こみみかわら版バックナンバー

第63回 七尾市桧物町

245七尾市桧物町

在所名の由来

この町は前田利家が城下町を築いたときに、19人の曲げ物職人を住まわせて、桧(ひのき)の材料で、弁当箱や菓子箱、桶、柄杓など、当時の日用品を作らせていたんだよ。 城下の町名は職業に由来することが多いからね。

昔の桧物町

私が子供の頃は、まだ曲げ物屋さんが何件も営んでいたよ。 そのころは日用品から葬祭品になっていてね。 昔、葬儀は在所全体でお世話をしていたもので、どこそこの在所はどこの曲げ物屋というふうに繋がりがあってね。 近郷の在所の人がよく出入りしていたよ。 それと、中の棚(なかんたな)という 一角があって、ここには呉服屋が多く並んでいたんだよ。 呉服の反物は貴重なもので、七尾港から入ってくる反物を保管する蔵を港の近くに建てる必然性があったんだろうね。 御祓川沿いには白壁の蔵が何棟も建っていたよ。 そんななごりで、七尾市も「しるべ蔵」という街づくりの拠点をここに作ったんだね。 それと御祓川を挟んで御祓校下と東部校下に分かれるんだけど、生徒数のバランスをとるため、桧物町と大手町、神明町の子供は御祓校下に通うことになったという歴史もあるよ。

これから

ご商売の家方が多いので、御祓川を中心に市街地活性化の視点で取組んでいてね。 「みそぎ川大通りを花と緑で彩り隊」を結成してプランターの設置をして、皆で水をまいたりお世話しているんだよ。 それと桧物町は、今年100周年の 「のと信本店」のお膝元なので何かとご協力いただいていて大変感謝しています。 小さい所帯なのでみんな仲が良く、助け合い、それでもってプライバシーを侵害することもなく、程よい距離感で付き合いをしている、なんとも心地よい在所だよ。 それがなによりだね。


第62回 七尾市黒崎町

244 七尾市黒崎町

在所名の由来

ここは灘浦海岸で緩やかに海に出た岬でね、岬の海岸に昔は大きな黒い岩が林立していてね、遠から見ると、岬が黒く見えたそうで、黒い岬、黒崎になったと伝わっているよ。

昔の黒崎

昔の集落は熊淵川の河口付近だったけ、度重なる氾濫で八百年前に先祖は移住を決め、海の東浜へ、山の熊淵へ、そして現在の集落の中心になっている高台へとそれぞれに移住したんだよ。 高台へ移った八人が「黒崎の八人衆」と、古文書に出てくるよ。 八百年前に、一区画六百坪の土地を八区画も団地造成したというからご先祖様には頭が上がらないよ(笑) 昭和初期まで黒崎の在所が勧進元となり加越能三州の相撲大会が毎年行われていたというくらい豊かな在所でね。 それは産業があったからなんだね。 一つは富山の業者に海岸の大きい黒い岩を削らせ権利収入を得ていたこと。 それと富山の川が氾濫するので竹の蛇籠を作り、大きな船で出荷していたんだよ。 また、黒崎の山にだけ火打石の地層があるんだけど、その下がマンガンでね、大正時代に採掘していたんだよ。 瓦の塗料や火薬の原材料に使ったらしいよ。 採掘の立て穴を「ゴス穴」と言ってまだ残っているよ。 また、七尾城に通じる「殿様道」があるので、仲間と調査してみたんだが、原型があるところは一部でね。それでも川の平場の謎の三角印や、山の平場の謎の穴など想像をかきたてられるよ。

これから

在所と一緒に避難訓練をしてきた有磯小学校が今年併合される見通しだし、過疎化が進む一方だけど、昔からの資源を蘇らせていくことが地域再生の要だと思うよ。畠山文化は一流であり、前田様は中納言で、畠山様は大納言なんだから、七尾はもっと畠山や城山に目を向けないとね。


第61回 七尾市八幡町

243七尾市八幡町

在所名の由来

在所の神社がかなり由緒のある八幡神社でね、能登の八幡神社の惣社として建立されたそうだよ。 畠山氏も神社を守るために田を寄進されているし、焼失などの変遷がありながら、現在の場所に移り、江戸中期に改築された記録があるよ。 そんな八幡神社のある在所だから「八幡」となったんだね。

