こみみかわら版バックナンバー

第143回 七尾市岩屋町


町名の由来

元々は藤橋町の田んぼだった所に、昭和27年に市営住宅20戸が建てられ新たな町としてスタートしたんだ。藤橋の在所から離れ岩屋化石や岩屋の清水あたりから山裾に広がる田んぼしかないこのあたりを岩屋と呼んでいたのでそのまま岩屋町としたんだね。よく間違えられるんだけど岩屋化石や岩屋の清水のある場所は西藤橋町地内で岩屋町は鷹合川が御祓川に合流するあたりの小さな区域なんだよ。

昔の在所

若い夫婦が市営住宅に移り住んで来たんだ。市営住宅の周りにも家が建ち始め子どもの頃は小中学生で20人くらいいたね。駅前の御祓小学校に通ったけど私が小学2年の時に小丸山小学校と名前が変わったんだ。御祓校下は街なかの子が多かったので、岩屋の子はへんぴな遠い所から来ていると思われていたよ(笑)。

岩屋化石へ行ってはサメの歯や貝殻を採ったり、鷹合川で泳いだりうなぎを獲ったり、裏山で竹スキーしたりして遊んだんだ。川からの用水路も町内に流れてホタルが飛んでいたし、タイリクバラタナゴがいっぱい獲れたんだ。鷹合川が氾濫していたので河川改修した時に用水路への流れを止めてしまったんだ。そうしたらあの綺麗な魚が絶滅してしまったんだよ。

これから

小丸山バイパスが開通したお陰で賑やかな街に変わったよ。大通りに面して衣食住のお店が並びお年寄りは助かっているよ。歩いて5分でなんでも賄える超コンパクトシティーだからね(笑)。大通りから一歩入れば閑静な住宅街だし生活するには便利な所だと思うよ。新しく誕生した小さな町会なのでお祭りもないし行事も春と秋の大掃除くらいかな。

近年はここでも御多分に洩れず少子高齢化が進んでしまい楽しみといえば1月の総会と懇親会で顔を合わすことなんだ。それで隔年で和倉温泉に行くようにしているんだよ。祭りも旅行も無いけど顔の見える町会なので近所同士の仲が良いのと、同年代同士で行き来しているので昔からまとまりが良い在所になっているね。冠婚葬祭など町内の情報はすぐ伝わり協力しあっているんだよ。最近は空地や空家も増えているんだけど、住みよい場所だから来てくれれば大歓迎しますよ(笑)。

あきこの一言

辺境の地で興した在所、
歴史を知り隔世の感。


第142回 七尾市白馬町


町名の由来

伝わっている話では、源頼朝が政略的に源氏の守り神、鎌倉の鶴岡八幡宮を全国の要所に勧請させてその分神を鎮座させていった当時に、能登國七尾から下町の守友さん、飯川町の高田さんと若林町の荒牧さんの先祖が鶴岡八幡宮に出向き、係りの飛助のお供をして御神体を神馬に乗せて運んできたんだ。飛助は騎兵隊の補佐係で役目が終わったので神馬と共にこの在所に永住したんだね。その神馬が白馬だったことが由来だと言われているんだ。

飛助の子孫が登美昭夫さんの家で、その白馬に水を飲ませ、体を洗っていた池が今でも屋敷の中に残っているよ。運んできた御神体は現在徳田町の久志伊奈太伎比咩神社に合祀されて若宮八幡宮として祀られているよ。

昔の在所

莚(むしろ)の一大生産地で遠い昔から白馬の角莚として特産品だったんだ。江戸時代後期に北海道の松前でニシンの豊漁が続き、ニシンを入れる莚の需要が高まり、農家を営む殆どの家の作業場には莚を織る器械を据え付けて、副業として家々で競争して徳田特産の八幡莚として織っていたんだ。納屋には藁(わら)が積み上げられ、これをやわらかくする機械もあって小学校の子どもは縄(なわ)を作るのが仕事だったそうだよ。

莚は荷馬車に積んで七尾港へ運んで、貨物船に積んだらしいよ。昭和10年代まで生産が続いたようだね。高田石材店の裏に前野、中野、奥野と三台地が連なりそれは見事な野畑が広がっていたよ。野菜や葉たばこを栽培していたけど、今は所々が植林され当時の広大な野畑は姿を変えてしまっているね。ちょっと残念だけどしょうがないよ。

これから

さん田川、鷹合川、坂井川、佃川、白馬川と5本の川が流れ、総延長10km以上あるので河川愛護デーの草刈では追いつかず大変なんだ。それで班毎に割り当てて常日頃から草刈など整備してもらっているんだけど、お陰で最近はホタルがたくさん飛ぶようになったよ。ここは班単位で町会運営の協力をしてもらっているんだ。

集会所も毎週班毎に掃除をしてもらうし、白馬町子供の広場で毎年行なう在所の運動会も班対抗なんだよ。今年で44回を迎えたけど、少子高齢化で世話も大変になってきたし何時まで続けるのかという意見あるけど、これが在所全体の絆が強まる唯一の行事なので頑張って続けていかなければと思っているんだよ。

あきこの一言

国の歴史に通じる、郷土の歴史。
先人の営みに思いを寄せる。


第141回 七尾市柑子町


町名の由来

もとは柑子山だったんだ。昭和29年に七尾市と合併する時に山の字を取って柑子町になったんだ。山の中というイメージ払拭したかったという話だよ。柑子とはミカンの一種で、沢山栽培されていたことが町名の由来らしいよ。

昔の在所

江戸時代に庵村から独立分村した在所でね。柑子は山方(やまかた)四ヶ村と言って、外林、小栗、清水平と山の中の在所で、庵や佐々波の在所は浜方と呼んでいるんだ。何百年前か分からないけど元の集落は、山の峠に50軒ほどあったそうだよ。私の先祖と吉田家の先祖が室町時代の蓮如上人の弟子の寺男として能登に布教に来てここに住んだと伝わっているんだ。その吉田家の場所に建てた寺が後に庵へ移った西方寺なんだよ。

昔はシーサイド公園辺りが柑子の網場で漁もしていたそうだけど、大方は山、畑、田んぼで暮らしていたんだと思うよ。この辺りでは一斗ブリという言葉が残っているけど、大きなブリ一匹と米一斗を浜方と物々交換していたんだ。

