こみみかわら版バックナンバー

第74回 私の仕事は「ガラス作家」です

息を吹き込み魂を入れる



私の仕事は「ガラス作家」です
菊池 正博(きくちまさひろ)47歳
仕事歴 27年

ガラス作家の仕事とは

私の場合は、食器などの日用品の他、ガラス工芸品のデザインを描き、宙吹きという技法で息を吹き込み、完全手作りの作品を作ります。

東日本大震災

岩手県一関で工房を営んでいましたが、東日本大震災で取引先の廃業や復興の遅れなどで
経営危機に直面しました。

そんな時、能登島ガラス工房の創設者である由水常雄先生にお声をかけて頂き
能登島へ来ることになりました。

私は神奈川県出身です。
小さい頃から手先が器用で図工が得意でした。
進路を考えた時、得意なことを活かしたいと思い、当時日本で唯一のガラス専門学校、
東京ガラス工芸研究所へ進みました。
そこで2年間学び、北海道小樽の工房に弟子入りします。

親方は大変厳しく、よく怒られましたが、ガラスの光沢、繊細な輝きに強く引き込まれていきました。
小樽での3年間があったからこそ、今でもこの道を歩み続けているのだと思います。



ガラスの世界

コップからオブジェまで、ガラスは日用品にも、芸術品にも姿を変えます。
いったん竿に熱いガラスを巻き付けると、途中でやめることは出来ません。
思い描いたデザインを形にしていくため、息を吹き込み、大小様々な道具を使いながら
一心不乱に作業に集中していきます。

パーツを接続する作業は補助者の手を借りますが、
息が合わないと望んだものになりません。
理論を学び、経験を積んで、間合いと言うか、タイミングを見極める力を養います。

ガラス工芸はそんな勘所を共有するチームプレーでもあるのです。

色づけは金属を配合して酸化させます。銅はスカイブルーに、鉄は薄緑に、クロムは緑色になります。
色の濃淡は計算で出せるのですが、その酸化させたものを還元させる技法で
今度は計算できない不安定な色が出ます。
これを燿変と言い、自分の力の及ばない中、変化するガラスと作家の意志が融合して、
感じ入る色調や光沢が出たときには感動を覚えます。



能登島ガラス工房

32年前、廃校を利用して能登島ガラス工房が出来ましたが、
当時日本ではガラス工芸という概念がなく、ガラスは日用品であり
工場で大量生産をしていました。
日本で工場から工房という単位で製造が始まる先駆けとなったのがこの工房なのです。

隣に能登島ガラス美術館もあり自然環境にも恵まれているこの工房で、
作家として仕事が出来る事を大変有難く思っています。

ここではガラス職人養成の学校も併設して毎年全国から数名が入校してきます。
近年は大学にもガラス工芸の専攻科もあり、多くの若者がこの世界に入りますが
職業として残っていく人は1%くらいではないでしょうか。

ここではガラス体験も行い、直営ショップで販売もしていますが
アート、クラフト、日用品、区別することなくガラスの魅力を多くの人に知ってもらいたいと思います。

作家として思い描いたものが形になり、それがお客様に認められた時は嬉しく励みになります。
ガラスの世界も流行があり、新しい加工技術が開発されてきますので、
独りよがりにならず精進を続けなければと思います。



能登島向田町 (有) 能登島ガラス工房 ☎0767-84-1180


第73回 私の仕事は「自動車板金業」です


私の仕事は「自動車板金業」です
中島 能成(なかじまよしなり)さん 68歳
仕事歴 48年

自動車板金業の仕事とは

私の場合は自動車の板金塗装の他、アルミ板金加工・FRPボディ制作、そしてカスタムカー制作を手がけています。

オークションで三十億円

世界で唯一イタリアの博物館にあるディスコボランテの落札額が三十億円です。
アトランティックは世界で4台しかないイタリア車で、これも三十億円で落札されました。
日本に上陸したことのないこの2台が、レプリカのオリジナルカーとしてここにあります。
もちろん車検も受けてあるので道路を走るんですよ。

初志貫徹

子供の頃から工作が好きでしたが、実は壊すことの方が多かったです(笑)
物づくりに興味があっても中身が解らない。それで調べるために壊すんです。

中学、高校時代はいろんなものを壊して中身を見ていました。
元々車が好きだったので金沢の職業訓練校の板金科に進みました。

卒業後2年間勤め独立します。
鉄板やアルミを叩き溶接をして、仕事を軌道に乗せるのに一生懸命でした。2

8歳の時、雑誌で渡辺さんという人が制作したオリジナルカーを見て
ものすごく感動し心が揺さぶられました。
そもそも車を作りたいと思って進んだ道だったのですが、その心に火がついたんです。



ものづくり

しかしどうして作ればよいかわかりません。
しかしすでに人間がやっていることなので自分でも出来るはずだ!
と決意し独学を始めます。
材料は何か、どうするのか、本を見たり人に聞いたり、モーターショー行っては情報を仕入れます。

そして自分で作って見るんです。
自分の手が動かないと物は出来ないし、良し悪しは作らないと分からないのです。
だから失敗は一杯あります。それは楽しくも苦しいんです。
時間もかかるし、うまくいかないし、嫌になるんです。

しかし、それを乗り越えないとものづくりは出来ない。
言った以上はやり遂げなければならないし、自分自身で壁を破っていかなければ
次のステップへ上がれない。

そうして完成した時は、人には言えないくらい嬉しいんです。
我が子が出来たくらい嬉しいんですよ。
この嬉しさがあるから苦しさも楽しいんです(笑)

初めての作品がポルシェ356です。
この完成でオリジナルカーの基本技術が出来上がり、
この40年間で5台のオリジナルカーと消防車など子ども向けのレプリカは何台も制作しました。
今はマツダのロードスターをベースにコブラを制作中です。
東京や金沢からイベントへの出展依頼があると運転して出向きます。
そこで注目され仲間の和が広がるのも楽しみです。

オリジナルカーは道路を走らせるので陸運局と事前協議を繰返しながら造っていくのですが、
最近の車はハイブリッドや電気自動車などに変ってきているので、
このスタイルでの制作がどうなっていくのかわかりません。
どんな職業もただ単に楽しい仕事というものは無いと思います。

苦しみがあるからこそ楽しい。
環境が変化しても、職人魂を 持ち続けて楽しみ続けたいと思います。


中能登町能登部下 中島板金 ☎0767-72-3399
2016年取材




第72回私の仕事は「彫刻師」です

師の半学に足らず



私の仕事は、「彫刻師」です
米村 正勝(よねむらまさかつ)さん 74歳
仕事歴 55年 木彫伝統工芸士

彫刻師の仕事とは

私の場合は、七尾仏壇の彫刻を中心に神社仏閣での曳山、キリコ、獅子頭、
天狗、仏像、欄間などを手がけています。

父に師事

「弟子賢しと言えども師の半学に足らず」父がよく口にした言葉です。
父も彫刻師でした。私は父に師事し技能を習得しますが、

この言葉は私が一人前の仕事が出来るようになっても聞かされました。
当時は腕前が上がっても自惚れることなく精進せよとの戒めだと何気に聞いていました。

今にして思えばそれは技能の事だけではなく、職業として彫刻に携われることから始まり、
生業としての七尾仏壇という環境があり、ご贔屓のお客様がすでにいる。
これらのことは自分一人の力で成り立っているのではないのだから、全ての事に感謝を忘れず、
謙虚であれとの教えだったと思えました。




一意専心

私は子供の頃から彫刻に興味を持ち、父のノミを触っては怒られていました。
七尾高校時代に「米村蔵書」という角印を作りました。
これが私の最初の作品で、自分で考えた独自の字体です。

