こみみかわら版バックナンバー

第89回 私の仕事は「料理長」です。


能登を世界一の美食の街に

わたしの仕事は「料理長」です。
川嶋 亨(かわしま とおる)
仕事歴 14年


料理長の仕事とは


私の場合は、地産地消にこだわり旬の幸を使い、また地元生産者の声を聞かせて頂き、その方々の思いも込めた懐石料理を作ります。トップクラスの食の資源を活かして能登を発信する事で、将来は世界中から食通の方や料理人が集まるような街になるよう、微力ながら係わっていけたらと思っています。


妻の後押し


「悩んでいるなら自分の思うようにしてみたら」思いがけない言葉で背中を押してもらいました。このまま大阪人になるのか?本当に自分はそれでいいのか?悩んで妻に相談したのです。Uターンして2年経ちましたが自然、歴史、文化、食材の豊さ、全てが宝の山です。帰ってきて本当に良かったと思っています。それまで大阪と京都の二ツ星の割烹で働いていました。このクラスのお店は全国から美味しい食材が集められます。しかし能登の食材も負けていないのに集められないのです。2011年、能登の里山里海が世界農業遺産に認定された時、能登の食材がどう発信されるのか気になっていましたが何も伝わってきませんでした。それで故郷のために自分に何が出来るのかと考えるようになり、愛郷の思いが募っていったのです


修業時代


羽咋工業高校を卒業するとき美容師か調理師か迷い進路が決めきれず金城短大に進みます。短大卒業時に調理師の道へ進むことを決め、辻調理師専門学校のエコール辻大阪で日本料理を学びました。2年間のブランクを取り戻そうと努力した結果首席で卒業できました。一流割烹といえどもそこは板場の世界です。理不尽な事も多くそれは厳しいものでした。日本一の出汁といわれる有名店で煮方のポジションをもらった時は、朝6時から夜1時2時までぶっ通しで働きました。寝れない、休憩はない、しばかれる。辛かったですが、素直、謙虚、感謝の心を教える親方の愛情だったのです。父が加賀屋の料理長をしていたので就職するとどのお店でも必ず父の名が出ます。親の顔に泥を塗りたくないと思って頑張っていたのも事実です(笑)。転機が訪れたのは食の都・大阪グランプリへの出場です。この大会は概ね40代から70代のプロの料理人300人ほどが腕を競います。私は専門学校の先生の薦めで20代で出場したのですが3回目の出場で総合グランプリに選ばれました。お陰で大阪の重鎮の集まりに呼ばれて勉強させてもらえるようになり、またマスコミの取材で名前が知れお店でも私のお客が付くようになりました。妻が大阪出身でもありこのまま大阪でお店を構えようと思ったのですが、やはり大好きな故郷が忘れられなかったのです。



美味しそう~!


食を通じて


料理長となった今、天皇陛下へ献上した父の献立を見ると当時これだけの事をやっていたのかと感慨深いです。私も料理を通して多くの人が幸せになれるよう修行を怠らず技と心を磨き続けなければと思います。帰って来て強く感じるのですが本当に能登は食の宝庫です。しかし問題も沢山あり、解決するためにやるべきことも山積みです。高齢化で田畑が荒れ、害獣が出没し、景観が荒れ、果たして世界農業遺産を守れるのでしょうか。都会では実力主義で一人でも頑張れますが、能登はみんなで力を合わせて頑張る事が大切だと思います。生産者の方々と力を合わせ食文化を発信して、能登の魅力を高めていきたいと思います。



お待ちしております。


第88回 私の仕事は「魚屋」です。

笑顔でおせっかい



私の仕事は「魚屋」です。
川端 海富理(かわばた みどり)
仕事歴 12年


魚屋の仕事とは


私の場合はお店での調理・販売の傍ら、インターネットでご注文を頂き、「おさしみ直送便」という名前で、能登の新鮮な魚介をお刺身にして、鮮度を保ったままお届けしています。


母からの宅急便


母の愛情がいっぱい詰まっていました。都会で一人暮らしをしていた私に、母から届く宅急便。能登の素朴な食材で作ったお惣菜や新鮮なお刺身。私を気遣う親心を感じて本当に嬉しかったです。そんな母が介護を必要とする身になったことで、七尾へ帰り両親と暮す事にしたのです。帰郷して私に出来る仕事は何か?と考えた時に、ふたを開けた時のあの嬉しい気持ちを、今度は私が届ける側になり、七尾から能登のごちそうを全国にお届けしよう!と思いつきました。


IT音痴


ホームページを作成する!と意気込んでUターンしたものの、パソコンの電源の入れ方さえ「?」の私でしたので、まずは七尾の市民大学講座のパソコンセミナーに通い、2年がかりで基本操作を覚えました。その後ホームページ作成講座9回コースを真剣に受講し皆勤賞、それも同じ講座を二度通うも、私のスキルでは完成させられず(笑)、結局のところホームページ開設に4年もかかりました。


はじめての注文


念願かなってウェブ上にお店を構える事が出来たものの、1年目の注文は1つ。2年目は8つ。この状況をどうにかしたいと思い悩んでいた時に、市内の有志でネットショップの勉強会が行なわれている事を知り参加させてもらいました。この勉強会の連絡ツールはフェイスブックだったので私も始める事になります。おかげで東京の友人たちとSNSで再会することができ、私が能登で魚屋をしている事を知った友達が注文をしてくれました。それがきっかけとなり紹介や口コミでお客様の輪が広がりました。



愛情も入っています(笑)


オーダーメイド


これはパソコンが苦手で話好きな私にぴったりだと思いました。直接お話をすることで美味しいものを食べさせたい、おもてなしをしたい、というお客様の気持ちが伝わってきます。それでおせっかいでもと親身になって相談にのり、提案をさせて頂くうちに、お客様の裏方役、第二のキッチンとしての役割もあるのだと思えるようになりました。直接コミュニケーションすることでお客様との間に親近感と安心感が生まれ、今では毎日ご用命頂けるようになり本当に有難く思っています。また私は母が作っていたと同じように、化学調味料を使わず甘エビの頭と白井さんの昆布でお出汁を取り車麩煮など家庭の味を毎日お店に並べています。そしてそれらを全国の方々にもお刺身と共に郷土料理としてお届けしています。十人十色のご要望に答えるため、出来る数も限られ効率が良いとは言えませんが、美味しかった!ありがとう!と嬉しい言葉を沢山頂ける仕事になりました。これからも七尾の魚を通じて、多くの方々と感動を共有し、地元のお客様に、全国の皆様に愛されるお店になれればと思います。



創業55年の老舗


矢田新町 川端鮮魚
☎52-1916
2018年取材


第87回 私の仕事は「瓦職人」です。

日本瓦、その良さを伝えたい



私の仕事は「瓦職人」です。
三和 淳(みわ あつし)39歳
仕事歴20年 瓦葺一級技能士


瓦職人の仕事とは


屋根瓦の専門家として新築の瓦葺きや修理のほかに、屋根全般の困りごとを今までの経験を活かし、最良の方法での解決策をアドバイスさせて頂いています。


生かされて活きる


天井が見え、不思議な感覚を覚えました。能登総合病院の集中治療室で「俺、死んでしまうのか?」最初に発した言葉でした。そばにいた母親が「大丈夫やよ」と言ってくれ安心したことを覚えています。屋根から転落し首の骨折で病院へ運ばれ一週間の意識不明から目覚めた時のことです。瓦メーカーに勤めていましたが、能登地震の復興で応援に入った時のことでした。私は両親の勧めもあり富山医療福祉専門学校へ進学し理学療法士を目指しましたが、どうしても馴染めず2年で中退し中島の実家へ戻りました。近所の瓦職人が遊んどるなら手伝えと3年間お世話になりました。夏は暑く冬は冷たい屋根の仕事ですが、自分が手がけたものが形に残る面白さを感じ、この道に進みたいと思うようになりました。


修業時代


色々な瓦屋根を施行し勉強したいと新築着工数が多い富山県、その中でも一番大きい篠原瓦工業へ就職しました。若い職人が多く教育指導がしっかりしており、神社仏閣、公共施設、洋風、店舗など活躍の場を与えてもらい資格も取得できました。富山と石川では瓦の葺き方も微妙に違います。建物の構造が違うからですが、富山は工務店が先進的に提案していくものにお客が付くいわゆる提案型です。石川は施主が伝統様式にこだわり工務店がその思いに合わせます。両県の違いが分かる私に瓦メーカーから販売の仕事をやってほしいと誘われ転職します。販売と工事を担当しながら北陸三県、新潟、埼玉、仙台と工事店やハウスメーカーを回りました。その時に営業の難しさを感じました。瓦本来の良さは伝わらず、瓦は付属品で飾り物みたいに考えられ価格だけで判断されるのです。建築コストを下げるため瓦以外の製品が使われますが、それらは必ずメンテナンスが必要になります。瓦は割れない限り一生ものです。わずかな価格差しかないのに瓦の良さを伝えきれない自分が情けなかったです。



