こみみかわら版バックナンバー

第68回私の仕事は「大工」です

人の喜びを、我が喜びと感じる幸せ



私の仕事は「大工」です
西川 剛志(にし かわつよし)さん32歳
仕事歴 8年

大工の仕事とは

私の場合は、
木造住宅の新築やリフォームのご依頼を受けてから、
どのようなライフスタイルを望んでいるかを聞かせて頂き、
予算の中で将来のことも踏まえ、最大限の利便性と品質を追求し提案します。

そして最後にお客様の笑顔を見る事が出来ることが大工の仕事だと思っています。

三代目の決意

「バカ野郎ー!」
「何、たるいことしとらんやっ!」
「やめてしまえ!」
毎日、ボロ雑巾のように、ぼろ糞に怒鳴られ続けました。本当に毎日が大変でした。

こんな親方、早く死んでくれんかなと思うほどでした。
二代目の親父のことです。

私は
羽咋工業高校を卒業して金沢の建設会社でビル建設に4年間従事した後、
能登島の実家に戻ります。

この時に腕の良い大工として身を立て、
七尾で一番、いや石川県で一番の大工になると強く決意しました。

父にどれだけ怒鳴られても自分の野望があったので頑張れました。

父は口で教えてくれません。
「これ見とれ」
と姿で教えてくれ、やらせてもらうのですが、失敗すると怒鳴るという教育でした。

初代の祖父は
山から木を出し、乾燥させ、皮を剥いで材木を削って、刻んでと全てを
自前で行っていました。

家の前に積まれた材木の周りで遊んでいた私には、
三代目としての血が流れ、理屈ではなく魂が勝手に突き進んでいったように思います。



一番の大工とは

親父に怒鳴られても泣きませんでしたが、初めて泣きました。
涙が止まりません。感動の涙です。

任された初めての現場を仕上げた時です。
お客様が笑顔で喜んでくれた瞬間、
自分自身が本当に嬉しくて半泣きになってしまいました。

現場の最前線で仕事をすることの素晴らしさを知りました。
この感動を味わえることが大工の醍醐味だと思います。

最初は野心的に一番になると思っていましたが、
今はお客様の期待以上の仕事をして、
お客様に喜んでもらえることの一番を目指しています。

仕事が趣味

少子高齢化の社会、住宅需要も減少しています。
将来を思うと不安で寝られないこともあります。

ハウスメーカーの下で専属大工としてやる道もありますが、
私はお客様の喜ばれる顔を直接見ること考え続けます。
お客様に喜んで頂かないと大工をやっている意味が無いと思うからです。

目先の利益を追うのではなく長い目で
「あそこに頼んだら良い仕事してくれるよ」
と言われ、
「西川というやつがおってなぁ・・」
とそんな証を生きている間に残しておきたいと思って、
朝早くから晩遅くまで精一杯仕事に向き合っています。

その分家族には迷惑をかけていると思っています。
ふと気がつけば、職人気質の親父と同じような道を歩んでいます。
怒鳴りながら育ててくれた親父の愛情を今は理解でき感謝しかありません。

妻は仕事が趣味のデカい子供がもう一人いると思っているようです。(笑)

今若い大工がいません。将来大工がいない七尾市になりかねないです。

感動を与え、感動を頂く大工という仕事も悪くないです。
大工の道に進む若者を待っています。
私が怒鳴らず親切に指導しますから大丈夫です。(笑)



能登島通町 西川総合建築  ☎0767‐85‐2752
2016年取材


第67回私の仕事は「お茶屋」です

お茶を通じて街づくり



私の仕事は「お茶屋」です
北林 昌之(きたばやしまさ ゆき)さん(76歳)
仕事歴 50年

お茶屋の仕事とは

私の場合は、
選んだお茶を問屋に缶詰にしてもらい、小売をしています。

石臼挽き体験

平成十六年、
第一回花嫁のれん展が成功し一本杉が注目をされます。

取材に来たテレビ金沢の若い女性アナウンサーが店飾りとして
置いてある石臼を見てこれでお茶挽き体験をしたらどうかと勧めてくれました。

私は島根県奥出雲の出身で、
標高350m、中国山脈の山中で育ちました。

小さい頃から田畑や家畜の世話をし、
団子を作るのに米を石臼で挽く手伝いをしていました。
友達が遊びに来ても石が重くて挽き終わらず遊びにいけません。

そんな「いやな思い出」が石臼だったのですが、
若い人の言う事を素直に聞く事が必要だと直感したのです。

おかげで今では
観光客や小、中学生の体験学習など
多くの人に石臼で抹茶を挽いてもらっています。

お茶屋を継いで

婿養子として北島屋のお店を継ぎました。

お茶の事は素人でしたが実家ではお茶も栽培しており、
朝飯前にお茶を摘み、
せいろで蒸して、
縁側の一畳程の炉に助炭をかぶせ蒸したお茶を揉むと
夕方には乾燥したお茶が出来上がっています。

新鮮なお茶を朝、昼、晩と飲む土地柄で育ったおかげで、
お茶に対しては舌が肥えていたのだと思います。

お茶屋は問屋から仕入れる際に、
拝見盆の上で葉の出来具合を見て、水色、香、味を見て品決めしますが、
私はまず味を見て善し悪しを即決します。
自分が飲んでこれだという本物を飲んで頂きたいのです。

昭和四十年頃までは一本杉も賑っていましたが、
ジャスコ、ユニーが出来てから人の流れが変わり、
何か手を打たなければとお茶を缶詰にした商品を開発します。

しかし外商で回ってもお茶の缶は要らないと断られます。
どの家にもお茶を入れる缶があり、
缶の分だけ高いと思われたのです。

それでもお茶の品質を話し、
缶、缶、缶と説明を続けていたので今ではお店の定番商品になっています(笑)



一本杉と共に

花嫁のれん展の継続で視察団が訪れるようになり、
町会長として案内をした時の事です。

仏壇屋で
職人さんの話を聞いていたとき時間が来てもなかなか帰ろうとしません。

そのときハッとしました。
自分の町のことを自分が語られるのかと。

それで「語り部処」を立ち上げ、
質問されて解らない事はわからないと答え、
次には答えられるように勉強しようと仲間を募りました。

語り部処の成果はすぐ確信できました。

それは一本杉通りを石畳にするのに
平成十六年から5年間かかりましが、その間ずーっと工事中です。

しかし観光客は一人も文句を言わないのです。
「語り」に満足すれば道路はどうでも良いのです。

今では観光客が一本杉に年間に2万人も来るようになりました。

石臼を挽いて飲むお抹茶、
その御菓子に七尾名物の大豆飴、
それに挽いたお抹茶を振りかけて召し上がって頂くと大変喜ばれます。

それがきっかけで「ふりふり」というオリジナル商品に繋がりました。

何事も自分の損得より、まず全体の事を思うことが、
結果として自分自身も救われるのではないでしょうか。
これからはそんな時代だと思います。



一本杉町 北島屋茶店  ☎0767‐53‐0003


第66回私の仕事は「ちょうちんや」です


スッと抜け、神に添う明かり

私の仕事は「ちょうちんや」です
亀井 斉(かめいひとし)さん 71歳
仕事歴60年

提灯屋の仕事とは

私は、主に能登の祭りなど神仏に使われる提灯を作っています。
素材は各産地の職人さんにお願いして取り寄せ、木型に、竹ヒゴを巻き、
和紙を張り、絵付けをして、油を塗って仕上げます。

