こみみかわら版バックナンバー

第95回 私の仕事は『製麺業』です。


仕事歴 60年  長田 恭子さん 83歳

そんな父

姉が泣いて頼んでくれたけどダメでした。父が高校進学を許さず家の手伝いをさせられたのです。私は御祓中学に怪物がいると他校でも評判になるほどのお転婆でした(笑)。陸上に卓球、バスケットにバレー、ソフトボールなんでも借り出されるほどスポーツ万能だったのです。姉二人と弟がいましたが父はそんな私に母の仕事を手伝わせようと思ったのでした。

私たち家族は戦時中に三重県から父の実家のある七尾へ疎開したのです。家を出て列車で米原まで来たとき、空襲時には避難していた家が焼夷弾に直撃されたそうです。本当に間一髪、命からがらの疎開だったのです。

父は長田真開という浄土真宗の僧侶で暁烏敏(あけがらすはや)先生と親交が深く全国各地を布教していました。布教先の三重県で母政子と結婚したのです。当時はうどんがご馳走で父の大好物だったようで、何かあると人を集めうどんを振舞うのですがその賄いはすべて母でした。また直感的な父は困っている人がいれば家にまで連れて来て住まわせました。母は文句ひとつ言わずに父の思いを酌んで献身的にお世話をしていましたが今考えると母はどんな思いでいたのだろうと不思議に感じます。父はどんな説教をしていたのかわかりませんが神様仏様のようにみんなが手を合わせて崇めていましたし、亡くなった時は全国から何人も分骨してほしいと来たのには驚きました。

めん類製造業

桧物町に居を構えた父は相変わらず全国各地へ布教に出歩きます。母は玄米を白米にする米かちと米や麦を粉にする粉挽きの仕事を始めます。一時期、柿の種の製造を始め私も手伝いましたが上手くいきませんでした。そうこうしながら、うどんが大好物の父が設備を整え昭和33年にめん類製造業の認可を取り本格的に製麺業を始めたのです。もちろん仕事をするのは母と私ですが(笑)。プロパンも灯油も無い時代です。鉄の丸釜に薪でお湯を沸かし、大きなタモをお腹で支えてうどんをすくっていました。原料の麦や蕎麦は近隣の農家から仕入れ自家製粉します。

仕入れのため車の運転をしなければならなくなったちょうどその時に七尾自動車学校が開校しその1期生として免許を取りました。三室、大野木、鵜浦を拠点に車で原料を仕入れに出向きましたが商品の麺と物々交換でした。



お嫁さんと二人で

こだわり

当時は学校、幼稚園、病院などたくさんのお客様からご注文を頂きましたが現在は3分の1以下に減っています。私自身も齢を取り体力も衰え昔ほどのことは出来ません。力仕事で辛いなと思いながらも仕事として続けていけるのは、長田のうどんが美味しい、長田のうどんでなければならないと言ってくれる人がいるからです。

そんなお客様の顔を思いながら現在はうどん、蕎麦、そしてラーメンを製麺しています。とくに原材料にはこだわり上等の粉を使用します。店頭販売とご注文に合わせて粉を準備し、その日の気温、湿度などを考え水加減、こねる時間、今だにこれで良しということはありません。今日のうどんの味はどうだったか必ず口にし、自分が一生懸命作ったものが美味いとホッとします。母と二人で始めた麺づくり、家を継いだからには私がやらねばといつしか覚悟が体に沁み込んだのだと思います。ボーッとおれない性分なので(笑)、出来る間は精一杯頑張りたいと思っています。

母と二人で始めた麺づくり、家を継いだからには私がやらねばといつしか覚悟が体に沁み込んだのだと思います。ボーッとおれない性分なので(笑)、出来る間は精一杯頑張りたいと思っています。



お店の前で


第94回 私の仕事は「演歌歌手」です。


歌うたいなんて不良のするもんや!

私はキングレコードに所属し14曲レコーディングしている演歌歌手です。イベント会場のステージで歌ったり、ラジオ出演やカラオケ教室を主宰しています。有名歌手の前座も400回を超えます。

真面目に勤めておれ!

「三橋さんが歌っとる、静かにして!」ラジオから三橋美智也の歌が流れると針仕事の手を止めて私たち兄弟姉妹に声をかける母。そんな環境で育った私は三橋美智也さんの歌が得意なレパートリーの一つです。

そんな母から「歌うたいなんて不良のするもんや、真面目に勤めておれ」と諭されました。私がバンドを組んで歌っているという噂を耳にしたのです。私が小5の時に父が亡くなり、女手一つで5人の子どもを育てた母は私の生活基盤を心配したのです。

歌手になる夢

中学を卒業して滋賀県の近江鉄道に就職しバスの車掌になりました。小さい頃から歌手になることが夢だった私は、早速同僚6人でザ・ブルージョーカーズというバンドを結成しドラムを叩きます。社内でも評判になり後に衆議院議長を務めた堤康次郎オーナーが東京からわざわざ観に来てくれ会社の研修所で20分間演奏をしました。演奏を終えると堤オーナーは私を呼んで横に座らせ、君は両手両足を動かしていてどうして歌まで歌えるのだ!と驚いていました。私は一生懸命練習しましたと答えました(笑)

しばらくして日本中にグループサウンズの大ブームが湧き起こります。ワイルドワンズのコンサートが彦根市民会館で開催された時、運よくその前座に出ることが出来ました。お陰で私たちのバンドは地域で爆発的人気となり連日ゴーゴー喫茶に出演するようになりました。会社から仕事とバンドとどっちが大事だと注意されますが、どこ吹く風で有頂天になっていた時代がしばらく続きました。そんな姿が風の便りとなって母に届いたのです。



細やかに指導

息子の一言

28歳の時に七尾へ戻りました。結婚して子供が1歳の時です。能登信用金庫理事長の運転手として採用して頂き真面目に勤めていました。

45歳の時に転機が訪れます。カラオケスナック「サラリーマン」の川端恵子さんとの出会いがあり、それがキッカケで能登歌幸会に入会しました。会長から「岬ゆたか」という名をつけてもらい、川端恵子さん作詞作曲の「恋の涌く浦」を頂き、トントン拍子にキングレコードからデビューすることになったのです。信金では副業が出来ないという規則がありましたが土日祭日に限りという事で歌手を続けることが許されました。3年間やりましたが平日はダメな岬ゆたかとレッテルが貼られ中途半端な活動になっていきます。

私は職場を辞め歌手として進んでもよいか家族会議を開きました。家内は「好きな事ならやったら」と前向きです。高1の娘は「そんなかっこ悪いこと恥ずかしいので止めて」と言います。中1の息子が「応援してくれる人おるんか?一人でもおるんやったらやれば。僕も応援するよ」と言ってくれ、その一言で心が決まりました。

あれから26年、何かあれば必ず応援してくれる人が現れ、助けて頂いて来ました。自分でも不思議でしょうがないのですが本当に恵まれていると感謝しています。後何年歌うことが出来るかわかりませんがステージでは必ず母の話しをします。歌好きだった母の思い出で涙する私ですが、そうやって歌うことが私に出来る母への一番の供養だと思っているのです。



カラオケ教室の皆さん


第93回 私の仕事は「フィットネスインストラクター」です。


説得力ある指導とは

私の仕事は「フィットネスインストラクター」です。
安田 茂(やすだ しげる)
仕事歴 12年

私はフリーインストラクターとして「健康でイキイキ生活するための体づくり」をテーマに、七尾市、中能登町、氷見市、南砺市のスポーツ施設で主にエアロビクス教室を中心に健康指導を行っています。

見失った個性

「オシャレなダンスを求めていないので、泥臭くていいからエアロビクスをしっかり指導してほしい」と言われハッとしました。レッスンを終え生徒に感想を聞いた時の事です。自分のレッスンはこれだ!と言い切る自信の無さが見抜かれたのだと思います。エアロビクスは1970年代にブームになり、時代と共に求められる内容も変化しています。

最近はダンスブームでその要素や体操競技の要素も取り入れる傾向にあります。そこにブレが生じていたのです。その時は自分自身も楽しさを感じれず、生徒さんも減っていきました。そんな時に私の原点、スポーツエアロビックに救われたのです。

エアロビックとの出会い

私は珠洲市出身です。高校生の時に進路を自衛隊に決め、体を鍛えようと珠洲ビーチホテルのスポークラブに通いました。その時にインストラクターの親切丁寧な指導、さわやかな接客、引締まったボディー、全てに魅力を感じ憧れたのです。自衛隊に入隊しますが20歳の時、夢が諦めきれず富山健康科学専門学校へ入学しインストラクターコースを専攻しました。オリエンテーションで先輩によるエアロビックのデモンストレーションがあり、その躍動する姿に一瞬に心を掴まれたのです(笑)。

