こみみかわら版バックナンバー

温故知新 第16回 ノトゲキ


瀧腰 教寛(たきごし たかひろ)さん(38歳)

この秋、国民文化祭の七尾市メイン事業として仲代達矢演出、無名塾による「等伯-反骨の画聖」が能登演劇堂で公演される。

昭和60年に仲代達矢氏が主宰する無名塾が中島町に合宿を始めたことで、七尾に演劇の文化が根付いた。無名塾のロングラン公演では多数の市民エキストラが参加し、県内外から多くの観客が訪れる。

そして今、「ノトゲキ」が動き出している。日本大学芸術学部演劇科の学生が中島町で合宿し、地元の人々との交流を深め、公演を重ねている。その仕掛け人、俳優の瀧腰教寛さんにお話を伺った。

好きでなかった演劇

中島中学校の時、初めて能登演劇堂で観劇した。その時はまさか自分が俳優の道を歩むことになるとは思ってもいない。それよりも音楽に夢中だった。

高校進学は石川県立工業デザイン科に進みたかったが家族が大反対。ちょうど中島高校普通科演劇コースがスタート。それならばと入学し第1期生となる。
演劇を指導する酒井藤雄先生も音楽が好きな事もあり、5人の仲間とバンドを組んでギター三昧の楽しい3年間を過ごす。

日本大学芸術学部演劇科に進学するも、都会へ出て音楽で飯が食えるようになってみんなに一泡吹かせてやりたい!そんな思いが強かった。
しかし、全国から集まった同期はみな演劇に真剣であり本気度が違っていた。授業で海外の現状や、演劇界の苦労の跡を知るにつれ、演劇とはこんなに奥が深いものなのかと初めて感じ、生半可で演劇をするわけにはいかないと悟る。

すぐに日芸で一番厳しいと言われる「殺陣(たて)同志会」に入部。軍隊のような上下関係、週4日午後6時から9時までの3時間、罵声が飛ぶすごく厳しい鍛錬だ。
真田広之、古川登志夫など芸能界で活躍するOBも多い。4年間続けた。おかげで殺陣の振付けを演じられる役者になり指導もできる。

役者への道

卒業して同期と二人で劇団「動/Note」を立ち上げた。給料をもらって演じるより自分たちの演劇を追求したいと思った。
5年間の活動で、演劇人コンクールや演劇祭など登竜門となる舞台出演で注目され始めたが、ちゃんと飯を食っていけるのか不安は付きまとう。
自分たちのカンパニーを育てたいという夢があるが、稽古場の手配や団員との人間関係などで疲弊していく自分がいた。

そんな時、映画の出演依頼があった。千葉県館山市でのロケ現場、殺陣のアクションで高所から飛び降りた瞬間、背中に激痛が走った。
第一胸椎骨折、3ヶ月間の入院。病室の天井を眺め今までを振り返った。

主役を楽しむ

演劇は自分にとっても、社会にとっても必要だし発展させなければならないという理念がある。
自分の使命は何なのか?考えるため劇団を辞めフリーとなった。自分を俳優へと導いてくれた環境が故郷にある。
無名塾が能登の豊かな自然の中で人々と交流を深め演劇文化のすそ野を広げてくれた。
微力でも第二の矢を放ち故郷に恩返しをしたい。「ノトゲキ」を立ち上げた。

第1回は日芸の後輩17名が参加し一軒屋で1ヶ月間共同生活をして祭や職業体験をもとにした創作劇を上演した。
今年で5回目となったが課題も多い。ノトゲキも分岐点として検証が必要だし、自分自身も舞台俳優として見つめ直してみたい。

将来は国内外で活躍する演劇人がこの地に風の人となり訪れ、時に土の人となって暮らし、一年中どこかしこで演劇の花が咲いている、そんな街づくりに貢献していきたい。

熱く語る俳優に地元の理解と応援が必要なのは言うまでもない。



温故知新 第15回 ミセスオブザイヤー


筑城(ついき)まゆみさん(52歳)

ミスコンが外見の美しさを競うのに対して、ミセスコンテストは人生のストーリーを通して輝いている人の内外面の美を競う大会で年齢別に5つの部門に分かれています。

その世界大会のプレシャス部門(43歳~57歳)で見事に審査委員特別賞を受賞した七尾市役所に勤める筑城まゆみさんにお話を伺いました。

女性が輝く社会

年齢や男女の差で自分に限界を作ることなく、自らが行動して愛と感謝に溢れたカッコいい輝く女性になろう。
2020年に日本で誕生したミセスオブザイヤーでは、なりたい自分になるために懸命に前へ進むことが美しい姿であり、自分に自信を持ち、自分を愛して、勇気を持って一歩を踏み出し、人間力を高め、地域そして日本を心豊かな社会にしていくことを願っています。
そんな理念に共感する多くの女性が全国47都道府県で地方大会に臨みました。

ウオーキングとスピーチの審査が行われファイナリストが日本大会へ、そこで選ばれた人が世界大会へと進みます。
4月1日にホテルニューオータニで開催された世界大会には13ヶ国から68名が参加し、1300名の観客の中、英語スピーチ、タレントショー、ナショナルコスチューム、イブニングガウンでの審査が行われました。筑城さんはタレントショーでリージョナルクリエーション(地方創生)リーダー賞に輝きました。



踏み出す勇気

書道と生花に30年間打ち込んできましたが、他にも自分を表現する何かに挑戦してみたい。そんな思いの中でミセスコンテストを知りました。
周りに相談すると「それって何?」「やめとけば!」と色よい言葉が返りません。しかし小さい頃から好奇心旺盛な筑城さんです。
勇気を出してエントリーし、北陸大会では大学生の二人の息子に挑戦する母の後姿を見てもらい、社会人になったらいろんなことにチャレンジしてもらいたいという願いをスピーチし石川県代表に選ばれました。

また幕張メッセでの日本大会では書と花はコツコツではあるが自分がキラキラ出来るのでこれからも頑張りたいとスピーチし日本代表に選ばれました。


主役を楽しむ

世界大会は英語でのスピーチとなり、ウオーキングのレベルも上げなければなりません。またタレントショーでは何を演じるのか企画しなければなりません。
「ここまで来たからには頑張るしかない!」と覚悟を決め準備に入りました。

コンセプトは華道家・書道家として次世代の子供たちに和文化を継承することが私の使命としました。
花と文字に命を吹き込み、人の心を動かし、まだ誰も見たことのない世界観を作り上げ、世界中の皆様に日本文化の素晴らしさを知って頂きたいとスピーチを書き、それを英検の面接官に英訳してもらい、発音と抑揚、身振りはオーストリアの先生にオンラインで指導してもらいました。
ウオーキングとポージングのレッスンに東京新宿の村神一誠先生のスタジオに通いました。

タレントショーでは職場の先輩の力添えを頂き地元の花嫁暖簾と赤浦の山から切り出し運んでもらった青竹を配し日本らしさを演出。
桜がテーマの音楽を流し30年間続けている生花パフォーマンスを披露しました。

初めてのエントリーで世界大会まで進むことが出来、持てる力を出し切れたことに晴れ晴れとする筑城さん。勇気を持って踏み出したことで生涯の思い出を作ることが出来ました。


温故知新 第14回 パパイヤ


野見 弘さん(80歳)