昔と今

明治から昭和初期まで「八幡むしろ」が有名なんだよ。 記録によると、八幡の七之助、恒右衛門の二人が、近郷の在所に働きかけ、北海道の海産物を包装するための「むしろ」を作り始めたんだよ。 明治41年に鹿島郡莚商組合を発足させて、原料の藁は奥能登から買い集めるほど大量生産してね、農村最大の副業となっていたらしいよ。 今は特別の産業はないんだが、家の数が増え続けてね、40年前の2倍なんだよ。 小学生も46人いて、 獅子舞も小学生だけで踊るよ。 新しく住む人には、在所の行事や祭りに参加してもらうので、すぐ顔なじみになってね、八幡に住んで良かった、八幡が好きだと言ってもらえるのが一番嬉しいことだよ。

在所の自慢

神社も古いが、その絵馬も古くてね、昨年テレビ取材していったよ。 能登半島沖地震で拝殿の復旧の際、絵馬の後ろに色々書かれていたので専門家に見てもらったら、加賀藩内が日照り続きのとき、雨乞いをした絵馬でないかということで、県内でも最も古い部類の絵馬だそうだよ。 在所のいろんな伝統を新しい人たちと融和してしっかりと受け継いでいけるのも自慢の一つだと思っているよ。


第60回 七尾市杉森町

242七尾市杉森町

在所名の由来

在所の山は昔から杉山で、今も大きな杉林が多くある所を見ると、杉の森の在所だったんだね。

昔と今

昔は竹籠の産地でね、近年まで職人がいたんだよ。 今は高齢化でね、技術は伝承されているんだが、趣味で作っている人が若干いるくらいだよ。 この地の豪族、長 連龍が名産の浜豆腐・くも蛸・白浜のみかんを金沢に送るための製造を命じたことが起こりらしいよ。 昭和58年、 石川県で開催の全国植樹祭では、天皇陛下お手植えの杉苗を入れる籠を奉納した名人が在所にいたんだよ。 昔、二宮川は暴れ川で、洪水被害が多くてね、それで川を改修したんだね。 昔の川は県道になって、今の川は山を削って作ったんだよ。 昔の川には鮭が遡上していて、ヤスで突いてみんなで酒盛りしていたと聞いてるよ。 子どもの頃は、なまず・八目うなぎも獲れてね、その川で泳いでいたよ。 最近は高田町会と 一緒に二宮川を美しくする会を結成して環境保全に力を入れているけど、正直なもので、川を大事にしたら数年前から鮭が遡上してきたよ。 不思議と言うか、正直と言うか、考えさせられるね。

今後

町民の要望も聞きながら、時代に合わせて一つずつ改善していくことを心がけたいと思うし、改めて実感するんだけど、在所の歴史や文化、伝統をしっかりと理解して次の世代に引き継がないといけないと思うようになったよ。 杉森の火宮神社は室町時代からのものと思われ、由緒格式があるんだが、祭りなど形式的に行われていることの歴史的背景なども古老から教えてもらい繋いでいかなくてはならないね。 多くの先祖が、その時代を必死に生き抜いてきた歴史を背負って、今私たちが生かされているからね。

 


第59回 七尾市直津町

241七尾市直津町

在所名の由来

古文書に多々津と出てくるよ。 昔は赤浦潟がもっと奥まで、指のように何本も入り込んでいて、多くの入り江で、多々津というのは頷けるね。その入り江は山を崩して埋め立てられ、今は田んぼだよ。 「多々津」がなんで「直津」になったのかと言うとね、この在所の先祖は上杉謙信の七人の家来でね、三方が山の、この地で土着の百姓となって、隠れ里として住んだと伝わっているよ。 38世帯あるけど同じ姓が多く、越後に関係する苗字が多いよ。 屋号も「越後どん」だったり、仏壇の掛け軸の裏に上杉謙信の名が書かれていたりするよ。 そんな在所だから越後の直江津の江をとって、直津と読んだんかもしれんね。

昔と今

昔から仏壇屋・石屋・桶屋・大工・左官など職人が多いのが特徴だね。どの家にも牛小屋があり、田んぼや山仕事の傍ら、家ではむしろをつくっていてね、子供が藁打ちの手伝いをしたものだよ。 買い物に七尾や田鶴浜に出るにも山道を1時間歩いたよ。 初めて訪れる人はこんな山奥に本当に家があるのか? と思ったと言うよ。 今は本当に交通の便が良くなって、直津インターを上がれば全国の高速道路に直通だよ。 気にかかることもあってね、毎月空缶拾いをしてるけどキリがないよ。 皆さん交通安全と運転マナーを守って下さいね。