早速エアロビックダンス部に入ります。部活の一環として競技大会に出場するので体力、筋力のアップ、ステップの基本など真剣に取組みました。部活で指導するインストラクターはフリーランスの方でフィットネスの大きなイベント会場で大勢の観客の前でリードインストラクターをやっていました。その指導力や人間性に憧れた私は将来フリーインストラクターとして仕事をしようと決め、6年間経験を積み29歳でフリーの道を歩み始めます。



競技大会にて


全日本総合エアロビック選手権出場

恥ずかしいのですが、健康な体づくりを指導しているのに関わらず肺炎で2週間入院したことがありました。フリーランスは実力主義で給料も歩合制です。インフルエンザが治りかけた時少し無理をして復帰したことが原因でした。説得力のある指導者として失格です。それ以来徹底した自己管理と自分自身がアスリートとして現役を貫く事を決意しました。

5年前にアマチュアの全日本エアロビックコンテスト男子シングル部門で優勝し、以来プロの全国大会出場を目指し挑戦しますが中部地区大会まででした。今年こそはと挑んだ6月24日の富山オープンで優勝し、念願の全日本総合エアロビック選手権大会に出場が決まりました。7m四方のエリアで曲に合わせて力強さ、粘り、ジャンプ、柔軟性を取り入れた動きをエアロビック動作として1分25秒で演技します。審査はフィギアスケートと同じく技術と表現が点数化されます。

私は公認エアロビック指導員としての誇りを持ちながらも、他分野のインストラクターのレッスンを月1回は体験しています。「これが私のレッスンだ」と言い切り、説得力ある指導をする上で必要だと思うからです。60歳までステージに立ち続け、スタジオだけでなくパーソナルトレーナーとしての知識も身につけてフィットネス業界で長く活動したいと思います。



これもレッスン?!


第92回 私の仕事は「モデル」です。

チャレンジ精神で拓く!



私の仕事は「モデル」です。
山崎 至(やまざき いたる)
仕事歴 2年


モデルの仕事とは


私の場合は、ゴルフ雑誌のモデルを中心に、ゴルフ番組、CMや映画、ドラマに出演しています。いしかわ観光特使にも任命されて石川県をPRしています。


ルックスより人間性


業界には抜群のルックス、めちゃめちゃ可愛くて綺麗なモデルが沢山います。でも売れているかといえばそうとも限らないのです。評価は一度使ってもらって、あの子良かったから今度も使おうと思ってもらわなければならないのです。


華やかな世界ですが、真面目さ、誠実さなど人としての魅力が大切だと思います。女性モデルはウォーキングレッスンなど行ないますが、男性は特別なレッスンはありません。こうあらねばならないというものは無いのです。今はオーデションを受けて採用されれば、その中で色々な人との関わりの中で役を演じていきます。そんな実践の繰り返しで経験を積み上げていく世界です。

移り気


御祓中学3年生の時、劇団ひまわりの金沢レッスン場へ通っていました。役者に興味があったのです。私は子どもの頃から移り気というかいろんな事に興味が湧くのです。小中時代はバレーボールに熱中し、鵬学園2年の時にプロゴルファーを目指そうと決意し、在学中にアメリカへゴルフの短期留学、卒業後はオーストラリアのゴルフ&スポーツ学校へ進学しました。


実は祖父がゴルフ練習場を営んでいたので小1で能登島のゴルフ場へ連れていかれコースに立ちました。19歳でハンデキャップ5になり、現在は東京でゴルフインストラクターもしています。それがモデルの世界へ入るキッカケになっていったのです。


マルチ型人間


ゴルフインストラクターも沢山いますので、その中で自分に付加価値を付ける必要性を感じるようになりました。私はそもそもマルチな性格なのか、一つの事に専念して打ち込むのではなくいろんな事がやれることに憧れていました。


そんな時インストラクターだけでなくゴルフのモデルになれないかと思いモデル事務所の門を叩くことにしました。調べるとルックス+特技を持っている人がコンセプトの事務所が見つかり、これだ!と思いました。それが今所属している事務所ですが、ヨガ、料理、税理士などいろんな特技を持ったモデルがいます。



イケメン総選挙


昨年、東京ボーイズコレクションの第5回イケメン総選挙で全国1万8千人応募の中、グランプリを獲得できました。これが転機となって活動の幅が広がっています。北國新聞で取り上げて頂いたところ、早速いしかわ観光特使のお話を頂き、それが縁となって和倉温泉のテレビコマーシャルに出演させて頂いています。


また5月からラジオななおで番組を持つ事になりました。毎週水曜日午後6時半から、私が今までの出会い中で影響を受けた人をゲストにお招きして対談する内容です。楽しい毎日ですが先の見えない不透明感もあります。現状に満足していませんし、もっと何かをつかみたいと思うのですが、具体的にどんな努力をすれば、どんな結果が出るのか道筋が見えない世界です。ゴルフなら練習をすれば成績が上がるので分かりやすいのですが(笑)。

今は視野を広め、いろんな考えを学ぶ時期だと思うので、全ての出会いを大切にして可能性を広げていけたらと思っています。



東京赤坂 アクエリアスモデルズ ☎03‐6876-7059


第91回 私の仕事は「野菜農家」です。


故郷と人に活かされて生きる


私の仕事は「野菜農家」です。

酒井 光博(さかい みつひろ)
仕事歴 9年


野菜農家の仕事とは


私の場合、自然豊かな故郷で育まれる農産物や海産物が高齢化と担い手不足により衰退していく中で将来的に少しでも産業として継続できるように生産と流通、販売の一貫を目指し、その取組の中で地域の人が集い、共助で暮らしていける環境がもたらせればと考えています。


自分探し


バイトと遊びに行くな!立場を考え覚悟を決めて仕事をしろ!お客が振り向いたら何をしたいか察知しろ。店長から徹底した指導を受けました。お陰で1年後に社員・バイト40名のトップに立ち、店と金庫の鍵まで預かるようになりました。大阪のパチンコ店です。

七尾工業高校を卒業し鉄工所に勤めますが身が入らず3ヶ月で退職。毎晩金沢へ遊びに行っていた「悪」だったのです(笑)。このままではいけないと19歳の時にリュックサック一つに10万円持って大阪へ出ました。しかし金髪で住所不定では何処も雇ってくれません。やっと三軒目のパチンコ店に雇ってもらいました。1日18時間働きましたが楽しかったです。寮もあり食費も支給され生活は十分にできましたが田舎へ帰りたいと思うようになりました。働くという事に心を入れ替える事ができたら、故郷の自然と相棒たちが恋しくなったのです。


スナック経営


21歳で田舎に戻りますが目標が定まらず24歳までは土建や建築、和倉でスナックのボーイをします。スナックのママが店を締める事になり私に店をと声がかかりました。3日間考え今までのお客様や自分自身の人間関係を活かせれば何とかやれるかもと思い決断しました。多くの人に助けて頂き店舗契約から10日間で改装オープンし、お店は順調に滑り出しました。当時、夜は店に立ち、昼はゴルフ三昧です。

24歳の若者が平日にゴルフ場へ出入りしているので何者かと思われたようですが、そこで知り合う先輩方に経営や人生を学びます。そうした中で目標が見え始めます。スナックが順調な間に、田舎だからこそ出来る仕事はと考え、何の根拠も無いまま、しかし何故か出来ると自信があったのが農業だったのです。この時、26歳でした。



新規就農者


全くの素人だったので農業を学ぶためにJAの白ネギ、中島菜、小菊かぼちゃの各部会の旅行に参加して人間関係を築くところから始めました。熊木川下流の干拓地で30aの農地を借りましたが、道具も持たず耕すことも畝も作れず、全て隣の畑の人に助けてもらいました。指導員や先輩農家へ出向き習うのですが当初は良い野菜が作れず規格外が多かったです。農業は難しく10年やっても10回の経験でしかありません。

10年目に入りますが、最近は土の力に注目しています。土の力で水を保ち、水を捌き、空気を保つ、そうすると肥料が長持ちし、植物が欲したときに土が餌を与えてくれる。そんな野菜には虫が付きにくい。土が持つ力が存在するのです。3年ほど前からやっと納得がいく野菜が作れるようになったかなぁという感じです。でもまだまだです。今8ha耕作していますが更なる生産性と付加価値の研究中です。

振り返れば野菜の育て方も販路の開拓もすべて助けて頂いてきました。私は出会いや関係を大切にします。市場から夕方4時に電話が入り明日朝5時までに出荷を頼まれれば寝ないでも作業をして届けます。この冬から牡蠣の養殖と浜焼きのお店も始めました。近所の養殖業者の高齢化で受け継いだのです。またしても素人からの出発ですが、大好きな故郷の自然を活かした仕事に携われて幸せです。



中島町塩津 農事組合法人 能登風土
☎66‐6059


第90回 私の仕事は「建築家」です。


新たな文化に遺産に挑戦!