高校を卒業し母の強い勧めも有り国鉄に就職しましたが、夕方家へ帰えればノミを持って
夜遅くまで手伝いました。跡を継がせたい父の思いも感じ、

結局3ヶ月で国鉄を辞める事にしました。競争率70倍で就職した国鉄です。
助役は将来駅長になれるから辞めるなと引き止めてくれ、母も反対しましたが、
彫刻が好きだった私には迷いはありませんでした。

七尾仏壇

伝統工芸品となった七尾仏壇の起源は室町時代だと推察されています。
この時代は蓮如上人が能登に真宗を広めた時期であり、
護職として畠山氏が七尾に入り様々な文化や工芸が育っていく時代です。

七尾仏壇は木地、彫刻、漆塗り、蒔絵、金具、金箔押しの工程がありそれぞれに職人がいます。
中でも塗師職人が仏壇の製造を家業としてきた歴史があり、七尾の仏壇店は漆塗り専門で、
ここから各職人へ仕事が発注されます。仏壇彫刻では、荒彫り50丁、
上げ100丁のノミを使って雲、唐草、鶴、龍、天女、菊、波などを彫ります。
それぞれに基本の形がありますが、彫る技術以上に全体の構図を描く力が求められます。

その時、その時、一生懸命にやっているのですが、
10年経って見直すと気付くこともあります。



これから

昭和45年から平成15年くらいまでは彫刻の注文が殺到し、
いつもせかされて制作していました。今はそんな時代ではありませんが、
彫刻という技にも、作品の追求にも限界はありません。

七尾仏壇の伝統を守りながら、元気な間は一生彫刻の道に励んでいきたいと思います。
能登各地の神社仏閣の仕事も手がけてきましたが、
お寺や神社の大作は多くの人に拝んでもらい何百年も残っていく作品です。

こんなにやりがいのある仕事が出来る事に喜びを感じ、誇りに思います。

矢田新町 米村彫刻 ☎0767-52-3076
2016年取材


第71回私の仕事は「石材加工業」です


百の家族の、百の想いと形

私の仕事は「石材加工業」です
芋塚 隆彦(いもづかたかひこ)さん(50歳)
仕事歴28年

石材店の仕事とは

私の場合、お客様の想いを形に仕上げられるように設計から基礎工事・施工まで対応しています。
特にお墓作りに関しては、宗教、風習・家族など多岐にわたることを説明させて頂き、
ご理解を頂いた上で設計に取り掛かっています。

時代と共に

近年、生活スタイルが多様化している中、墓じまいや合祀などのご相談も多くなってきました。人は昔から大自然や死に対して畏敬の念を抱き祈りを捧げてきました。時代が変り祈りのスタイルが変化しても、その根幹は変っていないのだと思います。

しかし現代はあまりにも忙しく、日々の生活に追われ、いつしか大自然の恵みの中に活かされて、生きているということを忘れてしまいがちです。そんな時に病と向き合ったり、人の死によって改めて自分の暮らしや生に向き合うことがあります。お墓を建てるということも、そんな機会の一つだと思います。人生において「気づき」を持たれたとき、宗教や、今のライフスタイル、未来への営みなど、お客様と一緒にお墓を通じて未来を真剣に話し合います。このようなことも今の私の大切な仕事の一つだと思っています。



矢田町の工場

お墓ディレクター

永平寺禅僧の学問所として始まった愛知学院大学を卒業し実家に戻ります。父は技術にこだわり指導してくれました。若い私は機械化の必要性も感じ、時には父と議論をしながらも父の元で技術を身につけ現在に至っています。創業は曾祖父で山積の石屋からのスタートでした。祖父、父の時代は日本の成長期でもあり、人口も増え、神社の鳥居や奉納品の依頼も多く活気がある時代でした。そんな時代は個人の拘りはなく、伝統の形を重んじて、削り、磨き、細工、彫刻して、現地での取り付け施行をどんどんやっていました。



時代が進み、当時分家した家でお墓が必要になってきています。分家された家はお寺さんとのお付合いは本家ほどではないことも多いようで、仏教的なことから法律にかかわることまで質問や相談があります。明治に制定された墓埋葬法の制度が平成に入って改正され、定められた場所以外にお墓を建てることは禁じられています。そんな法律を知らないでお墓を建てたり、また無宗教だという方や、各宗教宗派でも色んな違いを知らないでお墓を建てて困ったという事例も出てきています。今、お墓を取り巻く環境は大きな曲がり角に来ており、日本石材産業協会ではお墓ディレクターという検定資格制度を設けて正しい知識、適切なアドバイスを出来る人材の育成にも取組んでいます。

昨今は石屋のみならず葬祭に関わる方までがこの資格を取得して、幅広くお客様に正しい知識をお伝えしていこうという気運が高まっています。お墓は買うものでなく、作るものだと思います。100家族あれば100通りの想いがあり、ご家族と共に考え、話し合い、血族という家族の絆を、お墓を建てる時に石工の技術を入れて向き合う。そんな時間が私にとっても大切で嬉しい時です。石材店の墓石ディレクターとして更なる精進を重ねていきたいと思います。



矢田町工場 芋塚石材店 ☎0767-53-0612
2016年取材


第70回 私の仕事は「酪農家」です


敷かれたレールに乗ってみたら・・


私の仕事は「酪農家」です
福井 和幸(ふくいかずゆき)さん46歳
仕事歴25年

酪農家の仕事とは

私の場合は、
自然環境に恵まれた故郷能登の大地に良質な牧草を育て、

おいしい牛乳を作るため
ホルスタイン種の乳牛を種付けから出産、飼育、搾乳までの工程を
個人規模の農場としてシステム化
できるよう日々の業務を通じて研究開発しています。

牛に引かれた人生

物心ついたときにはすでに牛との生活でした。

祖父と父が
戦後の食糧難の時代に酪農を始めようと
開拓地であるここ鹿島台に入植しました。

当時は
何軒か酪農をしていましたが今は私の家だけです。

小学生から手伝いをさせられましたが、
なんて大変な仕事だなぁ
と思い声を掛けられるのが嫌でしょうがなかったけど、
祖父が厳しかったのです。

小学生でトラックを、
中学生ではトラクターを運転していました。
もちろん牧場内ですよ。(笑)

高校進学の時、
酪農するなら北海道へ行けと祖父の一言。

祖父の敷いたレールの上を
牛に引かれて行ったようなものです。

酪農学園大学付属高校とその短大で近代的な酪農を学びました。

日々勉強

卒業後
実家に戻り酪農家としてスタートしますが、
北海道で学んだ技術と父の技術のギャップにショックを受けます。

牛に餌を与え乳を搾るという行為は同じですが、
生産や品質の管理がまるで違いました。
それで一つ一つ改善改革を始めますが、父は口出しせず任せてくれました。

実践の中で経験を積み努力をしていても様々な問題が生じます。

日々の仕事に追われ学びが及ばない時は、
獣医師や関係機関の職員から教えてもらい解決の糸口を探します。

また農業青年のグループや地元の酪農家との交流を通じて
情報交換をする中で自分の考える酪農経営を目指しています。



将来の夢

福井牧場では
乳牛27頭、子牛16頭飼育しています。

品質の良い乳をより多く絞るためには牛の健康が重要です。

個性を知って弱い所を改善するため血統を選び人工授精させます。
分娩も状態を確認しながら立会い、難産で引っ張り出すこともあります。

子供を産んで初めて乳牛となり、
4、5回出産すると乳量がピークとなり1日40キロ~50キロを絞ります。

朝夕2回搾乳しその前後に餌を与えますが、
牛は4つの胃袋があり数え切れない微生物や原虫が棲んでいます。

あんな大きな体を草で維持できるのもそれらと共生しているからです。
そんな原虫の働きも考えて何種類もの餌を配合します。

将来的には
牛が自由に歩きまわれるフリーストールという形態の牛舎に出来ないか、
また通りすがりの観光客が車を止めて牛を見ていますが、
そんな人たちに何か別のサービスが
提供できないのかと色々と想いは巡ります。