危機を救った門前の小僧

私には毎年、胃が痛くなる時期があります。
それは夏から秋にかけてのお祭りシーズンです。
この時期に修繕や新調の注文が重なりますが、伝統の提灯をすべて手作りで製作しますので、
時間が無くお祭りに間に合わせるため気を使うのです。

5年前、一番忙しい時期にその心労から胃痛で入院しました。
その時は私以上に家族が真っ青になったようです。
両親、家内、息子夫婦に小学生の孫まで家族総動員で毎日夜遅くまで頑張ってくれ、
なんとか迷惑をかけずに済みました。
会社勤めの息子が帰宅後、祖父母から助言指導を受けながら先頭に立ってくれたのです。
自宅が工房で生活の中に提灯作りしているため門前の小僧だったのでしょうね。
その時以外はあんまり手伝ってはくれませんが(笑)

伝統を繋ぐ使命感

私で三代目です。
明治に祖父が金沢で修業の後創業します。

戦争で両親は満州へ、私はそこで昭和20年3月に生まれます。
父が3年間のシベリア抑留となり、母が乳飲み子の私を抱え苦労の末、なんとか帰国しました。
その母が祖父から提灯の手ほどきを受けました。
父が帰国できた時にはすでに祖父が亡くなっており、母が父に提灯作りを繋いだのです。
私も門前の小僧よろしく、小学校から父の手伝いを始め、

会社勤めの傍ら毎日夜は提灯を作っていましたが、提灯一筋に打ち込んだのは20年前です。
提灯は加賀提灯のような「なで肩で寸胴」の女形が一般的です。

初代の祖父は能登の地で「肩が張った下すぼみ」提灯を創作しました。
これは祭りの道中を照らす高張りや玄関の軒に掲げた時、
家紋や文字が下からはっきりと見えるようにと工夫したのです。
また竹ヒゴで提灯の骨組みをしますが、この竹ヒゴを長い一本に繋いでらせん状に巻いた
骨組みも初代が考案しました。技術は難しくなりますが作業効率が良くなります。

現在、提灯屋は能登で私一人になりました。
街灯や懐中電灯が普及し提灯が日常必需品ではなくなったのです。
今を生きる提灯屋として、初代が築き上げた能登提灯、
亀井オリジナルを繋ぐことが私の使命だと思っています。



能登提灯の明かり

お客様は氷見市、かほく市から能登半島全域ですが、ある傾向が見られます。
海に面した在所の方々ほど提灯にかける眼差しが熱く真剣なのです。

これは大自然と対峙して命がけの仕事を生業とする土地柄のせいでしょうか。
目に見えぬ神仏に向き合う精神性の高さの表れかもしれません。
そんな男たちへ贈る能登提灯は風雪に耐える男形の強い提灯であり、

そこからスッと抜け出る光は神に寄り添い、在所の人々の足元にも放たれる
入魂の提灯でなければなりません。

私はそんな想いを形にするため、家族が寝静まった夜から仕事を始めます。
精神を統一し、厳選した素材に祈りを込め、静かに提灯と対座するのです。



中能登町高畠 亀井提灯店  ☎0767‐77‐1900
2016年取材


第65回 私の仕事は「畳職人」です。

必然は偶然にあらず



私の仕事は「畳の床屋」です
奥島 時一(おくしまときかず)さん(77歳)
仕事歴 45年

畳床の仕事とは

畳は、藁(わら)と菰(こも)で畳床という土台を作り、
い草で出来た畳表(たたみおもて)と言うゴザを貼り、
布で畳の縁を縫い合わせて出来ています。
私は、畳床を専門に作っていますので、畳の床屋です。

平成の大修復

西本願寺では、平成十一年から十年間かけて御影堂の大修復がおこなわれました。
御影堂とは親鸞聖人のご影像を安置したお堂で、三八〇年前に再建された国宝の建造物です。
この大修復には、漆、金箔、漆喰、彩色、宮大工など日本の伝統技術の職人が集められました。
畳も七百枚以上あり、すべて三百年以上前に作られた畳床で、今回の修復は二百年ぶり
とのことでした。畳床そのものが文化財し指定されており、
その修復に関われたことは畳床専門の職人として思い出深い仕事になりました。

時代に翻弄され

私は二十代で藁縄(わらなわ)を編む仕事を始めたんです。
それで生活をしていたのですが、ビニールロープが出てきて藁縄が売れなくなりました。
このままでは生活が出来ないと心配で夜も眠れない程でした。

どうにかしなければと考え続けていたら、同じ藁を扱う仕事で畳床があると閃きました。
これならビニールにとって代わられることはないだろうと思い、珠洲の畳屋へ修業に入りました。
当時はどの家も畳の生活でしたので、町には多くの畳屋がありました。
そこで私は「畳床」専門の畳屋になろうと思ったんです。畳床は菰に藁を
何層にも挟んで縫い合わせていきます。

良質の藁はこの辺でも多くあったんですが、コンバインで稲刈りをするようになると
稲藁が刻まれ使えなくなりました。またしても時代の波に翻弄されます。

今は新潟や長野のコンバインが入らない、山奥の田んぼから藁を仕入れています。
藁不足の影響もあって最近は藁の替わりに発泡体を使った畳床も多くなりました。


白羽の矢

西本願寺御用達の京都の櫻田商店が、この畳床を修復できる工場を全国中探し
ご縁があって私にも声がかかりました。

普通の畳より厚く、枚数もあり、文化財で気も使うし、
普通の機械ではやりにくい、実際面倒な仕事です。
私が使っている機械ならなんとか対応できるのではと思いました。

この機械は二十年前に投資しましたがコンピュータで自動制御する当時から
今に至っても最新の機械です。
畳床を作るのには操作が難しく全国で数台しか売れず販売中止となり、
稼動しているのは東北に一台、ここ能登島に一台です。
ビニールロープとコンバインの出現で苦戦を強いられましたが、最新の機械を導入し、
難しい操作を諦めずに挑戦していたおかげで大仕事が出来ました。

世の中は常ならず、変化の連続です。
安心と安定を求め四苦八苦するのですが、
人生は思うようにならない事の方が多いものです。
それでも、一所懸命に頑張っていると、報われることもあるのではないでしょうか。
畳床の職人として誇りに思える仕事をさせて頂き本当に有難く思います。



能登島南 奥島製畳  ☎0767‐85‐2211
2016年取材


第64回私の仕事は「ガソリンスタンド店長」です。


自分を売るということ

私の仕事は「ガソリンスタンド店長」です
勝田 勇人(かつだゆうと)さん(30歳)
仕事歴 9年

ガソリンスタンドの仕事とは

私の場合、給油に始まりオイルやタイヤ交換、洗車やコーティング、
簡単な整備など車に関する様々なお困りごとの解決や、
悩み事のアドバイスをさせて頂いております。

能登唯一の手洗い洗車機

セルフのスタンドが増える中、
共立商事のスタンドは全店フルサービスなんです。
6年前、自動洗車機を入れ替える時、本当に自動洗車機が必要なのかと考え、
スタッフ、上司とも議論した末に「手洗い洗車機」の導入が決定されました。
 
私たちのスタンドはお客様と対面して、心のこもったサービスを提供することが使命なので、
洗車を手洗いに特化するということは、お客様と心を通じ合わせ、
徹底したサービスを提供していくという、決意の現れなんです。
 
この時期手洗いだと手は冷たいですよ。それでも心は熱いんです。(笑)