明治22年には戸数12、人口77人と記録にあるけど、明治30年頃に大火があって村が全焼しているんだ。その頃から村を出て行く人が出始めて数世帯が北海道開拓団として出ているよ。炭を入れる俵を1枚10円の手間賃で作っていたり、庵の大敷に薪を売ったり、浜方の女の人がタラやブリを売りに来たりしていたね。私が子どもの頃で16軒の在所だったんだ。

これから

なんも無いよ。年金暮らしの2世帯がそれぞれに暮らしているだけだよ。猪、狐、狸、兎、イタチ、最近カモシカも見かけたよ。獣の出る山の中での暮らしていると、寂しくないかとか、怖くないかとかよく聞かれるけど、人間の方がよっぽど恐ろしいよと答えているんだ(笑)。

なんにも出来なくなったけど、祭りの日だけは2世帯で宮でお参りはしているんだ。昔は祭の日も仕事を終えてから宮へ集まってお神酒を頂いて夜に神輿を担いたんだ。神主さんには泊まってもらって、翌朝に地蔵石にお参りをするんだ。この地蔵石は明治時代に浜方の虫崎の人が担いでここを通った時に動けなくなり、神様が宿っているので柑子山の人で守ってくれと言われてそれから在所で守っているんだよ。田んぼも草ぼうぼう、鳥居も朽ちて、消滅していく在所だけど、3人でそれなりに日暮らしをしているよ。

あきこの一言

人が住む所、歴史あり。こみみで歴史を伝える使命を感じる。


第140回 中能登町水白


町名の由来

何で水白と書いて「みじろ」と言うのか本当の所は良く分からないよ。在所では「めじろ」と発音しとるけどね。天正5年というから上杉軍が七尾城を落とした年の気多社免田記には「見しろ村」と書いてあるそうだけどね。ここには久江川と小竹川の支流が流れ込んでいて、在所の中をきれいな水が流れているんだよ。個人的には水がきれいだから、いつしか水白と書くようになったんではないかなぁと思っているんだ。

昔の在所

伝わっている話として、水白に木曽義仲が布陣した時、在所の八幡神社に立ち寄って祈願しているようだよ。倶利伽羅峠の合戦の前にここを通ったのかもしれんね。それとここには鍋塚という古墳があるんだ。鍋をひっくり返したような丸い円墳なんだよ。戦時中に芋を植えたので、今は段々になっているけどね。

江戸時代後期の文化13年に外観の調査をして、明治39年に正式に発掘調査したら石棺や銅鏡、刀や鉾が出てきたんだ。偉い人の墓に違いないけど、誰だかわからないので、羽咋市大町の長谷寺にも聞いたけど結局分からなかったと記録されているよ。鍋塚に自分達の親世代が町の許可を得ないで内緒で桜の苗木を植えたんだ。町も黙認してくれたんだろうけど、今となっては桜の名所になるくらい立派に育って、春には多くの人がカメラを持ってやってくるよ。

これから

ありがたいことに親と同居している世帯が多いので、子供も多いよ。そうは言っても、高齢化は進むし、空き家も増えてくるし、どうしたもんかと思うね。平成20年から始めた圃場整備も10年越しになったけどようやく終わりが見えてきてホッとしているよ。時代の流れでいろんな問題が出てくるけど、その時、その時、一つ一つを考えて解決していくしかないと思うよ。

今年は7月に在所の防災訓練をやって、秋には子ども会も含めて公民館で餅つきをしたいと思っているんだ。旧家が多いので臼を持ってきてやれば子ども達も喜んでくれるし、大人も懐かしんでくれるんじゃないかと密かに計画中だよ(笑)それと宮の山の間伐をしたけど、手ごろな丸太がいっぱいあるから欲しい人がいたら電話してもらえればどれだけでもお分けしますよ。

あきこの一言

細い在所道を歩く、緑多く澄む空気、水の流れが音する在所。


第139回 中島町河崎


町名の由来

旧富来町日用村を源流にする日用川が豊川平野を流れ
七尾西湾に注ぐけど、その下流に集落を形成している
最後の在所がここで、川の先っぽの在所、
河崎となったと伝わっているよ。

昔の在所

在所の裏山に戦中戦後は畑をしていた二町歩程の平地があるけど、
そこには昔は七堂伽藍があり立派な社もあったと伝わっていて、
上杉謙信に焼き払われてしもうたと年寄りが子どもに聞かせていたもんだよ。
今在所には徳照寺という立派なお寺があるけど、これは西岸の長浦にあった真言宗の
お寺がこれも上杉勢に焼かれたんだけど、再興にあたり河崎に移り浄土真宗に改宗しているんだ。

この徳照寺に平安時代の宮廷音楽の雅楽の楽団があるんだよ。
明治時代に在所の金森萬造、岡野市太郎、国田久太郎という
進取の気風あふれる男達が取組んで雅楽三人衆と言われていたんだ。
現在も引き継がれ門徒12名で編成されていて、能登で四つしかない
貴重な楽団として1月と10月の報恩講で演奏しているんだよ。

ここの祭りは秋が9月9日と田んぼ時期と重なるので、
春を主体に行なう様になった歴史があるんだ。
子どもの頃は、祭り道具の奪い合いするほど子供がいたし、
在所の9割が御招待していたほどの夜遅い祭りだったけど
今はそんなことなくなってきたね。

これから

昭和30年には102戸、現在106戸、世帯数は変らないけど人口は半分になっているんだ。
中島駅に近くお店や事業所も多い在所だったけど、
人口が減った分だけ何事も負担が大きくなっているんだよ。
道路愛護のえほりの面積は変らないけど出てくる人が減っているからね。

在所の金森総本家の子孫で元北陸学院大学教授の金森俊朗先生が
2010年にペスタロッチー教育賞を受賞したことは誉れに思っているんだ。
この賞は民衆教育に貢献した人に贈られ宮城まり子、山田洋次、黒柳徹子、
アグネス・チャンなど有名人も受賞しているんだよ。
先生の教えのように固定観念に捉われず、物事の本質を見極めて、
何をどう捉えて、どうしなければならないか、それをみんなで考えていけるようになりたいね。

山あり、川あり、田んぼあり、まず第一として恵まれた
在所の財産の手入れをすることで、在所のみんなが繋がっていける、
そんな集いの場に出来たらいいなと思っているんだ。

