こみみかわら版バックナンバー

第148回 七尾市殿町


町名の由来

白山、小松、加賀にも殿町という地名があり、そこは城下や武家屋敷跡が由来のようだけど、ここには確かな話が伝わっていないんだ。城山から山道が通じているので年寄りがロマンとして語るには、畠山の殿様の別荘か隠れ家があったという話や、七尾城が攻められた時の殿(しんがり)を務めた侍が住んだからだとか囁かれている話はあるけどね。調べてみるとね、ここのような段丘の地形を棚と言って、その「たな」が「との」に転化したという説もあるんだよ。

昔の在所

昭和30年過ぎまでは外へ働きに出ることもなく、山に挟まれた土地に男は田畑に山仕事、女はむしろを作って暮らしを立てたんだ。少しでも農地を増やすため山裾を掘削したマンポに崎山川の水を回して元の川を農地にしたんだ。そんなマンポが3箇所あるよ。

江戸時代には田んぼに出来ない畑に煙草を作って「山崎煙草」と称して七尾城下の所口町へ売り出していたようだね。崎山半島の西が七尾湾、東が灘浦で双方を結ぶ山道が何本も横断しているんだ。庵の虫崎からは柑子山、佐々波からは清水平を通って佐野を抜けて七尾へ入り、江泊や白鳥は沢野の柏戸から湯川を通って赤崎へ出て七尾へ入るんだ。殿にも大田や沢野へ通じる山道があってその要衝に地蔵様と板碑があり管理していたけど、現在は国道沿いの大きな阿弥陀三尊の板碑だけを春と秋にお参りしているんだ。

昭和5年から昭和12年にかけて交通不便を解消しようと殿と近隣の在所の人たちで大田までの道を開設したんだ。冬場仕事が無い時に少しずつ進めていったそうだよ。つるはしでトンネルまで掘っているから先人の努力に頭が下がるんだ。そのトンネルが昭和37年に改修工事され昭和40年には国道160号線に指定されたので殿トンネルは在所の誇りの象徴でもあるんだよ。

これから

子供の頃はあぜ道一本、山の中までもきれいに手入れされた里山でね、朝靄がかかれば空気が一段と澄んで山水画の世界が現れ、日本の原風景を絵に描いたような在所だったけど、今は手入れが行き届かなくなってね…。

高齢化が進む小さな在所なので互いに支え合うためにも、この秋からみんなで道路沿いの荒れた畑に桜の苗木を植えようと話し合っているんだよ。

あきこの一言

トンネルを抜け板碑を曲がれば、
穏やかな空気が流れ、心安らぐ在所。


第147回 中島町河内


町名の由来

山に囲まれていてその中を流れる川沿いに人が住むとそこを河内と名付けるのではないかと思うよ。白山市の旧河内村は手取川と直海谷川の合流点だし、穴水の河内には山王川に支流が何本も合流しているし、ここも熊木川と河内川が合流する場所なんだ。川の内にある在所で河内。本当の由来はわからないけど、地形的には共通しているので頷けるんだよ。

昔の在所

山の木で暮らしを立てて来た在所だよ。山をたくさん持っている家を「おやっさま」と言ってね。その「おやっさま」が毎年1枚の山を切るんだ。それで1年間の生活が出来たのだよ。切出した山に植林し50枚山があれば50年サイクルで循環していくんだ。山師が山を眺め木の石高を見積もり売買するんだ。

河内には「おやっさま」が何軒もあるのでその木を切ったり、山から運び出したりと木こりや歩荷(ぼっか)の仕事が切れることがなく続いたんだ。山道に枝を敷いて「きんま」というそりに丸太3本積んで滑らせたり、1本ずつ縦に担いで山を降りていたね。それや炭焼きで現金収入を得てたんだよ。それと手に職をと大工や左官を目指すんだ。

交通手段が無いからどこにも出れず、男は在所に分家し、女は全員在所の中に嫁ぐからみんな親戚になっていくんだ(笑)。釶内地区にお寺が五つもあるのは山の木のおかげで財力と材料と職人が揃ったからではないかと思うんだよ。

現在の在所

戦後テレビに冷蔵庫と生活が贅沢になり山を3枚売っても4枚売っても足りないし、外へ出た若い者は戻らんし、在所の中は年金暮らしの年寄りばっかりで地元負担の伴うような事業は出来なくなったよ。

そんな中、在所最後の囲炉裏で300年以上灯し続いた火様を守ってきた中谷さんのおばあちゃんが亡くなる時にまた一つ大事な遺産が消えると心配したけど、お隣の岩穴さんの娘婿でお医者さんの森田さんが受け継いでくれ本当に感謝してるんだ。森田さんご夫婦が河内の自然を愛していてね、田舎暮らしを満喫してもらう民泊の計画もあるらしいので明るい話題だね。

10月には真宗の御崇敬(ごそうきょう)という津幡から七尾までの範囲で200年以上続く大きな法会の宿寺が36年ぶりに釶内地区が受け持ち、今回は河内の託因寺で行なわれるので火様の火でろうそくを灯したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

大蛇淵と岩穴の伝説を聞き坂道を歩く。
大きな欅、川の流れ、静かな空気、心穏やかなり。


第146回 田鶴浜高田


町名の由来

鎌倉時代の古文書に高田保として地名が出ているそうだよ。その当時の書状に高田彦次郎、高田弥次郎の名前が出てくるのだけど高田保の領主ではなかったのかと目されているから在所名の由来となったのではないかと思うよ。高田は高田七家と言われる草分け7軒で開発されたとも伝わっているようだね。

昔の在所

二宮川の流域に広がる在所でその水を利用し農耕で暮らしてきたのだけど、この川がよく氾濫して悩まされていたんだ。それで戦後の耕地整理で川の付け替えを行っているんだよ。その付け替え前の二宮川で歴史に残る乱闘事件が起こっているんだ。宗貞寺の前に水辺公園があるけど、そこから県道までの間に17mの高田橋が架かっていたんだ。

明治25年第2回衆議院選挙では中島、田鶴浜、高階、鳥屋地区の投票場が田鶴浜の東嶺寺だったんだ。鳥屋の人はこの高田橋を渡って投票に行くのだけど、ここに田鶴浜消防団「浜竜組」が陣取って投票場に行かせなかったんだ。負傷者多数、死者2名というから凄い話だよ。これは政府自らが衆議院での劣勢を挽回するためにあらゆる手段を使って野党を弾圧したんだ。野党側で現職の神野良の地盤が鳥屋で、政府側は中島の橋本次六を応援したんだ。結果は橋本次六が当選し、野党は事件の首謀者を訴えたけど控訴審で無罪になったんだよ。血生臭い歴史もあるけど、娑婆に暮らすということはそういうことなんだろうね。

