こみみかわら版バックナンバー

第83回 中能登町 下井田


在所名の由来


本当の所は分からないけど、ここは湧き水が多い在所でね、
田んぼの下は石ころだらけの地層で地面を掘ればすぐ水が湧くんだよ。
井戸の井、田んぼの田、それで井田になったんかなぁ。


昔今


明治時代には繭の生産が盛んで富山や長野に出荷していたらしいんだ。
私が小学生の頃でも蚕を育てるため桑畑が一面に広がっていたね。
桑畑の中を歩いて学校へ行くと、先生が桑の実を取った者、手を上げなさいと。
でも誰も手を上げないんだ、そしたら口をあけなさいと調べるんだ。
口の中が紫色になっているんでよく怒られたよ。
実はでかいし甘いし何回怒られても美味しかったよ(笑)。

在所の中はガッチャンコ、ガッチャンコと織物工場で賑やかだったよ。
まだテレビが普及していない時代に、シュクタニの工場は
大きくて食堂にテレビがあってね、年寄りと子どもが集まって
一緒に相撲を見ていたなぁ。懐かしいよ。

この辺はどういうわけか飛び地が多いんだよ。
在所の中の「かんすけどの池」は隣の東馬場の飛地でね、語継がれている話があるよ。
昔、下井田の有力者の娘が東馬場へ嫁いだ際に、その池を花嫁道具と一緒に持たせたらしいよ。
それなら池から東馬場までの水路はどっちの在所のものかという話になって、
水路の底は東馬場でも土手は井田のものだと言い合って、
今でもそこを不定地と呼んであいまいにしているんだよ。

この在所には不動滝から流れ落ちる水が熊野川となって流れ、
滝に向う山の入り口に熊野神社、その横に真言宗の円光寺、
滝では石動山の修験者が修業したのだけど、偶然にも同じような所が紀伊半島なんだ。
規模は違うけど、構図は同じだよ。那智の大滝があり、熊野川が流れ、
熊野大社があり、真言宗の高野山、熊野三山で修験者が修業。
どんな関係があるかしらんけど不思議だよ。
そんな縁で中能登町と三重県紀宝町は姉妹町になったらしいよ。

井田の獅子舞は町の無形文化財なんだけど、
一昨年も紀宝町へ行って演舞してきたんだ。
若い衆が真面目に頑張っている姿はほんと頼もしいよ。


かなこの一言


水の少ない在所に嫁ぐ娘。池まで持参させ、
幸せを願う親心。心に熱いものを感じました。


第82回 能登島別所町


在所名の由来


能登島には在所が二十あるけど、ここだけが海に面していない山の中の在所でね。
海辺から離れた別の所なので別所かなと思うよ。中島町の別所と区別するため、通称島別所と呼ばれているよ。


昔の生活


能登島ゴルフ場に面した山間に田んぼがあるけど、
そこを古別所と呼んでいてね、元の集落はそこだったんだ。
いつの時代か在所中を焼き尽くす大火があってね、今の場所に移ったと伝わっているよ。
昔は自給自足の農業をしながら燃料用の薪を出荷していたようだね。
能登島は加賀藩の流刑地でね、今でいう政治犯や文化人が送られてきたんだ。
別所にも三 名が遠島されたと記録があるよ。


島八太郎伝説


言い伝えによると遠い昔に能登島の草分けとなる八人衆が島に渡って来てね、
島の中を八ヶ所に分けて住むんだが境界を作らず、兄弟以上に仲良く、
お互いに助け合って暮らしていたというよ。
何か問題が生じれば皆で集まって相談をするんだが、
その集まる場所がこの在所だったんだね。

別所の神社は八所大明神が祭ってあって島中の祈願所でもあったんだ。
小さな在所の中に昔は神主が二人と坊さんが六人住んでいたと伝わっているよ。


猫踊り


能登島の秋祭りの締めくくりが十月十九日の別所の祭りなんだ。
祭りの最後のご招待の家で最後を飾る演目が猫踊りなんだよ。
能登島の獅子舞は越中の流れを汲んでいるけど、「にわか」には
島独自のものがいくつかあってね、この猫踊りはその中でも別所だけのものなんだ。

在所の人も全員楽しみにしてるし、踊る青壮年団員も真剣だよ。
最近この踊りが注目されてよくマスコミが取材に来たりするよ。
若い人は外で所帯を持つことが多くなったけど、
この祭りを伝承する使命があるから必ず戻ってくるよ。
小さい在所だからこそみんなの顔が見えて家族みたいもんだし、
祭りが在所の大黒柱となって強い絆で結ばれているんだよ。


かなこの一言


猫踊りの映像を見せて頂きました。演じている方はもちろん、
見ている方達も、とても楽しそうで生で見たいと思いました。


第81回 七尾市滝ノ尻


在所の由来


天保5年(江戸時代)の香典帳が残っていてね、それを見るとこの在所は十三世帯が始まりのようだよ。
集落より少し離れた場所で元屋敷と呼んでいるところがあるんだけど、最初の十三世帯はそこに住んでいたらしいよ。
子どもの頃、その元屋敷の裏山に入ると高さ二間(3.64m)、
幅一間(1.82m)くらいの水が岩の上から流れ落ちていたから、
山の法尻(のりじり)ならず滝の法尻、滝ノ尻となったんかなぁと思っているんだよ。