私の仕事は「建築家」です。

岡田 翔太郎(おかだ しょうたろう)
仕事歴 4年


建築家の仕事とは


建築物はその地域を豊かにもダメにする力があります。

人や地域の未来をかたちづくるため、風土、文化、自然、あらゆるものと対話し、
その場所にしか成立し得ないものを建造する仕事だと思います。


メッセージ力


博多の街で遊んだ事はありませんでした。ラーメンを食べたくらいですよ(笑)

九州大学の芸術工学部環境設計学科で建築を学びましたが、
4年間殆ど学校の製図室に籠っていました。
丹下健三先生の弟子で鵜飼哲矢教授の研究室で指導を受けました。
授業では私が制作した模型を見て「あなたの考える建築が社会に対して
どんなメッセージがあるか伝わってこない。全然面白くない、やり直しなさい」
とこれだけです。こうしたら良いという指導は無いのです。
お陰で建築を通して社会の課題を見出す力や、
建築でどう解決するのか考える力が養われたと思います。

戦後広島平和記念公園を作るとき、市民にも原爆ドームを
忌み嫌い取り壊そうという意見もある中、
多くの建築家は原爆ドームに目を向けませんでした。
ただ一人目を向けたのが丹下健三先生だったのです。
原爆ドームに一本の軸線を決め、建物の位置、公園の広がり、
視点がドームに集まる設計でした。後世に何を残すべきか、
原爆ドームは壊してはいけないというメッセージであり、
その場所でしか成立し得ないものを作ることの大切さを今に物語っています。


日本一決定戦へ


大学では先輩の卒業制作を手伝う文化があり、
1年生の時何日も徹夜で取組む先輩を手伝い、
建築ってこんなに大変でここまでやるのかと驚きました。

毎年仙台市で開催される卒業設計日本一決定戦では、
全国から500作品が集まり10人が選ばれプレゼンします。
その中に先輩が選ばれた時、自分も先輩のように輝きたいと目標が定まったのです。

この地でしか成立しないもの、文化を守り、現代を生き、
後世に残すもの、そんな課題で故郷を見つめた時、
でか山という文化と七尾の活性化に建築家としてどう向き合うか。

構想を練る中で府中町のでか山に1年を通して参加させてもらい、
山町ではでか山が日常の存在であることを知りました。
七尾の街で、七尾の暮らしで、でか山が日常になり得る建築物、
それを私の卒業制作にしました。
先輩と同じように出品した日本一決定戦で、
でか山の構造と空間が街並みと合体する生活空間を表現した
作品が日本一に選ばれた時は本当に嬉しかったです!



故郷を世界に



白川郷の合掌造りのように七尾の日常に人々が訪れ
感動する建築物を建てることを生涯の目標にし、
卒業後すぐに七尾に戻り事務所を開設しました。

素材、文化、人を活かすコンセプトで古民家再生も手がけています。
私は施主様とは徹底して話し合います。
一生の買い物である家に悔いがあってはなりません。
模型を作り具体的にイメージし納得が行くまで向き合います。
そんなスタイルを評価して頂き、最近は県内外の一般住宅のほか、
和倉温泉多田屋のレストランや市内の店舗を手がけています。
私は施主様の思いをより有意義に具現化することが建築家の役目だと考えています。

2年前に若手建築家U‐35の大会で「これから日本で活躍する建築家6人」の
中に選んで頂き大変光栄に思っています。
夢は色々ありますが、その実現のためにも、驕らず、焦らず、
今を直視し目の前の課題を見据えて、努力を怠らず故郷の大地に
しっかり足をつけ歩んでいけたらと思っています。


矢田新町 岡田翔太郎建築デザイン事務所
☎57‐5954


第89回 私の仕事は「料理長」です。


能登を世界一の美食の街に

わたしの仕事は「料理長」です。
川嶋 亨(かわしま とおる)
仕事歴 14年


料理長の仕事とは


私の場合は、地産地消にこだわり旬の幸を使い、また地元生産者の声を聞かせて頂き、その方々の思いも込めた懐石料理を作ります。トップクラスの食の資源を活かして能登を発信する事で、将来は世界中から食通の方や料理人が集まるような街になるよう、微力ながら係わっていけたらと思っています。


妻の後押し


「悩んでいるなら自分の思うようにしてみたら」思いがけない言葉で背中を押してもらいました。このまま大阪人になるのか?本当に自分はそれでいいのか?悩んで妻に相談したのです。Uターンして2年経ちましたが自然、歴史、文化、食材の豊さ、全てが宝の山です。帰ってきて本当に良かったと思っています。それまで大阪と京都の二ツ星の割烹で働いていました。このクラスのお店は全国から美味しい食材が集められます。しかし能登の食材も負けていないのに集められないのです。2011年、能登の里山里海が世界農業遺産に認定された時、能登の食材がどう発信されるのか気になっていましたが何も伝わってきませんでした。それで故郷のために自分に何が出来るのかと考えるようになり、愛郷の思いが募っていったのです


修業時代


羽咋工業高校を卒業するとき美容師か調理師か迷い進路が決めきれず金城短大に進みます。短大卒業時に調理師の道へ進むことを決め、辻調理師専門学校のエコール辻大阪で日本料理を学びました。2年間のブランクを取り戻そうと努力した結果首席で卒業できました。一流割烹といえどもそこは板場の世界です。理不尽な事も多くそれは厳しいものでした。日本一の出汁といわれる有名店で煮方のポジションをもらった時は、朝6時から夜1時2時までぶっ通しで働きました。寝れない、休憩はない、しばかれる。辛かったですが、素直、謙虚、感謝の心を教える親方の愛情だったのです。父が加賀屋の料理長をしていたので就職するとどのお店でも必ず父の名が出ます。親の顔に泥を塗りたくないと思って頑張っていたのも事実です(笑)。転機が訪れたのは食の都・大阪グランプリへの出場です。この大会は概ね40代から70代のプロの料理人300人ほどが腕を競います。私は専門学校の先生の薦めで20代で出場したのですが3回目の出場で総合グランプリに選ばれました。お陰で大阪の重鎮の集まりに呼ばれて勉強させてもらえるようになり、またマスコミの取材で名前が知れお店でも私のお客が付くようになりました。妻が大阪出身でもありこのまま大阪でお店を構えようと思ったのですが、やはり大好きな故郷が忘れられなかったのです。



美味しそう~!


食を通じて


料理長となった今、天皇陛下へ献上した父の献立を見ると当時これだけの事をやっていたのかと感慨深いです。私も料理を通して多くの人が幸せになれるよう修行を怠らず技と心を磨き続けなければと思います。帰って来て強く感じるのですが本当に能登は食の宝庫です。しかし問題も沢山あり、解決するためにやるべきことも山積みです。高齢化で田畑が荒れ、害獣が出没し、景観が荒れ、果たして世界農業遺産を守れるのでしょうか。都会では実力主義で一人でも頑張れますが、能登はみんなで力を合わせて頑張る事が大切だと思います。生産者の方々と力を合わせ食文化を発信して、能登の魅力を高めていきたいと思います。



お待ちしております。


第88回 私の仕事は「魚屋」です。

笑顔でおせっかい



私の仕事は「魚屋」です。
川端 海富理(かわばた みどり)
仕事歴 12年


魚屋の仕事とは


私の場合はお店での調理・販売の傍ら、インターネットでご注文を頂き、「おさしみ直送便」という名前で、能登の新鮮な魚介をお刺身にして、鮮度を保ったままお届けしています。


母からの宅急便


母の愛情がいっぱい詰まっていました。都会で一人暮らしをしていた私に、母から届く宅急便。能登の素朴な食材で作ったお惣菜や新鮮なお刺身。私を気遣う親心を感じて本当に嬉しかったです。そんな母が介護を必要とする身になったことで、七尾へ帰り両親と暮す事にしたのです。帰郷して私に出来る仕事は何か?と考えた時に、ふたを開けた時のあの嬉しい気持ちを、今度は私が届ける側になり、七尾から能登のごちそうを全国にお届けしよう!と思いつきました。


IT音痴


ホームページを作成する!と意気込んでUターンしたものの、パソコンの電源の入れ方さえ「?」の私でしたので、まずは七尾の市民大学講座のパソコンセミナーに通い、2年がかりで基本操作を覚えました。その後ホームページ作成講座9回コースを真剣に受講し皆勤賞、それも同じ講座を二度通うも、私のスキルでは完成させられず(笑)、結局のところホームページ開設に4年もかかりました。


はじめての注文


念願かなってウェブ上にお店を構える事が出来たものの、1年目の注文は1つ。2年目は8つ。この状況をどうにかしたいと思い悩んでいた時に、市内の有志でネットショップの勉強会が行なわれている事を知り参加させてもらいました。この勉強会の連絡ツールはフェイスブックだったので私も始める事になります。おかげで東京の友人たちとSNSで再会することができ、私が能登で魚屋をしている事を知った友達が注文をしてくれました。それがきっかけとなり紹介や口コミでお客様の輪が広がりました。