現在の在所

20年前に町が宅地造成してから若い世代が移り住んで班が6班から9班に増えたんだ。インターチェンジが出来て商業施設が来て生活は本当に便利になったよ。

ただ近年はご多分にもれず少子高齢化の影響が出てきてね、高田では能登の国二十一番札所の橋爪観音祭と地蔵祭と夏に2回子供奉燈が在所を回るんだけど残念な事に今年は出せなかったんだ。子供たちはろうそく銭を貰うのが楽しみだったんだけどね。

唯一在所中が集まるのが高田伝統の平夫(ひらぶ)の日なんだ。今は一斉クリーン運動として道路と川の草刈り、町内のゴミ拾いを全世帯が参加して行うんだよ。平夫とは全員が平等に人夫として作業するということなんだ。この結束力を秋祭りにも繋いで行きたい所なんだけどね。在所の運営も世代交代の時期に来ているし、そろそろ新しい班から町会長が出て引っ張ってもらえればと思っているんだよ。

あきこの一言

人が住み、村ができ、助け合って暮らす。
昔も今も、高田の在所。


第145回 中能登町小竹


町名の由来

昔は畑だったけど今では山になっている「お林」という120名からの共有地があるんだ。そこに「舘」と呼ばれる砦跡があったんだ。豪族小竹氏の砦でね、その名前が在所名の由来だと古老から聞いているよ。その砦の石が在所の瑞泉寺の石垣に使われ今でも残っているようだよ。

昔の在所

小竹の文化遺産とも言える話があるんだ。江戸時代に隣の久江の在所と境界争いがあったんだ。能登部のかんめんから枯木谷の峠までの尾根伝いを主張する久江とその直線を主張する小竹の争いは藩の奉行所でも採決できなかったので、小竹村の酒井惣左衛門が大事な自分の土地なら食べられるだろうと、主張がぶつかる土地の土を食べ比べすることを提案したんだ。大きな黒椀に土を盛ってたべ始めたら久江の人は二杯食べて倒れてしまったんだけど、酒井惣左衛門は三杯食べて小竹の主張する境界に決まったんだ。それほどまでに争ったのは山にある湯の谷池と新池の争奪戦だったんね。

水の無い小竹にとっては死活問題だったんだよ。酒井さんのお陰で小竹が救われたんだけど、酒井さんはそれで死んでしまったんだ。

命を賭けて在所を守った酒井さんのご恩を忘れてはいけないと屋敷跡に猿田彦神社を建て、お墓は峠に向かって建てられているんだよ。この話には続きがあってね、山のため池から小竹に水を引くことが難しい地形だったんだ。それで宝達金山の職人を雇って4本の隧道を掘って1.2㎞の江黒用水を引いたんだ。

現在の在所

ガチャガチャと24時間聞こえた機織工場が1軒も無くなり、子供のいない家が数軒あったけど、今は子供のいる家が数軒と寂しい限りだよ。在所の4つの組も今年から3つに再編し、壮年会も解散し納涼祭もやれないんだ。女性会、長寿会も会員が増えないし、みんな気楽な生き方を求めるご時勢だね。いろんな活動に積極的に参加して絆を強めることが在所の活力だと思うんだ。

そして出た人が戻り、移住者も魅力を感じる様な在所にするために、古くからのしきたりやしがらみも時代に合わせて変えなければならんと思うよ。唯一在所が結束するのは祭りとため池の堤防やそこへ通じる道路の草刈りなんだ。そう思うと今でも酒井惣左衛門さんに救われている在所なんやね。

あきこの一言

お墓の前で枯木谷の峠を見上げる。
麓に並ぶ家々は、命を捨てた酒井惣左衛門さんが守った在所。


第144回 中島町瀬嵐


在所名の由来

「せあらし」でなく「せらし」と発音するんだ。室町時代には瀬良志で、江戸時代には瀬嵐になっているようだけど由来はよくわからんよ。中島には熊甲祭の藤津比古神が瀬嵐に光臨して、鎮座地を決めるためにここから弓を放ち谷内の加茂原に落ちたという伝説があるんだ。熊甲神社の御神体は朝鮮渡来というから瀬良志というのも朝鮮からの由来のような感じもするけどね。

昔の在所

古墳が30基以上も発見されているから古くから人が住んでいたんだね。万葉集の「香島より熊来を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ」の歌は大伴家持が越中国の国司として能登を巡行したときに、七尾の港から中島の熊木まで船で渡った時詠んだ歌なんだ。当時能登は越中国に属していたんだね。もう一首、「香島嶺(かしまね)の机の島の小螺(しただみ)をい拾ひ持ち来て・・・」この歌の机の島が瀬嵐の机島で、確かにしただみがいっぱい採れたよ。この辺りが万葉の里と呼ばれるのはそんな由来で、それで万葉の里マラソンはここ七尾西湾を一周しているんだ。

ここは丸木舟の里でね、昭和20年代には七尾湾一帯で1000隻以上の丸木舟が利用されていたけど全部瀬嵐で作られていたんだ。舟大工も私が子どもの頃でも6軒あって各地から弟子も集まっていたけど要の技術は地元の人間にしか教えなかったと聞いたことあるよ。技を継承するために作られた最後の一隻がお熊甲の祭り会館に展示してあるんだ。

小学生の頃、日曜日に天気が良ければ弁当持って家中で丸木舟に肥しを積んで向かいの種子島(たがしま)に渡って畑仕事を手伝わされたけど、朝行けば夕方まで帰れないので本当に嫌だったよ(笑)

現在の在所

祭りで結ばれている在所やね。都会に出た人は正月も盆も帰らんと熊甲祭りに帰ってくるんだ。祭前夜は在所の両端にある奉幣宿と神社を鐘太鼓を鳴らし朝まで数時間おきに往復し、早朝5時から舟に神輿や大旗を積んで海を渡り熊木川を上って祭りに出るんだ。祭りが終わり夕暮れの海に鐘太鼓の音と共に提灯を灯した舟が遠くに見えると、港では無事を祈り帰りを待つ人々の間に、得も言われぬ連帯感が生まれるんだ。