昔と今


私が子どもの頃、多くの家では炭焼きと田んぼの生活をしていたよ。
当時はまだどの家も火鉢を使っていたからね。男は山で炭を焼き、
女はその炭を七尾の街に売りに出かけていたんだ。
私の母も十五kgの炭俵を二俵、三俵と背負って山道を歩き七尾の街中まで売りに行っていたよ。
祖父の代から酒屋を始めていたので、帰りに酒を仕入れて、また背負って山道を戻ってくるんだ。
県道がない時代の山道を歩くんだから辛かったと思うよ。
車の通る道が出来たのが昭和三十九年でバラス道だったね。
雪が積もるとどちらに出るのも大変でね、大人は子どもの通学のため雪かきをして通学路を確保したんだ。
県道は細くてカーブも多いけど大事な道でね、毎年九キロを三月には空缶拾い、
七月は草刈と隣の多根町と共同で行っているんだ。

若い人は結婚しても在所に住まないので獅子舞も神輿も出せない状況になったけど、
お盆には懐かしい顔が帰省してくるので二日間の盆踊りを青年団と一緒に盛大にやっているよ。
盆踊りをするグラウンドは在所の四十二名の共有地の田んぼだったんだ。
当時は毎年四名ずつ交替で耕して、収穫したら当番の家に在所中でヨバレに行くんだよ。
そして十キロから六十キロまでの米俵を持ち上げる盤持大会をして盛り上がったんだ。

神社の広場には盤持石があって昔は山からの仕事帰りにそれを持ち上げては
力比べをしていたというから力自慢が多い在所だよ。唐戸山相撲の大関も出ているしね。
小さな在所だからこそ強い絆で結ばれていることは間違いないね。


かなこの一言


重い炭俵を背負い長い道のりを歩いた話を聞き、
現代の便利さに改めて感謝しなければなと思いました。


第80回 七尾市庵


在所名の由来


室町時代の古文書に伊折村と出てくるのが最初らしいよ。
それが江戸時代に庵村となっているんだ。
庵とは軍隊の宿営地という意味もあるから、地政学的に想像するのもおもしろいよ。
伊掛山、七尾城、石動山、海岸線、などの地勢と歴史的な背景を考えると、
何か理由があって伊折を庵としたんだろうね。


昔と今


ここには前畑(まえばたけ)という言葉があるけど、前の畑とは海のことなんだね。
「一万円札が泳いでいるのに、なんで捕まえんがや」と言われるくらい
山間の畑より前の畑のおかげで生活してきたからなぁ。

昔は鱈網や鰯網、マグロの子どもを獲るしびこ網など仕掛けていたけど、
今の定置網は鰯からクジラまで何でも獲れるんだよ。
魚は沖から磯へ入ってまた沖に戻る習性があるんで、
戻る魚を道網で誘導して定置網に入れるんだね。
子どもの頃は家の土間にブリが三本も四本も並んでいたね。
灘の定置網の歴史は戦国時代からと古いけど、漁場をめぐっての争いの歴史もあるんだよ。
前田利家がこの地の争いを判決した記録もあってね。
灘の海岸には沢山の定置網があるけど庵の漁港は岸端定置網組合の基地でね、
岸端は昭和五年に白鳥「岸の網」と江泊の「端の網」が手を結び、
さらに昭和六十三年に庵と百海の定置網も加わって、
今では網の規模と漁獲量は定置網では日本のトップクラスになってるよ。
これからは獲って売るだけでなく付加価値を付けて売ることも考えんならん時代やと思うよ。
親父の遺言が「漁師にだけなるな」だったけど紆余曲折して結局この世界に入ってしまったよ。(笑)

今は引退して町会長しとるけど毎朝四時過ぎに出漁する漁師の
活力が在所はもとより地域の活力でもあると感謝してるんだ。

在所の中は高齢化が進んでいるのでより一層近所付合いを大事にしないとね。
特に班単位で付合いを深めて常に声かけをして顔をみて何か気付けば
いおり道の駅は石川県で3番目に指定されました。
隣接するいいパーク七尾はキャンプも出来ますよ。
遠くにいる家族に連絡する。それが高齢化の進んだ在所の共助のあり方だと考えているんだよ。


あさみの一言


いおり道の駅は石川県で3番目に指定されました。
隣接するいいパーク七尾はキャンプも出来ますよ。


第79回 七尾市中島町豊田


在所名の由来


鎌倉時代から日用川流域が豊田保と呼ばれていたらしいよ。
日用川も明治までは豊田川と呼ばれていてね、まぁ読んで字のごとく、
豊かな田んぼを願って付けたんでないかなぁ。
発音も「といた」と呼ばれていてね、これも明治に「とよた」と
呼ぶようにしたらしいんだけど、今でも「といた」と発音する人は沢山入るよ。


昔と今


昔は在所の宮あたりまでが入り江で海だったらしいよ。
豊田を語るときどうしても話さなければならない人がいるんだ。
的場孫三(まとばまごそ)という豪農で、江戸から明治にかけて
五代続き全員孫三を襲名しているよ。
初代から四代目までが私財を投入し二百年もの歳月をかけ
日用川流域の湿地帯を埋立てていき豊川村のほとんどの田んぼを作ったんだね。
そんな事業を継続していたおかげで、能登でも一揆が多発していた時代に
豊川村では一揆が起こらなかったんだ。