愛情も入っています(笑)


オーダーメイド


これはパソコンが苦手で話好きな私にぴったりだと思いました。直接お話をすることで美味しいものを食べさせたい、おもてなしをしたい、というお客様の気持ちが伝わってきます。それでおせっかいでもと親身になって相談にのり、提案をさせて頂くうちに、お客様の裏方役、第二のキッチンとしての役割もあるのだと思えるようになりました。直接コミュニケーションすることでお客様との間に親近感と安心感が生まれ、今では毎日ご用命頂けるようになり本当に有難く思っています。また私は母が作っていたと同じように、化学調味料を使わず甘エビの頭と白井さんの昆布でお出汁を取り車麩煮など家庭の味を毎日お店に並べています。そしてそれらを全国の方々にもお刺身と共に郷土料理としてお届けしています。十人十色のご要望に答えるため、出来る数も限られ効率が良いとは言えませんが、美味しかった!ありがとう!と嬉しい言葉を沢山頂ける仕事になりました。これからも七尾の魚を通じて、多くの方々と感動を共有し、地元のお客様に、全国の皆様に愛されるお店になれればと思います。



創業55年の老舗


矢田新町 川端鮮魚
☎52-1916
2018年取材


第87回 私の仕事は「瓦職人」です。

日本瓦、その良さを伝えたい



私の仕事は「瓦職人」です。
三和 淳(みわ あつし)39歳
仕事歴20年 瓦葺一級技能士


瓦職人の仕事とは


屋根瓦の専門家として新築の瓦葺きや修理のほかに、屋根全般の困りごとを今までの経験を活かし、最良の方法での解決策をアドバイスさせて頂いています。


生かされて活きる


天井が見え、不思議な感覚を覚えました。能登総合病院の集中治療室で「俺、死んでしまうのか?」最初に発した言葉でした。そばにいた母親が「大丈夫やよ」と言ってくれ安心したことを覚えています。屋根から転落し首の骨折で病院へ運ばれ一週間の意識不明から目覚めた時のことです。瓦メーカーに勤めていましたが、能登地震の復興で応援に入った時のことでした。私は両親の勧めもあり富山医療福祉専門学校へ進学し理学療法士を目指しましたが、どうしても馴染めず2年で中退し中島の実家へ戻りました。近所の瓦職人が遊んどるなら手伝えと3年間お世話になりました。夏は暑く冬は冷たい屋根の仕事ですが、自分が手がけたものが形に残る面白さを感じ、この道に進みたいと思うようになりました。


修業時代


色々な瓦屋根を施行し勉強したいと新築着工数が多い富山県、その中でも一番大きい篠原瓦工業へ就職しました。若い職人が多く教育指導がしっかりしており、神社仏閣、公共施設、洋風、店舗など活躍の場を与えてもらい資格も取得できました。富山と石川では瓦の葺き方も微妙に違います。建物の構造が違うからですが、富山は工務店が先進的に提案していくものにお客が付くいわゆる提案型です。石川は施主が伝統様式にこだわり工務店がその思いに合わせます。両県の違いが分かる私に瓦メーカーから販売の仕事をやってほしいと誘われ転職します。販売と工事を担当しながら北陸三県、新潟、埼玉、仙台と工事店やハウスメーカーを回りました。その時に営業の難しさを感じました。瓦本来の良さは伝わらず、瓦は付属品で飾り物みたいに考えられ価格だけで判断されるのです。建築コストを下げるため瓦以外の製品が使われますが、それらは必ずメンテナンスが必要になります。瓦は割れない限り一生ものです。わずかな価格差しかないのに瓦の良さを伝えきれない自分が情けなかったです。



私が乗っても瓦は割れない(笑)


能登に戻る


志賀町を中心に能登は瓦の産地でしたが、かつてたくさんあった瓦工場は一軒も残っていません。北陸でも各県にひとつ瓦製造の工場があるだけです。工場は無くなっても屋根には瓦が必要です。長男なので地元に戻る時、この世界を続ける事に迷いは無く、メーカー時代のご縁もあり能登窯業に入社し今年ではや7年が経ちました。最近は半日現場、半日営業という形ですが毎日がとても楽しいです。現場が楽しいから、いろんな相談を受けるようになり、そこからの人付き合いがまた楽しいのです。設計図がある新築でも、この場所の風向きを考えると構造を変えた方が屋根にとっては良いと進言します。構造に合わせて瓦の収め方も違うのです。余計なことを言うなと叱られますが、後であんたの言う通りにしておいて良かったわと言ってもらえます。私は一度お付合いして頂いたお客様の名前と住所は全て頭にあります。瓦は一回手がければ何十年もさわりません。その姿がずーと見られていく世界です。しかし私は屋根の出来栄え以上に「あの人に頼んで良かった」と言って頂ける関係性までが見られているのだと思います。大切に人付き合いを積み重ねながら、日本の伝統、瓦の良さ伝える伝道師として(笑) 頑張りたいと思います。



大工・電気 みんな仲間

矢田町 能登窯業株式会社
☎52-4847
2017年取材


第86回 私の仕事は「イタリアンシェフ」です。

小さな幸せを



私の仕事は「イタリアンシェフ」です。
畑田 寛(はただ ひろし)48歳
仕事歴 20年


イタリアンシェフの仕事とは


私の場合は、能登の食材にこだわったイタリア料理を、地元の皆様に気軽に美味しく召し上がって頂き、暮らしの中でのちょっとした彩となって、心を豊にする薬味の役割が果たせればと思っています。


愛のムチ


「こんなまずいもの食えない…」その一言でお皿ごとフォークも料理も生ゴミのバケツに捨てられました。修業時代、私の賄い料理を親方に出した時のことです。私はバケツからお皿を取り出しながら悔しくて、情けなくて、泣きました。七尾高校から愛知大を卒業して名古屋でコンピューターのセールスをしていました。長男で親の面倒も見なければと会社を辞め、漠然と飲食関係でもとの思いで金沢の魚屋と浅田屋のイタリアンで皿洗いや雑用を掛け持ち、朝から晩まで月に400時間休みなしで1年間働きました。その時の親方が中途半端なことをせずイタリアンをやれと勧めてくれこの世界へ入りました。28歳でしたが職場の同年代はポジションをもらい活躍しています。そんな私を徹底的に鍛えてくれたのです。覚えが悪いとよく殴られました。お陰で10年かかるところを5年で一通り出来るようになりました。今では親方と酒を酌み交わす仲ですが、私にとっては絶対的な存在です。


起死回生


平成19年の3月能登半島地震、6月に父が急死、弱り行く母、今こそ能登に戻って頑張らなければと開業を決意し10月にオープンしました。1年目はご祝儀で多くのご来店を頂き順調でした。格式高く音楽もカンツォーネのオーソレミオを流しフォークとナイフをテーブルに並べお客様をお迎えしました。ある時、お客様から箸を求められたのですが、ここは箸で食べる店ではないとお断りしたのです。お客様は怒ってフォークとナイフを箸のように持って食べ始めました。和風パスタもオードブルも断りました。そんな生意気な私の姿勢が受け入れられるはずもなく2年目、3年目と売上が落ち込み、初めて勘違いしていた事に気付きあわてました。その頃石川県産業創出機構から地元食材を使っているお店ということで取材を受け、その際に現状を相談したところ活性化ファンドを活用して商品開発を提案されました。常連さんがハタダのパスタソースを家でも食べたいと言うのでビン詰めしていたものを商品化することにしました。全て能登にこだわり、ラベルのデザインまで能登出身ということで田中聡美さんにお願いしました。後にひゃくまんさんをデザインした人です。世の中に山ほどあるトマトソース、正直売れるわけ無いと思っていました。それが売れ出したのです。保存料が入っていないトマトソースがあると口コミで三越、高島屋はじめ全国に広がり月間千本ペースで、累計で2万本は売れました。



ハタダオリジナル パスタセット


能登のイタリア食堂


ソースの仕込みで忙しくなり、そのストレスでお酒の量が増え体調を崩します。売上が上がっても体を壊してはと、ソースを作っていた時間をダイエットに充て1年間で10キロ痩せました。ソースは県外への出荷は控え、なるべくお店に買いに来て頂ける分だけを作るようにしています。10年前、ふるさと能登のためにという志が、プライドと目先の利益のためいつしか曇ったように思います。もう一度初心に帰り、愛する能登で、能登の食材で、能登で暮らす人たちに、気取らないカジュアルなイタリア料理に親しんで頂くことが私の役目だと思います。七尾の小さなイタリア食堂で、小さな幸せを共有できればいいなぁと思います。



妻の支えに、感謝です♡

小島町 イル・ピアット・ハタダ
☎58-3636
2017年取材


第84回「人形劇役者」です。

娯楽が必要な社会



私の仕事は「人形劇役者」です。
吉田 貴志(よしだ たかし)45歳
仕事歴21年


人形劇役者とは


私の場合は、自分で作った人形と道具を持って北陸の保育園を回り、園児が大きな声で笑い、何かを感じて、子どもの頃の楽しい思い出の一つになるようにと、ひとり人形劇を演じています。