在所の取組

お宮の御神体はいわれのある大きな石でね。年7回のお宮行事を中心に結束して、道路愛護や川堀、20年前に植えた桜並木の草刈など町民総出でやっているよ。和倉温泉にも近いし、自然豊かで田園も広がる直津に、都会でリタイアした人が第二の人生を過ごせるような在所を思い描いているんだけどね。


第58回 中能登町久乃木

240中能登町久乃木

在所名の由来

二つの説があってね、昔この村に大きな椚(クヌギ)の木が植わっていたという話と、この辺り一帯が来木野(くぬぎの)と呼ばれた原野だったからという話とを聞いているよ。

久乃木の歴史

明治期には養蚕・機場・木挽き・大工・農業などで生業を立てていたと、記録に残っているよ。 この在所にはね、飛鳥時代の文武天皇のお母さん、柏妃(かしわのきさき)のお墓があるんだよ。 伝承では西暦703年に都から巡幸の旅に出てこの地を訪れた際、在所の家々で作った甘酒を献上し、稚児の舞や天狗の舞を披露したところ、大変喜ばれた柏妃は村人とも親しく交流し長らくこの在所に逗留されたそうだよ。 よほど気に入られたようで、都で亡くなるとき久乃木に分骨埋葬するよう遺言されてね、それで久乃木神社にお墓があるんだよ。 その命日が旧暦で9月9日、 現在の10月8日でね、この日が在所の秋祭りなったんだね。 そんな由緒あるお墓をしっかり保存するため、昨年在所で整備し、祭りには、甘酒を墓前にお供え、獅子舞を踊って供養して行く事にしたよ。 案内板も建てたから、みんな立ち寄ってもらえると嬉しいね。

在所の取組

老人会や子ども会なども一緒になって、公民館運営委員会を組織してね、左義長・盆踊り・スポレク大会・文化祭・餅つき大会など小さな在所だけど盛大に行っているよ。 11月の文化祭に出品された作品は70点もあり、見ごたえがあったよ。 子どもから大人まで自由闊達に交流し、支え合う在所であり続けたいと願っているよ。


第57回 七尾市大津町

239七尾市大津町(田鶴浜)

在所の由来

大きい津、まさに地形のとおりやね。津とは船舶が停泊し、人が集まる所という意味があるよ。 ここは七尾西湾が深く入り込んだ大きな入り江だったんだよ。 昔から交通の要衝でね、七尾や奥能登からの物資は、夏は海路、冬は陸路で大津に集まって、そこから志賀、富来方面に運んだり、福浦港まで運んで北前船に載せたりしたんだよ。

昔と今

千数百年前、山裾に家が7軒あったと伝わっているよ。 文献によると戦国時代に34軒、  江戸時代後期には120軒になっているね。  長い年月をかけて入り江を埋めていき、田んぼが広がり、道が出来、線路が通り、大津潟が出来たんだね。 集落の3分の1は埋立地だよ。 戦前は飲み屋や遊郭もあり造り酒屋も2軒あったというから、結構にぎやかな在所だったと想像するよ。 船が集まり、田畑も増える中で、近郷から人が移住して現在の原型が出来たんだね。 大津では町内を東西南北中と五つに分けて、それぞれに町内会長がいるんだよ。 最近は少子高齢化で在所の運営も改善していかないと難しい時代でね、各町内会長と時代に合わせた足元の見直し中でね。 検討委員会を立ち上げて賦課金の算出方法を見直したり、祭りの当番制の改善や自主防災組織の連絡網整備など進めているよ。

在所の取組

公民館活動がすごく盛んな在所でね、人材は多彩だよ。 そういう人たちの力も借りて、弘法の水や大津潟の天然うなぎ、赤土米の天日干、加賀藩領地だった御林山(おはいやま)の整備など、在所に昔からある自然や歴史を活用して、交流人口の仕掛けができないものかと思案中だよ。 出来るところから、コツコツ進めて行きたいね。 在所が一丸となって取組んで、昔のような賑わいある大津にしないとね。


第56回 七尾市所口町

238七尾市所口町

在所の由来

所口は由緒ある地名なんだよ。 もともと、気多本宮神社は小丸山公園の愛宕山にあってね、その付近一帯を所口と呼んでいたそうだよ。 前田利家が小丸山に築城の際、本宮さんが現在の場所に移ったんだよ。 昔、七尾のことを所口と言っていた時代もあってね、明治時代に正式に七尾と呼ぶように決めたそうだが、本宮神社のあるこの在所が所口という地名を引き継いだんだね。