率先垂範

七尾工業高校を卒業後、スギヨで加工食品の製造をしますが、
直接人と関わる仕事がしたいと転職を決意しました。
 
高校時代に取得した危険物取扱乙種第4類の資格を活かせる職場がガソリンスタンドだったことも
あり共立商事に入社します。自分がお客の立場で見ていたスタンドと実際勤めてそのギャップに戸惑いました。
販売業ではなく接客業だったのです。先輩に礼の仕方から躾けられました。
 
最初はなんでそこまでするのかと反発もしましたが、「油を売るのではなく自分を売れ」と
指導を受け続けます。そして4年前店長になった時どうスタッフと接するか本当に悩みました。
怒鳴りつけてもお互い気分がよくありません。その頃、1歳の息子の行動が全て私の真似をしていることに
気付きます。変な言葉使いをしているので妻に自分もあんな言葉を使っているか聞くと、
そうだよと言われハッとしました。全ては自分の後姿なのだと気付き、
家庭と職場で率先垂範を心がけます。すると子供もスタッフも変わってきました。
 
率先垂範しかないということにやっと気付いたのです。先輩からまず自分が変われと
何年間も言われていたのですが、その時やっと腑に落ち、
先輩に話すと今頃になってわかったのかと笑われました。
 
私の場合、色々な教えを理解し実践出来るようになるには、体験が伴う熟成期間が必要だったのです。


うれしいこと

初めてのお客様は3秒でお店の印象を決めます。
日頃の接客に対する意識と行動が試される瞬間でもあり、
言葉使い、ドアの開け閉め、車の状態の確認など、どうすればお客様が喜んで頂けるか、
全てお客様の立場で行動します。
 
そんな積み重ねの中で、無愛想だった人がしゃべり出したり、用事が無くても顔を見せてくれたりと
お客様の和が広がります。おかげさまで紹介によるお客様も増えており大変有難いです。
 
また一人の人間として認めて頂き、プライベートでの嬉しかったことや悲しかったことを
聞かせて頂けるようになってきたことも嬉しいのです。お客様から頂く励ましの声を
スタッフ全員で共有し、毎日の中に小さな喜びをいくつも実感しながら、
この仕事が出来ることに感謝しています。


共立商事(株) 徳田給油所  ☎0767‐57 -1480
2016年取材


第63回あなたの仕事は?「警察官」達 和茂さん


善きも悪しきも心の鏡

私の仕事は「警察官」です
達 和茂(たつ かずしげ)さん(36歳)
仕事歴14年

警察官の仕事とは

私の仕事は七尾警察署地域課長です。七尾署管内3交番と17駐在所に勤務する警察官と共に近隣の相談ごとやパトロール、事件事故の初動対応の責任者として勤務しています。

記憶に残る逮捕

放火犯人の逮捕です。動機はあるか?関連性はどうか?聞き込みから得た情報や状況から追跡のシナリオを描き、ついに発見、そして逮捕。上司への報告連絡も密に取りながらも、自分で考え24時間体制で事を進めました。一つの事件を解決した安堵感と、あらためて警察官として使命の重責を感じた瞬間でした。

安全安心の砦

私は子供の頃から刑事ドラマが好きで警察官に憧れていました。石崎小学校3年生の時に和倉剣道教室に通いはじめ、中学、高校、大学と剣道を続けていたこともあり、迷わず石川県警の採用試験を受けました。金沢中署の地域課から始まり、機動隊、生活安全課、刑事課、そして警察本部捜査一課にも配属され、現在は地域課長という立場で地元七尾署勤務となりました。色々な部署を経験する中で、世の中には様々な環境や境遇があり、多様な価値観の中で多くの人が暮らしていること、だからこそ様々な問題が発生し、それが事件事故に繋がっていくのだと実感しました。私たちは事件や事故が起これば真っ先に駆けつけますが、そうならないように未然に防ぐことの方がより大切だと思います。特に地域課は交番、駐在所を管轄していますので、日頃から地域の人と関わりを深め、情報を共有し地域力を高め、安全と安心を守って行きたいと思っています。昨年、管内での振込み詐欺の被害は14件で、被害額はおよそ4,800万円でした。交通事故では7名もの尊い命が失われました。交通安全教室や防犯講習などを行っていますが、参加出来ない独居高齢者等のためにも巡回連絡や街角での声かけなどを行い、悲惨な事件や事故を防いでいきたいと思います。



警察官の世界

警察官は時には命がけの任務に当たることもあります。そのため柔道か剣道どちらかを選択し、日頃から肉体と精神を鍛錬しています。私は小学生から剣道を続けていたので、今は後進の指導にも力を入れています。47都道府県と皇宮警察の48チームで警察の全国大会が行われます。上位12位までが一部リーグとなりますが、警視庁や大阪府警など大都市圏の警察が常連です。7年前、私も団体戦のメンバーとして出場して二部リーグで準優勝し、一部リーグに昇格しました。この時は本当に嬉しかったです(笑)。また警察官は、昇進についても平等に開かれていて巡査、巡査部長、警部補、警部等といった階級毎に法律や実務などの試験を受けて昇任できます。ですから、警察官になってからも頑張り次第で昇進することもできるし、捜査等のプロとしてその道を極めることもできたりと多くの世界があるので、やりがいを感じています。警察官という仕事の本質は人の心に帰結し、とても奥深くそれだけに難しさもありますが、私はこれを天職だと思って、これからも経験を積みかさね、地域の安全を守っていきたいと思っています。



七尾警察署 ☎0767‐53 -0110

2016年取材


第62回あなたの仕事は?「教習指導員」西村 晃一さん


教習とはもてなしの心なり

わたしの仕事は「教習指導員」です。
西村 晃一(にしむらてるかず)さん(47才)
仕事歴10年

教習指導員の仕事とは

教習指導員の仕事とは、運転技術、安全知識など深く理解し、交通事故を起こさない優良なドライバーを社会に送り出す仕事です。

教習の統一

業界で永遠のテーマが教習統一の問題です。この先生は分かりやすい、あの先生は分かりにくいということを限りなく少なくするために委員会を立ち上げプロジェクトリーダーとして取組んでいます。昔は先生が生徒を指導し免許を取らせる。そんなイメージでしたが今は生徒ではなくお客様、先生ではなくインストラクター。そんな関係の中で単なる免許取得の学校ではなく、社会に優良なドライバーを送り出す使命を担うのが教習指導員だと思います。車社会の現代、地域になくてはならない半ば公的な学校でありながらも民間会社なんです。平成三十年から十八歳人口が急激に減少していきますが経営を考えると危機感を覚えます。私たちにどんな努力が求められるか、何が出来るのか、そんな取り組みの一環として教習統一に力を入れています。

笑顔が見たい

前職が一級管工事施工管理技士で、十五年間会社勤めをしました。毎日夜遅くまで何通りもの施工図を作成して提案します。そうやって一生懸命やってもお客様の顔が見えないのです。喜んでもらえるのは役所の担当者か会社の上司です。もっと直接的に人様に喜ばれ、役に立つ仕事がしたいと何年間も考えていました。そんな想いが高まり転職を決意します。タイミングよく教習指導員の求人を知り、学生時代ずっと二トン車で配送のアルバイトをしていたほど元来車好きの私は迷うことなく応募しました。