本堂に笑いの渦が


夏休みに小竹の瑤泉寺に中能登町の五つの保育園の年長さん116名が集まって私の人形劇を観て頂きました。園児たちの大きな笑い声や突っ込みに私もテンションが上がり手ごたえを感じたステージとなりました。瑤泉寺の佛教婦人会が企画をして近所の方や園児の親御さん、保育士さんなど老若男女が集まり皆で仏様にお参りをし、人形劇を楽しんで頂きました。私は普段通りに演じたのですが場の空気がいつもと違うと感じました。それは園児が情操教育としてではなく、地域の人と一緒に単純に娯楽として楽しんで観ることが出来たからだと思います。無邪気で屈託の無い大きな笑い声が本堂に響きます。劇が終り大人たちからこんな子どもの笑い声を聞いたのは久しぶりだ、昔を思い出した、懐かしいと口々に感想を頂きました。


唯一のプロ


金沢大学で子供と遊ぶサークルに入り人形劇に出会うのですが、一瞬にしてのめり込んでしまいました。プロの世界があることを知り、迷わず京都の人形劇団京芸に入団しました。そこでは主に2人~8人の班を作り各地で公演を行います。14年間在籍し人形の扱い、声の出し方、場の読み方、笑いのつぼ、舞台美術など人形劇の技術とコツを身につけ、6年前にひとりで「ヨシダ人形劇」を故郷石川で旗揚げしました。北陸では福井県の「人形劇団とんと」が先駆者として頑張っています。私も県内で唯一のプロとして石川県で人形劇をもっともっと広めたいと思っています。大きな劇団は役者と営業が別れて運営されますが、私は根っからの役者肌で営業は得意ではなく、ご縁のあった方々の口コミで少しずつ広がっている状況です。



みんなで一緒に


ひとり人形劇


舞台道具、人形、全て手作りのオリジナルです。人形と掛け合う短編の物語を組み合わせて構成します。園児は自分より小さくて愚かな人形を上から目線で見て、物語を先読みし、突っ込んだり、教えたり、時には人形をジーッと見つめて共感し、見ている者全員が一体となり仲間意識を共有していく様が感じられます。私の狙い通りに運ぶこともあれば、思っても見ないところで反応を示され、子供の感性に教えられる事もあります。年齢や知識や経験の差によって笑うところも違ってきますが、私は子供向けに作っているという意識は無く、誰が見ても、ただ楽しむものであり、ただの娯楽でありたいと思っています。路地に子供が遊んでいた時代、在所の中で子供の笑い声や、泣き声が聞こえることが当たり前でした。その当たり前が当たり前でなくなった現代、地域の中で大人と子供が一緒になって大きな声で笑える娯楽、子供の笑い声で大人が元気を貰える娯楽として、たった一人のヨシダ人形劇がお役に立てればと願いながらも、気負わずに、淡々と活動していきたいと思っています。



お世話して頂いた瑤泉寺仏教婦人会


中能登町高畠 ヨシダ劇場
☎050-3444-9396

2017年取材


第83回 私の仕事は「音楽療法専門士」です。

音で寄り添う



私の仕事は「音楽療法専門士」です。
勝木 恵子(かつき けいこ)35歳
仕事歴 10年


音楽療法専門士とは


私の場合は、地元の公民館や施設などに出向き、高齢者や、発達障害児と一緒に音楽を楽しみながら、コミュニケーション力を高めたり、生活の質の改善を促していく仕事をしています。


音楽療法


街にひとつピアノが置いてある部屋がある。そこには自由に出入りできて、そこでは何でも出来て、好きに集って楽しく過ごす。まず、そこへ出向くことが目的になる部屋。疎外感を減らす、そんな場所。発達障害の子が、日常の中で、遊びに行く場所として、映画や、キッズルームに行くのと同じ感覚で集まれる部屋。将来、そんな部屋が作れたらと思っています。音楽療法とは、一緒に歌ったり、楽器を叩いたり、体を動かしたりと、音楽と何かを同時に使うことで、脳の認知機能を活性化させます。そしてコミュニケーションの円滑化や、今まで出来なかった事が出来るようになるなど生活の質の向上を目指します。


きっかけ


小学生の時に七尾市児童合唱団に入り、御祓中では合唱部でした。小さい時から歌が好きで、鹿西高校3年から声楽の先生に師事し武蔵野音大に進みました。西部池袋線での通学途中、東京音楽療法専門学校の看板を目にし、音楽療法ってどんなことするのだろうと興味を持っていました。そんな時、大学の講義でアメリカの音楽療法のビデオを観たのです。障害児のビデオでした。言葉が出なく、流暢に喋れない子ども達が、打楽器を使って会話しています。音楽が共通言語になっていることに強く心を打たれ、「あっ!私のやるのはこれだ!」と思ったのです。それで大学を卒業し音楽療法専門学校へ進みました。音大では硬く決められた方程式の中で授業が進められますが、専門学校ではミュージカルをやっていた人、専業主婦、保育士など様々な分野の人が集まり、もっている要素が違うので面白かったです。そんな人とチームを組んで2年間毎週、高齢者と障害児の施設に実習に出かけました。



放課後等デイサービスあおばにて


故郷へ帰り


就職は故郷でと石川県福祉の合同セミナーに参加し、施設のブースで相談しましたが、音楽療法を知っている人は3割でした。石川県音楽療法の会で、七尾市出身でフリーランスの方に相談したところ、中島の寿老園と社会福祉法人みのり園を紹介していただき、七尾で活動を始めることが出来ました。音楽療法は正解がない世界です。公民館などスポットでの依頼には、楽しくひと時を過ごすことを目的にし、施設で継続的に行う時は、コミュニケーションの円滑化、出来ないことが出来るようになるなど、生活の質の向上を目指します。
対象に合わせたプログラムは準備するのですが、場の空気を読んでの即興力が求められます。療法の最後は言葉を使わず楽器だけで、即興でやり取りして収めなければなりません。到底無理だと思われる状況からでも意気が合って収まった時、子どもは気持ちの良い顔をし、お互いに爽快感があります。全員で終わったという一体感が、実生活の中で人に合わせるという事を学んでいくことに繋がります。音で寄り添っていくそんな方法があることを多くの人に知って頂き、広めて行きたいと思っています。



七尾市いきいき講座(介護予防)


万行町 かつきけいこ音楽教室
☎080-3748-5714

2017年取材


第82回 私の仕事は「潜水士」です。

真剣に遊ぶ



私の仕事は「潜水士」です。
鎌村 実(かまむら みのる)58歳
潜水士歴40年 


潜水士の仕事とは


私の場合は、レジャーダイビングの指導と能登島の里海ガイド、プロインストラクター養成、
海難事故の救難救助を行っています。


日本航空学園の縁 


大阪府出身で高校は山梨県の日本航空高等学校を卒業しました。ここは道徳教育など人間力育成にも積極的に取組んでいます。その第二高校として2003年に日本航空高等学校石川を設立する際に恩師梅澤重雄、現理事長に声を掛けられ赴任して来ました。正規の教職ではなく人間力担当です。その翌年、ここ能登島でダイビングスクールを開校しました。そんな関係で現在も航空石川の潜水部を受け持ち、また併設する日本航空大学校で来春から新設する海洋コースの立上げに関わっています。


趣味が高じて 


元々はネットワークの設計技士で日本のインターネットの構築に携わり横浜神戸間での通信テストを行いました。ダイビングは18歳から始め、26歳で潜水士の国家資格を取得しました。37歳の時、コンピューター会社を立上げ、その事業部としてダイビングショップも経営し各地の海を潜っていました。そんな時に航空石川を立ち上げるから手伝えと言われ能登に来てみると、その海の素晴らしさに魅了され本格的にダイビングに打ち込もうと決意し会社を譲渡してしまいました。当時の武元七尾市長と能登島の高瀬町長にダイビングを通しての街づくりをプレゼンしました。タイミングよく能登島町がそのような構想を持っており野崎に拠点を置かせて頂きました。しかし、地元では過去に他所から来たダイバーがサザエなど海産物を獲っていくので、潜り=盗みというレッテルが貼られていて強い警戒感がありました。地元漁協の小幡組合長が「同じ海で仕事をする者に悪人はいない」と言って頂き救われた思いがしました。今は能登島で潜水するには私どもを通さなければならない仕組みになっており、逆に不法ダイバーを防ぐ役割も担っています。



