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第123回 七尾市松百新町


町名の由来

読んで字の通り元は松百町の在所で、昭和38年頃から宅地造成が着工され
昭和40年代から家が増えた場所なんだ。
年々新しい人が増えてきたので、昭和47年に団地代表が松百の町会長と
協議して了解を頂き新しい町が誕生したんだ。
松百の中で新しく出来た新町ということだね。

在所の歴史

ここが造成されてからオイルショック前までの
10年間に家が順番に建っていったんだ。
その頃は赤浦の踏切を渡ってここに入るのだけど、
その踏切が狭くて大型車が通れなかったよ

。最初に造成された地区が1班から3班で、
その後昭和50年代から踏切の反対側の山も順次開発され
4班と5班が出来て、昭和57年に小丸山台方面からの西湊幹線が
開通してから一挙に人が入ってきたんだ。
その道路沿いに平成14年に第1期、平成20年に第2期とシティハウス産業が
造成し6班と7班が出来たんだ。
そこは昔リンゴ山だったことからシティハウスの瀬口会長が
アップルタウンと名付けたんだね。

宮が無いので家が20軒くらいの時までは
松百町の祭りに神輿と太鼓が来てくれたんだ。
人が増えたので当時の青壮年団が集まって子供の神輿と
大人の奉燈を手作りで作ったんだ。
おかげで今はそれで毎年お祭りしているよ。

これから

町が出来て半世紀、世代交代が進むけど
、空き家が出ても業者がリフォームして売り出すと、
交通の便が良いのですぐに新しい人が入ってくるのも明るい兆しだね。

平成24年に松百町と一緒に七尾病院と自由防災協定を結び、
災害時に在所と病院が互いに協力し合うことにしたんだ。
この在所は青壮年団の力が大きいよ。当初からの世帯は高齢化してきたが、
新しく住む若い世帯も多いので、子供会25名、青壮年団31名と何があってもやってくれ、
町内を引っ張ってくれるので本当に心強いんだよ。

そんな子育て世代や、働き盛りの人たちが世間で精一杯活躍してもらえるよう、
今は我々世代が在所の中の事をお世話させて頂いているんだ。
それぞれが、それぞれの立場の中でご縁を頂いて、
みんなのために尽くすという精神が必要なんだね。
それを繋いで行き、いつの時代も子供も年寄りも明るく
笑顔の絶えない町内にと思っているんだよ。

まぁの一言

新しい町に暮らす。隣近所とお付合いが始まり、
一人が全体のために、全体が一人のために
結束する在所。


第122回 中島町外原


町名の由来

中島の山戸田の分村なんだよ。時代は分からんけど、
在所の福島豊次さんの先祖が、山を越して来て見れば、
ここは田んぼも出来るし暮らすことが出来る場所だと
見極めて入植したのが始まりなんだ。

山戸田の外にある原、ということで外原となったわけだよ。
以前は「そどら」と言っていたけどね。

在所の歴史

ここは五反百姓の在所で田んぼと炭焼きをして自給自足の暮しだったようだね。
冬の間は都会のツテを頼って出稼ぎに出たと言うし、次男坊は銭湯へ奉公に出たんだ。
今でも在所出身の3人が東京と神奈川に銭湯を経営しているよ。
風呂と言えば昔は貰い湯をしたんだ。風呂を沸かした家が近所へ声を掛けてね。
夏はタラ湯と言って風呂の半分ほどのタライを外に置いて釜戸で沸かしたお湯を入れて、
これも貰い湯するんだけどその家のお母さんが最後に入るんだ。

何事もお互い様の精神が強いんだよ。
戦後しばらくまで裏山で亜炭の採掘をしていて馬車に積んで中島の駅まで
運んでそこから貨車に積んだと言うよ。
その馬車も途中から木炭車のトラックに変わって、
そのトラックに乗って昭和22年の金沢の国体を若い衆が見に行ったらしいよ。

区長も壮年団長も選挙で決めた活気ある時代もあったんだ。
そんな時の団長が在所の小祭りで、20日の熊甲大祭にどうか枠旗を持って行きたいと頼むんだ。
小さい在所なので他から人足を頼むけど費用が掛かるので、
不作の年ならダメだとおやっさまの一声で決まったんだ。みんなで協力して生き抜いてきたんだね。

これから

田んぼで暮らした時代は各家に親子二夫婦が必要だったけど、
今は機械化で人出は要らんし、田んぼでは暮らせんし、
若い人が在所に残る必然性がなくなって過疎になってしまったね。

自然だけは豊かで在所中に蝉時雨が聞こえ、
川には鯉が泳ぎ、夜はホタルが舞っているよ。
中島から福浦港までの県道は地蔵街道とも言われ沿道にお地蔵様が
沢山あるけど外原には無かったんだ。

それで10年前の能登半島地震で一軒の被害も出なかったことに感謝し、
在所の末永い安寧を願ってと曽田政治さんがお地蔵さんを、
その祠を大工の石坂寿さんが建立してくれたんだ。
この先も何とか現状維持しながら少しでも長く続いていってくれればと願っているんだ。

まぁの一言

巴形の田園を家々が囲む。
あちこちに鉄砲ユリが自生し、
穏やかな空気が流れる在所。


第121回 中能登町東馬場


町名の由来

古文書によると鎌倉時代の馬庭(ばんば)村が、
室町時代に分村して鹿西の西馬場、鹿島の東馬場となったようだね。

ここは邑知潟地溝帯の上にある在所なので、
湿地帯から平野になっていく過程で馬を遊ばせたり、
餌を食べさせるような場所になっていったのではないかなぁ。
三角池の近くに今も馬洗場(ませんば)と呼んどる場所があるし、
そんなことで馬庭と呼ばれ、そして馬場となったと思うんだよ。

在所の歴史

山裾に位置する西馬場にはお寺があるから、昔の馬庭村の人はそこに住んで、
ここは馬の庭でしかなかった場所だったと思うんだ。
そこに人が住みだし集落が出来てきたので分かれたのではと想像してるんだよ。