あきこの一言

お寺の前を流れる日用川の桜並木
静かな田園に心地よい春風


第138回 能登島町八ヶ崎


町名の由来

能登島に臥(ふせの)行者がいたんだ。泰澄(たいちょう)大師の弟子でね。
昼夜臥しての心行で悟りを求めていたので、臥(ふせの)行者と呼ばれ、
奈良時代に泰澄と共に霊峰白山を開いたほどの行者だよ。
この行者が飛鉢の法で、沖を航行する船に仏具の鉄鉢を飛ばして供物を布施させていたんだ。
その鉄鉢が流れ着いたので鉢崎となったという話だよ。
それが室町時代の古文書では蜂崎となり、江戸時代では八ヶ崎になっているようだね。

昔の在所

八ヶ崎には4名の流刑者が配流されたけど有名なのは寺島蔵人(くらんど)だね。
藩政批判で流刑されたけど待遇がよかったようで
何かと在所の人々にも気を使ってくれたようだよ。
約4ヶ月後に62歳で亡くなるのだけど、
その間書いた手記や描いた絵から当時の暮らしが伺えるんだ。

配所跡に石碑を設置してあるけど、これは加賀藩ご用達の
和菓子の森八から昭和11年に在所へ届けられたそうだよ。
蔵人邸も森八も金沢の大手町にあるから何かしらの縁があるんだろうね。
ここは「やりもらい」が多い在所やね。
同じ家同士で嫁を貰い合うんだよ。
半農半漁の小さな在所ゆえの互助の手立て、知恵やったんやろね。

終戦直後に在所の事業として田んぼの耕地整理を始めているんだ。
軍の諜報機関にいたという穴水出身の幽経さんという人が移り住み、
その人が陣頭指揮をして進めたと聞いているんだ。それが今の田んぼなんだよ.

これから

40年以上運営してきた八ヶ崎海水浴場も主体の女性会が
面倒見れないと言うのでどうするか在所で話し合ったんだ。
出番は月に3日から5日あるけど、若い人は会社休めないし、
今までやってきた人は齢をとるし、お客も3分の1程に減っているので
閉鎖の方向で考えていたけど、勿体ないので在所で運営することにしたんだ。

昨年地域づくり協議会から猪のミンチやカレーをやりたいので
施設を貸してほしいという話があり、一緒に力を合わせてやっていくことにしたんだ。
週末には若い人が集まり改装しているよ。戦後の田んぼの基盤整備もしたいと思うけどね。
高齢化と猪の影響で荒地になる一方だし、集落営農するにしても整備しないとね。
価値ある農地にしておかないといずれ担い手がいなくなる事が心配なんだよ。

あきこの一言

それぞれの時代を生きる人、
陽だまりで聞く八ヶ崎の歴史。


第137回 中島町田岸


町名の由来

鎌倉初期の古文書に多気志と書かれていることは聞いているけど、
なぜ多気志になったのかは分からないよ。
在所裏の段々畑に縄文時代の田岸遺跡が発見されているので、
古くから人が住んでいたのは間違いないようだね。
渓谷が海岸に迫る地形を谷崎(たんぎし)というので、それが転化したという説もあるみたいだね。

昔の在所

先輩から話を聞くと、戦中は食べるものが無くて、
米は供出して白いご飯は1年に1回も食べればという生活だったらしいよ。
それで裏山で食べられる野草は何でも採ってきて、
海ではたばこ貝やガサミを獲っていたと言うよ。

戦後は富山から燃料にする雑木を買いに船が着いて積んで行っていたようだよ。
海に面しているけど小魚は獲っても本格的に漁業を営む家は無くてね、
まぁ、山と田畑で自給自足で暮らしていたんだろうね。

現在の在所

盛りだくさんの活動をしてるんだ。この時期なら、田んぼの鯉のぼりだよ。
平成22年に在所に15年ぶりに子供が生まれたんだ。
男の子でね、それでみんなで祝おうと在所中から箪笥に眠っていた
鯉のぼりを集めたのが始まりでね、その輪が広がり
田岸に縁のある人達からも寄せられて、現在は45匹を毎年田んぼに
ワイヤーを張って泳がせているんだ。のと鉄道から見えて観光客を楽しませてもいるんだよ。

女性会は季節の花をプランターに植え国道沿い並べ、
そこに鯉のぼりや七夕、熊甲の枠旗、風車など季節のミニ飾りを
設置して道行く人を楽しませているし、老人会は休耕田にコスモスを植えて
電車の乗客を楽しませているんだ。
小さな在所ゆえみんなで助け合ってきた伝統と、
故郷愛が全員野球のモチベーションになっているんだね。

これから

イルカが来る海に昇る日の出、山並みに射す光、
昼と夜の狭間に見える一瞬の光景、本当に愛すべき古里だよ。
高齢化や人口の減少は避けられないけど、身の丈に合わせつつも、
田岸の良さを維持していかんとね。

毎年5月には「田休み慰安会」と称して老若男女が集会所で
親睦を深めているし、5年前から「田岸の郷」という広報誌を毎月発行して
在所の出来事をみんなに知らせているんだ。
強い絆を絶やさない事が在所の命題だと思うんだよ。

あきこの一言

穏やかに、仲良く暮らす人々の、
古里を思う気持ち伝わる。


第136回 七尾市藤橋町


町名の由来

藤橋の土地は随分と広い範囲にまたがっていてね、
地番は能登総合病院周辺まで広がり、昭和25年までは馬出町や御祓町も藤橋だったんだ。
かつて国分寺と小丸山城址公園の愛宕山にあった本宮神社を
一直線で結ぶ道路が通っていてそこに旧家が並んでいたんだ。
小丸山城の外堀が在所の中にあり、そこに藤の橋が架かっていたことが
町名の由来だという説があるけど、どのあたりに架かっていたかは定かでないらしいよ。

昔の在所

一昔前までは竹薮と田畑しかない矢田郷の在所だよ。
大正14年に耕地整理を完成させているくらい旧家はみんな農家でね。
高度成長期に田んぼを埋めて住宅が建ってきたんで、境界が不明確になることを心配して、
在所の事業として昭和52年に耕地整理の境界杭を入れなおして測量をしたんだ。
お陰で里道水路と田んぼの境界を確定した図面が在所にあってね、
七尾中学校の用地買収もその図面を参考に測量したんだよ。

藤橋は野菜作りが盛んでね。粘土質の土地に適した野菜は何か、
商品価値を高めるにはどうするかなどを在所の高島さんの
親父さんがガラスのハウスを建て研究を始めたら、
みんな高島さんの所で一緒になって勉強してね、
それでキュウリやトマトなど野菜作りが本格的になって苗まで販売していたよ。