そしてすべての祭り道具が故郷を想い都会で暮らす関東瀬嵐会の寄付なんだよ。本当に団結心の強い在所でその証が祭りなんだ。

あきこの一言

櫓を漕ぎ渡る種子島、二艘仕立ての祭り舟。
万葉のロマン漂う瀬嵐の在所。


第143回 七尾市岩屋町


町名の由来

元々は藤橋町の田んぼだった所に、昭和27年に市営住宅20戸が建てられ新たな町としてスタートしたんだ。藤橋の在所から離れ岩屋化石や岩屋の清水あたりから山裾に広がる田んぼしかないこのあたりを岩屋と呼んでいたのでそのまま岩屋町としたんだね。よく間違えられるんだけど岩屋化石や岩屋の清水のある場所は西藤橋町地内で岩屋町は鷹合川が御祓川に合流するあたりの小さな区域なんだよ。

昔の在所

若い夫婦が市営住宅に移り住んで来たんだ。市営住宅の周りにも家が建ち始め子どもの頃は小中学生で20人くらいいたね。駅前の御祓小学校に通ったけど私が小学2年の時に小丸山小学校と名前が変わったんだ。御祓校下は街なかの子が多かったので、岩屋の子はへんぴな遠い所から来ていると思われていたよ(笑)。

岩屋化石へ行ってはサメの歯や貝殻を採ったり、鷹合川で泳いだりうなぎを獲ったり、裏山で竹スキーしたりして遊んだんだ。川からの用水路も町内に流れてホタルが飛んでいたし、タイリクバラタナゴがいっぱい獲れたんだ。鷹合川が氾濫していたので河川改修した時に用水路への流れを止めてしまったんだ。そうしたらあの綺麗な魚が絶滅してしまったんだよ。

これから

小丸山バイパスが開通したお陰で賑やかな街に変わったよ。大通りに面して衣食住のお店が並びお年寄りは助かっているよ。歩いて5分でなんでも賄える超コンパクトシティーだからね(笑)。大通りから一歩入れば閑静な住宅街だし生活するには便利な所だと思うよ。新しく誕生した小さな町会なのでお祭りもないし行事も春と秋の大掃除くらいかな。

近年はここでも御多分に洩れず少子高齢化が進んでしまい楽しみといえば1月の総会と懇親会で顔を合わすことなんだ。それで隔年で和倉温泉に行くようにしているんだよ。祭りも旅行も無いけど顔の見える町会なので近所同士の仲が良いのと、同年代同士で行き来しているので昔からまとまりが良い在所になっているね。冠婚葬祭など町内の情報はすぐ伝わり協力しあっているんだよ。最近は空地や空家も増えているんだけど、住みよい場所だから来てくれれば大歓迎しますよ(笑)。

あきこの一言

辺境の地で興した在所、
歴史を知り隔世の感。


第142回 七尾市白馬町


町名の由来

伝わっている話では、源頼朝が政略的に源氏の守り神、鎌倉の鶴岡八幡宮を全国の要所に勧請させてその分神を鎮座させていった当時に、能登國七尾から下町の守友さん、飯川町の高田さんと若林町の荒牧さんの先祖が鶴岡八幡宮に出向き、係りの飛助のお供をして御神体を神馬に乗せて運んできたんだ。飛助は騎兵隊の補佐係で役目が終わったので神馬と共にこの在所に永住したんだね。その神馬が白馬だったことが由来だと言われているんだ。

飛助の子孫が登美昭夫さんの家で、その白馬に水を飲ませ、体を洗っていた池が今でも屋敷の中に残っているよ。運んできた御神体は現在徳田町の久志伊奈太伎比咩神社に合祀されて若宮八幡宮として祀られているよ。

昔の在所

莚(むしろ)の一大生産地で遠い昔から白馬の角莚として特産品だったんだ。江戸時代後期に北海道の松前でニシンの豊漁が続き、ニシンを入れる莚の需要が高まり、農家を営む殆どの家の作業場には莚を織る器械を据え付けて、副業として家々で競争して徳田特産の八幡莚として織っていたんだ。納屋には藁(わら)が積み上げられ、これをやわらかくする機械もあって小学校の子どもは縄(なわ)を作るのが仕事だったそうだよ。

莚は荷馬車に積んで七尾港へ運んで、貨物船に積んだらしいよ。昭和10年代まで生産が続いたようだね。高田石材店の裏に前野、中野、奥野と三台地が連なりそれは見事な野畑が広がっていたよ。野菜や葉たばこを栽培していたけど、今は所々が植林され当時の広大な野畑は姿を変えてしまっているね。ちょっと残念だけどしょうがないよ。

これから

さん田川、鷹合川、坂井川、佃川、白馬川と5本の川が流れ、総延長10km以上あるので河川愛護デーの草刈では追いつかず大変なんだ。それで班毎に割り当てて常日頃から草刈など整備してもらっているんだけど、お陰で最近はホタルがたくさん飛ぶようになったよ。ここは班単位で町会運営の協力をしてもらっているんだ。

集会所も毎週班毎に掃除をしてもらうし、白馬町子供の広場で毎年行なう在所の運動会も班対抗なんだよ。今年で44回を迎えたけど、少子高齢化で世話も大変になってきたし何時まで続けるのかという意見あるけど、これが在所全体の絆が強まる唯一の行事なので頑張って続けていかなければと思っているんだよ。

あきこの一言

国の歴史に通じる、郷土の歴史。
先人の営みに思いを寄せる。


第141回 七尾市柑子町


町名の由来

もとは柑子山だったんだ。昭和29年に七尾市と合併する時に山の字を取って柑子町になったんだ。山の中というイメージ払拭したかったという話だよ。柑子とはミカンの一種で、沢山栽培されていたことが町名の由来らしいよ。

昔の在所

江戸時代に庵村から独立分村した在所でね。柑子は山方(やまかた)四ヶ村と言って、外林、小栗、清水平と山の中の在所で、庵や佐々波の在所は浜方と呼んでいるんだ。何百年前か分からないけど元の集落は、山の峠に50軒ほどあったそうだよ。私の先祖と吉田家の先祖が室町時代の蓮如上人の弟子の寺男として能登に布教に来てここに住んだと伝わっているんだ。その吉田家の場所に建てた寺が後に庵へ移った西方寺なんだよ。