東馬場にはお寺が無く、散り門徒で能登部や井田、水白など近在のお寺の門徒が多いので、
その辺りから移り住んで来たんではないのかなぁ。

戦前、軍需工場があったんだ。
それが敗戦で昭和23年に滝尾織布株式会社に変わったんだ。
織機が176台もある大きな工場でね、私の母親も勤めていたし、
在所中の人が勤め現金収入を得ていたので生活の基盤が安定した在所だったよ。
二交代の勤務で夜道が危ないからと在所中に街灯がついたんだ。
当時では大変珍しい事で、周りから田んぼの中に夜でも明るい在所があると揶揄されたよ(笑)。

それが昭和31年6月に工場が火事で全焼したんだ。
その頃から八台機場(はちだいはたば)と呼ばれた織機八台の家内工場がブームになるんだ。
在所でも多いときで46軒の機場があったけど音がうるさくて夏でも窓を開けられなかったよ。
在所の中の空気が動きっぱなしという感じなんだ。
慣れたらそれが普通になってね。
盆と正月に機械が止まると、在所中がシーンと寝静まったようになったよ。

これから

中能登中学の裏に新興地もあり若干世帯も増えているので、
祭りが出来るだけでも良しとせなならんね。
子供の頃、田んぼで聞こえたカエルの声が織機の音に変り、
それが無くなった今、土水路から基盤整備された田んぼではカエルの声も聞こえないし、
ホタルもいなくなって世の移り変わりを肌身で感じているんだ。

高齢化が進み空家が増えたけど、在所の中が荒れないように空き家対策をして、
住みやすい東馬場を守っていくために、真剣に考えなならん時が来たように思うこの頃だよ。

かなこの一言

邑知潟が平野になり人が住んだ。
人が住むとこ歴史あり。


第120回 七尾市水上


在所名の由来

山の中腹にある在所から深い谷間を見下ろすと、
熊淵川とその支流の水上川と2本の川が流れている在所なんだ。
そして山も沢山の水を含んでいて、水の豊かな在所だったんだよ。
それで水の上にある在所、水上となったと思うね。

昔の在所

七尾城に使えていた農民が隠れ家のように暮していた在所だよ。
元祖は畠、白藤、村山、西尾の4軒だけど、
畠さんが在所の神仏をお世話する中心的な家だったね。
在所内で婚姻が進み今ではみんな親戚だよ。江戸時代、
赤穂浪士討ち入りの頃には12軒だと古文書にあるね。

江戸末期から在所でガバダンと呼ぶ山で石灰石を採掘して
牛で東浜まで運んで近郷に肥料として売っていたようだよ。
昭和8年からは津向のセメント工場に空中ケーブルで滝ノ尻、
小池川原、八幡を通って運ぶようになるんだけど、
ガバダンで働く人が増えて多い時で48世帯300人以上が
暮らすようになり、在所にあった第2南大呑分校が
城南小学校として格上げされたんだ。

子供の頃、寄合いで大人から「オイ、獲ってこいや」と言われると、
川の岩魚を手づかみで獲って、竹に刺して味噌を漬けて、
囲炉裏で焼いてみんなで食べたんだ。
寒の時期にカキモチを作るけど、この時に大根のおろし餅みたいにして、
つきたての餅に鱈の真子の煮付けをまぶして食べるんだ。
この「鱈の子餅」が水上のソウルフードなんだ。

今の在所

ここは岩盤に表土が乗った地質で昔から地すべりが多く、
山の水を抜いた小さな工事跡が沢山あるよ。
大災害にならないようにと県がボーリングで水を抜く大工事をしたんだ。
そしたら在所中の井戸水が枯れてしまって、
それで平成13年に谷で堰き止めた水をタンクに入れ
滅菌してパイプで各家庭に配水したけど水質が良くなく困っているよ。
市に相談したら水道工事の地元負担が1千万円ほどかかると言われ諦めたね。
空き家も多く狸の家になっているんだ。
実は10数年前まで街で暮らしていたけど、
一生懸命働き、精一杯遊んで、納得したからここに戻って来たよ。
まだ勤めているけど田んぼしたり、猪を獲ったり、
寺参りしたり余生を満喫してるんだ。
やっぱり古里で最後を迎えたいと思ってね。
水上は今住んでいる人を最後に消滅するけど、
我々8人が最後の水上住民として歴史に残るんだよ(笑)。

まぁの一言

人も在所も栄枯衰勢あり、
今を前向きに生きる事が大事。


第119回 七尾市和倉元町


町名の由来

約1200年前、白鷺が海で傷ついた足を癒やしているのを
不思議に思った漁師が近づいて温泉が出ているのを発見したと
伝わっているけど、温泉が海の中から湧いていたことから湯が湧く浦、
湧浦と呼ばれ、江戸時代に和倉となったということだよ。
当時の古文書では湧浦村と和倉村が交錯してるんだけど、
これは七尾を所口と呼んだり七尾と呼んだりしたのと同じように色々あったんだろうね。

昔の温泉街

和倉七軒といって昔は七軒の百姓が住んでいた在所が温泉のお陰で発展したんだね。
19歳で石崎から和倉元町へ養子に来て60年経つけど、
その頃は今の源泉の周りに小さな旅館が
並んでいて元町だけで25軒、芸者の置屋も4軒あったよ。
源泉は熱いので旅館には浴槽が二つあって交互に冷やしては使っていたよ。

当時はどの旅館も小さかったので会合するため青林寺の
近くに小さいながらも観光会館を建て会合が終わると
マイクロバスで各旅館へ送っていたよ。
1日に120人以上の観光客が来ると
七尾の松田花火が自転車に道具を引っ張ってきて花火を1発打ち上げるんだ。
いでゆ太鼓も各旅館の玄関先で歓迎の太鼓を打つんだ。

私はモーターボートで七尾湾の遊覧をやっていたけど
近隣の機場(はたば)から集団就職の女工さんの気晴らしにと沢山連れて来てもらったよ。
観光客も団体が多く街にはたくさんの芸者が三味線もって歩いているし
昭和40年代が面白いほど賑わっていたね。
それで小さかった旅館も観光会館も場所を移して大型化していったんだ。
ところが大型化した旅館がホールや宴会場を持ったから
今の観光会館が使われなくなったんだね。
それと家族客が増え芸者に声がかからなくなり、
いつしか置屋も無くなったんだ。