私が乗っても瓦は割れない(笑)


能登に戻る


志賀町を中心に能登は瓦の産地でしたが、かつてたくさんあった瓦工場は一軒も残っていません。北陸でも各県にひとつ瓦製造の工場があるだけです。工場は無くなっても屋根には瓦が必要です。長男なので地元に戻る時、この世界を続ける事に迷いは無く、メーカー時代のご縁もあり能登窯業に入社し今年ではや7年が経ちました。最近は半日現場、半日営業という形ですが毎日がとても楽しいです。現場が楽しいから、いろんな相談を受けるようになり、そこからの人付き合いがまた楽しいのです。設計図がある新築でも、この場所の風向きを考えると構造を変えた方が屋根にとっては良いと進言します。構造に合わせて瓦の収め方も違うのです。余計なことを言うなと叱られますが、後であんたの言う通りにしておいて良かったわと言ってもらえます。私は一度お付合いして頂いたお客様の名前と住所は全て頭にあります。瓦は一回手がければ何十年もさわりません。その姿がずーと見られていく世界です。しかし私は屋根の出来栄え以上に「あの人に頼んで良かった」と言って頂ける関係性までが見られているのだと思います。大切に人付き合いを積み重ねながら、日本の伝統、瓦の良さ伝える伝道師として(笑) 頑張りたいと思います。



大工・電気 みんな仲間

矢田町 能登窯業株式会社
☎52-4847
2017年取材


第86回 私の仕事は「イタリアンシェフ」です。

小さな幸せを



私の仕事は「イタリアンシェフ」です。
畑田 寛(はただ ひろし)48歳
仕事歴 20年


イタリアンシェフの仕事とは


私の場合は、能登の食材にこだわったイタリア料理を、地元の皆様に気軽に美味しく召し上がって頂き、暮らしの中でのちょっとした彩となって、心を豊にする薬味の役割が果たせればと思っています。


愛のムチ


「こんなまずいもの食えない…」その一言でお皿ごとフォークも料理も生ゴミのバケツに捨てられました。修業時代、私の賄い料理を親方に出した時のことです。私はバケツからお皿を取り出しながら悔しくて、情けなくて、泣きました。七尾高校から愛知大を卒業して名古屋でコンピューターのセールスをしていました。長男で親の面倒も見なければと会社を辞め、漠然と飲食関係でもとの思いで金沢の魚屋と浅田屋のイタリアンで皿洗いや雑用を掛け持ち、朝から晩まで月に400時間休みなしで1年間働きました。その時の親方が中途半端なことをせずイタリアンをやれと勧めてくれこの世界へ入りました。28歳でしたが職場の同年代はポジションをもらい活躍しています。そんな私を徹底的に鍛えてくれたのです。覚えが悪いとよく殴られました。お陰で10年かかるところを5年で一通り出来るようになりました。今では親方と酒を酌み交わす仲ですが、私にとっては絶対的な存在です。


起死回生


平成19年の3月能登半島地震、6月に父が急死、弱り行く母、今こそ能登に戻って頑張らなければと開業を決意し10月にオープンしました。1年目はご祝儀で多くのご来店を頂き順調でした。格式高く音楽もカンツォーネのオーソレミオを流しフォークとナイフをテーブルに並べお客様をお迎えしました。ある時、お客様から箸を求められたのですが、ここは箸で食べる店ではないとお断りしたのです。お客様は怒ってフォークとナイフを箸のように持って食べ始めました。和風パスタもオードブルも断りました。そんな生意気な私の姿勢が受け入れられるはずもなく2年目、3年目と売上が落ち込み、初めて勘違いしていた事に気付きあわてました。その頃石川県産業創出機構から地元食材を使っているお店ということで取材を受け、その際に現状を相談したところ活性化ファンドを活用して商品開発を提案されました。常連さんがハタダのパスタソースを家でも食べたいと言うのでビン詰めしていたものを商品化することにしました。全て能登にこだわり、ラベルのデザインまで能登出身ということで田中聡美さんにお願いしました。後にひゃくまんさんをデザインした人です。世の中に山ほどあるトマトソース、正直売れるわけ無いと思っていました。それが売れ出したのです。保存料が入っていないトマトソースがあると口コミで三越、高島屋はじめ全国に広がり月間千本ペースで、累計で2万本は売れました。



ハタダオリジナル パスタセット


能登のイタリア食堂


ソースの仕込みで忙しくなり、そのストレスでお酒の量が増え体調を崩します。売上が上がっても体を壊してはと、ソースを作っていた時間をダイエットに充て1年間で10キロ痩せました。ソースは県外への出荷は控え、なるべくお店に買いに来て頂ける分だけを作るようにしています。10年前、ふるさと能登のためにという志が、プライドと目先の利益のためいつしか曇ったように思います。もう一度初心に帰り、愛する能登で、能登の食材で、能登で暮らす人たちに、気取らないカジュアルなイタリア料理に親しんで頂くことが私の役目だと思います。七尾の小さなイタリア食堂で、小さな幸せを共有できればいいなぁと思います。



妻の支えに、感謝です♡

小島町 イル・ピアット・ハタダ
☎58-3636
2017年取材


第85回 私の仕事は「登記官」です。

神のみぞ知る境界



私の仕事は「登記官」です。
上島 政洋(うえしま まさひろ)48歳
仕事歴 27年


登記官の仕事とは


人に戸籍や住民票があるように、土地や建物にも所在地番や面積、その所有者などをコンピュータに記録し、一般公開する不動産登記制度があります。その事務処理するのが登記官です。法務省の法務局と言う役所で行います。


二種類の境界


境界には所有権界と公法上の境界と2種類あり注意が必要です。例えばお隣同士が何らかの都合で境界をやり取りし新たな境界を決めてブロックを積んだとします。お互いに納得しているのでそこでは所有権の争いはなくあたかも境界が成立しているように思えますが、それは当事者だけで所有権を認め合っている境界であり、法務局が管理する本来の公法上の境界としては認められないのです。法務局にある土地の位置関係を示した公図や保管された地積測量図と整合が取れない境界で登記することはできないのです。神のみぞ知ると言われる、目に見えない本当の境界はどこか?私はあらゆる資料を検証し、時には現地で調査し公法上の境界を見極めていますが、国民の財産に直接関わる事なので非常に神経を使います。


時代の流れ


七尾で生まれ育ち住んでいますが、国家公務員を目指した時、地域に密着し地元に貢献できると感じたのが不動産登記や戸籍、人権擁護などの法務局の仕事だったのです。私が勤め始めた頃は不動産登記は紙の簿冊で管理されていました。その帳簿に手で書き加えるときは字が下手なのでとても緊張しました。古い時代の登記簿は全部手書きで本当に達筆に書かれています。そんな登記簿を見て冷や汗をかいていましたが、今は登記簿もコンピュータに記録されるようになり救われた思いです(笑)。不動産登記には土地の所在地番、地目や地積、建物の種類や構造、床面積などその姿、形を表す表題登記とその不動産が誰のものかを示す権利登記があります。地目を変えたり、建物を増築したり、売買や相続が行われた時など登記情報に変更があった時は所有者から申請をして頂きますが、一般的には土地家屋調査士や司法書士が代理でその手続を行っています。



相談は 親切・丁寧に!