プロもアマも楽しめる



海藻の宝庫


能登の里海


ここには全国から年間約三千人訪れます。ダイビング始めて3年程は熱帯魚系の海を好みますが、それに飽きた人がより趣き深い世界を求めます。ここは海草の宝庫で西風が吹くと富山湾の湧昇流に乗って珍しい魚が浅瀬に集まり、海草で繁殖行動を行い他では見られない生態が見られます。私は海草+写真というコンテンツを提供してきたので、この世界で能登島は海草の聖地といわれるまでになり多くのフォト派ダイバーが訪れます。そのため働き手が欲しく全国に求人しますが、自分が楽しみたいという遊び感覚で来る人が多く長続きしません。潜るのは手段で、遊びを提供することが仕事です。お客様もそれぞれ要望が違います。それに答えられる幅広い対応力が必要でその知識と見識を育成しなければなりません。ダイバーのメッカと言われるパラオや石垣島でも慢性的な人材不足です。全国のインストラクター養成の専門学校からインターンシップを受け入れ研修しますが、共通して不足しているものがあります。それは人との関わり方など人間力が弱いのです。プロ育成の入り口がレジャーからでなく、プロとしての人間力をも合わせて育成する教育機関の必要性を感じたことが航空大学校海洋コースに繋がったのです。13年経った今、救難救助や船のトラブルなどで警察や地元漁業者から連絡が入りますが、こういう形で地域貢献できることも嬉しく思っています。


2017年8月取材
能登島野崎町 能登島ダイビングリゾート 
☎84‐0081


第81回 私の仕事は「蕎麦職人」です

たかが蕎麦、されど蕎麦



私の仕事は「蕎麦職人」です。
久木 信雄(くき のぶお)さん(68歳)
仕事歴 15年


蕎麦職人の仕事とは


蕎麦職人の仕事とは、私の場合は契約栽培の農家から仕入れた蕎麦の実の美味しさを壊さないように、心を込めて自家製粉し、手で練り、手で押して、手で切っていく、手作りにこだわった蕎麦を地元の食材と合わせてお出し致しております。


蕎麦好きが高じて


今年で15年目ですが、53歳の時に脱サラでこの世界に入りました。元々蕎麦が好きで食べ歩きしていたのです。大阪に転勤になった時は、京都、奈良、滋賀県まで美味しいと聞けば食べに行っていました。家内と京都保津川下りをして亀岡の蕎麦処拓朗亭で食べた蕎麦があまりに美味しくて感激したのです。それで旅の帰りに実家が空き家になっていることもあり田舎に帰って蕎麦屋を始めようと思うと家内に相談しました。家内も後押ししてくれ決心出来ました。鶴来の蕎麦屋に入りお店を手伝いながら、鳥越の唐変木(とうへんぼく)の蕎麦打ち道場に通い蕎麦打ちの基本を学びました。そこで修業した仲間が県内で9人お店を出しています。とうへんぼく仲間として毎月1回定例会を持ち情報交換をしています。小牧の実家は明治21年に建てられた古い家です。ちょうど古民家ブームもあり、素人感覚でオープンしたのですがお客が来ないのです。そんな時、北国新聞中島支局の記者が125年の古民家で蕎麦屋オープンと写真入で取り上げてくれたのです。それがキッカケでテレビ朝日の人生の楽園に放映され、地元民放テレビ局3社、月刊誌アクタスで紹介されると、県内外からお客様が来てくれる様になりました。メディアが「蕎麦処くき」のこだわりや私の生き方を報道として取り上げてくれたお陰です。また中島には演劇堂があり、そんな関係で仲代達矢さんはもとより芸能人の方もよく見えられます。また観劇にこられる方が始まる前にお立ち寄り頂いたり、金沢、富山からの日帰り能登ツアーでご来店頂いております。



天せいろセット



古民家の店内


蕎麦の三たて


蕎麦の三たてという言葉があります。挽きたて、打ちたて、茹でたてが蕎麦の香りと味を引き出す必須条件なんですね。それで私は自家製粉に拘りました。まず平日、土日祝日、予約などを勘案してその日使う量を決めます。朝6時前から蕎麦の実を割り、石臼で粉挽きをします。それをふるいに掛けますが、私はメッシュの違うふるいを使い一つの蕎麦の実から一番粉、二番粉、三番粉と三種類の粉を作ります。一番粉が白色で旨みや甘みが高い最上級の更科粉です。この粉だけで打った蕎麦が更科そばと呼ばれます。私の蕎麦はこの三種をブレンドして香りとモッチリ感を極めようとその配合を研究してきました。蕎麦打ち出きる粉に仕立てたら、その日の湿度やそば粉の様子を手で感じながら水を回し、練り込みます。11時までにその日の蕎麦を打ち切ってしまいお客様に三たてのお蕎麦をお出しします。二八そばは蕎麦粉8割につなぎの小麦2割を混ぜます。十割そばは蕎麦粉だけでつなぎが入っていないので切れやすく水加減が難しく倍神経を使います。私は最初から蕎麦だけに拘るのではなく、地元のおいしい食材もぜひ活かしたいと思い、カキ貝や山菜を使った一品やコース料理も揃えました。53歳から入った蕎麦の道ですが、今お客様から「美味しかった」の一言に喜びを感じています。これからも美味しい蕎麦を目指して精進を重ねたいと思います。




ファミリーで


2017年取材

中島町小牧 蕎麦処くき  ☎66‐6690


第80回私の仕事は「豆腐職人」です。

単純、ゆえに奥深き



私の仕事は「豆腐職人」です。
茶谷 浩之(ちゃたにひろゆき)さん(55歳)
仕事歴 33年


豆腐職人の仕事とは


基本的には大豆を水でふやかし、挽いて、煮て、搾って豆乳とおからに分け、にがりを打って、型箱に寄せ、切った豆腐をパッケージする作業です。私はその全ての工程に妥協することなく、お客様が一口食べた時「おっ」と思ってもらえる豆腐を作るため日々考え続けています。


職人魂


国産大豆でもピンキリあり、にがりも種類が沢山あります。季節によって大豆を水につける時間、煮る時間も調整します。それらの微妙な違いで豆乳の濃さが変り、豆腐の味が変ります。こだわるとキリがありませんし、やればやるほど壁にぶつかります。お客様も十人十色で、味なのか、食感なのか求めるものも様々です。旨い豆腐とは味、食感、色、匂い全てを追い求める必要があると思っています。お客様は自分の好みの細かな所には敏感に反応します。店に買いに来てくれる常連さんは忌憚の無い評価をしてくれます。今日これは良かったと思える豆腐が出来て、翌日同じようにやっても、同じものが出来ない。答えが無いと言うか1+1=2とはならないのです。さらにお客様の美味しいには数字がないのです。豆腐作りは手を抜けば単純な作業になります。それであれば私は辞めていたと思います。単純だからこそ出来栄えに奥深さを感じるのです。いつももっと旨いものがあるのではないかと思っています。材料を取り替えて味を変えることは簡単です。そうではなく同じ材料を使って極めていく。その日の気温や湿度などで、豆の挽き加減、ほんの微々たる水の量や、煮る温度や時間を調整し、そのデータを毎日記録します。出来た豆腐の味を確認し、もっと美味しくするために何をどうすれば良いか仮説を立て探求します。微細な加減から無限の味が生じます。その中から自分が納得できる味を見つけだす。ゴールは無いのかもしれませんが、それが職人ではないでしょうか。これは刃物職人が刃先に触れ五感を研ぎ澄まし切れ味を求めていく姿と相通じると思います。



毎回記録を


五代目


私で五代目です。強い思い入れはなく母がリウマチで出来なくなったので手伝いを始めたのがキッカケでした。豆腐は木綿、焼き、絹ごしと種類が増えて来ました。昔は木の型箱に木綿を敷いて蓋をして重石を載せ型箱の穴から豆腐の水分を出して木綿豆腐を作りました。それを串に刺して焼いたものが焼き豆腐です。最近はバーナーで焦げをつけます。ステンレスの型箱が出てきてからつるつるした絹ごし豆腐が出来るようになりました。七尾名物、夏場の茶碗豆腐は卵が高級品だった時代に、卵を模して中に黄色いからしを入れたという説もあります。豆腐は主役ではなく脇役です。肉や魚の添え物なんですね。それでもバリエーションを広げ食卓に出番を増やそうと豆腐職人が知恵を絞ってきたのだと思います。一口食べた時、「おっ」と思ってもらえる豆腐を目指していますが、料理屋で出された茶やの豆腐が美味しかったと言ってわざわざお店に買いにきて頂いた時などはとても嬉しく思います。家内と二人三脚で30年以上経ちましたが、自分達の求める味に賛同していただけるお客様がいることが何よりの励みになっています。二人で賄っている店なので数に限りがありますが、今はどんたくの新鮮館、ベイモール店、タント店でお求め頂けます。



手作りの逸品



妻、菜穂美と共に


2017年取材


松本町 茶や豆腐店☎52‐1499


第79回私の仕事は「せり人」です


相場を決める緊張

私の仕事は「せり人」です
中島 大(なかしま まさる)53歳
仕事歴 32年

せり人の仕事とは

私の場合、地元の漁師さんが毎日、毎日、早朝から海に出て網を揚げ獲った魚介を、
鮮魚店やスーパーを通じて皆さんの食卓に届け、漁師さんも、魚屋さんも、食べる皆さんも、
みんなが幸せになるための仲立ちが、せり人の仕事だと思っています。

