こみみかわら版バックナンバー

第163回 中島町上畠


在所名の由来

虫ヶ峰山麓のなだらかな傾斜地に畑が連なり集落まで続いているんだけど、
集落の上に畑が連なる景観から上畠となったようだね。

昔の在所

釶打地区で一番畑が多い在所でね、稲作するには水不足で昔から畑で暮して来たんだ。戦後は横田や町屋の畑を借りてまで、葉たばこ、大根、白菜、スイカなど作付けしていたし、中島菜を商品化したのもここなんだよ。昭和三十年代、政府の所得倍増計画で世の中みんな勤めに出るようになり、釶打を出たバスが横田で満員、列車も中島駅で超満員、奥吉田の坂を上がらないほどだったんだ。

そんな時代でも上畠では先祖が苦労して拓いた畑を維持するため勤めに出ることが出来ず、それで大工や左官の仕事をしながら畑をしていたんだね。平成四年当時でも二十四軒中、十一軒が大工だったよ。
今となれば結果的に良かったと思うね。昭和五十二年に上畠農業機械利用組合を発足、現在は「農事組合法人なたうち」として田んぼ、畑、採れた野菜の加工品や味噌なども販売もしているんだ。大工が多いので格納庫や出荷場、ライスセンターなど夜なべしながら自前で建てたよ(笑)。
今日まで営農組織を四十二年間も続け、田んぼも二十二町歩あるけど、休耕田が一つも無いことが誇りなんだよ。

現在の在所

昨年神社を建て替えたけど、みんなで十五年以上貯金してきたんだ。農業で結束し、もう一つ祭りで団結力を高めているんだよ。九月二十三日の新宮(しんごう)の祭には金沢大学の学生に来てもらい枠旗を担いでもらっているし、八月十四日の「お涼み」の奉燈の灯りはろうそくを替えながら「やんさこ」を唄い情緒豊かに行なっているんだ。

小さな在所なので明治時代から横田と「ゆい」を結んでいるんだよ。農業の担い手不足が心配される昨今だけど、金沢のボーイスカウトが毎年田植え、草取り、稲刈りに来ているし、 ターンや移住者など若い農業従事者が増えているので嬉しいね。昨年も京都と大阪から移住希望の若い女性が農業体験に来ていったよ。高齢化は否めないけど住み慣れた故郷で、みんなで住み続けられればと願っているんだ。

あきこの一言

時流に乗らず田畑を守り続け、
結束力で新たな時代を拓く上畠。


第162回 七尾市後畠町


在所名の由来

江戸時代の後畠村の人口は5人だったようだよ。明治22年でも戸数2、人口6人なんだ。
小高い山の上に野原が広がっていたので、隣の藤野や古屋敷などからは後ろに広がる丘陵地、後ろの畠、後畠と呼ばれていったのかも知れないね。
もう一つは畠山氏の七尾城が後ろにあるので後畠になったという話もあるよ。
それとなぜだか通称で一本松と呼んでいたこともあったよ。

昔の在所

昭和13年に無住地になったようだけど、その後ここは八崎農場と呼ばれて馬や牛が飼われていたんだ。
戦時中は軍隊の馬が飼育訓練されたりしていたようだよ。
戦後の神野亮二市長がここに市長公舎を建て市役所に通ったんだ。
合わせて八崎農場の跡地に市営住宅も建設したので人が集り新しい町会が発足するんだね。
私は小1でここに来たけど市長公舎は一つ屋根の木造の大きな家だったよ。
市営住宅はセメント瓦の平屋一軒家だけど畑付きでね、そこに鍬(くわ)を入れるとカチッと音がして何かと思ったら古銭なんだ。
この周辺で結構な数が出ているみたいだよ。

昭和30年代に入ると自衛隊が来て野原を整備して陸上競技場、野球場を造って、
その後プールと体育館が出来て七尾のスポーツの中心地になったんだね。

現在の在所

若い世代が集った在所なので、子供達も70人前後いたけど、今は20人弱に減ってしまたよ。
我々世代が育てた子供が町に残らず出て行った中で、どう少子化に歯止めがかけられるのか、
残された高齢者がどう生きるのか、妙案は無いけど、それでも考えないとね。

平成12年の町会スローガンは「坂と花とロマンの町」だったけど今ではその坂が苦痛になってね(笑)。
それで今年度のスローガンは、「花がいっぱい、優しさいっぱい、思いやりの町」が選ばれたんだ。
花壇花作り、夏祭り、避難訓練、町ぐるみ餅つき大会が年間四大行事なんだよ。
神社は無いけど夏祭りは本宮さんが来て奉燈を担ぎ町内を回るんだ。

運動公園に向う道路真ん中の大きな花壇は、訪れる人に親しんでもらおうと町会全員で花を植えたり草を刈ったりしているんだよ。
大きなスポーツ大会が重なると駐車場が狭いので路駐が増え難しい問題もあるけど、世の中はお陰様、お互い様の精神もないと成り立たないからね。
令和になり町会もそろそろ代替わりしていかなければと思っているんだ。

あきこの一言

一人の百姓が住む処、一本松となり、
時を経て市長が住み、後畠と栄える。


第161回 中能登町末坂


在所名の由来

鳥屋地区には須恵器(すえき)の古い窯が百以上見つかっていてね。須恵器とは朝鮮半島から伝わる土器で、この辺りでは北陸でも早い時期の六世紀初頭頃から生産され、以後四百年以上須恵器の生産が続いていたそうだよ。
全国の須恵器の生産地に「陶(すえ)」の字を使った地名がよくあるそうで、ここもそうなんだね。
そしてここは台地に集落が形成されて来たことから陶坂(すえざか)と呼ばれるようになって、いつの時代かに末坂に転化したのだろうと言われているよ。

昔の在所

昔は農業と山仕事をしていたと思うけど、明治二十二年に鳥屋村役場ができてから鳥屋の政治的中心地になって、旧道沿いには銭湯に食料品、雑貨や洋品店、食堂、飲み屋、駄菓子屋などが並んでいたんだ。織物工場も沢山あって青森、秋田、岩手から集団就職で若い女工さんもいっぱい来ていたので賑やかな在所だったよ。

集団就職は昭和三十年代まで続いて、良川駅に列車が到着すると旗を振って出迎えたんだ。当時の粋の良い若い衆は女子寮を覗きに行っていたらしいよ(笑)。町と商工会が尽力して女工さんのために七尾城北高校に鹿西分校を開設してもらったんだ。