現在の取組

土地柄で和倉温泉観光協会がヨット、
よさこい、太鼓、俳句などいろんなイベントに
関わっているので町会はよさこいの手伝いをするくらいだよ。
和倉には自然、歴史、文化と潜在的な魅力がいっぱいあるんだから、
一本杉の観光ボランティアみたいに丁寧に案内すればと思うんだ。
和倉の事なら隅々まで案内できるけどね(笑)。
和倉から七尾湾をアプローチすれば違う
景色が見えるって事にも気付いてほしいんだがなぁ…。

まぁの一言

灯台下暗し、魅力がいっぱいだった。
和倉だけで1日過ごせそう。


第118回 能登島田尻


町名の由来

在所のある山ヶ地区は、通、田尻、久木、この三つの小さな在所が
集まって力を合わせてやってきた歴史があるんだ。
そして田尻は、通の分家の在所なんだよ。通の二男、三男が
新宅するのにここで住み出したんだろうね。
そしてこの場所は、通から見れば、地形的には田んぼの先、
田んぼの尻に当たることから、田之尻と呼ばれていたんだ。
それで田尻になったと聞いているよ。

昔の在所

田んぼが少ないので漁で暮らしを立ててきた在所だよ。
田尻港を出れば立ケ島、中ノ島、鱈島と三つの島があるけど
その周辺は瀬だらけの海なんだ。
瀬には魚が集まるから刺網、引き網、
もったりと呼ぶ小型の定置網などで近海ものが沢山獲れたんだね。
昔はそれを中島の助作やよんじょもなどの魚屋さん
が買いに来てくれていたと聞いているよ。
寒天の原料になるエゴ草も採れて長野県へ出荷していたと言うよ。
私が子供の頃、まだ能登島はバラス道だったんだ。
そんな時に田尻の道だけコンクリート舗装されていて裸足で走って遊んでいたよ。
これは在所の共有地、ボロボロ鼻付近の海辺の山を売ったお金で整備したという話だよ。
昔は東回り、中ノ島回り、西回りと能登島を定期船が回っていたんだ。
ここは西回りで南、無関、閨、田尻、通、半浦と回っていたんだ。
当時は郵便配達も学校へ通うのもみんな山道と定期船で移動してたんだね。

現在の在所

祭り、駅伝、運動会など通、田尻、久木が三ヶ地区として
一緒に組んで来たんだけど、昭和20年代生まれの人が引っ張って来たんだ。
能登島の駅伝は今年59回を数えるけど過去には連続10回以上優勝しているんだ。
そんな時分は2ヶ月前から練習に引っ張り出されて走らされたけど、
今その世代も年をとって次の若い衆も少なくて昔の活気は無いよ。
通と田尻の境にある八幡神社は通と共有の神社なんだ。
祭りは中島の枠旗祭りと同じ形態でね、昔は神輿2つ、
旗3つを出して各在所と久木の塩田跡の釜屋敷で枠旗を練っていたそうだけど、
私が子供の頃ですでに久木も田尻も枠旗を出せず、今は神輿も出せないのが現状だよ。
まぁ在所が家族のようなもんで、ほのぼのと暮らしているんだよ。

まぁの一言

恵みの海に育まれた在所
対岸の西岸が近くに見えた。


第117回 中島町別所


町名の由来

能登島にも金沢にも別所はあるけど、
山奥で不便な所を一般的に別所と言うのではないかと思うね。
ここも七尾市中心地から一番遠い在所ではないのかな。
中島町史には西暦1577年、天正5年5月16日、
長連龍(ちょうつらたつ)の兄、長綱連(ちょうつなつら)が
36歳の時に中島町谷内の熊木城を上杉勢から奪回するため宮前の在所に前線を構え、
兵1500を別所村に布陣すると記されているんだ。
別所から谷内に通じる一本の山道があるけどそこを塞ぐ布陣だったんだね。
いずれにせよ安土桃山時代には別所と呼ばれていたということだね。

別所の歴史

在所では久保さんの屋号が丹後で、丹後守(たんごのかみ)と呼んだりしているけど、
応仁の乱で京都の丹後国(たんごのくに)から逃れてきたと伝わっているんだ。
久保家古文書で別所の世帯数、人口、出生、牛馬の数などが記録されていてね、
1730年から1889年の明治22年まで25か26が別所の世帯数で、
人口は220人から250人前後で馬は28頭、牛2頭だったんだ。

第13代藩主前田斉泰(なりやす)が海岸防備状況を視察する能登巡見で別所岳に登っているんだ。
その時、丹後守の久保家で休憩しているんだ。
小学校は西岸小学校別所分校だったけど昭和37年の
2学期から釶打小学校別所分校となったんだよ。
私が小5の時で1学期だけ西岸小学校へ通ったんだ。
道路整備が進み人の流れが西岸から釶打に変ったんだね。
それにしても小学生が別所から遠い西岸まで山道を朝早くから通学したと思うよ。
学校に着いた時にはズボンが朝露に濡れてくしゃくしゃになっていた事を思い出したよ(笑)。

昔と今

別所は天領だったんだ。別所岳に登ると七尾北湾が一望でき地勢的に重要だったんだろうね。
田を開き、炭を焼いて、個人で兎や狸、集落で猪や鹿を獲っていたと言うから自給自足の暮らしだったんだね。
中島へ勤めに出たのが昭和40年代だよ。
谷間の小さな田んぼの石積みを見ると先祖の苦労が分かるんだ。
超過疎地になって、悲しいけどしょうがないね。
在所の事もお互い様で、てんでんに出来る事はせんかいね、出来んことは無理せんとね。
が合言葉だよ。流れに身を任せて今を暮らしていくだけだよ。

まぁの一言

穏やかな日和、山道を進み、別所岳に登る。
わぁー!と思わず声が出た。
故郷の山と海を一望。


第116回 中能登町小田中


町名の由来

小さい田んぼの中の在所だったのかねぇ。
親王塚の前にある大きな石は舟をつないだ石だと
伝わっているのでそこまで邑知潟だったようだよ。
私の親世代は鹿西の能登部を向岸と呼んでいたから、
今のように田が広がっていなかったんだ。
鎌倉時代の古書に小田中保と、平家物語にも
小田中の親王塚と出てきているから、
そんな頃にはすでに小田中と呼ばれていたんだね。