昔と今

この辺りは明神野(めじの)と呼ばれた野原でね、田畑を中心に生活していたよ。 駅のすぐ近くだけどまだまだ田んぼもあるよ。 近年は利便性が良いのでアパートが多くなったね。金沢駅に西口が出来て街が発展しているのを見ると、七尾駅にも南口が出きれば、まだまだ発展していけると思うよ。 今も昔も、本宮さんの行事を中心に在所が力を合わせとるよ。 3月の平国祭(おいで祭)、4月のちゃんちき山、7月の西の奉燈、12月の鵜祭と、とにかく本宮さんの行事は在所として主体的に参加しているよ。本宮さんを守ってきたし、守っていかなければならないし、守ることを引継ぐ使命のある在所なんだよ。

在所の取組

高齢世帯が増えている中、本宮保育園の園児との交流や、道路清掃、防災避難訓練など通じて世代を超えて交流しているよ。世帯が少ないので子ども会や老人会はお隣の藤橋町の行事に参加させてもらい町会を超えて、「楽しく、なごやかに、みんな仲良く」をモットーに取組んでいるよ。


第55回 七尾市緑ヶ丘町

237七尾市緑が丘町

在所の由来

昭和47年に緑ヶ丘団地として開発されてね。 七尾市初の大規模新興団地なんだよ。 戦後の団塊の世代が家を建てる時期と重なってね、造成と同時にすぐに家が建っていったよ。 当時ここは矢田町の一つの班だったんだけど、世帯が増える中、独自の町会の必要性が出てきてね、平成6年に矢田町から分町して七尾市で51番目の町となったんだよ。 今年で20年、 今月9日に、創立20周年記念式典も行ったところだよ。

昔と今

当初は都会的な付き合いだったけど、子どもが交流する中でお互い助け合う気風が高まってね。 同世代が子育てを通して融和が深まっていったよ。 町内会としても夏祭り、旅行などのレクリエーションの実施、草刈など環境整備を行い、また、矢田郷地区のいろんな行事にも声を掛け合って参加し、在所としての形態が出来てきたよ。 今はね、「和とルール、健康と環境をだいじにする町」 「緑豊かで子供と高齢者の笑顔がこぼれる町」 緑ヶ丘町というスローガンがあってね。 それで、役員会の構成として総務委員会、防犯防災委員会、健康親睦委員会、環境保全委員会と四つの委員会に委員長がいて、それぞれに責任を持ち運営しているよ。

在所の自慢

世代間のつながりが強いことだね。40年の間に3世代が住む町にもなったよ。子ども会、青年団、女性会、みどり会、福祉推進チーム、町会が一緒になって様々な交流をしてるよ。 新しい町だけど、町ぐるみでお年寄りを大切に、子どもには行事を通して事の善悪を教えていける、そんな古き良き時代の在所のようだよ。


第54回 中能登町能登部下

236中能登町能登部下在所の由来

近郷で部とつく在所を見ると、鹿西の能登部、鹿島の武部、羽咋の若部と中能登を横断する形で並んでいるんだよ。部とは職業や住居地などで同じ目的のための集団を意味してね、大和朝廷時代に国の統治のため作られたと辞典に書いてあるよ。歴史的・地政的に考えれば大和朝廷の防衛拠点だったかもしれんね。能登部はいつの時代かしらんけど、上と下に分かれたようだよ。上区の能登部神社で男の神様を、下区は能登比咩神社で女の神様を祭っているんだよ。男の神様を上に、こちらは下になたと聞いとるよ。

昔と今

200年も前から織物の村として発展してきてね、能登上布発祥の地だよ。昭和の初めには能登上布の機場が100軒以上もあったらしいよ。子供の頃は通りに店もいっぱいあって、織機の音と人通りではんと賑やかだったけど、今は静かになってしまったね。機場も5軒程だよ。町では伝統を守るため能登上布会館を建てで当時の織り方を継承しているんだよ。

在所の自慢

祭りだね。神輿と獅子舞で春と秋に行うよ。その時、神社の境内で火渡りするんだよ。春祭りには、3、4歳の男の子が二人して「乙女の舞」を踊るんだよ。それと小学校5年生で長男という条件で選ばれた子が「三番叟」を舞うんだよ。長い歴史の中で栄枯衰勢はあるけど、神社を大事にして祭りという心棒で在所がまとまってきたと思うとるよ。


