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第103回 七尾市半浦


町名の由来


昔は飯浦と書いて、「はんのうら」と呼んでいたそうだよ。
明治22年から現在の半浦に変わったんだ。
何で飯浦だったかというとね、本土から能登島に飯米を運んだ
浦だったからだという説と、隣在所の閨の鴫島で修業していた臥せの行者に
飯を運んだからだという説が伝わっているよ。


昔の在所


明治から昭和初期までリン鉱石の採掘を行っていたんだ。
現在の半浦港がその採掘跡でね、海底がすり鉢状になっているんだ。
港を囲む堤防は当時のままだよ。
日本はリン鉱石をほとんど輸入しているというから、珍しい鉱物が出ていたんだね。
私が子供の頃は、百姓が大多数で、刺網、蛸壺、
なまこ等の漁業、石切り場もあって、切り出した石を伝馬船で運んでいたね。
私の祖父さんも石切り場をやっていたんだけど、
田鶴浜三引の赤蔵神社の石段は半浦から運んだ石だと聞いてるよ。


現在の在所


在所の妙万寺は23代続く古いお寺でね、在所の全世帯が門徒なんだ。
それと古くからの風習で兄弟分や
烏帽子(よぼし)親子の契りを交わしている人が多い在所だね。
そんな絆があるから団結力の強い在所なんだと思うよ。

能登島の運動会や、いろんな作業ごとも含めて、
やらなければならないことは、みんな協力してやってくれるので心強いね。
在所の柴山神社は伊勢系列でね、年4回のお祭りの祈年祭、
春と秋の祭り、それと新嘗祭には五穀の5品と海の物1品、
酒二升に赤飯を神社にお供えして在所みんなでお参りをしているよ。
特に秋祭りは獅子舞のほかに馬踊りがあるよ。
かつては能登島の三つの在所で馬踊りがあったそうだけど、
今は半浦だけに残っているんだ。

能登島大橋の橋口から西湾に面した海岸線だけでも
5キロ以上あって、和倉や能登島大橋が見えて風景も良いし、
空気も良いので、佐原病院のビハーラの里や、
特別養護老人ホーの悠々ホームが建っているし、
最近は介護付き有料老人ホームも建ったね。

自然の中、のんびりとした空気は、人が暮らすには良い所だよ。(笑)


まぁの一言


対岸に和倉温泉を望み、喧騒を離れた海辺を歩く。
人と自然と人。遠き古えを想い人生を考える。


102回 中島町土川


町名の由来


昭和60年頃ほ場整備した時、田んぼから石ころが一杯でてきたよ。
山間を日用川に沿って4キロに延びる在所だけど川が氾濫していたんだろうね。
そんな川だから雨が降るたびに土砂で泥水になって流れていたらしいよ。
それでこの在所を土の川、土川と呼ぶようになったという説があるよ。


昔の在所


田畑と山仕事でこれと言った産業は無いけど、
「土川名物、これ無けれど、堂伽藍七つ、これ名所」という歌があってね。

土川にはお寺が三つ、神社が四つあったんだ。
今は一つずつになっているけど、荒屋神社では9月23日に甘酒祭をするよ。
これは合祀した四つの神社の中に天満宮があって菅原道真を祭っていたんだ。
菅原道真は幼少すでに母がなく甘酒で育ったという縁起話なんだ。
在所に麹屋があった頃は祭り時期になると全世帯で甘酒を作っていたけど、
今は麹を注文して13軒が作ってお供えしとるよ。
どぶろくになる前で本当に甘いんだ。

秋祭りは六保祭に出とるけど、昔は熊甲祭に出とったらしいよ。
明治以前の話だけど土川は久麻加夫都阿良加志比古神社の氏子だったんだ。
そこの神社の娘が豊田町の日吉神社へ嫁いだとき
土川を付け氏子として持たせたんだね。信仰心の厚い在所でね。
二つのお寺は豊田と笠師へ移ってしまって、在所では忍性寺だけになったけど、
集会所にも仏壇を作ってあるよ。
相続講、見真大師講の他、少し前までは頼母子講、二文講もあったんだ。
在所の年寄りが子供の頃、講が終わると持ち寄った煮物を食べるから、
にもん講だと思っていたらお金を二文持ち寄って本山護持に務めていた講だったと笑っていたよ。


これから


老人会がスカットボールを月一回、
民生委員がお世話して老人会の女性で作るすみれ会が
健康体操やものづくりを週一回とみんなが集まる場を設けて活動しているよ。
青年団員も少なくなり、壮年団員も高齢化していくので、
10年前から燦燦(さんさん)会を作って
年齢に関係なく集まって在所の行事ごとをやるんだ。

小子化はどうしようもなくて在所の祭りに獅子舞が出せない状況だよ。
それで豊川公民館で保存会を作って、
地区全域から集まった子供達に土川の人が指導して、
秋の六保祭の獅子舞を出しているんだ。

時代の変化に合わせて、あり方も変えていかないと
伝統を守ることは難しくなってきたね。


まぁの一言


田を耕し信仰を大切にした暮らし。
素朴な中に独自の風習と文化がある在所。


101回 七尾市鍛治町


町名の由来


小丸山城下は、御祓川を挟んで西を商人の町、
東を職人の町として形成されているんだね。
鍛治町は東側の鍛冶職人が住んだ町だったから
鍛治町、そのまんまだよ。(笑)


昔の在所


明治31年、本府中町に七尾駅が出来て川原町交差点が玄関口となり川原町、
鍛治町がメインストリートとなって多くの商店や旅館が並んだんだ。
大正14年に七尾駅が現在の場所に移って人の流れが変ってしまい、
鍛治町にあった商店が何件も大手町に移っていったんだ。

町内は大町(おおちょう)と金井町(かないちょう)と二つの地区があって、
大町は市内に入る街道筋で大店(おおだな)が並んでいた通りで
金井町は鍛冶職人が住んでいて一本奥の筋通りなんだ。
なぜ金井町かと言うと鍛冶屋は火と水を使って仕事をするんだけど、
ここは井戸を掘ると豊富に水が出たんだ。
この通りの全戸に井戸があったよ。
井戸のおかげで鍛冶仕事も出来て生業が立ちお金になった。
だから金井町と呼んだと古老から聞いているよ。