村の秋祭りには自前の大旗をつくり奉公人三十四人に担がせて
参加していたと伝わっているよ。
その旗は山戸田の在所に移って今でもお熊甲祭りに担がれているけど
昭和六十年に町が有形民族文化財に指定するほど由緒ある貴重な旗なんだよ。
それと豊田のトンネルは昭和四年に竣工した石川県で
四番目に古いトンネルなんだけど来年取り壊される予定でね、
子どもの頃、在所では十月頃から莚(むしろ)を作りこのトンネルを
倉庫代わりにして山積みにしていたし、冬になるとトンネルの出入り口には
太くて長いツララがさがり、まるで怪獣の口の牙のようだったね。
そんなのを叩き落して遊んでいたから、ちょっと寂しい気もするよ。(笑)

豊川地区の住民で日用川沿いに桜を四百本植樹し毎年剪定など管理しているよ。
実年会で舟を用意して子ども達を乗せて遊覧するんだけど実に良い景観だよ。
そんな功績が認められて昨年「日本さくらの会」から表彰されたんだよ。嬉しかったね。


かなこの一言


私財を投げ出して村人のために
尽くした人生、的場孫三さんは能登の
二宮尊徳だったんですね。


第78回 中能登町 金丸


在所名の由来


鎌倉時代の古文書で金丸という地名が初めて出てきているそうやね。
はっきりした由来は分からんけど、気多大社の大国主命が
少彦名命と力を合わせ邑智潟に住む大蛇を退治したという伝説があって、
その小彦名命が在所の多気倉長命の娘と結婚して、生まれた子どもが金丸翁と呼ばれ、
その子孫が後に村主になったという話が伝わっているから関係あるのかもしれんね。


昔と今


金丸には杉谷、谷内、沢、宮地、正部谷、横町の六町会があるんだ。
本来それぞれが一つの在所なんだけど、平成十七年の合併で中能登町になったとき
金丸の各在所を金丸という一つの在所としたんだね。
だから神社が六つ、お寺が四つもある大きな在所になったんだよ。
小学生の頃は祭りも各町会が一緒になって金丸中を練り歩いたけど、
今は人足が少なくてそれぞれで祭りをしているよ。

邑智潟の波止場もあってフナ釣りもしたし、雨が降ればゴザで作ったゴザボーシを被って通学したよ。
藁葺き屋根の家が多く、庭には柿、びわ、あんず、すもも、いちじく、
どこの家の庭に何があるか子ども達は頭に入っていて、遊びながら頂いていたもんだよ。
大らかな時代だったなぁ(笑)


在所の自慢


杉谷チャノバタケ遺跡から弥生時代のおにぎりの化石が見つかっていてね、
日本最古ということで「おにぎりの里」として町おこしにも一役買っているよ。

また気多大社との繋がりも深く平国祭では気多大社の神輿が
三月二十日に宮地の宿那彦神像石神社に一泊して翌朝に神社の神様が
その神輿に遷座し七尾の本宮神社まで行って、おかえりの二十三日には
金丸の全部の神社に寄るんだよ。
在所では昔から決まっている団子やおつゆをお世話して伝統を守っているよ。
太古の昔から住んでいた土地、先祖から受け継いできた土地なのでいろんな良さがあるんだね。
時代が変わっても自分達でやっていくという気構えを持って各町会ごとに
団結してやってるから、住民の繋がりは強いものがあるよ。


第77回 七尾市中島町外

在所-中島町外-

「七尾市中島町外(そで)」

七尾北湾に面し、のと鉄道西岸駅、明治の館室木邸、

旧西岸小学校がある、58世帯、188人が暮らす在所です。

在所名の由来

「外」と書いて「そで」と読むんだが、なんで外になったのか本当の所はよく分からないんだよ。古老の話では、在所の一番山奥に外谷内(そでやち)という場所があって、そこに住んでいた先祖が現在の場所に出て外となったと言っているよ。外谷内の由来もあってね、昔は隣の小牧も含めて、海岸ではなく山裾に在所があってその地区を長崎と呼んでいたんだ。

上杉謙信が攻めてきたとき、長崎から山奥に逃れたんだね。それで長崎の外の場所へ、袂(たもと)を分けて、袖(そで)を分かつ山の奥地、そんなことからそこを外谷内と呼んでいったんではないかということだよ。

昔と今

林業と農業が中心の生活だったね。海に面しているけど漁師は一人もいなかったよ。

20年前は36世帯が田んぼしていたけど、今は11世帯しかしていなくてね、やはり少子高齢化、担い手不足の影響が出ているよ。昔はどの家も3世代が同居して子どもは3人や5人いて賑やかだったけどね。昔と世帯数は変わらないけど、人口は半分近くになっとるよ。

明治の館は、庄屋の室木邸でね。回船問屋も営んだ有力者で、私が子供の頃のだんな様は国会議員もした弁護士で、山高帽にステッキを持って歩いていた姿が印象的だったなぁ。在所の大きな事柄は室木様に相談してその一声で決まるんだ。苗字が許された時、室木様に奉公していた者がみな室木を名乗ったものだから、私も含めて在所の11世帯が室木なんだよ。