神仏の歴史

親王塚は、第十代崇神天皇の第5子で能登の国造りに
大変な功績を残した大入杵命(おおいりきみのみこと)の墓なんだ。
4世紀後半に作られたといわれ、北陸随一の大きさで貴重な
出土品からも当時ここが能登の中心地だったことが伺えるんだよ。
その親王塚のてっぺんに大入杵命を祭る御祖神社があって、
在所では神輿を担いで登って祭りをしてたんだ。

明治になって神社が今のお宮に合祀され、人が登ることも禁止されたけどね。
この地区が御祖(みおや)となったのはこの神社の名前からなんだよ。
在所を流れる長谷川上流に能登国観音霊場10番札所の初瀬観音があるけど
毎年7月9日、10日にお参りするんだ。
七尾から参拝者も来るので当番を決めて朝早くからお世話させて頂くんだ。
昔は在所をあげてお参りしたけど、近年は少子高齢化が進み
在所でもお参りする人が少なくなって寂しいんだよ。
それと上杉謙信の能登攻めで在所に33もあったお寺が全部焼かれた歴史もあるんだよ。

福俵

昔、小田中に福田の在所の飛地があって、
そこの池に棲む大蛇が田んぼを荒らし困っていたんだと。
それで若い娘を人身御供に出していたけど、
その家の人は悲しみ小田中の神社の久志稲田姫に相談したら
気多大社の大国主命にお願いしてくれて大蛇を退治してもらったんだ。
そのお礼にと福田の人達がそこでとれたお米三石三斗を小田中の神社に奉納し、
それが伝統行事となって今でもおいで祭りが小田中の神社に入るとき、
福田の人が三升の福俵を黒塗りの三方に載せ正装で行列の最後に並ぶんだ。
年が明けた気多大社の新年祭でその福俵のくじ引きが行われるんだ。
なんと昨年、小田中にこれが当たったんだよ(笑)
良い縁起が続くよう、みんな仲良く頑張っていきたいね。

まぁの一言

まだまだいっぱいの、
歴史物語が詰まった在所


第115回 七尾市三島町


町名の由来

江戸時代には竹町で、明治5年に三島町と改名されたんだ。
なんで三島になったかわからないんだ。
ここは元々海に沿った町で子どもの頃は魚釣りや蛸釣りして遊んでいたけど、
ふと海を眺めると、沖には能登島と雄島、雌島が浮かんでいるんだね。
この三つの島を眺める在所なので三島町になったんではないかと想像しているんだよ。

昔の三島町

七尾港を中心に栄えた町でね、昔は回船業を営む船主が9軒もあったんだ。
慶応元年に架けられた慶応橋の袂に、今は国分にある明願寺があったんだ。
その跡地に七尾警察署が建ち、今は七尾商工会議所になっているよ。
その隣にある在所の金刀比羅神社は石動山の梅の宮本殿を移して、
さらに海上安全の神様、讃岐の金比羅さんから御霊を分霊してもらったんだ。

明治28年の七尾の大火は三島町の莚(むしろ)納屋から出火して
御祓川の西側900戸を焼失してるんだ。
学校も役場も銀行もお寺も病院も全部焼けたんだ。
私が子どもの頃の三島町は多くの人が行き来していたよ。

昭和15年に開館した七尾劇場には日曜日ともなると行列が出来ていたなぁ。
慶応橋から常盤町までは幅3間の道路で当時は七尾で一番広い道路だったよ。
三島町の隣が新地歓楽街で港町ならではの賑わいがあったね。
家が下駄、草履の店をしていたんだが、その頃は年が変われば新しい下駄を履く習慣だったので、
台に好み鼻緒をすげて仕上げるのに新地のお姉さんたちがよく出入りしていたのを覚えているよ。
そんな時代は七尾実業の学生が高下駄をカラコロ、カラコロと七尾駅から一本杉を歩いていたしね。

これから

時代は変わってきたけど料亭の福井亭や七尾に一軒だけになった造り酒屋の
布施酒店などが今に面影を残しているかな。
金刀比羅神社では毎月10日に定例祭が執り行われて、
本宮神社の宮司を招いて玉串を捧げて七尾港の安全と在所の安寧を祈っているんだ。
新年会や運動会などは婦人会がよくお世話してくれるし、
夏祭りは青年部長の浅野さんが頑張ってお世話をしてくれるので、
高齢世帯が多くなってきているけど、町内が一致団結できているんだ。
本当に有難いことだよ。これからもみんなで力を合わせて様々な問題に取組んでいかなければね。

まぁの一言

喧騒の表通りから一本入る、
港町の香がほのかに感じる三島町。


第114回 七尾市湯川


在所名の由来

一軒だけある湯川温泉宿の龍王閣は、江戸時代の湯治場だったんだ。
この温泉は在所を流れる崎山川から湧き出ているんだよ。
川の中から湯が出ているので湯川になったんだね。
火傷など皮膚病に効く、昔からの秘湯でね、
鎌倉時代の古文書にすでに湯河村と書かれているんだよ。

昔の生活

谷間の集落なので平地が少ないんだ。
それで山を開墾したら石灰を含んだ赤土でね、
そば、ごま、ごぼうを植えてたけど、
ごぼうに適した土で長くて美味しいごぼうが採れるんだ。
湯川と隣の岡町は、ごぼうの元祖名産地だったんだよ。
ごぼうの七日炊きという料理があって、囲炉裏の鍋に七日間炊いて、
すった胡麻をまぶして、報恩講様の時のごちそうの一品として出すんだよ。

石崎と輪島の海女がカゴを担いで来ていたけど、魚と米の物々交換だったね(笑)。
越中の人も着物や床の間の飾り物を売りに来ていたね。
母さんたちが何人もで組んで松任へ稲刈りの出稼ぎに行っていたけど
土産にスイカを買ってきて貰うのが嬉しかったなぁ。

ホウダツ

裾に大小のトンネル水路が何本もあるんだよ。
田んぼを広げるのに崎山川を付け替えしたのと、
川から取り入れた水を田んぼに引く水路を山裾を掘って作ったんだ。
普通はマンポと呼ぶけど在所ではホウダツと呼んでいるんだ。
明治時代から工事が始まったんだけど、その職人が宝達村の人たちだったんだ。
宝達の人が何十年もかけて掘っていたのでホウダツと呼ばれていったんだね。