第53回 七尾市青葉台町

235七尾市青葉台町

在所の由来

下町と八幡町の山を開いて団地にした町でね、造成したのは福井県の三谷不動産でね、七尾の青い空と山の緑をイメージして、青葉台町と命名したと聞いとるよ。

昔と今

市議会で正式に青葉台町として認められたのは昭和55年でね。 まだ34年しか経っていないので、歴史は浅いんだよ。 売出し当初は3世帯しかなくてね、少しずつ家が建っていったけど、10年間は在所の形態がないまま、ただ住んでいるという状態だったよ。 まだ管理事務所があってね、管理人がお世話をしていたね。 当時は、広々としていて、ウグイスの声で朝を迎えるのが楽しみだったよ。 街の発展と共に自分の人生も発展していくんだという夢を抱か せる雰囲気があったね。 それと、今思えば バス停を設置する時も大変だったな。「人も居ないのに、まだいらないでしょ」となかなか相手にしてもらえなかったけど、バス停があれば人が増えるからと掛け合ってね。  昭和59年にバス停が出来たときは嬉しかったね。

町会の取組

平成10年によさこいのイベントをやって、それから町内会として結束してきたね。 今は、花見・消防団・お祭りなど皆で協力しているよ。10月5日の祭りでは、神社が無いので山車に神様に光臨賜り祭りをするんだよ。獅子舞は徳田町から教えてもらったんだよ。 次は神社を建てるか、神輿を作りたいね。

町の自慢

小学生までの子どもが27人いて、 子どもの行事も沢山あるよ。 この子達が青葉台の宝物で自慢だよ。 この子達と一緒に町の歴史を築いていくことが大事だと思うとるよ。


第52回 七尾市中島町横田

234七尾市中島町横田

町名の由来

在所のすぐ隣にお熊甲祭りを司る神社があって、昔は熊木の郷の中心でね。 その神社の横に開けた田、横田となったと思うよ。

昔と今

生活は農作業を中心に営んでいた在所だよ。私の子供の頃、在所の稲刈り前に、お母さん方が加賀平野の稲刈りに出かけていたよ。一週間から二週間、その間は父ちゃんたちで子供の世話をしとったね。 そんな田んぼが生活の中心の在所だから、最初の耕地整理は昭和27年に完成してね、二回目は平成元年に完成したんだよ。 その時に熊甲祭り会館の用地を提供しているんだよ。  熊木川沿いに桜の木を100本以上植えてね、もう18年経っているから春には見ごたえがあるよ。 不思議な桜があってね、一本の木にピンクと白の花が咲くんだよ。カット石という民話もあってね、大きな石の中から金の鳳が飛び立ったという、その石が在所の二の谷にあり、今も語り継がれているよ。

町会の取組

環境保全会という組織を作ってね。在所の全世帯が参加して、田んぼの畦や農道の草刈、えほり、道路沿いの空き缶拾い、熊木川の掃除や桜の剪定などを行っているんよ。自主防災組織では、「自分たちの身は自分たちで守る」ということで、お母さん方で非常食を作ってもらって皆で試食したり、防災器材の購入整備も進めているよ。

在所の特徴

個性的な人が多いんだけど、非常に協調性の強い気質の在所やね。お互いに声をかけあってくれてね。だから在所の中では揉め事がほとんどないね。田んぼを生業として協力し合って来た歴史がそういう風土を作ってきたんだろうね。


第51回 七尾市祖浜町

233七尾市祖浜町

町名の由来

江戸期から明治22年にかけて村名が付けられたときは曽浜と書かれたそうやよ。詳しい由来はわからんけど、ここの海岸は砂浜で古墳時代から塩作りをしていてね。先祖から大事に受継いできた浜だったんで、先祖からの浜、祖浜となったんかもしれんね。

在所の歴史

縄文時代のイシノボリ遺跡があってね、多くの土器が今でも出土しとるよ。この土器で塩づくりをしとったそうやよ。 平安時代の集落跡もあってね、壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門が住み着き、開村したと伝えられとるよ。また江戸時代には、天領地となってね。隣の石崎町は漁業で栄えていくんだが、祖浜は漁業が許されんでね、塩づくりを担っていくんよ。古くから塩を作っていたんで、天領になったのかもしれんね。

在所の取組

「助け合う心」と「よい環境を子孫に残す」ことを信条に、町会運営を心がけとるよ。自分たちの住む在所は、自分たちで守っていこうということで、全世帯が協力しているんよ。 高齢者の一人暮らしや病気などで、神社や道路の整備などに参加できない場合は、出不足など徴収せず、その分担を壮青年団が出向き、協力してもらってね。昨年も原子力や津波災害訓練を町内総出で行い、津波避難道の整備も行ったよ。

在所の自慢

10月5日が秋祭りなんやが、今年は獅子頭、太鼓、天狗の面等を新調し、壮青年団が子どもたちに一ヶ月前から笛太鼓、獅子舞の踊りの練習をさせとるよ。 祭りも、奉仕作業もすべて一丸となって行うことで絆が強くなって、年寄りも若者も子ども達も一緒になって、声掛けや挨拶のできる在所なんだよ。それが最高に嬉しくて最高の自慢だよ!