たびたびメディアに登場しているのでご存知の方も多いだろう。テレビではNHK、MRO、ラジオはFM金沢、新聞は北国、中日、そして農業新聞の全国版に取り上げられた。

きっかけはパパイヤだ。野見弘さん、80才とはとても思えないほどハツラツとしてパパイヤに夢を託している。

目標を持つ

七尾市下町で生まれた野見さんは、子供の頃から「お前は二男だからいつまでも家におられんので、外で工夫して生活するんやぞ」と言い聞かされて育ったという。そのせいか、目標が一つあれば、それに向かってどうするかを常に考える習性が身に付いた。

東京で10年間過ごし帰郷。教材を扱う学研の能登地区代理店を始めた。この時も自分で目標を立て、能登半島を隅々まで廻りながら、あの手この手と考え仕事をした結果、社長賞を数回受賞した。だが過疎と少子化が進み60才で区切りをつけた。

田んぼと警備の仕事をやりながら第二の人生をどう過ごすか考え町会長を引き受けた。田んぼの多い下町だが担い手が高齢化しこのままでは草の中に暮らすことになってしまう。農地を維持するためにはと行政に相談すると大型の圃場整備を提案された。その担い手となる農事組合法人SIMO陣屋を有志7名で立上げなんとか軌道に乗せることができた。
歳をとると大型機械は難しい。私の役目は終わった、実際の仕事は若い人に引き継いでもらおう。

第三の人生に何か面白い事はないだろうかと思っていた時、「父さん、青パパイヤ植えてみない?」と県外へ嫁いだ長女から電話があった。



青パパイヤ

南国の果物だと思っていたパパイヤだが、世界では7割が野菜として食されているという。日本ではまだ認知度が低い青パパイヤだが、野菜の王様といっていいくらいビタミン類やミネラル類、そして消化酵素が豊富で健康や美容に効果が高いことで知られる。

こんなものが日本でできるのなら面白い!琴線に触れ目標が立った野見さんはすぐに行動に移した。初年度は試しに10本の苗を仕入れた。思いのほか出来た。これだったら日本最北限のパパイヤ露地栽培がやれる可能性は十分にあると確信する。2年目は畑を借り受け100本植えた。「さくらfarm」と名付け苗の段階でオーナーを募集したら23名の応募があった。まずは作付けを軌道にのせ、七尾の特産品として地域に貢献したいと志を掲げる野見さんの姿に多くのメディアが取材に訪れた。おかげで3年目の今年、市内外から15名が作付けしたいと申し出があった。



感謝を忘れず

春に植えた苗が夏を過ぎれば2mにも成長する。その茎にぶら下がる緑色のパパイヤ。秋に収穫したものをどう消費させるかが今後の課題であり新たな目標となった。わかばの里、織姫、どんたく、中島ストアーに並べてもらう。産地として特産化を目指すのなら市場として受け皿が必要になる。オーナーの方がどう調理したか写真と意見をもらう。管理栄養士の橋本良子さんにもレシピを考案してもらう。スライスにして乾燥食品を試みる。体験型ツーリズムとしての可能性はないかと探る。

家族をはじめ多くの人の協力を頂いている。「走りながら考え、考えながら走る」野見さんの源は感謝である。母に元気に産んでもらい、両親に大切に育ててもらった。地域の人に迷惑をかけながらも様々な教えを頂いた。感謝を忘れないことを肝に銘じる野見さん。自分の損得より、ただただ地域にお返しをしたいと人生を楽しむ。 その若々しさに勇気を頂いた。


温故知新 第13回 観光ボランティアガイド


佐野藤博さん(72歳)

平成6年、石川県で金沢市に次いで2番目に七尾市観光ボランティアガイド「はろうななお」が立ち上がった。

今では24団体、約1200名のボランティアガイドが県内各地でその土地の魅力を案内している。現在26名で活動する「はろうななお」の会長、佐野藤博さんにお話を伺った。

観光ガイド

駅前のミナクルビル1階に案内所を開設し、花嫁のれん館と一本杉通り・長谷川等伯ゆかりの山の寺寺院群 ・日本百名城の七尾城跡 ・和倉温泉七福神福々めぐり ・和倉温泉お祭り会館と5つのコースを案内している。

ここ2年間はコロナ禍で減少していたガイドもこの6月から動きが出てきた。7月以降本格化すればベテランから新人まで26名がフル稼働しても足りないのが悩みだ。ガイドの平均年齢も高くなる中、最近若い世代もメンバーに加わり希望をつなぐが、ボランティアなので仕事を持つ若い人は毎日とはいかない。

退職して仕事に就いていない60代前半から始めても良いガイドに育っていくので、興味のある人はぜひ仲間に加わって欲しいと話す。

プロ意識

ボランティアと言っても人前に立つ時はプロ意識を持って案内する気構えが大事だと佐野さん。

のとしん時代の先輩で前会長の藤井さんに誘われた。今年で10年を迎えるが決して社交的でない自分がガイドを始めたので周りが驚いた。初めてのガイドは一本杉だった。先輩についてマニュアルを見ながら教わったがうまくいかなかった。最初はだれでも必ず失敗する。2度、3度、回数を重ねるうちに自然と覚えていった。

人気のコースはなんといっても年間3万人近くが訪れる七尾城跡だ。昭和9年に国指定史跡に、平成18年に日本百名城に認定された七尾城。本丸駐車場から遊歩道へ一歩足を踏み入れると力強い杉並木が迎え、静寂な空間は往時をしのばせ幻想的な雰囲気が漂う。足を進めると苔むした四段の野面積みの石垣が現れ、観光客はこぞってその壮大さに圧倒され息を呑み、標高300mの本丸跡にたどり着くと目の前には七尾湾や能登半島を一望する絶景が広がり皆感嘆の声を上げる。

上杉謙信に「絵像に写し難き景勝までに候」と言わしめた眺望や歴史を魅力あるガイドで伝え広めていきたいと知識を深く掘り下げる。そして知識だけを話すのでなくガイドの人柄や個性を活かて、客層に合わせたアドリブや気を引くジョークを心掛けている。

最前線に立つ



ガイドをやって見えてくるものがある。私たちが暮らす能登・七尾、こんなに自然豊かで濃厚な歴史や文化を持つ土地は少ない。しかし地元に生まれ育っていても足元を知らないで暮らしている人が多い。

1544年七尾を訪れた京都東福寺の禅僧彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)が記した「独楽亭記」には麓から一里もの間に千門万戸の商家が立ち並んでいたと記されるほど七尾は栄えた町であった。

今過疎化が進み人口減が加速する中これからの七尾をどうしていくのか。交流人口を増やし経済を活性化させ、移住者を増やし定住人口を増やすと言うが、そのためにはその土地に魅力がなければならない。能登にはその潜在的な魅力は十分にあると思う。

能登の玄関口七尾の魅力を発信する役割は行政だけではない。一人一人が自分の暮らす地域の歴史や文化を伝承し、語り部となっていけたらいいと思う。

七尾市観光ボランティアガイドも限られたコースではあるが、最前線で観光客と直に触れ合いその一翼を担う。故郷を愛し、おもてなしの心で、七尾の将来を思い、精一杯やっている。


温故知新 第12回 布団屋


中川久雄さん(72歳)