在所の六地蔵には云われがあってね、これは明治時代には避病院(ひびょういん)が建てられたそうで、今で言う隔離病棟やね。当時コレラや赤痢などの伝染病は死に至る病気で、亡くなる人も多かったので火葬場の近くに建てられたそうだよ。そんなことで在所では避病院の近くに六地蔵を祀り亡くなった人をとむらったそうだよ。

現在の在所

昭和61年に役場が新庁舎に移転したら在所の中が寂しくなったよ。旧役場跡地のミニパーク広場で夏に盆踊りをやるんだ。前は青壮年団が主催だったけど負担が大きく中断したので、2年前から在所が主体になって復活させたんだ。

旧鳥屋町の時は地区対抗の運動会があって在所が結束したけど、三町が合併してから地区対抗の行事が無くなり、少子高齢化も重なって結束力が弱くなったね。だから出来るだけ住民が集う機会が必要なんだ。秋祭りは小中高生と青壮年団が総出でやってくれるので心強いよ。今年から圃場整備の工事に入るのでその取組をしながら、調和を保って結束していきたいね。

あきこの一言

眉丈山系の山麓の台地、須恵器を焼き、
織物で栄え、結束を誇ってきた在所。


第160回 中島町豊田町


在所名の由来

隣在所の豊田から分村したんだよ。鹿島郡史によると鎌倉時代に加賀国豊田村から豊田弥二郎光忠という人が移住して開発領主となったことから、この辺りを豊田というようになったらしいね。
その豊田の端にある日吉神社の前に、毎月16日に市が立ち人が集まりだしたんだ。それでここを豊田の中の賑やかな所、豊田の町と呼ぶようになり、分村して豊田町となったのだよ。
ちなみに9月の六保祭は市が立った16日に行なわれていたんだけど、今は人足不足で9月の最終土曜日に変わったんだ。

昔の在所

日吉神社を中心に役場、小学校、中学校、農協、郵便局など主な施設が集まり、近隣の在所から二男坊や三男坊が来て住むようになったんだ。津波の避難場所となっている殿の芝(とんのしば)には在所の4本の道が集結しているけど、子どもの頃はここで竹スキーをして遊んだよ。

県道が通ってない時代は殿の芝から若狭堤の横の山道を通って土川、外原、富来の日用の在所に通じていたんだ。
在所の半分は富来の日用の松尾寺の門徒で日用とは縁が深かく、山から木を運搬する人夫を日用と呼んでいたくらいだよ。目の前に的場孫三が拓いてくれた140町歩の豊川平野が広がるけど、ここは分村したので農地が少なく山田を拓いても五反百姓が多く、農業で食べていけないので和倉のイソライト、富士断熱工業、日の丸窯業に多くの人が勤めに出ていたんだ。それと学校の先生になった人が多い在所やね。

現在の在所

豊川地区は公民館活動が盛んなので、高齢化が進む中で地域の住民とほど良い人間関係を維持して、住みよい豊田町が続くよう努力したいと思っているんだ。4月の桜まつりは、日用川の両岸800mに実年会が植えた桜を眺めながら子供からお年寄りまで集って川下りを楽しむのが恒例なんだ。

6月最終日曜日には六保の納涼祭のしらいの前に故郷の恩人、的場孫三の顕彰碑の前で玉串奉奠して祝詞を上げてお参りし、地区の敬老会では婦人や壮年団長など集まって演芸をしたりして、みんなで心からお年寄りをもてなしているんだよ。在所の中では散歩に出て触れ合える場として殿の芝に桜を植えベンチも備えたんだ。人情を大切にして末永く暮していかんとね。

あきこの一言

往時を偲ぶ宮の前、殿の芝に通ず小路を上る。
穏やかに流れる空気と人情、豊田町の在所。


第159回 七尾市清水平


在所名の由来

伝わっている話だけど、七尾城でお茶に使う水を馬に乗ってここまで汲みに来ていたそうだよ。
ここは山中に清水が湧き出ていて、昔から今でもその水を在所の生活用水として使っているんだよ。城山に近い山方(やまかた)の在所は戦禍で在所中が焼き払われているそうだけど、
ここは水源のひとつだったことから狙われたというふうにも聞いているんだ。

昔の在所

元々十三軒の在所に明治時代に庵から鷲尾さんが入って来て十四軒の在所になったんだ。人口は明治時代がもっとも多く百七人と記録にあるけど、私が子どもの頃でも八十人は超えていたよ。
清水平は山方四ヶ村の小栗、柑子山、麻生の真ん中に位置するので明治十四年にここに小学校が出来たんだ。清水の湧き水をポンプで汲み上げて使っていたね。直線で50mの運動場もあったけど今は竹薮になっているよ。

尋常高等小学校に進むには庵まで出なければならなく山方四ヶ村の子どもは遠いので、在所の平山さんが佐々波の飯山さんを先生に向かえて自宅前に塾を作ってくれたんだ。ところが在所のお地蔵様がちょうど塾の軒下になってしまい移設したんだ。その時に私の祖父さんの弟が大工をしていたもんだから祠をこしらえてくれたんだけど、そんなご縁もあって今は私の家でお守りしているよ。

九州に嫁に行った娘が気にかけてくれて昨年石の祠に建て替えてくれ新しくなったよ。十四世帯という数は全員が協調しないと在所が持たなくなるので、そのための知恵だと思うけど、人の道を踏み外さないよう戒めの賞罰台帳をつけていた時代もあったんだよ(笑)。

現在の在所

昨年まで三世帯六人だったけど、だんだん寂しくなってね。八十歳を回って昔の事を思い出す事が増えたけど、岩田さんとなんとか清水平で暮らしを続けていると言うことだよ。
十年前、七尾で五人が最初に猪を捕獲する免許を取ったけど私もその一人でね。体長80㎝以上の猪を県と市とで一頭一万円で買い取ってくれるので檻を三つ仕掛けているんだ。これが唯一の現金収入だよ(笑)。
一番の気がかりは在所の土地がどんどん荒れていくことなんだ。牧草地にして木が生えないようにしておきたいと思うけど…。まぁ、時代の流れに身を委ねていくしかないようだね。

あきこの一言

人は営みを続け時代を生き抜く
今を生き抜く2世帯が暮す在所


第158回 七尾市小島町二丁目


在所名の由来

昔この辺りは海でね、山の寺の妙観院の観音堂が建っている小山が実は海に浮かぶ小島だったんだ。
地層がむき出しているからその地肌を見ると海の中にあったことがよくわかるよ。
そんな小島があったのでこの周辺が小島村と呼ばれたんだ。

