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第134回 七尾市女郎浜通り


町名の由来

府中町には5つの町会があるんだ。府中とは古代国府に由来した名称で、
国分町から古府・本府中・山王からここら辺りまで府中だったらしいよ。

前田利家が城下町を作る時に、府中の海岸地帯を割いて
城下町の府中町としたことから、府中村と府中町が分かれたんだね。
女郎浜通と記載された江戸時代の絵図があるよ。
女郎浜というから遊女が暮らしていたと思う人もいるようだけど、
そういう話しは何処にも伝わっていないんだ。それと気多本宮縁起の中で府中の浦、
上古、穢土鼻、女郎浜より毎年2月酉日に女子1人を御供に備え、
神秘の祭礼を行なっていたと書かれているけど、ここでの女子が由来に関係しているやもしれんしね。

最近は市役所からの通知が、女が良いの女良浜となって届くよ。
女郎という言葉のイメージが好ましくないと計らっているのだろうけど、
こうして歴史が上書きされて、だんだん本当の所が分からなくなるんだろうね。

昔の在所

畠山時代から海上交通の玄関口で、前田時代には経済、文化の中心地として栄えたんだ。
1862年にイギリスの軍艦が3隻も港に入って来て町中大騒ぎになったらしいよ。

府中といえば印鑰神社だけど、実は江戸時代に187年間は女郎浜通の東端、
ちょうど私の家の辺りにあって、そこから現在の場所に遷座したと
山王神社の大森宮司から聞いているんだ。波止場を中心に経済が活性化しいろんな職業が集積して、
七尾を代表する旦那衆も沢山いたと聞いているよ。

子どもの頃の女郎浜は通りのほとんどがお店でね。荒物、左官、建具、飴屋、和傘、
糸屋、仕立屋、畳屋、小間物、銭湯もあったよ。
それとここは能登島の縁者が多いのも特徴なんだ。

これから

子どもの声は聞こえないし、高齢化は進むし、班が成り立たなくなってきたよ。
同じ悩みを持つ他の町会と話し合わないと町会運営も難しい現実があるよ。

でか山と奉燈祭、それと青壮年会が催すお盆のバーベキュー大会には、
帰省した人も参加するのでそこで町の絆を確認できることが
唯一の救いだと思っているんだ。私は転勤族で全国を回って来たから強く感じるけど、
歴史、文化、自然とこんなに恵まれた場所は他に無いよ。
故郷をなんとしても守っていかんとね。

かよこの一言

府中の浜に、人が行き交い、街が出来た。
今に続く、女郎浜の通り


第79回 七尾市中島町豊田


在所名の由来


鎌倉時代から日用川流域が豊田保と呼ばれていたらしいよ。
日用川も明治までは豊田川と呼ばれていてね、まぁ読んで字のごとく、
豊かな田んぼを願って付けたんでないかなぁ。
発音も「といた」と呼ばれていてね、これも明治に「とよた」と
呼ぶようにしたらしいんだけど、今でも「といた」と発音する人は沢山入るよ。


昔と今


昔は在所の宮あたりまでが入り江で海だったらしいよ。
豊田を語るときどうしても話さなければならない人がいるんだ。
的場孫三(まとばまごそ)という豪農で、江戸から明治にかけて
五代続き全員孫三を襲名しているよ。
初代から四代目までが私財を投入し二百年もの歳月をかけ
日用川流域の湿地帯を埋立てていき豊川村のほとんどの田んぼを作ったんだね。
そんな事業を継続していたおかげで、能登でも一揆が多発していた時代に
豊川村では一揆が起こらなかったんだ。

村の秋祭りには自前の大旗をつくり奉公人三十四人に担がせて
参加していたと伝わっているよ。
その旗は山戸田の在所に移って今でもお熊甲祭りに担がれているけど
昭和六十年に町が有形民族文化財に指定するほど由緒ある貴重な旗なんだよ。
それと豊田のトンネルは昭和四年に竣工した石川県で
四番目に古いトンネルなんだけど来年取り壊される予定でね、
子どもの頃、在所では十月頃から莚(むしろ)を作りこのトンネルを
倉庫代わりにして山積みにしていたし、冬になるとトンネルの出入り口には
太くて長いツララがさがり、まるで怪獣の口の牙のようだったね。
そんなのを叩き落して遊んでいたから、ちょっと寂しい気もするよ。(笑)

豊川地区の住民で日用川沿いに桜を四百本植樹し毎年剪定など管理しているよ。
実年会で舟を用意して子ども達を乗せて遊覧するんだけど実に良い景観だよ。
そんな功績が認められて昨年「日本さくらの会」から表彰されたんだよ。嬉しかったね。


かなこの一言


私財を投げ出して村人のために
尽くした人生、的場孫三さんは能登の
二宮尊徳だったんですね。


第78回 中能登町 金丸


在所名の由来


鎌倉時代の古文書で金丸という地名が初めて出てきているそうやね。
はっきりした由来は分からんけど、気多大社の大国主命が
少彦名命と力を合わせ邑智潟に住む大蛇を退治したという伝説があって、
その小彦名命が在所の多気倉長命の娘と結婚して、生まれた子どもが金丸翁と呼ばれ、
その子孫が後に村主になったという話が伝わっているから関係あるのかもしれんね。


昔と今


金丸には杉谷、谷内、沢、宮地、正部谷、横町の六町会があるんだ。
本来それぞれが一つの在所なんだけど、平成十七年の合併で中能登町になったとき
金丸の各在所を金丸という一つの在所としたんだね。
だから神社が六つ、お寺が四つもある大きな在所になったんだよ。
小学生の頃は祭りも各町会が一緒になって金丸中を練り歩いたけど、
今は人足が少なくてそれぞれで祭りをしているよ。

邑智潟の波止場もあってフナ釣りもしたし、雨が降ればゴザで作ったゴザボーシを被って通学したよ。
藁葺き屋根の家が多く、庭には柿、びわ、あんず、すもも、いちじく、
どこの家の庭に何があるか子ども達は頭に入っていて、遊びながら頂いていたもんだよ。
大らかな時代だったなぁ(笑)