固い法律に便利な制度


今年5月からとても便利な制度がスタートしました。「法定相続情報証明制度」です。相続登記をする際には、だれが相続人か確認するため、相続権のある人全員の戸籍や住民票から相続関係説明図を作成し、さらに遺産分割協議書に実印を押して印鑑証明書の添付が必要です。このような書面が相続登記以外にも金融機関に預けた貯金を下ろす際などに何度も何度も必要になるので、その簡便化を図った制度です。法務局で証明書を出してもらうことで、何度も戸籍を取得しなくてもよくなったのです。それと近年相続登記をしない土地建物が増え、災害復興の妨げや、空家対策など社会問題となりつつあります。最初は数人の子供が相続人でも、相続登記をしないまま放っておき世代が代わるとそれぞれの子孫にまで相続権が及び、いざ登記しようと思った時には相続関係が複雑になっていたり、その土地を売却しようしてもできなかったりと、相続が遅くなればなるほど問題が生じているのも現実です。子どもたちが将来安心して暮らせる社会を作るためにも、相続登記はお早めに!と啓蒙しています。法定相続情報証明制度の詳細や相続登記の相談は予約して来ていただければと思います。



七尾西湊合同庁舎 3階に


金沢地方法務局七尾市局登記係
☎53-1720
2017年取材


第84回「人形劇役者」です。

娯楽が必要な社会



私の仕事は「人形劇役者」です。
吉田 貴志(よしだ たかし)45歳
仕事歴21年


人形劇役者とは


私の場合は、自分で作った人形と道具を持って北陸の保育園を回り、園児が大きな声で笑い、何かを感じて、子どもの頃の楽しい思い出の一つになるようにと、ひとり人形劇を演じています。


本堂に笑いの渦が


夏休みに小竹の瑤泉寺に中能登町の五つの保育園の年長さん116名が集まって私の人形劇を観て頂きました。園児たちの大きな笑い声や突っ込みに私もテンションが上がり手ごたえを感じたステージとなりました。瑤泉寺の佛教婦人会が企画をして近所の方や園児の親御さん、保育士さんなど老若男女が集まり皆で仏様にお参りをし、人形劇を楽しんで頂きました。私は普段通りに演じたのですが場の空気がいつもと違うと感じました。それは園児が情操教育としてではなく、地域の人と一緒に単純に娯楽として楽しんで観ることが出来たからだと思います。無邪気で屈託の無い大きな笑い声が本堂に響きます。劇が終り大人たちからこんな子どもの笑い声を聞いたのは久しぶりだ、昔を思い出した、懐かしいと口々に感想を頂きました。


唯一のプロ


金沢大学で子供と遊ぶサークルに入り人形劇に出会うのですが、一瞬にしてのめり込んでしまいました。プロの世界があることを知り、迷わず京都の人形劇団京芸に入団しました。そこでは主に2人~8人の班を作り各地で公演を行います。14年間在籍し人形の扱い、声の出し方、場の読み方、笑いのつぼ、舞台美術など人形劇の技術とコツを身につけ、6年前にひとりで「ヨシダ人形劇」を故郷石川で旗揚げしました。北陸では福井県の「人形劇団とんと」が先駆者として頑張っています。私も県内で唯一のプロとして石川県で人形劇をもっともっと広めたいと思っています。大きな劇団は役者と営業が別れて運営されますが、私は根っからの役者肌で営業は得意ではなく、ご縁のあった方々の口コミで少しずつ広がっている状況です。



みんなで一緒に


ひとり人形劇


舞台道具、人形、全て手作りのオリジナルです。人形と掛け合う短編の物語を組み合わせて構成します。園児は自分より小さくて愚かな人形を上から目線で見て、物語を先読みし、突っ込んだり、教えたり、時には人形をジーッと見つめて共感し、見ている者全員が一体となり仲間意識を共有していく様が感じられます。私の狙い通りに運ぶこともあれば、思っても見ないところで反応を示され、子供の感性に教えられる事もあります。年齢や知識や経験の差によって笑うところも違ってきますが、私は子供向けに作っているという意識は無く、誰が見ても、ただ楽しむものであり、ただの娯楽でありたいと思っています。路地に子供が遊んでいた時代、在所の中で子供の笑い声や、泣き声が聞こえることが当たり前でした。その当たり前が当たり前でなくなった現代、地域の中で大人と子供が一緒になって大きな声で笑える娯楽、子供の笑い声で大人が元気を貰える娯楽として、たった一人のヨシダ人形劇がお役に立てればと願いながらも、気負わずに、淡々と活動していきたいと思っています。



お世話して頂いた瑤泉寺仏教婦人会


中能登町高畠 ヨシダ劇場
☎050-3444-9396

2017年取材


第83回 私の仕事は「音楽療法専門士」です。

音で寄り添う



私の仕事は「音楽療法専門士」です。
勝木 恵子(かつき けいこ)35歳
仕事歴 10年


音楽療法専門士とは


私の場合は、地元の公民館や施設などに出向き、高齢者や、発達障害児と一緒に音楽を楽しみながら、コミュニケーション力を高めたり、生活の質の改善を促していく仕事をしています。


音楽療法


街にひとつピアノが置いてある部屋がある。そこには自由に出入りできて、そこでは何でも出来て、好きに集って楽しく過ごす。まず、そこへ出向くことが目的になる部屋。疎外感を減らす、そんな場所。発達障害の子が、日常の中で、遊びに行く場所として、映画や、キッズルームに行くのと同じ感覚で集まれる部屋。将来、そんな部屋が作れたらと思っています。音楽療法とは、一緒に歌ったり、楽器を叩いたり、体を動かしたりと、音楽と何かを同時に使うことで、脳の認知機能を活性化させます。そしてコミュニケーションの円滑化や、今まで出来なかった事が出来るようになるなど生活の質の向上を目指します。


きっかけ


小学生の時に七尾市児童合唱団に入り、御祓中では合唱部でした。小さい時から歌が好きで、鹿西高校3年から声楽の先生に師事し武蔵野音大に進みました。西部池袋線での通学途中、東京音楽療法専門学校の看板を目にし、音楽療法ってどんなことするのだろうと興味を持っていました。そんな時、大学の講義でアメリカの音楽療法のビデオを観たのです。障害児のビデオでした。言葉が出なく、流暢に喋れない子ども達が、打楽器を使って会話しています。音楽が共通言語になっていることに強く心を打たれ、「あっ!私のやるのはこれだ!」と思ったのです。それで大学を卒業し音楽療法専門学校へ進みました。音大では硬く決められた方程式の中で授業が進められますが、専門学校ではミュージカルをやっていた人、専業主婦、保育士など様々な分野の人が集まり、もっている要素が違うので面白かったです。そんな人とチームを組んで2年間毎週、高齢者と障害児の施設に実習に出かけました。



放課後等デイサービスあおばにて


故郷へ帰り


就職は故郷でと石川県福祉の合同セミナーに参加し、施設のブースで相談しましたが、音楽療法を知っている人は3割でした。石川県音楽療法の会で、七尾市出身でフリーランスの方に相談したところ、中島の寿老園と社会福祉法人みのり園を紹介していただき、七尾で活動を始めることが出来ました。音楽療法は正解がない世界です。公民館などスポットでの依頼には、楽しくひと時を過ごすことを目的にし、施設で継続的に行う時は、コミュニケーションの円滑化、出来ないことが出来るようになるなど、生活の質の向上を目指します。
対象に合わせたプログラムは準備するのですが、場の空気を読んでの即興力が求められます。療法の最後は言葉を使わず楽器だけで、即興でやり取りして収めなければなりません。到底無理だと思われる状況からでも意気が合って収まった時、子どもは気持ちの良い顔をし、お互いに爽快感があります。全員で終わったという一体感が、実生活の中で人に合わせるという事を学んでいくことに繋がります。音で寄り添っていくそんな方法があることを多くの人に知って頂き、広めて行きたいと思っています。



七尾市いきいき講座(介護予防)


万行町 かつきけいこ音楽教室
☎080-3748-5714

2017年取材


第82回 私の仕事は「潜水士」です。

真剣に遊ぶ



私の仕事は「潜水士」です。
鎌村 実(かまむら みのる)58歳
潜水士歴40年 


潜水士の仕事とは


私の場合は、レジャーダイビングの指導と能登島の里海ガイド、プロインストラクター養成、
海難事故の救難救助を行っています。


日本航空学園の縁 


大阪府出身で高校は山梨県の日本航空高等学校を卒業しました。ここは道徳教育など人間力育成にも積極的に取組んでいます。その第二高校として2003年に日本航空高等学校石川を設立する際に恩師梅澤重雄、現理事長に声を掛けられ赴任して来ました。正規の教職ではなく人間力担当です。その翌年、ここ能登島でダイビングスクールを開校しました。そんな関係で現在も航空石川の潜水部を受け持ち、また併設する日本航空大学校で来春から新設する海洋コースの立上げに関わっています。


趣味が高じて 


元々はネットワークの設計技士で日本のインターネットの構築に携わり横浜神戸間での通信テストを行いました。ダイビングは18歳から始め、26歳で潜水士の国家資格を取得しました。37歳の時、コンピューター会社を立上げ、その事業部としてダイビングショップも経営し各地の海を潜っていました。そんな時に航空石川を立ち上げるから手伝えと言われ能登に来てみると、その海の素晴らしさに魅了され本格的にダイビングに打ち込もうと決意し会社を譲渡してしまいました。当時の武元七尾市長と能登島の高瀬町長にダイビングを通しての街づくりをプレゼンしました。タイミングよく能登島町がそのような構想を持っており野崎に拠点を置かせて頂きました。しかし、地元では過去に他所から来たダイバーがサザエなど海産物を獲っていくので、潜り=盗みというレッテルが貼られていて強い警戒感がありました。地元漁協の小幡組合長が「同じ海で仕事をする者に悪人はいない」と言って頂き救われた思いがしました。今は能登島で潜水するには私どもを通さなければならない仕組みになっており、逆に不法ダイバーを防ぐ役割も担っています。