昔の在所

小島村の発祥は七軒からだそうだよ。明治22年に津向、赤浦、松百、新保、祖浜と合併して西湊村となってから小島に人が増え続けて、何をするにしても他の在所とのバランスが取れないという地域事情で昭和25年に桜川の方から一丁目、二丁目、三丁目と分割したんだ。

山の寺寺院群も小島地内にあって、かつて29あったお寺も現在は一丁目に6つ、二丁目に7つ、三丁目に3つと16ヶ寺になっているよ。山の寺は約四百年前に前田利家が小丸山城を建てた時、いざと言う時の防御陣地となるよう配置されてどのお寺からも小丸山城が見え、城と寺をつなぐ秘密の道もあって、お姫様が寺に遊びに行くときは、そこを通っていたそうだよ。
平成16年にバイパス道路建設に伴い埋蔵文化財の調査をしたら木製の人や馬、刀や弓、舟の形の祭祀具が千点以上も出土し8世紀から12世紀頃に、ここで祓の儀式が行われていたことがわかったんだ。

現在の在所

一致団結して色んな行事を行って来た在所だけど、近年は休日の楽しみ方の変化などで、行事参加も減少気味だし近所付き合いも希薄になってきたように感じているんだ。高齢化も進み安全安心の確保もこれまでの対応では限界に近づいてきているので、高齢者にはどこへ行くにも自分の名前と年齢、連絡先を書いた紙を持っていてとお願いしているんだよ。

そんな中でも壮年会が毎年5月にプランターを全戸配布してベコニアの花を咲かせてもらい11月に撤収し、総会や運動会には全員の食事を女性会が手作りで用意してくれ、お祭りでは子ども会が樽神輿で町内を回るんだ。
そんなそれぞれの姿を見ると本当に有難いと思うし感謝しかないね。老いも若きも同じ地域で生きる者として夢と誇りを持ちこれからも全員野球でこの町を支えていければと願っているんだよ。

あきこの一言

千年前に御祓いの儀式を行い、
四百年前にお寺が並ぶ。
神仏のご縁深き在所、ゆえに栄えあり。


第157回 七尾市藤野町


在所名の由来

町の旗も神輿の幕も藤の花で「の」の字が描かれているんだ。
昔は矢田郷村の在郷で青い藤の花があちこちに、たくさん咲いていたことから
在所の名前になったと言われているんだ。

昔の在所

東部中学校を建設するとき埋蔵文化財の発掘調査をしたら、遺跡が出て二千年前の供養塔を始め弥生時代の住居跡があったんだ。そんな古くから先人が暮らしていたんだね。

明治12年頃からナス栽培が始まり大正時代に藤野ナスという優良新品種が作られたほど園芸作物が盛んな在所だったんだ。私が子どもの頃も沢山の家がナスを作っていてキュウリやカボチャなどとリヤカーに載せて毎日市内の得意先へ売りに行っていたよ。そんな光景が昭和30年代まで続いていたと思うね。

耕地整理も早く昭和4年に完成し9割方の田んぼが200坪になっているよ。
昭和25年に農業試験場跡に二軒長屋の市営住宅26戸が建設され、平成3年に東部中学、平成11年11月11日にナッピーモールがオープンして一挙に市街化が進んだよ。
平成18年から159号線の拡幅工事で立ち退きが始まり、七尾唯一の4車線で中央分離帯のある立派な道路が出来たけど、これは住む人にとっては案外不便になってしまったんだよ。

現在の在所

少子高齢化の中で町内をいかに結束維持していくかが大きな課題だね。全世代を通じて在所が振れ合えるのは祭りだと思うんだ。
小さな在所の起爆剤になればと昨年10月に100年ぶりに神輿の修繕をしてピカピカの神輿で町内を回ったけど良かったよ。御招待の家では最後に七尾まだらの唄と踊りも子供たちで披露するんだ。

それと明治元年より藤野町で住んでいて亡くなった人の追善供養を毎年2月に若衆御講として執り行っているんだ。
現在までに487人の法名と命日、俗名を書いた掛け軸があり二幅目になっているよ。
神社の一音観音は一言観音とも呼ばれ、1回の願い事は叶えてくれると言われているので毎年受験シーズンにお参りにくる人がいるよ。但し2回は聞いてくれないんだ(笑)。近くに店が並び、中学生の声が聞こえ、住み良い町になったことに感謝して、次世代に藤野魂を繋いでいかんとね。

あきこの一言

先人を偲び、知恩報恩の心を繋ぐ、
藤の花、咲き乱れし在所、今も輝く。


第156回 七尾市盤若野町


町名の由来

今から344年前の江戸時代、延宝3年の文献に盤若野という文字が出てくるそうだよ。昔、ここに高麗人の集落があって須恵器や埴輪を焼いていたそうなんだ。それでここが埴屋野(はにやの)と呼ばれ、盤若野となったという説があるようだね。この辺り一帯で焼き物に適した粘土が採れ、瓦工場がいくつもあったのは、そんな名残なんだろうね。

大正10年に池崎の瀧の谷内坊山の裏手に発見された陶窯跡は江戸天保年間に越前から来た三郎右エ門という人が、瓦を焼いた窯だと言われているんだ。

昔の在所

在所の田んぼは5年前に圃場整備が完成したけど、それでも深い所があるほど昔から沼田だったんだ。三代将軍徳川家光の時代に中島の熊木郷から三輪重助という人が、命によって入百姓として盤若野に来て沼地開墾に努力してくれ、当時94石だった村高を305石にまでにしてくれたんだ。おかげで潤った在所はお寺を改築したり敷地を寄進したりしているんだよ。

小さな在所だけど酒蔵を持つほど財を成した地主もいたし、祭りになればオヤッ様が小作にご馳走を振舞っていた時代が続いたんだ。子どもの頃田んぼには小さな浅い池がいくつもあって、どぼどぼだけどその上にナマズがいて捕まえては遊んでいたよ。機場も5軒あって夕方学校からの帰り道に明るくて音がしているので安心感があったね。それと昔の盆踊りでは、足をけっころがして踊る鈴木主水が流行っていたなぁ。