在所の自慢


杉谷チャノバタケ遺跡から弥生時代のおにぎりの化石が見つかっていてね、
日本最古ということで「おにぎりの里」として町おこしにも一役買っているよ。

また気多大社との繋がりも深く平国祭では気多大社の神輿が
三月二十日に宮地の宿那彦神像石神社に一泊して翌朝に神社の神様が
その神輿に遷座し七尾の本宮神社まで行って、おかえりの二十三日には
金丸の全部の神社に寄るんだよ。
在所では昔から決まっている団子やおつゆをお世話して伝統を守っているよ。
太古の昔から住んでいた土地、先祖から受け継いできた土地なのでいろんな良さがあるんだね。
時代が変わっても自分達でやっていくという気構えを持って各町会ごとに
団結してやってるから、住民の繋がりは強いものがあるよ。


第133回 中能登町川田


町名の由来

昔この辺は邑知潟地溝帯の湿地帯でね、隣在所の大槻との間に流れている
二宮川が氾濫しては土砂が堆積していき、そこを田んぼにしていったようだよ。
川の横の田んぼから、川田と呼ばれるようになったと聞いているよ。

昔の在所

古い文書に明治3年の世帯数が25軒、鳥屋町が出来た当時が34軒で
尻から3番目の小さい在所だったんだ。
いつの時代かわからないけど、その昔、戦いに敗れた高岡の守山城の城主が
ここへ落ち延びてきたと氷見のお寺の古文書に書かれていると聞いているんだ。
そんな歴史があるのでここには守山姓が多く、昔は在所の8割が守山だったんだよ。

それと川田は天領で特権的な天下百姓の村だったんだ。
20町歩の田畑の水を全て賄う大池は谷間を堰き止めて作った大きなため池だし、
江戸時代に寺小屋があって明治時代には小学校になっていたというから、
小さいけど何かしら力があった在所だったようだよ。

明治28年に11ヶ村が合併した鳥屋村の初代村長が守山佐一、
二代目が守山栄次郎とこの小さな在所から出ているところを見ると、
守山城主の末裔としてか、天領だったからか、よくわからないけど、
とにかく一目置かれた存在だったのではないかと思うんだよ。

これから

昭和50年に北陸最大の川田古墳群が発見されて川田地区だけでも
大小150基以上の古墳があるらしいね。
おかげで平成13年に大池を中心にとりや古墳公園が
整備され遊具やパターゴルフ場もあり、土日には沢山の家族連れが訪れて楽しんでいるよ。

町営住宅と新興住宅地が2ヶ所造成されたおかげで今では
在所の半分の世帯が移住して来た人たちなんだ。
若い世帯が多く子供も沢山いて、獅子舞の練習には40人以上の子どもが集まり、
若い衆もしっかり指導してくれているよ。
昨年は獅子頭、蚊帳、天狗の面を新調したけど、嬉しそうに祭りをしている子供たちを見ていると、
紛れも無くここ川田がこの子らの故郷なんだと実感するね。

子ども会、青壮年団、実年会、老人会、女性協議会、自衛消防団など活発に活動しているけど、いろんな行事を通じて在所に馴染んでもらって将来的には川田を継承してもらいたいと願っているんだ。

あきこの一言

温故知新、古きと新しき、
交わって歴史が繋がれる。


第132回 田鶴浜町深見


町名の由来

七尾湾に流れる深見川の河口付近の田んぼは江戸時代に埋め立てられたけど、
昔はその海がさらに細長く入り江となって在所の奥深くまで入り込んでいたんだ。
それで深く入り込んだ海から、深見となったようだね。
石川県には門前と輪島にも深見があるけど、門前の深見も海が奥まで入り込んでいるらしいよ。

昔の在所

古い資料によると、深見40軒の内、頭振り0人、
白浜40軒の内、頭降り9人と書かれているんだ。
頭降りとは農業以外の職種で漁業、運送、商売などのことで、
深見は40軒皆農家だったということだよ。

江戸時代中期に干拓の願いを出した文書があるけど、
その干拓した田んぼに水を引いたマンポが105メートル現存しているよ。
そのマンポの入口付近が元々の在所の中心地で、国道寄りに新宅が広がっていったんだ。

深見川上流の平沢(ひらそ)という場所には7軒あったけどみんな移住したよ。
子どもの頃は深見潟で御所守(ごしょもり)という白くて平たい貝を
よく獲っていたけど、源平合戦、壇ノ浦の戦いで幼少の安徳天皇が入水、
一緒に海に身を投げた平家の家来が貝となって海の中の天皇の御所を
守っているから御所守と名付けられたと聞いたことがあるよ。
能登に逃れてきた平家の人々がそんな話を伝え、名付けたものかねぇ。

これから

在所ごとに自治公民館活動をしていた旧田鶴浜町が七尾市と合併したとき、
相馬、田鶴浜、金ケ崎の三つの公民館に統合されたけど、
唯一深見だけ自治公民館を残して活動しているんだよ。

古くから続く地蔵祭りに合わせて、ふれあい祭りを開催して
恒例の仮装盆踊り大会や、劇団を呼んだりとそれは盛大だよ。

昔から田んぼを一緒にやってきた在所で、田植えの日は朝3時、4時に大きな農家に集まり、
賄い方の年寄があずきの雑煮を作って、在所中の子供もそれを食べては学校へ行ったんだ。
そんな絆を受け継いでいるので結束力は抜群に良くて、
昨年の町民運動会は優勝したし、平成24年から始まった20丁部の圃場整備も
今年から作付け出来るのでみんな張り切っているよ。
深見はこれからも大人も子供もみんなで楽しく力を合わせて頑張っていく在所なんだよ。

あきこの一言

力を合わせて生きてきた、
深見の在所、大きな家族。


第131回 七尾市なぎの浦


町名の由来

この町は、昭和55年に七尾市が海を埋立て新興住宅地として売り出した町なんだ。
海を埋立した土地は七尾市議会で町名や地番が承認された上で登記され、
初めて陸地として認められるんだよ。

ここに住む人は、なぎの浦という町の土地を買い求めた人だから、
町名の由来はわからないけど、当時の市役所の担当者か市長が
静かな七尾南湾をイメージして、なぎの浦と命名したんじゃないかなぁ。

昔の在所

七尾市で都市下水が初めて敷設された町でね、売り出し当時はバブル時代の始まりで、
将来性を見込んで多くの人が買い求めたんだ。
人気があって抽選で当たった人しか買えなかったらしいよ。
買ってもすぐに家を建てる人は少なく、私の土地も父親が買って持っていたんだけど、
平成13年になって子供が中学生になるのを期に移ってきたんだ。
先輩に聞くと、最初の頃は道が舗装してなくて、街灯もない、郵便ポストもない、
商店もない、何もない、道路を挟んで七尾海員学校の広々としたグラウンドが続き、
なぎの浦砂漠と言われていたそうだよ(笑)。

