第183回 中島町鳥越
町名の由来
四千五百年前の縄文時代から人が住んでいた痕跡がありますが、いつから鳥越になったかはわからないんですよ。釶打は鎌倉時代に富来院から独立して成り立ったことはわかっていますが。
ひとつ言える事は鳥越という地名は全国に沢山あるけど海に面したところは一つも無くてどこも山の中なんです。鳥が山を越えて飛んで来るような場所が鳥越の由来じゃないですかね。
昔の在所
奈良時代に越中の国司、今でいう県知事みたい人ですが、万葉歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)が能登を巡幸したときに七尾から舟で熊木に来てここの道を通って富来から輪島、珠洲へと向ったんですね。その時詠んだ歌、「香島より熊来をさして漕ぐ舟の梶取る間もなく都し思ほゆ」が万葉集にありますが七尾湾を渡る船の中で都を恋しく想ったんだろうね。
鎌倉時代の僧で総持寺の二祖、峨山(がざん)禅師が羽咋の永光寺(ようこうじ)と門前の総持寺を行き来した道を峨山往来と呼んでいるけど、その一部が在所のメイン通りなんだよ。
明治七年には釶打に鳥越小学校が出来て後の釶打尋常小学校になるけど、そこに富来の西海出身の小説家で加能作次郎が若い時に着任して藤瀬の藤津比古神社に下宿して週末にはこの道を歩いて家へ戻っていたんですね。
一本の道からも様々な歴史が見えて楽しいですね。
現在の在所
鳥越川で山鯉を釣って遊んだ頃の昭和二十九年には三十七世帯二百五人も暮らしていたんですよ。それが今では壮年団も解散して二年前から新宮大祭には枠旗や奉燈は出せなくなってね。だけど本社から分霊を宿した御幣が在所で一泊することに意味があるから神事だけは大事に続けないとね。
在所を維持するということは人間がすることだから高齢化の中では出来ない事をとやかく言わない。それぞれが出来る事を無理のない範囲でさせて頂く共同体でなければね。
平成二十七年から棚田土手の草刈範囲を少なくするため鳥越桜花公園を整備していますが、芝桜六千株、アジサイ四百三十本、ツツジ三百五十本、枝垂桜二百六十本とこれからが見ごろですね。
小さな在所だけどみんなの顔が見えるのでまとまりがいい在所なんですよ。
あきこの一言
山里に鳥の声を聞き田園を眺める
古き往来に偲ぶ故郷