こみみかわら版バックナンバー

第43回 七尾市山崎町

225山崎町

町名の由来

万葉集にこのあたりを、山東(ヤマトノサキ)というくだりがあって、東(サキ)が崎に変化したんじゃないかという説があるね。

町の歴史

産業は農業が中心なんやけど、昔から大工・壁・木挽きの職人が多い在所なんよ。これは在所を流れる熊淵川が昔からよく氾濫してね、農業だけでは生活が不安定だったので、手に職を持ったんやね。 それと、明治から大正にかけて、石動山から石灰岩をトロッコで運んできて、東浜で石灰にして、海路で中島町笠師方面に運んで売っていたらしいよ。今でもトロッコの通った跡地が川沿いに残っとるよ。

町の現在

能越道が開通して、七尾市街地まで一直線で行けて便利になったよ。 過疎化で小学生がいないんだけど、これでまた増えてくれればね。(笑) 活性化のために60歳以上で百膳菜というグループを作って、有機野菜の生姜を栽培して金沢やJAなどに販売しとるよ。

町の自慢は「ぼんぼらがい」

これはお釈迦様の弟子の目連尊者の地獄巡りの話の事なんよ。佛教の伝来とともに伝わってきたこの話を日本各地で盆踊りにしたんだね。今では、殆ど伝承されていなくてね、県内でも白峰と金沢の湯涌と八田、そしてここ山崎にしか残っとらん珍しい盆踊りなんよ。在所でも一度途切れたんだけど、昭和60年に復活させて、今は保存会も出来て、子供たちにも伝承させとるよ。珍しいんで、最近は他からイベントなどで呼ばれるようになっているよ。


第42回 七尾市若林町

224若林町

町名の由来

畠山氏が七尾に入城する以前、この地域を治めていた若林三郎兵衛所領の名から付いたという話やよ。

町の歴史

信仰の篤い地区だと思われるよ。 私が子供の頃には、町の至るところに飛鳥時代以前の石でできた塔婆の板碑が、置かれていたね。現存する数は15個あり、そのうちの一つは北陸三県で最大のものなんやよ。現在は、13個が菊理姫神社に集められとるよ。 そんな土地柄か、石動山天平寺の栄えていた当時は、その末寺が三院もあったと言われとるよ。 また、奈良時代に隣在所にあった宿駅に使う馬を養っていた牧場が、うちの在所 にあったと伝えられていて、その名残から、通称荒牧という場所が今の下出地区の一部なんよ。他にも大門と呼んでいる場所があって、ここは七尾国分寺の南大門があった場所やという話やよ。今の国分寺跡からかなりの距離があるので、悠久の歴史を感じるね。 上出地区ではお茶の栽培が盛んで、近年までお茶畑があったんやわ。これは石動山山系の麓に位置するため、非常に水はけがよく、田んぼには適さんかったからお茶を植えたんやね。 現在両地区は、水理事情もよくなり、七尾南部の水田地帯として耕作放棄地もなく、緑豊かな地域として営農されていることを誇りに思うよ。

町の自慢!

毎年10月の第3土曜日に行われる秋祭りに、獅子舞を先導する道中踊りがあるけども、何とも言えぬ優雅なもんだよ。七尾にもこんな踊りがあることを知ってもらいたいし、ぜひ一度見に来てほしいね!


第41回 七尾市満仁町

223満仁町

町の由来

高階村史の『うぶ砂土筆』によると、摩仁殿という宝物や数珠などが置かれる場所があったから…と言われているらしいね。摩仁が満仁に変わったのはなぜかわからないけど、ひらがなで『まに村』と言われていた時期もあったよ。

町の歴史

約500年ほど前に高階地区に勢力を張った、能登守護職で七尾城主畠山氏の家老として仕えた温井氏の舘跡があるよ。そんな頃に大きく拓けた町なんかな。

みどころいっぱいの町!