みんな新しい人で、隣の人でもお互い見ず知らずからスタートし、
町が若く、住む人も若く、町会というものが何なのかもわからないまま、
家を建てた順番で町会長をやっていたと聞いているよ。
そう思うと38年経って、こうやって取材されるくらいに町らしくなったということなんだろうね。

これから

古くからの伝統もしがらみもなく、ご近所付き合いが気楽な部分と、
それでも町会として結束をしなければならない部分とが交錯するんだ。
現在は子供会、青壮年会、女性会、はまなす会が活発に活動して、
横糸と縦糸を結んでくれているんだよ。
高齢化が進む中、8年前に結成された、なぎの浦子ども太鼓が
町内の納涼祭や餅つき大会で披露してくれるし、七尾看護専門学校もあるので、
朝夕に若い人の声が聞こえ、ありがたいと思っているんだ。

昨年は西湊地区の運動会で準優勝できたし、幅12mの道路には白線を引き、
街灯も全てLEDに替えることが出来て良かったよ。気がついた事を、
コツコツと出来る範囲でやらせてもらいながら、
みんなに支えられ町会長を4年間務めさせてもらったけど、
この取材を花道にバトンを渡したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

海あり、緑地あり、閑静な住宅街
はまなす会の新年会で、おはぎ頂く。(ペコリ)


第130回 七尾市温井町


町名の由来

能登の豪族温井氏が畠山の重臣となり田鶴浜の相馬と中能登町の
鳥屋と交わるここ高階に拠点を構え、隣在所の満仁の舘山(たちやま)が温井氏の館址なんだよ。
この在所はその温井の姓を頂いた由緒ある在所なんだ。

温井氏の本城は輪島の天堂城だけど畠山を中心に能登がまとまっていく中、
最も勢いのあり活躍した温井総貞の時代に別荘兼砦として住み出したんではないかという話も聞いたよ。

昔の在所

昭和20年6月27日、小松航空隊第336海軍設営隊と
海軍甲種飛行予科練習生400名が伊久留に飛行場建設に来たんだ。
その頃七尾湾にアメリカの爆撃機が機雷を投下していたので、
防空や小松飛行場の予備として建設されたらしいけど、
完成して一番機が小松から飛来している時に終戦になってね、
翌年4月には田んぼに復旧してしまい在所では幻の飛行場と言われているんだ。
村民や小学生も勤労奉仕で参加し温井の民家にも兵隊が泊っていたんだ。
食料不足の中、過酷な作業が続き15、16歳の予科練生には
とても厳しいもんだったと母親から聞いたよ。

子どもの頃は在所ごとになって戦ごっこをして遊んだなぁ。
伊久留の在所へ攻め込んでいくんだ。
伊久留川を挟んで青竹を持ってやりあっていたよ。
町屋の在所は山道から攻め込んでくるので迎え撃つんだ。
当時の子どもは加減して上手に戦の真似事をしていたね。
テレビが普及して西部劇を見るようになったら今度は鉄砲ごっこだよ(笑)
西部劇のウインチェスター銃を真似て自分で板を削っては作っていたけど、
男の子は勇ましいことが遊びの時代だったよ(笑)。

これから

田んぼで暮らしを立てて来た在所だけど高齢化が進むし、
外に出た人は戻らんし、ほ場整備しても担い手が減ることが
あっても増えることはないからね。

平成元年にトラクター1台の共同利用を始め、
現在は農事組合法人の温井営農組合にして田んぼを守っているところだよ。

古民家に移住してきた森田さんがカフェとゲストハウスを始めたので
旅人が運ぶ爽やかな風が流れ出したよ。
今ここで住んでいる人全員が、生きている限り温井で暮らし
続けたいと思えるように、在所全体で支え合っていかなければと思っているんだ。

しほの一言

小さな在所に、大きな歴史。
これからも歴史は刻まれる。


第129回 中島町上町


町名の由来

中世の熊木郷で熊木川の辺にあった市姫宮には
月に三度の市がたち賑わいを見せていて、
その市姫宮の川上に位置した在所がここで、市姫宮の上の在所、
上の町となったという話が伝わっているよ。

市姫宮はもう一つ在所にあった高瀬社と合祀移転し
現在の上町の市姫神社となっているんだ。
熊甲祭り19の末社の内、上町だけが女の神様、姫神社なんだよ。
残る18が男の神様で、女の神様に見初めてもらおうと張り切って祭りをするんだ。
この世は虫も魚も動物も人間も、雄が雌に認めてもらうのに必死なんだね(笑)。
女房を山の神とも、上さんとも言うけど、女性の方が偉いんだと思うよ。
姫神社がある在所ゆえに、上さんの町、上町かもしれんね(笑)。

昔の在所

中島の商店街は熊木川に沿って発展したんだ。
昔は河口から上町橋まで海上航路の船が上がっていたんだ。
奥能登や七尾からの生活品を荷揚げしたり、木材を積み込んで搬出したり、
人も船で移動した方が便利な時代だったんだ。当時の上町橋周辺の通りは提灯を
吊るした飲食店等が軒を連ね中島の歓楽街として賑わっていたんだよ。

熊木川に船が上がるのに昔から川砂を上げては川底を深くしていたけど、
今でもカキ貝の船や釣船が通るし、集中豪雨などで氾濫しないように
防災面からも河川改修が少しづつ進んでいるよ。

在所の中には町内で一番大きな熊木小学校があって子どもの声が
聞こえ活気あったけど、平成16年に中島町の全ての小学校を統合して
上町の小高い丘の上に中島小学校が出来たんだ。
通学はスクールバスになって昔ほど子どもの声が聞こえなくなったけど、
それでも近くに学校があるということを喜ばんとね。

これから

今年は市に申請した消防の宝くじに当たって神輿の塗替えをしたんだ。
なんせ若い衆の団結心が嬉しいよ。熊甲祭りの人足不足はどの在所も深刻だけど、
ここは若い衆が宇出津のあばれ祭りや石崎の奉燈祭りに
参加しながら粋の良い若い衆を呼んで法被を揃えるから祭りはお任せだよ。