プロもアマも楽しめる



海藻の宝庫


能登の里海


ここには全国から年間約三千人訪れます。ダイビング始めて3年程は熱帯魚系の海を好みますが、それに飽きた人がより趣き深い世界を求めます。ここは海草の宝庫で西風が吹くと富山湾の湧昇流に乗って珍しい魚が浅瀬に集まり、海草で繁殖行動を行い他では見られない生態が見られます。私は海草+写真というコンテンツを提供してきたので、この世界で能登島は海草の聖地といわれるまでになり多くのフォト派ダイバーが訪れます。そのため働き手が欲しく全国に求人しますが、自分が楽しみたいという遊び感覚で来る人が多く長続きしません。潜るのは手段で、遊びを提供することが仕事です。お客様もそれぞれ要望が違います。それに答えられる幅広い対応力が必要でその知識と見識を育成しなければなりません。ダイバーのメッカと言われるパラオや石垣島でも慢性的な人材不足です。全国のインストラクター養成の専門学校からインターンシップを受け入れ研修しますが、共通して不足しているものがあります。それは人との関わり方など人間力が弱いのです。プロ育成の入り口がレジャーからでなく、プロとしての人間力をも合わせて育成する教育機関の必要性を感じたことが航空大学校海洋コースに繋がったのです。13年経った今、救難救助や船のトラブルなどで警察や地元漁業者から連絡が入りますが、こういう形で地域貢献できることも嬉しく思っています。


2017年8月取材
能登島野崎町 能登島ダイビングリゾート 
☎84‐0081


第81回 私の仕事は「蕎麦職人」です

たかが蕎麦、されど蕎麦



私の仕事は「蕎麦職人」です。
久木 信雄(くき のぶお)さん(68歳)
仕事歴 15年


蕎麦職人の仕事とは


蕎麦職人の仕事とは、私の場合は契約栽培の農家から仕入れた蕎麦の実の美味しさを壊さないように、心を込めて自家製粉し、手で練り、手で押して、手で切っていく、手作りにこだわった蕎麦を地元の食材と合わせてお出し致しております。


蕎麦好きが高じて


今年で15年目ですが、53歳の時に脱サラでこの世界に入りました。元々蕎麦が好きで食べ歩きしていたのです。大阪に転勤になった時は、京都、奈良、滋賀県まで美味しいと聞けば食べに行っていました。家内と京都保津川下りをして亀岡の蕎麦処拓朗亭で食べた蕎麦があまりに美味しくて感激したのです。それで旅の帰りに実家が空き家になっていることもあり田舎に帰って蕎麦屋を始めようと思うと家内に相談しました。家内も後押ししてくれ決心出来ました。鶴来の蕎麦屋に入りお店を手伝いながら、鳥越の唐変木(とうへんぼく)の蕎麦打ち道場に通い蕎麦打ちの基本を学びました。そこで修業した仲間が県内で9人お店を出しています。とうへんぼく仲間として毎月1回定例会を持ち情報交換をしています。小牧の実家は明治21年に建てられた古い家です。ちょうど古民家ブームもあり、素人感覚でオープンしたのですがお客が来ないのです。そんな時、北国新聞中島支局の記者が125年の古民家で蕎麦屋オープンと写真入で取り上げてくれたのです。それがキッカケでテレビ朝日の人生の楽園に放映され、地元民放テレビ局3社、月刊誌アクタスで紹介されると、県内外からお客様が来てくれる様になりました。メディアが「蕎麦処くき」のこだわりや私の生き方を報道として取り上げてくれたお陰です。また中島には演劇堂があり、そんな関係で仲代達矢さんはもとより芸能人の方もよく見えられます。また観劇にこられる方が始まる前にお立ち寄り頂いたり、金沢、富山からの日帰り能登ツアーでご来店頂いております。



天せいろセット



古民家の店内


蕎麦の三たて


蕎麦の三たてという言葉があります。挽きたて、打ちたて、茹でたてが蕎麦の香りと味を引き出す必須条件なんですね。それで私は自家製粉に拘りました。まず平日、土日祝日、予約などを勘案してその日使う量を決めます。朝6時前から蕎麦の実を割り、石臼で粉挽きをします。それをふるいに掛けますが、私はメッシュの違うふるいを使い一つの蕎麦の実から一番粉、二番粉、三番粉と三種類の粉を作ります。一番粉が白色で旨みや甘みが高い最上級の更科粉です。この粉だけで打った蕎麦が更科そばと呼ばれます。私の蕎麦はこの三種をブレンドして香りとモッチリ感を極めようとその配合を研究してきました。蕎麦打ち出きる粉に仕立てたら、その日の湿度やそば粉の様子を手で感じながら水を回し、練り込みます。11時までにその日の蕎麦を打ち切ってしまいお客様に三たてのお蕎麦をお出しします。二八そばは蕎麦粉8割につなぎの小麦2割を混ぜます。十割そばは蕎麦粉だけでつなぎが入っていないので切れやすく水加減が難しく倍神経を使います。私は最初から蕎麦だけに拘るのではなく、地元のおいしい食材もぜひ活かしたいと思い、カキ貝や山菜を使った一品やコース料理も揃えました。53歳から入った蕎麦の道ですが、今お客様から「美味しかった」の一言に喜びを感じています。これからも美味しい蕎麦を目指して精進を重ねたいと思います。




ファミリーで


2017年取材

中島町小牧 蕎麦処くき  ☎66‐6690


第80回私の仕事は「豆腐職人」です。

単純、ゆえに奥深き



私の仕事は「豆腐職人」です。
茶谷 浩之(ちゃたにひろゆき)さん(55歳)
仕事歴 33年


豆腐職人の仕事とは


基本的には大豆を水でふやかし、挽いて、煮て、搾って豆乳とおからに分け、にがりを打って、型箱に寄せ、切った豆腐をパッケージする作業です。私はその全ての工程に妥協することなく、お客様が一口食べた時「おっ」と思ってもらえる豆腐を作るため日々考え続けています。


職人魂


国産大豆でもピンキリあり、にがりも種類が沢山あります。季節によって大豆を水につける時間、煮る時間も調整します。それらの微妙な違いで豆乳の濃さが変り、豆腐の味が変ります。こだわるとキリがありませんし、やればやるほど壁にぶつかります。お客様も十人十色で、味なのか、食感なのか求めるものも様々です。旨い豆腐とは味、食感、色、匂い全てを追い求める必要があると思っています。お客様は自分の好みの細かな所には敏感に反応します。店に買いに来てくれる常連さんは忌憚の無い評価をしてくれます。今日これは良かったと思える豆腐が出来て、翌日同じようにやっても、同じものが出来ない。答えが無いと言うか1+1=2とはならないのです。さらにお客様の美味しいには数字がないのです。豆腐作りは手を抜けば単純な作業になります。それであれば私は辞めていたと思います。単純だからこそ出来栄えに奥深さを感じるのです。いつももっと旨いものがあるのではないかと思っています。材料を取り替えて味を変えることは簡単です。そうではなく同じ材料を使って極めていく。その日の気温や湿度などで、豆の挽き加減、ほんの微々たる水の量や、煮る温度や時間を調整し、そのデータを毎日記録します。出来た豆腐の味を確認し、もっと美味しくするために何をどうすれば良いか仮説を立て探求します。微細な加減から無限の味が生じます。その中から自分が納得できる味を見つけだす。ゴールは無いのかもしれませんが、それが職人ではないでしょうか。これは刃物職人が刃先に触れ五感を研ぎ澄まし切れ味を求めていく姿と相通じると思います。



毎回記録を


五代目


私で五代目です。強い思い入れはなく母がリウマチで出来なくなったので手伝いを始めたのがキッカケでした。豆腐は木綿、焼き、絹ごしと種類が増えて来ました。昔は木の型箱に木綿を敷いて蓋をして重石を載せ型箱の穴から豆腐の水分を出して木綿豆腐を作りました。それを串に刺して焼いたものが焼き豆腐です。最近はバーナーで焦げをつけます。ステンレスの型箱が出てきてからつるつるした絹ごし豆腐が出来るようになりました。七尾名物、夏場の茶碗豆腐は卵が高級品だった時代に、卵を模して中に黄色いからしを入れたという説もあります。豆腐は主役ではなく脇役です。肉や魚の添え物なんですね。それでもバリエーションを広げ食卓に出番を増やそうと豆腐職人が知恵を絞ってきたのだと思います。一口食べた時、「おっ」と思ってもらえる豆腐を目指していますが、料理屋で出された茶やの豆腐が美味しかったと言ってわざわざお店に買いにきて頂いた時などはとても嬉しく思います。家内と二人三脚で30年以上経ちましたが、自分達の求める味に賛同していただけるお客様がいることが何よりの励みになっています。二人で賄っている店なので数に限りがありますが、今はどんたくの新鮮館、ベイモール店、タント店でお求め頂けます。