子供の頃
嫌でしょうがなかった酪農でしたが、
今思えばあの手伝いこそが酪農家としての
魂が植え付けられた原点だと思います。

導いてくれた祖父に感謝し、
能登でも酪農家が存続できるように爪痕の一つも残しておきたいと思います。



鹿島台 ㈲福井牧場  ☎0767-66-1245
2016年取材


第69回私の仕事は「漢方製薬業」です

だら正直の見本と言われ



私の仕事は「漢方製薬業」です
佐竹 修(さたけおさむ)さん 82歳
仕事歴60年

漢方製薬の仕事とは

私の場合は、佐竹家伝来の処方で十種類の漢方生薬とスッポンの粉末を調合して、

虚弱体質、冷え性、疲労回復など滋養強壮薬の登録商標「がめ煉薬」の製造販売をしています。

がめ煉薬

佐竹家には
どういうわけか漢方の処方が伝わっていたんです。
父はそれを活かせないかと考えたそうです。

当時羽咋の千路に住んでおり、
近くの邑知潟にスッポンが獲れることから
ピンと来て製品化しました。

強力飴(きょうりきあめ)として売出し、
途中から神授圓(しんじゅえん)と名前を替えています。

販路は邑知潟で獲れた魚を行商する
「カゴ担ぎ」のおばさんたちが70人もいて売ってくれたんです。

子供の頃「がめの飴くだい」と来る行商のカゴに
2個、3個と入れる手伝いをしていました。
商品名ではなく「がめの飴」が通称になっていました。

戦時中、
神授圓という名前は神という字を使っているということで、
県の役人が来て名前を変えるよう指導が入り、それで「がめ煉薬」となりました。
がめとはスッポンのことです。

七尾に出る

戦後、
事業拡大を志した父が、能登の中心地七尾に移転します。

田んぼ一枚買って、自宅と工場を建てます。
長男の私に跡を継がせるため薬科大学を勧め、
私も素直に従いました

卒業してすぐに家業を手伝いますが、
父はよく職商人と言って、製造の職人半分、販売の外交半分
どちらも大事だと教えてくれました。

それで近郷はもとより穴水、門前、宇出津方面へ個別訪問しました。
郷が広いということは、やりがいがあり面白かったです。

チラシを作り、
一軒一軒飛込みで回ります。

もちろんすぐ売れるわけではありませんが、
いろんな人と出会い、話しを聞かせてもらうことで
多くを学ぶことが出来ました。

それが楽しみでもあり、
何回も足を運ぶうちに、「だら正直の見本みたい人なら嘘はないやろ」
と、少しずつ商品を信用して頂けるようになりました。

今でも自分で看板やチラシを作り近郷を回ることが楽しみです。




がめ煉薬と歩む人生

すべて手作業です。

生薬を計量し、大釜に火を入れ、調合した水飴の中に生薬を処方していきます

放冷させ、一晩寝かせ、また火を入れ、次の生薬を入れ、
と3日間大釜の前に立ち大きなしゃもじを廻します。

出来上がったサンプルを
金沢の検査センターに送り合格してから缶に詰め
包装まで完成するのに10日間、1回の釜で200個の製品が出来ます。

力仕事で1回釜を炊くと3キロ痩せます。

一番難しいのは
同質を保つことです。お客様は味や固さちょっと違いを気付きます。

常温で飲みますが固いのと、やわらかいのと二種類あり、
お客様の好みや季節に合わせて飲んで頂きます。

薬事法が改正され
大手製薬会社と変わらない条件で何かと大変です。

息子がそろそろ引退したらと言いますが、
お客様から、「子供があんたの薬飲んであんな元気になったよ」
「これ飲んで元気になった、やめんと続けとって」
こんなお声が、お金に換えられない喜びなんです。

夫婦二人三脚でここまでやって来ましたが、
「人のために働けることを何よりも感謝しなければ」
といつも二人で話し合っています。



七尾市南藤橋町 ㈲能登製薬所  ☎0767‐52‐1548
2016年取材


第68回私の仕事は「大工」です

人の喜びを、我が喜びと感じる幸せ



私の仕事は「大工」です
西川 剛志(にしかわ つよし)さん32歳
仕事歴 8年

大工の仕事とは

私の場合は、
木造住宅の新築やリフォームのご依頼を受けてから、
どのようなライフスタイルを望んでいるかを聞かせて頂き、
予算の中で将来のことも踏まえ、最大限の利便性と品質を追求し提案します。

そして最後にお客様の笑顔を見る事が出来ることが大工の仕事だと思っています。

三代目の決意

「バカ野郎ー!」
「何、たるいことしとらんやっ!」
「やめてしまえ!」
毎日、ボロ雑巾のように、ぼろ糞に怒鳴られ続けました。本当に毎日が大変でした。

こんな親方、早く死んでくれんかなと思うほどでした。
二代目の親父のことです。

私は
羽咋工業高校を卒業して金沢の建設会社でビル建設に4年間従事した後、
能登島の実家に戻ります。

この時に腕の良い大工として身を立て、
七尾で一番、いや石川県で一番の大工になると強く決意しました。

父にどれだけ怒鳴られても自分の野望があったので頑張れました。

父は口で教えてくれません。
「これ見とれ」
と姿で教えてくれ、やらせてもらうのですが、失敗すると怒鳴るという教育でした。

初代の祖父は
山から木を出し、乾燥させ、皮を剥いで材木を削って、刻んでと全てを
自前で行っていました。

家の前に積まれた材木の周りで遊んでいた私には、
三代目としての血が流れ、理屈ではなく魂が勝手に突き進んでいったように思います。



一番の大工とは

親父に怒鳴られても泣きませんでしたが、初めて泣きました。
涙が止まりません。感動の涙です。

任された初めての現場を仕上げた時です。
お客様が笑顔で喜んでくれた瞬間、
自分自身が本当に嬉しくて半泣きになってしまいました。

現場の最前線で仕事をすることの素晴らしさを知りました。
この感動を味わえることが大工の醍醐味だと思います。

最初は野心的に一番になると思っていましたが、
今はお客様の期待以上の仕事をして、
お客様に喜んでもらえることの一番を目指しています。

仕事が趣味

少子高齢化の社会、住宅需要も減少しています。
将来を思うと不安で寝られないこともあります。

ハウスメーカーの下で専属大工としてやる道もありますが、
私はお客様の喜ばれる顔を直接見ること考え続けます。
お客様に喜んで頂かないと大工をやっている意味が無いと思うからです。

目先の利益を追うのではなく長い目で
「あそこに頼んだら良い仕事してくれるよ」
と言われ、
「西川というやつがおってなぁ・・」
とそんな証を生きている間に残しておきたいと思って、
朝早くから晩遅くまで精一杯仕事に向き合っています。

その分家族には迷惑をかけていると思っています。
ふと気がつけば、職人気質の親父と同じような道を歩んでいます。
怒鳴りながら育ててくれた親父の愛情を今は理解でき感謝しかありません。

妻は仕事が趣味のデカい子供がもう一人いると思っているようです。(笑)

今若い大工がいません。将来大工がいない七尾市になりかねないです。

感動を与え、感動を頂く大工という仕事も悪くないです。
大工の道に進む若者を待っています。
私が怒鳴らず親切に指導しますから大丈夫です。(笑)