『舘山』は、小高い丘に温井舘跡碑や舘山観音が建立され、町が一望できるいいスポットやね。今の時期は桜が見えて鶯も鳴いて風情が感じられるね。子ども達のいいハイキングコースになるよ。 他にも石段が100もある八幡神社は、畠山氏の祈願所として使われていて、神の地として言い伝わっとるし、シンボル的な岩端の一本の木も神様が宿る木と言われていたね。満仁町には神秘的なスポットが点在しとるよ。

現在の町

東京オリンピックの頃から向都離村が顕著にあらわれて、どんどん人も少なくなってきた。都とまではいかなくても、中能登や羽咋に移住する若者も多いね。 現在の世帯数は45世帯で、人口は123人。65歳以上が半数を占めていて少し危機感も抱いとるね。 平成3年に集会所と一緒に作ったゲートボール場で、週3回活動して町全体の体力づくりをしとるよ。ゲートボールだけじゃなくて、グランドゴルフも出来るように整備されとって、そこが町の憩いの場になっとるね。高齢化だからこそ出来ることかね。満仁町は地理的にも恵まれとって、津波もなく平和に暮らせる町やよ。


第40回 七尾市赤浦町

222七尾市赤浦町

町の歴史

赤浦には縄文時代から人が住んでいたとされてるよ。赤浦潟がもたらす豊穣な土地と魚類を中心とした食材は生活の場として最適やったんやね。古墳時代には古代製塩の一大拠点とされていて、遺跡も多く残っとるよ。

町の昔

この地域に欠かせない赤裏潟は、昔海とつながっていて、海水と淡水の入り混じった汽水湖で、いろんな魚が取れたね。昭和30年頃に水門が出来て淡水湖化されて、昭和50年頃には完全に淡水湖になって、周辺の農業用水に使用されているよ。私の母が小学生の頃は、学校の帰りに潟の向こう側から家人を呼んで船で渡して貰っとったよ。家人が居らん時はぐるーっと回って帰らなイカンかったらしいよ。船がまだ交通の主流やったんやね。当時の祭りで「海上渡御」ってのがあってね。赤浦潟に船を出すんよ。新しい船2艙を組んで1つにして、神輿を乗せた神輿船と、お囃子の太鼓・鐘・笛の囃子船が赤浦潟を廻る。真紅の織旗がはためいて艶やかでね。大正末期には、七尾和倉間の汽車が、途中一時停止して見物するほどやったと聞いとるよ。

赤浦の現在

世帯数は68世帯で、人口は260人ほど。小学生は5人ほどおるね。昔からある町やけども、空き家はなくてね。程よい距離感で隣近所の連携がとれとる町やよ。家事のない町!というのが自慢やね。だからといって油断したらいかんと思っとるよ。赤浦潟があるけども、消防車がすべての場所から水が取れるわけじゃないからね。防災訓練なんかもしっかりと取り組まんとね。今後は中断されとる「海上渡御」を是非復活させたいと思っとる。赤浦潟を中心とした町づくりやね。四季折々に移り変わる赤浦潟の景色は本当に綺麗や。「赤浦は七尾のまほろば」やよ!(笑)


第39回 中島町長浦

221中島町長浦

長浦の由来

浦って言うのは、海が陸地に入り込んだ海岸を意味するらしいね。海岸線が長い在所なので地名になったんじゃないかなぁ。

長浦の昔と今

昔はもっと活気のある在所やったよ。 50年くらい前までは、七尾府中の波止場から宇出津まで定期航路が通っていてね。 府中・半浦・長浦・三ヶ地区・宇出津と結んで海上交通の要になっていて、私も中学生くらいまでは七尾へ行くのに、鉄道を使わず船で行っとったよ。乗船客がいるときは赤い旗を立てて寄ってもらうんだよ。 それとは別に、長浦の渡し舟といって、明治時代から能登島の通地区へ舟で渡していたんだけど、ツインブリッジが完成してからは、もっぱら釣り客専用になっているよ。 当時は花嫁を乗せたり、急病人など天気や時間に関係なく渡すなど重要な役割をしとったね。 生活は、半農半漁と瓦工場で賑わっていたね。長浦には瓦の土が出たので、その工場に働きに各地から人が集まっていたんだよ。 畑ではサツマイモを栽培しては船で出荷していたし、多くの家で天草やエゴを取って海岸辺りに干していたから、在所の中は磯の香でいっぱいだったよ。 半世紀とは、いろんなことが変わっていくんだね。 今は、ツインブリッジの袂たもとのうるおい公園に観光客も立寄るし、環境美化を町会一丸となって整備していこうと話し合いしているよ。 時代が変わっても、風光明媚なこの長浦は本当にいい在所だと思っているよ。 少子高齢化は避けられないが、郷土を愛する心はずーっと繋いでいかないとね。 万葉の里マラソンで、町会内を選手が走るので、壮年団・女性会・実年会とで手作りの垂れ幕を作ったよ。 少しでも選手の力になれたらと思ってね!