人生の3分の1という長い時を、優しく包み込んで安らぎを与えてくれる。これほどお世話になっているのに、いつしか当たり前になって、感謝を忘れ、手入れも疎かにしがちな布団。

今は綿、羽毛、化繊、ウレタンなど様々な素材の布団があるが、昔は畳の上に着物を被って寝ていたという。 戦国時代から江戸時代にかけ綿が普及したことから掻巻(かいまき)布団などの夜着が誕生した。それでも綿(わた)は高級品で江戸時代に遊郭で綿布団が使われるようになった。

現代のように庶民が布団で眠られるようになったのは明治半ば以降のことだ。

今回は七尾初の製綿所としてスタートし創業100年を超える、布団製造販売ムーミンなかがわの中川久雄さんにお話を伺った。

中川製綿所

織田信長の頃、綿花から木綿が作られた。火縄銃の火縄や陣幕、旗指物など軍需品の材料として価値が高まり綿の木の栽培が全国に普及した。板の間に筵(むしろ)を敷いて藁(わら)布団で寝ていた時代が続くが、明治時代にインド綿が大量に輸入され庶民にも手が届くようになった。

それでも綿は本当に高級品で、綿屋が綿一貫売ると、一晩女郎屋で遊ぶことが出来たというから、今なら5万円から10万円くらいだろうか。そんな時流に乗って初代中川留松が高岡で修業の後、七尾今町で中川製綿所を興す。

当初は製綿した綿を大八車に積んで和倉温泉へ運んだ。当時は旅館の女中さんがその綿で布団を仕立てたという。布団の仕立ては和裁の延長であった。一貫(いっかん)3.75㎏から百匁(ひゃくもんめ)に製綿した綿が10枚出来る。敷布団1枚なら16枚やねとバラ売りしていた。

製綿とは俵にギュッと詰め込まれた原綿を仕入れ、綿の塊を弓の弦でピンピンとはじいてほぐす作業だった。 大正七年に電動機付製綿機を導入し、その後二代目、父健三はお店に布団を並べ中川ふとん専門店として小売を始める。そんな布団屋の娘として育った三女の悦子が東京の蒲団技術学院へ進み技術を習得し帰郷。24歳の時、国鉄職員の久雄と恋愛結婚。



綿の木


夢有眠なかがわ

健三が新しい工場を建てこれからという時に突然倒れる。この店を継がなければと29歳の久雄は国鉄を辞め布団の世界に入る。空手有段者で硬派な男が妻に布団の仕立て方を習うところからの三代目であった。

当時は七尾鹿島で15軒の布団屋があったという。冠婚葬祭が家で行われていた当時は親戚が集まり布団が何人前あるということが家の自慢だった。

お店を繁盛させようと張り切る久雄だが、ショックな出来事があった。母に連れられ花嫁道具の布団を買いに来た娘が、「私この店で買いたくない」と帰ってしまった。 間口3軒奥行7軒の布団を並べただけの店。花嫁は夢を感じなかったのだ。久雄は郊外に夢のある店舗を構える決意をし、ただ単に布団を売るのではなく、夢の有る眠りを提供しようと決めた。夢有眠、ムーミン中川の誕生だった。

久雄41歳、平成2年に今町から千野へ移転し夫婦で夜遅くまで働いた。ホームセンターなど、あちこちのお店が布団を売り出した時夫唱婦随の二人は布団のプロとして眠りを売るというコンセプトを立て、良いものにこだわり眠りに特化してきた。

平成23年に3月18日と9月3日、春と秋の睡眠の日が制定され、日本睡眠学会では良い眠りで免疫力を高め未病化を啓蒙している。資格取得などで睡眠のプロフェショナル化が進む中、布団の製造と販売を手掛ける数少ない専門店として、体圧分散を測定し体に合ったベッドや枕を手掛ける。
今、久雄が考案した健康布団は全国からも注文が相次ぎ、高い評価を受けている。



温故知新 第11回 牡蠣養殖


山田慎吾さん(37歳)

七尾西湾から北湾の風物、カキ養殖のブイが浮かぶ。かつては孟宗竹で作られたカキ棚が並んでいた。
七尾西湾のカキ養殖の歴史は古い。明治期の海苔養殖に端を発し、大正期にカキの養殖が始まった。

昭和29年、県は食料自給率を上げるためと七尾西湾を埋め立てる干拓計画を国に要望。 昭和35年からその実現のため調査が始まると、中島のカキ養殖業者を中心に西湾干拓反対同盟を結成し、小舟に旗を掲げて海に繰り出し抗議活動を続けた。昭和45年すでに全国では過剰米となっており、10年間も調査を続けてきたが、国は干拓事業の中止を決断した。

命拾いした七尾西湾、今も我々に里海の恵みを与えてくれる。かつては100軒以上あった養殖業者も担い手の高齢化に伴い38軒となった。 そんな中で新たにカキ養殖を始めている山田慎吾さんにお話を伺った。

海を愛す男

父に連れられサザエ獲りに出かけた楽しい思い出がある。子どもの頃から海が大好きだった。

七尾工業を卒業し鳶職を5年、その間に1歳年上の英里さんと結婚。その後志賀町の工業団地で金型製造に従事する中で将来を考える。高校生の時にアルバイトしたカキ小屋での仕事、カキ貝を剥き子の台に運んだり殻を捨てたり、嫌ではなかった。

そんな経験からカキ養殖ならやれるかもしれないと、勤めの傍ら土日にカキ養殖の修行を始める。今度はカキ剥きを経験するがやはり自分に合っている気がする。この仕事をやりたいと思った時、タイミングよく事業承継の話が舞い込んだ。

転職を決意し妻に相談すると、「好きな事やりたいならやれば」と後押ししてくれた。準組合員からスタートし、カキ棚と小屋、船を引き継ぎ31歳の時に山田水産を旗上げした。



能登かき

カキの国内生産量は広島が約60%を占め、次いで宮城、岡山、兵庫、岩手と続く。昭和56年までは石川も5位だったが現在は約1%の生産量で9位につける。それでも日本海側では最大の産地だ。

カキは海ならどこでも育つわけではない。塩分濃度や海水温、栄養分など環境が整わなければならない。七尾西湾は、熊木川、日用川、笠師川、二宮川が里山の養分を運びプランクトンも多く抜群の環境だ。

当初「鮮かき」として売り出していたが平成22年に石川県漁業協同組合によって「能登かき」を商標登録しブランド化を図っている。

夫唱婦随

早朝5時に船を出しカキ棚に向かう。冬場の海、風が冷たい。水揚げしたカキを小屋に運び、連なるカキをバラす。8時には剥き子が集まり手作業で殻を剥く。剥いたカキは洗浄して袋詰めする。
殻付きはバラしてからネットに入れて約1か月間海に戻し畜養したものを洗って一斗缶に詰める。
市場、スーパー、飲食店に出荷し、全国津々浦々からも注文が入る。

引き継いで6年、風光明媚な西岸深浦地区に広々とした土地を購入し、かき小屋を新築移転した。

能登カキの特徴は甘みだ。他県の養殖業者も「こんなにうまいのか!」と驚いたという。年明けから出荷する1年ものは柔らかく甘みがあり、2年ものはしっかりした食感で甘みがあると語る山田慎吾さん。もっともっと能登のカキを全国区にしたいと夢を膨らます。