手作りの逸品



妻、菜穂美と共に


2017年取材


松本町 茶や豆腐店☎52‐1499


第79回私の仕事は「せり人」です


相場を決める緊張

私の仕事は「せり人」です
中島 大(なかしま まさる)53歳
仕事歴 32年

せり人の仕事とは

私の場合、地元の漁師さんが毎日、毎日、早朝から海に出て網を揚げ獲った魚介を、
鮮魚店やスーパーを通じて皆さんの食卓に届け、漁師さんも、魚屋さんも、食べる皆さんも、
みんなが幸せになるための仲立ちが、せり人の仕事だと思っています。

真剣勝負

このやろー、ふざけんな 俺の方が先やろっと胸ぐらをつかまれたことも、
顔を叩かれたこともありました。今は懐かしい昔の話ですけどね(笑)。
 
最近はここまで殺気立つことはないですが、それでもここは荷主の漁師も、
買い付けて販売する鮮魚店も生活をかけた真剣勝負の場なのです。
 
鮮魚はいち早く消費者に届けなければなりません。
その日の天候、漁獲、需要、仲卸業者と小売業者の様々な思惑の中で駆け引きがなされ
価格が決まっていきます。
同じ価格を提示した場合は、早く提示した人に決まりますが、
若い頃それを見落とし怒鳴られたのです。少しでも高く売りたい漁師、少しでも安くしたい買い人、
そしてせり人は入荷した魚を売り切らなければなりません。
キロ売りするか、山売りするか。魚の種類や入荷状況、
買い人の動きや表情まで観察し状況を見極めます。
 
スタートの値を決め、気合で一声を飛ばします。
買い人の声が飛び交い、数字が指で示されます。提示された数字を瞬時に読み取り、
最終値を決め、買い受け人を決定します。
せり人として高値で売れた時は内心嬉しいですが、移動せりなので次々とせりをテンポよく進めなければ
ならず気が抜けません。
 
公正な取引、真剣勝負の場ではありますが、漁師も買い人も同じ顔ぶれです。
あらゆる状況を勘案し双方が納得するバランス感覚もせり人に必要なセンスだと思っています。

せり人への道

七尾商業高校を卒業し銀行員として3年間勤めましたが営業が向かず悩んでいました。
昭和60年11月この七尾公設市場が開設されたのを機に思い切って21歳の時、転職しました。
 
最初は先輩の横に立ち、せりの結果を帳面に付けながら魚の名前を覚え、
この魚はこんな人たちが欲しがるんだ、この魚はこんな値のつき方をするんだと、
せり人としての知識と感性を学びました。
 
鮮魚は各漁港から次々とトラックで市場に運ばれ小さなカゴに仕分けされます。
全体の漁獲状況はそれぞれの船上から電話で入ってきますので、その情報を確認しておきます。
買い人はカゴに入った鮮魚を真剣な眼差しで下見しています。
 
朝5時半、カゴの前に立ち、「売るよー 」と大きく発声すると買い人が集まってきます。
おはようございますと帽子を脱いで挨拶をし、せりがスタートします。
 
この瞬間は今でも毎日緊張します。

相場は魚の種類、サイズ、鮮度が同じでも、日によって行って来るほど違いますし、
私のせりも気持ちが乗ってテンポ良く進むこともあれば、
タイミングが合わずリズムに乗れない日もあります。
そんな日は親方や先輩から「なんや、あのせり方は 」と未だに怒られます(笑)。
昔は2人、3人のせり人が同時に進めていましたが、漁獲量も減ってきて最近は一人の時もあります。
能登で獲れる美味しい魚を地元の皆さんにお届けするため、
これからも七尾魚市場の一線に立ち続けていく覚悟です。





七尾魚市場株式会社☎53‐7710


第78回私の仕事は「パティシエ」です

腕がものを言う世界



私の仕事は「パティシエ」です
藤井幸治(ふじいこうじ)44歳
仕事歴 22年

パティシエの仕事とは

一口で言えばケーキ職人です。
ケーキを食べて人々が幸せな気分になって頂けるよう、
美味しさはもちろんですが、見ただけでも嬉しくなるようなケーキを作ります。

辻口博啓の店へ

やっぱり違う!
速さ、そして斬新さに驚きました。

パティシエ辻口博啓を初めて手伝ったときでした。
私も13年の経験があったのですが、もうさすがとしか言いようが無かったです。

9年前、
そんな辻口のお店ル・ミュゼドゥアッシュ和倉店に
香林坊大和のドンクから転職しシェフを任されました。

キッカケは香林坊大和の催事に
ル・ミュゼドゥアッシュが出店したときの事です。

同業者なのでとりあえずご挨拶をとお店へ向かうとすごい行列が出来ていました。
その忙しい中
すでに日本一のタイトルを持つ永田シェフにお会いすると、
礼儀正しく且つフランクに接して頂き、
その謙虚さに一目惚れしました(笑)。

この人とどうしても一緒に働きたいと衝動に駆られたのです。

鍛えられた根性

金沢デザイン学校を卒業、
印刷会社に就職しチラシ広告を作成しますが、
もっと直接的に人に喜んでもらう仕事がしたいと退社しました。

デザイン関係で人に喜ばれる仕事は何か書き出し、
最後は美容師かケーキ屋で迷いましたが、
最終的にケーキ屋と決めました。

しかし求人広告デューダにも
ケーキ屋の求人は無くとりあえず生活の為派遣社員になります。
高収入という事で鳶職の会社に半年契約しました。

敦賀火力発電所が現場で住込みです。
ここで思いもかけず根性を鍛えられる事になりました。
高所で常に危険と隣り合わせの仕事です。

とても怖い親方で何事もダメな事はダメと厳しく指導します。
あまりの厳しさに夜逃げする若い人もいました。

学生時代は何事も諦めが肝心と何かあれば
悪ふざけしながら適当に流していました。それがカッコイイと思っていたんですね(笑)。
そんな私の根性が叩きのめされました。

諦めずに頑張ると頑張った分だけ認められます。
認められる喜びを知り、もう半年お世話になる事にしました。
ここでの1年間で諦めない大切さを学びました。



アメ細工に魅せられて

和倉店のシェフパティシエとなり3年目に石川県洋菓子コンテストで優勝しました。腕がものを言う世界で一つの証が立てられ本当に嬉しかったです。作品の制作に使う時間は直接売上に貢献しない時間です。ふつう40歳を過ぎると出品せず後輩の指導に当たりますが、私は41歳の時、ラストチャンスだと上司である永田グランシェフに願い出て国際大会の予選を兼ねる内海杯にアメ細工で出品し優勝。昨年日本代表としてフランスでの国際大会で3位になりました。アメ細工は今のお店で習い始めたのですが、こういうキッカケを与えてもらいチャレンジさせてもらえる環境に、そして工芸品のようなアメ細工を作る感性を育む自然と文化が調和する能登の風土に感謝しています。お店でも中島菜、崎山のイチゴ、珠洲の揚げ浜塩、輪島の活地気米、能登ミルクなど地元食材を使い何種類ものケーキ屋や焼き菓子を作っています。今、辻口シェフが日本のスイーツ文化を世界に発信していますが、私は石川を日本有数のスイーツ県にしたいと思いを巡らせています。



ル・ミュゼドゥアッシュ和倉店 ☎62‐4000
2017年取材


第77回私の仕事は「生活支援員」です

人生、なんとかなるさぁ!