第38回 七尾市御祓町

220七尾市御祓町

御祓町 町名の由来

その昔、「心身のけがれを清め、大祓い(おおはらい)の神事を行った」という由来を持つ御祓川から、御祓町も神事に関わった町ではないかと想像しているね。

御祓町の昔と今

昔の御祓川は、大雨でよく氾濫し、床上浸水で二階へ避難した家もあったらしいく、その後の片付けも大変なおもいをしたらしいわ。今は上流の河川整備のおかげで、大雨でも安心して暮らしているよ。御祓町はその昔、御祓小学校、のちの小丸山小学校があり、千人前後の子供が通っていたと聞いてるよ。今は小学校も移転して、その名残に学校橋が残っているね。その付近にパトリアが出来、病院が五軒建っているよ。おかげさまで人の流れがあり、町にとっては、よろこばしいことだと思っていますね。御祓川大通りも、昔は狭かったけど、今は広くなり、でか山も通れるようになり、人通りが活発になってうれしいねー。

御祓町は商人の町

御祓町の世帯数は約50世帯で、人口が90人弱。御祓町も高齢化でね。65歳以上の世帯は65%以上とみてる。中学生は2人、小学生は0人なんだよ。住民のほとんどは、商人だからね。日々、商売に励みながら元気に生きていますよ。


第37回 中能登町徳前

219中能登町徳前

徳前の由来

どういう云われなんかは分からんけども、徳川の徳と前田の前を取って徳前とつけたといわれてるよ。

徳前の昔と今

鹿島全域に言えるんやけど、大正から昭和にかけては織物で栄えたね。子どもの頃はのどかな風景の町でね。 そんな中であちこちで24時間しきりなしに織場の音がかっちゃんかっちゃんと鳴り響いとったね。 近年は織場もなくなって、サラリーマンが多いね。 鹿島バイパス・平和堂・中能登マイタウン・コンビニと、次々と便利な設備が整ってきて、人口が増 えてきとるよ。 この辺じゃ聞いたことのない苗字もちらほらと増えてきとるね。富来とか珠洲など、いろんな地域から移住してきとるのを感じるね。 人口は昨年のものやけども、880人で、世帯が304世帯。 徳前だけで小学生が50人くらいおるよ。

現在の徳前

夏にはおすずみ祭り、秋には獅子舞があるね。 神社に壮年団が屋台も出してすごく賑わうよ。 町外から来た人たちと昔からの住民と協力し合って和気あいあいと楽しんどるよ。


第36回 七尾市古府町

218七尾市古府町

町の由来・歴史

古府という地名はいろいろなところにあるんやけども、『ふるこ』と言う呼び名は少ないんよ。 町に隣接しとる国分寺が今から千年以上も前に聖武天皇から建立の命で建てられたんやけど、国分寺の多くは国府区域か周辺に置かれとるんよ。 それで書いて字のごとく、古くから府のある町ということで、古府町なんやね。

町の昔と今

かつては農業地帯で農業が主体となっとったんやけど、今はサラリーマン世帯が主体。大通りが整備されて商業地帯にもなっとるよ。現在は約600世帯・1850人が暮らしとる。少しずつやけど増えとるよ。

町の特徴

400年ほど前に建立された、市の重要文化財に指定されとる能登国總社があるね。 昨年には平安時代の遺跡が発掘されて新聞にも載ったんよ。 境内には「盤持石」と言われる、幕末時代に力自慢で使用した石(一つあたり150㎏!)が文化財として保存されとるよ。 今後は花見もしたいと思ってね。桜の木を植えたりしようと計画しとるよ。

町の未来

「皆が安心して住める明るい町づくり」をスローガンとして取り組んどるよ。 高齢者には反射タスキを配布して、外出の際には着用することが定着してきてるね。 町には「ふるこ会館」という立派な施設があってね。いろんな催し物をやっとるよ。冬には餅つき大会やミニ門松づくり、夏には盆踊り大会が盛大に行われてね。年齢を問わずみんなが交流出来とるよ。 「向こう三件両隣」という隣近所との交流づきあいで、いざというときに助け合う町づくりを目指しとるよ。


第35回 七尾市多根町

217七尾市多根町

多根町の歴史

その昔、石動山はお寺が盛んで、お坊さんが三千人いたらしいね。 そのおかげで、多根もお米や味噌などの商いで栄えていたね。 上杉謙信が石動山を攻めてお寺が焼けてから、多根の商いも衰退していったと聞いたよ。