現在の在所

高階地区の中でも一番高齢化率が高い在所になってしまったよ。昔は子どもだけでも100人以上いたのにね。今小学生が3人だよ。それでも秋祭りには獅子舞を出しているんだ。子どもがいないので大人が踊るんだよ(笑)祭りとは自分達が楽しむことなんだ。昔は貧しくて閉鎖的な暮らしの中でも祭りになるとみんなが集まって、一杯飲んで楽しんだんだ。伝統は続けられるうちは少し無理をしてでも続けんとね。ここは伊久路から習った越中獅子で、衣装や烏帽子も婦人たちの手作りなんだ。

4年前からお盆には世代間や里帰りした人も故郷の人たちと顔を合わせられるようにと焼き鳥、焼きそば、流しそうめん、カキ氷など模擬店を出して夏祭りも始め、平成元年に神社を、平成16年に善行寺の本堂を建て替え、平成20年に集会所を新築、みんなで協力して一生懸命、今を頑張っているんだよ。

あきこの一言

暮らしの中に楽しみを作り、
仲良く暮す盤若野の人々。


第155回 中島町宮前


町名の由来

お熊甲大祭、通称二十日祭りの本社前にある在所だから宮前なんだよ。七尾市と合併前は、宮の前だったんだ。七尾市になって宮前(みやまえ)になったけど、中島の人は今でも(みやのまえ)と呼んでいるよ。

お熊甲祭り

熊甲祭りの本社の正式名称は久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこ)で、これは日本で2番目に長い名前らしいね。ちなみに1番は奈良県明日香村にある神社だそうだよ。

9月20日には19の末社から猿田彦を先頭に、鐘、太鼓に神輿、枠旗が集まる能登の奇祭の一つで、七尾市ではいち早く昭和56年に国の重要無形民族文化財になっているんだ。

祀ってある神様は3世紀から4世紀ころの朝鮮の王族だとも言われているけど、祭りの原型はもっと古く、紀元前の中国、殷、周の時代にあると横田在住の篆刻(てんこく)作家の大場さんが断言していたよ。それは大場さんが篆刻の漢字を調べていた時に、青銅器に彫られた金文で篆書体の中で一番古い形に、熊甲祭りの枠旗と同じような、どぼんこをつけた枠旗を人が担いでいる象形文字のような、旅という字を見つけ驚いたと言っていたよ。

もともと旅と言う字は軍列を意味して、旗を掲げて多くの人が他所に出向くということだそうだよ。それで昔は五百人の軍隊を旅団と言ったのだね。そういえば祭り道具も槍や薙刀、弓矢など武具を揃えて行列しているし、釶打地区の新宮祭は出陣の太鼓だと言われ、熊甲祭りは凱旋の太鼓だと言うから、昔は五穀豊穣を祈るのと違う意味があったのかもしれんね。

現在の在所

3年前に青年団と壮年団を解散したんだ。高校生以下が4人しかいなく高齢化が進んだよ。年に1回の防災訓練を兼ねてグランドゴルフ大会と懇親会をしているけど、あと特別何かをという事はないよ。

ただ二十日祭りだけはお膝元なので頑張らないといけないね。宮前の太鼓は在所で一人の女子中学生の友達に応援に来てもらっているけど、可愛い子ばかりで祭りの華になっているよ。露天も昔は100店は並んだけど今はだいぶ減ってしまって寂しいよ。宮前は熊甲を核にして売り出すことが出来ないのか、知恵をだす正念場だと思っているんだ。

あきこの一言

古代からの神事と祭り、
宮前の空に映える真紅の大旗。


第154回 七尾市神明町


在所名の由来

安土桃山時代に建てられた神明神社が現在の興能信用金庫付近にあったんだ。この辺りは府中のはずれ、矢田郷村、所口村の境で一帯は田畑か未開の土地だった所だよ。畠山義綱の書状にも神明之地を占拠したが反撃にあったと書いてあるのは、この辺りのことだと思うよ。

明治42年発行の七尾町図には、ここは矢田郷村の田んぼでまだ町は無いけど、大手町通りの一番端に神明神社と記載されていて、当時から「神明さん、神明さん」と呼ばれ親しまれていたようだよ。昭和25年の新市制の町名変更で神明さんのある町として神明町が誕生したんだね。神明神社は明治6年に松尾神社と改称し、昭和46年に所口町に移転しているんだ。

昔の在所

大正14年に七尾駅が今の場所に来たけど昭和の始めはまだ寂しい場所でね、ここに嫁いできた娘は、こんな恐ろしい所に嫁に来たと言っていたくらいなんだ。流れていた川はきれいでね、フナ、どじょう、うなぎも獲れたしイサザまで上がってきたんだ。

昭和20年代にバスターミナルやグンゼの織物工場も建ち、ローラースケート場まであったんだよ。グンゼの工場は2階が養蚕で絹糸を紡いでいたけど、そこの高い煙突に登って怒られた思い出があるよ(笑)。昭和30年代からの高度成長期が始まり、映画館のオリオン劇場がオープンし、割烹秀よし、純喫茶エンゼルなど飲食店や医院も並んで、七尾の玄関口、政治経済の中心地になっていったんだ。私の家も焼きまんじゅうにお菓子や果物など売っていたけど、小売店はどこも午後10時まで店を開けていたよ。一杯飲んだ人たちが、列車やバスの終電まで馴染みの店に顔をだして時間待ちしていくんだよ。

現在の在所

ミナクルが建って垢抜けた感じもするけど、町会としては65歳以上が半分以上、冠婚葬祭を互助できない限界集落だよ。未開の寂しい場所が、七尾一の繁華街になったと思ったら限界集落の要件を満たし、短い歴史の中で栄枯衰勢を体験してきた町だね。

ここで暮らしてきたから感じるんだけど、七尾は駅前を核に中心市街地と連動する超コンパクトシティーを早く形成させなければならんと思うよ。ますます高齢化が進む時代にどう暮らすのか、市全体でビジョンを掲げて町を再生させないと、どうにもならんよね。

あきこの一言

栄枯衰勢は世の習い。
時代の中で知恵を出し生き抜く


第153回 中能登町 能登部上


在所名の由来

鎌倉時代の古文書で能登部村という文字が初めて出てくるようだけど、雨の宮古墳があるから古墳時代から人が住んでいたことは確かだよ。野球部やサッカー部など部とは集団を意味する言葉でね、数軒ずつが点在して暮らしていた時代に、何か目的をもってかなりの人数が集まっていた場所だと思うんだ。

山の頂上にあれだけ大きな古墳があるから、当時能登を支配していた王がいたと想像できるので、かつてここが能登の中心地で多くの民が暮らしていたのではないかと思っているんだよ。