活発に活動している小牧の壮年団とも10年以上も親睦を深めて祭りのあり方を話し合っているから、
都会に出ていても祭りだけに戻ってくる人も多くなったよ。
そんな元気を貰って年寄も行事ごとには積極的だし、この勢いを維持していきたいところだね。

かなこの一言

姫が宿る在所  
男子一番、姫を護る


第139回 中島町河崎


町名の由来

旧富来町日用村を源流にする日用川が豊川平野を流れ七尾西湾に注ぐけど、
その下流に集落を形成している最後の在所がここで、
川の先っぽの在所、河崎となったと伝わっているよ。

昔の在所

在所の裏山に戦中戦後は畑をしていた二町歩程の平地があるけど、
そこには昔は七堂伽藍があり立派な社もあったと伝わっていて、
上杉謙信に焼き払われてしもうたと年寄りが子どもに聞かせていたもんだよ。

今在所には徳照寺という立派なお寺があるけど、これは西岸の長浦にあった
真言宗のお寺がこれも上杉勢に焼かれたんだけど、
再興にあたり河崎に移り浄土真宗に改宗しているんだ。
この徳照寺に平安時代の宮廷音楽の雅楽の楽団があるんだよ。

明治時代に在所の金森萬造、岡野市太郎、国田久太郎という
進取の気風あふれる男達が取組んで雅楽三人衆と言われていたんだ。
現在も引き継がれ門徒12名で編成されていて、能登で四つしかない
貴重な楽団として1月と10月の報恩講で演奏しているんだよ。

ここの祭りは秋が9月9日と田んぼ時期と重なるので、
春を主体に行なう様になった歴史があるんだ。
子どもの頃は、祭り道具の奪い合いするほど子供がいたし、
在所の9割が御招待していたほどの夜遅い祭りだったけど
今はそんなことなくなってきたね。

これから

昭和30年には102戸、現在106戸、世帯数は変らないけど人口は半分になっているんだ。
中島駅に近くお店や事業所も多い在所だったけど、
人口が減った分だけ何事も負担が大きくなっているんだよ。
道路愛護のえほりの面積は変らないけど出てくる人が減っているからね。

在所の金森総本家の子孫で元北陸学院大学教授の金森俊朗先生が
2010年にペスタロッチー教育賞を受賞したことは誉れに思っているんだ。
この賞は民衆教育に貢献した人に贈られ宮城まり子、山田洋次、黒柳徹子、
アグネス・チャンなど有名人も受賞しているんだよ。
先生の教えのように固定観念に捉われず、物事の本質を見極めて、
何をどう捉えて、どうしなければならないか、
それをみんなで考えていけるようになりたいね。

山あり、川あり、田んぼあり、まず第一として恵まれた在所の財産の
手入れをすることで、在所のみんなが繋がっていける、
そんな集いの場に出来たらいいなと思っているんだ。

あきこの一言

お寺の前を流れる日用川の桜並木
静かな田園に心地よい春風


第128回 七尾市報国町


町名の由来

報国造船の社宅があった場所が払い下げられ出来た町なんだ。

昭和18年、戦況が悪化する中、船舶不足を補うため
大阪商船が矢田新から万行浜にかけて木造大型船では日本一の造船所を作ったんだよ。
県内外から人を集め、万行町に社宅を建て住まわせた場所が
ここで、通称で報国町と呼んだんだね。

造船所は昭和20年に火事で燃えてしまったんだけど
復旧して昭和40年代頃まで会社があったんだ。
私の父親も勤めていて、東京オリンピックの年に見学に行ったことを覚えているよ。

昔の在所

昭和25年の報国の人口は667人、この時の万行の人口は850人と記録にあるけど、
地元住人とよそ者がほぼ同じくらいの勢力なんだ。

終戦直後のことだからどこも食料がないんだよ。
畑の野菜が無くなれば、ひとつかみに報国の人が白い目で疑われ、
悔しい思いをしたと聞いてるよ。それをバネに子ども達には勉強を頑張らせ、
児童会の役員をしたりして積極的に地域活動に参加していったんだ。

社宅は6畳と3畳に台所と土間だったんだ。それも4軒長屋でね
一棟に板一枚で仕切られて4世帯が住んだんだ。
だから年寄が10ヶ月後に隣に赤ん坊が産まれるのが
わかったと言っては笑わすんだよ。
その4世帯長屋が4棟で一つの井戸を共同で使うんだ。
かまどで杉葉を燃やすので部屋はすすだらけだし、
決して良い環境ではなかったけど、大らかに和気藹々と助け合って暮らしていたんだね。

これから

火の用心の見回りを毎日行っているんだ。昔火事があってね、
それで「子どもに~、マッチ持たせるな~♪煙突、かまどの掃除しろ♪
カチカチ、火の~用心♪火の用心♪カチカチ」と唄まで作って子どもに廻らせていたんだ。
今は大人が2軒1組で拍子木を叩いて伝統を守っているよ、歌わないけどね(笑)。

在所の豊受神社は戦前まで矢田新町にあった大日本人造肥料の
会社に祀られていた伏見稲荷を昭和27年に譲り受けたんだ。
万行小学校を解体した際の教室を社殿にしていたけど平成14年に社殿を新築したんだ。
報国町に縁のある人たちから沢山の勧進が集まって鳥居も建てたんだよ。
社宅の町でも生まれ育った場所が故郷だよ。
りっぱな神社を持ちたいという熱い想いが募ったんだね。

一人住まいの高齢者が多くなってきたけど、老人会も活発だし、
これからも長屋の精神で仲良く支え合って生きていかなくてはね。

しほの一言

人の住むところ歴史あり、
聞かなければ知らないことばかり。


第127回 七尾市白鳥


町名の由来

ここは昔から港がありカモメやウミネコなどの白い海鳥が多く集まるんだよ。
聞き伝えによると傷ついて弱っていた大きな白い鳥を
在所の老翁が救って手当てしたけど死んでしまったんだ。
その鳥を背後の伊掛山の麓に祀ったことから、この地を白鳥と呼ぶようになったそうだよ。