今、山田水産には義母と弟も加わり、調理師免許を持つ妻は飲食店の営業許可を取得し様々なイベント企画を始め、SNSで情報を発信する。寡黙にカキ養殖に専念する夫、率先してマネジメントする妻。

夫唱婦随の二人の人柄に惹かれ、担い手不足が心配される剥き子にも新人が集まる。 新しい世代が若者の感性で、伝統の能登カキを繋いでいく。



温故知新 第10回 染物屋


岩井元次さん(84歳)

今も敷地に残る高い煙突を見上げ、石炭を焚くことが一日の始まりだったよと懐かしむ岩井元次さん。往時の賑わいがなくなったけど馴染みのお客様の顔が見られることが楽しみで店を続けていると言う。

岩井さんは染物屋の三代目として生駒町に生まれる。祖父の岩井元吉が明治に創業し、父の敬次が跡を継いでいた。祖父と父の名前から一文字づつ貰い染物屋の跡取りとして育てられた。

染物屋

あの等伯も畠山家臣の奥村家に生まれ、染物屋の長谷川家の養子となり絵を学び始めたというから染物屋の歴史は古い。元次さんも子供の頃から手伝いをし、小島町にあった商業高校を卒業し家業に就く。

当時はまだ着物文化が色濃く残っており、人生の節目や晴れの日に多くの女性が着物を身に着けた。紋付、付け下げ、色無地などは白い反物を染めて仕立て、留袖や訪問着などの絵羽柄の模様づけは金沢か京都の友禅染に出した。

染物屋のことを紺屋とも言いうが、昔は紺色に染める藍染職人のことを言った。「紺屋の白袴」というが、これは「医者の不養生」と同じように専門家なのに自分の事には手が回らないという意味で使われる。そしてもう一つ、白い袴を汚さずに仕事をするという染物屋の職人気質を表している言葉でもある。



岩井屋染物店

1反が12メートル。着物になるまでに染物屋では染色、湯のし、洗い張りなどの工程があり、たくさんのお湯が必要になるのでボイラー免許を取得して毎日2時間かけてお湯を沸かしたと言う。
かつては1日に7反、8反と持ち込まれ、長い反物を敷地の奥庭までいっぱいに引っ張り天日干しにし、仕事と生活を混在させ暮らしてきた。

当時の女性は着物を楽しんでいたと言う。着物は三回の染め直しが出来るのだ。若い時の桃色の着物も歳を重ねると袖を通しにくくなる。そんな時に染物屋に持ち込み、糸を解いて脱色し、新たな色に染め直し、湯のしをして、もう一度仕立て直すと着物が生まれ変わる。いわば染物屋は着物のリフォーム屋だったのだ。

みんなが着物を楽しんでいた時は去り洋服の時代になった。綿や絹は染めるが合繊は色が定着してくれない。体が利かなくなり根気も無くなってきた。それでも着物を楽しむ人がいる限り、七尾唯一の染物屋として使命を果たさなければと思っている。

着物文化

女性に人気の花嫁のれん。僅かな生地を染めた一枚の暖簾に秘められているものは何かと考える。生地の肌触りや絵柄の美しさだけではない。それは母の娘を想う心が詰まっているからだ。手塩にかけた娘、嫁に出すということ、嫁になるという事の意を知る母が、娘の幸せを一枚の暖簾に託し願う。楽しいばかりではない人生。深夜、一人箪笥の前に座り暖簾を出して見つめ、手を握りしめ涙する娘の姿が見える母。

暖簾と共に嫁ぐ娘に持たせた着物も、多くは母の着物を染め直し、仕立て直したものが多かった時代。そんな女性の節目に関わってきた染物屋が一番に覚えることは生地の強弱を見極めることだった。箪笥に眠っている着物、面倒でも年に一度は土用干しをしておいてほしい。手入れさえしておいてもらえば、着物と母と祖母の思い出はいつでも蘇させることが出来ると言う。

着物の楽しみを教える人が少なくなり、箪笥を開けなくなった時代。全国で肥やしとなっている着物はおよそ20兆円にもなるという。なんとしても日本の誇れる着物文化を繋がなければならないと言う染物屋の顔には、まだまだその一翼を担っていく覚悟が見えた。



温故知新 第9回 野鳥保護


時国公政さん(79歳)

今年7×9で63歳ですよと豪快に笑う時国さん、元気の源は野鳥保護というライフワークを50年以上も続けているからか、御年79歳にはとても見えません。

今回は環境省希少野生動植物種保存推進員で石川県希少生物研究会の代表を務める田鶴浜大津の時国さんにお話を伺いました。

能登に棲む猛禽類の現状を知ることで能登の自然の素晴らしさを知り、能登で暮らす人々が今まで以上に故郷の自然を大切に守っていかなければならないと訴えます。

冒険家

幼少の頃から山野を駆け巡り遊んでいた時国さんは高校卒業後、航空自衛隊自衛官として全国各地に勤務しました。大自然に触れたいと網走のレーダーサイトに志願し任務の傍ら知床の大自然の中でヒグマと遭遇したり、オオハクチョウを観察したり、時には流氷に乗れず陸に取り残された子供のアザラシを背負い数百メートルも引きずりながら海まで運ぶなど野生動物と関わってきました。

またヒマラヤ、アンデス、チベット、南アフリカでの山岳登山にも出かけており、世界中を冒険し続けた植村直己さんのような冒険家の一面もあります。そんな時国さんも長男ということで故郷へ戻ることになり役場に勤務します。

そこで目にしたのは七尾西湾でカモなどの渡り鳥が鉄砲で撃たれている光景です。シベリアと東南アジア結ぶ重要な中継地として能登半島には希少な渡り鳥も飛来します。そこへ県外から狩猟を楽しむ人たちが和倉温泉に泊まり込んで鉄砲を撃ちまくる姿に、「ふるさとの生き物に何をしてくれる ! 」という怒りが込み上げました。

野鳥の会vs猟友会

七尾西湾におとりのカモの模型を浮かべ集まったカモを撃って楽しむことを止めてもらいたいと申し入れ衝突します。相手は一時役場にまで押しかけ来て「時国をだせ!」と喧嘩腰にまでなりましたが、話し合いを重ね猟友会七尾鹿島支部の協力も得て平成10年に七尾西湾鳥獣保護区を設定することが出来ました。

また野鳥公園の建設を石川県に提唱しました。当初設計にはブランコや滑り台が配置されていましたがこれでは野鳥が安心して飛来できない旨を告げ、イギリスの世界的野鳥研究家ニール・モースさんと、アメリカ人のバード・サットン教授に観察小屋の屋根に草花を植えることなどアドバイスを頂き出来たのが現在の野鳥公園です。

平成10年11月3日に行われた落成式に急きょ谷本知事が見えられたちょうどその時、日本では珍しいハイイロペリカンがすぐ近くに飛来して驚きました。まるで野鳥公園のお祝いに来てくれたようでした。



絶滅の危機

能登を故郷として繁殖しているオオタカ、ハヤブサ、サシバ、ハチクマなど猛禽類が近年著しく減少しており、時国さんは大変心配しています。

コイやボラなどを捕食し里山里海に姿を見せる準絶滅危惧種のミサゴの巣は能登全体で280あったものが現在40にまで、七尾市と中能登町では97から11にまで減っています。