おもてなし

七尾自動車学校では普通と中型の自動車とオートバイ、そして除雪車などの大型特殊車の五種類の指導を行いますが、それぞれに教習指導員の資格が必要です。一年に一種類しか受験できないので五年かかり、更にその技能検定員の資格も同じく一種類を一年毎に受験しますので、全部取得するのに十年かかります。このような期間が必要なのは教習指導員には運転技術を画一的に教えるのではなく、男女や年齢の違いなどその人に合った指導が求められるからです。その人の特性を察知し、コミュニケーションが出来、適切な指導を行う。一人前の指導員となるための熟成期間なんですね。段階ごとに教える決まりがありますが、教科書にない目配りを伝え、自分なりに工夫した教え方を取り入れると確実にワンランク腕前が上がることを実感します。会社では教習指導員と中間管理職としての立場にあり正直言って大変です(笑)。夏には県外の大学生が合宿免許に来ますが、みなさん楽しみながら合格していきます。そんなお客様をゲストとしてお迎えし、能登の良さをもっと知ってもらう機会にしようと、今年は七尾検定初級を全教習指導員で挑戦しました。人との関わりを大切に出来て、世の中に役立つことが出来る、そんな仕事が出来る事に感謝しています。 



七尾自動車学校 ☎0120‐025 -770

2015年取材


第61回あなたの仕事は?「コーヒーマイスター」窪 丈雄さん


豆の味を超える薬味

私の仕事は「コーヒーマイスター」です。
窪 丈雄(くぼたけお)さん(49才)
仕事歴 3年

コーヒーマイスターの仕事とは

一口で言えばプロのコーヒーマンです。
コーヒーの深い知識や技術でコーヒーの美味しさや、コーヒーの持つ様々な価値を多くの人に知って頂き、コーヒーを活かした生活を提案していく仕事です。

一杯のコーヒー

コンビニで気軽に挽き立てのコーヒーが飲まれる時代になりました。コーヒーの消費量が年々増えており嬉しい事だと思っています。私は更にコーヒーの持つ力、様々な効用を知って頂き生活の中の楽しみのひとつに加えてもらえればと思っています。プロとしてより幅広い知識と高度な技術を身につけるためブラジルのコーヒー農場へ出かけました。たった一杯のコーヒー、それがこんな山の中で大変な作業の中から生まれてくるんだと感慨を覚えました。昨年、日本スペシャルティーコーヒー協会よりアドバンスコーヒーマイスターの称号を頂きました。認定資格で石川県では金澤ちとせ珈琲の岩本さんと私の二人だけで全国で百三十名います。

減っていく喫茶店

父の代からのパチンコ桃太郎を引継ぎ経営していましたが、この業界も競争が激しく大手資本と消耗戦を続けていくより、早めに店を閉めることが正解だと経営判断をしました。そんな時、母がコーヒーでも習ってみたらと勧めてくれ、北国文化センターの教室でコーヒー博士こと金沢大学の廣瀬幸雄先生に学びました。母の血でしょうか、私の中に眠っていたものが目覚めたのです。コーヒーの奥深さは知れば知るほど興味が尽きませんでした。母が経営する中央茶廊は昭和二十八年開店で今年六十二年目の喫茶店です。七尾の喫茶店も全盛時代からみると随分少なくなっています。手伝いでお店に入ると親子三代で来て頂ただいているお客様、ここでお見合いをしたというお客様など様々なご縁で結ばれていることを知り、この母の店を残したいという思いが出てきました。「よし、やってやろう!」昔の価格のままで、味と質の研究を深め更に美味しいコーヒーを飲んで頂こうと覚悟を決めました。生産者の顔が見えるブラジル原産の豆を厳選し、気温、湿度を考慮して焙煎し、心を込め丁寧にドリップします。その人に合ったコーヒーを創り出し、共に語り合えるそんなお店を目指して、喫茶店として根を張り続けていきたいと思っています。



かなわない味

コーヒーは生鮮食料品だと思います。原産国も種類も味も様々で、さらに同じ豆でも入れ方や保存期間で苦味、酸味、甘みが変化します。原料としてどんなにおいしい豆を使っても、どうしてもかなわない味があります。それは誰に入れてもらえたかということなんです。母のお客様は母が入れたコーヒーが一番良く、それは関係性という薬味が入るからだと思います。コーヒーを通じて多くの人が繋がっていく、そんなコーヒーの魅力を伝える伝道師となり七尾の文化の一つにコーヒーも根付くよう頑張ります。



中央茶廊 ☎0767‐53-0580
 
2015年 取材


私の仕事は『建具職人』です

職業-建具職人-

建具職人の仕事とは


ドアや障子、ふすま、らんまなどを寸法に合わせて作ります。木の選別から始まり、材木の中から節が無く目の通った綺麗な所だけを選び出し部材にしていきます。魚で言うと、マグロのトロの部分を取り出し、綺麗に刺身にして、器に彩り良く盛り付けていく、そんな感じで建具も一本の木から家の座敷に収まっていきます。



温故知新


仕事の合間に各地の寺院などを訪ね、昔の建築様式を見て回ることを心がけています。それは伝統の建築様式を見ることで知識が増え感性が磨かれていくからです。その上で現代の新しきに挑戦することが可能になると思っています。
お客様の望むものを作るのですが、時としてそれが斬新なものであっても外してはいけない決まりごとがあります。そういった時に建具職人とて意見を述べつつ、お客様と共に伝統に裏打ちされた機能性、デザイン性を追求します。



損得より善悪


私は金沢の生まれで金沢で内装の仕事をしていました。その時に出合い結婚した妻の実家が松田建具でした。仕事場を見た時、建具の奥深さを感じ興味が湧いたのです。それから二年間心が揺れ動きます。十五年間続けている内装の仕事を辞める勇気がなかったんです。二人目の出産で家内が実家に戻るとき「今しかない」と感じ、踏ん切りをつけました。家内は「ほんとかいね!」と驚いていました(笑)。知り合いがいない、道が分からない、仕事もわからないからのスタートでしたが、それらは全て時間が解決してくれました。その間もっとも大切な職人としての道を教えてくれたのが松田の親父です。物事を決断していくときの姿は損得ではなく善悪です。人の道から外れるような事にはとても厳しい親方です。建具の奥深さもさることながら、人は生き様に奥深きものがあり、そこで人生が決まっていくんだと感じています。



建具の輝き


昔は大工さんが家を建て、それに合わせて戸を作ったものです。今は既製品の戸に合わせた家が建ち、ベニヤ製の安くて軽い戸が普及してカタログから色や規格を選んでいます。和室が少なく壁が多い家が多くなり、昔は五十坪の家で百枚の戸が入ったものですが今は二十枚くらいでしょうか。和室が私たちの出番です。家が完成し座敷に戸を入れた瞬間、家全体が引締まり輝きを放ちます。私たち職人も、家の人も、「わぁー、すごいなぁー」と声が上がります。昔は引っ越しても戸だけは持っていったと聞きますから、本物志向のりっぱな戸だったのですね。近年若い人が個性を建具に求めオーダーが増えています。職人が高齢化していく中、若い世代が建具の技を継承していく必要を感じます。伝統技の存続と採算のバランスは悩むところですが、このことも本当の善がどこにあるのか見極めたいと思います。




松田建具製作所 0767‐76‐2151


私の仕事は『落語家』です

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落語家の仕事とは


言葉ひとつで、お客様が想像を巡らし、場面転換し、時間空間を自由に行き来して、笑ったり泣いたりして楽しんでもらう、身近なエンターテインメントです。



舞台芸人でありたい


上方落語家として吉本興業に所属し、この夏に鳥取県の三朝温泉で三十五日間の高座を行ってきました。まだ駆け出しで、普段は蕎麦屋やバーなどで営業です。熱い想いは、なんばグランド花月で看板を上げることです。タレント活動も余儀なくされますが、落語が中心の、あくまでも舞台芸人でありたいと思っています。