これから

兎、狸、狐、猪のほかに、最近は熊、鹿、猿まで現れるんだ。
耕作する人が減って山や畑が荒れたら獣が入って来たんだね。
子どもの頃は貰い湯したり、半客と言って罠を仕掛けてもじなや
兎を捕獲した家にみんな集まって鍋にして楽しんだもんだよ。
若い人に獲り方や、さばき方を伝える必然性もない時代だけど、
そんな昔の生活様式を残しておこうと、多目的コミュニティーセンターを
建てて在所中から民具を集めて展示したんだ。
湯川に来て昔の暮らしや自然を満喫して温泉に入ってもらえれば嬉しいね。
この地に合った村おこしを探しているけど、高齢者も多いので、
のどかな里に、なごやかに暮らしていかれればと思っているんだ。

まぁの一言

気持ちが穏やかになる、
日本の原風景を感じる在所。


第113回 田鶴浜町上野ヶ丘


在所名の由来

この場所は三引や田鶴浜の人たちが野菜やお茶を作っていたんだ。
そこに昭和37年から6年間かけて100戸の町営住宅を
建設して出来た新しい在所なんだよ。
建設が始まった場所が三引の「うわの」という字名だったことから、
上野ヶ丘と命名されたんだよ。正式には「うわのがおか」なんだけど、
みんな「うえのがおか」と呼んでいるよ(笑)。

在所の歴史

私が転居してきた50年代はまだ新興住宅地で
20代、30代が大半の若々しい町内だったよ。
だから田鶴浜町大運動会では優勝をして盛り上がっていたね。
そうして少しずつ在所として絆が出来るんだけど、
何分新しい在所ゆえに伝統が無かったんだ。
住吉大祭の仲間に入れてもらったけど、もちろん山車はないから、
人形だけ作って宿元に集まって人形見をしてたんだ。
その頃役場庁舎の落成式があって、お祝いの行事に獅子舞をだそうと決めたんだ。

七尾山崎の在所へ習いに行って、当時の中西陽一知事の前で披露したんだよ。
みんな山車を持ちたいという想いが募っていくんだね。
偶然か必然か在所の竹中さんが御祓製材所で山車を見かけたんだね。
聞くと米町のちょんこ山の山車を新調するのに、古い山車を置いてあったんだ。
その古い山車を米町から譲り受けたんだよ。
製材所の屋外に置いてあったので、話が決まった翌日にブルーシートを
掛けに行ったと言うから当時の熱い想いが伝わるよ。

現在の在所

若かった在所も年月が経って高齢者世帯が多い在所に変貌したよ。
数年前から上野ケ丘コミュニティセンターを
活動拠点として介護予防や交流を意識した組織、
グループ、デイ上野ケ丘ゆうゆうクラブの活動が始まったんだ。

毎週火曜日に集まってラジオ体操をして市民憲章を
みかんの花咲く丘のメロディーで歌い、出前講座を受けたり、
手工芸やトランプなど楽しんでいるんだ。

ここは田鶴浜高校があるおかげで、レクリエーションや手話を生徒から習ったり、
また入学式や卒業式には在所でお祝いの看板を立てたりして
交流を大切にしているんだ。
生徒の「おはようございます」の元気で若々しい声が響き、
春にはウグイスの鳴き声も聞こえる、住みよい在所だと思っているんだよ。

まぁの一言

車の人形は桃から生まれた桃太郎
新しく生まれ伝統を築いている在所


第112回 中島町谷内


在所名の由来

二十日祭りの熊甲神社の神、藤津比古神が瀬嵐付近に来臨し、
鎮座地を定めるために矢を放って飛んで来た場所がこの在所の加茂原だったんだ。
矢が落ちた地、やおち、が転じて谷内になったと伝わっているよ。

谷内の歴史

寄もいたほど、昔は沢山のお寺や神社があったんだよ。
万葉集に「香島より熊来をさして漕ぐ船の揖取る間なく都し思ほゆ」と
歌われた熊来とは現在の熊木地区で当時はここがその中心地だったようだね。
中世までは谷内一帯に寺院郡があってね。その名残で山王前、善光寺田、神明、
社家、大門、高札、おぼくさま田、加茂、稲荷などお寺や神社に関する地名が沢山あるよ。
現在も神社の横に観音堂があり能登国観音様霊場の23番札所になっているし、
昔はその観音様の近くにお熊甲祭りの久麻加夫都阿良加志比古神社があったと聞いてるよ。

県道から在所に入り集会所の前を神明と呼んでいるけど、
そこから奥に18軒あって、それがもともとの在所だったんだ。
在所の真ん中を谷内川が流れ、周りを山で囲まれている
この地形は風水では理想郷だと言われているんだ。
そして沢山の神仏のおかげで、この在所は災害が一度も起こっていないんだよ。

一番奥にある滝社から流れる水で目の病気が治るとかつては
多くの人が訪れていたけど、能登縦貫道路(里山海道)が通った時に
移設してから水の勢いが弱まってしまって今は訪れる人もいないようだね。
昔は農林業と大工や左官の職人が多かったよ。

一時期は中島名産の小菊かぼちゃの一大産地となってクラカケという
場所一面かぼちゃ畑になっていたけど、30年くらい前から徐々に生産農家が減り、
露地栽培から立体栽培に変わり今は数人が手がけているだけだよ。

まぁの一言

県道から在所に入ると空気が違う。
風水の理想郷、心穏やかになる在所。


第111回 七尾市江曽


在所名の由来

邑知地溝帯が海だった頃、東側陸地と西側陸地の間でここが
幅約1kmと一番狭いことから交通の要所となり、
昔からエミシと呼ばれる蝦夷(えぞ)が住んでいて、
それでこの地を越蘇(えそ)と呼んだのが始まりで、
古代平安時代に越蘇駅と駅名が記され、中世鎌倉時代には越曽や恵曽になり、
近世江戸時代で江曽になったと聞いているよ。

宿駅

平安京を中心に東西の街道に駅がおかれ、
能登では羽咋のよき(現在余喜)の次がここでね、
室塚さんの総本家の裏に駅があったと伝わっているよ。
江戸時代に交通が活発になり高畠、二宮にも駅が置かれ
宿場町が形成されていくのだけど、江曽はそうならなかったんだ。
江戸時代になって飯川に新しい道が出来、畠山時代までの本道が移ったんだよ。
それで飯川が宿場として栄えたんだよ。
新しい道路が出来ると旧道のほうは廃れるのは今も昔も同じだね(笑)。
そんな歴史があるので、おいで祭りの馬も江曽と飯川を毎年交替で通っていたんだ。
今はルートが変わってどちらも通らないけどね。