これから

住人は農家、非農家、アパートの3グループで構成されて外国人も多いので、
協力する部分と割り切る部分とのバランスが必要だね。
それでも夏祭りは在所あげての盆踊りに屋台を出して、打ち上げ花火と盛大だし、
町内会の旅行も毎年バス2台で行けるから嬉しいよ。

ここの子どもは山王小、七尾東部中へ進学するんだけど、
在所に七尾中学が出来たもんだから今は小丸山小、
七尾中へも希望すれば進学できることになったんだ。
運動場の照明とパチンコ店のネオンで夜も明るい在所に変わってきたよ(笑)。

東屋の旧家が並ぶ通りは11体の地蔵様が点在する地蔵通りなんだ。
なんでこんなに地蔵様があるのかわからないけど、
昔からこの在所の歴史を見守ってきた地蔵様なんだ。
広い藤橋に人が集まり、北、南、西と町名を分けなければならないことになったけど、
地蔵様だけは分かれることなくここに留まってくれたんだ。
どんな時代になっても末永くご加護を頂きたいと願っているんだよ。

あきこの一言

あっちにも、こっちにも、お地蔵様。
どんな歴史を見てるのかな…?


第135回 中島西谷内


町名の由来

ここは三方山に囲まれた盆地で地形の谷内にちなんでいるんだ。
隣の熊木郷に谷内という在所があるので江戸時代に
そこと区別するため西谷内としたそうだよ。
最初は西谷としたそうだけど、いつしか西谷内と書くようになったということらしいよ。

昔の在所

まずは西ヶ谷城のことを話さないとね。
昔は城跡に畑があり子供の遊び場だったけど、近年は荒れ放題でとても人が
入れるような状態ではなかったんだ。それが朱鷺棲む里山釶打クラブで郷土史に
詳しい地元の歴史家唐川明史さんに話を聞いて、大変な城だったんだとビックリしたんだ。

それで平成28年に在所を上げて城跡を整備したんだよ。
1年がかりで間伐して遊歩道をつけ看板も立てたんだ。
その事がニュースに出たら城ブームもあって人が訪れるようになったんだ。

室町時代に畠山一族の城として築かれているんだ。
整備したら外堀、内堀が何重にも掘ってあったよ。
郭跡も見受けられるし、水が湧き出ているし、本格的な居城としての構えがあったんだ。
七尾城が上杉謙信に攻められた時ここも落城したんだよ。

昔ここは中島と富来を結ぶ街道で茶屋があって釶打地区の中心地だったんだ。
役場の支所、中学校、旅館、酒屋、呉服屋、雑貨屋、床屋、畳屋、
映画館まであって中島まで行かなくても事が足りていたんだよ。

昭和23年までは羽咋郡だったくらいで富来との交流が深くて
新宮の枠旗祭りには富来の氏子も枠旗を持ってきて一緒に祭りをしていたんだ。

これから

ここ5、6年で急に高齢化が進んでね、80歳前後が半分、70歳で若い方だよ(笑)。
若い人たちの多くは中島か七尾で暮らしているんだ。
そして猪や狸、狐が在所の中を堂々と歩くようになってきたよ。

昨年から3年計画で猪対策を始めたんだ。
今は山裾を幅40m伐採して農地との間に緩衝地帯を作っているんだ。
その後電気柵を取り付けていく予定だよ。それと今年から圃場整備も入る予定でね。
西谷内川の源流の水で美味しい米が採れる在所なんだよ。

それにしても、まぁー寂しくなってきたよ。
どーにもならんけど死ぬまでここにおるがやから、
おるもんだけで、一生懸命やっていくだけだよ。
朗らかに暮らして出来るだけ健康寿命を伸ばして、
動かれる間は在所のために尽くす覚悟だよ。

あきこの一言

訪れた在所で故郷の歴史を知る。
しばし城跡で先人の営みに想いを寄せる。


第134回 七尾市女郎浜通り


町名の由来

府中町には5つの町会があるんだ。府中とは古代国府に由来した名称で、
国分町から古府・本府中・山王からここら辺りまで府中だったらしいよ。

前田利家が城下町を作る時に、府中の海岸地帯を割いて
城下町の府中町としたことから、府中村と府中町が分かれたんだね。
女郎浜通と記載された江戸時代の絵図があるよ。
女郎浜というから遊女が暮らしていたと思う人もいるようだけど、
そういう話しは何処にも伝わっていないんだ。それと気多本宮縁起の中で府中の浦、
上古、穢土鼻、女郎浜より毎年2月酉日に女子1人を御供に備え、
神秘の祭礼を行なっていたと書かれているけど、ここでの女子が由来に関係しているやもしれんしね。

最近は市役所からの通知が、女が良いの女良浜となって届くよ。
女郎という言葉のイメージが好ましくないと計らっているのだろうけど、
こうして歴史が上書きされて、だんだん本当の所が分からなくなるんだろうね。

昔の在所

畠山時代から海上交通の玄関口で、前田時代には経済、文化の中心地として栄えたんだ。
1862年にイギリスの軍艦が3隻も港に入って来て町中大騒ぎになったらしいよ。

府中といえば印鑰神社だけど、実は江戸時代に187年間は女郎浜通の東端、
ちょうど私の家の辺りにあって、そこから現在の場所に遷座したと
山王神社の大森宮司から聞いているんだ。波止場を中心に経済が活性化しいろんな職業が集積して、
七尾を代表する旦那衆も沢山いたと聞いているよ。

子どもの頃の女郎浜は通りのほとんどがお店でね。荒物、左官、建具、飴屋、和傘、
糸屋、仕立屋、畳屋、小間物、銭湯もあったよ。
それとここは能登島の縁者が多いのも特徴なんだ。

これから

子どもの声は聞こえないし、高齢化は進むし、班が成り立たなくなってきたよ。
同じ悩みを持つ他の町会と話し合わないと町会運営も難しい現実があるよ。

でか山と奉燈祭、それと青壮年会が催すお盆のバーベキュー大会には、
帰省した人も参加するのでそこで町の絆を確認できることが
唯一の救いだと思っているんだ。私は転勤族で全国を回って来たから強く感じるけど、
歴史、文化、自然とこんなに恵まれた場所は他に無いよ。
故郷をなんとしても守っていかんとね。