昔はシーサイド公園辺りが柑子の網場で漁もしていたそうだけど、大方は山、畑、田んぼで暮らしていたんだと思うよ。この辺りでは一斗ブリという言葉が残っているけど、大きなブリ一匹と米一斗を浜方と物々交換していたんだ。

明治22年には戸数12、人口77人と記録にあるけど、明治30年頃に大火があって村が全焼しているんだ。その頃から村を出て行く人が出始めて数世帯が北海道開拓団として出ているよ。炭を入れる俵を1枚10円の手間賃で作っていたり、庵の大敷に薪を売ったり、浜方の女の人がタラやブリを売りに来たりしていたね。私が子どもの頃で16軒の在所だったんだ。

これから

なんも無いよ。年金暮らしの2世帯がそれぞれに暮らしているだけだよ。猪、狐、狸、兎、イタチ、最近カモシカも見かけたよ。獣の出る山の中での暮らしていると、寂しくないかとか、怖くないかとかよく聞かれるけど、人間の方がよっぽど恐ろしいよと答えているんだ(笑)。

なんにも出来なくなったけど、祭りの日だけは2世帯で宮でお参りはしているんだ。昔は祭の日も仕事を終えてから宮へ集まってお神酒を頂いて夜に神輿を担いたんだ。神主さんには泊まってもらって、翌朝に地蔵石にお参りをするんだ。この地蔵石は明治時代に浜方の虫崎の人が担いでここを通った時に動けなくなり、神様が宿っているので柑子山の人で守ってくれと言われてそれから在所で守っているんだよ。田んぼも草ぼうぼう、鳥居も朽ちて、消滅していく在所だけど、3人でそれなりに日暮らしをしているよ。

あきこの一言

人が住む所、歴史あり。こみみで歴史を伝える使命を感じる。


第140回 中能登町水白


町名の由来

何で水白と書いて「みじろ」と言うのか本当の所は良く分からないよ。在所では「めじろ」と発音しとるけどね。天正5年というから上杉軍が七尾城を落とした年の気多社免田記には「見しろ村」と書いてあるそうだけどね。ここには久江川と小竹川の支流が流れ込んでいて、在所の中をきれいな水が流れているんだよ。個人的には水がきれいだから、いつしか水白と書くようになったんではないかなぁと思っているんだ。

昔の在所

伝わっている話として、水白に木曽義仲が布陣した時、在所の八幡神社に立ち寄って祈願しているようだよ。倶利伽羅峠の合戦の前にここを通ったのかもしれんね。それとここには鍋塚という古墳があるんだ。鍋をひっくり返したような丸い円墳なんだよ。戦時中に芋を植えたので、今は段々になっているけどね。

江戸時代後期の文化13年に外観の調査をして、明治39年に正式に発掘調査したら石棺や銅鏡、刀や鉾が出てきたんだ。偉い人の墓に違いないけど、誰だかわからないので、羽咋市大町の長谷寺にも聞いたけど結局分からなかったと記録されているよ。鍋塚に自分達の親世代が町の許可を得ないで内緒で桜の苗木を植えたんだ。町も黙認してくれたんだろうけど、今となっては桜の名所になるくらい立派に育って、春には多くの人がカメラを持ってやってくるよ。

これから

ありがたいことに親と同居している世帯が多いので、子供も多いよ。そうは言っても、高齢化は進むし、空き家も増えてくるし、どうしたもんかと思うね。平成20年から始めた圃場整備も10年越しになったけどようやく終わりが見えてきてホッとしているよ。時代の流れでいろんな問題が出てくるけど、その時、その時、一つ一つを考えて解決していくしかないと思うよ。

今年は7月に在所の防災訓練をやって、秋には子ども会も含めて公民館で餅つきをしたいと思っているんだ。旧家が多いので臼を持ってきてやれば子ども達も喜んでくれるし、大人も懐かしんでくれるんじゃないかと密かに計画中だよ(笑)それと宮の山の間伐をしたけど、手ごろな丸太がいっぱいあるから欲しい人がいたら電話してもらえればどれだけでもお分けしますよ。

あきこの一言

細い在所道を歩く、緑多く澄む空気、水の流れが音する在所。


第139回 中島町河崎


町名の由来

旧富来町日用村を源流にする日用川が豊川平野を流れ
七尾西湾に注ぐけど、その下流に集落を形成している
最後の在所がここで、川の先っぽの在所、
河崎となったと伝わっているよ。

昔の在所

在所の裏山に戦中戦後は畑をしていた二町歩程の平地があるけど、
そこには昔は七堂伽藍があり立派な社もあったと伝わっていて、
上杉謙信に焼き払われてしもうたと年寄りが子どもに聞かせていたもんだよ。
今在所には徳照寺という立派なお寺があるけど、これは西岸の長浦にあった真言宗の
お寺がこれも上杉勢に焼かれたんだけど、再興にあたり河崎に移り浄土真宗に改宗しているんだ。

この徳照寺に平安時代の宮廷音楽の雅楽の楽団があるんだよ。
明治時代に在所の金森萬造、岡野市太郎、国田久太郎という
進取の気風あふれる男達が取組んで雅楽三人衆と言われていたんだ。
現在も引き継がれ門徒12名で編成されていて、能登で四つしかない
貴重な楽団として1月と10月の報恩講で演奏しているんだよ。

ここの祭りは秋が9月9日と田んぼ時期と重なるので、
春を主体に行なう様になった歴史があるんだ。
子どもの頃は、祭り道具の奪い合いするほど子供がいたし、
在所の9割が御招待していたほどの夜遅い祭りだったけど
今はそんなことなくなってきたね。

これから

昭和30年には102戸、現在106戸、世帯数は変らないけど人口は半分になっているんだ。
中島駅に近くお店や事業所も多い在所だったけど、
人口が減った分だけ何事も負担が大きくなっているんだよ。
道路愛護のえほりの面積は変らないけど出てくる人が減っているからね。

在所の金森総本家の子孫で元北陸学院大学教授の金森俊朗先生が
2010年にペスタロッチー教育賞を受賞したことは誉れに思っているんだ。
この賞は民衆教育に貢献した人に贈られ宮城まり子、山田洋次、黒柳徹子、
アグネス・チャンなど有名人も受賞しているんだよ。
先生の教えのように固定観念に捉われず、物事の本質を見極めて、
何をどう捉えて、どうしなければならないか、それをみんなで考えていけるようになりたいね。

山あり、川あり、田んぼあり、まず第一として恵まれた
在所の財産の手入れをすることで、在所のみんなが繋がっていける、
そんな集いの場に出来たらいいなと思っているんだ。