第50回 七尾市佐野町

232七尾市佐野町

町名の由来

山裾に広がる平野のことを佐野と言うらしいよ。それと、ここは隣の佐味町に本家がある家が多いんよ。門徒寺も佐味の龍光寺、氏神も佐味の八幡神社から御玉を頂いていてね。そんな事から、在所そのものが佐味の分家のように発祥したんではないかと思うね。それで、佐味の佐、城山の裾野の野、佐野となったのかもわからんね(笑)

昔と今

昔は田んぼと畑で暮らしていた在所だよ。山裾は開墾されていてね、私が子供の頃はずーと段々畑が続いていたよ。 有名な沢野ごぼうと同じ粘土質の土でね、茄子やごぼう、サツマイモを植えていたね。 薪ストーブで焼いたサツマイモは何個食べても胸焼けしないし、本当に美味しかったよ。 今はね、佐野ファームという組合を設立して、在所の殆どが参加しとるよ。 中山間地を維持する役割と在所の活性化の軸として取組んでいてね。 岩魚などの川魚の養殖も試みていてね、最近はトンボやホタルもいっぱいいるよ。

在所の取組

山裾から田園に高田川という川が流れていてね、水がとてもきれいなんだよ。 5年前にその河畔に桜の木を100本植えたんだよ。 そしたら今年から青年団が草刈してくれてね。今度は七尾一長いベンチを作って桜の名勝にしようと皆で話しているよ。

佐野の雨乞い

大正時代に日照りが続いたとき、佐野の八幡神社に近郷の在所からも沢山の人が集まってね、境内の大きな杉に櫓を組んで、その上で、あの髭の本宮神社の宮司さんが若かりし頃、雨乞いの祈祷をしたんだよ。 そしたら雨が降ってね。 みんな大変喜んでお祭り気分になったそうだよ。 その日が7月19日でね。そこから佐野の納涼祭が19日になったんだよ。

在所の自慢

何と言っても絆が強い在所だよ。世帯も少ないので家族的な町会運営でね、東湊地区の社会体育大会では昨年まで6連覇だったよ。分家した町だからみんな家族みたいもんなんだよ。


第49回 七尾市矢田町

231七尾市矢田町

町名の由来

古代の話としては、住民に被害を及ぼす大きな鷲を、気多本宮の神様が矢で射って退治し、その矢が落ちた場所なので矢田となったらしいよ。それと、七尾城の麓に位置して、田畑を耕しながら、城の警備の役目を担ってきた在所やと思うよ。だから矢と田で矢田郷となったんではないかなぁ。

町の歴史

大門という地区があるが、七尾城の大門があった場所でね、そこからの道を登っていけば城山展望台に出るよ。今は整備してないので草木で覆われているけどね。 閂(かんぬき)という漢字は、門に鍵をするという字だから、私の関軒という姓も、先祖が大門の管理をしとったんではないかと想像しとるよ。 子供の頃は本府中までずーっと田んぼが続いとったけど、今は団地がいくつも出来てベットタウンになっているね。おかげで今でも人口が増え続けているよ。 ラジオ体操には子供だけで100人以上集まるよ。

在所の自慢

松尾天神社、矢田神社、八幡神社とひとつの在所に三つの神社があるのは珍しいよ。どの神社も9月の最終土曜日が秋祭りでね、それぞれの氏子を廻り、矢田ふれあいセンターに集まって獅子舞をやるんだよ。 それと町会独自で毎年予算を立て、道路整備をやっているよ。道路に土地が面する家は1mあたり三千円負担してもらって工事をするんだけど、矢田方式と呼ばれているよ。

町会の取組

「安心と安全の町づくり」ということで、自主防災組織と福祉ネットワークを軸にして、様々な行事が全戸に伝わるよう組織が出来てきたね。町会役員・子供会・婦人会・明老会、それぞれの役員が一致団結して取組んでいるから、大きな町会だけどしっかり運営されていて、本当にありがたく思っているよ。