原因の一つは松くい虫防除の農薬散布ヘリコプターによる風圧で巣上のヒナや卵が吹き飛ばされてしまうからです。かつては関係市町と日本鳥類保護連盟石川県支部と綿密に打ち合わせをして飛行を選定していましたが、現在は県が空散範囲を営巣地に精通していない業者に任せきりにしているため被害が続出していると言います。

能登にいた朱鷺もいなくなりました。失われた命は作ることは出来ません。このままでは能登半島からまたひとつ希少な鳥がいなくなります。開発と生態系保全、今この故郷に住む人がどう考えるか問われています。



ミサゴ


温故知新(第8回)しょうぶ湯は女のまつり


塚林康治さん(72歳)

七尾の習俗を40年間に渡り500人以上から聞き取り調査研究してきた塚林さん、この度「しょうぶ湯は女のまつり」と題しシリーズ3冊目が発刊されました。

私たちが暮らす故郷に昔から伝っている年中行事を初め、衣食住、信仰、伝説、方言などが時代と共にその姿が変わりやがて消滅していくことを危惧し、後世に伝え残すための記録としてしたためました。

囲炉裏に足を入れると田んぼにカラスが入るぞ

農家で育ち学校から帰ると家の縁側で祖父母から、在所に残る言い伝えや道徳的なことなどを何回も聞かされ、いつしか地域の歴史に興味を持つようになった塚林さん。

小中学校の教員として旧市内各地に赴いたとき、その土地の風習に興味を持ち生徒の祖父母から話を聞かせてもらいメモを取りました。同じ年中行事でも地域によって違いがあることが分かり興味が募ります。

真剣に調べ始めたのは33歳の時、昭和45年から6年間勤務した石崎小学校時代です。子どもたちと郷土クラブを作り毎日のようにお年寄りを訪ねて聞いて回りました。毎日が楽しくてしょうがなかったと振り返る塚林さん。ついには「かつぎ」のおばあちゃんを2年間密着取材し行商先の能登部までついて行きました。

立山が見えれば、翌日は春なら晴れ、秋なら雨

風の動き、潮の流れ、波の形、太陽、月、それらを勘案する石崎漁師の気象予知も凄く、イソライトの煙突からでる煙のたなびきで急変する天候を予知します。

現代はスマホで天気予報を調べ魚群探知機で漁場を探し便利になりました。ただ便利になった分だけ人間の能力が退化していると思います。同じように地域に伝わる年中行事も利便性を求めた生活様式に変化していく中で多くが簡素化され割愛されています。

歴史とは古文書に書かれてあることだけではありません。今を生きている人々から、先祖が伝えてきた事を聞き取り、そこから当時の人々が何を考え、どう暮らしてきたか、その心情面までを探ることも民俗学的アプローチによる歴史なのです。


集落という共同体がなくなる時代

自分は自分、人は人。人工知能やモノのインターネットが急速に普及しついていけないくらい便利な世の中になってきました。しかしどこか寂しい気がします。人と人の会話が無くなり、敬虔な気持ちが無くなり殺伐とした時代になるのではないでしょうか。

様々な年中行事にはすべて意味がありますが、今はその意味が分からないまま形だけ行なわれていることも多いです。
昔、元日は寝正月と言って、動かんもん、働かんもん、鍋釜使わず、掃除のほうきを使うと福の神が逃げていく。出歩くと、一年中出歩く癖がつく、お金も出て行くといったことが各地に伝えられています。これは門松を立て、しめ飾りを吊るしてお迎えし、その家を一年間守ってくれる年神様に慎みを持つために、仕事を休んで神社やお寺参り以外は出歩かないようにとの戒めです。

また田植えの前日は稲様三束を神棚にお供えし、翌日に田んぼの水口にその三束を植え祝詞を上げてから田植えを始めました。稲刈りが終わると最後の稲三株を床の間に飾って感謝を捧げています。農薬も肥料もない時代、豊作は神仏に祈るしかなかったのです。しかし便利な世の中になっていつしか信仰心が薄れていったことは否めません。

祈りは感謝の心を育みます。決まった日に、決まった所作で、決まった食物で、各地で様々な年中行事が執り行われてきました。その意味を知り、時代が変わってもその本質は伝えていかなければならない正念場にきていると思います。


温故知新 第7回 伝統のバスケットボール


柿島誠一さん(71歳)

県内で一目置かれてきた七尾のバスケットボール。
一昨年には七尾中学女子が、昨年は七尾中学男子が全国大会へ出場し、鵬学園も今年インターハイに出場した。今まで多くの選手や指導者が伝統を築き守って来ていることを市民としても誇りに思う。そんな中の指導者の一人、鵬学園女子バスケットボール部コーチの柿島誠一さんにお話を伺った。

情熱

「バスケの柿島先生」、名前は存じていたが驚いた。中島高校に10年、七尾商業に16年、両校を全国区に導いた監督なのに165cmと以外にも小柄だ。しかしバイタリティー溢れる情熱は半端でない。ここまで突き動かすものは何か。

これまでの戦績だが、山王小ミニバスで埼玉の全国大会出場。これが七尾のミニバスの走りとなる。
定時制の城北高校では県体、北信越大会で二連覇、そして30歳のとき中島高校に着任するもバスケ部が無い。部員を集めるところからのスタートとなる。

地元中学の有望選手はインターハイを目指し金城高校へ進む時代だ。3年経って総体決勝でその金城高校に延長フリースロー1本で負ける。2年後リベンジし、ウインターカップでは県体と北陸三県で優勝し全国大会出場。その後もインターハイベスト4、山梨国体3位と戦績が続く。更に長野県の実業団を破り全日本選手権に出場、インカレ5位の中京大に7点差で敗れるも部員11名「さわやかイレブン」と取材され全国に名を馳せる。

その後七尾商業に着任、7名の部員の前で、明日から頑張ろうと言った翌日に3名が辞める。1年生を勧誘し8名となり7ヶ月間の練習で県新人戦優勝。ここでもウインターカップで北陸三県優勝し全国大会へ。
会場は青山学院大学体育館だった。ベンチに8人で待機するも審判員から早く全員ベンチに入って下さいと言われる。ベンチには15席あるがそもそも8人しかいない。平成3年の石川国体では5位入賞。

短期間で少数精鋭に鍛え上げる柿島マジック。そんな指導力が認められシドニー、アトランタのオリンピック強化委員に。今年8年目を迎えた鵬学園では3度インターハイへ導いた。

全日本大学選手権のパンフレットには出身高が記されるが年々鵬学園の名前が増えている。今、地元出身者が大学、実業団で活躍しているが、これは七尾市内のミニバスと中学校での熱心な指導により裾野を維持し伝統を繋いでいるからに他ならない。



鵬学園メンバーのメンタル目標

知恩報恩

中高とバスケをやっていたが家の事情で就職を決めた。その時恩師の中浜耕三先生が親身になり日体大へ進学できた。しかし後悔するのに三日とかからなかった。当時はインターハイ出場者が集まる天下の日体大、そのメンバーでさえも3軍なのにお前何しに来たのだと蚊帳の外に。プレーは教えてもらえず第三陸上部と揶揄され練習は走るだけ。寮生活は地獄で毎晩トイレか屋上で泣いた。辞めて行く同期も多い。何度も逃げ出したいと思ったが中浜先生のご恩を思うと辞めるわけにはいかなかった。選手になれないが指導者になると覚悟を決め耐えた。