 

アニメ「花咲くいろは」の駅のモデルが西岸駅なのでそのファンや、ヨットハーバーもあって、休日には沢山の人が来て賑やかだけどね・・・。今年4月に町会長になって感じるけど、在所の中は益々助け合いが必要な時代だよ。長い歴史の中で外を故郷としている人が沢山いて、その人たちが全国どこにいても自分の故郷、外があるということが大事なんだ。そしてその外を守っていくためには、今ここで暮らす人たちが幸せでなければならないんだよ。「共に生きる在所」を今まで以上に考えていかないとね。微力だが一所懸命に尽力しようと思っているところだよ。

あさみの一言

笑顔が素敵な室木町会長の誠実な人柄から、住む人が幸せであり、外出身の方々が誇りに思える故郷を守り続ける決意を感じました。


第76回 七尾市能登島野崎町

在所-能登島野崎町-

「七尾市能登島野崎町(のざきまち)」

小口瀬戸を挟んで観音崎の向側で、能登島東部に位置し七尾湾の外海・日本海に面した、102世帯、376人が暮らす在所です。

在所名の由来

野崎の海岸線は田畑が続き、陸地が海に突き出た先端のことを崎とか岬と言うから、野の岬、野崎となったんじゃないのかなぁ。

昔と今

四百年以上前、塩作りの職人が上杉謙信について現在の上越市塩浜町に移り住んだ歴史があって、今でも毎年交互に往来して今年は野崎から十八名で訪問するんだよ。私が小学生の頃は山遊びや潮干狩りという授業があって、山でアケビやムベ、海でタコやナマコを採ったりしたね。天然の遠浅で冬に潮が引けばそこでソフトボールしていたし、「腹減ったんなら、まったけでも食べておけや」というくらいに松茸も取れていた時代だったね。

昭和三十八年から海を埋め田んぼにしたけど昭和四十二年に減反が始まってね、それで一部が松島海水浴場となりオートキャンプ場が出来たんだ。今年は県内外から約八千五百人も来て、青年団は駐車場、女性会は売店と皆でお世話しているよ。それと市の助成と在所の負担で猪の電気柵を二十㎞作ったよ。在所のみんなで五日間でやったよ。地面から二十㎝と四十㎝に電気線を張ってあり、草が被らないよう、毎月一回は除草しないとならないので三十数区画に分けて責任者を置いたけど今後の維持管理が大変だね。

在所の自慢

神社の狛犬が珍しいよ。富士山の溶岩を運んで来て、その上に獅子が我が子を千尋の谷へ突き落とし、子獅子が這い登っているモチーフだよ。もちろん阿吽になっているし見応えあるよ。まぁ、何と言っても団結力はすごいものがあるよ。

能登島のソフトボール大会では一番先に大声で野次を飛ばすけど、相手チームではなく自分のチームに飛ぶんだから他人が見たら滑稽だと思うけど、それほど仲が良いということなんだね。(笑)

あさみのひとこと

海水浴場の海は、透明で澄みきっていてビックリです。昔在所にはいくつもの神社があったことからも、各地から人が集まって来たと思われ、独自の存在感のある在所です。

 


第75回 七尾市飯川町

408-1

「七尾市飯川町(いがわまち)」

東往来沿いから徳田駅付近までに位置し、鹿島バイパスが通る、147世帯、464人が暮らす在所です。

在所名の由来

古文書によると平安時代この周辺一帯が飯川保と呼ばれる荘園で、この地を領有していた豪族が飯川氏で、その名に由来しているという説があるよ。

昔と今

飯川大池と言ってとても大きな池があるけど、私が小学生の頃は水が澄んでとても綺麗な池だったよ。学校帰り泳いでから家へ帰ったものだよ。その頃の産業は織物だったね。徳田織物と七尾織物と二つの大きな工場があって、東北から集団就職で若い織子さんが来て賑やかな在所だったよ。多い時で二百人くらい寄宿舎で生活してたらしいよ。近所のやきそばや焼きまんじゅうのお店はいつもいっぱいで華やかだったね。

娯楽で東映の巡回映画も来ていたから近所の子ども達も見に行ったもんだよ。年頃の女性だから地元の男性と恋愛結婚も多かったようだね。最近は人口減が心配だね。獅子舞の踊り子も小学生だけでは出来なくて若い衆も困っているんだ。今年から中学、高校生にも応援してもらう予定なんだよ。

在所の自慢

何と言っても大欅だよ。樹齢は約七百年、飯川のシンボルだね。市の天然記念物に指定されているけど、老木なので三年計画の延命治療を施しているよ。

在所を明るくして景観を良くせんかと、フラワーサークルを作って月一回花いっぱい運動で花壇を作ったり花を植えたり、草取りしていたら、平成二十四年の『ななお景観賞』に、この欅を中心に東屋が並ぶ町並みが選ばれたよ。嬉しいね。

あさみのひとこと

大欅は有名ですが、池も大きくてすごいです。 在所のお寺の門徒数からも江曾村の出村で新興の在所だったことが伺えます。

 