憧れの浜ちゃん


小学生の時、映画「釣りバカ日誌」を見て、「浜ちゃん」に憧れました。お気軽な人生ではなく、好きな事をやり通す人生なんです。人前で笑わせることが好きな私は、御祓中学一年の時、それが職業になる事を知りお笑い芸人になりたいと思います。中二の時、金沢竪町吉本劇場で吉本芸人とネタで対決するシリーズがあり同級生とコンビを組んで出場し、七尾高校では文化祭のステージに立ち笑わせていました。関西大学に進みますが、理由は桂三枝師匠(当時)の落語研究会があり、そこでかばん持ちすれば吉本興業に入れるという噂を耳にしたからです。結局それはガセネタでした。(笑)



あっち側に立ちたい


お笑い文化を研究に来たドイツ人留学生が正座が出来ないということで、私と漫才のコンビを組む事になりました。第七回新人お笑い尼崎大賞に出場し優勝します。この大会はプロアマ混合で若手芸人の登竜門です。初代チャンピオンは友近さんです。松竹芸能にスカウトされテレビ出演やラジオ番組を持ち、最初で最後のチャンスだと思い頑張っていた矢先、相方の都合で三年間のコンビが解消です。新たな相方・新たなネタ作り・相方に左右されるリスクを考えた時、心の糸がプツンと切れ、サラリーマンを始めます。未練を断つためバラエティーは一切見ず「釣りバカ日誌」だけ見て過ごします。二年後、忘年会で吉本芸人が呼ばれ漫才を披露します。「悔しい、あっち側に立ちたい」と思ったその時、上司が肩を叩き「あっちに戻れないのだから、こっちで頑張れ!」と。その一言で心が吹っ切れます。「自分を押し殺した辛い思いで働くことに耐えられない」と辞める決意をしました。



人生のバイブル


最後の昭和芸人、月亭可朝師匠の破天荒な人生、その人柄に惹かれ、手紙を四回出しやっと面談を許され、紆余曲折の後、その弟子の月亭八方師匠へ弟子入りします。上方の年季明けは約三年、師匠のお世話を三六五日、自由時間は無く丁稚奉公です。三食とお小遣いは頂けますが、お酒も女性とのお付合いも禁止です。多くの弟子はここで挫折します。この春、年季が明け、お笑い芸人としての再デビューは、人生観を変えてくれた「浜ちゃん」のおかげで「釣りバカ日誌」は私の大切なバイブルです。


 

大阪  吉本興業 06‐6643‐1122


私の仕事は『理容師』です

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理容師の仕事とは


私の場合、身も心もすっきりとして、快適な生活をしていただくため、髪を綺麗に整え、その人らしさを演出することです。



自分に似合う髪型


「自分のファッションや顔に似合う髪型にしてほしい」最近こんな声が多いです。昔のようにみんなが同じ流行の髪型にするということは無いですね。私のライフワークは「髪型がその人のファッションや人柄の一部となるヘアースタイルの研究」なんです。外出すれば髪型がファッションや骨格や体型にどうマッチしているか観察します。ファッションは流行するので常に新たな技術やセンスを取込むため、金沢のサロン会で東京や海外で活躍している理容師を招き、最新の流行にあったヘアースタイルの研究や勉強を毎月続けています。昔は横に大きなハサミを入れてきれいに揃えることがカットでした。今は大小さまざまなハサミを使い、その人に似合う最高の髪型に仕上げるため、縦横無尽にハサミを入れ全身を使ってカットします。



床屋に生まれた宿命


床屋の三代目として生まれ、祖父母、両親、叔父、叔母、姉、そして妻も理容師という環境です。お客様と親しく会話し、互いに「有難う」と挨拶を交わす両親の姿を見て、子どもの頃からごく自然に家を継ぐ思いでいました。七尾商業高校を卒業と同時に迷わず金沢のヘアーサロンへ住み込みます。部屋は四畳半で二段ベッド、先輩と相部屋です。昼は専門学校へ、帰るとすぐにお店に立ちます。夜は顔そりやカットの練習です。親戚に夜お店にきて頂き実践練習を繰り返しました。
マスターから「そろそろ本番をやるか」と言われ、顔なじみになったお客様の中で、やらせてもらえそうなおじいちゃんに頼みました。三年目で初めてお客様のカットをするのですが、緊張で頭が真っ白になりました。おじいちゃんがニコッと笑って「いいがになったよ」「カッコいいがになった」と言ってくれた、その言葉を今でも忘れません。



理容師の現状


江戸時代、床屋は男の仕事でした。その名残から床屋へは男性客が、美容室へは女性客がという流れでしたが、今はその垣根はなくなり男性も美容室でカットします。カリスマ美容師が話題になり、おしゃれなイメージが定着し美容師を目指す若者は多いのですが、理容師を目指す若者は少ないのです。理容組合では中学と高校へ出向き理容師の仕事を紹介し、興味のある生徒にはウィッグを使って体験してもらい、将来の担い手確保に努めています。最近はオシャレなヘアースタイルも出来る若い女性の理容師も増えてきています。



トップスタイリスト


技術コンテストで優勝してもまだ本物とは言えないと思っています。業界ではお店で売上NO.1の理容師がトップスタイリストと呼ばれます。それにはカットの技、コミュニケーション力、マネジメント力など総合力が求められます。お客様の状態を感じ、進化する技術をフィットさせ、心身共にリフレッシュして頂き、心から「有難う」を言って頂ける理容師を目指し続けたいと思います。


川原町 ちょっきんきむら 0767-52-6518


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私の仕事は「森林施業プランナー」です


森林施業プランナーの仕事とは

山主に間伐、枝打ち、伐採、植林など森林の手入れを提案しその計画、実施までを山主に代わって行い森林全体の保全・活用を行います。

きっかけ

二十八歳まで金沢の建築設計事務所で働いていました。長男であり結婚を機に七尾へ戻る時、地元で生涯働ける仕事は何か考えました。記事で林業の担い手不足を知って、色々調べるうちに興味が湧き、森林組合に就職しました。父は公務員ですが、祖父は木挽きだったのでその血が騒いだのかもしれません(笑)。

道のり

山へは四、五人の班体制で入り、班長の指示で下刈り、枝打ち、植林などの作業を行いますが、これまでの人生で鍬すら持ったことがありません。ましてや下刈り機やチェーンソーなど扱えないので苗木や肥やしを運ぶことが初仕事でした。線を引く仕事から力仕事ですので最初は辛かったです。しかし山の仕事は日々メリハリがあります。汗を流し仕上がっていく達成感、成果が目に見える満足感、仕事を終え家で飲むビールの美味さ、心身ともに健康になっていきました。現在はプランナーとして組合員さんに山の保全と活用を提案し施業の実施計画を立てています。

心がけていること

ちょうど慣れて来た頃です、枝打ち機で指を切りました。見ると皮一枚で指先がぶら下がって血が噴き出しています。それを見た途端、気絶しそうになり、同僚におぶってもらい病院へ運ばれました。幸いに皮一枚でぶら下がっていたのは手袋で指は大丈夫でしたが、その時の傷をお守りとし、いかなる場合でも安全第一を心がけています。