都内ベスト16の高校でコーチを始めるが公式戦勝利は1回だけ。そこから本格的に勉強を始めた。強いと聞けば違うスポーツでも足を運び指導法を学び、遠征先の指導者とは10円玉と百円玉を用意し5円玉をボールに明け方4時までシミュレーションし、理論が分かれば学生と一緒にプレーして感覚を掴んでいった。

今もバスケットは進化し戦術の質も変化しているので学びは止められない。迷った時には旧知の実業団監督に電話する。恩師中浜先生のご恩に報いるためだけにバスケを続け、多くのブレーンのお陰でバスケット人生を歩んでこられたと感謝する。 指導者は技術より情熱が勝らなければならない。


第6回 温故知新 郷土史研究


唐川 明史さん(72歳)

年寄りが一人亡くなれば図書館が一つ無くなると言われるんですよ。
昔は爺ちゃん、婆ちゃんが、家の事、地域の事を孫に語ると三世代で100年、その孫が年寄りになって自分の孫に語るとまた100年、計200年間は伝承できたのです。
現代は学校を卒業すると家を出て帰らない子どもが多いので20年間しか繋がらない世の中となって、郷土の歴史が一年一年と失われていく危機に焦っているんですよ。と語る唐川さんです。

きっかけ

時折メディアに登場する唐川さんは中島町を中心に能登の歴史や風俗など幅広い知識を元に様々な活動を行なっています。日本考古学協会に所属し、地元では中島ささゆり短歌会と中島町植物の会の会長を務め、朱鷺棲む里山釶内クラブを主宰しています。

郷土の歴史に詳しい唐川さんですが子供の頃から知らず知らずに興味を抱いたと言います。それもそのはず父親が「加能民族の会」に所属し民俗学を中心に地域の歴史を書いており、家では寝ころがって手を伸ばせば父の書物に手が触れる環境だったとのこと。
そして鹿北商工会に勤務し地域の皆さんと世代を超えてふれあう中で様々な事を知り、疑問に思ったことは図書館で調べ、そんな積み重ねで造詣が深まったと言います。

歴史研究

歴史研究の方法は文献史学と考古学があり、文献史学は書類に書いたものを読み解いて歴史を解釈していきます。考古学は事物を対象にして、いつ頃のものか、材質は何か、何に使われていたか、どのように使っていたかを調べていきます。歴史上の書類には偽物もあり、たとえば紙に墨で書かれた文献が見た目ではその時代の内容に合致していても、そこに考古学でアプローチし紙と墨を分析するとその時代と文章の内容が合わないことがあります。

このことからも歴史は塗り替えられていくことがあると思われます。また民俗学では気候風土の違いで風俗や生活様式などが異なりますが、同じ土地でも時代の移り変わりの中でそれらも変化していくことが分かります。

さしずめ現代なら車がモデルチェンジしていくとか、流行のヘアースタイルが変化していくような感じです。
このような様々なアプローチで歴史が補完されていき、長い年月の積み重ねで今日の段階でこんなことが分かった。ということが歴史研究であり終わりはないと話します。



伝え残す大切さ

唐川さんは経験から活字で残す、写真で残す、絵で残すことが大切だと言います。
人間は生きた事実があっても、記録を残さず死ぬということは、生きた証を残せないと考えるからです。少子高齢化が進みどの在所も連帯感が薄れ、共助の力が弱まり、歴史を語り継げない現実をどうしていけば良いのか…。

結論は伝統の「祭り」にヒントがある。人が少なくなっても「祭り」は実施した方が良い。神輿や枠旗が出せないなら代わりうるものを考える。
たとえば高さ1.8mの赤い旗を各家が持ち出し鉦太鼓を鳴らし参列する。日常に感謝し、神と人が一体となり、心を合わせることの出来る最後の砦が「祭り」だと言います。失われつつある故郷の歴史を少しでも後世に残したいと活動を続ける唐川さん。

今、中島町の各地区を訪れ、集落内の通称名、家の屋号、門徒寺の聞き取り調査を進め、またお年寄りからは人生の経験、知識を伝承してもらうべく話を聞き出して記録している。
唐川さんの活動は失われる歴史を留めるだけでなく、お年寄りにとっても生きた証を確認し、人生を振り返る貴重な時間となっている。 「生きてきて良かった」と。


温故知新 第5回 能登上布


発祥は古代と推定される能登上布。能登部地区を中心に昭和3年には25万8千反の生産量を誇っていましたが、合成繊維の登場で昭和35年頃には1万2千反にまで減ってしまいました。
石川県の無形文化財にも指定され生活の必需品から伝統工芸となりましたが、能登上布はその技の追及や道具の開発など先人の苦労によって築かれてきた稀有なる織物です。

その技を伝承し、絶やさないためにと地元の女性十数名が能登上布会館で昔ながらの技法で手織りしています。そして上布の販売や作業の見学、機織り体験のお世話もしています。その中の一人、花澤久子さんにお話を伺いました。

好きだからこそ

大正生まれの花澤さんは子どもの頃から能登上布と共に人生を歩んで来た第一人者です。
昭和15年頃は仕事が無い時代で、能登部地区を中心に後山、矢駄、木津辺りまで、多くの農家が内職で機織りをしており、織元から男衆が自転車で各家まで糸を届けたそうです。家では朝の4時、5時から織っていたと言います。
子どもは学校へ出かける前に管巻きの手伝いをしました。

能登上布はとても手の込んだ下仕事を要します。麻糸を糸繰りし、緯糸と経糸を整経し、染め、乾燥、蒸しなどなんと20もの工程を経てやっと手織りにかかれます。それらの工程を織元の親方が采配し皆で分担します。親方は工程の担当者が休んだ時は代役に必ず花澤さんを指名したそうです。
いきなり言われて「そんなん出来ん」と言うと、「人がやれていること、なんで出来ん!」と言われながらも「手の皮が剥れ、手がカチャカチャになるほど、なんもかも習った」と述懐する花澤さん。

そうして全部の下仕事を経験して来た花澤さんは、「ひとつ、ひとつ覚えさせてもらった、それがご縁やった。親方が見込んで、仕込んでくれたお陰で今がある」と話します。そんな花澤さんの「能登上布はそんなに容易いものでは無いんや」という言葉にズシリと重みを感じます。それでもここまで続けて来たのは「やっぱり能登上布が好きやったんやね」と笑顔で話してくれました。



凄技

上布とは麻織物の中でも特に上質なものです。肌ざわりが良く夏の着物として重宝され、お盆には旦那様や奥様は上布の着物でお墓参りをしたと言います。
内職をしている家では、くず糸を拾って普段着用に織りましたが縞(しま)しか出来ません。絣(かすり)は柄(図案)が決まっているので、生地になった時にその柄になるように前もって糸を染めて織るのです。

花澤さんは、絣は伸びない糸を使っているが、どうかすると緩みがきてその調整が難しく、今はもう大きい柄の上布を織れる人はいないと言います。花澤さんがかつて仕上げたそんな逸品が能登上布会館に展示してあります。
その技の凄さは地元の織物工場の経営者が、「上布は凄い技や!ちょっと考えられん、ものすごく高度な技術なんだ」「我々に今からそれをやれと言ったら、宇宙に行けというくらいの事なんだよ」と話します。