第74回 七尾市田鶴浜垣吉町

405-1

在所名の由来

歴史の古い在所なんだけど、確かな由来はわからないんだよ。垣吉から新屋、川尻、舟尾、奥原、和倉までを端村と言った時代があってね、田鶴浜村との境が垣吉なんだよ。お隣との境には垣根を立てたりするし、集落を細かく分けた一区画を垣内(かくち)と呼ぶそうだが、なんかその辺りに語源があるのかもしれんね。

昔と今

ここは二宮川の下流域なので昔から川を中心に拓けた土地でね、この辺り一体が古墳群なんだよ。田んぼを耕すと土器の茶碗などよく出てくるし、サンビームの上が古墳公園になっているよ。

子どもの頃は肥しを担いで畑仕事を手伝ったり、在所の真ん中を流れる二宮川で泳いで遊んでいたよ。そこへ、自転車に乗ってチリィン、チリィンとアイスキャンディー売りが来ていたね。普段はおとなしい川だけど大雨になると暴れ川になるんだよ。昨年も一昨年も避難勧告が出てサンビームへ避難したよ。そんな川だけど在所の大事な川でね、クリーン運動や道路愛護デーなどを設けて草刈りや空缶拾い、土嚢を詰めたり、コスモスを植えたり、今年は桜の苗を植える計画でいるんだよ。

在所の自慢

ここは隣の高田町と一緒に祭りをするし、公民館も隣の新屋町と共同運営なんだよ。小さい在所を運営する先人の知恵だと思うよ。三十年前は十八軒の在所だったんだが、学校、駅、スーパーが近く交通の便も良い事から宅地開発が進み若い世代が住んでくれてね、この世代が呼びかけるとすぐ集まってくれて、祭りや行事をどうする、どうすると積極的に参加してくれるんだよ。

おかげで団結力のある在所になったし、安心して次の世代へ繋げられるよ。ありがたいね。

あさみのひとこと

在所を歩くと福浦婦人会売店の看板が、3人のお母さんと雑貨と食料品、郷愁を感じるお店でした。


第73回 七尾市三室町

崎山半島の七尾南湾に面した位置にあり、液化ガスターミナルとLPガス国家備蓄基地のある151世帯、413名が暮らす在所です。

三室町会長 山崎 秀行(やまざき ひでゆき)さん



在所-七尾市三室町-在所名の由来


在所では「御室」が「三室」に変化したと聞き伝わっていたんだが、平成7年に石川県立図書館史料編纂室が古文書から三室判官という鎌倉時代の御家人がこの地にいたことを発見してね、それで在所名がこの御家人の名前から三室となったということが分かったんだ。
それ以前の平安時代は長浜と呼ばれていたことも古文書に出てくるよ。三室の海岸は2キロもあるからね。



昔と今


昔は半農半漁の在所でね。なまこや魚を地引網で曳き、えご草といって寒天の材料の海草を採ったりしていたよ。子供達は学校帰りキンコを作るのに道端に干してあるなまこをつまんで食べていたよ。そのころは向かいの能登島の二穴の田んぼも耕していてね、丸木舟を二艘並べて縛って、牛を乗せ櫓と櫂で漕いで渡っていたよ。
太田火力前の赤碕の山が急峻な山で昭和28年に道路が出来バスが通るまでは陸の孤島だったよ。七尾へは船か山道を歩くしかなく、バスが通ってから勤めに出るようになったんだね。
LPガスの備蓄基地のある場所がトクサ地区でね、昭和48年に北電がトクサ地区に火力発電所建設の計画を発表したんだ。それからというもの賛成、反対で在所が二分して辛い時期があったけど、今は円満に暮らしているよ。



在所の自慢


平成14年から自主防災組織を立ち上げて防災設備の充実や訓練など様々な施作を取り入れ全員参加で積極的に取組んでいるよ。おかげでエネルギー基地の町としての誇りと心構えが町中に行き渡っていることかな。年寄りが増えている分、日々穏やかで安全に暮らしていける在所をこれからも目指したいね。



あさみのひとこと


在所を歩くと福浦婦人会売店の看板が、3人のお母さんと雑貨と食料品、郷愁を感じるお店でした。


第72回 中島町熊野

254中島町熊野 在所名の由来


昔この地区の岡、岩崎、下の三つの集落を合わせて山谷(やまんたん)と呼んでいたんだけど、明治二十二年の町村制実施に伴い、この地区の熊野神社の名前から在所名を熊野とつけたらしいよ。今でも山谷(やまんたん)と呼んでいる年寄りも多いんだよ。一村一字の名残で住所は字熊野ではなく中島町字中島なんだけどね。



昔と今


ここは中島商店街の外れに位置した里山で農業が中心だったね。特に岡地区では中島菜の栽培が盛んでね、ここの土壌が一番適していて美味しいということで、日航の国際便の機内食のお漬物に使われていたこともあったよ。昭和三十二年町営住宅一号、昭和四十三年中島初の企業誘致もこの在所だったし、役場庁舎や能登演劇堂も出来て、何かと動きのある在所だよ。ただ少子高齢化の波はどうしようもないね。子どもが少なくなっていくことは寂しいよ。そんな中、中島中学校が旧役場に引っ越す予定なので、在所の中に子どもの元気な声が聞こえる事は活気があって嬉しい事だよ。現在は老人会から引継いで国道の清掃や花壇の草刈など年に三回実施しているけど、自分たちの住む地域は行政と連携の上、出来る事は自分達でという考えが必要な時代じゃないかなぁ。今、「熊野いきいき事業」として環境美化、防災対策、高齢福祉を掲げて取組んでいるよ。