能登島通町 西川総合建築  ☎0767‐85‐2752
2016年取材


第67回私の仕事は「お茶屋」です

お茶を通じて街づくり



私の仕事は「お茶屋」です
北林 昌之(きたばやしまさ ゆき)さん(76歳)
仕事歴 50年

お茶屋の仕事とは

私の場合は、
選んだお茶を問屋に缶詰にしてもらい、小売をしています。

石臼挽き体験

平成十六年、
第一回花嫁のれん展が成功し一本杉が注目をされます。

取材に来たテレビ金沢の若い女性アナウンサーが店飾りとして
置いてある石臼を見てこれでお茶挽き体験をしたらどうかと勧めてくれました。

私は島根県奥出雲の出身で、
標高350m、中国山脈の山中で育ちました。

小さい頃から田畑や家畜の世話をし、
団子を作るのに米を石臼で挽く手伝いをしていました。
友達が遊びに来ても石が重くて挽き終わらず遊びにいけません。

そんな「いやな思い出」が石臼だったのですが、
若い人の言う事を素直に聞く事が必要だと直感したのです。

おかげで今では
観光客や小、中学生の体験学習など
多くの人に石臼で抹茶を挽いてもらっています。

お茶屋を継いで

婿養子として北島屋のお店を継ぎました。

お茶の事は素人でしたが実家ではお茶も栽培しており、
朝飯前にお茶を摘み、
せいろで蒸して、
縁側の一畳程の炉に助炭をかぶせ蒸したお茶を揉むと
夕方には乾燥したお茶が出来上がっています。

新鮮なお茶を朝、昼、晩と飲む土地柄で育ったおかげで、
お茶に対しては舌が肥えていたのだと思います。

お茶屋は問屋から仕入れる際に、
拝見盆の上で葉の出来具合を見て、水色、香、味を見て品決めしますが、
私はまず味を見て善し悪しを即決します。
自分が飲んでこれだという本物を飲んで頂きたいのです。

昭和四十年頃までは一本杉も賑っていましたが、
ジャスコ、ユニーが出来てから人の流れが変わり、
何か手を打たなければとお茶を缶詰にした商品を開発します。

しかし外商で回ってもお茶の缶は要らないと断られます。
どの家にもお茶を入れる缶があり、
缶の分だけ高いと思われたのです。

それでもお茶の品質を話し、
缶、缶、缶と説明を続けていたので今ではお店の定番商品になっています(笑)



一本杉と共に

花嫁のれん展の継続で視察団が訪れるようになり、
町会長として案内をした時の事です。

仏壇屋で
職人さんの話を聞いていたとき時間が来てもなかなか帰ろうとしません。

そのときハッとしました。
自分の町のことを自分が語られるのかと。

それで「語り部処」を立ち上げ、
質問されて解らない事はわからないと答え、
次には答えられるように勉強しようと仲間を募りました。

語り部処の成果はすぐ確信できました。

それは一本杉通りを石畳にするのに
平成十六年から5年間かかりましが、その間ずーっと工事中です。

しかし観光客は一人も文句を言わないのです。
「語り」に満足すれば道路はどうでも良いのです。

今では観光客が一本杉に年間に2万人も来るようになりました。

石臼を挽いて飲むお抹茶、
その御菓子に七尾名物の大豆飴、
それに挽いたお抹茶を振りかけて召し上がって頂くと大変喜ばれます。

それがきっかけで「ふりふり」というオリジナル商品に繋がりました。

何事も自分の損得より、まず全体の事を思うことが、
結果として自分自身も救われるのではないでしょうか。
これからはそんな時代だと思います。



一本杉町 北島屋茶店  ☎0767‐53‐0003


第66回私の仕事は「ちょうちんや」です


スッと抜け、神に添う明かり

私の仕事は「ちょうちんや」です
亀井 斉(かめいひとし)さん 71歳
仕事歴60年

提灯屋の仕事とは

私は、主に能登の祭りなど神仏に使われる提灯を作っています。
素材は各産地の職人さんにお願いして取り寄せ、木型に、竹ヒゴを巻き、
和紙を張り、絵付けをして、油を塗って仕上げます。

危機を救った門前の小僧

私には毎年、胃が痛くなる時期があります。
それは夏から秋にかけてのお祭りシーズンです。
この時期に修繕や新調の注文が重なりますが、伝統の提灯をすべて手作りで製作しますので、
時間が無くお祭りに間に合わせるため気を使うのです。

5年前、一番忙しい時期にその心労から胃痛で入院しました。
その時は私以上に家族が真っ青になったようです。
両親、家内、息子夫婦に小学生の孫まで家族総動員で毎日夜遅くまで頑張ってくれ、
なんとか迷惑をかけずに済みました。
会社勤めの息子が帰宅後、祖父母から助言指導を受けながら先頭に立ってくれたのです。
自宅が工房で生活の中に提灯作りしているため門前の小僧だったのでしょうね。
その時以外はあんまり手伝ってはくれませんが(笑)

伝統を繋ぐ使命感

私で三代目です。
明治に祖父が金沢で修業の後創業します。

戦争で両親は満州へ、私はそこで昭和20年3月に生まれます。
父が3年間のシベリア抑留となり、母が乳飲み子の私を抱え苦労の末、なんとか帰国しました。
その母が祖父から提灯の手ほどきを受けました。
父が帰国できた時にはすでに祖父が亡くなっており、母が父に提灯作りを繋いだのです。
私も門前の小僧よろしく、小学校から父の手伝いを始め、

会社勤めの傍ら毎日夜は提灯を作っていましたが、提灯一筋に打ち込んだのは20年前です。
提灯は加賀提灯のような「なで肩で寸胴」の女形が一般的です。

初代の祖父は能登の地で「肩が張った下すぼみ」提灯を創作しました。
これは祭りの道中を照らす高張りや玄関の軒に掲げた時、
家紋や文字が下からはっきりと見えるようにと工夫したのです。
また竹ヒゴで提灯の骨組みをしますが、この竹ヒゴを長い一本に繋いでらせん状に巻いた
骨組みも初代が考案しました。技術は難しくなりますが作業効率が良くなります。

現在、提灯屋は能登で私一人になりました。
街灯や懐中電灯が普及し提灯が日常必需品ではなくなったのです。
今を生きる提灯屋として、初代が築き上げた能登提灯、
亀井オリジナルを繋ぐことが私の使命だと思っています。



能登提灯の明かり

お客様は氷見市、かほく市から能登半島全域ですが、ある傾向が見られます。
海に面した在所の方々ほど提灯にかける眼差しが熱く真剣なのです。

これは大自然と対峙して命がけの仕事を生業とする土地柄のせいでしょうか。
目に見えぬ神仏に向き合う精神性の高さの表れかもしれません。
そんな男たちへ贈る能登提灯は風雪に耐える男形の強い提灯であり、

そこからスッと抜け出る光は神に寄り添い、在所の人々の足元にも放たれる
入魂の提灯でなければなりません。

私はそんな想いを形にするため、家族が寝静まった夜から仕事を始めます。
精神を統一し、厳選した素材に祈りを込め、静かに提灯と対座するのです。



中能登町高畠 亀井提灯店  ☎0767‐77‐1900
2016年取材


第65回 私の仕事は「畳職人」です。

必然は偶然にあらず



私の仕事は「畳の床屋」です
奥島 時一(おくしまときかず)さん(77歳)
仕事歴 45年

畳床の仕事とは

畳は、藁(わら)と菰(こも)で畳床という土台を作り、
い草で出来た畳表(たたみおもて)と言うゴザを貼り、
布で畳の縁を縫い合わせて出来ています。
私は、畳床を専門に作っていますので、畳の床屋です。

平成の大修復

西本願寺では、平成十一年から十年間かけて御影堂の大修復がおこなわれました。
御影堂とは親鸞聖人のご影像を安置したお堂で、三八〇年前に再建された国宝の建造物です。
この大修復には、漆、金箔、漆喰、彩色、宮大工など日本の伝統技術の職人が集められました。
畳も七百枚以上あり、すべて三百年以上前に作られた畳床で、今回の修復は二百年ぶり
とのことでした。畳床そのものが文化財し指定されており、
その修復に関われたことは畳床専門の職人として思い出深い仕事になりました。

時代に翻弄され

私は二十代で藁縄(わらなわ)を編む仕事を始めたんです。
それで生活をしていたのですが、ビニールロープが出てきて藁縄が売れなくなりました。
このままでは生活が出来ないと心配で夜も眠れない程でした。