雨の宮古墳

子どもの頃はあれが古墳だとは知らんかったよ。山のてっぺんに土俵があって毎年8月14日に相撲大会をしていた場所なんだ。その山が前方後方墳で能登最大級の古墳だと言うので驚いたよ。

能登部神社の3代前の宮司で、能登部町史を編纂した清水一布さんが何かを感じられて県に調査を促したんだ。県と明治大学が平成4年から本格調査を始めたら、すでに誰かにほじられていたことがわかったんだ。国の重要文化財になっている神獣鏡など、副葬品まであと数十センチで手が届くところまでほじってあったそうだよ。

今は綺麗に整備されて多くの観光客も訪れているし、14年前から雨の宮を護る会を結成して、毎年古墳まつりを行っているんだ。

在所の今昔

まだ誰も織物に携わっていない明治時代に、当時24歳の丹後徳蔵さんが手織12台の機業場を創設したんだ。幾多の苦労を乗り越えて大きな会社に育て上げ、中能登の繊維産業のパイオニアだよ。そのお屋敷が町に寄贈されていて国の登録有形文化財にも登録されたんだ。今、趣ある通りを文化財にしようと文化庁に申請する準備をしているけど、その要の建物なんだよ。

11月19日の夜、この通りを密かに歩く「ばっこ祭り」があるよ。能登部神社の男神が、隣の西馬場の愛宕神社の女神を迎えに行き、能登部神社奥の院へ連れて入り逢瀬を楽しむんだ。行列は無言で、行列を見た人は目が潰れると言われているから犬が鳴いても人は誰も出てこないよ。足跡から女神を連れていったことがばれないように帰り道はわらじを前後逆さまにして履くけどこれが痛いんだよ。あの痛さは履いた者しかわからんよ(笑)。歴史ある在所なので一丸となって末永く栄えていく努力を続けないとね。

あきこの一言

神がいて、王がいて、民が暮らす
悠久の歴史の中に活かされ、今を生きる。


第152回 能登島町 閨


在所名の由来

昔は閨と無関が一つの村で、室町時代の古文書には禰屋牟関と書かれているようだよ。閨の入り江の中にある鴫島で行者が寝ながら行う心行をしていたんだ。それで臥(ふせ)行者と呼ばれ、その場所には今でも行者が寝ていたと思われる石畳が残っているよ。

鴫島は今陸続きになっているけどそこを行者鼻と呼んでいるんだ。行者が寝て修業していたので寝屋とも呼ばれ在所名の由来になったようだね。

昔の在所

島八太郎の一人で水蔵右衛門という人が閨にいたようだよ。子孫は残っていないけどね。元の在所はフィッシングパーク辺りにあったと聞いているけど江戸中期以降に今の漁港のある場所に移ったと思われるんだ。それは閨には古屋八郎兵衛と和田磯五郎の二名が流刑されているけど、今の場所に一番先に入った家が古屋さんだと伝わっているからだよ。

石屋、大工、鍛冶屋、木挽き、桶屋などの職人と半農半漁で暮らしを立ててきた在所でね、昔は鱈漁が盛んで丸木舟を漕いで穴水の近くまで行って漁をして船一杯にして帰ってくるんだ。浜に集まった人がそれを貰って軒下に吊るして干してあった風景が懐かしいよ。

松茸もよく採れてね、在所の松茸山は青年団が管理して山ごと入札するんだ。それが若い衆の収入源で北海道や九州に一週間旅行に行っていた時代もあったよ(笑)。雑苔でも採るように竹かごに一杯採れた松茸は味噌漬けにして、干した鱈とが弁当のおかずだったけど最高だったなぁ…。

各家には田んぼを耕す牛を飼っていてね、子どもは朝と学校から帰ってから餌の草刈りが日課だったよ。これをやらないと青柏祭や明治節に七尾へ出かける小遣いが貰えないんだ。七尾で山藤のうどんを食べるのが楽しみだったよ。

現在の在所

ゴルフ場が出来たり、別荘地が出来たり、道も良くなって働きに出て現金収入を得ることも出来るけど、あくせく働かなくてはならない時代にもなったね。

あぜ道を歩いて学校に通っていた子どもの頃のあのチベットのような情景が懐かしいね。にぐ縄を編んでわずかな現金収入を得て支払いは盆暮れのあんな時代に戻れば良いと思うこともあるんだ。そうは言っても前向きに進まないことにはね(笑)。

今在所では耕作放棄地をこれ以上増やさないためにも圃場整備を進めようと話が進んでいる所だよ。

あきこの一言

鴫島に残る史跡と豊かな自然。
人良し、空気良し、水も良し。


第151回 中島町横見


在所名の由来

伝わっている話もないし、在所事に詳しい人にも聞いたけどわからないんだ。

それでいろいろ考えてみたんだよ。今年は能登立国1300年、越前国から羽咋、能登、鳳至、珠洲の4つの郡が独立して能登國が出来たということだけど、ここは旧鳳至郡と隣接する在所でね。そして在所のほとんどが隣の穴水町曽福のお寺の門徒で、そんな事から想像して地勢的に歴史の中で両隣の在所と上手くやっていくために、横を見ていかなければならんこともあったかもしれんね (笑)

誰か本当の横見の由来を知っている人がいたら教えてほしいんだけどね。

在所の昔

年寄りから聞いた話をいくつか紹介するよ。

幕末の頃、在所に佐野太郎左衛門という侍がいたんだ。新潟から来た武士で外の室木さんからお金を借りて北前船の事業を始めたんだ。新造した北前船の初航海でしけにあい沈没して借金だけが残ったんだ。
この侍は在所のためにも働いた人でね。山と海に挟まれた在所の田んぼは千枚田のような段々の田んぼだったんだ。この田んぼに山から水を引く水路を作るとき、夜、在所の人に高張提灯を持たせて、提灯の高さで勾配の目処を付けて水路の位置を決めていったそうだよ。

もう一つ、田岸との境に臼坂という茂みがあって、そこに天狗様が足をぶら下げて昼寝していたんだ。その天狗様の足を侍の子孫が刀で切り落としたんだ。その時大きい雷が鳴り天狗様は能登島に行ってしまったんだ。その後、侍の家の祖父さんが重い病気になり、何とか治してあげたいと願う孫に、枕の下に仏様を敷いて寝れば治るとお告げがあったんだ。それで曽福の門徒寺に頼むけどそんな罰当たりなこと出来ないと断られたんだ。それを聞いた釶打上畠のお寺が人助けのためなら仏様も許して下さるじゃろと貸してくれたら、なんと病気が治ってね。それで佐野家は上畠のお寺の門徒に変わったと伝え聞いているんだ。

