事が完了して帰る時に、家の人がいない場合はお礼の手紙を書いてポストに入れて帰ります。



幸せな人生


実は祭り男なんです。
今年のでか山では鍛冶町の若衆副頭を、祇園祭も昨年まで指揮者をしていました。
家庭があり、仕事を頑張れる。仕事があるから、祭りも楽しめます。
家族と職場と祭りの仲間、みんなのおかげで幸せです。


住所:七尾市大田町107-4-1


電話:0767-53-6757


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私の仕事は“漁師”です。

227漁師

漁師の仕事とは


私の場合、大型定置網を使って漁をし、安心安全な魚を皆様に提供しています。



きっかけ


小中高大学と、野球三昧でした。 そのまま漠然と社会人野球へと思っていたところに肩を壊し、治療の日々。 もう治らないと言われて将来を見つめ直したところ、実家が漁業を営んでおり『やってみよう』と思いました。



道のり


両親には安易だと反対されました。幾度と話し合いをし、すぐに実家でやるのではなく、外へ修業に行くことになりました。 門前に漁業支援の実習漁場があり、そちらで寮に入り、2年間修業させていただきました。 能登島や七尾の内浦と違い、外浦は波がものすごく、船酔いや早起きなど慣れないことがあり、すごくきつかったです。 奥能登の漁師の厳しさも半端でなく、毎日帰りたいと思いましたが、両親に根性を見せるため踏んばりました。



仕事の喜び


なんといっても、魚が獲れる喜びがあります。 毎日、今日は何が獲れるか? ワクワクします。 また天候や時間など見極めが大切です。 鰀目は産卵の場所に適していて、4・5・6月が漁の最盛期です。今は鯛やサバが産卵で来ていて、鯛は県内一の漁獲高と言ってもいいほど獲れています。



取組み


「道の駅のとじま」に、朝獲った魚を船から直送して、さばいた海鮮丼を食べていただくお店を出しました。
元々は魚を獲って出荷するだけだったのですが、年々魚は少なくなり、漁業の規制や魚価の低下などもあって、流通の改善をしたいと思っていた時、この出店話をいただきました。



気づき


お店が全国放送のテレビで紹介された時は、その日に用意した食材がお昼前に品切れとなり、遠方から来られたお客様から「特別なことがないと、こんなところに来ないんですよ」と言われました。
ショックな言葉ではありましたが、逆に「特別なことがあると、能登島にも人は来るんだ!」と気を引き締め、マイナスをプラスに変える努力をしています。



現在


地元で10年。 会社は若い人が増え、今ではほぼ20代、30代で構成されています。 地元に活気が出て、漁業青年部も復活しました。 稚魚の放流や、他県からの修学旅行生の誘致など、観光にも力をいれています。 地元の保育園に移動水族館として魚を大きな生簀で持っていき、楽しんだ後にさばいて食べさせるという食育にも取り組んでいます。
この道に入り何度も両親と衝突しましたが、妻の理解や説得もあり、今では自分のする事を理解してくれています。



未来へ


「全ての人に美味しい魚を食べてもらいたい」という信念で、たくさんの仲間と様々な取組みや、いろいろな楽しい活動をしていきたいと思っています。


住所:七尾市 能登島えの目町五五部


電話:0767-84-1305


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私の仕事は“客室係”です

227客室係

客室係の仕事とは


私の場合、お客様のお迎えからお見送りまでの接客です。お客様の財産である時間と空間をお預かりし、快適にお過ごしいただけるよう、気働きで精一杯のおもてなしをすることです。



きっかけ


高校三年の時に『将来何がしたいか』を真剣に考えました。『何か人のためになることがしたい』という思いが湧いてきました。しかし具体的にコレというものが定まらずに悩んでいた時、テレビで男性客室係がクローズアップされていたのを見て『自分もやってみたい』と背中を押されました。



道のり


高校は工業系でした。 同級生のみんなが工業系の専門学校や就職を目指す中で、 私は最終的に客室係になることを決断しました。 勉強するなら日本一の加賀屋で! と目的を大きく持ちました。
学校の先生には親身になっていただき、 二代目の男性客室係になることができました。



大変だったこと


礼儀・作法など、 女性なら意識することが、 高校を卒業したばかりの男性が一朝一夕で身につくことではありません。 一つ一つの作法をイチから叩き込まれました。
旅館日本一のプレッシャーが常にあります。
お客様から見れば、新人もベテランもすべて加賀屋の顔です。 玄関に入られたところからおもてなしが始まります。



仕事の喜び


この仕事に就いて一年目に、初めての担当で家族連れをおもてなしさせていただいた時のことです。お子様が「お兄ちゃん!」ととても懐いてくれて、帰り際にお手紙を頂戴しました。行き届かないところばかりであったとは思いますが、一所懸命なおもてなしがお客様の心に届いたことを感じ、この時の感動がずっと心の支えとなっています。「初心忘るべからず」を常に心に止め、笑顔での接客を心掛けています。



休日の過ごし方


愛車でドライブしています。時々お菓子作りもします。シンプルな材料の組み合わせで様々なお菓子ができる不思議に惹かれました。仲間に味見してもらうこともあります。
あとは高校時代に吹奏楽をやっていたので、チューバやトランペットなどを吹いたりしています。
以前寮の屋上でトランペットを吹いて、休んでいた同僚に「うるさい!」と怒られたりもしました。(笑)
休日は思い切りリフレッシュして過ごします。