デカ山


青柏祭の山町としての責任を感じているんだ。
伝統があるだけに様々なしきたりがあり、
一年中デカ山のことが頭から離れないよ。
維持や準備など一年がかりでね。
山車の組立は釘を使わず藤つるで縛るけど
柳田まで行って地中を這っているのを採ってくるんだ。
水分を含んだつるで無いと切れるんだよ。
むしろ編みは3月から始めるし、
組み立ても土日、土日と続けていくんだ。
昔は矢田の在所の人で組立を専門にする人たちが
いたけど高齢化したのと、クレーン車など機械化したことで、
今は連町のデカ山好きな人たちが集まって
本当に一生懸命やってもらってるよ。
デカ山保存会の力無くしてデカ山は運行出来ないんだよ。


これから


少子高齢化が進み昔と同じ町会運営は出来ないけど何とかしないとね。
それで「町内再発見と輝きへ(伝統と革新)ワクワク探し事業」と
いうことを提唱し、まず足元の情報を共有するため
鍛治町相互通信紙を発行して意見の場作りを行い、
今をどう暮らし、将来どんな町内を目指すのか
皆で考えたいと思っているんだ。


かなこの一言


デカ山を操る鍛冶職人の心意気が今でも漂う町
往年の賑わいが目に浮かぶ


第100回 中能登町芹川


在所名の由来


鹿島小学校近くの勝山地区が元村で濁川付近が出村なんだ。
いつの頃か年貢米の他に特産物も税として収めることになり考えたのがセリだったんだ。
ここは石動山の扇状地で水が豊富で良いセリが採れたんだよ。
それが評判になってこんな美味しいセリが川沿いに沢山出来るんなら、
村の名前をいっそのこと芹川にしたらどうかとなったらしいよ。


芹川の歴史


歴史に重要な勝山城と荒山城があるよ。
七尾城の内紛で重臣温井継宗が勝山城に入り3年間鹿島、羽咋一帯を支配したんだ。
ここは越中に抜ける道であり邑知平野を見渡す戦略上の場所なんだ。
畠山の後、前田利家が能登に入ったとき、越中の佐々成政が7
勝山城に攻め込んで城を奪い袋井隼人に城を任せるんだ。
それを奪い返すため利家の兄、安勝が攻めるけども落ちない。
その後、末森城の合戦の後、もう一度勝山城を攻めて奪い返すんだ。
芹川に袋井姓が多いのもそんな歴史があるんだね。荒山城も歴史があるよ。

信長が明智光秀に討たれたとの報で、石動山の衆徒山伏が天平寺の支配地を
信長によって減らされていたので、今こそと前田利家に反乱を起こすんだ。
死んだ後の法要を生前に済ませ板碑を立て荒山城に立籠もるんだ。
利家はそれを打ち破り360もの寺を焼き打ちにして衆徒の首を並べたというよ
一向一揆を警戒していたので、能登の一大勢力石動山を壊滅させて見せつけたんだろうね。
実は和平派の70ヶ寺が七尾の伊掛山へ逃れていたんだ。

それが利家にすがって石動山を復興し明治時代には
58ヶ寺あったんだが神仏分離令により瓦解したんだよ。


在所の取組


青壮年会の「よらん会」が「あちゃちゃの用心」を復活させたんだ。
江戸時代に火遊びで男の子が二人亡くなったんだ。
二度と無いようにと当時の村人が知恵を絞ったんだろうね。
お盆に男の子だけでお地蔵様の周りを「あっちゃちゃの用心!火の用心!」
と拍子木を叩いて回り慰霊と戒めを始めたんだ。
戦後途絶えていたんだけど、よらん会が子どもの思い出作りと
区民の融和をということで今は女の子も大人も参加してやるんだよ。


まぁの一言


戦国時代は地元でも大変な事が起こっていたんですね。
先祖のご苦労と、今の平和に改めて感謝します。


第99回 七尾市佐味町


在所名の由来


由来は古老に聞いても分からないんだ。
寛文10年9月7日の書状には能州能登郡佐味村と書かれているので、
江戸の四代将軍徳川家綱の頃には佐味だったことは確かだけどね。


佐味の歴史


寛文10年の書状とは「村御印」と言って加賀藩からの
年貢の割り当てなどが書かれた文書なんだ。
佐味村は910石の年貢が決められているよ。
この書状を町会長が大切に保管するんだ。

佐味では1期2年で町会長が変るんだけど、
2月の引継ぎの時に新町会長は家の床の間にこの書状を開き、
尾頭付きの鯛と鏡餅をお供えして、歴代町会長はじめ新旧の役員を御招待するんだ。
年貢の割り当てのほかに、藩から村への貸米が60石あり
その利息の12石を免除したと記されたので嬉しかったんじゃないかな。

国道に臼池というバス停があるけど、ここが在所の入り口だったんだ。
ここに鉱泉が出て2軒の旅館があったんだ。
その裏は遠浅の砂浜で松林が続き風光明媚な海岸で七尾の海水浴場だったんだよ。
ここでよく蛸とりもしたね。夜カーバイトを持って海に入ると蛸が足にまるかってくるほど獲れたよ。
大人たちはお盆になると牛や馬を海岸に連れて行って洗っていたなぁ。
なんか懐かしいよ。今は貯木場になって面影は無いけどね。

県道百海七尾線の佐味町地内の山に縁結びの地蔵さんがあって、
そこから佐味の在所に下りる山道を嫁坂と呼んでいるんだ。
柑子町や庵町から佐味に嫁いでいる人が多いんだけど
昔はこの坂道を花嫁道中して来たんだろうね。


在所の取組


万行小学校が佐味町に引っ越して東湊小学校になったんだ。
私はその時の1年生だよ(笑)
海と田んぼが埋立されていろんな企業が入って来たし
、団地も出来て家も増えていったんだ。

上出、下出、今田地区には神社があって昔からの祭りをするんだけど、
在所の人がみんなが集まる場として7月に納涼祭を行うんだ。
出し物も毎年企画してね。今年も民謡、太鼓、バザー、花火など行ったよ。

正月は東湊分団の出初式を行い在所でも
年2回は防災訓練をするけど、私も消防団員なので力も入るよ。(笑)