かよの一言

府中の浜に、人が行き交い、街が出来た。
今に続く、女郎浜の通り


第133回 中能登町川田


町名の由来

昔この辺は邑知潟地溝帯の湿地帯でね、隣在所の大槻との間に流れている
二宮川が氾濫しては土砂が堆積していき、そこを田んぼにしていったようだよ。
川の横の田んぼから、川田と呼ばれるようになったと聞いているよ。

昔の在所

古い文書に明治3年の世帯数が25軒、鳥屋町が出来た当時が34軒で
尻から3番目の小さい在所だったんだ。
いつの時代かわからないけど、その昔、戦いに敗れた高岡の守山城の城主が
ここへ落ち延びてきたと氷見のお寺の古文書に書かれていると聞いているんだ。
そんな歴史があるのでここには守山姓が多く、昔は在所の8割が守山だったんだよ。

それと川田は天領で特権的な天下百姓の村だったんだ。
20町歩の田畑の水を全て賄う大池は谷間を堰き止めて作った大きなため池だし、
江戸時代に寺小屋があって明治時代には小学校になっていたというから、
小さいけど何かしら力があった在所だったようだよ。

明治28年に11ヶ村が合併した鳥屋村の初代村長が守山佐一、
二代目が守山栄次郎とこの小さな在所から出ているところを見ると、
守山城主の末裔としてか、天領だったからか、よくわからないけど、
とにかく一目置かれた存在だったのではないかと思うんだよ。

これから

昭和50年に北陸最大の川田古墳群が発見されて川田地区だけでも
大小150基以上の古墳があるらしいね。
おかげで平成13年に大池を中心にとりや古墳公園が
整備され遊具やパターゴルフ場もあり、土日には沢山の家族連れが訪れて楽しんでいるよ。

町営住宅と新興住宅地が2ヶ所造成されたおかげで今では
在所の半分の世帯が移住して来た人たちなんだ。
若い世帯が多く子供も沢山いて、獅子舞の練習には40人以上の子どもが集まり、
若い衆もしっかり指導してくれているよ。
昨年は獅子頭、蚊帳、天狗の面を新調したけど、嬉しそうに祭りをしている子供たちを見ていると、
紛れも無くここ川田がこの子らの故郷なんだと実感するね。

子ども会、青壮年団、実年会、老人会、女性協議会、自衛消防団など活発に活動しているけど、いろんな行事を通じて在所に馴染んでもらって将来的には川田を継承してもらいたいと願っているんだ。

あきこの一言

温故知新、古きと新しき、
交わって歴史が繋がれる。


第132回 田鶴浜町深見


町名の由来

七尾湾に流れる深見川の河口付近の田んぼは江戸時代に埋め立てられたけど、
昔はその海がさらに細長く入り江となって在所の奥深くまで入り込んでいたんだ。
それで深く入り込んだ海から、深見となったようだね。
石川県には門前と輪島にも深見があるけど、門前の深見も海が奥まで入り込んでいるらしいよ。

昔の在所

古い資料によると、深見40軒の内、頭振り0人、
白浜40軒の内、頭降り9人と書かれているんだ。
頭降りとは農業以外の職種で漁業、運送、商売などのことで、
深見は40軒皆農家だったということだよ。

江戸時代中期に干拓の願いを出した文書があるけど、
その干拓した田んぼに水を引いたマンポが105メートル現存しているよ。
そのマンポの入口付近が元々の在所の中心地で、国道寄りに新宅が広がっていったんだ。

深見川上流の平沢(ひらそ)という場所には7軒あったけどみんな移住したよ。
子どもの頃は深見潟で御所守(ごしょもり)という白くて平たい貝を
よく獲っていたけど、源平合戦、壇ノ浦の戦いで幼少の安徳天皇が入水、
一緒に海に身を投げた平家の家来が貝となって海の中の天皇の御所を
守っているから御所守と名付けられたと聞いたことがあるよ。
能登に逃れてきた平家の人々がそんな話を伝え、名付けたものかねぇ。

これから

在所ごとに自治公民館活動をしていた旧田鶴浜町が七尾市と合併したとき、
相馬、田鶴浜、金ケ崎の三つの公民館に統合されたけど、
唯一深見だけ自治公民館を残して活動しているんだよ。

古くから続く地蔵祭りに合わせて、ふれあい祭りを開催して
恒例の仮装盆踊り大会や、劇団を呼んだりとそれは盛大だよ。

昔から田んぼを一緒にやってきた在所で、田植えの日は朝3時、4時に大きな農家に集まり、
賄い方の年寄があずきの雑煮を作って、在所中の子供もそれを食べては学校へ行ったんだ。
そんな絆を受け継いでいるので結束力は抜群に良くて、
昨年の町民運動会は優勝したし、平成24年から始まった20丁部の圃場整備も
今年から作付け出来るのでみんな張り切っているよ。
深見はこれからも大人も子供もみんなで楽しく力を合わせて頑張っていく在所なんだよ。

あきこの一言

力を合わせて生きてきた、
深見の在所、大きな家族。


第131回 七尾市なぎの浦


町名の由来

この町は、昭和55年に七尾市が海を埋立て新興住宅地として売り出した町なんだ。
海を埋立した土地は七尾市議会で町名や地番が承認された上で登記され、
初めて陸地として認められるんだよ。

ここに住む人は、なぎの浦という町の土地を買い求めた人だから、
町名の由来はわからないけど、当時の市役所の担当者か市長が
静かな七尾南湾をイメージして、なぎの浦と命名したんじゃないかなぁ。

昔の在所

七尾市で都市下水が初めて敷設された町でね、売り出し当時はバブル時代の始まりで、
将来性を見込んで多くの人が買い求めたんだ。
人気があって抽選で当たった人しか買えなかったらしいよ。
買ってもすぐに家を建てる人は少なく、私の土地も父親が買って持っていたんだけど、
平成13年になって子供が中学生になるのを期に移ってきたんだ。
先輩に聞くと、最初の頃は道が舗装してなくて、街灯もない、郵便ポストもない、
商店もない、何もない、道路を挟んで七尾海員学校の広々としたグラウンドが続き、
なぎの浦砂漠と言われていたそうだよ(笑)。

みんな新しい人で、隣の人でもお互い見ず知らずからスタートし、
町が若く、住む人も若く、町会というものが何なのかもわからないまま、
家を建てた順番で町会長をやっていたと聞いているよ。
そう思うと38年経って、こうやって取材されるくらいに町らしくなったということなんだろうね。