昔の在所

在所の真ん中を流れる川が江泊町と庵町の境界なんだ。
昔は江泊町の白鳥と庵町の白鳥と別々の在所だったんだけど
70年程前に一緒になって今の白鳥になったんだよ。
だから在所にお宮さんが二つあるのはその名残なんだね。
人が住んでいた所に後から境界が引かれたのか、
魚場をめぐって江泊と庵がせめぎ合った結果それぞれの住人が
移り住んだのか歴史的背景はわからんけど、二つの町会を股にかけた在所というのは珍しいよ。
おかげで川を挟んでお寺の門徒も、選挙の派閥もはっきり色分けされていたね(笑)。

子供の頃は七尾に行くにも早朝から隣の江泊まで歩いて
定期船で2時間以上かけて行ったけど一日がかりだったよ。
定置網で獲れたブリやタラなどは祖母さんや母親が沢野町の
栢戸まで通じる山中の羽坂道を籠担いで七尾に運んだんだ。
それが唯一の現金収入なんだけど代金は盆暮れに支払われていたんだ。

それと烏帽子(えぼし)制度があって一致団結、協力して暮らして来た歴史があるんだ。
私も烏帽子親には実の親以上に経済的にも手厚く面倒を見て貰ったんだよ。
今では烏帽子親子も少なくなったけどね。

これから

沖には岸端定置網と白鳥定置網があり若い人達も頑張っているよ。
白鳥定置が大漁だと在所は朝から活気づくんだ。

近年は青年会や子ども達が少なくなっているけど、左義長、春秋の祭り、
恵比寿祭り、盆踊りなどの在所行事は何とか継承しようとみんなで頑張っているんだ。
それで獅子舞の蚊帳も5人用から3人用に小さくしたんだよ。

在所の中を通る県道は車がすれ違い出来ない程の狭い道で危ないんだけど、
海岸に新しいバイパス道路が出来て来年には開通するんで楽しみにしているんだ。
35世帯あるけど、65歳以上が47人、以下が45人、子供11人、
高齢化が進むけど人情味ある良い在所なので何とかしようと前向きに思っているんだ。

しほの一言

浜風に柿の葉が揺れ、三色のカキ餅が並ぶ。
小さな幸せがいっぱいの在所。


第126回 能登島町日出ケ島


町名の由来

弘法大師がこの地を訪れて、飲み水に困る村人のために筆で岩をなでたところ、
そこから水が湧き出たということで、この地を筆ヶ島と名付けそれが
転じて日ヶ島となったと言う弘法大使説があるよ。

確かに弘法の井戸と言われる跡は今でもあるけどね。
ここで暮せばわかるけどなぜ日出ヶ島なのか一目瞭然だよ。
海辺に立てば富山湾から昇る太陽が能登島と崎山半島の間の水平線に顔を見せるんだ。
凄く綺麗な日の出でなので感動するよ。
そんな日が出る島、日出ヶ島ってのが素直で本当のところだと思うけどね。

昔の在所

能登島は越中の五箇山と共に加賀藩の流刑地で、
134人が島に流されたと聞いているけど、
その玄関口がここ日出ヶ島の港だったんだよ。
当時20あった村の内14の村にそれぞれ配流されていくんだけど、
多くは書画や儒学などの文化人や武士など政治犯だったんだ。
家族を残してどんな思いで海を渡ったかと思うね。
逃げようと思えば三室まで泳げる近さだけど、
家族に危害が及ばないようにと逃げなかったんだろうなぁ…。

子どもの頃は半農半漁の暮らしで刺網、定置、なまこ、蛸などを獲っていたんだ。
私の祖父さんは蛸が入ると蓋の閉まる蛸壺を開発してね
、獲れた蛸を七尾の市場に持って行くときに付いて行っては
うどんや饅頭を食べるのが楽しみだったよ。
その蛸壺は今でも大事に私も使っとるよ。

小学校は隣在所の野崎小学校へ山道を歩いて通ったけど、
当時は在所から在所は細い山道しかなく、どの在所も孤島の中の、
さらに陸の孤島だったんだ(笑)。学校の帰りは山道を遊びながら、
あけび、おんべ、松茸も採って、カキ崎の海ではサザエを獲っては
家に帰ったもんだよ。今は誰も手入れしないので山は荒れてしまったけどね。

これから

時代が変わったんだからこそ、いい意味で変わっていかないとね。
ここは左藤、左川、米田の3苗字の12世帯25名で、
90歳を筆頭に65歳以上が18名なんだ。

祭りの獅子舞も出せないし、報恩講のお参りも集まらなくなったし、
暮らし向きが個人個人になってきているから、
この前みんなで防災訓練をやったんだ。
やればすぐに一致団結だよ。日の出も綺麗だし、魚も美味いし、
在所の存続のために何か一歩を踏み出さないと、と強く思っているところなんだ。

かなこの一言

お日様に恵まれ、魚良し、松茸良し、
みんな仲良し、小さな在所、島の中の島。


第125回 七尾市魚町


在所名の由来

昔は海に面していて魚町の波止場は所口湊と呼ばれ漁業が盛んな在所だったんだ。
魚町会館の横の広場が共有地でね、そこに網を広げていたんだ。
その横に漁業の神様である恵比寿様のお堂もあったんだ。
その名残で今でも3月と9月に恵比寿祭りを行っているんだよ。
ここから獲れた魚を畠山氏へ献上していてその頃には
すでに魚町と呼ばれ500年の歴史があるんだ。

現在は正式名称として「うおまち」となっているけど、
在所ではみんな「ようまち」と言っているよ。
魚は古語では「いを」と読み、それが訛って
「よう」と発音されるようになったんだね。

昔の在所

天正14年に前田利家から魚類の専売権が許されてから魚の加工や
販売が勢いを増していくんだ。昭和40年代でも9軒の魚屋が並んでいたけど、
今は立野さんと小川さんの2軒になったよ。
その頃は一本杉に劣らず繁昌した商店街でね、魚屋だけでなくいろんなお店が並んでいたんだ。

当時の広瀬ストアさんのコカコーラ販売量は北陸一だと言われたもんだよ。
現在の網元(あみげん)さんの所に銭湯のえびす湯があって
一本杉通りを走るバスから脱衣場が見えると男衆の間で密かに噂されていたよ。
ともあれ活気がある良き時代だったね(笑)。
明治28年の七尾大火で在所が管理していた古文書がほとんど燃えたけど、
一冊残ったのが明治19年に作られた魚町土地台帳なんだ。
在所のまんぞう割りのために作ったのか、一筆地ごとの寸法の入った絵図面に地目、
地積、地租、地主が書かれているんだ。明治時代に在所でこんな調査したとはあっぱれだよ(笑)。