どうにかしなければと考え続けていたら、同じ藁を扱う仕事で畳床があると閃きました。
これならビニールにとって代わられることはないだろうと思い、珠洲の畳屋へ修業に入りました。
当時はどの家も畳の生活でしたので、町には多くの畳屋がありました。
そこで私は「畳床」専門の畳屋になろうと思ったんです。畳床は菰に藁を
何層にも挟んで縫い合わせていきます。

良質の藁はこの辺でも多くあったんですが、コンバインで稲刈りをするようになると
稲藁が刻まれ使えなくなりました。またしても時代の波に翻弄されます。

今は新潟や長野のコンバインが入らない、山奥の田んぼから藁を仕入れています。
藁不足の影響もあって最近は藁の替わりに発泡体を使った畳床も多くなりました。


白羽の矢

西本願寺御用達の京都の櫻田商店が、この畳床を修復できる工場を全国中探し
ご縁があって私にも声がかかりました。

普通の畳より厚く、枚数もあり、文化財で気も使うし、
普通の機械ではやりにくい、実際面倒な仕事です。
私が使っている機械ならなんとか対応できるのではと思いました。

この機械は二十年前に投資しましたがコンピュータで自動制御する当時から
今に至っても最新の機械です。
畳床を作るのには操作が難しく全国で数台しか売れず販売中止となり、
稼動しているのは東北に一台、ここ能登島に一台です。
ビニールロープとコンバインの出現で苦戦を強いられましたが、最新の機械を導入し、
難しい操作を諦めずに挑戦していたおかげで大仕事が出来ました。

世の中は常ならず、変化の連続です。
安心と安定を求め四苦八苦するのですが、
人生は思うようにならない事の方が多いものです。
それでも、一所懸命に頑張っていると、報われることもあるのではないでしょうか。
畳床の職人として誇りに思える仕事をさせて頂き本当に有難く思います。



能登島南 奥島製畳  ☎0767‐85‐2211
2016年取材


第64回私の仕事は「ガソリンスタンド店長」です。


自分を売るということ

私の仕事は「ガソリンスタンド店長」です
勝田 勇人(かつだゆうと)さん(30歳)
仕事歴 9年

ガソリンスタンドの仕事とは

私の場合、給油に始まりオイルやタイヤ交換、洗車やコーティング、
簡単な整備など車に関する様々なお困りごとの解決や、
悩み事のアドバイスをさせて頂いております。

能登唯一の手洗い洗車機

セルフのスタンドが増える中、
共立商事のスタンドは全店フルサービスなんです。
6年前、自動洗車機を入れ替える時、本当に自動洗車機が必要なのかと考え、
スタッフ、上司とも議論した末に「手洗い洗車機」の導入が決定されました。
 
私たちのスタンドはお客様と対面して、心のこもったサービスを提供することが使命なので、
洗車を手洗いに特化するということは、お客様と心を通じ合わせ、
徹底したサービスを提供していくという、決意の現れなんです。
 
この時期手洗いだと手は冷たいですよ。それでも心は熱いんです。(笑)

率先垂範

七尾工業高校を卒業後、スギヨで加工食品の製造をしますが、
直接人と関わる仕事がしたいと転職を決意しました。
 
高校時代に取得した危険物取扱乙種第4類の資格を活かせる職場がガソリンスタンドだったことも
あり共立商事に入社します。自分がお客の立場で見ていたスタンドと実際勤めてそのギャップに戸惑いました。
販売業ではなく接客業だったのです。先輩に礼の仕方から躾けられました。
 
最初はなんでそこまでするのかと反発もしましたが、「油を売るのではなく自分を売れ」と
指導を受け続けます。そして4年前店長になった時どうスタッフと接するか本当に悩みました。
怒鳴りつけてもお互い気分がよくありません。その頃、1歳の息子の行動が全て私の真似をしていることに
気付きます。変な言葉使いをしているので妻に自分もあんな言葉を使っているか聞くと、
そうだよと言われハッとしました。全ては自分の後姿なのだと気付き、
家庭と職場で率先垂範を心がけます。すると子供もスタッフも変わってきました。
 
率先垂範しかないということにやっと気付いたのです。先輩からまず自分が変われと
何年間も言われていたのですが、その時やっと腑に落ち、
先輩に話すと今頃になってわかったのかと笑われました。
 
私の場合、色々な教えを理解し実践出来るようになるには、体験が伴う熟成期間が必要だったのです。


うれしいこと

初めてのお客様は3秒でお店の印象を決めます。
日頃の接客に対する意識と行動が試される瞬間でもあり、
言葉使い、ドアの開け閉め、車の状態の確認など、どうすればお客様が喜んで頂けるか、
全てお客様の立場で行動します。
 
そんな積み重ねの中で、無愛想だった人がしゃべり出したり、用事が無くても顔を見せてくれたりと
お客様の和が広がります。おかげさまで紹介によるお客様も増えており大変有難いです。
 
また一人の人間として認めて頂き、プライベートでの嬉しかったことや悲しかったことを
聞かせて頂けるようになってきたことも嬉しいのです。お客様から頂く励ましの声を
スタッフ全員で共有し、毎日の中に小さな喜びをいくつも実感しながら、
この仕事が出来ることに感謝しています。


共立商事(株) 徳田給油所  ☎0767‐57 -1480
2016年取材


第63回あなたの仕事は?「警察官」達 和茂さん


善きも悪しきも心の鏡

私の仕事は「警察官」です
達 和茂(たつ かずしげ)さん(36歳)
仕事歴14年

警察官の仕事とは

私の仕事は七尾警察署地域課長です。七尾署管内3交番と17駐在所に勤務する警察官と共に近隣の相談ごとやパトロール、事件事故の初動対応の責任者として勤務しています。

記憶に残る逮捕

放火犯人の逮捕です。動機はあるか?関連性はどうか?聞き込みから得た情報や状況から追跡のシナリオを描き、ついに発見、そして逮捕。上司への報告連絡も密に取りながらも、自分で考え24時間体制で事を進めました。一つの事件を解決した安堵感と、あらためて警察官として使命の重責を感じた瞬間でした。

安全安心の砦

私は子供の頃から刑事ドラマが好きで警察官に憧れていました。石崎小学校3年生の時に和倉剣道教室に通いはじめ、中学、高校、大学と剣道を続けていたこともあり、迷わず石川県警の採用試験を受けました。金沢中署の地域課から始まり、機動隊、生活安全課、刑事課、そして警察本部捜査一課にも配属され、現在は地域課長という立場で地元七尾署勤務となりました。色々な部署を経験する中で、世の中には様々な環境や境遇があり、多様な価値観の中で多くの人が暮らしていること、だからこそ様々な問題が発生し、それが事件事故に繋がっていくのだと実感しました。私たちは事件や事故が起これば真っ先に駆けつけますが、そうならないように未然に防ぐことの方がより大切だと思います。特に地域課は交番、駐在所を管轄していますので、日頃から地域の人と関わりを深め、情報を共有し地域力を高め、安全と安心を守って行きたいと思っています。昨年、管内での振込み詐欺の被害は14件で、被害額はおよそ4,800万円でした。交通事故では7名もの尊い命が失われました。交通安全教室や防犯講習などを行っていますが、参加出来ない独居高齢者等のためにも巡回連絡や街角での声かけなどを行い、悲惨な事件や事故を防いでいきたいと思います。



警察官の世界

警察官は時には命がけの任務に当たることもあります。そのため柔道か剣道どちらかを選択し、日頃から肉体と精神を鍛錬しています。私は小学生から剣道を続けていたので、今は後進の指導にも力を入れています。47都道府県と皇宮警察の48チームで警察の全国大会が行われます。上位12位までが一部リーグとなりますが、警視庁や大阪府警など大都市圏の警察が常連です。7年前、私も団体戦のメンバーとして出場して二部リーグで準優勝し、一部リーグに昇格しました。この時は本当に嬉しかったです(笑)。また警察官は、昇進についても平等に開かれていて巡査、巡査部長、警部補、警部等といった階級毎に法律や実務などの試験を受けて昇任できます。ですから、警察官になってからも頑張り次第で昇進することもできるし、捜査等のプロとしてその道を極めることもできたりと多くの世界があるので、やりがいを感じています。警察官という仕事の本質は人の心に帰結し、とても奥深くそれだけに難しさもありますが、私はこれを天職だと思って、これからも経験を積みかさね、地域の安全を守っていきたいと思っています。