まぁの一言


伝統を重んじる在所に子供達の声が響く。
縁結びのお地蔵様にそっとお参り。


第98回 七尾市中島町筆染


在所名の由来


在所の古老によると万葉集を編集した大伴家持が
この地を訪れた時に詠んだ歌に「筆染の沖に浮かべたる机島」というのがあって、
少なくとも奈良時代には筆染という名前があったということなんだ。
机島は在所の沖に浮かぶ島でね、そこには大きな平べったい石があって硯石(すずりいし)と呼ばれているんだ。
その硯石で筆を染めたという話が伝わっているのが由来かもしれんね。


昔の暮らし


海岸まで干拓した田んぼが広がり、海では刺し網、
はえ縄、蛸ガメなどでなんとか暮らしていけたそうだよ。
そんな環境だからか職人が一人もいない在所なんだ。

80年程前に私の本家のじいさんが奥原から牡蠣の養殖を
習ってきて筆染でも盛んになったんだ。
一時は海苔の養殖もしたりして、在所の半分が牡蠣貝の養殖しとったけど、
今は6軒になったね。
それと在所を通る道路が国道だったんだ。
まだ砂利道だったよ。そんな道路を観光バスがよく通っていてね、
よく家の前にバスを止めてはトイレを貸してくれと入って来ていたのを覚えとるよ。
在所にもジュースなどを売っている商店が2軒あったしね。

昭和33年に天皇陛下が能登にお越しになられたとき中島駅前からの
バイパスが突貫工事で作られて国道が移ったんだ。
おかげで今では静か通りになっているよ。


六保の祭り


豊川地区の日吉神社の大きな祭りで7月のおすずみと9月の枠旗があるけど、
そこに笠師地区の筆染が参加しているんだ。いろんな背景があったんだろうね。
能登半島の各地のキリコ祭りが、昨年文化庁の日本遺産に認定されたんだ。
六保のおすずみも拝殿での神事は奥ゆかしいもんだよ。

筆染にとっては夏と秋のこの祭りが最大の行事なんだけど、
小さな在所なんで人足にも苦労しているんだ。
昔は女の子は祭りに参加しない風習があったけど、
そんなこと言っていられなくなってね、
中島町で一番最初に女の子に鳴り物をさせたんだ。
今ではどこの在所でも女の子が参加するようになってきたけどね。

それと小さい在所は「え」を結んで人足を確保するんだ。
筆染は長浦と協力しあっているよ。
おかげで秋には六保祭と熊甲祭と2回祭りしているよ。(笑)
町会長も1期2年を順番に廻しているんだけど、
世帯が少ないだけに結び付きが強く何事もみんなで協力してやっているんだよ。


まぁの一言


丘の上の神社から眺める七尾西湾。
そこに種ヶ島と机島が見えた。
万葉の里を感じます。


第97回 中能登町良川


在所名の由来


ここは地勢的に邑知潟から続く湿地帯だったんだね。
幾筋もの川が流れ葦(ヨシ)が生え葦原が広がっていたんだ。
それで良川となったと言われているよ。


良川の歴史


古くは旧街道沿いの地頭地区、北地区が発達していくんだけど、
明治31年に鉄道が敷かれ明治34年に良川駅が出来たことで駅周辺の沖地区が発達していくんだ。
この3地区にそれぞれ集会所があり、青年団、壮年団、
婦人会があって独立した自治活動を行っているんだ。
昔は繊維の町で鳥屋だけで大小約350軒の工場があったんだ。
在所のほとんどの人が繊維に関わっていて賑わいがあったよ。
商店も40軒程あったしね。

それが昭和49年の第一次オイルショックで繊維不況が始まり、
車社会の発達で駅前も衰退していくんだけど、
幸いにも良川では平成4年から10年にかけて住環境整備事業として
国から補助を受け土地改良や道水路の改修、
公園や公共施設の建設など環境が整えられ、
更に平成9年、15年、26年と3ヶ所に宅地が造成されていったんだ。
おかげで新しい人が住んでくれて人口は減っていないんだ。


在所の自慢


良川の白比古神社は郷土史の大学教授からも評価されるほど
規模も材質も立派なものだよ。丸柱で総欅造りなんだ。
昭和10年から15年間かけて改新築したんだけど、
こんな立派な神社を建立した在所の先輩方の心意気は受け継いでいかないとね。

獅子舞は春と秋、年2回出しているよ。
地頭、北、沖の3地区が1年毎に輪番で取り仕切るんだけど、
在所が広く延長8キロ、辻祭りだけで22箇所あり御招待は受けないのが伝統なんだ。
今年の盆踊りには450人程集まってくれたけど、
古い人も新しい人も仲良く暮らしている在所だと思うね。
在所の気質として封建的な縛りが弱いと言うか、
都会的な感覚でしがらみが無いので若い人が棲みやすいんだと思うね。
そんな人たちが在所のボランティア活動に積極的に
出てくれるし本当に有難いと思っているんだ。

気にかかっていることは未整備の田んぼがあるけど、
耕作している人は高齢者が多いので、
次世代の担い手のためにも手を打っておきたいんだけどね。


まぁの一言


百聞は一見にしかずとはこのことです。
4月と10月の第3土曜日がお祭りです。
一見の価値あります。


第96回 能登島二穴町


在所名の由来


在所の海岸の絶壁に二つの大きな洞窟があるんだ。
海からでないと見えないけどね。
大きい穴を日穴(ひいあな)、
小さい穴は月穴(つきあな)と呼んどるよ。
それでこの在所は二穴なんだね。


在所の歴史


二穴城という七尾城の出城があったんだ。
七尾の港に入る船がここ小口瀬戸を通るので、
船を監視するのに良い場所なんだね。
室町時代に畠山氏が築き、後に前田利家が家臣を配して、結構な構えだったようだよ。
その隣は佐波の免屋(めんにゃ)という深い入江なんだけど、一部を埋めて田んぼにしたんだ。
それで長島という大きな島が陸続きになったと聞いているよ。
対岸の三室町が目と鼻の先で免屋の田んぼに三室の人が舟に牛を乗せて来て耕していたよ。

二穴の人と一緒に田んぼするうちに、お互い嫁様を貰ったり、
嫁がせたりしてね、私の親の世代の人たちはそこを縁つなぎの田んぼと呼んでいたよ。
私の母親も三室から来ているんだ。在所の集会所は昔の野崎小学校二穴冬季分校だったんだ。
1年生から4年生まで3月期だけの分校でね。野崎まで4キロ、冬の山道は小さい子には大変だったんだね。