第48回 七尾市鵜浦町

230七尾市矢田町

町名の由来

鎌倉時代の文献ではこの在所は東湯浦村とあってね。鵜浦という文字が出てくるのは、前田利家が気多大社の鵜祭の神事に奉仕するよう鵜浦ノ衛門に命じた古文書でね。1635年の古文書で、初めて鵜浦村と出てくるね。 まぁ、鵜祭りに関与したことで、鵜浦となったのではないかと思うね。

町の昔と今

昔は半農半漁で、お互い助け合って生活していてね。昔も今も、人情豊かな在所なんよ。時代と共に、学校や仕事も都会に出るようになり、過疎化が進んだね。在所にある北星小学校も来年は併合され、子供の声が聞こえなくなり、在所の活気が失われるんじゃないかと心配だよ。統廃合が進んでいるが、個人的には子供が減っても、複式学級でも良いので出来るだけ学校を残す事が地域や将来の国土のためにも良いのではないかと思うけどね。最近は県外からの定住者が増えたね。遊 びに来た人たちがここの生活を気に入って、空家を別荘代わりにしている人もいるよ。鹿渡島の定置網にも県外から若い人が何人も来ているしね。

在所の自慢

いろいろあるけど、鵜浦海水浴場は遠浅で一度も事故がないよ。監視員もいるから、安心して泳いでほしいね。 観音崎の灯台は大正2年に建設されてね、現在のは昭和60年に建て替えたものだけど、七尾湾の入口で船の安全を見守っとるよ。 また、鵜祭は有名だね。この祭りは、気多大社の神事でね、捕まえた鵜を鵜捕部が白装束に烏帽子姿で2泊3日かけて徒歩で運ぶんよ。鵜様道中と言って、国の重要無形民俗文化財にも指定されているよ。鵜の捕り方は秘伝でね。小西家で代々継承しているんだよ。

今後の取組

農家も60代~70代が多いんで、営農組合を設立し、圃場整備もしていきたいと思うとるよ。まぁ、なにより鵜浦に嫁いでくるお嫁さんが魅力を感じる在所にしないとね。


第47回 七尾市下町

229七尾市下町

町の由来

その昔、下町にまだ人が住んでいなかったころ、ここに田畑を開墾して暮らせば食うに困ることはないと、隣在所の江曾町から移り住んできたらしいよ。江曾からすると下に出たので、下出と呼ばれていて、それが下村となり、現在の下町となったそうやよ。今でも80歳以上の人はみんな下村と言っとるよ。

町の歴史

江戸時代は八幡町と共に天領でね。在所には御陣屋と呼ばれる地区があって、徳川幕府の陣屋があった場所だと伝わっているよ。そこに徳川の葵のご紋の稲荷神社があったんだけど、管理が出来なくて、今は 徳田駅前の久志伊奈太伎比咩神社の横 に移設して管理をしてもらっとるんよ。

現在の下町

昔から農業が中心の在所やね。一時期は織物工場も沢山あったけどね。今ではお店が1軒もない在所なんよ。それでも人は増えてきているんよ。若い人も出て行かないし、新しい人も入ってきてね。小学生は30人以上、中学生も20人以上いるよ。生活に便利な場所ということもあるが、人情の厚い在所でね。新しい人を温かく迎え入れてくれる在所なんよ。

下町の特徴

町会長と生産組合長と役員は、選挙で決めとるよ。在所の30歳以上の男女全員が候補者としてリストが作られ、その中から誰が良いか全員で投票するんよ。選挙管理委員会も作ってね。選ばれたら断らないことが条件でね。二期四年間、70歳定年制だよ。 これは、在所の運営が硬直しないようにと30年くらい前から行われているよ。

町の自慢

世代間のコミュニケーションが非常に良くてね、人情の良さは抜群だよ。若い人にいろんなことを伝えながら協力もしてもらっていてね。夏の風祭りは舞台櫓を組んで在所みんなで踊るんだよ。


第46回 七尾市能登島鰀目町

228 七尾市能登島鰀目町

町名の由来

鰀目は昔から漁業の盛んな在所でね。その魚場を荒らし、漁師を困らせるエイがいたそうで、在所の嶽神社の神様が、そのエイの目を矢で命中させ退治したところ、ますます漁業が栄えたとのこと。それで、エイの目、鰀目(えのめ)になったと伝えられとるよ。