真剣勝負

このやろー、ふざけんな 俺の方が先やろっと胸ぐらをつかまれたことも、
顔を叩かれたこともありました。今は懐かしい昔の話ですけどね(笑)。
 
最近はここまで殺気立つことはないですが、それでもここは荷主の漁師も、
買い付けて販売する鮮魚店も生活をかけた真剣勝負の場なのです。
 
鮮魚はいち早く消費者に届けなければなりません。
その日の天候、漁獲、需要、仲卸業者と小売業者の様々な思惑の中で駆け引きがなされ
価格が決まっていきます。
同じ価格を提示した場合は、早く提示した人に決まりますが、
若い頃それを見落とし怒鳴られたのです。少しでも高く売りたい漁師、少しでも安くしたい買い人、
そしてせり人は入荷した魚を売り切らなければなりません。
キロ売りするか、山売りするか。魚の種類や入荷状況、
買い人の動きや表情まで観察し状況を見極めます。
 
スタートの値を決め、気合で一声を飛ばします。
買い人の声が飛び交い、数字が指で示されます。提示された数字を瞬時に読み取り、
最終値を決め、買い受け人を決定します。
せり人として高値で売れた時は内心嬉しいですが、移動せりなので次々とせりをテンポよく進めなければ
ならず気が抜けません。
 
公正な取引、真剣勝負の場ではありますが、漁師も買い人も同じ顔ぶれです。
あらゆる状況を勘案し双方が納得するバランス感覚もせり人に必要なセンスだと思っています。

せり人への道

七尾商業高校を卒業し銀行員として3年間勤めましたが営業が向かず悩んでいました。
昭和60年11月この七尾公設市場が開設されたのを機に思い切って21歳の時、転職しました。
 
最初は先輩の横に立ち、せりの結果を帳面に付けながら魚の名前を覚え、
この魚はこんな人たちが欲しがるんだ、この魚はこんな値のつき方をするんだと、
せり人としての知識と感性を学びました。
 
鮮魚は各漁港から次々とトラックで市場に運ばれ小さなカゴに仕分けされます。
全体の漁獲状況はそれぞれの船上から電話で入ってきますので、その情報を確認しておきます。
買い人はカゴに入った鮮魚を真剣な眼差しで下見しています。
 
朝5時半、カゴの前に立ち、「売るよー 」と大きく発声すると買い人が集まってきます。
おはようございますと帽子を脱いで挨拶をし、せりがスタートします。
 
この瞬間は今でも毎日緊張します。

相場は魚の種類、サイズ、鮮度が同じでも、日によって行って来るほど違いますし、
私のせりも気持ちが乗ってテンポ良く進むこともあれば、
タイミングが合わずリズムに乗れない日もあります。
そんな日は親方や先輩から「なんや、あのせり方は 」と未だに怒られます(笑)。
昔は2人、3人のせり人が同時に進めていましたが、漁獲量も減ってきて最近は一人の時もあります。
能登で獲れる美味しい魚を地元の皆さんにお届けするため、
これからも七尾魚市場の一線に立ち続けていく覚悟です。





七尾魚市場株式会社☎53‐7710


第78回私の仕事は「パティシエ」です

腕がものを言う世界



私の仕事は「パティシエ」です
藤井幸治(ふじいこうじ)44歳
仕事歴 22年

パティシエの仕事とは

一口で言えばケーキ職人です。
ケーキを食べて人々が幸せな気分になって頂けるよう、
美味しさはもちろんですが、見ただけでも嬉しくなるようなケーキを作ります。

辻口博啓の店へ

やっぱり違う!
速さ、そして斬新さに驚きました。

パティシエ辻口博啓を初めて手伝ったときでした。
私も13年の経験があったのですが、もうさすがとしか言いようが無かったです。

9年前、
そんな辻口のお店ル・ミュゼドゥアッシュ和倉店に
香林坊大和のドンクから転職しシェフを任されました。

キッカケは香林坊大和の催事に
ル・ミュゼドゥアッシュが出店したときの事です。

同業者なのでとりあえずご挨拶をとお店へ向かうとすごい行列が出来ていました。
その忙しい中
すでに日本一のタイトルを持つ永田シェフにお会いすると、
礼儀正しく且つフランクに接して頂き、
その謙虚さに一目惚れしました(笑)。

この人とどうしても一緒に働きたいと衝動に駆られたのです。

鍛えられた根性

金沢デザイン学校を卒業、
印刷会社に就職しチラシ広告を作成しますが、
もっと直接的に人に喜んでもらう仕事がしたいと退社しました。

デザイン関係で人に喜ばれる仕事は何か書き出し、
最後は美容師かケーキ屋で迷いましたが、
最終的にケーキ屋と決めました。

しかし求人広告デューダにも
ケーキ屋の求人は無くとりあえず生活の為派遣社員になります。
高収入という事で鳶職の会社に半年契約しました。

敦賀火力発電所が現場で住込みです。
ここで思いもかけず根性を鍛えられる事になりました。
高所で常に危険と隣り合わせの仕事です。

とても怖い親方で何事もダメな事はダメと厳しく指導します。
あまりの厳しさに夜逃げする若い人もいました。

学生時代は何事も諦めが肝心と何かあれば
悪ふざけしながら適当に流していました。それがカッコイイと思っていたんですね(笑)。
そんな私の根性が叩きのめされました。

諦めずに頑張ると頑張った分だけ認められます。
認められる喜びを知り、もう半年お世話になる事にしました。
ここでの1年間で諦めない大切さを学びました。



アメ細工に魅せられて

和倉店のシェフパティシエとなり3年目に石川県洋菓子コンテストで優勝しました。腕がものを言う世界で一つの証が立てられ本当に嬉しかったです。作品の制作に使う時間は直接売上に貢献しない時間です。ふつう40歳を過ぎると出品せず後輩の指導に当たりますが、私は41歳の時、ラストチャンスだと上司である永田グランシェフに願い出て国際大会の予選を兼ねる内海杯にアメ細工で出品し優勝。昨年日本代表としてフランスでの国際大会で3位になりました。アメ細工は今のお店で習い始めたのですが、こういうキッカケを与えてもらいチャレンジさせてもらえる環境に、そして工芸品のようなアメ細工を作る感性を育む自然と文化が調和する能登の風土に感謝しています。お店でも中島菜、崎山のイチゴ、珠洲の揚げ浜塩、輪島の活地気米、能登ミルクなど地元食材を使い何種類ものケーキ屋や焼き菓子を作っています。今、辻口シェフが日本のスイーツ文化を世界に発信していますが、私は石川を日本有数のスイーツ県にしたいと思いを巡らせています。



ル・ミュゼドゥアッシュ和倉店 ☎62‐4000
2017年取材


第77回私の仕事は「生活支援員」です

人生、なんとかなるさぁ!



私の仕事は「生活支援員」です
山科ゆかり(やましなゆかり)さん52歳
仕事歴 1年半

生活支援員の仕事とは

私の場合は
怪我や病気で身体に障害を負った人が社会生活に復帰できるよう
作業療法士(OT)、理学療法士(PT)と共に
機能回復の支援を行っています。

リハビリの難しさ

立てば膝が折れ倒れ込む、このままでは車椅子の生活になるかもしれない。

そんな人が、3月12日の万葉マラソン5kmウォークにエントリーし驚きました。
特別な訓練をしたわけではありません。

補助道具としてシルバーカーを提案したのです。
それで頑張ろうと思ってくれたのですね。
体が不自由になると心も気弱になります。

本人の状態や家族の状況など様々ですが、
利用者の方に寄り添い、家族が出来ないような支援をします。

リハビリは障害があっても基本的には自分で動けるし喋れる人です。
してあげなければと思う気持ちと、
自立をしてもらうというバランスが難しいです。

提案しても出来ん、出来ん、無理!無理!と言う人もいれば、
余計な話しはしたくないと心を閉ざす人もいます。

言葉一つで関係性が悪くなったり、また回復したりします。

私は通所の8人を受持ちながら、全体で割振られたプログラムも担当します。
1時間単位の訓練が9時半か午後3時まで続き、
その後は送迎、4時からデスクワークです。

信頼関係を築くためコミニケーションはとても大切です。
時間に追われる毎日ですが、
受持つ8人とはお昼時間や送迎時を利用して出来るだけいろんな会話をします。

きっかけ

高校を卒業してから8番目の仕事です。
結婚、自営の廃業、不景気での解雇など、転職を繰り返しました。

8年前、
ハローワークでオムツの配送の求人があり、
家で2トン車の経験があったのでドライバーならと応募しました。
恵寿総合病院の関連施設、田鶴浜のワークセンターです。