私の仕事は「生活支援員」です
山科ゆかり(やましなゆかり)さん52歳
仕事歴 1年半

生活支援員の仕事とは

私の場合は
怪我や病気で身体に障害を負った人が社会生活に復帰できるよう
作業療法士(OT)、理学療法士(PT)と共に
機能回復の支援を行っています。

リハビリの難しさ

立てば膝が折れ倒れ込む、このままでは車椅子の生活になるかもしれない。

そんな人が、3月12日の万葉マラソン5kmウォークにエントリーし驚きました。
特別な訓練をしたわけではありません。

補助道具としてシルバーカーを提案したのです。
それで頑張ろうと思ってくれたのですね。
体が不自由になると心も気弱になります。

本人の状態や家族の状況など様々ですが、
利用者の方に寄り添い、家族が出来ないような支援をします。

リハビリは障害があっても基本的には自分で動けるし喋れる人です。
してあげなければと思う気持ちと、
自立をしてもらうというバランスが難しいです。

提案しても出来ん、出来ん、無理!無理!と言う人もいれば、
余計な話しはしたくないと心を閉ざす人もいます。

言葉一つで関係性が悪くなったり、また回復したりします。

私は通所の8人を受持ちながら、全体で割振られたプログラムも担当します。
1時間単位の訓練が9時半か午後3時まで続き、
その後は送迎、4時からデスクワークです。

信頼関係を築くためコミニケーションはとても大切です。
時間に追われる毎日ですが、
受持つ8人とはお昼時間や送迎時を利用して出来るだけいろんな会話をします。

きっかけ

高校を卒業してから8番目の仕事です。
結婚、自営の廃業、不景気での解雇など、転職を繰り返しました。

8年前、
ハローワークでオムツの配送の求人があり、
家で2トン車の経験があったのでドライバーならと応募しました。
恵寿総合病院の関連施設、田鶴浜のワークセンターです。

ところが職業指導員をする事になり2年間、
更に袖ヶ江の障害者生活支援センターに移り4年間と福祉の仕事に携わりました。

実務5年で介護福祉士が受験できる制度が無くなる最後のチャンスだと勧められ
大原学園金沢校の国家試験対策講座へ毎週日曜日通い昨年試験に合格しました。

青山彩光苑では介護福祉士としてではなく、
生活支援員としてリハビリテーションセンターに配属され1年半が経ちました。



家族の介護

介護をと思った訳ではなく、
配送の運転手と思って応募したら自然とこうなっていったんです(笑)。
これは偶然ではなく必然なのでしょうか。

嫁いでから波乱万丈いろいろあり家族全員で働きました。
子育ては奥ばあちゃんが面倒みてくれ、
義理の父は私が仕事から帰るのを待ち一緒に晩酌を楽しみました。

そんな二人が相次いで倒れ、
病院や自宅での看病や介護ためパートに転職したのですが、
自分の時間が束縛される中で、
気持ちがあっても十分に寄り添ったケアが出来ているのか、
理想と現実の狭間で苦悩しました。

当時入院先で見様見真似で介助していると、
看護師さんから
「あら上手ですね、介護士さんですか」
と声を掛けられました(笑)。

今は二人とも施設にお世話になっていますが、
家族のそんな姿を見て来た息子は
国際医療福祉専門学校七尾校に進み
現在は救急救命士です。

私も好むと好まざるとに関わらず、
何かに導かれているのかもしれません。
何があっても全力を尽くす突破力が私の取り柄です。

公私共に、
まぁー、なんとかなるさぁ!
と頑張っているところです(笑)



青山彩光苑 リハビリテーションセンター ☎57‐3309
2017取材


第76回私の仕事は「映像クリエーター」です


不連続の連続を撮影


私の仕事は「映像クリエーター」です
粟津 賢栄(あわずさかえ)さん 40歳
仕事歴 14年


映像クリエーターの仕事とは


自然や風土、人の営みなど、その時代の証を、
映像として記録し、後世に伝え置く仕事です。


俺に出来るだろうか


先代の社長のアシスタントとして、和倉温泉の旅館で結婚式の撮影が始まる。

指示に従い三脚を立て、ケーブルを捌く。初めての撮影現場だ。
先代の後ろを追いかけるが、動きが読めない。走る、止まる、回る、あっという間に終わった。
  
「俺に出来るだろうか」未知の仕事であった。
 
翌日、事務所では先代がリニア編集のダイヤルを回す。映像をカットしたり、
繋いだりの作業だ。これはセンスがいる。
 
「俺に出来るだろうか」粟津賢栄、時に26歳。
右手でカメラを向けハンドルを握りながら、同時に小さなレバーでズームとアップを操作する。
 
左手でピントを合わせ、明るさを絞る。被写体の動きは一瞬、不連続の連続だ。
気が抜けない。神経を集中させる。今その技術と心構えを後進に伝えている。


運命の出会い


大学を卒業し東京の不動産会社で営業を始める。

人好きではあるが、朝から夜まで仕事に明け暮れる日々が3年間続き、
違う生き方をして見たいと田舎に返ることを決めた。
「あぁー、やっぱり故郷はいいなぁー!」しかし仕事のあてがない。

父の友人が田舎では珍しいビデオ撮影の仕事をしていた。後に義理の父となる粟津信一氏だ。
話を聞くと機場を廃業し新たにチャレンジした仕事だという。
「やってみたいなら一緒にどうだ」と言われ社長との二人三脚が始まる。
「俺に出来るのだろうか」との思いが、自分でカメラをさわり、編集を手がけるようになると、
どう見せるか、自分なりのこだわりが出てくるようになる。

「こんなことなんやぁ、おもしろいなぁー」と、のめり込んで行った。
そんな頃、時々事務所に出入りしては写真の編集をする一人の保育士が現れた。
先代の娘、現在の妻である。子どもが3人、
先代から会社を託され、故郷に帰り仕事と家庭を手に入れたのである。



能登で唯一


業25年が経ち、カメラも編集機器も進化した。
ドローンの操作も習得し空撮も行う。しかし現場での緊張感は変らない。
いや益々身が引締まる日々だ。今更ながらこの仕事の奥深さが身に沁みる。
 
対象が人であれ自然であれ、その一瞬は二度とない。
ビデオを見る人に、リアリティーとさらに感動を与えなければプロと言えないと自分を追い詰める。
 
普段は話好きで笑顔が耐えない賢栄だが、カメラを担ぐ眼差しは真剣だ。
テレビや映画も見ていてもストーリーよりも撮影テクニックやテロップの出し方を注視し、
飲食店に入ればメニューより先に店内の撮影アングルを考えてしまう。
 
走行中の道路でも、これを撮影するならアップから引きか、引きからアップかと自問する。
現場に到着するまでにストーリをイメージし撮影シナリオを完成させ臨む。
撮影、編集、原稿、ナレーション、ジャケットのデザイン、
全工程を通じお客様を最適化した映像を創り込む。結婚式、発表会、観光ビデオ、テレビCMの他、
最近は中能登町、志賀町、輪島市、宝達志水町のケーブルテレビの撮影で能登各地を飛び回り、
見える世界が実像なのか、映像なのか、時にこんがらがると笑う。
能登で唯一の映像クリエイターである。


田鶴浜町 ㈱エヌ・エー・ビデオプロダクション ☎68‐3195
2017年取材



空飛ぶカメラマン


第75回 私の仕事は「食育ヒーロー」です

健康は最大の幸福なり



私の仕事は「食育ヒーロー」です
スギヨ仮面さん 44歳
仕事歴 6年

スギヨ仮面の仕事とは

私は、良い子たちが、悪の一員イヤヨヤダーのスキキライビームを浴びて、魚や野菜が嫌いになった子ども達を助けるため、保育園、幼稚園、小学校を回り、食事の大切さを教えています。

子ども達が危ない

緊急指令が入る。七尾マリンパークで遊んでいた子ども達がイヤヨヤダーの
スキキライビームを浴びたのだ。すぐに現場に向うと少年が倒れている。
早く助けなければ。
しかしイヤヨヤダーが立ちはだかり邪魔をする。
よし瞬間移動でこの場から脱出だ。
なんとか逃れたが、少年は魚や野菜が嫌いになってしまっていた。
今、石川県全域にこんな被害にあう子ども達が急増している。
なんとかしなければ!

食 育

近年、生活様式の多様化に伴い、食事の取り方が昔と比べ随分と変ってしまっている。
飽食や孤食、栄養のバランスなど、子ども達に与えている影響は大きい。
子どもの躾の基本は食事を正しくすることから始まると言って過言ではない。
正しい食事をすることで、健康な肉体が出来、健康な肉体があって勉強も体育も頑張れる。
心身共に健全になってこそ大人になって活躍できるのだ。
だから子どもの時から食事についてしっかりと学び習慣化しておくことが大事なのだ。
そのような理由で今、
食育の必要性が叫ばれている。
そこで、明治時代から七尾でちくわを製造してきたスギヨが食品メーカーとしての使命として
6年前から食育の啓蒙活動を始めたのだ。
おかげで私の出番が増えたということだよ。

スギヨ仮面の旅

私は食べ物の好き嫌いを無くすため食育の旅を続けている。
石川県はもとより指令が入れば全国各地へ飛んでいく。

保育園や幼稚園、小学校では紙芝居、クイズ、DVDなどで楽しく遊びながら、

食べ物を大切にすること、一緒に食事をしている人に嫌な思いをさせないこと、
野菜を育てくれた人、魚を獲ってくれた人、食事を作ってくれた人がいることを忘れずに感謝すること、
好き嫌いをするとどんな影響がでるかということ、

お菓子ばかり食べていると体にも頭にも力が入らないことなどを教えている。
訪問した幼稚園で翌日、給食の食べ残しが無かったと先生から報告を受けた時は本当に嬉しかったぞ。

先日そんな活動を知った「茶神888」(さじん はちじゅうはちや)が来てくれた。
彼もまた食育活動をしている静岡県のヒーローなのだ。

私も石川県代表のヒーローとしてまだまだ頑張るので、食育に関心のある地元の関係者の皆さん!いつでも声をかけて下さい!!