意外な話

山の境界がわからない山主さんが増えています。そんな場合は法務局の公図を見て現地調査します。尾根や沢を歩いて境木や境石を探したり植生を見たりして隣の山主に確認します。昔はサラリーマンでも休日になると山に入り手入れをしていましたが、世代が変わり放置された山が増えているのです。森林組合で施業した山は簡易GPSで測量し、将来のために管理図面を作成しています。

これから

担い手不足、木材の採算割れなど林業が衰退してきていますが、日本の国土の約七十%は森林で、その恵みは計り知れません。息苦しそうな山を見ると不憫でなりません。まだまだ手入れ不足の山が多くあります。日差しが入り、風が通り、杉の枝が青々として、下草も程良い感じで生えた健康的な山。故郷の山を保全し活用し管理することが私の使命だと思っています。

中能登森林組合七鹿支所 ☎0767‐57‐0600


私の仕事は「第一種電気工事士」です


第一種電気工事士の仕事とは

電気事業は発電、送電、受電と分類され、電気工事士は受電を担当し、電柱から家までの外線工事、照明、空調設備など家の中の電気工事の施工・保全を行います。

きっかけ

高校を卒業し、ルネスかなざわに就職しました。そこで施設の管理をすることになり、ボイラー技士と第二種電気工事士の資格が必要となり取得しました。

道のり

二年間勤務し、地元に戻る際、取得した資格を活かそうと考え、職安でのご縁で昇陽電機に勤めます。ルネスでは簡単な修理でしたが、ここでは技術が商品です。初仕事は能登島の雇用促進住宅の配線です。先輩の指示に従いコンセントとスイッチの取付けを毎日丁寧に一生懸命やりました。戸建の内線工事を中心に二年間、三年目から北陸電力の委託で電柱から家までの外線を取付ける仕事に取組みました。現場が学びの場であり先輩の下でも自分ならこうすると常に考えました。この時期に第一種電気工事士と一級施工管理技士の資格を取得しました。おかげで現在は中間管理職として現場に携わりながら、施工と安全の管理、顧客対応、後輩への助言など毎日がとても忙しいです(笑)

意外な話

設計図を基に照明やコンセントを所定の位置に取付けるのですが、現場は様々な工事が同時進行しています。その状況を見ながら配線の段取りを考えますが、まさに腕の見せ所だと思います。単に電気工事をするのではなく、日々変化していく現場状況の中で品質と納期の最適化を目指します。それには電気工事の技能や知識だけでなくコミュニケーション能力がとても大切です。私の場合ルネスかなざわで接客業に携わったことが、今となってお客様や工事関係者との打合せに役立っています。

心がけていること

電気は目に見えません。現場では誰がどのような状況で接触するかわかりません。それで様々な視点で危険予知を想定するのですが、私は心配性なので最悪な状況をイメージし、その場合の対応まで考えます。考えすぎると夜も眠れなくなってしまうので、帰宅してからは頭を切替えて仕事のことは考えないようにしています。子どもが三人いますが、妻から子どもが四人いると言われています(笑)

やりがい

どの現場もそれぞれ特徴があって面白いです。特に住宅配線は構造に合わせて計画します。大工さんにも色々教わりながらどんな配線、こんな配線と考えることが面白く私の頭は常に3Dで配線が巡っています。自分がお客様の立場だったらどうするか考え、見えないからいいかではなく、見えない所にこそ手をかけます。工事が完成しお客様に喜んでもらえたとき、その笑顔を家族に報告し、お酒を嗜む瞬間に幸せを感じます。

昇陽電機株式会社 ☎0767‐52‐6719


私の仕事は『健康管理士』です

251健康管理士

健康管理士の仕事とは


特定非営利活動法人日本成人病予防協会の認定資格で、健康管理や予防医学の知識と意識を普及する仕事です。



きっかけ


私は料理が好きで調理師の資格を持っていたのですが、結婚、出産、専業主婦を経て二十六歳の時に七尾ヤクルト販売に入社しました。すると社長から、ヤクルトは健康を推進する会社なので、健康管理士の資格を取得するよう勧められたことがキッカケです。



道のり


ヤクルトレディーと一緒に企業を訪問し健康推進の啓蒙をしていました。当時は健康管理を啓蒙するといっても、どちらかといえば商品説明と関連した内容になりがちで、私自身が深く健康管理について思い入れがあったわけではありませんでした。その頃まだ料理の思いが捨てきれず十年勤めたヤクルトを退職し北陸銀行で昼食の献立の仕事に就きました。少しでも美味しいものをと地元の食材を選び、料理に工夫をこらし色々なレシピを考案し毎日が充実してきた矢先、交通事故に遭いました。追突され頚椎損傷で一年間動けず、その後に手術、療養で二年間過ごします。突然の事故で一瞬にして夢も希望も失ってしまいました。怪我の痛みや痺れは今でも完治せず、精神的に落ち込み悩んでいました。そんな時主人の伯母が健康セミナーに誘ってくれ、そこで改めて日々の健康管理の大切さを知ります。痛みや精神の不安で薬依存症になっていましたが、お薬も必要以上に飲む必要はありませんし、一度薬に頼ってしまうと、断つことがとても辛いのです。やめること自体が不安になり、それで夜も眠れなくなるという具合です。そんな状況を抜け出せたのも健康管理士による講演を聞き、私自身が健康管理の大切さを身を持って体験でき、そして健康管理士として働きの場があったことです。



意外な話


高齢化が進む中で介護保険料や医療費が増えています。保険料基準額で石川県は全国六位で、その石川県の中で七尾市は五位なんです。長生きしても病気で薬漬けになっていてはせっかくの人生がもったいないです。毎日しっかりと健康管理を行い病気を防ぎ、健康で過ごすことが自分のためでもあり、社会のお役にも立つのですね。



これから


健康管理士は認定制度ができて二十二年経っていますが、専門の職業としている人は少数です。どちらかといえば、地域、学校、家庭、医療福祉施設内での健康管理指導をしたり、健康・食品関連の会社の社員教育や営業ツールとしての健康指導として活用されています。ヤクルト時代に取得した資格ですが、ブランクがありますので、もう一度学びを深めて健康セミナーで講演できるようになり、一人でも多くの方に健康な生活をしていただければと願っています。


私の仕事は『図書館司書』です

249図書館司書山本

図書館司書の仕事とは


図書館の本の選書、分類、登録、装備、配架、貸出、レファレンス(調べたい事の本の紹介)をし、本と人を繋ぐ仕事です。



きっかけ


高校時代バスケット選手で県大会二位になり、バスケットの名門の愛知県の大学にスカウトされて進学しました。 特に将来の職業について考えていたわけではありませんでしたが、授業で図書館司書の単位があり、たまたま資格を取得することになりました。



道のり


卒業後、中島町役場に就職し、体育館勤務をしていたのですが、平成七年に能登演劇堂に図書館が併設開館され、そこへの配属になりました。 「体育会系の私が図書館勤務?」と思いましたが、やらねばならないのなら、「よしやってやろう」と体育会系の精神でチャレンジしました。 まず県内外の図書館を見て周り、本の好きな人は進んで来館されますが、そうでない人や子ども達に本の素晴らしさを伝えることを目標に掲げました。 最初は木のおもちゃを置いたり、絵本原画展を企画しました。 これらは当時では先駆的だったと思っています。 また図書館便りを中島地区に毎月全戸配布し今も続けています。 現在「いろり火の会」と「トトロのお話会」と言う二つのグループの協力を頂いて毎月の読書会や夏と冬に創作劇や人形劇などの大きなイベントも行います。 また地元の民話や昔話を伝承するため再話編集したり、小学校へ出向き大型の紙芝居を用いてお話をします。 様々な活動で感じるのですが、本には地域のコミュニケーションを高める力があると思います。