多根町の昔と今

わたしが子どもの頃の多根町は60所帯あったけど、今は、31所帯と限界集落になりつつあるね。

多根町の特徴

山には、豊富な山菜が取れ、景色もいいところ。 特徴は、何と言っても雪やね。多い時は、山間部で3メートルの積雪があるよ。 近くにコロサスキー場があり、シーズンにはたくさんの人々がスキーを楽しみに来るね。 また、多根ダムがあってね。多根ダムには、ブラックバスが釣れるから、たくさんの釣り人が訪れるよ。 高齢化が進んで祭りの運営もむずかしいけど、スキー協会との交流やブラックバス協会との交流により、春の空き缶拾い、神輿担ぎなどお手伝いしていただいているよ。 コロサスキー場が出来てから、道路がよくなり、多根を出て独立した子どもたちも何かと帰って来る機会が増えて、とてもありがたいね。 雪のおかげで、お米が大変おいしくて、町民も明るくワイワイと楽しく暮らしている町やねー。


第34回 中島町塩津

216中島町塩津

塩津の由来

今から800年ほど前に製塩を営んでたり、内浦で焼かれた塩の集積地やったんやね。塩の積み出し港として重要な役割を担っていたから…といわれとるよ。

塩津の昔と今

七尾西湾に面し、そこに天然記念物の自然林・唐島があり、在所の人は昔から海に親しみ暮らしとった。 牡蠣貝の養殖も盛んで、昭和30年頃は30軒くらいが牡蠣の養殖を営んでおったんやけど、だんだんと担い手が減って、海もさみしくなっていったね。そんで、もう20年も前になるけども、海を生かして在所を元気にしたい!と、若い衆が中心になり『塩津かがり火恋祭り』が誕生したんよ。

塩津かがり火恋祭り

その祭りは7月の第四土曜日に女の神様(唐島神社)と男の神様(日面神社)が、一年に一度、海の上で出会って恋をするというロマンチックなものなんよ。夜の海上は三千を超す灯明が華やかで幻想的。今では、毎年多くの観光客も訪れてくれて、在所みんなの誇りになっとるよ。

地域活動

世帯数は100戸で、人口は300人くらい。 うちの町は老人会も活発でね。町のシンボルに笠師保駅があるんやけど、ホームの整備をJRのOBと一緒にしとるよ。枕木を再利用して花壇を作って花を植えたり、頑張っとるよ。 ホームからは素晴らしい海の景色が見えてね。 おかげ様で平成21年度 七尾景観賞にもなったんよ。


第33回 中能登町羽坂

215中能登町羽坂

町名 羽坂の由来

大昔、羽咋市の鹿島路にある邑知潟は、良川から一青付近まで広がっていたと言われ、その邑知潟に住んでいた毒蛇(大蛇)が、人々を苦しめて困っていたのを、鳥屋比古神(鳥屋比古神社)が退治した。その時に射た矢が落ちたところが、この地であったことから羽坂とつけられたと神社ご由緒などに記載されているね。

昔と今

かつて織物の町として栄えていたが、今では一軒もいなくなったよ。 住民の半数が兼業農家で、ほとんどが勤め人の町だね。

人口と戸数の推移

現在 人口317人 戸数111戸 昭和30年代 468人 戸数89戸 人口はわずかに減っているが、戸数は増えているよ。

羽坂の自慢は

土地や風景とかでなく、なんといっても、区民の絆「ふれ合い」が自慢。 壮年団、女性会、子ども会など、一時期会員が減少して存続の危機もあったけど、最近は会員数も増えて、 活動も盛んやね。 特に老人会の活動が活発で地域からも注目されているよ。 10月に行われる区民感謝デーでは、各組織の協力のもと、羽坂区民全員が朝から盛大にばか騒ぎをするんよ。 区民相互のふれ合いが羽坂のもっとも自慢したいところやねー。


第32回 七尾市国分町

214七尾市国分町

町の歴史

843年に国分寺ができたんやけど、そのもっと前の弥生時代から人は住んでたみたいやね。 国分寺がある町で、昔は「コクブン」とか「コクボ」とか呼ばれ、現在は「コクブマチ」というようになったよ。