在所の自慢


在所世帯の三分の一が移転して来た人たちだけど、子ども達がすぐ仲良くなって、昔からの人と新しい人との融和が進んでいくんだね。在所の中が和気藹々やっていっていることがなにより嬉しいね。在所も子はかすがいということだよ。


第71回 中能登町 武部

253中能登町 武部

在所名の由来


在所の建部(たけべ)神社の祭神が倭健命(やまとたけるのみこと)をお祀りしてあってね、いつの頃からか合祀神社となって今では倭健命ほか六神を祀っているんだよ。昔、多茂城という城があって、城主の祈願所でもあったというから、重要な神社だったんだね。それで在所名も神社の名前を頂いて武部となったと伝わっているよ。



昔と今


昭和三十年代は養蚕が盛んでね、桑畑の中を通って小学校へ行ったよ。口を紫色にしてね(笑)その後、織物が盛んになって、機場の音の中に在所があるようだったよ。三十軒くらいあったと思うよ。その頃は商店も道路沿いに十七軒あってそれなりに活気があったね。近年はこれという産業はなく、農家と近隣に勤めてる人が多いよ。田んぼが多いけど、水が通らない在所なんだよ。山からの水は隣在所の二宮川と石塚川に流れ込んでいてね。ため池も五つあるけど、それでも平成六年の大干ばつの時は赤浦潟や邑知潟からミキサー車で水を運んだけど田んぼは真っ赤になってしまったよ。そんな事があったんで灌漑用の井戸を掘ったんだよ。そんな経験があるので、農地は基盤整備しておきたいね。米価が下がっても農地がしっかりしていれば打ち手はあると思うよ。



在所の自慢


子ども会、青壮年会、女性会、長寿会、どれも公民館事業として連携するから横の繋がりが親密なんだよ。六月の防災訓練も百四十名の参加があって嬉しかったね。次は八月一日の鹿島小学校開校記念の祝賀パレード、翌二日の町祭の前夜祭に中高生から三十五歳までの武部獅子舞保存会三十五名が参加するけど、この子らが在所の宝物だと思っているんだよ。よかったら見に来て下さいね。


第70回 七尾市 湊町(二丁目西部)

252七尾市 湊町(二丁目西部)

在所名の由来


湊町は一丁目、二丁目の東部、西部と三つの町会に分かれているんだけど、町名の由来は、ずばり七尾の港の中心だったからだと思うよ。明治時代に七尾県から石川県に移ったときに湊町一丁目、二丁目となっていて、戦時中に二丁目が東部と西部に分かれたようなんだ。



昔と今


昔は桟橋があって、回船問屋も数件あって賑やかだったと聞いているよ。私が子どもの頃、崎山方面へ向かう焼玉エンジンのバスの始発が湊町でね、クランクを回してエンジンをかけていた光景を覚えているよ。昔は八十世帯あり、小学生も二十人以上いたけど、今は高齢化率四十三%で小学生も三人だよ。二〇四〇年問題で人口が減って、町会運営も益々難しくなることを思うと、今はまだ良いと思わないとならないね。ここは海抜が低いので満潮時に大雨が降れば水が海に流れないので水浸しになって苦労しているよ。市は地域で出来る事は地域でということで、支え合いマップを作成して町会で支え合う体制を作っているけど、老人同士で助け合う時代になっているね。まずは向い三軒両隣仲良く支え合うことからだよ。



在所の自慢


何と言っても祇園祭りだよ。京都八坂神社の流れを汲んでいて東の奉燈祭りとも呼ばれ十一町会が参加する夏祭りだよ。昭和三十六年に二間半の奉燈を作ったけど、翌年にはそれを売って更に大きいものを作ったんだよ。若い衆に勢いがあったね。食祭市場に置いてあるのがその奉燈だよ。平成三年に現在の高さ四間、朱色の奉燈を作って、ユッサ、ユッサと揺れる姿に町民は誇りを感じて毎年楽しみにしているよ。


第69回 中能登町 廿九日(ひずめ)

251 中能登町 廿九日(ひずめ)

在所名の由来


珍しい地名でね、町史にも諸説あるけど、ここは新庄、在江、川田という在所に挟まれていて、江戸時代初期に出来た在所なんだ。隣の在所は平安から鎌倉にかけて荘園として開墾されているから、ここは開墾に適さない外れの土地だったんだね。それでも江戸時代になって人が住むようになり、田を開墾していくんだが、田に水を引くのもままならず、小川から桶で水を汲んで田に入れたと伝わっているよ。そんな田んぼだから収穫量も少なく年貢に四苦八苦し、毎年暮れの二十九日にやっと納めていたんやと。それでこの在所をにじゅうくにちの廿九日(ひずめ)というようになったという説に、頷いているんだよ。