人生の喜び


お客様の人生において、思い出の一部になれることです。 非日常的な旅館でのひとときをいかに快適に過ごしていただけるか。 それを考えることがとても楽しいです。
加賀屋では『わかりません』 『ありません』 『できません』を安易に使わず、 できる限りご要望にお応えする姿勢を大切にしています。たとえ、ご要望に100%のお応えができない場合でも、よりベターな解決策を探し出し、お客様にご満足いただけるよう日々精進しています。
私を育ててくださっているお客様や先輩・同僚に感謝し、日本の良き『おもてなし』をこれからも大切に守っていきたいと思っています。


住所:七尾市和倉町ヨ部80番地


電話:0767-62-4111


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私の仕事は“小学校の校長”です

226小学校の校長

小学校の校長の仕事とは


学校で行われるすべてのことの決定や児童・教職員の管理・指導です。
安心・安全な学校づくりや児童の健全な育成のため、的確な判断や迅速な決断を行う責任の重さを感じています。



きっかけ


小学校の時の恩師に影響を受けました。児童を励ましながら、頑張りを認め、成長させていく恩師の姿に、子ども心に尊敬と憧れを感じ「先生」という職業に就きたいという思いを持ち始めました。



道のり


大学では好きな歴史を勉強し「中学校教員(社会)」で教員採用試験を受けました。しかし、狭き門で採用には至らず、小学校の教員を目指すことにしました。
大学を卒業後、通信教育で小学校教諭の免許を取得し、教育実習で実際の現場を体験。その時「ここが私の生きる道!」と思いを強くし、採用試験を受けました。初任は、加賀市の湖北小学校でした。



大変だったこと


0代、30代、40代と年齢と経験に応じて求められる役割が変化していきました。
責任ある仕事を任された時は、気が重くなることもありましたが、先輩や同僚の先生方に励まされたり、助けられたりしていく中で、子ども達と同じように、自分も成長していけたように思います。



仕事の喜び


一番の喜びは、子ども達の成長です。
今は校長となり、直接子ども達を指導することは減りましたが、子ども達がいろいろな学習や活動を行って行く中で、少しずつ心身ともにたくましく成長していく姿に教師としてのやり甲斐を感じます。



意外な世界


よく、「先生は夏休みがあっていいなぁ」と言われますが、実際は普通に毎日、仕事をしています。
補充学習や宿泊体験活動などの他、2学期に備えて研修会をたくさん行い、教師としては欠かせない授業力をアップさせています。



心がけ


「チャレンジ」と「全力」です。
「今の自分の力では、こんなことは出来ない」と思うのではなく、新しい事や少し難しいことに、前向きに取り組んでいくようにしています。自分が出来ることだけやっていても力はつかない、伸びていけないと思っています。もし失敗しても「その分だけ成長していける」と前向きに捉えています。



人生の喜び


小学生だった子ども達が大人になり、とても凛々しく立派に成長した姿を見ると、我が子のように感じて、ぐっと胸にきます。



未来


私は生まれ育った石川県が大好きです。子ども達に、ふるさとに誇りと愛着を持ち、このふるさと七尾でたくましく頑張ってくれる、そんな人間になれるように育てていきたいと思います。


住所:石川県七尾市鵜浦町下部20番地


電話:0767-58-1301


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私の仕事は”ラジオパーソナリティ・ラジオリポータ”です。

225ジオパーソナリティ・ラジオリポーター

ラジオパーソナリティ・リポーターの仕事とは


ラジオの番組を進行したり、原稿を読んだり、外に出掛けてインタビューしたりします。その他、婚礼やイベントの司会もします。



きっかけ


幼少の頃から「ゴレンジャー」などのショーの司会をする『お姉さん』に憧れ、高校時代より、イベントプロダクションに所属。その際、フジテレビ全国公開オーディションにて北陸代表に選出されました。この時の審査員長が「秋元康」さん。直接アドバイスいただけたことから、この業界への決意が固まりました。



道のり


初めてのお仕事は北陸朝日放送の情報バラエティ番組レポーターでしたが、2年経過した頃に、体調を崩し、休業。復帰後、ラジオの釣り番組のレポーターを務めたことを皮切りに、ラジオななお など県内のラジオのパーソナリティ・リポーターをさせていただいています。



大変だったこと


もっとも苦労したのは『なまり』です。石川で生まれ育った私にとって、標準語のイントネーションは本当に難しく、今も苦労しています。(苦笑)



仕事のよろこび


体調を崩して入院したとき「ラジオ」にとても力を貰い、救われました。それが私とラジオの「運命の出逢い」でした。ラジオは、テレビと違い、話し手と聞き手の距離がとても近く、声だけの想像の世界だからこそ、心に響くメッセージがあると思いました。初心を忘れずに、心ある放送と届けることが目標であり、喜びです。
「ラジオを聞いて、元気になったよ」そういってもらえるのが一番の幸せです。



意外な世界


ラジオは想像の世界。声だけでイメージを作りますよね。私もリスナーさんにお会いするたびに…「想像とちがうーーーっ」とショックを受けられます。(がーーん…。)顔は、知らない方がいいかもしれませんね(笑)



人生の喜び


パーソナリティは一人では出来ません。縁の下の力持ちとなってくれる。スタッフがいてはじめて仕事が出来ます。
また、ラジオは聴いてくださる方がいてこそラジオです。そして 不規則な生活に協力してくれる家族や仲間の支え、そんなたくさんのコミュニケーションの中で成り立っているこの仕事を、とても愛おしく思っています。周りの皆さんへ心から感謝しています。


住所:七尾市 生駒町 2


電話:0767-53-7640


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