子どもの頃


青柏祭、港まつり、明治節、そして寺参りに七尾へ行くのが楽しみだったなぁ。
定期船が一日一往復していてね。
穴水の甲を出た船が鰀目、野崎、日出ヶ島と
魚箱を積んで二穴には8時半か9時頃に来て七尾へ行くんだよ。
ゴムの短靴を裸足ではいてね。東島丸、藤丸、崎山丸があって、
今日はどの船が来るんかなぁと待ったもんだよ。

島の人はたいがい七尾の親戚縁者を頼って府中町か湊町に宿を持っていていたんだ。
大橋が出来てからは泊まる事ないけど、そんな関係で今でも秋に新米を届けているよ。
大橋の料金が往復1700円だったけど、フェリーが片道850円だったからそれに合わせたんだね。
ここの全世帯が七尾の長福寺の門徒でね。
1年に数回七尾へ行くことが楽しみだったから、親と一緒のお寺参りも嬉しかったよ。
おかげで信心深い人が多いね。(笑)

少子高齢化が進んだけど、秋祭りだけは野暮とヤンチャでやっているよ。
獅子舞は女の子にも踊ってもらってね。
重点事業は猪対策の電気柵設置が今年も続くよ。


まぁの一言


二つの穴、初めて見ることが出来ました。
穴の奥底は輪島まで通じ、神の力が宿って
いると伝わっています。


第95回 七尾市三引町


町名の由来


在所には60町歩の田んぼがあるけど、
その水は昔から平沢、御手洗池(みたらしいけ)、
杉の堂という三ヶ所の水源から引いているんだ。
それで三引となったらしいよ。
どれも湧き水なので枯れたことが無く、
干ばつの時でも水不足になったことないよ。


在所の歴史


平成6年高田インターから、のと里山海道への道路をつけるとき
発見された三引遺跡は、約6千年前の縄文時代から江戸時代にかけて
暮らしていた遺跡だとわかったんだ。
貝塚から漆塗りの櫛が発見されたけど、日本最古のものだそうだよ。
古くから人が住んでいたんだね。

それと何と言っても、ここは赤蔵山の歴史を背負っている在所だよ。
地元では御前山とも呼んでいるけど、奈良時代に聖武天皇が開いたと言われ、
120もの坊があるお寺で修業の場だったんだ。
歴史上二度の戦乱に巻き込まれてね。南北朝時代の足利尊氏の戦乱と、
上杉謙信の七尾城攻めで全て焼失したんだ。
それを長連龍が再興するんだけど明治の神仏分離と一村一社令によって
多くの建造物がなくなったんだね。
そうして残ったのが今の赤蔵神社なんだ。
鳥居から参道を進むとお寺の仁王門があって、
拝殿はお寺の講堂を移築したもので、当時の趣が伝わるよ。

17年に一度の御開帳には、神社の境内に特設舞台を作って壮年団が歌舞伎を奉納しているんだ。
その年の団長は大変だよ(笑)


在所の自慢


全国名水百選に選ばれた御手洗池があるけど、
昔、近くにあさ池という池があって、
その池で尼さんが腰巻を洗ったら神様が怒って水が無くなったんだ。
それでこの御手洗池を新たに作ったという話しも伝わっているよ。
水深20cmと浅いんだけど、何百年も前に谷を埋めて出来ているので
底無し池だとも言われているよ。

それと三引はジジ面とババ面が踊る珍しい獅子舞なんだ。
越中獅子が伝わったと聞いていたが、富山県の関係者によるとこんな踊りは無いと言うんだ。
武術の基本が必要な踊りなので赤蔵山文化の中で変形したのかもしれんね。
何だかんだ言っても昔も今も赤蔵山の恵で暮らしている在所だよ。


かなこの一言


赤蔵山の歴史、文化、伝統が息づく在所。
10月9日、三引の獅子舞、見に行きます。


第94回 七尾市中島町北免田


町名の由来


免田とは、租税が免除された田んぼのことだけど、
この在所の田んぼが免租田だったという記録はないんだ。

永禄2年、1559年9月25日付けの釶打熊野権現奉加札に、
一斗、釶打免田村よりと書かれているので、戦国時代には間違いなく免田村だったんだね。
それがなんで北免田になったかというと、明治時代に郡制が施行されて釶打が羽咋郡となったんだ。
そしたら旧押水町にも免田があって、同じ郡に同じ村名があることになり、
こちらが北にあるから北免田となったんだね。明治16年のことだよ。


在所の歴史


郡への編入運動が始まるんだ。
それは羽咋の郡役所に出かけるにしても、峠を超え、
富来に出て、そこから更に羽咋まで行かないとならない。
不便と言うより大変だったんだね。
地形的に見るとあきらかに鹿島郡なのにね。
ようやく鹿島郡に編入できたのは、昭和23年の大合併のときなんだ。

明治、大正、昭和の 年間ずーと編入運動を続けていたというから、
やっと念願叶ったときはどんなに嬉しかったことかと思うね。
この在所には峨山道が通っているんだよ。
峨山往来とも言ってね、羽咋の永光(ようこう)寺から門前の総持寺まで、
13里というから約52kmの山道なんだ。

鎌倉時代、総持寺の二租、峨山韶碩(がざんしょうせき)禅師が、
永光寺の住職を兼務することになり、早朝に永光寺で朝のお勤めをして、
それから総持寺の朝のお勤めに間に合うようにと20年以上往復したと伝わっているよ。


昔と今


私の同級生だけで9人いたよ。
ここは耕地整理が早かったんだけど、そのトロッコがあってよく遊んだなぁ
竹でソリやスキーを手作りし、免田川が熊木川に合流する関で泳いだりと、
自然の中で遊んでいたね。

最近は少子高齢化が進み、在所の行事ごとが難しくなってくるね。
それでも先日も地区の社会体育大会で優勝したんだよ。
縄縫い競争で点を稼いでね(笑)こんな種目は年寄りの得意とするところだからね。
在所の事も老若男女、適材適所で協力してやっていくということだよ。