大変だったこと


今となれば笑い話ですが、図書館のカウンターで普通に会話していたら、利用者から声が大きいと注意されました。 体育館では大声が当たり前で、図書館では小声の世界でした。 今ではおしとやかなものですよ(笑)



意外な話


ブックスタートという企画で、赤ちゃんの四ヶ月健診時に出向き、絵本を読み聞かせます。 赤ちゃんはじーっと見て、聞いています。 赤ん坊でもわかるんですね。 お母さんは絵本の読み方と絵本の力にとても感動されます。 小さい時から本に親しんだ子どもは読解力、理解力が高まり、学業も優秀な子が多いようです。



嬉しかったこと


保育園児を図書館へ招待したり、小学校に出向いて色々な本の紹介をします。 そんな関わりを持った子ども達が親となり、自分の子を連れて図書館を訪れ、読み聞かせする姿を見ると嬉しくなります。 また四月二十三日は「子供読書の日」に制定されており、 この度中島図書館が文部科学大臣より表彰状を授与されました。 これまでの活動を評価して頂き感謝しています。 今後は高齢化社会を迎え、新たな取組みをしていかなければと思っています。


住所: 石川県七尾市中島町中島上部9


電話: 0767-66-8000


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私の仕事は『和菓子職人』です

248和菓子職人

和菓子職人の仕事とは


お茶席などに使う練切りという上生菓子や、餅、団子、饅頭、ようかん、最中など引き出物やお土産、おやつとして食する朝生菓子などを製造する仕事です。



きっかけ


和菓子屋の息子として育ったんですが、学生時代はまだケーキの方が美味しいと思っていたくらいで、「自分が何になりたいんだ」と考えた時、和菓子か洋菓子か決められず、それで学生時代から和食、洋食、和菓子、洋菓子をとにかく食べ歩き、「自分はどっちだ」と考え続けていました。それまでは和菓子の良さが何なのか感じられなかったんですが、色々なお店を巡っているうちに、和食の繊細さと同じように和菓子も繊細で、しみじみとした美味しさがあることに気が付きました。



道のり


食べ歩く中、初めて「和菓子が美味しい!」と感じたお店があり、大学を卒業するとすぐに飛び込みでお願いに行きました。家族経営の小さなお店ですが、そこの親父さんが、和菓子職人の厳しさを話し、覚悟を求められ住み込みが条件で弟子入りしました。朝早くから夜遅くまで、洗い物から、あんこを炊いたり、生地を作ったりと和菓子職人の基礎を徹底して仕込まれました。ここでの修行を通して家業を継ぐ意思が固まりました。帰郷を前に江戸上菓子の世界で見聞を広めるため浅草の老舗にもお世話になり、ここでは製造と販売も経験させて頂きました。どれだけおいしいお菓子を作っても、知ってもらい、食べて頂くことが何より大切なことだと教えて頂き、昨年七尾に帰りました。



意外な話


砂糖が高級な時代は、甘いほど高級なお菓子で、また砂糖が多いほど日持ちも良くなります。同じ食材でも季節で柔らかさ、口溶け、見た目が変わり、お客様の好みも変わります。
夏は甘いよりあっさりが好まれますが、夏は腐りやすくなります。
そんな折り合いをどうつけていくか、ここにも職人技が求められます。



心がけていること


理想の和菓子にすることは本当に大変なことです。どうしたら美味しい和菓子がつくれるかいつも考えています。ひらめき、試作、失敗、落胆の繰り返しです。その繰り返しの中から、繊細で上品な和菓子が生まれるのだと思います。流行を追うのではなく、まず和菓子の真髄を極めたいと思います。そしてその先には和菓子を通じて社会に貢献できることが沢山あるのではないかと思っています。



これから


お店は私で四代目になり、今年創業百年を迎えます。本当に多くのお客様と、そして梅屋歴代の菓子職人の方々に支えて頂いた賜物だと思います。私自身は梅屋での修行が始まったばかりであり、先輩の下で教えを頂きながら、お客様のお役に立ち続けられるよう、和菓子職人として精進を重ねていく覚悟です。


住所:  七尾市作事町1


電話: 0767-53-0787


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私の仕事は『一級建築士』です

247一級建築士

建築士の仕事とは


私の場合は、家を建てるお客様の理想を建築基準法の制限内で実現させていくことです。



きっかけ


実家が建設業(アオイ建設)だったので、子どもの頃から家を建てる仕事を見て育ち、建築に興味を持っていたのですが、高校二年生の時アメリカへ一年間留学し、そこでランドスケープ(公共施設の外回りや公園、街路樹など)のデザインに興味を持ちました。それで大学進学時に建築かランドスケープか迷いましたが、横浜国大の建築学科に進みました。



道のり


アメリカは靴の文化で、庭も外にあるひとつの部屋だという感覚で活用します。日本では家と庭の間に縁側があり、庭は家から眺めるものです。その違いに興味を持ち、家を建てる時、外の空間デザインはどうあるべきかを学ぶため、卒業と同時にイギリスへ二年間ガーデンデザインの勉強に留学しました。イギリスでは自然のような庭でも、花の色や高さ、開花時期など緻密に計画し植栽されています。
イギリス滞在中に家と庭、そしてその先にあるものは、そこに暮らす人の生活そのものであると気付きます。そして自分が何をしたいのかと見つめた時、ベースは建築に置いて、暮らし方をも設計し、提案したいと考えるようになりました。



現在の取り組み


能登島を拠点に活動しています。海外生活の中で「暮らす」とはどういうことか考えた時、故郷 能登の豊かさに気付いたのです。恵まれた自然や食材、培われた生活様式、そして伝統の日本建築など、改めて見つめ直すと、まさに宝の山のようです。
建築を通じて能登の豊かな暮らしを伝え、残すことが建築士としての私の使命だと思っています。自宅を新築した時、釘を使わない木組みでの伝統工法で建てました。棟梁が三十年ぶりだと感慨深く木材を刻み、他の職人さんも粋に感じて伝統技法にて取組んで頂きました。畳は家の田んぼの稲藁を藁床に使い、手作業で縫って仕上げて頂きました。年輩の職人さんは知恵があり機転が利きます。こちらの思いを伝え、話合いをすると、教えられることがたくさんあります。便利さを追求するということは、全てが簡単になっていくことのように思えます。伝統や本物を繋ぎ残していくことは、あえて不便を意識することであり、その不便を暮らしの中で楽しむことではないかと思います。



これから


地元の素材や技術を、建築に活かすことで、将来に繋いでいけたらと思っています。「能登暮らし」のスタイルを自ら実践することで、田舎でこんなに楽しく豊かに暮らせるという事に共感してくれる人が増えたら良いと思っています。
お客様の「暮らし」を尊重し、土地の気候や風土にあった設計を行うことで、「暮らすこと」を楽しめるような家づくりを行い発信していきたいと思います。