宿敵イヤヨヤダー

日本では年間2000万トンもの食物が捨てられている。
食糧難で苦しんでいる国がある。

日本が豊かになり過ぎたお陰で自然発生したのがイヤヨヤダーだ。
世の中の子どもを好き嫌いのある子にするためここ七尾にも現れる。

私はイヤヨヤダーから子ども守るため必死に頑張っているのだが、
どういうわけか女子高生にはイヤヨヤダーが可愛いと人気があるのだ。
私が行くのは小学校までだが、
どれだけ可愛くても食べ物の好き嫌いはしちゃダメだぞ!女子高生諸君!



第74回 私の仕事は「ガラス作家」です

息を吹き込み魂を入れる



私の仕事は「ガラス作家」です
菊池 正博(きくちまさひろ)47歳
仕事歴 27年

ガラス作家の仕事とは

私の場合は、食器などの日用品の他、ガラス工芸品のデザインを描き、宙吹きという技法で息を吹き込み、完全手作りの作品を作ります。

東日本大震災

岩手県一関で工房を営んでいましたが、東日本大震災で取引先の廃業や復興の遅れなどで
経営危機に直面しました。

そんな時、能登島ガラス工房の創設者である由水常雄先生にお声をかけて頂き
能登島へ来ることになりました。

私は神奈川県出身です。
小さい頃から手先が器用で図工が得意でした。
進路を考えた時、得意なことを活かしたいと思い、当時日本で唯一のガラス専門学校、
東京ガラス工芸研究所へ進みました。
そこで2年間学び、北海道小樽の工房に弟子入りします。

親方は大変厳しく、よく怒られましたが、ガラスの光沢、繊細な輝きに強く引き込まれていきました。
小樽での3年間があったからこそ、今でもこの道を歩み続けているのだと思います。



ガラスの世界

コップからオブジェまで、ガラスは日用品にも、芸術品にも姿を変えます。
いったん竿に熱いガラスを巻き付けると、途中でやめることは出来ません。
思い描いたデザインを形にしていくため、息を吹き込み、大小様々な道具を使いながら
一心不乱に作業に集中していきます。

パーツを接続する作業は補助者の手を借りますが、
息が合わないと望んだものになりません。
理論を学び、経験を積んで、間合いと言うか、タイミングを見極める力を養います。

ガラス工芸はそんな勘所を共有するチームプレーでもあるのです。

色づけは金属を配合して酸化させます。銅はスカイブルーに、鉄は薄緑に、クロムは緑色になります。
色の濃淡は計算で出せるのですが、その酸化させたものを還元させる技法で
今度は計算できない不安定な色が出ます。
これを燿変と言い、自分の力の及ばない中、変化するガラスと作家の意志が融合して、
感じ入る色調や光沢が出たときには感動を覚えます。



能登島ガラス工房

32年前、廃校を利用して能登島ガラス工房が出来ましたが、
当時日本ではガラス工芸という概念がなく、ガラスは日用品であり
工場で大量生産をしていました。
日本で工場から工房という単位で製造が始まる先駆けとなったのがこの工房なのです。

隣に能登島ガラス美術館もあり自然環境にも恵まれているこの工房で、
作家として仕事が出来る事を大変有難く思っています。

ここではガラス職人養成の学校も併設して毎年全国から数名が入校してきます。
近年は大学にもガラス工芸の専攻科もあり、多くの若者がこの世界に入りますが
職業として残っていく人は1%くらいではないでしょうか。

ここではガラス体験も行い、直営ショップで販売もしていますが
アート、クラフト、日用品、区別することなくガラスの魅力を多くの人に知ってもらいたいと思います。

作家として思い描いたものが形になり、それがお客様に認められた時は嬉しく励みになります。
ガラスの世界も流行があり、新しい加工技術が開発されてきますので、
独りよがりにならず精進を続けなければと思います。



能登島向田町 (有) 能登島ガラス工房 ☎0767-84-1180


第73回 私の仕事は「自動車板金業」です


私の仕事は「自動車板金業」です
中島 能成(なかじまよしなり)さん 68歳
仕事歴 48年

自動車板金業の仕事とは

私の場合は自動車の板金塗装の他、アルミ板金加工・FRPボディ制作、そしてカスタムカー制作を手がけています。

オークションで三十億円

世界で唯一イタリアの博物館にあるディスコボランテの落札額が三十億円です。
アトランティックは世界で4台しかないイタリア車で、これも三十億円で落札されました。
日本に上陸したことのないこの2台が、レプリカのオリジナルカーとしてここにあります。
もちろん車検も受けてあるので道路を走るんですよ。

初志貫徹

子供の頃から工作が好きでしたが、実は壊すことの方が多かったです(笑)
物づくりに興味があっても中身が解らない。それで調べるために壊すんです。

中学、高校時代はいろんなものを壊して中身を見ていました。
元々車が好きだったので金沢の職業訓練校の板金科に進みました。

卒業後2年間勤め独立します。
鉄板やアルミを叩き溶接をして、仕事を軌道に乗せるのに一生懸命でした。2

8歳の時、雑誌で渡辺さんという人が制作したオリジナルカーを見て
ものすごく感動し心が揺さぶられました。
そもそも車を作りたいと思って進んだ道だったのですが、その心に火がついたんです。



ものづくり

しかしどうして作ればよいかわかりません。
しかしすでに人間がやっていることなので自分でも出来るはずだ!
と決意し独学を始めます。
材料は何か、どうするのか、本を見たり人に聞いたり、モーターショー行っては情報を仕入れます。

そして自分で作って見るんです。
自分の手が動かないと物は出来ないし、良し悪しは作らないと分からないのです。
だから失敗は一杯あります。それは楽しくも苦しいんです。
時間もかかるし、うまくいかないし、嫌になるんです。

しかし、それを乗り越えないとものづくりは出来ない。
言った以上はやり遂げなければならないし、自分自身で壁を破っていかなければ
次のステップへ上がれない。

そうして完成した時は、人には言えないくらい嬉しいんです。
我が子が出来たくらい嬉しいんですよ。
この嬉しさがあるから苦しさも楽しいんです(笑)

初めての作品がポルシェ356です。
この完成でオリジナルカーの基本技術が出来上がり、
この40年間で5台のオリジナルカーと消防車など子ども向けのレプリカは何台も制作しました。
今はマツダのロードスターをベースにコブラを制作中です。
東京や金沢からイベントへの出展依頼があると運転して出向きます。
そこで注目され仲間の和が広がるのも楽しみです。

オリジナルカーは道路を走らせるので陸運局と事前協議を繰返しながら造っていくのですが、
最近の車はハイブリッドや電気自動車などに変ってきているので、
このスタイルでの制作がどうなっていくのかわかりません。
どんな職業もただ単に楽しい仕事というものは無いと思います。

苦しみがあるからこそ楽しい。
環境が変化しても、職人魂を 持ち続けて楽しみ続けたいと思います。


中能登町能登部下 中島板金 ☎0767-72-3399
2016年取材




第72回私の仕事は「彫刻師」です

師の半学に足らず



私の仕事は、「彫刻師」です
米村 正勝(よねむらまさかつ)さん 74歳
仕事歴 55年 木彫伝統工芸士

彫刻師の仕事とは

私の場合は、七尾仏壇の彫刻を中心に神社仏閣での曳山、キリコ、獅子頭、
天狗、仏像、欄間などを手がけています。

父に師事

「弟子賢しと言えども師の半学に足らず」父がよく口にした言葉です。
父も彫刻師でした。私は父に師事し技能を習得しますが、

この言葉は私が一人前の仕事が出来るようになっても聞かされました。
当時は腕前が上がっても自惚れることなく精進せよとの戒めだと何気に聞いていました。

今にして思えばそれは技能の事だけではなく、職業として彫刻に携われることから始まり、
生業としての七尾仏壇という環境があり、ご贔屓のお客様がすでにいる。
これらのことは自分一人の力で成り立っているのではないのだから、全ての事に感謝を忘れず、
謙虚であれとの教えだったと思えました。