かなこの一言


県道を曲がり在所に入る。自然に囲まれた
里山の暮し。静かな時間と空間。
取材中につばめが家に入ってきた。


第93回 七尾市千野町


町名の由来


この地に棲む大蛇を退治した時、
その大蛇の血で野原が血の海になった。血の野原が転じて千野。
もう一つは、この地にアイヌが住んでいて、
日ごろ闘争に明け暮れしているので、血の雨が降ってきたと言う。
どちらも赤い血が関係しているけど、確かに赤土が多い在所なんだよ。
千野の竹の子がおいしいのはこの赤土のおかげなんだけどね。


千野の竹の子


在所の中心部は竹やぶの中に農家が点在しているって感じだよ。
在所の円山病院の先生が調べてくれたんだけど、
竹の子の孟宗竹は薩摩の島津藩に中国から伝わったのが最初らしいよ。
そこから全国に広がっていくんだけど、加賀藩では金沢の別所、
七尾の千野、氷見の宮田に根付いていくんだ。
赤土が竹の子に適していたんだろうけど、
どれだけの年月の中で産地として集約されていったものか歴史を感じるね。
昔は風呂敷に竹の子をいれて町まで売りに行っていたし、
私も子供の頃には作事町へ自転車で運ぶ準備の手伝いをしたもんだよ。


在所の歴史


この在所は分家したとき本家と違う姓を名乗った時代があったんだ。
私の家の前に大きな松があったけど、それで松下を名乗ったんだろうね。
本家は円山なんだけどね(笑)理由はよくわかっていないんだ。
それと大正初期に千野の大火があって在所が焼けたんだ。
竹がパーン、パーンと大きな音を出して焼ける音が鳥屋まで聞こえたと言うよ。

それと大昭寺と呼んでいる場所があるけど、
どうも国分尼寺ではないかと言われているよ。
確かにその前の田んぼを堂の前と呼んでいるし、
国分寺とも近いから尼寺があっても不思議でないと思うよ。


在所の取組


在所の広報誌を、昭和30年から発行しているけど、
61年間、毎月発行してきたことは凄いことだと思っているよ。
千野町公民館編集委員が毎月2回編集会議をして発行しているんだ。
行事案内や在所のことが幅広く書かれて読み応えがあるんだ。
高齢化進んでいる一方で団地もあって子供も多い在所なんだ。
小学校の合併による通学路や営農のことが今後の課題だね。


かなこの一言


在所を歩くと竹林が続く。
いい空気が流れている。出会った人は、
みんな笑顔。小さな筍、見つけた。


第92回 七尾市大手町


在所名の由来


江戸城も金沢城も、正面玄関口に通じる表門を大手門と呼び、
その周辺が大手町となっているところをみると、
このあたりが小丸山城の正面玄関口で大手門でもあったのかなぁ。
でも本当の所はよくわからないんだよ。


昔の大手町


大正14年に七尾駅が現在の場所に移ってから商店街が形成され始めたらしいよ。
井田屋食堂、古一金物店、さたみや旅館なども鍛治町から移ってきたんだ。
興能信用金庫の場所に神明神社があって、その向かいに印鑰神社があったんだ。
それが藤橋(所口)と府中に移っているんだ。

昭和30年代、高度成長時代に入って商店街は全盛期を迎え、
私が子供の頃は本当に賑わっていたよ。
初売りの1月3日、文化の日の11月3日など、ものすごい人出だったよ。
スーパーのあかとめ、パーラー、どんたくが通りに並び、
地価が1坪百万円もした時代だよ。
今は10万円でも買う人いないけどね(笑)

リボン通りの名物、七夕写生大会は今年で第48回になるけど、
昔は画用紙が800枚も出たというから驚くね。
近隣から本当に多くの子供達が集まって来たんだね。 
60店以上あった商店も、今は25店だよ。


これからを考える


人も車も通らなくなった大手町に野鳥が飛んで来て、
そのさえずりを聞いていると、大自然の循環というか、摂理を感じるんだよ。
人も家も店も、商店街も国家も栄枯衰勢、何か通じるものがあると思えるね。
小売からスーパーへ、そして専門店へ。街中から郊外へ、
今、少子高齢化の時代を向かえ、コンパクトシティーへと戻るのではないかと思うよ。
そんな端境期の時代はじたばたせず、時の流れに身を任せ、
競争ではなく共生を考えることだと思うんだ。

旅館をやっていて感じるけど、都会のお客様は、
柴垣の夏牡蠣でも、橋立や輪島のカニでもないんだよ。
能登の牡蠣を食べた、能登のカニを食べに来た、なんだよね。
能登には自然や風土、文化、宝物がいっぱいあるけど、
独り占めしようとすると、良い事でも、伸びしろが無くなるね。
みんなに分け与え、より大きな力に変えていくことの方が賢いよ。
大手町と桧物町、銀座通りが変わりばんこに民生委員を出しているけど、
商売も暮らしも助け合わないとね。


かなこの一言


祖父の時代、父の時代、身近な昔。
でも、知らないことがいっぱい。
どの時代もみんな一生懸命生きている。


第91回 中能登町 花見月


在所名の由来


この優雅な地名は全国でここしかないんだよ。
室町時代の古文書では花見規と出ているよ。
奈良時代には治安警備のため諸国に軍団を置くんだけど、能登では隣在所の瀬戸に置かれたんだ。
花見月はその端に位置していることから、端で見張る要塞で端見塞(はなみずき)と呼ばれ、
それが由来だという説もあるよ。


昔の暮らし


中能登町は織物で栄えた地域だけど、明治時代に3軒の機場から始まっているんだ。
その1軒がこの在所でね、水車を動力とし織機12台で始めたらしいよ。
眉丈山系から流れる水が豊富なんだね。
またそんな時代に在所の青年が博打など悪遊びしないようにと、
在所で青年互学会という夜学を設立し時間割も作って毎晩勉強していたんだよ。
修身、国語、算術、地理など在所の大人が先生になって教えていたんだね。
その建物を建て替え、現在は花見月互学会館として集会所になっているよ。

昭和前半までは二男、三男の多くは大阪の縁者を頼って出て行ったんだ。
多くは銭湯か豆腐屋なんだけど、実はこの在所から大阪に出て銭湯で
成功した人がいて、それが大阪の銭湯の始まりなんだ。
テレビ番組の探偵ナイトスクープが大阪銭湯のルーツを探るため取材に来ていったよ。