私の仕事は『一級 水先案内人』です

246一級 水先案内人

水先案内人の仕事とは


外国船が出入港する際に、その船に乗りこんで、船長に代わって操船を指示する仕事です。 このことを専門用語で嚮導(きょうどう)と言います。



きっかけ


私は岡山県出身で、外国航路の船長でした。 アメリカ、南太平洋、東南アジアの国々へ、トヨタ クラウン五千台を積載し、輸送していました。 港では、可航水域や潮流などの港湾事情を知らないと安全な航行が出来ませんが、港に精通した水先案内人のおかげで安全に出入港できます。 ロサンゼルスのロングビーチの狭い航路を若いパイロットと嚮導したとき、その見事さに「凄い」と思い、私も各国の船長に頼りにされる水先案内人になりたいと思いました。



道のり


船長経験者ということで一級水先案内人の道を進みました。 座学三ヶ月、実習六ヶ月を終了して国家試験を受験できます。
試験では自分が働く港の海図を白紙に書き込みます。 私は七尾港の海図を百枚以上練習しました。 そうすることで海の底が見えてきます。 合格してから更に一年ほどの見習い期間があり、ようやく独り立ちできます。 この資格はその港だけに通用する資格になります。
船長経験がない場合は二級・三級の道もありますが、操船できる船舶の大きさが制限されます。



意外な話


水先案内人は平清盛の時代から存在しますが、現在の形態になったのは明治初期からです。 我々は通常パイロットと呼ばれます。 パイロットと言えば飛行機操縦士を連想しますが、実は水先案内人が先だったのです。



大切なこと


船に乗り移る瞬間です。 航行中の船舶に、パイロットボートで接近して、船体に掛けられた梯子に飛び移ります。 大きい船だと九メートルくらいを登ります。 七尾港の場合は岸から十八キロ、一時間ほど沖合いで乗船します。海が荒れていると、転落や、船体に挟まれて死亡事故に繋がることもありますので、ジムで筋力トレーニングと十分な睡眠を心がけ体調管理をしています。



喜び


船長は同じ船を操船しますが、パイロットは毎回船が異なります。 船の性能や癖・積載量など船長から確認し、天候や風向きを読み、速度・アンカーを打つタイミング・タグボートへの指示など、毎回緊張感があります。 無事接岸し、船長の 「Good Job Thank You !」 の一声で、水先案内人の仕事を果たしたという安堵感に包まれます。



これから


水先案内人は船長経験者しかなれなかった時代がありましたが、現在は海技系の高専や大学を卒業すれば道が拓かれています。 七尾港には三人のベテランパイロットが居ますが、将来を担う若き水先案内人が誕生することを願っています。


私の仕事は『税関の所長』です

245税関の所長

税関の仕事とは


外国から輸入される品物に公平に税金をかけることと、麻薬や拳銃、コピー商品などが国内に持ち込まれないようにする仕事です。 税関は財務省所管で全国に9箇所あり、七尾港は大阪税関の管轄区域です。



きっかけ


海が大好きで学生時代はヨット部に所属していました。 公務員を目指した時、少しでも海に関連する方面と考え、各省庁の内容を調べる中で、税関という仕事にシンパシーを感じ採用試験を受けました。



道のり


税関の仕事について3年目に本省(当時大蔵省)勤務を命じられ、まったく畑違いの金融関係での勤務になり銀行業務の検査監督の仕事をしました。 法令を覚え、詳細な数字を検証しつつ、激動していく政治や経済の動きに合わせて金融行政も刻々変化していき、そんな仕事に8年間携われたおかげで、様々な視点で事柄の本質を見極めていく重要性を知り、またその感性が養われたと思います。
その後、大阪での勤務となり、輸入品の申告価格をごまかす脱税業者の取り締りに当たりました。そして昨年7月七尾に着任したところです。



意外な話


不正薬物や拳銃などは、X線や麻薬探知犬などを使い水際で取締りますが、関税については申告に基づくため罪悪感が少ないのか過少申告して脱税する業者がいます。
一旦は物流に支障が出ないようにと通関させますが、事後に調査し国税査察と同じように徹底して追及します。
これは税の公平性を守るための重要な業務なのです。



七尾港では


七尾港には年間150隻~200隻が入港しています。 ロシアからは木材、オーストラリアから石炭、サウジアラビアなど中東から液化ガスが輸入されます。
ロシアの船員で英語が話せる人が少ないので、早くロシア語を習得しなくてはならないのですが正直大変です。 それと今年1月、志賀町に北朝鮮の漁船が漂流して来ました。 1名の漁師が乗っていたわけですが、日本国内に入ってくる物に対しては必ず水際で検査をします。 その時は発見と同時に早朝にかけつけ、船の中と所持品の検査を行いました。



これから


昨年、全国で不正薬物の押収量が600kgありました。 また石川県の貿易額は輸出1850億円、輸入1750億円でほぼ均衡しています。 これらの貿易統計を出すのも税関の仕事です。
複雑化する国際情勢の中で、貨物の通関、関税等の徴収、薬物等の取締りを通じて国益を守り、日本の発展に寄与していく覚悟です。
そしてご縁のあった七尾市のことをもっと知って七尾の良さを伝えたいと思っています。


住所:石川県七尾市矢田新町ニ173


電話:0767-52-0689


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私の仕事は『ハウスクリーニング』です

244ハウスクリーニング

ハウスクリーニングの仕事とは


新築や改装した建物を、施主に引渡す直前に綺麗に清掃したり、一般家庭のキッチンやお風呂を磨いたりする仕事です。



きっかけ


高校卒業時に就職を父に相談したところ、父の友人の会社で掃除関係の仕事があるがどうだと言われ、よくわからないけど「とりあえずやってみるか」と思い今の会社に入社しました。



道のり


初めての現場には社長と二人で行きました。 新築の家なのに、どこを掃除するのだろうと思いましたが、新築工事による汚れやほこりを取る仕事でした。窓ガラスを拭き、床から天井まで汚れを落とすのに丸一日がかりです。 手順も要領もわからない中、社長から基本を教えて頂きながらの作業です。全てが初めてなのでとても緊張しました。 社長は「基本は教えるが、後は応用を利かせて自分の型を持て」と言って育ててくれました。



意外な話


最近はお墓の掃除も頼まれます。綺麗にしたお墓を光触媒でコーティングしておくと、着いた汚れが光と反応して浮き出てきます。 それが雨で流れ落ちていきますので、一度施工しておけば自然の力で掃除されるのです。お墓を掃除するときは初めと終わりには手を合わせお参りさせて頂きます。



心がけていること


掃除はキリが無い繊細な仕事です。 自分がこれで良しと思っても、綺麗の価値は人によって違います。  年々要求されるレベルが上がっていますので、より丁寧にと気を使います。  しかし時間さえかければ良いわけではなく、やり方を工夫します。
他社との共同作業では、やり方を聞いたりまねたりして必ず試します。  私は目に見えない所、更にその隅に徹底してこだわります。 隠れた隅にこそ全体を綺麗に仕上げる秘訣があると思うのです。
10年前と掃除道具や洗浄剤は変わりませんが、自分の意識を高め、磨くことは出来ると思います。



仕事の喜び


分で出来る限りの最高の仕事をして「さぁ、どうです!」という気持ちで見て頂きます。
お客様が笑顔で「こんなに綺麗になったん、私らじゃ出来んね、さすがプロやね、ありがとう」と言葉をかけて頂いた時はとても嬉しいです。



これから


この業界は若い人が少ないですが、昨年から、社長の長男(22歳)も入社してきましたので、二人で会社や業界を盛り上げる力になっていこうと話をしています。 「とりあえずやってみるか」が実は私にとって「天職」だったんですね(笑)


住所:石川県七尾市石崎町テ19 - 10


電話:0767-62-1866


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