でか山

それと何と言ってもでか山だね。でか山があるから町内が一致団結しているんだ。
畠山義統(よしむね)が山王神社の青柏祭に曳山を奉納することになり、
魚町、府中町、鍛冶町がでか山を勧進し、魚町に畠山の
「丸に二の字」の家紋が与えられたんだ。

前号の山王町の記事で津向町の唐崎神社とあったけど、
あそこは津向と小島が入り組んでいて正確に言うと小島町なんだよ。
青柏祭はその小島町の唐崎神社で神主が紅葉川の水を取り、
禊をして祭りを宣命し幕が開くんだよ。

畠山と前田の殿様から魚のご縁を頂き力をつけた在所だったからこそ
山を持つことも出来たのだと思うよ。
殿様と先祖に感謝しなければならないね。

かなこの一言

城下の商人町に山がある。
時代が変わっても、変わらぬ心意気。


第124回 七尾市山王町


町名の由来

山王神社がある在所だから山王町だよ、明快だね(笑)。山王、本府中、上府中、御祓、神明の5町が府中村で、昭和の初めで120軒の村だったんだ。
当時は七尾駅前で獅子舞を踊っていたと言うよ。

在所の歴史

山王神社と共にある在所だから山王神社の事を話したいけど、
あまりにも歴史が深いので大森宮司にも同席してもらわんとね(笑)。

能登建国にあたり七尾湾を琵琶湖に見立て近江国を模して町が作られていったそうだよ。
能登國の中心七尾の町を造るための守護神として山王神社、
津向町の唐崎神社、府中町の印鑰神社が建立されたんだ。
本宮神社は更に古く6年後に2200年を迎えるのだけど、
44の坊があり信仰の一大拠点だったんだよ。
信仰のためにある神社と町を造るために置かれた神社と
いうふうに考えてもいいのかもしれんね。

青柏祭は981年から始まり、1473年に畠山義統がデカ山を
奉納し大津の山王祭と京都の祇園祭が融合された祭りとして
進化してきたそうだよ。昭和3年に山王神社に鍛冶町の天王社が
合祀され大地主(おおとこぬし)神社と改称されたけど
今でも山王さんの方が馴染みがあるよ。

能登立国1300年

来年は能登國が出来て1300年だけど、その歴史は718年に能登が
越前から独立し、23年後越中に併合され、さらに16年後そこから
また分離独立するんだけど、その頃にはまだ加賀国はないのだよ。
そして畠山時代、中世北陸最大の都市として七尾が発展していくんだ。

来年は山王神社も1300年なんだ。能登建国で近江国の日吉大社が
勧請され七尾に山王神社を建立するとき神社を守る
7軒の氏子とその一族を近江から一緒に連れて来たんだ。
それがこの在所の原型で現在も梅、三野、山本、藤巻の
4軒が神社の周りに住んで神社を守っているよ。

来年山王神社の鳥居を再建するんだけど、あえて木で作るんだ。
木はやがて朽ち果てる。そしてまた作るんだ。
そのたびに七尾はどんな所かと自分達の歴史を知る
キッカケになるようにとね。歴史と伝統ある七尾に生まれ、
住んで、生きている我々は小粋な市民としてプライドを取り戻し、
この七尾を自信を持って子孫に繋いでいきたいと思うんだよ。

まぁの一言

壮大な歴史を受け継いでいる。
小粋な人が多い在所。


第123回 七尾市松百新町


町名の由来

読んで字の通り元は松百町の在所で、昭和38年頃から宅地造成が着工され
昭和40年代から家が増えた場所なんだ。
年々新しい人が増えてきたので、昭和47年に団地代表が松百の町会長と
協議して了解を頂き新しい町が誕生したんだ。
松百の中で新しく出来た新町ということだね。

在所の歴史

ここが造成されてからオイルショック前までの
10年間に家が順番に建っていったんだ。
その頃は赤浦の踏切を渡ってここに入るのだけど、
その踏切が狭くて大型車が通れなかったよ

。最初に造成された地区が1班から3班で、
その後昭和50年代から踏切の反対側の山も順次開発され
4班と5班が出来て、昭和57年に小丸山台方面からの西湊幹線が
開通してから一挙に人が入ってきたんだ。
その道路沿いに平成14年に第1期、平成20年に第2期とシティハウス産業が
造成し6班と7班が出来たんだ。
そこは昔リンゴ山だったことからシティハウスの瀬口会長が
アップルタウンと名付けたんだね。

宮が無いので家が20軒くらいの時までは
松百町の祭りに神輿と太鼓が来てくれたんだ。
人が増えたので当時の青壮年団が集まって子供の神輿と
大人の奉燈を手作りで作ったんだ。
おかげで今はそれで毎年お祭りしているよ。

これから

町が出来て半世紀、世代交代が進むけど
、空き家が出ても業者がリフォームして売り出すと、
交通の便が良いのですぐに新しい人が入ってくるのも明るい兆しだね。

平成24年に松百町と一緒に七尾病院と自由防災協定を結び、
災害時に在所と病院が互いに協力し合うことにしたんだ。
この在所は青壮年団の力が大きいよ。当初からの世帯は高齢化してきたが、
新しく住む若い世帯も多いので、子供会25名、青壮年団31名と何があってもやってくれ、
町内を引っ張ってくれるので本当に心強いんだよ。

そんな子育て世代や、働き盛りの人たちが世間で精一杯活躍してもらえるよう、
今は我々世代が在所の中の事をお世話させて頂いているんだ。
それぞれが、それぞれの立場の中でご縁を頂いて、
みんなのために尽くすという精神が必要なんだね。
それを繋いで行き、いつの時代も子供も年寄りも明るく
笑顔の絶えない町内にと思っているんだよ。

まぁの一言

新しい町に暮らす。隣近所とお付合いが始まり、
一人が全体のために、全体が一人のために
結束する在所。


第122回 中島町外原


町名の由来

中島の山戸田の分村なんだよ。時代は分からんけど、
在所の福島豊次さんの先祖が、山を越して来て見れば、
ここは田んぼも出来るし暮らすことが出来る場所だと
見極めて入植したのが始まりなんだ。