のどかな農村地帯

自分の小さいころは今よりのどかな農村地帯でね。川で泳いで、畑でスイカを貰ったり、刈り取った田んぼで野球をしたりしとった。 七尾駅の後ろ側っていうのは拓けていなく、昔ながらの家が並んどった。町民みんなで共同体となって農業を助け合ってきてたよ。

現在

知っての通り、藤橋バイパスが開通し、交通の便が良くなったんよ。 田んぼをつぶして商業施設やアパートなんかも多く建ち、近年一気に賑やかになった町やよ。 現在人口は約750人で、世帯数が280くらい。 能越自動車道の七尾ICもすぐ近くに出来るし、今後は国分町が七尾の中心になるんじゃないかな?笑

国分町の選挙!?

国分町は町会長選挙があるんよ。推薦者5人を立ててね。 2期まで任期は可能なんよ。まあ、町会長さんはボランティアみたいなもんだけどね。笑 それでも選ばれて町会長になると責任ってもんがあるので身が引き締まるよ! これからも、国分寺遺跡を守りながらもっと住みやすい町づくりを目指して頑張っていきます!


第31回 七尾市矢田新町


七尾港に面し、大谷川を中心に西と東に拓けた大きな町です。

矢田新町町会長の藤井博義さんにお話を伺います

町の歴史

明治に矢田新村って表記がされとるね。そのあとに矢田郷村になって、昭和に入って七尾市が発足して矢田新町になったんやわ。

七尾鉄道発祥の地

矢田新町は「七尾鉄道発祥の地」でね。七尾港には船で奥能登からの荷物がたくさん入ってきとってね。そこから荷を運ぶのに矢田新駅が出来たんやわ。それが七尾駅の前身やね。のちに七尾港駅に名前を変えて昭和40年ごろまで使われとったわ。昭和の初めごろはこの辺は工業地帯でね。製材所・鉄工所・鋳物工場・造船所があってね。県の貸倉庫もずらーっとならんどったよ。

現在

世帯数約400あって、人口は1040人くらいやね。国道沿いに昔からの家があって、その周りに若い新しい世帯があって、新旧入り混じる大きい町やね。ドラッグストアやらJAさんやら便利なお店がどんどん出来て活気がある町やよ。うちの町会はこの辺では唯一町で神社を持っとってね。神社でこの辺では珍しい獅子舞を秋祭りでやるよ。正月は初詣でにぎわうし、左義長もしとるよ。活動としては、子ども会・青年会・壮年会・婦人会・老友会と沢山の集まりがあってね。活発に行事をやっとるよ。会ごとの旅行があるし、町会でも旅行に行くよ。人数が多くても一致団結でやっとるね。

けいこの一言

見どころいっぱいで散策が楽しかったです。


第30回 中島町小牧


小牧集落は、中島町の七尾西湾に面し、約100世帯・人口約250人の、海・里・山に恵まれた風光明媚なところです。


小牧町会長の泉 一秋さんにお話を伺います。

小牧の歴史

小牧の地名が初めて文献に現れたのは、室町時代で、それまでの集落は、北側から多気志(現在の田岸)・長前・深浦となっていたが、その長前が現在の外と小牧に分かれて集落が誕生したとされています。

小牧の特徴

半分は近代的、半分はよき昔を残す地区です。地区内には、国民宿舎小牧台や猿田彦温泉いやしの湯など近代的な施設があります。でありながら、いまだにお互いを昔のままの屋号で呼び合う習慣を残し、区民皆親しい間柄です。

林業で栄えた小牧

昔の小牧は、林業で栄えました。ほとんどが林業、農業、漁業で生計をたてていました。今、これら専業者は数名で、また少子化の影響が深刻化しており、限界集落の心配もあります。

小牧壮年団

現在の小牧集落の運営には、小牧壮年団30名が中心となって、各種行事やお熊甲祭などを担い、また、高齢者支援事業に取り組み、買い物支援・ゴミ出し支援など、お年寄りの支援活動を積極的に行っています。

小牧の絆

小牧では、昔から中学を卒業すると壮年団の入団式を行います。そのせいか皆、小牧や壮年団への愛着と団結心は強く、助け合いの精神で仲良く生活しています。愛する小牧は、平和で暮らしやすい地区です。

かずの一言

住民の皆さん、幼なじみのような仲良しさんでした。


第29回 七尾市大野木町


崎山半島北端部に位置し、灘浦海岸沿いの町で海を挟んで見える立山連峰と珠洲の突端に感動します!