江戸時代に木挽き23人と記録があるけど、エソ档(あて)が産物だったんだ。
北前船の帆柱に適していると、かほく市の木津まで大八車に積んで運んだらしいよ。
青柏祭のデカ山の柱も奉灯の角材もすべてエソ档を特注して作っているけど、
江曽の山の地勢と土壌が適していたのとカナ档から独自のエソ档に育て上げてきた先人の努力の賜物なんだよ。
養蚕も盛んだったんだ。
戦争中に繊維不足を補うために、子ども達が養蚕場に集まり
桑の木の枝の皮を剥いで軍服用の繊維にしていたそうだよ。
その養蚕場を昨年12月まで江曽の公民館として使っていたんだ。

これから

新しい公民館の落成式を平成28年12月25日に行ったところだよ。
新たな時代に備え、ここを拠点にして在所が結束していきたいね。
手始めに毎週金曜日の10時から、いきいき100歳体操を始めたよ。
その後に踊りやおはじきなどみんなで楽しんでいるよ。
少子高齢化は進むけど、まず今住んでいる人たちが明るく元気で、助け合って仲良く暮らす。
そして伝承すべき行事ごとを伝え残す。
町会長は2年交代制だから短期決戦で目の前の課題を一つ、一つだよ(笑)。

まぁの一言

移りゆく自然、産業、暮らしの中で、
逞しく生きてきた、古くからの在所。


第110回 中能登町 二宮


在所名の由来

羽咋の気多大社が能登国一宮で、在所の天日陰比咩(あめひかげひめ)神社が
能登国二宮と鎌倉時代に定められたんだ。
それでこの在所が二宮となったと思っている人が多いけど、
本当はそのずーっと前から二宮なんだよ。
天日陰比咩神社の境内に、もう一つ伊須流支比古(いするぎひこ)神社があるんだ。
この二つの神社があるから、この在所を二宮と呼んだんだね
。後に泰澄大師が石動山を開山する時、伊須流支比古神社から
御霊を分霊したんで石動山を上社、こちらを下社とも言ったりもするよ。

宿場町

東往来の宿場町で大きな旅籠が3軒、馬も33頭いたと聞いているよ。
江戸時代に宿駅伝馬制度が定められ各地の街道に宿駅を設けて
その区間ごとに荷物や手紙をリレーして運んだんだ。
そこに人や荷物が集まり宿場となっていくんだね。
両隣の宿駅は江曾と高畠で、二宮の荷役区間は飯川から久江までだったんだ。
当時のトラブルが記された文書を見るといろんな事があったようだよ(笑)。
それと駅伝競走も駅から駅へ伝えるこの制度にちなんで駅伝なんだよ。
ここは石動山の登り口でもあるし、当時は本当に賑わったんだと思うよ。

どぶろく

二宮神社ではどぶろくを造っているんだ。
12月5日の新嘗祭は在所ではどぶろく祭りとも言って新酒を神様にお供えし、
直会(なおらい)でご相伴に預かるんだ(笑)。
どぶろく造りが認められた神社は県内で三社あるけど全部が中能登町にあるんだよ。
区民が自然農法で酒米を作りそれでどぶろくを造るんだ。
それとここは二宮川の豊富な水で恵みを頂いてきた在所だから、
その感謝を忘れないようにと子ども会で田植え、稲刈り、餅つきの行事も行っているんだよ。

これから

町では在所で一人は防災士という方針だけど、
今年は四人にお願いして防災士の試験を受けてもらうんだ。
それと区の山が猪に穴だらけにされているので、間伐して整備しておきたいね。
今年33回を迎える区民運動会、獅子舞も春秋と踊るし、
老若男女が何事も一生懸命に頑張っている姿は頼もしいよ(笑) 

まぁの一言

比咩と比古が鎮座し、神仏のご加護あり。
昔も今も活力ある在所。


第109回 能登島町 無関


在所名の由来

江戸時代に流刑地である島内でここだけ関所が無かったので無関になったという説があるけど、
向田の伊夜比咩神社所蔵の1400年代の古文書で閨・牟関と出てきて、
1500年代の拝殿建立棟札に無関とあるんだ。

流刑は加賀藩が1636年から始めたので、流刑地で関所、だから無関という説はどうなのかなぁ。
それと大和朝廷が後に島八太郎と呼ばれた8人衆を派遣した時、
先住の蝦夷(えぞ)が身の危険を感じて、無関の山に集結して、
ここから船を出し大口瀬戸を抜け越後に逃げたと伝え聞いているんだ。
集結した場所を蝦夷揃いと言い、それが訛ってイスルギと呼んでいる場所があるよ。
この逸話を元に、逃げる事が出来たのは関が無かったからと結び付ける説もあるけど、
在所の年寄りに聞いても本当の所はわからんと言っているよ。

在所の歴史

古老によると、元々ここは長興寺の前に5世帯が住んでいたんだ。
上杉謙信の七尾城攻めの戦乱を受けて中島の長浦から河崎門徒の
10世帯が移ってきて、今の在所が出来て行くんだね。

明治22年には27世帯、181人になっているよ。
県道工事の時に古墳時代の製塩遺跡が出たけど、昭和初期まで揚浜塩田をやっていて、
海岸の奥の田んぼと熊谷さんから5軒は塩田だったと聞いているよ。
無関には二人が流されて来たんだ。流刑者といっても知識人だから、
だんな様と呼んで、字などを習っていたようだよ。
在所の一段高い場所に住んでいて、そこを、
だんな様の高、だんなん高と今でも呼んでいるよ。
その子孫が東京都の副知事になって、戦後先祖を訪ねて来て行ったそうだよ。

昭和30年代からの葉たばこは在所の8割が始めたんだ。
米の倍儲かると言う触れ込みで、確かに一時期は良かったけど、
だんだん合わなくなって皆辞めたんだ。
子供の頃は学校から帰れば蛸つり、夏は水中メガネと網袋を持って
海に飛び込んでサザエを何十個と獲ったもんだよ