あきこの一言

お寺の前を流れる日用川の桜並木
静かな田園に心地よい春風


第138回 能登島町八ヶ崎


町名の由来

能登島に臥(ふせの)行者がいたんだ。泰澄(たいちょう)大師の弟子でね。
昼夜臥しての心行で悟りを求めていたので、臥(ふせの)行者と呼ばれ、
奈良時代に泰澄と共に霊峰白山を開いたほどの行者だよ。
この行者が飛鉢の法で、沖を航行する船に仏具の鉄鉢を飛ばして供物を布施させていたんだ。
その鉄鉢が流れ着いたので鉢崎となったという話だよ。
それが室町時代の古文書では蜂崎となり、江戸時代では八ヶ崎になっているようだね。

昔の在所

八ヶ崎には4名の流刑者が配流されたけど有名なのは寺島蔵人(くらんど)だね。
藩政批判で流刑されたけど待遇がよかったようで
何かと在所の人々にも気を使ってくれたようだよ。
約4ヶ月後に62歳で亡くなるのだけど、
その間書いた手記や描いた絵から当時の暮らしが伺えるんだ。

配所跡に石碑を設置してあるけど、これは加賀藩ご用達の
和菓子の森八から昭和11年に在所へ届けられたそうだよ。
蔵人邸も森八も金沢の大手町にあるから何かしらの縁があるんだろうね。
ここは「やりもらい」が多い在所やね。
同じ家同士で嫁を貰い合うんだよ。
半農半漁の小さな在所ゆえの互助の手立て、知恵やったんやろね。

終戦直後に在所の事業として田んぼの耕地整理を始めているんだ。
軍の諜報機関にいたという穴水出身の幽経さんという人が移り住み、
その人が陣頭指揮をして進めたと聞いているんだ。それが今の田んぼなんだよ.

これから

40年以上運営してきた八ヶ崎海水浴場も主体の女性会が
面倒見れないと言うのでどうするか在所で話し合ったんだ。
出番は月に3日から5日あるけど、若い人は会社休めないし、
今までやってきた人は齢をとるし、お客も3分の1程に減っているので
閉鎖の方向で考えていたけど、勿体ないので在所で運営することにしたんだ。

昨年地域づくり協議会から猪のミンチやカレーをやりたいので
施設を貸してほしいという話があり、一緒に力を合わせてやっていくことにしたんだ。
週末には若い人が集まり改装しているよ。戦後の田んぼの基盤整備もしたいと思うけどね。
高齢化と猪の影響で荒地になる一方だし、集落営農するにしても整備しないとね。
価値ある農地にしておかないといずれ担い手がいなくなる事が心配なんだよ。

あきこの一言

それぞれの時代を生きる人、
陽だまりで聞く八ヶ崎の歴史。


第137回 中島町田岸


町名の由来

鎌倉初期の古文書に多気志と書かれていることは聞いているけど、
なぜ多気志になったのかは分からないよ。
在所裏の段々畑に縄文時代の田岸遺跡が発見されているので、
古くから人が住んでいたのは間違いないようだね。
渓谷が海岸に迫る地形を谷崎(たんぎし)というので、それが転化したという説もあるみたいだね。

昔の在所

先輩から話を聞くと、戦中は食べるものが無くて、
米は供出して白いご飯は1年に1回も食べればという生活だったらしいよ。
それで裏山で食べられる野草は何でも採ってきて、
海ではたばこ貝やガサミを獲っていたと言うよ。

戦後は富山から燃料にする雑木を買いに船が着いて積んで行っていたようだよ。
海に面しているけど小魚は獲っても本格的に漁業を営む家は無くてね、
まぁ、山と田畑で自給自足で暮らしていたんだろうね。

現在の在所

盛りだくさんの活動をしてるんだ。この時期なら、田んぼの鯉のぼりだよ。
平成22年に在所に15年ぶりに子供が生まれたんだ。
男の子でね、それでみんなで祝おうと在所中から箪笥に眠っていた
鯉のぼりを集めたのが始まりでね、その輪が広がり
田岸に縁のある人達からも寄せられて、現在は45匹を毎年田んぼに
ワイヤーを張って泳がせているんだ。のと鉄道から見えて観光客を楽しませてもいるんだよ。

女性会は季節の花をプランターに植え国道沿い並べ、
そこに鯉のぼりや七夕、熊甲の枠旗、風車など季節のミニ飾りを
設置して道行く人を楽しませているし、老人会は休耕田にコスモスを植えて
電車の乗客を楽しませているんだ。
小さな在所ゆえみんなで助け合ってきた伝統と、
故郷愛が全員野球のモチベーションになっているんだね。

これから

イルカが来る海に昇る日の出、山並みに射す光、
昼と夜の狭間に見える一瞬の光景、本当に愛すべき古里だよ。
高齢化や人口の減少は避けられないけど、身の丈に合わせつつも、
田岸の良さを維持していかんとね。

毎年5月には「田休み慰安会」と称して老若男女が集会所で
親睦を深めているし、5年前から「田岸の郷」という広報誌を毎月発行して
在所の出来事をみんなに知らせているんだ。
強い絆を絶やさない事が在所の命題だと思うんだよ。

あきこの一言

穏やかに、仲良く暮らす人々の、
古里を思う気持ち伝わる。


第136回 七尾市藤橋町


町名の由来

藤橋の土地は随分と広い範囲にまたがっていてね、
地番は能登総合病院周辺まで広がり、昭和25年までは馬出町や御祓町も藤橋だったんだ。
かつて国分寺と小丸山城址公園の愛宕山にあった本宮神社を
一直線で結ぶ道路が通っていてそこに旧家が並んでいたんだ。
小丸山城の外堀が在所の中にあり、そこに藤の橋が架かっていたことが
町名の由来だという説があるけど、どのあたりに架かっていたかは定かでないらしいよ。

昔の在所

一昔前までは竹薮と田畑しかない矢田郷の在所だよ。
大正14年に耕地整理を完成させているくらい旧家はみんな農家でね。
高度成長期に田んぼを埋めて住宅が建ってきたんで、境界が不明確になることを心配して、
在所の事業として昭和52年に耕地整理の境界杭を入れなおして測量をしたんだ。
お陰で里道水路と田んぼの境界を確定した図面が在所にあってね、
七尾中学校の用地買収もその図面を参考に測量したんだよ。