大野木町町会長坂東俊治さんにお話を伺います

町の歴史

町にある聖徳寺が建てられたのが550年前。室町時代で畠山の殿様が七尾に来てない時代やね。町名は大埜木村という名前で、400年くらい前にはあったみたいやわ。

七尾鉄道発祥の地

約20年前に若い層のパワーで圃場整備の取り組みが盛り上がって、平成4年に完成したよ。農村公園と集会場もその一環で建設してね。最近はサラリーマンが増えて兼業農家が多いけど、その整備のおかげで合理的に作業出来とるよ。おかげで余裕があるんか、田んぼの草刈りも誰が言うでもなく誰かが始めると我も我もとみんなやり出してね。この辺の田んぼはほんとに雑草もなくキレイやよ。

現在

世帯数は50ほどで人口は170人ぐらい。行事は4月の春祭りと9月の秋祭りがあるね。グランドゴルフ大会には老若男女問わず集まるね。12月初めに敬老会もあるよ。町内のバス旅行は何十年も続いとって、バスいっぱい50人以上参加してくれるよ。7月の海開き前に浜の掃除をみんなでしとるよ。この辺の海は遠浅で子どもが安全に泳ぐのに最高やよ。
大野木は自然環境に恵まれとる。自然との共存共栄を図ってご近所さんとも助け合って楽しく暮らしていけとるよ!

けいこの一言

随時変化する美しい海に、
時も忘れて眺めてました。


第28回 中能登町上井田


旧鹿島町の中心地に位置し、鹿島庁舎やラピア鹿島など町の主要施設を有する区です。又、アルプラザがあって便利です。

上井田区長原田好博さんにお話を伺います

区の由来

井田は湧水が豊富な区で、全国的に山から流れでる川が里に出た付近に『井田』って名前がよくついとるらしくてね。同じようないわれで『井田』ってついたんじゃないかな。

大昔から人が住んでたところ

山から流れる川や木の実・山野草が豊富で大昔から住みよい土地やったんやね。遺跡がこの辺ではいろいろ見つかっとってね。古くは縄文時代からのものがあるよ。大地の恵みに感謝やね。

現在の区

上井田だけなら130世帯ほどあるね。
下井田も合わせたら270世帯くらい。
子どもは一学年10人程度やわ。8割~9割はサラリーマン世帯やね。昔は農家が多かったけど、今は自分の家の分だけ作るという兼業農家が多いね。山からの湧水の田んぼの米はすごく美味しくてね。『井田の米』が欲しいって言ってくれる人もおるよ。

区の交流

行事としては熊野神社で年に7回 宮祭りがあるね。上井田だけの納涼祭は150人くらい集まるよ。また、グランドゴルフ大会が大好評で、小学生からお年寄りまで活気ある大会になっとるよ。農業を通じてみんな悩みを共有しとるからか、コミュニケーションは密やし、家族づきあいに近い交流がある地区やよ!

けいこの一言

不動滝と熊野神社に癒されました!


第27回 七尾市寿町


恵寿総合病院と能登食祭市場の中間に位置する海側の町です。

寿町 町会長・粟津繁雄さんにお話を伺います。

町の歴史

この町は昭和38年に海を埋め立てして、海沿いの工業用地と大通り側の住宅地に分譲された町やよ。おめでたい名前を…ってことで寿町に決まったらしいわ。

町の特徴

朝日が美しいね。海から昇る太陽が素晴らしいよ。今の時期に飯蛸が釣れてね。朝から人が一列になって釣りをしとるよ。行き止まりの町やから車もあまり通らなくて静かやよ。特に海沿いはいい散歩コースになっとるね。そして何より総合病院が近いのが一番やね。

現在の町

寿町は分譲時、若い世帯が住みついて子どもたちで賑ってたよ。今はその子どもたちが巣立って現在では小学生は5~6人ぐらいやわ。来年の青柏祭では人形見をうちの町内で!という声があってね。文化財資料整理室(旧有隣保育園)でやりたいと思っとるよ。

町民の楽しみ

町の集まりとしては、新年会を毎年近くの料亭でみんなわいわいと初顔合わせで楽しんどるね。町単独では出来ないけど、他町内さんの老人会と一緒に旅行に行ったりしてるね。個々ではプールやジムに行って健康を維持して元気で楽しんどるよ。

けいこの一言

ファミリーで飯タコ釣りに是非行きます!