七尾警察署 ☎0767‐53 -0110

2016年取材


第62回あなたの仕事は?「教習指導員」西村 晃一さん


教習とはもてなしの心なり

わたしの仕事は「教習指導員」です。
西村 晃一(にしむらてるかず)さん(47才)
仕事歴10年

教習指導員の仕事とは

教習指導員の仕事とは、運転技術、安全知識など深く理解し、交通事故を起こさない優良なドライバーを社会に送り出す仕事です。

教習の統一

業界で永遠のテーマが教習統一の問題です。この先生は分かりやすい、あの先生は分かりにくいということを限りなく少なくするために委員会を立ち上げプロジェクトリーダーとして取組んでいます。昔は先生が生徒を指導し免許を取らせる。そんなイメージでしたが今は生徒ではなくお客様、先生ではなくインストラクター。そんな関係の中で単なる免許取得の学校ではなく、社会に優良なドライバーを送り出す使命を担うのが教習指導員だと思います。車社会の現代、地域になくてはならない半ば公的な学校でありながらも民間会社なんです。平成三十年から十八歳人口が急激に減少していきますが経営を考えると危機感を覚えます。私たちにどんな努力が求められるか、何が出来るのか、そんな取り組みの一環として教習統一に力を入れています。

笑顔が見たい

前職が一級管工事施工管理技士で、十五年間会社勤めをしました。毎日夜遅くまで何通りもの施工図を作成して提案します。そうやって一生懸命やってもお客様の顔が見えないのです。喜んでもらえるのは役所の担当者か会社の上司です。もっと直接的に人様に喜ばれ、役に立つ仕事がしたいと何年間も考えていました。そんな想いが高まり転職を決意します。タイミングよく教習指導員の求人を知り、学生時代ずっと二トン車で配送のアルバイトをしていたほど元来車好きの私は迷うことなく応募しました。



おもてなし

七尾自動車学校では普通と中型の自動車とオートバイ、そして除雪車などの大型特殊車の五種類の指導を行いますが、それぞれに教習指導員の資格が必要です。一年に一種類しか受験できないので五年かかり、更にその技能検定員の資格も同じく一種類を一年毎に受験しますので、全部取得するのに十年かかります。このような期間が必要なのは教習指導員には運転技術を画一的に教えるのではなく、男女や年齢の違いなどその人に合った指導が求められるからです。その人の特性を察知し、コミュニケーションが出来、適切な指導を行う。一人前の指導員となるための熟成期間なんですね。段階ごとに教える決まりがありますが、教科書にない目配りを伝え、自分なりに工夫した教え方を取り入れると確実にワンランク腕前が上がることを実感します。会社では教習指導員と中間管理職としての立場にあり正直言って大変です(笑)。夏には県外の大学生が合宿免許に来ますが、みなさん楽しみながら合格していきます。そんなお客様をゲストとしてお迎えし、能登の良さをもっと知ってもらう機会にしようと、今年は七尾検定初級を全教習指導員で挑戦しました。人との関わりを大切に出来て、世の中に役立つことが出来る、そんな仕事が出来る事に感謝しています。 



七尾自動車学校 ☎0120‐025 -770

2015年取材


第61回あなたの仕事は?「コーヒーマイスター」窪 丈雄さん


豆の味を超える薬味

私の仕事は「コーヒーマイスター」です。
窪 丈雄(くぼたけお)さん(49才)
仕事歴 3年

コーヒーマイスターの仕事とは

一口で言えばプロのコーヒーマンです。
コーヒーの深い知識や技術でコーヒーの美味しさや、コーヒーの持つ様々な価値を多くの人に知って頂き、コーヒーを活かした生活を提案していく仕事です。

一杯のコーヒー

コンビニで気軽に挽き立てのコーヒーが飲まれる時代になりました。コーヒーの消費量が年々増えており嬉しい事だと思っています。私は更にコーヒーの持つ力、様々な効用を知って頂き生活の中の楽しみのひとつに加えてもらえればと思っています。プロとしてより幅広い知識と高度な技術を身につけるためブラジルのコーヒー農場へ出かけました。たった一杯のコーヒー、それがこんな山の中で大変な作業の中から生まれてくるんだと感慨を覚えました。昨年、日本スペシャルティーコーヒー協会よりアドバンスコーヒーマイスターの称号を頂きました。認定資格で石川県では金澤ちとせ珈琲の岩本さんと私の二人だけで全国で百三十名います。

減っていく喫茶店

父の代からのパチンコ桃太郎を引継ぎ経営していましたが、この業界も競争が激しく大手資本と消耗戦を続けていくより、早めに店を閉めることが正解だと経営判断をしました。そんな時、母がコーヒーでも習ってみたらと勧めてくれ、北国文化センターの教室でコーヒー博士こと金沢大学の廣瀬幸雄先生に学びました。母の血でしょうか、私の中に眠っていたものが目覚めたのです。コーヒーの奥深さは知れば知るほど興味が尽きませんでした。母が経営する中央茶廊は昭和二十八年開店で今年六十二年目の喫茶店です。七尾の喫茶店も全盛時代からみると随分少なくなっています。手伝いでお店に入ると親子三代で来て頂ただいているお客様、ここでお見合いをしたというお客様など様々なご縁で結ばれていることを知り、この母の店を残したいという思いが出てきました。「よし、やってやろう!」昔の価格のままで、味と質の研究を深め更に美味しいコーヒーを飲んで頂こうと覚悟を決めました。生産者の顔が見えるブラジル原産の豆を厳選し、気温、湿度を考慮して焙煎し、心を込め丁寧にドリップします。その人に合ったコーヒーを創り出し、共に語り合えるそんなお店を目指して、喫茶店として根を張り続けていきたいと思っています。



かなわない味

コーヒーは生鮮食料品だと思います。原産国も種類も味も様々で、さらに同じ豆でも入れ方や保存期間で苦味、酸味、甘みが変化します。原料としてどんなにおいしい豆を使っても、どうしてもかなわない味があります。それは誰に入れてもらえたかということなんです。母のお客様は母が入れたコーヒーが一番良く、それは関係性という薬味が入るからだと思います。コーヒーを通じて多くの人が繋がっていく、そんなコーヒーの魅力を伝える伝道師となり七尾の文化の一つにコーヒーも根付くよう頑張ります。



中央茶廊 ☎0767‐53-0580
 
2015年 取材


私の仕事は『建具職人』です

職業-建具職人-

建具職人の仕事とは


ドアや障子、ふすま、らんまなどを寸法に合わせて作ります。木の選別から始まり、材木の中から節が無く目の通った綺麗な所だけを選び出し部材にしていきます。魚で言うと、マグロのトロの部分を取り出し、綺麗に刺身にして、器に彩り良く盛り付けていく、そんな感じで建具も一本の木から家の座敷に収まっていきます。



温故知新


仕事の合間に各地の寺院などを訪ね、昔の建築様式を見て回ることを心がけています。それは伝統の建築様式を見ることで知識が増え感性が磨かれていくからです。その上で現代の新しきに挑戦することが可能になると思っています。
お客様の望むものを作るのですが、時としてそれが斬新なものであっても外してはいけない決まりごとがあります。そういった時に建具職人とて意見を述べつつ、お客様と共に伝統に裏打ちされた機能性、デザイン性を追求します。