昔と今

昔は鱈漁で栄えていたらしいね。在所の記録によると、明治時代にすでに鱈網組という漁業組合が設立されていて、8組の網元があり、全世帯がどこかの組に加入していてね。 それが大正時代に不漁が続き5組になり、 昭和12年の支那事変で、若い衆が兵隊に行き、3組になったそうや。今でも定置網の大敷や小網、刺し網など多くの人が漁業を営んどるよ。 新鮮な魚が獲れるので、民宿も7軒あり、民宿ブームの時は大変な賑わいだったね。 現在は、昭和57年に能登島大橋が開通してから若い人が七尾に勤めたり、住んだりするようになったため、昔からの戸数は変ってないんだが、人数は半分に減ってしまっとるよ。 しかし、ここ近年若い漁師が増えたことで、活気が出てきたね。 他にも取り組みとしては、岐阜県の中学校を修学旅行に誘致し、漁師と民宿の青年部が協力して、『釣り』や『魚のさばき方』を体験してもらったりして、浜にも在所にも活気が出てきて、嬉しく思っとるよ。

町の自慢

非常に結束力のある在所やね。恵比寿祭は漁師にとって大事な行事でね、嶽神社のえびす様を船に乗せて、太鼓を打ちながら魚場を周り、子どもたちは『えびす太鼓』や『獅子舞』を先輩から教えてもらう中で、絆を深め、在所の伝統を引き継いでいっとるよ。そんなところも自慢のひとつだね。


第45回 七尾市大和町

227七尾市大和町

町名の由来

実は大和町は新しい町会なんやよ。元々矢田郷村の『矢田大橋』と呼ばれていた在所でね。昭和14年に旧七尾市が合併したときに、新町設立活動を行い、この地域を通称で大和町としたらしいよ。通称は行政上の町名ではないため、いろいろ不便が生じるんで、正式な町会となるよう陳情し、昭和41年に現在の大和町が誕生したんよ。

昔と今

町内には百海七尾線という狭い県道が通っとるんやけど、昔は灘地区から七尾へ入ってくる唯一の道路でね。昭和25年には国道に一時は昇格して、当時はこの狭い道をボンネットバスも走っとったよ。 町内には大谷川と杵田川が流れていて ね。この2本の川は昔からよく氾濫を繰り返すもんだから、みんな防災意識は高いよ。 最近は自主防災組織を立上げていてね、助け合うことも大事だが、最後は自分の力で逃げる事が一番大事だとみんなで話し合いをしとるよ。 町会行事があるごとに、公民館で地図を広げ、具体的な避難経路の確認や、持ち出すものの確認など、一人ひとりの避難行動の意識付けを徹底して繰り返しとるよ。

町の自慢

そりゃー何と言っても、やまと保育園やね。町会の名前がついた保育園はここしかないんだよ。 前身のやまと保育所は昭和25年から49年まで、在所で設立運営していてね、人口増加に伴い住民からの要望で出来たんやけど、そのころから町会と保育園は、深く結びついとるよ。現在も災害協定を結んで共同で避難訓練を行っとるよ。人気のある保育園で園児数が増えていくので、もう4回も増改築を行っとるよ。


第44回 中島町山戸田

226中島町山戸田

町の由来

地元では「やまった」とも言っとるよ。地名辞典によると、山津田、山濃田、山田とも書くらしいよ。津は岬を意味するんで、在所の前に広がる田んぼに、稲穂が実り、風で波打つ光景はまさに海を連想するから、その裾野の山々はまさに岬であり、山津田もうなずけるなぁ。まぁ、「山」と「田」に囲まれた在所なので、山戸田になったというのが、本当のところではないがかいね。(笑)

昔と今

なぜか、昔から職人の多い在所やね。 在所世帯の半分以上が大工、戸大工、左官などの職人の家やったよ。 私も大工で年季明けしたころは、仲間と一緒に七尾方面に汽車に乗って仕事に通ったね。現在は高齢者が多い在所になっとるよ。それで、地域防災に取組んでいてね、「ひまわり会」という会を作って、いろんな行事を行っとるよ。 お年寄りが楽しめるような、レクリエーションや食事会などの他、振込め詐欺や、熱中症に注意する話など、外部の人に来てもらっているよ。また、非常食が、どこに売っているのかや、試食もしたりして、防災意識を高めているんやわ。 万が一に、志賀原発に事故がおきた時、中島町の避難先が能登町宇出津になっとるんで、その避難場所の宇出津の体育館までバスで行ってきたよ。 高齢者全員が参加したよ! 普段から声を掛け合って、元気にいるかお互いに気に留めていこうということやね。

在所の自慢

9月20日のお熊甲祭りに出す山戸田の枠旗は非常に由緒があって、七尾市指定民俗文化財に指定されているよ。 真紅の旗の色は猿の血で染めたとも言われていてね、「天開萬國歡」と書かれているよ。