山戸田の外にある原、ということで外原となったわけだよ。
以前は「そどら」と言っていたけどね。

在所の歴史

ここは五反百姓の在所で田んぼと炭焼きをして自給自足の暮しだったようだね。
冬の間は都会のツテを頼って出稼ぎに出たと言うし、次男坊は銭湯へ奉公に出たんだ。
今でも在所出身の3人が東京と神奈川に銭湯を経営しているよ。
風呂と言えば昔は貰い湯をしたんだ。風呂を沸かした家が近所へ声を掛けてね。
夏はタラ湯と言って風呂の半分ほどのタライを外に置いて釜戸で沸かしたお湯を入れて、
これも貰い湯するんだけどその家のお母さんが最後に入るんだ。

何事もお互い様の精神が強いんだよ。
戦後しばらくまで裏山で亜炭の採掘をしていて馬車に積んで中島の駅まで
運んでそこから貨車に積んだと言うよ。
その馬車も途中から木炭車のトラックに変わって、
そのトラックに乗って昭和22年の金沢の国体を若い衆が見に行ったらしいよ。

区長も壮年団長も選挙で決めた活気ある時代もあったんだ。
そんな時の団長が在所の小祭りで、20日の熊甲大祭にどうか枠旗を持って行きたいと頼むんだ。
小さい在所なので他から人足を頼むけど費用が掛かるので、
不作の年ならダメだとおやっさまの一声で決まったんだ。みんなで協力して生き抜いてきたんだね。

これから

田んぼで暮らした時代は各家に親子二夫婦が必要だったけど、
今は機械化で人出は要らんし、田んぼでは暮らせんし、
若い人が在所に残る必然性がなくなって過疎になってしまったね。

自然だけは豊かで在所中に蝉時雨が聞こえ、
川には鯉が泳ぎ、夜はホタルが舞っているよ。
中島から福浦港までの県道は地蔵街道とも言われ沿道にお地蔵様が
沢山あるけど外原には無かったんだ。

それで10年前の能登半島地震で一軒の被害も出なかったことに感謝し、
在所の末永い安寧を願ってと曽田政治さんがお地蔵さんを、
その祠を大工の石坂寿さんが建立してくれたんだ。
この先も何とか現状維持しながら少しでも長く続いていってくれればと願っているんだ。

まぁの一言

巴形の田園を家々が囲む。
あちこちに鉄砲ユリが自生し、
穏やかな空気が流れる在所。


第121回 中能登町東馬場


町名の由来

古文書によると鎌倉時代の馬庭(ばんば)村が、
室町時代に分村して鹿西の西馬場、鹿島の東馬場となったようだね。

ここは邑知潟地溝帯の上にある在所なので、
湿地帯から平野になっていく過程で馬を遊ばせたり、
餌を食べさせるような場所になっていったのではないかなぁ。
三角池の近くに今も馬洗場(ませんば)と呼んどる場所があるし、
そんなことで馬庭と呼ばれ、そして馬場となったと思うんだよ。

在所の歴史

山裾に位置する西馬場にはお寺があるから、昔の馬庭村の人はそこに住んで、
ここは馬の庭でしかなかった場所だったと思うんだ。
そこに人が住みだし集落が出来てきたので分かれたのではと想像してるんだよ。

東馬場にはお寺が無く、散り門徒で能登部や井田、水白など近在のお寺の門徒が多いので、
その辺りから移り住んで来たんではないのかなぁ。

戦前、軍需工場があったんだ。
それが敗戦で昭和23年に滝尾織布株式会社に変わったんだ。
織機が176台もある大きな工場でね、私の母親も勤めていたし、
在所中の人が勤め現金収入を得ていたので生活の基盤が安定した在所だったよ。
二交代の勤務で夜道が危ないからと在所中に街灯がついたんだ。
当時では大変珍しい事で、周りから田んぼの中に夜でも明るい在所があると揶揄されたよ(笑)。

それが昭和31年6月に工場が火事で全焼したんだ。
その頃から八台機場(はちだいはたば)と呼ばれた織機八台の家内工場がブームになるんだ。
在所でも多いときで46軒の機場があったけど音がうるさくて夏でも窓を開けられなかったよ。
在所の中の空気が動きっぱなしという感じなんだ。
慣れたらそれが普通になってね。
盆と正月に機械が止まると、在所中がシーンと寝静まったようになったよ。

これから

中能登中学の裏に新興地もあり若干世帯も増えているので、
祭りが出来るだけでも良しとせなならんね。
子供の頃、田んぼで聞こえたカエルの声が織機の音に変り、
それが無くなった今、土水路から基盤整備された田んぼではカエルの声も聞こえないし、
ホタルもいなくなって世の移り変わりを肌身で感じているんだ。

高齢化が進み空家が増えたけど、在所の中が荒れないように空き家対策をして、
住みやすい東馬場を守っていくために、真剣に考えなならん時が来たように思うこの頃だよ。

かなこの一言

邑知潟が平野になり人が住んだ。
人が住むとこ歴史あり。


第120回 七尾市水上


在所名の由来

山の中腹にある在所から深い谷間を見下ろすと、
熊淵川とその支流の水上川と2本の川が流れている在所なんだ。
そして山も沢山の水を含んでいて、水の豊かな在所だったんだよ。
それで水の上にある在所、水上となったと思うね。

昔の在所

七尾城に使えていた農民が隠れ家のように暮していた在所だよ。
元祖は畠、白藤、村山、西尾の4軒だけど、
畠さんが在所の神仏をお世話する中心的な家だったね。
在所内で婚姻が進み今ではみんな親戚だよ。江戸時代、
赤穂浪士討ち入りの頃には12軒だと古文書にあるね。

江戸末期から在所でガバダンと呼ぶ山で石灰石を採掘して
牛で東浜まで運んで近郷に肥料として売っていたようだよ。
昭和8年からは津向のセメント工場に空中ケーブルで滝ノ尻、
小池川原、八幡を通って運ぶようになるんだけど、
ガバダンで働く人が増えて多い時で48世帯300人以上が
暮らすようになり、在所にあった第2南大呑分校が
城南小学校として格上げされたんだ。

子供の頃、寄合いで大人から「オイ、獲ってこいや」と言われると、
川の岩魚を手づかみで獲って、竹に刺して味噌を漬けて、
囲炉裏で焼いてみんなで食べたんだ。
寒の時期にカキモチを作るけど、この時に大根のおろし餅みたいにして、
つきたての餅に鱈の真子の煮付けをまぶして食べるんだ。
この「鱈の子餅」が水上のソウルフードなんだ。