ところが職業指導員をする事になり2年間、
更に袖ヶ江の障害者生活支援センターに移り4年間と福祉の仕事に携わりました。

実務5年で介護福祉士が受験できる制度が無くなる最後のチャンスだと勧められ
大原学園金沢校の国家試験対策講座へ毎週日曜日通い昨年試験に合格しました。

青山彩光苑では介護福祉士としてではなく、
生活支援員としてリハビリテーションセンターに配属され1年半が経ちました。



家族の介護

介護をと思った訳ではなく、
配送の運転手と思って応募したら自然とこうなっていったんです(笑)。
これは偶然ではなく必然なのでしょうか。

嫁いでから波乱万丈いろいろあり家族全員で働きました。
子育ては奥ばあちゃんが面倒みてくれ、
義理の父は私が仕事から帰るのを待ち一緒に晩酌を楽しみました。

そんな二人が相次いで倒れ、
病院や自宅での看病や介護ためパートに転職したのですが、
自分の時間が束縛される中で、
気持ちがあっても十分に寄り添ったケアが出来ているのか、
理想と現実の狭間で苦悩しました。

当時入院先で見様見真似で介助していると、
看護師さんから
「あら上手ですね、介護士さんですか」
と声を掛けられました(笑)。

今は二人とも施設にお世話になっていますが、
家族のそんな姿を見て来た息子は
国際医療福祉専門学校七尾校に進み
現在は救急救命士です。

私も好むと好まざるとに関わらず、
何かに導かれているのかもしれません。
何があっても全力を尽くす突破力が私の取り柄です。

公私共に、
まぁー、なんとかなるさぁ!
と頑張っているところです(笑)



青山彩光苑 リハビリテーションセンター ☎57‐3309
2017取材


第76回私の仕事は「映像クリエーター」です


不連続の連続を撮影


私の仕事は「映像クリエーター」です
粟津 賢栄(あわずさかえ)さん 40歳
仕事歴 14年


映像クリエーターの仕事とは


自然や風土、人の営みなど、その時代の証を、
映像として記録し、後世に伝え置く仕事です。


俺に出来るだろうか


先代の社長のアシスタントとして、和倉温泉の旅館で結婚式の撮影が始まる。

指示に従い三脚を立て、ケーブルを捌く。初めての撮影現場だ。
先代の後ろを追いかけるが、動きが読めない。走る、止まる、回る、あっという間に終わった。
  
「俺に出来るだろうか」未知の仕事であった。
 
翌日、事務所では先代がリニア編集のダイヤルを回す。映像をカットしたり、
繋いだりの作業だ。これはセンスがいる。
 
「俺に出来るだろうか」粟津賢栄、時に26歳。
右手でカメラを向けハンドルを握りながら、同時に小さなレバーでズームとアップを操作する。
 
左手でピントを合わせ、明るさを絞る。被写体の動きは一瞬、不連続の連続だ。
気が抜けない。神経を集中させる。今その技術と心構えを後進に伝えている。


運命の出会い


大学を卒業し東京の不動産会社で営業を始める。

人好きではあるが、朝から夜まで仕事に明け暮れる日々が3年間続き、
違う生き方をして見たいと田舎に返ることを決めた。
「あぁー、やっぱり故郷はいいなぁー!」しかし仕事のあてがない。

父の友人が田舎では珍しいビデオ撮影の仕事をしていた。後に義理の父となる粟津信一氏だ。
話を聞くと機場を廃業し新たにチャレンジした仕事だという。
「やってみたいなら一緒にどうだ」と言われ社長との二人三脚が始まる。
「俺に出来るのだろうか」との思いが、自分でカメラをさわり、編集を手がけるようになると、
どう見せるか、自分なりのこだわりが出てくるようになる。

「こんなことなんやぁ、おもしろいなぁー」と、のめり込んで行った。
そんな頃、時々事務所に出入りしては写真の編集をする一人の保育士が現れた。
先代の娘、現在の妻である。子どもが3人、
先代から会社を託され、故郷に帰り仕事と家庭を手に入れたのである。



能登で唯一


業25年が経ち、カメラも編集機器も進化した。
ドローンの操作も習得し空撮も行う。しかし現場での緊張感は変らない。
いや益々身が引締まる日々だ。今更ながらこの仕事の奥深さが身に沁みる。
 
対象が人であれ自然であれ、その一瞬は二度とない。
ビデオを見る人に、リアリティーとさらに感動を与えなければプロと言えないと自分を追い詰める。
 
普段は話好きで笑顔が耐えない賢栄だが、カメラを担ぐ眼差しは真剣だ。
テレビや映画も見ていてもストーリーよりも撮影テクニックやテロップの出し方を注視し、
飲食店に入ればメニューより先に店内の撮影アングルを考えてしまう。
 
走行中の道路でも、これを撮影するならアップから引きか、引きからアップかと自問する。
現場に到着するまでにストーリをイメージし撮影シナリオを完成させ臨む。
撮影、編集、原稿、ナレーション、ジャケットのデザイン、
全工程を通じお客様を最適化した映像を創り込む。結婚式、発表会、観光ビデオ、テレビCMの他、
最近は中能登町、志賀町、輪島市、宝達志水町のケーブルテレビの撮影で能登各地を飛び回り、
見える世界が実像なのか、映像なのか、時にこんがらがると笑う。
能登で唯一の映像クリエイターである。


田鶴浜町 ㈱エヌ・エー・ビデオプロダクション ☎68‐3195
2017年取材



空飛ぶカメラマン


第75回 私の仕事は「食育ヒーロー」です

健康は最大の幸福なり



私の仕事は「食育ヒーロー」です
スギヨ仮面さん 44歳
仕事歴 6年

スギヨ仮面の仕事とは

私は、良い子たちが、悪の一員イヤヨヤダーのスキキライビームを浴びて、魚や野菜が嫌いになった子ども達を助けるため、保育園、幼稚園、小学校を回り、食事の大切さを教えています。

子ども達が危ない

緊急指令が入る。七尾マリンパークで遊んでいた子ども達がイヤヨヤダーの
スキキライビームを浴びたのだ。すぐに現場に向うと少年が倒れている。
早く助けなければ。
しかしイヤヨヤダーが立ちはだかり邪魔をする。
よし瞬間移動でこの場から脱出だ。
なんとか逃れたが、少年は魚や野菜が嫌いになってしまっていた。
今、石川県全域にこんな被害にあう子ども達が急増している。
なんとかしなければ!

食 育

近年、生活様式の多様化に伴い、食事の取り方が昔と比べ随分と変ってしまっている。
飽食や孤食、栄養のバランスなど、子ども達に与えている影響は大きい。
子どもの躾の基本は食事を正しくすることから始まると言って過言ではない。
正しい食事をすることで、健康な肉体が出来、健康な肉体があって勉強も体育も頑張れる。
心身共に健全になってこそ大人になって活躍できるのだ。
だから子どもの時から食事についてしっかりと学び習慣化しておくことが大事なのだ。
そのような理由で今、
食育の必要性が叫ばれている。
そこで、明治時代から七尾でちくわを製造してきたスギヨが食品メーカーとしての使命として
6年前から食育の啓蒙活動を始めたのだ。
おかげで私の出番が増えたということだよ。

スギヨ仮面の旅

私は食べ物の好き嫌いを無くすため食育の旅を続けている。
石川県はもとより指令が入れば全国各地へ飛んでいく。

保育園や幼稚園、小学校では紙芝居、クイズ、DVDなどで楽しく遊びながら、

食べ物を大切にすること、一緒に食事をしている人に嫌な思いをさせないこと、
野菜を育てくれた人、魚を獲ってくれた人、食事を作ってくれた人がいることを忘れずに感謝すること、
好き嫌いをするとどんな影響がでるかということ、

お菓子ばかり食べていると体にも頭にも力が入らないことなどを教えている。
訪問した幼稚園で翌日、給食の食べ残しが無かったと先生から報告を受けた時は本当に嬉しかったぞ。

先日そんな活動を知った「茶神888」(さじん はちじゅうはちや)が来てくれた。
彼もまた食育活動をしている静岡県のヒーローなのだ。

私も石川県代表のヒーローとしてまだまだ頑張るので、食育に関心のある地元の関係者の皆さん!いつでも声をかけて下さい!!



宿敵イヤヨヤダー

日本では年間2000万トンもの食物が捨てられている。
食糧難で苦しんでいる国がある。

日本が豊かになり過ぎたお陰で自然発生したのがイヤヨヤダーだ。
世の中の子どもを好き嫌いのある子にするためここ七尾にも現れる。

私はイヤヨヤダーから子ども守るため必死に頑張っているのだが、
どういうわけか女子高生にはイヤヨヤダーが可愛いと人気があるのだ。
私が行くのは小学校までだが、
どれだけ可愛くても食べ物の好き嫌いはしちゃダメだぞ!女子高生諸君!