第26回 七尾市塗師町


かつては七尾の中心として海のもの山のものを集めて流し宿場町として栄えていた塗師町を訪れました!

町会長の大成建二さんにお話を伺います!

町名の由来

漆の職人を塗師って言うんやけど、扱う問屋さんが一軒現在も残っとるよ。前は数軒あったんかな。多分そこから町名になったと思うよ。

歴史

昔国道が一本杉から塗師町・大和町を経由して庵方面へ通っていてね。その道が七尾の主要道路やったんよ。その道に里程標っていう、運賃設定の0地点っていう起点があってね。ここから○キロでいくらって決めとったんよ。

イキイキ交流の町

でか山が辻廻しをする町の中心『違い堀』に、昔は菅原神社っていうのがあってね。今は山王神社に引っ越ししたんやけど、そこに奉られとるんが天神さんでね。その名前を取ってそこに今、天神会館っていう町の集会所が建っとるよ。いつでも気軽に集まれるから、交流があって町民仲良くやっとるよ。世帯数は50世帯くらいあるね。どこもそうやと思うけども、子どもは少なくなっとる。そんでも、この辺は自営が多いから長いこと働けて、年寄りいうてもいきいきとしとるね。

現在

今年の5月2日に青柏祭の人形宿を引き受けて、花川戸助六の人形を飾ったんよ。10年ほど前に祇園祭りの奉燈を新しくしてね。黒が多い中、朱塗りで目立っていいねえ。人も集まってくれて最高やよ。はっぴも今年新調したよ。祭りがますます盛り上がるよ!

けいこの一言

違い堀にそんな歴史があったんですね!


第25回 七尾市徳田町


七尾の南部に位置し、JR七尾線徳田駅を中心に拓けた町です。

徳田町町会長 田中明彦さんにお話しをしていただきます。

歴史

徳田地区は、徳川幕府時代、下町と八幡町が天領だった。残りが前田家の領地だった。それで、徳川の徳と前田の田をとって徳田地区としたそうです。明治31年に駅が出来、徳田駅が誕生。その周辺を徳田地区の徳田町としました。

戦争時、栄えた町

日露戦争時代、徳田町は、宿屋・芝居小屋・色街などで賑わい、また、太平洋戦争時代は、兵隊さんを汽車で七尾から徳田まで送り、家族は徳田駅で降りて、食事や一杯飲んで七尾に帰る習わしがあったそうです。

昭和48年から現在

住宅が増え続け、現在211所帯・町民530人。今は、増えもせず落ち着いています。世帯主のほとんどがお勤めの人です。また、学校がある町で、七尾東雲高等学校・朝日中学校・朝日保育園があり、朝・夕に学生が行きかう町です。

和気あいあい

花見会・夏祭り、町民の交流はたくさんあります。中でも秋祭りは、獅子舞・神輿と町民をあげての祭りです。まだ若い町のせいか、みんな和気あいあいと生活を楽しんでいる町です。

町に学校があるせいか、青春の匂いがしました(笑)


第24回 七尾市石崎町


波の谷間に命の花が~♪今日は漁師町の石崎町にやってまいりました!

七尾の南湾の西端に位置し、和倉温泉の隣町になります。

西二区町会長で連合町会長でもある大松博一さんにお話を伺います!

漁師で栄えた町

その昔、畠山の殿様の時代に、能越海一円の漁業権が石崎町に与えられとってね。広い漁場をまとめとったんよ。そんな中でも他の地域と小競り合いもあってね。それを町民が団結して守り抜いとった。まさに石崎の団結力のルーツやね。昭和40年くらいまで、石崎でとれた魚を担いで行商し、家計を助けるかあちゃんが多かったんよ。

石崎町といえば…奉燈祭り!

十数年前までは旧暦の6月15日の満月の時に行われとってね。満月の時は月明かりで魚が少ないからという理由でそうなっとったね。今は漁師の数も減っとるし、8月の第一土曜日という風に固定されたんよ。観光面では良かったんかな。

愛する町

石崎全体の世帯数は1400弱で子どもは年々少なくなってきとるね。しかし、若い衆の連帯感があり、地元に残る若者もいね。若い衆の団結力で地域力を高めるよ!人情の町!団結の町!活気のある町!住民はこの町を愛してやまないね!

けいこの一言


団結力の奉燈祭り!今年も楽しみです♪