今の在所

ここは岩盤に表土が乗った地質で昔から地すべりが多く、
山の水を抜いた小さな工事跡が沢山あるよ。
大災害にならないようにと県がボーリングで水を抜く大工事をしたんだ。
そしたら在所中の井戸水が枯れてしまって、
それで平成13年に谷で堰き止めた水をタンクに入れ
滅菌してパイプで各家庭に配水したけど水質が良くなく困っているよ。
市に相談したら水道工事の地元負担が1千万円ほどかかると言われ諦めたね。
空き家も多く狸の家になっているんだ。
実は10数年前まで街で暮らしていたけど、
一生懸命働き、精一杯遊んで、納得したからここに戻って来たよ。
まだ勤めているけど田んぼしたり、猪を獲ったり、
寺参りしたり余生を満喫してるんだ。
やっぱり古里で最後を迎えたいと思ってね。
水上は今住んでいる人を最後に消滅するけど、
我々8人が最後の水上住民として歴史に残るんだよ(笑)。

まぁの一言

人も在所も栄枯衰勢あり、
今を前向きに生きる事が大事。


第119回 七尾市和倉元町


町名の由来

約1200年前、白鷺が海で傷ついた足を癒やしているのを
不思議に思った漁師が近づいて温泉が出ているのを発見したと
伝わっているけど、温泉が海の中から湧いていたことから湯が湧く浦、
湧浦と呼ばれ、江戸時代に和倉となったということだよ。
当時の古文書では湧浦村と和倉村が交錯してるんだけど、
これは七尾を所口と呼んだり七尾と呼んだりしたのと同じように色々あったんだろうね。

昔の温泉街

和倉七軒といって昔は七軒の百姓が住んでいた在所が温泉のお陰で発展したんだね。
19歳で石崎から和倉元町へ養子に来て60年経つけど、
その頃は今の源泉の周りに小さな旅館が
並んでいて元町だけで25軒、芸者の置屋も4軒あったよ。
源泉は熱いので旅館には浴槽が二つあって交互に冷やしては使っていたよ。

当時はどの旅館も小さかったので会合するため青林寺の
近くに小さいながらも観光会館を建て会合が終わると
マイクロバスで各旅館へ送っていたよ。
1日に120人以上の観光客が来ると
七尾の松田花火が自転車に道具を引っ張ってきて花火を1発打ち上げるんだ。
いでゆ太鼓も各旅館の玄関先で歓迎の太鼓を打つんだ。

私はモーターボートで七尾湾の遊覧をやっていたけど
近隣の機場(はたば)から集団就職の女工さんの気晴らしにと沢山連れて来てもらったよ。
観光客も団体が多く街にはたくさんの芸者が三味線もって歩いているし
昭和40年代が面白いほど賑わっていたね。
それで小さかった旅館も観光会館も場所を移して大型化していったんだ。
ところが大型化した旅館がホールや宴会場を持ったから
今の観光会館が使われなくなったんだね。
それと家族客が増え芸者に声がかからなくなり、
いつしか置屋も無くなったんだ。

現在の取組

土地柄で和倉温泉観光協会がヨット、
よさこい、太鼓、俳句などいろんなイベントに
関わっているので町会はよさこいの手伝いをするくらいだよ。
和倉には自然、歴史、文化と潜在的な魅力がいっぱいあるんだから、
一本杉の観光ボランティアみたいに丁寧に案内すればと思うんだ。
和倉の事なら隅々まで案内できるけどね(笑)。
和倉から七尾湾をアプローチすれば違う
景色が見えるって事にも気付いてほしいんだがなぁ…。

まぁの一言

灯台下暗し、魅力がいっぱいだった。
和倉だけで1日過ごせそう。


第118回 能登島田尻


町名の由来

在所のある山ヶ地区は、通、田尻、久木、この三つの小さな在所が
集まって力を合わせてやってきた歴史があるんだ。
そして田尻は、通の分家の在所なんだよ。通の二男、三男が
新宅するのにここで住み出したんだろうね。
そしてこの場所は、通から見れば、地形的には田んぼの先、
田んぼの尻に当たることから、田之尻と呼ばれていたんだ。
それで田尻になったと聞いているよ。

昔の在所

田んぼが少ないので漁で暮らしを立ててきた在所だよ。
田尻港を出れば立ケ島、中ノ島、鱈島と三つの島があるけど
その周辺は瀬だらけの海なんだ。
瀬には魚が集まるから刺網、引き網、
もったりと呼ぶ小型の定置網などで近海ものが沢山獲れたんだね。
昔はそれを中島の助作やよんじょもなどの魚屋さん
が買いに来てくれていたと聞いているよ。
寒天の原料になるエゴ草も採れて長野県へ出荷していたと言うよ。
私が子供の頃、まだ能登島はバラス道だったんだ。
そんな時に田尻の道だけコンクリート舗装されていて裸足で走って遊んでいたよ。
これは在所の共有地、ボロボロ鼻付近の海辺の山を売ったお金で整備したという話だよ。
昔は東回り、中ノ島回り、西回りと能登島を定期船が回っていたんだ。
ここは西回りで南、無関、閨、田尻、通、半浦と回っていたんだ。
当時は郵便配達も学校へ通うのもみんな山道と定期船で移動してたんだね。

現在の在所

祭り、駅伝、運動会など通、田尻、久木が三ヶ地区として
一緒に組んで来たんだけど、昭和20年代生まれの人が引っ張って来たんだ。
能登島の駅伝は今年59回を数えるけど過去には連続10回以上優勝しているんだ。
そんな時分は2ヶ月前から練習に引っ張り出されて走らされたけど、
今その世代も年をとって次の若い衆も少なくて昔の活気は無いよ。
通と田尻の境にある八幡神社は通と共有の神社なんだ。
祭りは中島の枠旗祭りと同じ形態でね、昔は神輿2つ、
旗3つを出して各在所と久木の塩田跡の釜屋敷で枠旗を練っていたそうだけど、
私が子供の頃ですでに久木も田尻も枠旗を出せず、今は神輿も出せないのが現状だよ。
まぁ在所が家族のようなもんで、ほのぼのと暮らしているんだよ。

まぁの一言

恵みの海に育まれた在所
対岸の西岸が近くに見えた。