損得より善悪


私は金沢の生まれで金沢で内装の仕事をしていました。その時に出合い結婚した妻の実家が松田建具でした。仕事場を見た時、建具の奥深さを感じ興味が湧いたのです。それから二年間心が揺れ動きます。十五年間続けている内装の仕事を辞める勇気がなかったんです。二人目の出産で家内が実家に戻るとき「今しかない」と感じ、踏ん切りをつけました。家内は「ほんとかいね!」と驚いていました(笑)。知り合いがいない、道が分からない、仕事もわからないからのスタートでしたが、それらは全て時間が解決してくれました。その間もっとも大切な職人としての道を教えてくれたのが松田の親父です。物事を決断していくときの姿は損得ではなく善悪です。人の道から外れるような事にはとても厳しい親方です。建具の奥深さもさることながら、人は生き様に奥深きものがあり、そこで人生が決まっていくんだと感じています。



建具の輝き


昔は大工さんが家を建て、それに合わせて戸を作ったものです。今は既製品の戸に合わせた家が建ち、ベニヤ製の安くて軽い戸が普及してカタログから色や規格を選んでいます。和室が少なく壁が多い家が多くなり、昔は五十坪の家で百枚の戸が入ったものですが今は二十枚くらいでしょうか。和室が私たちの出番です。家が完成し座敷に戸を入れた瞬間、家全体が引締まり輝きを放ちます。私たち職人も、家の人も、「わぁー、すごいなぁー」と声が上がります。昔は引っ越しても戸だけは持っていったと聞きますから、本物志向のりっぱな戸だったのですね。近年若い人が個性を建具に求めオーダーが増えています。職人が高齢化していく中、若い世代が建具の技を継承していく必要を感じます。伝統技の存続と採算のバランスは悩むところですが、このことも本当の善がどこにあるのか見極めたいと思います。




松田建具製作所 0767‐76‐2151


私の仕事は『落語家』です

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落語家の仕事とは


言葉ひとつで、お客様が想像を巡らし、場面転換し、時間空間を自由に行き来して、笑ったり泣いたりして楽しんでもらう、身近なエンターテインメントです。



舞台芸人でありたい


上方落語家として吉本興業に所属し、この夏に鳥取県の三朝温泉で三十五日間の高座を行ってきました。まだ駆け出しで、普段は蕎麦屋やバーなどで営業です。熱い想いは、なんばグランド花月で看板を上げることです。タレント活動も余儀なくされますが、落語が中心の、あくまでも舞台芸人でありたいと思っています。



憧れの浜ちゃん


小学生の時、映画「釣りバカ日誌」を見て、「浜ちゃん」に憧れました。お気軽な人生ではなく、好きな事をやり通す人生なんです。人前で笑わせることが好きな私は、御祓中学一年の時、それが職業になる事を知りお笑い芸人になりたいと思います。中二の時、金沢竪町吉本劇場で吉本芸人とネタで対決するシリーズがあり同級生とコンビを組んで出場し、七尾高校では文化祭のステージに立ち笑わせていました。関西大学に進みますが、理由は桂三枝師匠(当時)の落語研究会があり、そこでかばん持ちすれば吉本興業に入れるという噂を耳にしたからです。結局それはガセネタでした。(笑)



あっち側に立ちたい


お笑い文化を研究に来たドイツ人留学生が正座が出来ないということで、私と漫才のコンビを組む事になりました。第七回新人お笑い尼崎大賞に出場し優勝します。この大会はプロアマ混合で若手芸人の登竜門です。初代チャンピオンは友近さんです。松竹芸能にスカウトされテレビ出演やラジオ番組を持ち、最初で最後のチャンスだと思い頑張っていた矢先、相方の都合で三年間のコンビが解消です。新たな相方・新たなネタ作り・相方に左右されるリスクを考えた時、心の糸がプツンと切れ、サラリーマンを始めます。未練を断つためバラエティーは一切見ず「釣りバカ日誌」だけ見て過ごします。二年後、忘年会で吉本芸人が呼ばれ漫才を披露します。「悔しい、あっち側に立ちたい」と思ったその時、上司が肩を叩き「あっちに戻れないのだから、こっちで頑張れ!」と。その一言で心が吹っ切れます。「自分を押し殺した辛い思いで働くことに耐えられない」と辞める決意をしました。



人生のバイブル


最後の昭和芸人、月亭可朝師匠の破天荒な人生、その人柄に惹かれ、手紙を四回出しやっと面談を許され、紆余曲折の後、その弟子の月亭八方師匠へ弟子入りします。上方の年季明けは約三年、師匠のお世話を三六五日、自由時間は無く丁稚奉公です。三食とお小遣いは頂けますが、お酒も女性とのお付合いも禁止です。多くの弟子はここで挫折します。この春、年季が明け、お笑い芸人としての再デビューは、人生観を変えてくれた「浜ちゃん」のおかげで「釣りバカ日誌」は私の大切なバイブルです。


 

大阪  吉本興業 06‐6643‐1122


私の仕事は『理容師』です

406-1

理容師の仕事とは


私の場合、身も心もすっきりとして、快適な生活をしていただくため、髪を綺麗に整え、その人らしさを演出することです。



自分に似合う髪型


「自分のファッションや顔に似合う髪型にしてほしい」最近こんな声が多いです。昔のようにみんなが同じ流行の髪型にするということは無いですね。私のライフワークは「髪型がその人のファッションや人柄の一部となるヘアースタイルの研究」なんです。外出すれば髪型がファッションや骨格や体型にどうマッチしているか観察します。ファッションは流行するので常に新たな技術やセンスを取込むため、金沢のサロン会で東京や海外で活躍している理容師を招き、最新の流行にあったヘアースタイルの研究や勉強を毎月続けています。昔は横に大きなハサミを入れてきれいに揃えることがカットでした。今は大小さまざまなハサミを使い、その人に似合う最高の髪型に仕上げるため、縦横無尽にハサミを入れ全身を使ってカットします。



床屋に生まれた宿命


床屋の三代目として生まれ、祖父母、両親、叔父、叔母、姉、そして妻も理容師という環境です。お客様と親しく会話し、互いに「有難う」と挨拶を交わす両親の姿を見て、子どもの頃からごく自然に家を継ぐ思いでいました。七尾商業高校を卒業と同時に迷わず金沢のヘアーサロンへ住み込みます。部屋は四畳半で二段ベッド、先輩と相部屋です。昼は専門学校へ、帰るとすぐにお店に立ちます。夜は顔そりやカットの練習です。親戚に夜お店にきて頂き実践練習を繰り返しました。
マスターから「そろそろ本番をやるか」と言われ、顔なじみになったお客様の中で、やらせてもらえそうなおじいちゃんに頼みました。三年目で初めてお客様のカットをするのですが、緊張で頭が真っ白になりました。おじいちゃんがニコッと笑って「いいがになったよ」「カッコいいがになった」と言ってくれた、その言葉を今でも忘れません。



理容師の現状


江戸時代、床屋は男の仕事でした。その名残から床屋へは男性客が、美容室へは女性客がという流れでしたが、今はその垣根はなくなり男性も美容室でカットします。カリスマ美容師が話題になり、おしゃれなイメージが定着し美容師を目指す若者は多いのですが、理容師を目指す若者は少ないのです。理容組合では中学と高校へ出向き理容師の仕事を紹介し、興味のある生徒にはウィッグを使って体験してもらい、将来の担い手確保に努めています。最近はオシャレなヘアースタイルも出来る若い女性の理容師も増えてきています。



トップスタイリスト


技術コンテストで優勝してもまだ本物とは言えないと思っています。業界ではお店で売上NO.1の理容師がトップスタイリストと呼ばれます。それにはカットの技、コミュニケーション力、マネジメント力など総合力が求められます。お客様の状態を感じ、進化する技術をフィットさせ、心身共にリフレッシュして頂き、心から「有難う」を言って頂ける理容師を目指し続けたいと思います。