現在の在所

山裾にあった在所に昭和7年鉄道が通ったので全世帯が海岸に移ったんだ。海岸線の曲がりくねった細い道が国道となり、在所の山の殆どがゴルフ場建設用地として買収されたりと移り変わりを感じるね。

人が減っていく中、横見を気に入ったと来年4月に神戸から4人家族が移住してくるんだ。このご時世に明るい話題で嬉しいね。

あきこの一言

お侍と天狗様、小さな在所に面白い話。
歴史の中に活かされて、今に暮らす。


第150回 七尾市古城町


在所名の由来

室町時代の七尾城、戦国時代の小丸山城、二つの城があったけど、古い方のお城があったということだね。ここの大手門跡から本丸へと道が続いているんだよ。

後で七尾へ入った前田利家が城山を使わなかったのは、天然の良港を活用し新しい時代に備えたんだね。琵琶湖畔に信長が安土城、秀吉が長浜城と船での交易で経済を発展させていたからね。

昔の在所

戦乱が終わり、ここ武家屋敷跡に各地から移り住んできたようで、鹿島の武部から来たという話も聞いているんだ。江戸時代には大豆や小豆、大麦や小麦、菜種など栽培し、菜種は所口町の油屋に売って、12世帯、54人、馬4頭と記録にあるよ。
在所の八幡神社は七尾城内にあったものを移したらしいんだ。

年寄りに聞いたけど終戦後に忠魂碑を建て、その後スキー場を作っているんだね。小池川原町と土地を出し合って共同で作ったかなり大きなスキー場で市内から沢山滑りに来たそうだよ。

それと城山展望台が出来た時に殿様の子孫で荏原製作所創業者の畠山一清さんを籠で担いで登り、古城婦人会がめった汁を炊いてみんなに振る舞ったと叔母さんから聞いているよ。

これから

牡蠣棚に使う竹を出していたくらい孟宗竹の林が続き、辺り一面はきれいな畑だったね。今では竹薮は荒れ、畑も山になってしまったよ。そこを大手門跡から続く遊歩道が通るけど、毎年行なっていた草刈もここ数年やれていないんだ。シーズンには学生や家族連れが結構来るので何とかしないとなぁ。山頂の整備と合わせて行政で対応してもらえれば有難いんだけどね。

大正13年に小池川原、古屋敷、竹町の人たちと落ヶ谷の滝で雨乞いした16日目に雨が降ったんで、竜神様にお礼をと、十数人で抱える程の藁で作った大きな大蛇を大谷川に流し、府中の浜に掲げて燃やしてお参りしたと言うよ。そして感謝の不動尊を滝のそばに安置したんだ。真舘精三さんと娘婿の次郎さんが野ざらしではと祠を作ってくれたんだ。

真舘家では毎年11月28日に妙観院さんに来てもらい不動尊をお参りし、元旦は大雪でも不動尊に参詣してからお雑煮を頂くというから、恩を忘れず人知れずお礼を続けている姿に頭が下がるんだ。共助とはそんな精神を一人ひとりが持ち合わせることだと教えられるんだよ。

あきこの一言

在所ごとを我が事とする精神、
歴史ある在所に見習う姿あり。


第149回 七尾市阿良町


在所名の由来

江戸初期の絵図には新町どをりと記載されているけど、その後に阿良町と変ったようだね。たいてい阿良町のルーツは荒れた土地に人が住み新しい町が出来ていく中で、荒町とか新町となって、同じ地名が先にあれば、当て字で阿良を用いたりするみたいだね。

昔の在所

前田利家が作った城下町で商家が多く、明治時代には七尾警察署や七尾町役場もあったけど明治28年の大火で町が全焼したんだ。明治33年に七尾町立商業学校が小島から移転してきたけど、これも明治38年の大火で焼失するんだよ。この学校が後に七尾実業、七尾商業、そして東雲高校となっていくんだね。

明治時代に汽船会社を興し北海道航路を開いて活躍した樋爪譲太郎氏のりっぱなお屋敷があったんだけど、戦後アメリカ占領軍が進駐し昭和25年まで拠点としていたんだ。その跡地に東映の映画館やバーなど飲食店が並ぶ繁華街が出来たんだね。八百屋、魚屋、おもちゃ、貸本、菓子、靴、床屋、うどん、時計、乾物、燃料、豆腐、クリーニング、桶、電気、自転車、産婆、等々この町だけで不便なく生活が出来たんだ。本当に活気があったよ。

お隣が馬車の荷台を作っていてね、私の家の前に馬を繋いで荷台や車輪の修理をしていたよ。そこのおばあちゃんが木屑を燃やした灰でジャガイモやサツマイモをふかしては遊んでいる子供達に食べさせくれたんだ。懐かしいよ。

現在の在所

なんと言ってもちょんこ山かな。本宮さんの春祭りで、米町、木町、一本杉、生駒町、亀山町と六台の山車が出るんだ。昔はしゃぎりは長男しかやれないんだ。阿良町は笛、太鼓は子供で三味線は芸者さんを頼んでいたんだ。酔った大人が芸者さんに花を打ち山車の上も賑やかだったよ。昭和34年頃までは御祓川を渡って東部地区も巡幸していたんだけどね。今は少子化で阿良町ではだいぶん前から録音テープを流して曳いているんだよ。

沢山あったお店もほとんど無くなって昔の賑わいは無いし、空家も増えるし、12班から11班に減らしたところなんだ。そんな中でとにかく出来る事を一つ一つ成していくことが大事だと思うよ。防犯灯のLED化は今年で完了するし、夜玄関を出ると賑わっていた昔よりも明るくなったよ(笑)。2月には臼と杵とせいろを準備して餅つき大会を行なったんだ。

子どもたちに日本の文化を伝えるのと、町内のコミュニケーションを深めるためにね。参加できないお年寄りにはあんこときなこの餅を届けて絆を確認するんだよ。大切に残すもの、変えていくもの、今まで以上に求められる時代になったようだね。