無関は全国的に有名な釣スポットでシーズンには太公望が並んでいるよ。
今、小中学生はいないし、青年団も、婦人会も、
老人会も解散しているから、すべての行事は町会でやるけど、
在所といっても班みたいもんだから、冠婚葬祭すべて助け合って生きているんだ。
半分が年寄り世帯だし、行事ごとも無理せんとやっていかんとね。

まぁの一言

小さな在所にいっぱいの歴史。
移ろいに従い、身の丈で暮らす。


第108回 七尾市一本杉町


在所名の由来


二説あってね、一つは小丸山公園の愛宕山に本宮神社があった時代、
そこに大きな一本の杉が立っていたそうだよ。
港に入った船はそれを目印として船着場に着いたそうで、
その一本の杉の袂の通りだったことから一本杉通りと呼ばれていったという説と、
北前船の全盛期、七尾はその寄港地として賑わって豪商の邸宅や遊郭なども立ち並んでいたんだ。
主に七尾からの積荷は、筵や米、日本酒などでね。
当時造り酒屋も二十軒以上あって、新酒の頃には青々とした杉玉が軒先に吊るされ、
杉の酒樽が積まれていたんだ。一本の通りに杉玉と杉樽が並ぶ、それで一本杉という説もあるんだよ。


一本杉通り


小丸山城下の街道で商店の街として発展し、
江戸時代後期には光徳寺が移転して来て門前町としても賑わっていくんだね。

文化の日に一本杉に露店が並ぶのは光徳寺の報恩講の大市なんだよ。
昭和42年に小丸山公園下にバイパスが出来るまでは軒先ギリギリにバスも通っていて、
本当に賑やかな通りだったんだよ。
昭和43年にいとはん、49年にユニーが出店してから人の流れが大きく変わってしまったんだね。


花嫁のれん


一時の勢いを失ったけど町会も振興会も復活を願う気運が高まってね。
まず歴史的建造物が多い事に着目して、平成16年に能登で初めて国の登録有形文化財の申請をし、
勝本邸、お茶の北島屋、万年筆の旧上野啓文堂、鳥居醤油店、高澤ろうそく店が登録されたんだ。

450mの通りに5軒、それも使用されている。こんな所はないんだよ。
次に立ち上がったのが町内の女将さんグループでね、花嫁のれん展を提案してくれたんだ。
初回から想像を超えて人が来たのでビックリしたよ。これで町内も活気づいたんだね。

翌年から花嫁道中を行い、だんだん評判になって全国から視察や観光客が訪れるようになったんだ。
それでお店には語り部処の看板を掲げ、訪れた人が気軽にお店に入って
一本杉や花嫁のれんの事を聞けるようにしたんだね。
昨年花嫁のれん館が完成し沢山の人が訪れているけど、多くの人が尽力してくれたお陰だね。


まぁの一言


母が持たせてくれた一枚の暖簾。
それぞれの人生が宿っている。


第107回 中能登町春木


町名の由来


平安時代、春枝王(はるえおう)又は(はるきおう)とも呼ばれる皇族が
能登国の19代国司として中央政府より派遣され、
この在所に館をおいて住んでいたんだよ。
その名前から春木になったという言い伝えがあるんだ。
この春枝王によって七尾に能登国分寺が出来たんだ。


春木の歴史


原始時代から中世までの遺跡が9ヶ所あり、昔からずーっと人が住んでいたんだね。
昭和30年に田んぼの中から珠洲焼きの甕(かめ)が大量に見つかって、
千年前の中国、宗の時代の古銭が6万枚も入っていたんだ。

在所にはため池が9個あり、田んぼの水を賄っているけど豊富な水は春木の悲願だったんだ。
江戸時代、八郎兵衛と三郎右エ門の二人の肝煎り(世話役)が
渓谷の山水を集めて池に入れるための隧道を掘ったんだ。
一番大きな新池はその時に作られた池で今でも枯れる事がないんだよ。
隧道は明治、大正、昭和と何度も崩落と修復を繰り返して来たんだ。
総延長1.8kmもあるそうだよ。子供の頃その隧道の中に入って遊んだこともあったけど、
江戸時代に燈明を灯し手で掘っていったと思うと、先人の苦労を忘れちゃいけないね。
産業は織物と瓦が盛んだったんだ。

明治から大正にかけて絹や麻を織り、昭和には合成繊維で東北からの
集団就職も受け入れ賑やかだったけど今は2軒だけだよ。
瓦も原料のしめ粘土が近くの山から採掘され大正から
昭和にかけて繁盛し瓦工場も7ヶ所あったんだ。
それと肥田電気の本社もあって何かと力添え頂いているよ。

昭和20年に軍需工場の強制疎開で大阪から来て根を下ろしたんだ。
今、在所では定年後の人たちで春木保存の会、里山を守る会を立ち上げて
県道や河川の草取や山の手入れをしたり、圃場整備した田んぼを守るため農業法人も立ち上げたんだ。
春と秋の祭りには、どちらか晴れた日に獅子舞を出す事にしてるんだよ。(笑)

「春木区」として地縁団体の登記をし、自治会規約も作ってあるけど、
高齢化が進む中、将来に向けてもうひとつ考えていかんとならん時代になってきたね。


まぁの一言


連綿と続く人の営み、悠久の歴史を感じる在所。
時代を生き抜く力強さ。人間ってすごい。


第106回 七尾市麻生町


在所名の由来


読んで字のごとく、昔は麻が良く生えていた場所だったそうだよ。
それで麻生となったと聞いているよ。


昔の在所


七尾城と灘浦を結ぶ中間地点で標高も298mあり、
見張りをするのに重要な場所だったことから人が住むようになったんだね。
佐々波で獲れたブリをお城に運ぶ道が通り、その中継地になっていくんだ。
在所で一番古い家が因幡さんで先祖は畠山の足軽だったそうだよ。
この辺の山間の在所はほとんど戦国時代の上杉や前田の家来か、
石動山から来た人たちがルーツのようだね。
こんな山の中だけど八幡川が流れ粘土質の田んぼが30丁部もあって生活の基盤はあったんだね。
ここの米は水もきれいでほんと美味いよ。