一意専心

私は子供の頃から彫刻に興味を持ち、父のノミを触っては怒られていました。
七尾高校時代に「米村蔵書」という角印を作りました。
これが私の最初の作品で、自分で考えた独自の字体です。

高校を卒業し母の強い勧めも有り国鉄に就職しましたが、夕方家へ帰えればノミを持って
夜遅くまで手伝いました。跡を継がせたい父の思いも感じ、

結局3ヶ月で国鉄を辞める事にしました。競争率70倍で就職した国鉄です。
助役は将来駅長になれるから辞めるなと引き止めてくれ、母も反対しましたが、
彫刻が好きだった私には迷いはありませんでした。

七尾仏壇

伝統工芸品となった七尾仏壇の起源は室町時代だと推察されています。
この時代は蓮如上人が能登に真宗を広めた時期であり、
護職として畠山氏が七尾に入り様々な文化や工芸が育っていく時代です。

七尾仏壇は木地、彫刻、漆塗り、蒔絵、金具、金箔押しの工程がありそれぞれに職人がいます。
中でも塗師職人が仏壇の製造を家業としてきた歴史があり、七尾の仏壇店は漆塗り専門で、
ここから各職人へ仕事が発注されます。仏壇彫刻では、荒彫り50丁、
上げ100丁のノミを使って雲、唐草、鶴、龍、天女、菊、波などを彫ります。
それぞれに基本の形がありますが、彫る技術以上に全体の構図を描く力が求められます。

その時、その時、一生懸命にやっているのですが、
10年経って見直すと気付くこともあります。



これから

昭和45年から平成15年くらいまでは彫刻の注文が殺到し、
いつもせかされて制作していました。今はそんな時代ではありませんが、
彫刻という技にも、作品の追求にも限界はありません。

七尾仏壇の伝統を守りながら、元気な間は一生彫刻の道に励んでいきたいと思います。
能登各地の神社仏閣の仕事も手がけてきましたが、
お寺や神社の大作は多くの人に拝んでもらい何百年も残っていく作品です。

こんなにやりがいのある仕事が出来る事に喜びを感じ、誇りに思います。

矢田新町 米村彫刻 ☎0767-52-3076
2016年取材


第71回私の仕事は「石材加工業」です


百の家族の、百の想いと形

私の仕事は「石材加工業」です
芋塚 隆彦(いもづかたかひこ)さん(50歳)
仕事歴28年

石材店の仕事とは

私の場合、お客様の想いを形に仕上げられるように設計から基礎工事・施工まで対応しています。
特にお墓作りに関しては、宗教、風習・家族など多岐にわたることを説明させて頂き、
ご理解を頂いた上で設計に取り掛かっています。

時代と共に

近年、生活スタイルが多様化している中、墓じまいや合祀などのご相談も多くなってきました。人は昔から大自然や死に対して畏敬の念を抱き祈りを捧げてきました。時代が変り祈りのスタイルが変化しても、その根幹は変っていないのだと思います。

しかし現代はあまりにも忙しく、日々の生活に追われ、いつしか大自然の恵みの中に活かされて、生きているということを忘れてしまいがちです。そんな時に病と向き合ったり、人の死によって改めて自分の暮らしや生に向き合うことがあります。お墓を建てるということも、そんな機会の一つだと思います。人生において「気づき」を持たれたとき、宗教や、今のライフスタイル、未来への営みなど、お客様と一緒にお墓を通じて未来を真剣に話し合います。このようなことも今の私の大切な仕事の一つだと思っています。



矢田町の工場

お墓ディレクター

永平寺禅僧の学問所として始まった愛知学院大学を卒業し実家に戻ります。父は技術にこだわり指導してくれました。若い私は機械化の必要性も感じ、時には父と議論をしながらも父の元で技術を身につけ現在に至っています。創業は曾祖父で山積の石屋からのスタートでした。祖父、父の時代は日本の成長期でもあり、人口も増え、神社の鳥居や奉納品の依頼も多く活気がある時代でした。そんな時代は個人の拘りはなく、伝統の形を重んじて、削り、磨き、細工、彫刻して、現地での取り付け施行をどんどんやっていました。



時代が進み、当時分家した家でお墓が必要になってきています。分家された家はお寺さんとのお付合いは本家ほどではないことも多いようで、仏教的なことから法律にかかわることまで質問や相談があります。明治に制定された墓埋葬法の制度が平成に入って改正され、定められた場所以外にお墓を建てることは禁じられています。そんな法律を知らないでお墓を建てたり、また無宗教だという方や、各宗教宗派でも色んな違いを知らないでお墓を建てて困ったという事例も出てきています。今、お墓を取り巻く環境は大きな曲がり角に来ており、日本石材産業協会ではお墓ディレクターという検定資格制度を設けて正しい知識、適切なアドバイスを出来る人材の育成にも取組んでいます。

昨今は石屋のみならず葬祭に関わる方までがこの資格を取得して、幅広くお客様に正しい知識をお伝えしていこうという気運が高まっています。お墓は買うものでなく、作るものだと思います。100家族あれば100通りの想いがあり、ご家族と共に考え、話し合い、血族という家族の絆を、お墓を建てる時に石工の技術を入れて向き合う。そんな時間が私にとっても大切で嬉しい時です。石材店の墓石ディレクターとして更なる精進を重ねていきたいと思います。



矢田町工場 芋塚石材店 ☎0767-53-0612
2016年取材


第70回 私の仕事は「酪農家」です


敷かれたレールに乗ってみたら・・


私の仕事は「酪農家」です
福井 和幸(ふくいかずゆき)さん46歳
仕事歴25年

酪農家の仕事とは

私の場合は、
自然環境に恵まれた故郷能登の大地に良質な牧草を育て、

おいしい牛乳を作るため
ホルスタイン種の乳牛を種付けから出産、飼育、搾乳までの工程を
個人規模の農場としてシステム化
できるよう日々の業務を通じて研究開発しています。

牛に引かれた人生

物心ついたときにはすでに牛との生活でした。

祖父と父が
戦後の食糧難の時代に酪農を始めようと
開拓地であるここ鹿島台に入植しました。

当時は
何軒か酪農をしていましたが今は私の家だけです。

小学生から手伝いをさせられましたが、
なんて大変な仕事だなぁ
と思い声を掛けられるのが嫌でしょうがなかったけど、
祖父が厳しかったのです。

小学生でトラックを、
中学生ではトラクターを運転していました。
もちろん牧場内ですよ。(笑)

高校進学の時、
酪農するなら北海道へ行けと祖父の一言。

祖父の敷いたレールの上を
牛に引かれて行ったようなものです。

酪農学園大学付属高校とその短大で近代的な酪農を学びました。

日々勉強

卒業後
実家に戻り酪農家としてスタートしますが、
北海道で学んだ技術と父の技術のギャップにショックを受けます。

牛に餌を与え乳を搾るという行為は同じですが、
生産や品質の管理がまるで違いました。
それで一つ一つ改善改革を始めますが、父は口出しせず任せてくれました。

実践の中で経験を積み努力をしていても様々な問題が生じます。

日々の仕事に追われ学びが及ばない時は、
獣医師や関係機関の職員から教えてもらい解決の糸口を探します。

また農業青年のグループや地元の酪農家との交流を通じて
情報交換をする中で自分の考える酪農経営を目指しています。



将来の夢

福井牧場では
乳牛27頭、子牛16頭飼育しています。

品質の良い乳をより多く絞るためには牛の健康が重要です。

個性を知って弱い所を改善するため血統を選び人工授精させます。
分娩も状態を確認しながら立会い、難産で引っ張り出すこともあります。

子供を産んで初めて乳牛となり、
4、5回出産すると乳量がピークとなり1日40キロ~50キロを絞ります。

朝夕2回搾乳しその前後に餌を与えますが、
牛は4つの胃袋があり数え切れない微生物や原虫が棲んでいます。

あんな大きな体を草で維持できるのもそれらと共生しているからです。
そんな原虫の働きも考えて何種類もの餌を配合します。

将来的には
牛が自由に歩きまわれるフリーストールという形態の牛舎に出来ないか、
また通りすがりの観光客が車を止めて牛を見ていますが、
そんな人たちに何か別のサービスが
提供できないのかと色々と想いは巡ります。

子供の頃
嫌でしょうがなかった酪農でしたが、
今思えばあの手伝いこそが酪農家としての
魂が植え付けられた原点だと思います。

導いてくれた祖父に感謝し、
能登でも酪農家が存続できるように爪痕の一つも残しておきたいと思います。



鹿島台 ㈲福井牧場  ☎0767-66-1245
2016年取材