あきこの一言

中心市街地の今昔、時の流れに添い暮す。
いつの世も、幸せは己の中に見出すもの。


第148回 七尾市殿町


町名の由来

白山、小松、加賀にも殿町という地名があり、そこは城下や武家屋敷跡が由来のようだけど、ここには確かな話が伝わっていないんだ。城山から山道が通じているので年寄りがロマンとして語るには、畠山の殿様の別荘か隠れ家があったという話や、七尾城が攻められた時の殿(しんがり)を務めた侍が住んだからだとか囁かれている話はあるけどね。調べてみるとね、ここのような段丘の地形を棚と言って、その「たな」が「との」に転化したという説もあるんだよ。

昔の在所

昭和30年過ぎまでは外へ働きに出ることもなく、山に挟まれた土地に男は田畑に山仕事、女はむしろを作って暮らしを立てたんだ。少しでも農地を増やすため山裾を掘削したマンポに崎山川の水を回して元の川を農地にしたんだ。そんなマンポが3箇所あるよ。

江戸時代には田んぼに出来ない畑に煙草を作って「山崎煙草」と称して七尾城下の所口町へ売り出していたようだね。崎山半島の西が七尾湾、東が灘浦で双方を結ぶ山道が何本も横断しているんだ。庵の虫崎からは柑子山、佐々波からは清水平を通って佐野を抜けて七尾へ入り、江泊や白鳥は沢野の柏戸から湯川を通って赤崎へ出て七尾へ入るんだ。殿にも大田や沢野へ通じる山道があってその要衝に地蔵様と板碑があり管理していたけど、現在は国道沿いの大きな阿弥陀三尊の板碑だけを春と秋にお参りしているんだ。

昭和5年から昭和12年にかけて交通不便を解消しようと殿と近隣の在所の人たちで大田までの道を開設したんだ。冬場仕事が無い時に少しずつ進めていったそうだよ。つるはしでトンネルまで掘っているから先人の努力に頭が下がるんだ。そのトンネルが昭和37年に改修工事され昭和40年には国道160号線に指定されたので殿トンネルは在所の誇りの象徴でもあるんだよ。

これから

子供の頃はあぜ道一本、山の中までもきれいに手入れされた里山でね、朝靄がかかれば空気が一段と澄んで山水画の世界が現れ、日本の原風景を絵に描いたような在所だったけど、今は手入れが行き届かなくなってね…。

高齢化が進む小さな在所なので互いに支え合うためにも、この秋からみんなで道路沿いの荒れた畑に桜の苗木を植えようと話し合っているんだよ。

あきこの一言

トンネルを抜け板碑を曲がれば、
穏やかな空気が流れ、心安らぐ在所。


第147回 中島町河内


町名の由来

山に囲まれていてその中を流れる川沿いに人が住むとそこを河内と名付けるのではないかと思うよ。白山市の旧河内村は手取川と直海谷川の合流点だし、穴水の河内には山王川に支流が何本も合流しているし、ここも熊木川と河内川が合流する場所なんだ。川の内にある在所で河内。本当の由来はわからないけど、地形的には共通しているので頷けるんだよ。

昔の在所

山の木で暮らしを立てて来た在所だよ。山をたくさん持っている家を「おやっさま」と言ってね。その「おやっさま」が毎年1枚の山を切るんだ。それで1年間の生活が出来たのだよ。切出した山に植林し50枚山があれば50年サイクルで循環していくんだ。山師が山を眺め木の石高を見積もり売買するんだ。

河内には「おやっさま」が何軒もあるのでその木を切ったり、山から運び出したりと木こりや歩荷(ぼっか)の仕事が切れることがなく続いたんだ。山道に枝を敷いて「きんま」というそりに丸太3本積んで滑らせたり、1本ずつ縦に担いで山を降りていたね。それや炭焼きで現金収入を得てたんだよ。それと手に職をと大工や左官を目指すんだ。

交通手段が無いからどこにも出れず、男は在所に分家し、女は全員在所の中に嫁ぐからみんな親戚になっていくんだ(笑)。釶内地区にお寺が五つもあるのは山の木のおかげで財力と材料と職人が揃ったからではないかと思うんだよ。

現在の在所

戦後テレビに冷蔵庫と生活が贅沢になり山を3枚売っても4枚売っても足りないし、外へ出た若い者は戻らんし、在所の中は年金暮らしの年寄りばっかりで地元負担の伴うような事業は出来なくなったよ。

そんな中、在所最後の囲炉裏で300年以上灯し続いた火様を守ってきた中谷さんのおばあちゃんが亡くなる時にまた一つ大事な遺産が消えると心配したけど、お隣の岩穴さんの娘婿でお医者さんの森田さんが受け継いでくれ本当に感謝してるんだ。森田さんご夫婦が河内の自然を愛していてね、田舎暮らしを満喫してもらう民泊の計画もあるらしいので明るい話題だね。

10月には真宗の御崇敬(ごそうきょう)という津幡から七尾までの範囲で200年以上続く大きな法会の宿寺が36年ぶりに釶内地区が受け持ち、今回は河内の託因寺で行なわれるので火様の火でろうそくを灯したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

大蛇淵と岩穴の伝説を聞き坂道を歩く。
大きな欅、川の流れ、静かな空気、心穏やかなり。


第146回 田鶴浜高田


町名の由来

鎌倉時代の古文書に高田保として地名が出ているそうだよ。その当時の書状に高田彦次郎、高田弥次郎の名前が出てくるのだけど高田保の領主ではなかったのかと目されているから在所名の由来となったのではないかと思うよ。高田は高田七家と言われる草分け7軒で開発されたとも伝わっているようだね。

昔の在所

二宮川の流域に広がる在所でその水を利用し農耕で暮らしてきたのだけど、この川がよく氾濫して悩まされていたんだ。それで戦後の耕地整理で川の付け替えを行っているんだよ。その付け替え前の二宮川で歴史に残る乱闘事件が起こっているんだ。宗貞寺の前に水辺公園があるけど、そこから県道までの間に17mの高田橋が架かっていたんだ。

明治25年第2回衆議院選挙では中島、田鶴浜、高階、鳥屋地区の投票場が田鶴浜の東嶺寺だったんだ。鳥屋の人はこの高田橋を渡って投票に行くのだけど、ここに田鶴浜消防団「浜竜組」が陣取って投票場に行かせなかったんだ。負傷者多数、死者2名というから凄い話だよ。これは政府自らが衆議院での劣勢を挽回するためにあらゆる手段を使って野党を弾圧したんだ。野党側で現職の神野良の地盤が鳥屋で、政府側は中島の橋本次六を応援したんだ。結果は橋本次六が当選し、野党は事件の首謀者を訴えたけど控訴審で無罪になったんだよ。血生臭い歴史もあるけど、娑婆に暮らすということはそういうことなんだろうね。