戦後は石炭の一種、亜炭の採掘が行われていたけど徳政組はここからスタートしているんだ。
世帯数は明治時代が13世帯で10年前までも
12世帯だったけど、人口がどんどん減ってしまってね。
明治で100人、私が子供の頃でも60人はいたんだ。
そんな時代は若い女の人は冬になると和歌山県へミカンもぎに行っていたよ。


現在の在所


平成10年に麻生山菜加工組合を作って、
山菜の漬物や炊込みご飯などを和倉の朝市や食祭市場、道の駅などで販売しているんだ。
主力商品は大根、かたは、きゅうりの糠漬で、
1年寝かせたずいきも珍しかったのか良く売れたよ。
かきもちは大寒に入ってから作るんだ。
過疎化していく在所の中に働ける場所があるということは有難い事だよ。
みんなが結束していけるからね。
ここは小さい在所ゆえにみんなで助け合ってやってきたんだ。

全世帯が黒崎の長正寺門徒だし、私の家も昔は大家族主義で
分家を出さず同じ家で暮らしていたと言うし、本当に団結力の強い在所だよ。
若い人は街へ出て暮らしているけど、祭りやお寺の行事、在所事には集まってもらうんだ。
今のところ獅子舞も出しているけど、次の世代になったときが心配だね。

在所の上を能越道が通って車の音が聞こえるようになったけど、
どうやって在所を存続させるか、若い人が定住できるのか、考えていかなならんね。


まぁの一言


道沿いに吊るした大根と炭焼小屋。
小径に黄色い落葉、郷愁を覚える。


第105回 田鶴浜白浜町


町名の由来


在所の海岸に黒岩と書いて「くるわ」と呼んでいる船着場があるんだ。
そこへ行くと黒くて大きな溶岩みたいな岩があるけど、
在所の神社の鳥居の前にも同じ大きい黒い岩があるんだ。
その間の距離が約500mあってね、実は地中でこの岩がずーと
直線でつながっていると伝わっているよ。
これが何を意味するかというと、在所の氏神、
白比古の神は石船に乗って黒岩に来臨し神社に入ったんだけど、
その石船が通った跡ともその石船だとも言われているんだ。
白比古の白、黒岩の浜、古文書や在所に伝わる話からすると、
どうもそんな神社の縁起が白浜の由来のようだよ。


昔の在所


特産として江戸時代にはみかんの生産が盛んだったんだ。
みかん祭りまでしていたというからね。
みかんと言っても青い密柑で、越中の修験者が持参したものを栽培したのが始まりで、
杉森町で作った竹籠に入れて金沢へ運んだり、
越中富山の薬の材料として白浜の港から小船で運んでいたと聞いているよ。

それと明治時代に大津潟を埋めて干拓事業を行っているんだ。
湾岸道路の 明治橋もその名の通りその時に架けられたんだね。


現在の在所


能登三十三観音霊場の二十二番札所、
白浜牛ヶ鼻観音堂に祀られている十一面観世音菩薩は、
三十三年に一回の御開帳で今年がちょうどその年だったんだ。
在所で奉賛会を立ち上げて厳かの中にも盛大に執り行うことが出来てホッとしたよ。
長谷部信連の子孫がここに祀ったのが始まりなんだ。
だから穴水の長谷部神社と同じ銭九曜の神紋だよ。

秋祭りは中島の熊甲祭と同じ枠旗祭なんだ。
田鶴浜では大津、深見、白浜が枠旗を出してるよ。
昔は白浜だけで、三本の枠旗を出したけど、
今は少子高齢化で一本だけど、隣の深見と合同で祭りを行って伝統を守っているんだ。 
ほ場整備に合わせて農業法人を立上げ準備中だよ。
先祖からの農地を荒らさないで繋いでいかんとね。

これから、どんな時代になるかわからんけど、足元に眠っている宝物を見つけて、
出来る事を一つ一つ、全力投球でやっていかんとね。


まぁの一言


岩船と十一面観世音菩薩。
伝説と歴史の在所。


第104回 中能登町久江


町名の由来


在所の山には三筋の谷があり、昔からよく地すべりが発生していてね、
崩れる山、くえる山、が転じて 「くえ」になったという説と、
もう一つは氏神様の 名前からだよ。
在所の久氐(くえ)比古神社の久延毘古神(くえびこのかみ)は古事記に出てくる神でね、
国造りをした大国主命に知恵を授けた物知りの案山子(かかし)が実は足が悪い学問の神でね、
それが久江の守り神なんだ。
この神様を主祭神としているのは日本中でここだけだよ。


昔の在所


この在所は山100丁部、農地100丁部と言われ、農林業と織物が盛んでね。
旧久江小学校の玄関は区の山の木を使ったんだ。
山には明神滝、桃ヶ滝、火乃谷滝と久江の三名滝があり、
豊富な水のお陰で田一坪から1升3合の米が採れて通常の3割増しだよ。
江戸時代には能登上布が織られ、明治に絹織物、昭和10年から合成繊維に変って
昭和60年頃には機場は40軒あったね。  

昔は百瀬川の桜が近郷唯一の名所で、
七尾や羽咋から薪が燃料のバスに乗って沢山の人が花見に来たんだ。
桃瀬川の改修工事で桜を切ってしまい、川の名前も久江川と変わったんだ。
道閑(どうかん)の話もしないとね。
加賀藩の中で鹿島半郡(はんごうり)は長連頼の所領で
ここだけ検地してなかったんだ。
検地の動きが出た時、道閑は十村(とむら)役と言って、
鹿島半群の庄屋の頭で、検地で年貢が上がると農民が
苦しむと反対したら捕らえられて磔の刑にされ、三人の息子も打首になったんだ。
「おいたわしや、とこやちの道閑様は、七十五村の身代わりに」と歌が伝わり、
在所には道閑公園を整備して偲んでいるんだよ。


現在の在所


移住者や交流人口を増やそうと農村ボランティア
を募って各地の登録者に年3回在所に来てもらい草むしりや
区民との交流を通じて久江を発信しているよ。

それと10年前から、まんぞう(万雑)の金額を自己申告制にしたんだ。
不動産、所得や年齢など考慮した算定基準を作り自分で計算してもらんだ。
そしたら収納率が80%から98%に上がったよ。
時代の変わり目だから在所の運営も色々手を打たんとね。


まぁの一言


案山子、道閑、百瀬川、
物語がいっぱい、久江の在所。