現在の花見月


眉丈山系からの清流が30ha以上の田んぼに直接入るので良いお米が出来るんだね。
農事組合法人の能登花見月が一手に営農を請け負っているけど、
昨年の米‐1グランプリで全国280点の中から「みずほの輝き」が準グランプリに輝いたんだ。

それと海抜225mの眉丈が丘の展望台付近一帯を昭和42年からパイロット事業として
草地造成したんだけど、今そこで能登最大級規模の太陽光発電建設が進んでいるよ。

将来の事は分からんけど、金沢へも輪島へも1時間で行ける立地と、
花見月という地名と、里山で牧歌的な雰囲気と人情があるから、
何かを見出せればと思っているところだよ。


まぁの一言


眉丈ヶ丘で、小鳥の声を聞き、牧歌的な雰囲気の中、どこか落ち着きました。
互学会、曳山、獅子舞、団結力のある在所です。


第90回 能登島 祖母ヶ浦


在所名の由来


飛鳥時代、女性の天皇である持統天皇が女性の僧を各地に派遣し、
生活文化の向上を図っていたんだ。そんな尼僧の一人がこの地に来て、
点在する村人を現在の場所に集め漁業や農業を教えたんだ。
人々は尊敬し御祖母様(おんばさま)と慕って呼んだんだね。
それが祖母ヶ浦の由来なんだよ。


昔の暮らし


半農半漁の生活をしていたね。ここは七尾北湾に突き出て、
あいの風も下り風も通り抜けるので良い漁場がいくつもあるんだ。
二人で仕掛ける小規模の定置網が並び、刺し網、採介藻などで蛸やイカ、
ナマコ、サザエ、あわび、天草、もずく、エゴなんでも獲れたよ。
木の「とろ箱」に魚貝を入れて、毎日2~3箱くらいを定期船で七尾の作事町へ卸していたもんだよ。

御祖母様のことをもう少し話しておかんとね。
即身仏の行をしているんだ。地面の中に入り竹筒で空気を取り込んで
禅定の内に亡くなっていくんだ。その間、鈴を鳴らすのだけど
7日間とか10日間鳴っていたと伝わっているよ。
それを伝え聞いた比叡山天台宗の5代目座主、智證大師がこの地を訪れ祠(ほこら)を建て、
人々にお参りするよう勧め、それが在所の専正寺の始まりなんだ。
能登島で一番古いお寺で、天台宗で24代、浄土真宗に改修してから
25代という由緒あるお寺なんだよ。
寺にある御祖母様の木像は、御祖母様が自ら彫ったもので、形見として残して下さったんだよ。
在所では15年前にお墓も新しく整備し、専正寺では大晦日は御祖母様の
法要を行ってから除夜の鐘が鳴らされるんだよ。


現在の祖母ヶ浦


民宿が6軒あるけど、鰀目、長崎と一緒に岐阜県の中学生の
体験学習を受け入れているんだ。釣り、塩づくり、刺し網、
イルカウォッチング、魚のさばき方など体験するんだ。
毎年5月から6月にかけて千人以上の生徒が来てるけど、
自然豊かな環境を活かして交流人口を増やし、
地元の若い人も活躍できるような場をもっともっと創らないといけないと感じるこの頃だよ。


まぁの一言


持統天皇と御祖母様、小さな事にとらわれず、
みんなが幸せになるように尽くした女性。
大きく広い心、利他の精神、素敵ですね。


第89回 七尾市深浦町


在所名の由来


浦とは入り組んだ海岸線のこと、その中でも特に奥まった深い入り江。
その入り江を囲むように人が住んだ在所だから深浦なんだね。


昔の暮らし


昔は漁師町で殆どが漁業を営んでいたよ。牡蠣の養殖、
ぼら待ち櫓、ナマコのタテ引き網、地引き網、刺し網など、家庭菜園ではないけど、
自分の家で食べるだけの牡蠣養殖をみんなやっていたよ。深浦は魚が周ってくる場所でね。
戦後すぐにクジラとイルカの大群が深浦に入ったことがあってね、
その時は湾の入り口を藁縄の網でふさいで逃げられないようにしてから、銛で突いたらしいよ。
海が血で真っ赤になったと聞いているよ。
本当かどうかわからんけど、湾の対岸まで鯨の上を歩いて渡ったという話を聞いたよ。
その時鯨を突いた銛が実は鹿追いの槍らしいんだ。

年寄りに聞くと、昔はこの辺りに鹿がいたというんだ。
西岸の他の在所にもその槍が残っている家もあったから、
地区のみんなで鹿を捕まえていた時代があったんだろうね。
その槍を持ってクジラを突いたというんだ。
獲ったクジラを浜に上げ解体した肉を在所中に配ったと聞いているよ。
私が高校生の時もイルカの大群がきているしね。


現在の深浦


ご多分にもれず、少子高齢化になっているよ。何の活動するにも工夫がいる時代になったね。
祭りの人足が在所で揃わないよ。他の在所から応援に来てもらったり、
青年団が友達を連れてきて何とかやっているよ。
今思えば昔の年寄りは、海や山で体を張って仕事をしとったから強い体しとったなぁ。
お熊甲の祭りでも肩にこぶを作って背中を出して神輿や枠旗を担いでいたけど、
今はあんな真似誰もできんね。在所では菜の花を植える取組を始めているよ。
のと鉄道で中島駅から西岸駅に向って最初に見えてくる海が深浦でね、
電車から見下ろすといい風景なんだ。
そこに市の花、菜の花を植えていこうということなんだ。

いろんな工夫が必要だけど小さな在所だけでは限界があるんで、
今、西岸地区の8つの在所で西岸地域づくり協議会を立上げ、
問題を整理して共通のテーマや目標を決めて行こうと話し合いを始めたんだ。
伝統を守りながらも時代にあった改革が求められていることを実感してるよ。(笑)


かなこの一言


上杉謙信から逃れた洞穴、弁慶の足跡石、
古き深浦を訪ねれば、歴史に想いが馳せます。
温故知新、地区の皆さん頑張って!