現在の在所

20年前に町が宅地造成してから若い世代が移り住んで班が6班から9班に増えたんだ。インターチェンジが出来て商業施設が来て生活は本当に便利になったよ。

ただ近年はご多分にもれず少子高齢化の影響が出てきてね、高田では能登の国二十一番札所の橋爪観音祭と地蔵祭と夏に2回子供奉燈が在所を回るんだけど残念な事に今年は出せなかったんだ。子供たちはろうそく銭を貰うのが楽しみだったんだけどね。

唯一在所中が集まるのが高田伝統の平夫(ひらぶ)の日なんだ。今は一斉クリーン運動として道路と川の草刈り、町内のゴミ拾いを全世帯が参加して行うんだよ。平夫とは全員が平等に人夫として作業するということなんだ。この結束力を秋祭りにも繋いで行きたい所なんだけどね。在所の運営も世代交代の時期に来ているし、そろそろ新しい班から町会長が出て引っ張ってもらえればと思っているんだよ。

あきこの一言

人が住み、村ができ、助け合って暮らす。
昔も今も、高田の在所。


第145回 中能登町小竹


町名の由来

昔は畑だったけど今では山になっている「お林」という120名からの共有地があるんだ。そこに「舘」と呼ばれる砦跡があったんだ。豪族小竹氏の砦でね、その名前が在所名の由来だと古老から聞いているよ。その砦の石が在所の瑞泉寺の石垣に使われ今でも残っているようだよ。

昔の在所

小竹の文化遺産とも言える話があるんだ。江戸時代に隣の久江の在所と境界争いがあったんだ。能登部のかんめんから枯木谷の峠までの尾根伝いを主張する久江とその直線を主張する小竹の争いは藩の奉行所でも採決できなかったので、小竹村の酒井惣左衛門が大事な自分の土地なら食べられるだろうと、主張がぶつかる土地の土を食べ比べすることを提案したんだ。大きな黒椀に土を盛ってたべ始めたら久江の人は二杯食べて倒れてしまったんだけど、酒井惣左衛門は三杯食べて小竹の主張する境界に決まったんだ。それほどまでに争ったのは山にある湯の谷池と新池の争奪戦だったんね。

水の無い小竹にとっては死活問題だったんだよ。酒井さんのお陰で小竹が救われたんだけど、酒井さんはそれで死んでしまったんだ。

命を賭けて在所を守った酒井さんのご恩を忘れてはいけないと屋敷跡に猿田彦神社を建て、お墓は峠に向かって建てられているんだよ。この話には続きがあってね、山のため池から小竹に水を引くことが難しい地形だったんだ。それで宝達金山の職人を雇って4本の隧道を掘って1.2㎞の江黒用水を引いたんだ。

現在の在所

ガチャガチャと24時間聞こえた機織工場が1軒も無くなり、子供のいない家が数軒あったけど、今は子供のいる家が数軒と寂しい限りだよ。在所の4つの組も今年から3つに再編し、壮年会も解散し納涼祭もやれないんだ。女性会、長寿会も会員が増えないし、みんな気楽な生き方を求めるご時勢だね。いろんな活動に積極的に参加して絆を強めることが在所の活力だと思うんだ。

そして出た人が戻り、移住者も魅力を感じる様な在所にするために、古くからのしきたりやしがらみも時代に合わせて変えなければならんと思うよ。唯一在所が結束するのは祭りとため池の堤防やそこへ通じる道路の草刈りなんだ。そう思うと今でも酒井惣左衛門さんに救われている在所なんやね。

あきこの一言

お墓の前で枯木谷の峠を見上げる。
麓に並ぶ家々は、命を捨てた酒井惣左衛門さんが守った在所。


第144回 中島町瀬嵐


在所名の由来

「せあらし」でなく「せらし」と発音するんだ。室町時代には瀬良志で、江戸時代には瀬嵐になっているようだけど由来はよくわからんよ。中島には熊甲祭の藤津比古神が瀬嵐に光臨して、鎮座地を決めるためにここから弓を放ち谷内の加茂原に落ちたという伝説があるんだ。熊甲神社の御神体は朝鮮渡来というから瀬良志というのも朝鮮からの由来のような感じもするけどね。

昔の在所

古墳が30基以上も発見されているから古くから人が住んでいたんだね。万葉集の「香島より熊来を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ」の歌は大伴家持が越中国の国司として能登を巡行したときに、七尾の港から中島の熊木まで船で渡った時詠んだ歌なんだ。当時能登は越中国に属していたんだね。もう一首、「香島嶺(かしまね)の机の島の小螺(しただみ)をい拾ひ持ち来て・・・」この歌の机の島が瀬嵐の机島で、確かにしただみがいっぱい採れたよ。この辺りが万葉の里と呼ばれるのはそんな由来で、それで万葉の里マラソンはここ七尾西湾を一周しているんだ。

ここは丸木舟の里でね、昭和20年代には七尾湾一帯で1000隻以上の丸木舟が利用されていたけど全部瀬嵐で作られていたんだ。舟大工も私が子どもの頃でも6軒あって各地から弟子も集まっていたけど要の技術は地元の人間にしか教えなかったと聞いたことあるよ。技を継承するために作られた最後の一隻がお熊甲の祭り会館に展示してあるんだ。

小学生の頃、日曜日に天気が良ければ弁当持って家中で丸木舟に肥しを積んで向かいの種子島(たがしま)に渡って畑仕事を手伝わされたけど、朝行けば夕方まで帰れないので本当に嫌だったよ(笑)

現在の在所

祭りで結ばれている在所やね。都会に出た人は正月も盆も帰らんと熊甲祭りに帰ってくるんだ。祭前夜は在所の両端にある奉幣宿と神社を鐘太鼓を鳴らし朝まで数時間おきに往復し、早朝5時から舟に神輿や大旗を積んで海を渡り熊木川を上って祭りに出るんだ。祭りが終わり夕暮れの海に鐘太鼓の音と共に提灯を灯した舟が遠くに見えると、港では無事を祈り帰りを待つ人々の間に、得も言われぬ連帯感が生まれるんだ。

そしてすべての祭り道具が故郷を想い都会で暮らす関東瀬嵐会の寄付なんだよ。本当に団結心の強い在所でその証が祭りなんだ。

あきこの一言

櫓を漕ぎ渡る種子島、二艘仕立ての祭り舟。
万葉のロマン漂う瀬嵐の在所。