これから

古くからの伝統もしがらみもなく、ご近所付き合いが気楽な部分と、
それでも町会として結束をしなければならない部分とが交錯するんだ。
現在は子供会、青壮年会、女性会、はまなす会が活発に活動して、
横糸と縦糸を結んでくれているんだよ。
高齢化が進む中、8年前に結成された、なぎの浦子ども太鼓が
町内の納涼祭や餅つき大会で披露してくれるし、七尾看護専門学校もあるので、
朝夕に若い人の声が聞こえ、ありがたいと思っているんだ。

昨年は西湊地区の運動会で準優勝できたし、幅12mの道路には白線を引き、
街灯も全てLEDに替えることが出来て良かったよ。気がついた事を、
コツコツと出来る範囲でやらせてもらいながら、
みんなに支えられ町会長を4年間務めさせてもらったけど、
この取材を花道にバトンを渡したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

海あり、緑地あり、閑静な住宅街
はまなす会の新年会で、おはぎ頂く。(ペコリ)


第130回 七尾市温井町


町名の由来

能登の豪族温井氏が畠山の重臣となり田鶴浜の相馬と中能登町の
鳥屋と交わるここ高階に拠点を構え、隣在所の満仁の舘山(たちやま)が温井氏の館址なんだよ。
この在所はその温井の姓を頂いた由緒ある在所なんだ。

温井氏の本城は輪島の天堂城だけど畠山を中心に能登がまとまっていく中、
最も勢いのあり活躍した温井総貞の時代に別荘兼砦として住み出したんではないかという話も聞いたよ。

昔の在所

昭和20年6月27日、小松航空隊第336海軍設営隊と
海軍甲種飛行予科練習生400名が伊久留に飛行場建設に来たんだ。
その頃七尾湾にアメリカの爆撃機が機雷を投下していたので、
防空や小松飛行場の予備として建設されたらしいけど、
完成して一番機が小松から飛来している時に終戦になってね、
翌年4月には田んぼに復旧してしまい在所では幻の飛行場と言われているんだ。
村民や小学生も勤労奉仕で参加し温井の民家にも兵隊が泊っていたんだ。
食料不足の中、過酷な作業が続き15、16歳の予科練生には
とても厳しいもんだったと母親から聞いたよ。

子どもの頃は在所ごとになって戦ごっこをして遊んだなぁ。
伊久留の在所へ攻め込んでいくんだ。
伊久留川を挟んで青竹を持ってやりあっていたよ。
町屋の在所は山道から攻め込んでくるので迎え撃つんだ。
当時の子どもは加減して上手に戦の真似事をしていたね。
テレビが普及して西部劇を見るようになったら今度は鉄砲ごっこだよ(笑)
西部劇のウインチェスター銃を真似て自分で板を削っては作っていたけど、
男の子は勇ましいことが遊びの時代だったよ(笑)。

これから

田んぼで暮らしを立てて来た在所だけど高齢化が進むし、
外に出た人は戻らんし、ほ場整備しても担い手が減ることが
あっても増えることはないからね。

平成元年にトラクター1台の共同利用を始め、
現在は農事組合法人の温井営農組合にして田んぼを守っているところだよ。

古民家に移住してきた森田さんがカフェとゲストハウスを始めたので
旅人が運ぶ爽やかな風が流れ出したよ。
今ここで住んでいる人全員が、生きている限り温井で暮らし
続けたいと思えるように、在所全体で支え合っていかなければと思っているんだ。

しほの一言

小さな在所に、大きな歴史。
これからも歴史は刻まれる。


第129回 中島町上町


町名の由来

中世の熊木郷で熊木川の辺にあった市姫宮には
月に三度の市がたち賑わいを見せていて、
その市姫宮の川上に位置した在所がここで、市姫宮の上の在所、
上の町となったという話が伝わっているよ。

市姫宮はもう一つ在所にあった高瀬社と合祀移転し
現在の上町の市姫神社となっているんだ。
熊甲祭り19の末社の内、上町だけが女の神様、姫神社なんだよ。
残る18が男の神様で、女の神様に見初めてもらおうと張り切って祭りをするんだ。
この世は虫も魚も動物も人間も、雄が雌に認めてもらうのに必死なんだね(笑)。
女房を山の神とも、上さんとも言うけど、女性の方が偉いんだと思うよ。
姫神社がある在所ゆえに、上さんの町、上町かもしれんね(笑)。

昔の在所

中島の商店街は熊木川に沿って発展したんだ。
昔は河口から上町橋まで海上航路の船が上がっていたんだ。
奥能登や七尾からの生活品を荷揚げしたり、木材を積み込んで搬出したり、
人も船で移動した方が便利な時代だったんだ。当時の上町橋周辺の通りは提灯を
吊るした飲食店等が軒を連ね中島の歓楽街として賑わっていたんだよ。

熊木川に船が上がるのに昔から川砂を上げては川底を深くしていたけど、
今でもカキ貝の船や釣船が通るし、集中豪雨などで氾濫しないように
防災面からも河川改修が少しづつ進んでいるよ。

在所の中には町内で一番大きな熊木小学校があって子どもの声が
聞こえ活気あったけど、平成16年に中島町の全ての小学校を統合して
上町の小高い丘の上に中島小学校が出来たんだ。
通学はスクールバスになって昔ほど子どもの声が聞こえなくなったけど、
それでも近くに学校があるということを喜ばんとね。

これから

今年は市に申請した消防の宝くじに当たって神輿の塗替えをしたんだ。
なんせ若い衆の団結心が嬉しいよ。熊甲祭りの人足不足はどの在所も深刻だけど、
ここは若い衆が宇出津のあばれ祭りや石崎の奉燈祭りに
参加しながら粋の良い若い衆を呼んで法被を揃えるから祭りはお任せだよ。

活発に活動している小牧の壮年団とも10年以上も親睦を深めて祭りのあり方を話し合っているから、
都会に出ていても祭りだけに戻ってくる人も多くなったよ。
そんな元気を貰って年寄も行事ごとには積極的だし、この勢いを維持していきたいところだね。

かなこの一言

姫が宿る在所  
男子一番、姫を護る


第128回 七尾市報国町


町名の由来

報国造船の社宅があった場所が払い下げられ出来た町なんだ。

昭和18年、戦況が悪化する中、船舶不足を補うため
大阪商船が矢田新から万行浜にかけて木造大型船では日本一の造船所を作ったんだよ。
県内外から人を集め、万行町に社宅を建て住まわせた場所が
ここで、通称で報国町と呼んだんだね。