川原町 ちょっきんきむら 0767-52-6518


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私の仕事は「森林施業プランナー」です


森林施業プランナーの仕事とは

山主に間伐、枝打ち、伐採、植林など森林の手入れを提案しその計画、実施までを山主に代わって行い森林全体の保全・活用を行います。

きっかけ

二十八歳まで金沢の建築設計事務所で働いていました。長男であり結婚を機に七尾へ戻る時、地元で生涯働ける仕事は何か考えました。記事で林業の担い手不足を知って、色々調べるうちに興味が湧き、森林組合に就職しました。父は公務員ですが、祖父は木挽きだったのでその血が騒いだのかもしれません(笑)。

道のり

山へは四、五人の班体制で入り、班長の指示で下刈り、枝打ち、植林などの作業を行いますが、これまでの人生で鍬すら持ったことがありません。ましてや下刈り機やチェーンソーなど扱えないので苗木や肥やしを運ぶことが初仕事でした。線を引く仕事から力仕事ですので最初は辛かったです。しかし山の仕事は日々メリハリがあります。汗を流し仕上がっていく達成感、成果が目に見える満足感、仕事を終え家で飲むビールの美味さ、心身ともに健康になっていきました。現在はプランナーとして組合員さんに山の保全と活用を提案し施業の実施計画を立てています。

心がけていること

ちょうど慣れて来た頃です、枝打ち機で指を切りました。見ると皮一枚で指先がぶら下がって血が噴き出しています。それを見た途端、気絶しそうになり、同僚におぶってもらい病院へ運ばれました。幸いに皮一枚でぶら下がっていたのは手袋で指は大丈夫でしたが、その時の傷をお守りとし、いかなる場合でも安全第一を心がけています。

意外な話

山の境界がわからない山主さんが増えています。そんな場合は法務局の公図を見て現地調査します。尾根や沢を歩いて境木や境石を探したり植生を見たりして隣の山主に確認します。昔はサラリーマンでも休日になると山に入り手入れをしていましたが、世代が変わり放置された山が増えているのです。森林組合で施業した山は簡易GPSで測量し、将来のために管理図面を作成しています。

これから

担い手不足、木材の採算割れなど林業が衰退してきていますが、日本の国土の約七十%は森林で、その恵みは計り知れません。息苦しそうな山を見ると不憫でなりません。まだまだ手入れ不足の山が多くあります。日差しが入り、風が通り、杉の枝が青々として、下草も程良い感じで生えた健康的な山。故郷の山を保全し活用し管理することが私の使命だと思っています。

中能登森林組合七鹿支所 ☎0767‐57‐0600


私の仕事は「第一種電気工事士」です


第一種電気工事士の仕事とは

電気事業は発電、送電、受電と分類され、電気工事士は受電を担当し、電柱から家までの外線工事、照明、空調設備など家の中の電気工事の施工・保全を行います。

きっかけ

高校を卒業し、ルネスかなざわに就職しました。そこで施設の管理をすることになり、ボイラー技士と第二種電気工事士の資格が必要となり取得しました。

道のり

二年間勤務し、地元に戻る際、取得した資格を活かそうと考え、職安でのご縁で昇陽電機に勤めます。ルネスでは簡単な修理でしたが、ここでは技術が商品です。初仕事は能登島の雇用促進住宅の配線です。先輩の指示に従いコンセントとスイッチの取付けを毎日丁寧に一生懸命やりました。戸建の内線工事を中心に二年間、三年目から北陸電力の委託で電柱から家までの外線を取付ける仕事に取組みました。現場が学びの場であり先輩の下でも自分ならこうすると常に考えました。この時期に第一種電気工事士と一級施工管理技士の資格を取得しました。おかげで現在は中間管理職として現場に携わりながら、施工と安全の管理、顧客対応、後輩への助言など毎日がとても忙しいです(笑)

意外な話

設計図を基に照明やコンセントを所定の位置に取付けるのですが、現場は様々な工事が同時進行しています。その状況を見ながら配線の段取りを考えますが、まさに腕の見せ所だと思います。単に電気工事をするのではなく、日々変化していく現場状況の中で品質と納期の最適化を目指します。それには電気工事の技能や知識だけでなくコミュニケーション能力がとても大切です。私の場合ルネスかなざわで接客業に携わったことが、今となってお客様や工事関係者との打合せに役立っています。

心がけていること

電気は目に見えません。現場では誰がどのような状況で接触するかわかりません。それで様々な視点で危険予知を想定するのですが、私は心配性なので最悪な状況をイメージし、その場合の対応まで考えます。考えすぎると夜も眠れなくなってしまうので、帰宅してからは頭を切替えて仕事のことは考えないようにしています。子どもが三人いますが、妻から子どもが四人いると言われています(笑)

やりがい

どの現場もそれぞれ特徴があって面白いです。特に住宅配線は構造に合わせて計画します。大工さんにも色々教わりながらどんな配線、こんな配線と考えることが面白く私の頭は常に3Dで配線が巡っています。自分がお客様の立場だったらどうするか考え、見えないからいいかではなく、見えない所にこそ手をかけます。工事が完成しお客様に喜んでもらえたとき、その笑顔を家族に報告し、お酒を嗜む瞬間に幸せを感じます。

昇陽電機株式会社 ☎0767‐52‐6719


私の仕事は『健康管理士』です

251健康管理士

健康管理士の仕事とは


特定非営利活動法人日本成人病予防協会の認定資格で、健康管理や予防医学の知識と意識を普及する仕事です。



きっかけ


私は料理が好きで調理師の資格を持っていたのですが、結婚、出産、専業主婦を経て二十六歳の時に七尾ヤクルト販売に入社しました。すると社長から、ヤクルトは健康を推進する会社なので、健康管理士の資格を取得するよう勧められたことがキッカケです。



道のり


ヤクルトレディーと一緒に企業を訪問し健康推進の啓蒙をしていました。当時は健康管理を啓蒙するといっても、どちらかといえば商品説明と関連した内容になりがちで、私自身が深く健康管理について思い入れがあったわけではありませんでした。その頃まだ料理の思いが捨てきれず十年勤めたヤクルトを退職し北陸銀行で昼食の献立の仕事に就きました。少しでも美味しいものをと地元の食材を選び、料理に工夫をこらし色々なレシピを考案し毎日が充実してきた矢先、交通事故に遭いました。追突され頚椎損傷で一年間動けず、その後に手術、療養で二年間過ごします。突然の事故で一瞬にして夢も希望も失ってしまいました。怪我の痛みや痺れは今でも完治せず、精神的に落ち込み悩んでいました。そんな時主人の伯母が健康セミナーに誘ってくれ、そこで改めて日々の健康管理の大切さを知ります。痛みや精神の不安で薬依存症になっていましたが、お薬も必要以上に飲む必要はありませんし、一度薬に頼ってしまうと、断つことがとても辛いのです。やめること自体が不安になり、それで夜も眠れなくなるという具合です。そんな状況を抜け出せたのも健康管理士による講演を聞き、私自身が健康管理の大切さを身を持って体験でき、そして健康管理士として働きの場があったことです。



意外な話


高齢化が進む中で介護保険料や医療費が増えています。保険料基準額で石川県は全国六位で、その石川県の中で七尾市は五位なんです。長生きしても病気で薬漬けになっていてはせっかくの人生がもったいないです。毎日しっかりと健康管理を行い病気を防ぎ、健康で過ごすことが自分のためでもあり、社会のお役にも立つのですね。



これから


健康管理士は認定制度ができて二十二年経っていますが、専門の職業としている人は少数です。どちらかといえば、地域、学校、家庭、医療福祉施設内での健康管理指導をしたり、健康・食品関連の会社の社員教育や営業ツールとしての健康指導として活用されています。ヤクルト時代に取得した資格ですが、ブランクがありますので、もう一度学びを深めて健康セミナーで講演できるようになり、一人でも多くの方に健康な生活をしていただければと願っています。