第88回 中能登町高畠


在所名の由来


全国に多い地名でね、実り豊かな環境を総称して高畠と呼ぶそうだよ。
この辺りは松本川と地獄谷川が流れ肥沃な土地柄で農作物も良く育ち、
また宿場として栄えたことから、高畠という在所名になったという説に頷いてるよ。


宿場街道の町


七尾、金沢、氷見への交通の要衝で、鎌倉時代にすでに
宿があったというから、宿場町として発展したんだね。
全盛期は江戸後期だというよ。

黒船来航で幕府から石川県全体の視察を命じられた十四代加賀藩主、
前田慶寧が総勢八百人の家臣と高畠に宿をとった記録があるんだ。
これだけの人数を受け入れる組織力のある在所になっていたんだね。
宿場とは街道を徒歩か馬で旅し各地と交わる、そういう中で育った文化であり、
街づくりだったんだね。旅支度がここで全て整えられるよう様々な職人がいて、
人が集まるから飲食、娯楽も栄え、私が小さい頃でも御祖(みおや)の
高畠へ行けば何でも揃うと言われたくらい賑わっていたんだよ。

舳倉島の海女さんがシーズンオフには料理屋のお接待として来ていたしね。
ミニ七尾って感じかな。戦前は芸者さんの稽古事の音色が
聞こえていたというから風情がある街並みだったんだろうね。


最近の取組


昨年、御祖小学校が統合されて子供の声が聞こえず寂しくなったけど、
民生委員が中心となって「カフェたかばたけ」をオープンしたんだ。
これが評判良くてね。第一水曜日の午後1時から4時まで、百円でコーヒー、
お茶、お菓子などを頂き、顔を見て、健康を確認し、
話を楽しむのだけど、三十名以上集まるんだよ。

それと碁石ヶ峰の頂上の鳥居を二十年ぶりに建替えたんだ。
この頂上は高畠と羽咋の神子原、氷見の寺尾で雨乞い神事の場所として
共同管理してるけど、昔からの取決めで高畠は鳥居の管理ということなんだ。

時代が変わって宿場の賑わいが無くなり、人が集まる魅力はなくなったけど、
中能登町民として高畠区民としてみんなでやるべき事をコツコツとやっていく中で、
在所の人が笑顔になることが一番大事なことだと思っているんだよ。(笑)


かなこの一言


宿場街道、すごく歴史を感じます。
どこか昔の名残が漂う街並み。ちょっとした
タイムスリップ感、なんだか新鮮でした。


第87回 七尾市馬出町


町名の由来


裁判所の場所が小丸山城の馬場だったんだ。
出陣の時ここに馬を並べて出発するんだ。
それでそこを馬出と呼ぶようになったんだね。
昭和25年9月の町名変更で正式に馬出町となったんだが、
それまでは藤橋町所口で馬出はその中の字名だったんだよ。


昔の生活


小丸山城址公園や裁判所、光徳寺などがあり面積が大きい町なんだ。
七尾が所口と呼ばれた時代に市内に入る玄関口のひとつでね、
当時はいろんなお店が並んでいたと聞いているよ。私が子供の頃でも多かったよ。
米屋、魚屋、八百屋に酒屋。医者に歯医者に弁護士、税理士、建築士。
不動産、測量、調査士、司法書士。家具屋にクリーニング、床屋にエステに美容室。
目立屋、ペンキ屋、自転車屋。呉服に貸衣装、パン屋に菓子屋に小料理、スナック。
お寺に教会、幼稚園。ガソリンスタンドに工務店などなど。
国勢調査では商店街でもないのに多くの職種が集まり、全国的にも特徴のある町だと言われたよ。

小丸山公園でカブト虫を採って、裁判所の大きな瓦屋根に上ったり、
縁の下にもぐって遊んで、御祓川でうなぎを釣って、なまずを捕まえ、
奉燈も小学生、中学生、大人用と3台、獅子舞もあったんだ。
そんな活気のある時代だったけど、今は奉燈が1台になってしまったことが全てを物語っているよ。


今を生きる


人口減少、少子高齢化の問題が深刻化してくるけど本当に難しいね。
それぞれの地域が助け合い、支え合っていくコミニティーにしていかないと、
自分さえ良ければという考えは、結局は自分も苦しむ事になってしまうだろうね。

物より心を大切にして、共生、循環型の新しい価値の社会を創っていく必要があると思うよ。
町会としては、まず公民館活動を含めていろんな行事に参加してもらいたいね。
顔を見て言葉を交わすと付合いが深まり、行動を共にすることで絆が生まれるからね。
最近嬉しいこともあってね、裁判所横の拘置所と官舎が新しくなって7世帯増えたんだよ。

それと馬出町に花嫁のれん館と寄合い処みそぎが4月9日にオープンするんだ。
観光客も来るだろうし明るい話題だね。
寄合い処みそぎは馬出町会の拠点だった徳沢荘を新しくしたものだけど、
心機一転ここを拠点に、もうひと踏ん張りしてバトンを渡していくつもりだよ(笑)


かなこの一言


小丸山城下の興味深いお話がいっぱいです。
移ろっていく暮らしぶり、人生はあっという間。


第86回 能登島 南町


在所の由来


南の田んぼは、隣の曲の地番が多いんだ。
昔、曲の人がその田んぼを作っていてね、隣と言っても山道を歩くか、
舟で回るか、大変だったんだよ。それで番人小屋を建て稲を見てたんだ。
それでこの当たりを稲見(いなみ)と呼んでいて、その人たちが定住し、「いなみ」が「みなみ」に転化して、いまの南になったという話だよ。在所のほとんどは曲門徒だし、きっとそうなんだろうね。


昔の生活


私の興祖父の新衛門が文化13年(江戸時代)に生まれ、
しんにょも浜と呼ばれる浜で塩を作っていたらしいけど、島は昔から製塩と漁業、
自給の農作物で暮らしていたんだ。私が子供の頃でも半農半漁だったね。

初めて賃金を稼ぐことができたのは、戦後在所で創業した川田組が護岸工事を始めた頃だよ。
私も若い頃に竹で編んだカゴにセメントを入れミキサーに放り込んだ経験があるよ。
それと藁で「にぐ縄」を編んでいたね。小指より細い縄なんだ。
土壁を作るときの竹を編んでいく縄でね、壁屋さんは「こうまい縄」と呼んでいたよ。