造船所は昭和20年に火事で燃えてしまったんだけど
復旧して昭和40年代頃まで会社があったんだ。
私の父親も勤めていて、東京オリンピックの年に見学に行ったことを覚えているよ。

昔の在所

昭和25年の報国の人口は667人、この時の万行の人口は850人と記録にあるけど、
地元住人とよそ者がほぼ同じくらいの勢力なんだ。

終戦直後のことだからどこも食料がないんだよ。
畑の野菜が無くなれば、ひとつかみに報国の人が白い目で疑われ、
悔しい思いをしたと聞いてるよ。それをバネに子ども達には勉強を頑張らせ、
児童会の役員をしたりして積極的に地域活動に参加していったんだ。

社宅は6畳と3畳に台所と土間だったんだ。それも4軒長屋でね
一棟に板一枚で仕切られて4世帯が住んだんだ。
だから年寄が10ヶ月後に隣に赤ん坊が産まれるのが
わかったと言っては笑わすんだよ。
その4世帯長屋が4棟で一つの井戸を共同で使うんだ。
かまどで杉葉を燃やすので部屋はすすだらけだし、
決して良い環境ではなかったけど、大らかに和気藹々と助け合って暮らしていたんだね。

これから

火の用心の見回りを毎日行っているんだ。昔火事があってね、
それで「子どもに~、マッチ持たせるな~♪煙突、かまどの掃除しろ♪
カチカチ、火の~用心♪火の用心♪カチカチ」と唄まで作って子どもに廻らせていたんだ。
今は大人が2軒1組で拍子木を叩いて伝統を守っているよ、歌わないけどね(笑)。

在所の豊受神社は戦前まで矢田新町にあった大日本人造肥料の
会社に祀られていた伏見稲荷を昭和27年に譲り受けたんだ。
万行小学校を解体した際の教室を社殿にしていたけど平成14年に社殿を新築したんだ。
報国町に縁のある人たちから沢山の勧進が集まって鳥居も建てたんだよ。
社宅の町でも生まれ育った場所が故郷だよ。
りっぱな神社を持ちたいという熱い想いが募ったんだね。

一人住まいの高齢者が多くなってきたけど、老人会も活発だし、
これからも長屋の精神で仲良く支え合って生きていかなくてはね。

しほの一言

人の住むところ歴史あり、
聞かなければ知らないことばかり。


第127回 七尾市白鳥


町名の由来

ここは昔から港がありカモメやウミネコなどの白い海鳥が多く集まるんだよ。
聞き伝えによると傷ついて弱っていた大きな白い鳥を
在所の老翁が救って手当てしたけど死んでしまったんだ。
その鳥を背後の伊掛山の麓に祀ったことから、この地を白鳥と呼ぶようになったそうだよ。

昔の在所

在所の真ん中を流れる川が江泊町と庵町の境界なんだ。
昔は江泊町の白鳥と庵町の白鳥と別々の在所だったんだけど
70年程前に一緒になって今の白鳥になったんだよ。
だから在所にお宮さんが二つあるのはその名残なんだね。
人が住んでいた所に後から境界が引かれたのか、
魚場をめぐって江泊と庵がせめぎ合った結果それぞれの住人が
移り住んだのか歴史的背景はわからんけど、二つの町会を股にかけた在所というのは珍しいよ。
おかげで川を挟んでお寺の門徒も、選挙の派閥もはっきり色分けされていたね(笑)。

子供の頃は七尾に行くにも早朝から隣の江泊まで歩いて
定期船で2時間以上かけて行ったけど一日がかりだったよ。
定置網で獲れたブリやタラなどは祖母さんや母親が沢野町の
栢戸まで通じる山中の羽坂道を籠担いで七尾に運んだんだ。
それが唯一の現金収入なんだけど代金は盆暮れに支払われていたんだ。

それと烏帽子(えぼし)制度があって一致団結、協力して暮らして来た歴史があるんだ。
私も烏帽子親には実の親以上に経済的にも手厚く面倒を見て貰ったんだよ。
今では烏帽子親子も少なくなったけどね。

これから

沖には岸端定置網と白鳥定置網があり若い人達も頑張っているよ。
白鳥定置が大漁だと在所は朝から活気づくんだ。

近年は青年会や子ども達が少なくなっているけど、左義長、春秋の祭り、
恵比寿祭り、盆踊りなどの在所行事は何とか継承しようとみんなで頑張っているんだ。
それで獅子舞の蚊帳も5人用から3人用に小さくしたんだよ。

在所の中を通る県道は車がすれ違い出来ない程の狭い道で危ないんだけど、
海岸に新しいバイパス道路が出来て来年には開通するんで楽しみにしているんだ。
35世帯あるけど、65歳以上が47人、以下が45人、子供11人、
高齢化が進むけど人情味ある良い在所なので何とかしようと前向きに思っているんだ。

しほの一言

浜風に柿の葉が揺れ、三色のカキ餅が並ぶ。
小さな幸せがいっぱいの在所。


第126回 能登島町日出ケ島


町名の由来

弘法大師がこの地を訪れて、飲み水に困る村人のために筆で岩をなでたところ、
そこから水が湧き出たということで、この地を筆ヶ島と名付けそれが
転じて日ヶ島となったと言う弘法大使説があるよ。

確かに弘法の井戸と言われる跡は今でもあるけどね。
ここで暮せばわかるけどなぜ日出ヶ島なのか一目瞭然だよ。
海辺に立てば富山湾から昇る太陽が能登島と崎山半島の間の水平線に顔を見せるんだ。
凄く綺麗な日の出でなので感動するよ。
そんな日が出る島、日出ヶ島ってのが素直で本当のところだと思うけどね。

昔の在所

能登島は越中の五箇山と共に加賀藩の流刑地で、
134人が島に流されたと聞いているけど、
その玄関口がここ日出ヶ島の港だったんだよ。
当時20あった村の内14の村にそれぞれ配流されていくんだけど、
多くは書画や儒学などの文化人や武士など政治犯だったんだ。
家族を残してどんな思いで海を渡ったかと思うね。
逃げようと思えば三室まで泳げる近さだけど、
家族に危害が及ばないようにと逃げなかったんだろうなぁ…。