伝承

上布を織る人がいなくなった今、大昔から続いている織物を絶やしたくないとの思いで集まる女性たち。
織りは柄さえ合わせられれば出来るようになるが、下仕事はどれも容易いことではない。弟子たちにその道理を教えなければと上布会館に足を運ぶ花澤さん。

高齢の師を仰ぎ休憩時間には和気藹々と、仕事中は黙々と手織りする女性たち。
織り姫となり、語り部となり、能登上布を繋いでいる。



温故知新 第4回 ちょんこ山物語


宮下 三郎さん(56歳)

気多本宮曳山奉幣祭、本宮さんの春祭り、4月七尾の街に春を告げる。5月に日本一大きいでか山があり、その前月に行われることと、子ども達が引き廻し、ちょんこ山と呼ばれているので、でか山の前座だと思っている人も多いのではないだろうか。しかし、ちょんこ山の歴史は古く、かつては盛大で賑やかな祭りだった。今その運行さえも危ぶまれていく中、ちょんこ山を未来に繋ぐために9年前保存会が立ち上がり、しゃぎりの復活、伝統の継承、歴史を記す取り組みが始まった。ちょんこ山の事を網羅した文献が無かったため、保存会ではその歴史を調べる事にし、その執筆に抜擢されたのが宮下さんだった。

祭りと故郷を愛す

「それだったら宮下三郎さんに聞いたらいいよ」今までこみみの取材中に何度も耳にしたフレーズだ。4人兄弟の末っ子として一本杉に生まれた宮下さん、小1から祭りに参加しているが、当時は芋の子を洗うほど子供が多く、中々山車に乗せてもらえなかったと言う。しゃぎりの練習開始が待ち切れず二時間も前にまだ誰もいない部屋に行ったり、山車の人形の横に立ち晴れがましい気持ちで電線避けの棒を持ったことなどちょんこ山の思い出が多い。

そんな宮下さんは故郷を愛する思いも人一倍だ。畝源三郎のハンドルネームで自身のホームページを立ち上げ、一本杉、七尾、能登の歴史を詳しく紹介している。それを見ると、ちょんこ山の歴史を調べるのに宮下さんをおいて他にはいないことが頷ける。



ちょんこ山の変遷

神輿が巡幸する祭りとしては平安時代後期と考えられたりもするが、曳山そのものは江戸時代の享保2年(1717)、加賀藩士が書いた「能州記行」の記述で確認できる。当時は獅子頭を被った太鼓叩きを先頭に、小旗、賽銭箱、四神旗、台笠、金幡、立笠、鉾、槍、馬、神輿、籠などの百数十人の行列の最後に山車を曳いていた。それも米町の大国様、木町の恵比寿様の2台だけだったことがわかる。阿良町、一本杉、生駒町は毎年交代で歌舞伎を奉納していたという。

それではいつ、なぜ三町が歌舞伎を止め、山車を曳くようになったのか。宮下さんは30冊以上の文献を調べ文化5年(1808)に三町が一斉に曳山に変わったと読み解く。その訳を加賀藩政史との係わりから推測する宮下さん。文化文政期は江戸の庶民文化が最高潮に達した時代であったが、この時期、加賀藩では藩主が短い間に何人も亡くなったり、金沢に度重なる大火があったり、飢饉が起きたりと泣き面にハチの状況で、藩内に歌舞伎や狂言の禁止の通達を出していたことが影響したのではないかと言う。 また昭和33年頃までは御祓地区を巡幸した翌日には、袖ケ江地区も巡幸していたという。

宮下さんは全てを調べ尽くしたわけではないと言うが、「ちょんこ山物語」という一冊が出来上がった。保存会のメンバーも内容の深さに感心し初版20冊だったものが数百冊も増刷され図書館にも置かれた。今、宮下さんは保存会事務局長を務め、ここ数年は文化庁の文化芸術振興費補助金等を活用して車輪の整備を続けている。そして祭り前に一人、ポスターを持って近隣の幼保園を回り参加を促している。先棒を担ぎ走るタイプではないが、縁の下の力持ちとなって地道な活動を続ける宮下さん。 

さて、これから七尾のちょんこ山をどうしていくのか…。物語の続きは、今を生きる者で創らなければならない。



温故知新(第3回)でか山 人形師 安井吉成さん


かつて港の近くに七尾劇場があった。その舞台大工が祖父の安井武二郎、魚町の人形師だった。父、安井武次も人形師として活躍。一時期魚町、府中町、鍛冶町全ての舞台と人形を手がけた。当時、石川県で唯一の地域伝統芸能大賞受賞者だった。今、3代目として、安井吉成さんが魚町と鍛冶町の舞台を手がけている。

七尾でか山工房

昨年ユネスコ無形文化遺産に登録された青柏祭。今年は注目を集めるだろうから、誰もが知る出し物が良いと正月から案を練る。来年山王神社が1300年を迎え第二鳥居を建てるのに因み鍛冶町は義経千本桜、伏見稲荷鳥居前の場に、そして魚町は太閤記の本能寺の場を提案した。

2月山町が総会で決議、引渡しの儀を行った。ここから舞台と人形に全責任を負う。予算内で見栄えの良い舞台を作り上げることも人形師の腕前だ。組立図を作ると必要な部材が見えてくる。過去の部材も再活用するがまさに大工仕事だ。お姫様の生地とかんざしは京都に買出しに行く。父の代から付き合いある古着屋を3軒回って端切れや古着を調達してきた。それを裁断し着物を仕立てる。

今年は鎧兜も作った。郡町にあるでか山工房では張子さんと呼ばれる4名のお母さん方が舞台道具に下地の紙を張っていく。皆10年以上手伝うベテランだ。



父の言葉

山車は骨組みの段階を「地山」、むしろを巻いて「むしろ山」、飾り付けをして「でか山」となる。

父が「地山」の模型を作れと言った意味が今更ながら分かると言う。それは左右に突き出すとんがり棒と九段と言われる背の横棒を藤つるで縛ってあるが、その位置や縛り加減までも頭に入っていないと舞台が上手く納められず手直しが発生するからだ。

昔は山車を組むのは全て人力だった。今はクレーン車を使って組立てが進む。しかし出来た山車に違いがあることが舞台を作っていて分かるという。昔は数人の熟練した人達が組立てに時間をかけ、細かな加減を熟知して仕上げていたので地山の骨組みが頑丈だったという。その違いは微妙だが揺れに現れる。その微妙な揺れのため舞台の構造を変えなければならなくなった。

昔は地山と舞台が融合していたが、今は合体させている感じだと笑う。これも時の流れだと舞台づくりの方を改善している。



人形見

5月2日午後6時から人形のお披露目である。昔は婚礼や新築した家が人形宿を申し出て、見物に訪れた人に酒を振舞った時代もあったが、今はでか山連町が交替で宿を手当てする。
構想を練り、設計図を引き、大工仕事をし、着物を仕立てる。舞台を作り、人形を飾る。当日は見廻り、何かあれば修繕をする。これが人形師の仕事だ。

子どもの頃から父を手伝ってきて最近思うことがある。壮大な祭りの本当の技と心意気を持った人が少なくなった。青柏祭全体として技と心をどう継承すべきか、ユネスコに登録された今だからこそ危惧すると言う。