昔と今


多くの人は農業しながら七尾方面へ勤めていたよ。機場も五軒あったけど今は建物だけ残っているよ。だんだん世帯も減っていき四十世帯を割った時、祭りも出来なくなってね、
一旦中止した時期もあったんだよ。それが二十年前に在所の神明の山を開いて宅地が開発され、近隣の在所から若い人が移り住むようになり世帯も倍近くに増え、今では小中学生で三十人程いるんだよ。それで平成十八年に祭を復活することが出来たんだけど、これはとても大事なことだと思うよ。昔は在所の人みんなが子どもの顔や名前がわかっていたけど、近年は同じ在所でもお互い顔を知らないってこともあるからね。七尾の駅前で廿九日の年寄りと子どもがお互い知らん顔じゃ寂しい話だよ。声をかけたり、挨拶できて同じ在所に暮らしてる意味があると思うね。そういう絆が出来るのが在所の祭りじゃないかと思うんだよ。



在所の自慢


若い人には、在所のしきたりも知ってもらいながら、若い人の考えや力も十分に発揮してもらい、まとまっていかないとね。後発の在所で先祖は苦労の中、力を合わせてきたんだし、今また神明の山を開き、来たりし仲間と共に力を合わせ後世に繋いでいく、それが廿九日の歴史なんだよ。


第68回 能登島曲町

250能登島曲町

在所名の由来


山と海に挟まれ、海辺に集落が、山へ向って田畑が続き、在所の中を通る道は、海岸に沿って大きく曲がっているから、まぁ、地形の通り、曲と呼んだんじゃないかと思うよ。



昔と今


水の出が悪い所でね、昔は山からの表流水を井戸にためたり、深井戸を掘ったりして、在所の中は井戸がたくさんあったね。そんな時代はお風呂も毎日沸かさないし、お互い近所で貰い湯していたよ。風呂を沸かすのは「ばぎ」を焚いてね、「ばぎ」とは薪のことだよ。山にその「ばぎ」を積んで、「すんば」(杉の葉)をかぶせてあるんだけど、それを取り出して背中にかついで山から下ろすんだけど、辛かった思い出があるよ。なにしろ小学生だったからね。一時期、葉タバコの栽培が盛んで在所中で取組んだよ。きつい仕事だけど、
一年に一回収穫し、現金収入を得られ良かったんだけど、時代と共に採算がとれなくなり一斉にやめてしまったんだよ。今は七割が高齢者でね、お互い助け合って生活しているよ。青年団も「何でもしますよ」と案内を出してね、雪どけなどお年寄りで出来ないことを手助けしてくれるんだ。そして秋祭りは老いも若きもみんなで楽しむけど、特に「こっぺ」はこの在所特有でないかと思うよ。それと中島の熊甲祭りと同じ枠旗が三本あるけど、太鼓のリズムは違うみたいだね。今は人足不足で出していないけどね。



在所の自慢


封建制の強い所でね、先祖からの土地を守って生きているんだ。発展性が少ない分、結束力が強くてね、魚や野菜など、貰い、貰われ身近な支え合いをしながらだけど、そんな所が素敵だと思うね。上を見ればキリがないけど、足るを知れば本当に生活のしやすい在所だよ。


第67回 中能登町 小金森

249中能登町 小金森

在所名の由来


町史や伝記によるといくつかの説があるんだけど、昔、宝達山で金がとれていた時代があってね、その金が山づたいに流れて来たのか、在所を流れる地獄谷川の源流付近を「小金谷」(こがたん)と呼んでいるんだ。 その周辺にも金が取れたことから「小金森」が在所の名前になっていったんじゃないかなぁ。



昔と今


今も昔も職人の多い在所でね、昔から農業を営み、手に職を持って生活してきたんだろうね。 おかげで所帯の小さい在所だが、何をするにも手際よく何でもやれてしまい助かるよ。
不思議と世帯数が昔から変わっていなくてね、外に出た長男の多くは在所に戻ってきてくれているから、おかげで小学生だけでも十人以上いるよ。在所では年にひとつは環境整備事業をということでやってるけど、今年は集会所に「のとキリシマ」を
十二本植えたよ。



在所の自慢


碁石太鼓は中能登町で有名な天平太鼓から昭和四十五年に派生し、小金森の若衆だけで取り仕切っているよ。 毎年元旦の午前零時から宮様で奉納太鼓を打ち、その後、夜明けと共に碁石ヶ峰に移動しご来光に合わせて太鼓を打つんだよ。 在所の宮様も歴史があってね、「木賀(こが)神社」と言って木の神様を祀っているんだ。
境内には大きな銀杏の木と欅の木が二本並んで立っていてね、おいで祭りの三月二十一日に宮司が銀杏の木をめがけて矢を射るんだよ。 これは昔、大国の神様が邑知潟を平定して巡幸された折、神様の子どもがいつまでも付いて来るので地獄谷川の小金森橋の橋元に向って矢を射って帰らせたとの言い伝えを残しているんだね。


第66回 七尾市 米町

248七尾市 米町

 

在所名の由来


昔は米町の路地から海が見えていたくらい、海に近い町だったんだよ。前田利家の城下、七尾港に入る船から降ろした米を扱う米問屋がこの町にあったんだね。城下町で米問屋があったことから、米町となったんだろうね。
発音は「こんまち」と呼んでいるが、理由はなぜだかわからないんだよ。志賀町に流れる「米町川」も「こんまちかわ」と呼ばれているようだしね。「こめまち」が訛って「こんまち」になったのかもしれないね。