子どもの頃は半農半漁の暮らしで刺網、定置、なまこ、蛸などを獲っていたんだ。
私の祖父さんは蛸が入ると蓋の閉まる蛸壺を開発してね
、獲れた蛸を七尾の市場に持って行くときに付いて行っては
うどんや饅頭を食べるのが楽しみだったよ。
その蛸壺は今でも大事に私も使っとるよ。

小学校は隣在所の野崎小学校へ山道を歩いて通ったけど、
当時は在所から在所は細い山道しかなく、どの在所も孤島の中の、
さらに陸の孤島だったんだ(笑)。学校の帰りは山道を遊びながら、
あけび、おんべ、松茸も採って、カキ崎の海ではサザエを獲っては
家に帰ったもんだよ。今は誰も手入れしないので山は荒れてしまったけどね。

これから

時代が変わったんだからこそ、いい意味で変わっていかないとね。
ここは左藤、左川、米田の3苗字の12世帯25名で、
90歳を筆頭に65歳以上が18名なんだ。

祭りの獅子舞も出せないし、報恩講のお参りも集まらなくなったし、
暮らし向きが個人個人になってきているから、
この前みんなで防災訓練をやったんだ。
やればすぐに一致団結だよ。日の出も綺麗だし、魚も美味いし、
在所の存続のために何か一歩を踏み出さないと、と強く思っているところなんだ。

かなこの一言

お日様に恵まれ、魚良し、松茸良し、
みんな仲良し、小さな在所、島の中の島。


第125回 七尾市魚町


在所名の由来

昔は海に面していて魚町の波止場は所口湊と呼ばれ漁業が盛んな在所だったんだ。
魚町会館の横の広場が共有地でね、そこに網を広げていたんだ。
その横に漁業の神様である恵比寿様のお堂もあったんだ。
その名残で今でも3月と9月に恵比寿祭りを行っているんだよ。
ここから獲れた魚を畠山氏へ献上していてその頃には
すでに魚町と呼ばれ500年の歴史があるんだ。

現在は正式名称として「うおまち」となっているけど、
在所ではみんな「ようまち」と言っているよ。
魚は古語では「いを」と読み、それが訛って
「よう」と発音されるようになったんだね。

昔の在所

天正14年に前田利家から魚類の専売権が許されてから魚の加工や
販売が勢いを増していくんだ。昭和40年代でも9軒の魚屋が並んでいたけど、
今は立野さんと小川さんの2軒になったよ。
その頃は一本杉に劣らず繁昌した商店街でね、魚屋だけでなくいろんなお店が並んでいたんだ。

当時の広瀬ストアさんのコカコーラ販売量は北陸一だと言われたもんだよ。
現在の網元(あみげん)さんの所に銭湯のえびす湯があって
一本杉通りを走るバスから脱衣場が見えると男衆の間で密かに噂されていたよ。
ともあれ活気がある良き時代だったね(笑)。
明治28年の七尾大火で在所が管理していた古文書がほとんど燃えたけど、
一冊残ったのが明治19年に作られた魚町土地台帳なんだ。
在所のまんぞう割りのために作ったのか、一筆地ごとの寸法の入った絵図面に地目、
地積、地租、地主が書かれているんだ。明治時代に在所でこんな調査したとはあっぱれだよ(笑)。

でか山

それと何と言ってもでか山だね。でか山があるから町内が一致団結しているんだ。
畠山義統(よしむね)が山王神社の青柏祭に曳山を奉納することになり、
魚町、府中町、鍛冶町がでか山を勧進し、魚町に畠山の
「丸に二の字」の家紋が与えられたんだ。

前号の山王町の記事で津向町の唐崎神社とあったけど、
あそこは津向と小島が入り組んでいて正確に言うと小島町なんだよ。
青柏祭はその小島町の唐崎神社で神主が紅葉川の水を取り、
禊をして祭りを宣命し幕が開くんだよ。

畠山と前田の殿様から魚のご縁を頂き力をつけた在所だったからこそ
山を持つことも出来たのだと思うよ。
殿様と先祖に感謝しなければならないね。

かなこの一言

城下の商人町に山がある。
時代が変わっても、変わらぬ心意気。


第124回 七尾市山王町


町名の由来

山王神社がある在所だから山王町だよ、明快だね(笑)。山王、本府中、上府中、御祓、神明の5町が府中村で、昭和の初めで120軒の村だったんだ。
当時は七尾駅前で獅子舞を踊っていたと言うよ。

在所の歴史

山王神社と共にある在所だから山王神社の事を話したいけど、
あまりにも歴史が深いので大森宮司にも同席してもらわんとね(笑)。

能登建国にあたり七尾湾を琵琶湖に見立て近江国を模して町が作られていったそうだよ。
能登國の中心七尾の町を造るための守護神として山王神社、
津向町の唐崎神社、府中町の印鑰神社が建立されたんだ。
本宮神社は更に古く6年後に2200年を迎えるのだけど、
44の坊があり信仰の一大拠点だったんだよ。
信仰のためにある神社と町を造るために置かれた神社と
いうふうに考えてもいいのかもしれんね。

青柏祭は981年から始まり、1473年に畠山義統がデカ山を
奉納し大津の山王祭と京都の祇園祭が融合された祭りとして
進化してきたそうだよ。昭和3年に山王神社に鍛冶町の天王社が
合祀され大地主(おおとこぬし)神社と改称されたけど
今でも山王さんの方が馴染みがあるよ。

能登立国1300年

来年は能登國が出来て1300年だけど、その歴史は718年に能登が
越前から独立し、23年後越中に併合され、さらに16年後そこから
また分離独立するんだけど、その頃にはまだ加賀国はないのだよ。
そして畠山時代、中世北陸最大の都市として七尾が発展していくんだ。

来年は山王神社も1300年なんだ。能登建国で近江国の日吉大社が
勧請され七尾に山王神社を建立するとき神社を守る
7軒の氏子とその一族を近江から一緒に連れて来たんだ。
それがこの在所の原型で現在も梅、三野、山本、藤巻の
4軒が神社の周りに住んで神社を守っているよ。

来年山王神社の鳥居を再建するんだけど、あえて木で作るんだ。
木はやがて朽ち果てる。そしてまた作るんだ。
そのたびに七尾はどんな所かと自分達の歴史を知る
キッカケになるようにとね。歴史と伝統ある七尾に生まれ、
住んで、生きている我々は小粋な市民としてプライドを取り戻し、
この七尾を自信を持って子孫に繋いでいきたいと思うんだよ。

まぁの一言

壮大な歴史を受け継いでいる。
小粋な人が多い在所。