藤橋は野菜作りが盛んでね。粘土質の土地に適した野菜は何か、
商品価値を高めるにはどうするかなどを在所の高島さんの
親父さんがガラスのハウスを建て研究を始めたら、
みんな高島さんの所で一緒になって勉強してね、
それでキュウリやトマトなど野菜作りが本格的になって苗まで販売していたよ。

これから

住人は農家、非農家、アパートの3グループで構成されて外国人も多いので、
協力する部分と割り切る部分とのバランスが必要だね。
それでも夏祭りは在所あげての盆踊りに屋台を出して、打ち上げ花火と盛大だし、
町内会の旅行も毎年バス2台で行けるから嬉しいよ。

ここの子どもは山王小、七尾東部中へ進学するんだけど、
在所に七尾中学が出来たもんだから今は小丸山小、
七尾中へも希望すれば進学できることになったんだ。
運動場の照明とパチンコ店のネオンで夜も明るい在所に変わってきたよ(笑)。

東屋の旧家が並ぶ通りは11体の地蔵様が点在する地蔵通りなんだ。
なんでこんなに地蔵様があるのかわからないけど、
昔からこの在所の歴史を見守ってきた地蔵様なんだ。
広い藤橋に人が集まり、北、南、西と町名を分けなければならないことになったけど、
地蔵様だけは分かれることなくここに留まってくれたんだ。
どんな時代になっても末永くご加護を頂きたいと願っているんだよ。

あきこの一言

あっちにも、こっちにも、お地蔵様。
どんな歴史を見てるのかな…?


第135回 中島西谷内


町名の由来

ここは三方山に囲まれた盆地で地形の谷内にちなんでいるんだ。
隣の熊木郷に谷内という在所があるので江戸時代に
そこと区別するため西谷内としたそうだよ。
最初は西谷としたそうだけど、いつしか西谷内と書くようになったということらしいよ。

昔の在所

まずは西ヶ谷城のことを話さないとね。
昔は城跡に畑があり子供の遊び場だったけど、近年は荒れ放題でとても人が
入れるような状態ではなかったんだ。それが朱鷺棲む里山釶打クラブで郷土史に
詳しい地元の歴史家唐川明史さんに話を聞いて、大変な城だったんだとビックリしたんだ。

それで平成28年に在所を上げて城跡を整備したんだよ。
1年がかりで間伐して遊歩道をつけ看板も立てたんだ。
その事がニュースに出たら城ブームもあって人が訪れるようになったんだ。

室町時代に畠山一族の城として築かれているんだ。
整備したら外堀、内堀が何重にも掘ってあったよ。
郭跡も見受けられるし、水が湧き出ているし、本格的な居城としての構えがあったんだ。
七尾城が上杉謙信に攻められた時ここも落城したんだよ。

昔ここは中島と富来を結ぶ街道で茶屋があって釶打地区の中心地だったんだ。
役場の支所、中学校、旅館、酒屋、呉服屋、雑貨屋、床屋、畳屋、
映画館まであって中島まで行かなくても事が足りていたんだよ。

昭和23年までは羽咋郡だったくらいで富来との交流が深くて
新宮の枠旗祭りには富来の氏子も枠旗を持ってきて一緒に祭りをしていたんだ。

これから

ここ5、6年で急に高齢化が進んでね、80歳前後が半分、70歳で若い方だよ(笑)。
若い人たちの多くは中島か七尾で暮らしているんだ。
そして猪や狸、狐が在所の中を堂々と歩くようになってきたよ。

昨年から3年計画で猪対策を始めたんだ。
今は山裾を幅40m伐採して農地との間に緩衝地帯を作っているんだ。
その後電気柵を取り付けていく予定だよ。それと今年から圃場整備も入る予定でね。
西谷内川の源流の水で美味しい米が採れる在所なんだよ。

それにしても、まぁー寂しくなってきたよ。
どーにもならんけど死ぬまでここにおるがやから、
おるもんだけで、一生懸命やっていくだけだよ。
朗らかに暮らして出来るだけ健康寿命を伸ばして、
動かれる間は在所のために尽くす覚悟だよ。

あきこの一言

訪れた在所で故郷の歴史を知る。
しばし城跡で先人の営みに想いを寄せる。


第134回 七尾市女郎浜通り


町名の由来

府中町には5つの町会があるんだ。府中とは古代国府に由来した名称で、
国分町から古府・本府中・山王からここら辺りまで府中だったらしいよ。

前田利家が城下町を作る時に、府中の海岸地帯を割いて
城下町の府中町としたことから、府中村と府中町が分かれたんだね。
女郎浜通と記載された江戸時代の絵図があるよ。
女郎浜というから遊女が暮らしていたと思う人もいるようだけど、
そういう話しは何処にも伝わっていないんだ。それと気多本宮縁起の中で府中の浦、
上古、穢土鼻、女郎浜より毎年2月酉日に女子1人を御供に備え、
神秘の祭礼を行なっていたと書かれているけど、ここでの女子が由来に関係しているやもしれんしね。

最近は市役所からの通知が、女が良いの女良浜となって届くよ。
女郎という言葉のイメージが好ましくないと計らっているのだろうけど、
こうして歴史が上書きされて、だんだん本当の所が分からなくなるんだろうね。

昔の在所

畠山時代から海上交通の玄関口で、前田時代には経済、文化の中心地として栄えたんだ。
1862年にイギリスの軍艦が3隻も港に入って来て町中大騒ぎになったらしいよ。

府中といえば印鑰神社だけど、実は江戸時代に187年間は女郎浜通の東端、
ちょうど私の家の辺りにあって、そこから現在の場所に遷座したと
山王神社の大森宮司から聞いているんだ。波止場を中心に経済が活性化しいろんな職業が集積して、
七尾を代表する旦那衆も沢山いたと聞いているよ。

子どもの頃の女郎浜は通りのほとんどがお店でね。荒物、左官、建具、飴屋、和傘、
糸屋、仕立屋、畳屋、小間物、銭湯もあったよ。
それとここは能登島の縁者が多いのも特徴なんだ。

これから

子どもの声は聞こえないし、高齢化は進むし、班が成り立たなくなってきたよ。
同じ悩みを持つ他の町会と話し合わないと町会運営も難しい現実があるよ。

でか山と奉燈祭、それと青壮年会が催すお盆のバーベキュー大会には、
帰省した人も参加するのでそこで町の絆を確認できることが
唯一の救いだと思っているんだ。私は転勤族で全国を回って来たから強く感じるけど、
歴史、文化、自然とこんなに恵まれた場所は他に無いよ。
故郷をなんとしても守っていかんとね。