昔と今


回船問屋もあって賑わいのある町だったと聞いているよ。戦後はその回船問屋の敷地に進駐軍が駐留していたのをよく覚えているよ。ここは市街地なので住宅街の中にもいろんなお店が点在していたね。
私の母も髪結いでね、日本髪の美容室をやっていたよ。最近は若い人が少なくて、高齢化率が高く町会運営も難しくなってきているよ。



在所の取組


世の中、便利になった分だけ、いっしょに何かしようという事は少しずつ少なくなっているけど、ここは「ちょんこ山」で町内の絆が保たれているよ。デカ山の前座で子どもが引く山車で「ちょんこ山」と思っている人もいるけど、歴史的には別物なんだよ。この祭りは気多本宮の春祭りでね、元々古くからある祭りがあって、そこに山車を引くようになったのは、江戸時代初期だと古文書から推測されているよ。
当初は米町と木町の二台だけだったけど、現在は生駒、阿良、一本杉、亀山の各町会が加わり六台で市街地を曳いて回るんだ。全ての山車には梅鉢紋が使われていてね、前田家から認められていたんだろうね。米町の山車は由緒があるので老いも若きも祭りには責任感をもって取組んでいるよ。歴史ある「ちょんこ山」を守る使命が在所の絆を保っているんだね。米町の山車の人形は大国主命(大黒様)なんだけど、その恩恵につくづく感謝していますよ。(笑)


第65回 七尾市 巴町

247七尾市 巴町

在所名の由来


水が渦巻く家紋の紋様が巴でね、この在所は、 昭和26年に本府中町から分町した町なんだけど、駅の近くで、戦後の復興に合わせて住宅、商店が密集していった時期と重なり、火災から町を守るという願いを込めて名づけられたと聞いとるよ。



巴町の歴史


ここは住所も地番も本府中町なんだけど、七尾駅の近くなので、戦後の復興期に公共施設や商店が出来てきて当時の新興居住区として整備されていったんだね。 そんな経緯の中で分町に至ったんだと思うよ。
当時は、鉄道診療所や逓信診療所、税務署、それに牛乳工場もあったし、いろんな商店も並んでいて賑わいがあったけど、時代と共にマンションやアパートに移り変わったよ。
面積が小さい町なんだけど、人口密度は七尾一かもしれんね。



在所の取組


新しい町なので住人が心を合わせていくものが必要だと言うことで、初代の町会長が屋形船の山車を作ってね、八月に子ども達を乗せて鉦太鼓を鳴らして町内を練り歩くんだよ。
64年経った今もこの在所は新興住宅地としての特性が進行形でね。
毎年新しい人が出入りするんだけど、子ども達を通して繋がりが出来ていくんだね。
やっぱり、人が住むところには集まる場所が必要だということで、三年前に仮設だけど集会所を建て、それに合わせて巴元気クラブも結成して、毎月一回集まって親睦を深めているけど、お世話する人、される人、こうやって絆が深まっていくんだね。



在所の自慢


矢田郷の運動会では上府中町と山王町と組んで山王森のチームとして出場するけど優勝の常連チームだよ。これは若い人が多いということなんだよ。
新しい町だけに、自分達で町の歴史を刻んでいかなければならない使命があるけど、将来を託していける若い人材が多いことが自慢かな。


第64回 中能登町 新庄

246中能登町 新庄

在所名の由来

この辺りは、平安から鎌倉にかけて荘園として開墾されているんだよ。 その荘園の拠点がここでね。 荘園は庄園とも書いて、それで新しく出来た庄園、新しい庄、新庄となったと言われているよ。

在所の今昔

元来、農業で生計を立てていたけど、 昭和30年代から俗に言う「八台機場」の織物業も盛んになって30軒程あったけど、オイルショック以降、みんな辞めちゃってね…。 新庄は昔から防災意識の高い在所でね。 両脇を流れる二本の川は、耕作には大事な川なんだけど、洪水の被害も大きくなってしまうんだよ。 特に石塚川は天井川で川底が田んぼより高くて、子供のころは雨が降って水位が上がると、太鼓を鳴らして警戒していたよ。 今は河川改修が進んで石塚川の一部を道路に変える工事中だよ。 それと防火対策も昔から徹底していてね、農業用ため池を利用していざと言う時にその水が在所中に張り巡らせた防火用水路に流れるようにしてあってね、更に在所の真ん中には昔からの半鐘が今も設置してあるよ。 そんな伝統があるので、自衛消防団も組織されていて消火栓の点検や夜間パトロールなど実施しているけど、お金をかけずに、身の回りの細かな事をしっかり取組むことが大事やね。

在所の自慢

曳山が豪華絢爛でね。本来は氏社に慶事があった時、お祝いに曳いていたけど、近年は鳥屋の曳山として町祭に勢揃いし、雄姿が復活して喜ばしいよ。 それと信仰が厚い在所で太子講、同士講、若い衆恩講、地蔵祭りなど伝統があって、仏事や祭りを軸に在所がまとまっているのは本当にありがたい事だよ。 在所の神社には歴史をずっと見続けてきた樹齢約八百年の大杉が二本あってね、この大杉に恥ずかしくないように在所をしっかり守り続けなければ…と願っているよ。