南は分校で小学校5年から半浦の本校へ通ったけど、4キロの山道を歩くか、
朝6時の定期船で閨まで行ってそこから2キロを歩くかだったよ。
遅くまで遊んで帰る時は細い山道を歩くけど、暗くて恐ろしかったよ。
そんな道沿いに「クロンボーシ」と呼んでいるお地蔵様があるんだ。
昼でも寂しい山道なので、在所の石材屋、川田幸次郎(当時39歳)が
昭和2年に村民のためにとお地蔵様を建てたんだ。
黒いお地蔵様でね、名前の由来かもしれんね。
そこが山奥から稲や薪を背負って来て一服する場所になったんだ。


今を生きる


小中高合わせても7人、限界集落の寸前だよ。
祭りも平成17年を最後に神輿、獅子舞は出してないよ。
田んぼも在所全体で14町部あるけど、
今は一人で10町部以上やらんと採算が合わんでね。
先祖代々の田んぼを荒かせないので作ってはいるけどね。

猪も爆発的に増えているよ。電気柵を作っているけど、裏庭の畑まで荒らしていくよ。
将来在所をどうして行くか妙案がないけど、
在所のオカザキ電機には若い女性も働きに来ているので昼は賑やかだし、
夕日は綺麗だし、奥島製畳は西本願寺の平成大修復で畳床を納めて名を上げたし、
嬉しいこともあるもんだよ。(笑)先を心配し過ぎてもしょうがない。


かなこの一言


今、頑張れることを頑張り、今を喜び、
今に感謝する。達観の境地、納得です。


第85回 田鶴浜 伊久留町


町名の由来


諸説あるけど、元は山中村で、奈良時代に能登国が制定された時に、
「伊勢の国より大神宮祀り奉り、神明と称し山中村に鎮座し奉る。
是より山中村を伊久留と称し、伊久留と書く」と古文書に書いてあるんだ。
伊勢の神が、久しく、留まるという意味で、その神明社はとても由緒ある大きな神社だったんだ。

明治四十一年に合祀され今は御神体は無いけど、境内の大杉、
目の病気が治るという神明の水が今も湧き出ていて霊験あらたかに感じるよ。


昔の伊久留


村でね、役場、駐在所、保育所に小学校、消防と診療所もあった中心地だったんだ。
機場も四十軒くらいあって、住民の半数が機場に関係していたよ。
今は公共施設は無く機場も四軒。時代と共に移ろっていくよ。

集落と平行して田んぼがあるけど、ここに長さ約1kmの飛行場があったんだ。
昭和二十年に二ヶ月間の突貫工事で作ったんだ。
海軍の兵隊や予科練生など約六百名が在所に入って、向かいの山から土砂を出し、
田植えの終わった田んぼを埋め立てたんだ。滑走路は杉の板敷きでね。
学校やお寺、民家も宿泊所になってね。
完成し一番機が飛来するという日に終戦となり、幻の相馬飛行場となったんだ。
その一部は小学校のグランドとして利用したけど、
埋めた土砂を全部出してすぐに田んぼに戻し翌年には
田植えをしたというから、みんな生きるのに必死だったんだね。


在所の自慢


亀石があるよ。大きな自然の石で本当に亀そっくりだよ。
この亀石以外に在所には山にも畑にも自然の石が無いんだ。
昔、弘法大師がこの在所に寄った時、石につまづいて、それで
「この村から石が無くなれ」と杖で三回地面を突つかれたので
無くなったという話が伝わっているよ。

それだけに亀石は伊久留の象徴で相馬小学校の校歌にも歌われていたよ。
三十代~六十代のグリーンファーム+196(いくろ)が
耕作放棄地でひまわりやコスモスを植えているんだ。
公民館と一緒に「そうま収穫祭」や「紙飛行機大会」など企画運営して
老若男女みんなで盛り上がっているよ。
十年後の伊久留を見据えて皆笑顔で頑張っていきたいと思ってね(笑)


かなこの一言


伝統行事を大切にし、新しい取組も在所が一丸となって取組んでいます。
町会長さんは一年間に紋付羽織袴を6回も着るそうです(笑)


第84回 七尾市栄町


在所名の由来


昭和二十五年、戦後復興の中、七尾市が国分町に二番目となる
公営住宅三十八戸を建設したのが始まりなんだよ。
将来住宅地として栄えていってほしいという願いを込めて、
通称を栄町として入居募集したそうでね、正式に栄町となったのは昭和四〇年なんだよ。


昔今


新興住宅地ということで、役所、国鉄、郵便局、銀行などに勤めている人が多かったよ。

昭和四〇年代から一般住宅が徐々に増え始めて、在所も大きくなってきてね。
家々が連なって生活するので、みんな顔見知りになるんだけど、
町としてもっと団結するために何かが必要だと言うことで、
青年会が中心となって昭和四十八年に奉燈祭りを行う事に決めたんだよ。
奥能登から原木を調達し製材したものを在所に運んでね、
皆で協力し一ヶ月で完成させたんだ。太鼓や鐘、法被も寄付を頂いたりしてね。
囃子は本場石崎の囃子が良いということになり、石崎町の方々にお願いして練習したんだよ。
八月四日の祭り当日は快晴で初練は町民総出で盛り上がったよ。

近年、分かったことなんだけど、藤橋バイパスの工事の際に遺跡が出たんだ。
これが結構大きな遺跡でね。バイパスの部分だけで五十戸以上の住居跡があったんだ。
栄町全域が遺跡らしくて昔からここには町が形成されていたんだね。
地図を見るとここは国分寺と香島津(七尾港)を結ぶ道の中間あたりに位置しているんだ。
栄町は戦後の新しい町であり、また古い町でもあったことを実感したよ。

防災防犯の一環として町内の街灯を二年がかりで全部LEDに交換したら夜は明るくなったよ。
子どもや高齢者が安全に生活できるように特に気を配っていかないとね。
毎月楽栄会(老人会)で集まって講話や歌、スカットボールなどをして
お昼を食べてコミュニケーションを深めているんだよ。

昨年の矢田郷地区の運動会では藤橋、所口、栄町で作る本宮チームが始めて優勝したんだ。
小さな町だからこそ、お隣とも連携協力は必要だし、そこで絆を深めることが、
これから益々進む高齢化社会ではより意味を持ってくるんだと思いますね。


かなこの一言


在所の皆さんの笑顔を見ていると、
どの世代も楽しく暮らせるように様々な
工夫をされているんだなと感じました