かよの一言

府中の浜に、人が行き交い、街が出来た。
今に続く、女郎浜の通り


第133回 中能登町川田


町名の由来

昔この辺は邑知潟地溝帯の湿地帯でね、隣在所の大槻との間に流れている
二宮川が氾濫しては土砂が堆積していき、そこを田んぼにしていったようだよ。
川の横の田んぼから、川田と呼ばれるようになったと聞いているよ。

昔の在所

古い文書に明治3年の世帯数が25軒、鳥屋町が出来た当時が34軒で
尻から3番目の小さい在所だったんだ。
いつの時代かわからないけど、その昔、戦いに敗れた高岡の守山城の城主が
ここへ落ち延びてきたと氷見のお寺の古文書に書かれていると聞いているんだ。
そんな歴史があるのでここには守山姓が多く、昔は在所の8割が守山だったんだよ。

それと川田は天領で特権的な天下百姓の村だったんだ。
20町歩の田畑の水を全て賄う大池は谷間を堰き止めて作った大きなため池だし、
江戸時代に寺小屋があって明治時代には小学校になっていたというから、
小さいけど何かしら力があった在所だったようだよ。

明治28年に11ヶ村が合併した鳥屋村の初代村長が守山佐一、
二代目が守山栄次郎とこの小さな在所から出ているところを見ると、
守山城主の末裔としてか、天領だったからか、よくわからないけど、
とにかく一目置かれた存在だったのではないかと思うんだよ。

これから

昭和50年に北陸最大の川田古墳群が発見されて川田地区だけでも
大小150基以上の古墳があるらしいね。
おかげで平成13年に大池を中心にとりや古墳公園が
整備され遊具やパターゴルフ場もあり、土日には沢山の家族連れが訪れて楽しんでいるよ。

町営住宅と新興住宅地が2ヶ所造成されたおかげで今では
在所の半分の世帯が移住して来た人たちなんだ。
若い世帯が多く子供も沢山いて、獅子舞の練習には40人以上の子どもが集まり、
若い衆もしっかり指導してくれているよ。
昨年は獅子頭、蚊帳、天狗の面を新調したけど、嬉しそうに祭りをしている子供たちを見ていると、
紛れも無くここ川田がこの子らの故郷なんだと実感するね。

子ども会、青壮年団、実年会、老人会、女性協議会、自衛消防団など活発に活動しているけど、いろんな行事を通じて在所に馴染んでもらって将来的には川田を継承してもらいたいと願っているんだ。

あきこの一言

温故知新、古きと新しき、
交わって歴史が繋がれる。


第132回 田鶴浜町深見


町名の由来

七尾湾に流れる深見川の河口付近の田んぼは江戸時代に埋め立てられたけど、
昔はその海がさらに細長く入り江となって在所の奥深くまで入り込んでいたんだ。
それで深く入り込んだ海から、深見となったようだね。
石川県には門前と輪島にも深見があるけど、門前の深見も海が奥まで入り込んでいるらしいよ。

昔の在所

古い資料によると、深見40軒の内、頭振り0人、
白浜40軒の内、頭降り9人と書かれているんだ。
頭降りとは農業以外の職種で漁業、運送、商売などのことで、
深見は40軒皆農家だったということだよ。

江戸時代中期に干拓の願いを出した文書があるけど、
その干拓した田んぼに水を引いたマンポが105メートル現存しているよ。
そのマンポの入口付近が元々の在所の中心地で、国道寄りに新宅が広がっていったんだ。

深見川上流の平沢(ひらそ)という場所には7軒あったけどみんな移住したよ。
子どもの頃は深見潟で御所守(ごしょもり)という白くて平たい貝を
よく獲っていたけど、源平合戦、壇ノ浦の戦いで幼少の安徳天皇が入水、
一緒に海に身を投げた平家の家来が貝となって海の中の天皇の御所を
守っているから御所守と名付けられたと聞いたことがあるよ。
能登に逃れてきた平家の人々がそんな話を伝え、名付けたものかねぇ。

これから

在所ごとに自治公民館活動をしていた旧田鶴浜町が七尾市と合併したとき、
相馬、田鶴浜、金ケ崎の三つの公民館に統合されたけど、
唯一深見だけ自治公民館を残して活動しているんだよ。

古くから続く地蔵祭りに合わせて、ふれあい祭りを開催して
恒例の仮装盆踊り大会や、劇団を呼んだりとそれは盛大だよ。

昔から田んぼを一緒にやってきた在所で、田植えの日は朝3時、4時に大きな農家に集まり、
賄い方の年寄があずきの雑煮を作って、在所中の子供もそれを食べては学校へ行ったんだ。
そんな絆を受け継いでいるので結束力は抜群に良くて、
昨年の町民運動会は優勝したし、平成24年から始まった20丁部の圃場整備も
今年から作付け出来るのでみんな張り切っているよ。
深見はこれからも大人も子供もみんなで楽しく力を合わせて頑張っていく在所なんだよ。

あきこの一言

力を合わせて生きてきた、
深見の在所、大きな家族。


第131回 七尾市なぎの浦


町名の由来

この町は、昭和55年に七尾市が海を埋立て新興住宅地として売り出した町なんだ。
海を埋立した土地は七尾市議会で町名や地番が承認された上で登記され、
初めて陸地として認められるんだよ。

ここに住む人は、なぎの浦という町の土地を買い求めた人だから、
町名の由来はわからないけど、当時の市役所の担当者か市長が
静かな七尾南湾をイメージして、なぎの浦と命名したんじゃないかなぁ。

昔の在所

七尾市で都市下水が初めて敷設された町でね、売り出し当時はバブル時代の始まりで、
将来性を見込んで多くの人が買い求めたんだ。
人気があって抽選で当たった人しか買えなかったらしいよ。
買ってもすぐに家を建てる人は少なく、私の土地も父親が買って持っていたんだけど、
平成13年になって子供が中学生になるのを期に移ってきたんだ。
先輩に聞くと、最初の頃は道が舗装してなくて、街灯もない、郵便ポストもない、
商店もない、何もない、道路を挟んで七尾海員学校の広々としたグラウンドが続き、
なぎの浦砂漠と言われていたそうだよ(笑)。