人形師とて同じだ。代々続く人形師、長男崇司さんも手伝っているが世襲制ではない。山町に認められた者が人形師となる。最近まで山の伝統を守らなければと思っていたが、今は、自分自身が山に守られ、山に育てられたと思える。そう語った人形師。いい顔で仕事をしていた。



温故知新(第2回)古代米アート 山田重隆さん


毎年9月初旬、藤橋町の1枚の田んぼに絵が現れる。新聞、雑誌、テレビと多くのメディアが集まり取材を受けるのは山田重隆さん。
単にアートではなく、本宮のもり幼保園の園児たちに種まき、田植え、草取り、お披露目、稲刈り、はざ掛け、脱穀、餅つきと、年間を通した体験学習である。18年目を迎える今年はどんな絵が現れるのだろうか。

本宮神社の神事

山田家は代々、3月21日の「おいで祭」、11月13日の「千座祭」、12月13日の「鵜祭」神事のお供え物の一つ「根付きの稲穂」を献上する役目がある。千座祭と鵜祭に献上した稲穂は神事の後、拝殿にて1年間吊るされる。

父から引継いだ時、山田さんはより青々とした稲穂を献上しようと思い、収穫を遅らせるため、田植えも遅らせた。だが稲は丈も短く貧相なものだった。何か方法はないかと聞き調べ古代米にたどり着く。栽培のマニュアルはなく、全て手探りだった。田んぼを波板トタンで仕切り、何種類もの種を植え、肥料の量も変えながら研究を続けてきた。

スタートは赤米、黒米の2種で日の丸のようなものが出来た。絵のテーマにあった色を出すため現在は7品種に増えた。それぞれの稲の色、実る時期、背丈を全て計算し、気候、発育状況などを見ながら手入れを重ねる。今でも経験と勘が頼りである。



藤橋早乙女会

古代には農薬など無かった。そこにこだわった山田さんは完全無農薬で栽培する。そんな姿を見ていた近所の農家のお母さん方が「あんちゃん、手伝おうか」と声を掛けてくれた。ボランティアの藤橋早乙女会が発足した。草が生え、藻が付き、浮草が覆う。草取りだけでも3回以上。どじょうが棲み、それを狙ったカモが来て稲を倒す。目が離せない。品種ごとに成長が違い肥料も難しい。

アートは曲線である、どの苗をどこに正しく植えるか、これは早乙女会でしか出来ない技となった。本当に大変な作業を続けてもらっている。古代米アートを通し強い絆で結ばれ、普通の田んぼでも助け合うようになった。結(ゆい)の復活である。



農に親しみ、恵みに感謝

野菜がスーパーに採れると言う子供がいると聞いた山田さん、古代米を通じて子供達に農に親しんで、土の暖かさを知ってもらおうと、今では市内6箇所の園児たちに脱穀や餅つきの体験学習に出向いている。

最初の頃は、稲刈り前日に少し稲を刈り、そこにベニヤ板を敷き、怪我をさせられないと気を使った。近年、本宮の園児たちは自分で種を蒔き、自分の苗を植える。そうすることで一段と意識が違った。裸足で田んぼに入り草を取る。鎌で稲を刈り、はざに掛け、石鎌で脱穀を体験する。この子たちが恵みに感謝することを知り、心豊かに成長してほしいと願う山田さん。そんな成長が楽しみで山田さんも早乙女会も頑張れるのである。

「私も、早乙女も齢をとった。こんなバカな事をやる人はいないと思うけど、もし、いるんだったら全てを伝えたいと思う」そんな言葉を耳にして帰路につく。
七尾にこんな総合芸術があることを誇りに思い、目頭が熱くなった。 秋が待ち遠しい。



温故知新 この人に聞く(第1回)能登よさこい祭り 田尻 正志さん


今年、第20回を迎えた能登よさこい祭り、和倉の街に県内外から64チーム、2000人が集まった。宿泊客も1200人を超え、地元七尾から17チームが参加し盛り上がりを見せた。よさこいは高知県が本場である。なぜ和倉によさこい祭り始まったのか、20年の節目、能登よさこい祭りを立ち上げた田尻虎蔵商店の田尻正志さんにお話を伺った。

和倉かいかい祭り

温泉街の賑わい創出として50年前に立ち上げたイベント祭である。30年間続いたが、神が宿る祭りではない。住民の祭りなのか、観光の祭りなのか、常に議論があった。ちょうちん行列、和倉音頭、珠洲実高のブラスバンドなど。
オープンカーにミス丸亀を乗せて町内を回った時、沿道は100人にも満たなかった。

これではと当時和倉温泉観光協会の小田禎彦会長から「もっと盛り上がる祭りにしてほしい」と指示が出た。田尻さんは全国の祭り、イベントを調べた。これは面白いと直感したのが、高知のよさこい祭りだった。高知市が不景気を吹き飛ばし、市民を元気づけようと、1954年にお座敷の「よさこい踊り」を街踊りに改良したのが始まりだという。
そして踊り子派遣や指導など「よさこい出前事業」を始めていた。「よさこい」が全国的に広がる兆しが出始めた頃である。高知市の支援を得るため、出前事業の申請書を作成し高知まで出向くと担当者が驚いた。
全国から多くの申請があるが、わざわざ出向いて来たのはあなたが初めてだ。田尻さんの熱意で和倉が採択された。
高知市は500万円の年間予算から100万円を支援した。それも2年間続けてだ。本場高知の支援があって、今があることを忘れてはならない。



能登yosakoiかいかい祭in和倉

テレビビデオを持って各種団体を回った。和倉音頭をアップテンポに編曲し、高知の踊りを見せて説明するが、なかなか理解が得られない。
まず参加チームを作る事に苦労した。加賀屋の小田社長が、「田尻、お前いったい何をやるつもりだ。若い連中がモタモタになっとるがい!」と言われるので、「今回だけ、とにかく参加してくれませんか」と頼み込んだ。市役所青年部も乗る気がない中「田尻心配するな、一本釣りで何とかするわい」と商工観光課長の向田さんが言ってくれた。
そして、のとしん、和倉商人連、和倉保育園、七尾剣道教室、御宿連、東町町内会、高知学生チーム、カンガルーキッズ、10チーム、400人が参加することになった。

高知から法被を借り、鳴子の持ち方、振り付けを指導してもらい、源泉前から小泉酒店まで地方(じかた)車を前進させ、踊りが終わるとバックで戻り、次のチームが踊った。わくわく広場もまだ土盛りのステージだった。こうして日本海側で初のよさこい祭りが開催された。

能登よさこい祭り



「よさこいは、決まり事は少なく、衣装、踊り方、選曲、自由度が高いことが魅力なんだ」と田尻さん。
暮らす人も観光客も楽しめる、そんな能登よさこい祭りを末永く続けるため、現在は連絡協議会が 作られ石崎町の赤坂会長を中心に多くのスタッフが面倒を見てくれている。
「でっかい祭りになった」と感慨深く海を見つめる田尻さん。街を興すとき、若者か、よそ者か、バカ者の力が必要だと言われるが、当時40代の田尻さんは若者でもない。和倉に生まれ育ち住んでいる。
ただ故郷を想う心が人一倍熱い、バカ者だったに違いない。
田尻さんのような筋金入りの「バカ者」が、今まで以上に必要な時代に入っている。