みんな新しい人で、隣の人でもお互い見ず知らずからスタートし、
町が若く、住む人も若く、町会というものが何なのかもわからないまま、
家を建てた順番で町会長をやっていたと聞いているよ。
そう思うと38年経って、こうやって取材されるくらいに町らしくなったということなんだろうね。

これから

古くからの伝統もしがらみもなく、ご近所付き合いが気楽な部分と、
それでも町会として結束をしなければならない部分とが交錯するんだ。
現在は子供会、青壮年会、女性会、はまなす会が活発に活動して、
横糸と縦糸を結んでくれているんだよ。
高齢化が進む中、8年前に結成された、なぎの浦子ども太鼓が
町内の納涼祭や餅つき大会で披露してくれるし、七尾看護専門学校もあるので、
朝夕に若い人の声が聞こえ、ありがたいと思っているんだ。

昨年は西湊地区の運動会で準優勝できたし、幅12mの道路には白線を引き、
街灯も全てLEDに替えることが出来て良かったよ。気がついた事を、
コツコツと出来る範囲でやらせてもらいながら、
みんなに支えられ町会長を4年間務めさせてもらったけど、
この取材を花道にバトンを渡したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

海あり、緑地あり、閑静な住宅街
はまなす会の新年会で、おはぎ頂く。(ペコリ)


第130回 七尾市温井町


町名の由来

能登の豪族温井氏が畠山の重臣となり田鶴浜の相馬と中能登町の
鳥屋と交わるここ高階に拠点を構え、隣在所の満仁の舘山(たちやま)が温井氏の館址なんだよ。
この在所はその温井の姓を頂いた由緒ある在所なんだ。

温井氏の本城は輪島の天堂城だけど畠山を中心に能登がまとまっていく中、
最も勢いのあり活躍した温井総貞の時代に別荘兼砦として住み出したんではないかという話も聞いたよ。

昔の在所

昭和20年6月27日、小松航空隊第336海軍設営隊と
海軍甲種飛行予科練習生400名が伊久留に飛行場建設に来たんだ。
その頃七尾湾にアメリカの爆撃機が機雷を投下していたので、
防空や小松飛行場の予備として建設されたらしいけど、
完成して一番機が小松から飛来している時に終戦になってね、
翌年4月には田んぼに復旧してしまい在所では幻の飛行場と言われているんだ。
村民や小学生も勤労奉仕で参加し温井の民家にも兵隊が泊っていたんだ。
食料不足の中、過酷な作業が続き15、16歳の予科練生には
とても厳しいもんだったと母親から聞いたよ。

子どもの頃は在所ごとになって戦ごっこをして遊んだなぁ。
伊久留の在所へ攻め込んでいくんだ。
伊久留川を挟んで青竹を持ってやりあっていたよ。
町屋の在所は山道から攻め込んでくるので迎え撃つんだ。
当時の子どもは加減して上手に戦の真似事をしていたね。
テレビが普及して西部劇を見るようになったら今度は鉄砲ごっこだよ(笑)
西部劇のウインチェスター銃を真似て自分で板を削っては作っていたけど、
男の子は勇ましいことが遊びの時代だったよ(笑)。

これから

田んぼで暮らしを立てて来た在所だけど高齢化が進むし、
外に出た人は戻らんし、ほ場整備しても担い手が減ることが
あっても増えることはないからね。

平成元年にトラクター1台の共同利用を始め、
現在は農事組合法人の温井営農組合にして田んぼを守っているところだよ。

古民家に移住してきた森田さんがカフェとゲストハウスを始めたので
旅人が運ぶ爽やかな風が流れ出したよ。
今ここで住んでいる人全員が、生きている限り温井で暮らし
続けたいと思えるように、在所全体で支え合っていかなければと思っているんだ。

しほの一言

小さな在所に、大きな歴史。
これからも歴史は刻まれる。


第129回 中島町上町


町名の由来

中世の熊木郷で熊木川の辺にあった市姫宮には
月に三度の市がたち賑わいを見せていて、
その市姫宮の川上に位置した在所がここで、市姫宮の上の在所、
上の町となったという話が伝わっているよ。

市姫宮はもう一つ在所にあった高瀬社と合祀移転し
現在の上町の市姫神社となっているんだ。
熊甲祭り19の末社の内、上町だけが女の神様、姫神社なんだよ。
残る18が男の神様で、女の神様に見初めてもらおうと張り切って祭りをするんだ。
この世は虫も魚も動物も人間も、雄が雌に認めてもらうのに必死なんだね(笑)。
女房を山の神とも、上さんとも言うけど、女性の方が偉いんだと思うよ。
姫神社がある在所ゆえに、上さんの町、上町かもしれんね(笑)。

昔の在所

中島の商店街は熊木川に沿って発展したんだ。
昔は河口から上町橋まで海上航路の船が上がっていたんだ。
奥能登や七尾からの生活品を荷揚げしたり、木材を積み込んで搬出したり、
人も船で移動した方が便利な時代だったんだ。当時の上町橋周辺の通りは提灯を
吊るした飲食店等が軒を連ね中島の歓楽街として賑わっていたんだよ。

熊木川に船が上がるのに昔から川砂を上げては川底を深くしていたけど、
今でもカキ貝の船や釣船が通るし、集中豪雨などで氾濫しないように
防災面からも河川改修が少しづつ進んでいるよ。

在所の中には町内で一番大きな熊木小学校があって子どもの声が
聞こえ活気あったけど、平成16年に中島町の全ての小学校を統合して
上町の小高い丘の上に中島小学校が出来たんだ。
通学はスクールバスになって昔ほど子どもの声が聞こえなくなったけど、
それでも近くに学校があるということを喜ばんとね。

これから

今年は市に申請した消防の宝くじに当たって神輿の塗替えをしたんだ。
なんせ若い衆の団結心が嬉しいよ。熊甲祭りの人足不足はどの在所も深刻だけど、
ここは若い衆が宇出津のあばれ祭りや石崎の奉燈祭りに
参加しながら粋の良い若い衆を呼んで法被を揃えるから祭りはお任せだよ。

活発に活動している小牧の壮年団とも10年以上も親睦を深めて祭りのあり方を話し合っているから、
都会に出ていても祭りだけに戻ってくる人も多くなったよ。
そんな元気を貰って年寄も行事ごとには積極的だし、この勢いを維持していきたいところだね。

かなこの一言

姫が宿る在所  
男子一番、姫を護る